からだと宇宙とヒーリングと

PR

プロフィール

norico1

norico1

カレンダー

コメント新着

norico1@ なおちゃん ありがとう〜💕 うん、2回申し込んだとこ…
なおちゃん@ Re:福岡での新居が決まりました!(09/21) のりこさん♪ わぁ〜新居決まって良かった…
norico1@ ちび太さん ありがとうございます! いつも読んでくだ…
ちび太@ Re:福岡での新居が決まりました!(09/21) のりこさん、1ヶ月で家が見つかるなんて良…
norico1@ あやかさ〜ん コメントありがとう💕 そうそう、つい起…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2010年09月02日
XML
カテゴリ: つれづれ

7月に参加したヴィパッサナー瞑想クラスの中の、ゴエンカ氏のお話の中で
人はみんな自分で自分のイメージを作り上げ、そのイメージを周りの人にも、
植え付けようとしている、というようなお話がありました。

その中の例え話として、
ある大学の教授がいて、道ばたでつまづいて、転んでしまい
道に座っていた男に「どこ見て歩いているんだ」と、どやされたという場合。

Aのケース。教授は、一人で歩いていて、つまづき、道ばたの男にどやされた。
Bのケース。教授は、生徒たちと歩いていて、つまづき、道ばたの男にどやされた。
Cのケース。教授は、一人で歩いていて、つまづき、
      道ばたの男にどやされたが、その男を見てみると自分の息子だった。
Dのケース。教授は、生徒たちと歩いていて、つまづき、
      道ばたの男にどやされたが、その男を見ていると自分の息子だった。

この4つのケースで比較した場合、
教授が転んでつまづき、男にどやされた、
という事実はみんな同じでも、教授の気持ちや感情は、違ってきます。

Aのケースでは、教授は
「私(のように素晴らしい人間)ともあろうものが、
こんな男にどやされるなんて」とショックを感じながらも
それは自分に対して持っていたイメージが壊れるだけです。

Bのケースでは、教授は、つまづいて道ばたの男に
どやされる姿を生徒たちに見られてしまい
自分自身に対して持っていたイメージが壊れるだけでなく
周りの生徒たちに植え付けようとしていた(素晴らしい教授としての)
イメージががらがらと壊れてしまい、
Aのケースよりもさらにショックを受けます。

Cのケースでは、教授は、こともあろうに、
自分の息子からどやされたことで、さらにショックを受けます。
『私の息子』「私の』という所有の意識です。

Dのケースでは、Cのケースのショックに加えて、
それを周りの生徒から見られて、
息子からどやされている姿を見られるなんて、
と自分の教授としてのイメージがさらに壊れて、最高のショックを受けます。

この教授の場合は、自分のイメージというのが、
例えば、知的で威厳があって、尊敬されている
というようなもので、それを自分自身に対して持っているとともに
また周りの人たちにもそのイメージを植え付けようとしているわけなのです。

もっとも、道ばたに座っていた息子からどやされて、
ショックを受けない方が不思議ですし
もし、親がそれに対して何も感じないほどに悟っていたら、
そんな息子にならないかも?とも思いますが、
Dのケースで、それを人から見られたショックというか
外部の人に対して、自分と家族とのイメージを植え付けるというのは
よくわかります。

この自分に対して持っているイメージというのは、
知らず知らずのうちに、自分の中に存在して
そのイメージを周りの人たちにも植え付けようとしてしまうのですね。

よく、あの人は私のことをわかっていない
などという言葉を聞きますが、
それは、その人が自分の見てほしいイメージで自分のことを見てくれない
という意味なのだなあと。
その人は、その人なりの見方で見ているわけですから
案外、わかっていないのは、自分の方だったりするわけです。

先生としてのイメージ、上司としてのイメージ
母親としてのイメージ、ヒーラーとしてのイメージ
~~としてのイメージ。

そういった、いわゆる「~~らしい」という
仕事や立場から来るイメージの他に
その人の経験に基づいて、できあがってきたイメージがあります。

私も、これまで、何度もそういうイメージを自分の中に持っていることに
気づいたことがありました。

例えば、たいしたことではないのですが、お酒に対するイメージ

最近は、たまに少量を飲む程度ですが、私は昔は大酒飲みだったので、
当時は私の周りの人たちも、私に対して、
みんなそんなイメージを持っていたと思います。
どこに行っても「のりこはお酒が強いから」とか
「ほんとお酒が好きだね」とか言われていたし
私も自分自身でそう思っていました。

でも、ある時、本当の意味でお酒が好きなのではないことに気づきました。
というのは、一人でいる時はそれほど飲みたいとは思わなかったからです。
当然、当時の友人は、みんな酒飲みばかりでしたから、例えば、友人と食事をして
周りの「お酒が好きで強い、のりこのイメージ」を崩してはいけない
というような意識が働いて、必要以上のお酒を飲んでしまっていました。
(もっとも、途中からは、ほんとに止まらなくなって飲み続けるわけですが

本当は誰も私にそこまでお酒を飲むことなんて、期待していないわけで
例え「今日は飲まないわ~」と断ったとしても、それはそれで関係が
崩れるわけではないのです。

では、この心理はどこから来ているんだろう?

そう考えた時、何か私にとって酒を飲む人のイメージというのが
堅苦しい人間ではないというイメージであり
大らかな人格で、自分をオープンにすることができる人であり
つきあいがよくて、楽しい人間であるという
イメージであることに気づきました。

これは、酒飲みだった私の父の影響も強くて
「酒を飲まないやつは信用できない」
などという言葉を小さな頃から聞いていたこともあるでしょう。
父の理屈では、酒を飲まないやつは心をオープンにしない
ということだったのですが、本当は、酒を飲まないと心をオープンにできない
ことの方が、はるかに問題ですよね。

これは最近のことですが、何がコンプレックスですか?と聞かれて
「私はまじめすぎることです」
と答える方が、たまにいらっしゃいます。
自分が好きなように行動していたら、それがまじめでもいいんじゃない?
と思うのですが
「私は酒も飲まないし、夜遊びもしないので、まじめでおもしろくない人間だ」
なんて思っている人って案外多いのですね。

そして、昔の私はまさに、お酒にとことんつきあう
人づきあいがよいイメージであり
まじめじゃない楽しい人間であるというイメージを
周りの人に持ってほしかったのだなあと。
まじめかまじめじゃないか?なんて、全くどうでもいいですし
自分の本当にやりたいと感じるままに自然でいていいのに
そんな小っぽけなイメージによって、
自分の言動がコントロールされてしまっていたのですね。
今考えると、全く笑ってしまうのですが
お酒一つに対してさえ、そんな様々なイメージから
自然なありのままの自分でいることができなかったのです。

社交的で友人にいつも囲まれているというイメージ
仕事も何でもバリバリこなす、有能な人というイメージ
いつも落ち着いて冷静な人というイメージ
世話好きで、周りの人たちのために尽くすというイメージ
いつもがんばり屋さんというイメージ
優しくて親切な人というイメージ

人それぞれ、自分に対していろんなイメージを持っていますが
中でも「いい人のイメージ」から抜けれない方は
案外多いなあと感じます。
別に悪い人になる必要はないですし、
人に親切にすることは大切なのは間違いないですが
常にいい人でいなければならない、という意識があると、
例え、ノーと言いたい時があったとしても
イエスと答えてしまったり、いい人を演じることになってしまいます。
自分や他人に対して愛を持っていることと
いい人でいることとは、違うことですね。

自分の中にある自分を制限しているイメージに気づいて、
そこから自由になること、
それが、本当に自分の人生を生きることにつながると感じています。
そのためには、やっぱり、その時、その時に自分が本当に感じていることを
しっかり見つめていくことだなあと思います。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010年09月03日 06時16分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[つれづれ] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: