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また、白壁王の擁立については藤原氏一族は一致していたものの、その次の天皇については早い段階で白壁王の子供のうち、他戸王を推す藤原永手ら北家と山部王(後の桓武天皇)を推す藤原百川ら式家との間で意見の対立があり、他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立→他戸立太子が行われた事と式家への政権移行後にその廃太子が行われた事には矛盾は無いと考えられている。称徳天皇首謀説中西説に対して、細井浩志は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。細井は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲3年10月の詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調している事から、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。また細井は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。宇佐八幡宮側の内部事情説また、道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もある。山上伊豆母によれば、天平感宝元年(749年)に宇佐八幡宮から祢宜の外従五位下・大神社女と主神司従八位下・大神田麻呂が建設中の東大寺盧舎那仏像を支援すると言う神託を奉じて平城京を訪れた。これによって宇佐八幡宮は封戸と「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ朝臣の姓と従四位下と外従五位下の官位が授けられた。ところが、天平勝宝6年(754年)にはこの時の両名が薬師寺の行信と組んで厭魅を行ったとして位階と姓の剥奪と流刑に処せられた。これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと考えられる。翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされている。これも朝廷からの宇佐八幡宮への圧迫の結果であると見られる。このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの前代の男巫的要素を併せ持った道鏡が政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたと本説は解釈する。後世への影響神託事件にゆかりのある大阪府八尾市(道鏡の出身地)・岡山県和気町(和気清麻呂の出身地)・大分県宇佐市(宇佐神宮の所在地)は相互に姉妹都市となっている。 4「多賀城赴任はあったのか?」宝亀2年(771年)閏3月1日に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。多賀城(たかのき/たがじょう、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。なお、周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、1,900~1,500yrBP.にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 – 762年、第2期は762年 – 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 – 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 – 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』中の貞観津波が「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の日本三代実録では「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほか、「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や食料を貯蔵するための倉などが置かれ、附属寺院が設けられていた。
2024年01月06日
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宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮[1]より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。事件の経緯道鏡の政界進出弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす(藤原仲麻呂の乱)と上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼした。 乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位する(重祚)ことを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上の禁忌となっていった。2つの神託神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9㎡の僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された。10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を改めて表明する。事件決着後宝亀元年(770年)に孝謙天皇が崩御すると、『続日本紀』の記述によると群臣の評議の結果、皇太子を白壁王(後の光仁天皇)とする孝謙天皇の「遺宣」が発せられ、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。なお、この時(宝亀元年8月21日)の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。解釈日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えたが、一般に僧・弓削道鏡によるとされるこの皇位継承の企みは、その中でも衝撃的な事件であった。この事件については『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきたが、既に江戸時代に本居宣長によって一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には皇位継承については触れられていない)とする説も存在する。道鏡の皇位簒奪疑問説神託由義宮遷都説中西康裕は、以下のような解釈を提出している。道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。最初の神託は皇位継承以外の問題(道鏡の故郷である河内国弓削の由義宮遷都はこの年に行われた)に関するものであって、これに乗じた藤原氏(恐らくは藤原永手とその弟の藤原楓麻呂か)が和気清麻呂を利用して白壁王あるいはその子である他戸王(称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一皇位継承権を持つ)を立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために清麻呂が流刑にされたのではないか。しかし、この神託由義宮遷都説は根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もある。また、他戸王が立太子後に藤原氏によって廃位されて後に変死しているという指摘もある。その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのに事件以後に全くそうした動きを見せていない事や逆に藤原氏らの反対派がこの事件を直接の大義名分として天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難である。
2024年01月06日
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縁起譚坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。寺社建立伝説坂上田村麻呂が建立したという由緒をもつ寺社は宮城県の観音寺を中心に全国に100以上を数える。平泉雑記「奥州七観音」も参照江戸時代の安永年間(1772年 – 1781年)に相原友直が仙台藩の風土を記した『平泉雑記』に「田村将軍建立堂社」の1節が設けられ、『封内名跡志』を参考に若干の例を加えた次の21例を挙げている。「幼少期」、または三男として誕生。坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ)は、奈良時代の公卿・武人。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守・坂上犬養の子。官位は従三位・左京大夫。勲等は勲二等。坂上氏は、代々弓馬の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする武門の一族として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護した。天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵方に加勢するのを防ぐことを目的に、首謀者の一人である賀茂角足が事前に武勇に優れた人を集めて酒宴を開いた際、苅田麻呂も招待者の一人として名が挙げられている。天平宝字年中に授刀衛少尉に任官。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が発生する。太師(太政大臣)・藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀反との連絡を受けた孝謙上皇は、仲麻呂に擁立されていた淳仁天皇の中宮院(御所)に少納言・山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。しかし、仲麻呂の命を受けた訓儒麻呂に玉璽と駅鈴を奪い返されたことから、勅命を受けた坂上苅田麻呂は授刀将曹・牡鹿嶋足と共に訓儒麻呂を襲い射殺した。この功により苅田麻呂は即日正六位上から従四位下と5階級昇叙の上、大忌寸の姓を賜与され、同年中に中衛少将兼甲斐守に任ぜられた。さらに、翌天平神護元年(765年)正月には勳二等の叙勲を受けた。神護景雲2年(768年)従四位上に叙せられる。宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、道鏡の姦計を告げて、その排斥の功績により、正四位下・陸奥鎮守将軍に叙任される。光仁朝では中衛中将を務める傍ら、安芸守・丹波守と地方官も兼ねた。なお、宝亀3年(772年)には大和国高市郡の郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前氏(檜前忌寸)ではなく、ここ数代は別の氏(蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸)[3]が郡司職に任ぜられていることを上奏し、今後は檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている。天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく、正四位上・右衛士督に叙任。延暦元年(782年)正月氷上川継の乱に連座して解官されるが、同年5月には再び右衛士督に復職している。のち、伊予守・備前守・下総守・越前守と地方官も兼ねる。延暦4年(785年)2月に従三位に叙せられ公卿に列す。同年6月に一族は後漢の霊帝の子孫であるにもかかわらず卑姓を帯びていることを理由に改姓を上表し許され、一族の11世16名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓する(嫡流の坂上氏は大宿禰)。同年7月左京大夫に任じられた。延暦5年(786年)1月7日薨去。享年59。最終官位は左京大夫従三位兼右衛士督下総守。 3「田村麻呂家系と道鏡の関り」生年は田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算。母のことは一切不明。父の苅田麻呂は31歳、生まれた場所についてもあきらかにされていない(出生節も参照)。田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系で、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。しかしながら坂上氏は地方的豪族な存在にすぎなかった。そのため大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くし、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴にまで育てあげると「将種坂上氏」として武芸絶倫という家風を確立し、田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むよう教育された。幼少期の田村麻呂については史料こそないものの、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年9月16日に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。
2024年01月06日
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東北地方青森県青森ねぶたは昭和末期までは田村麻呂の蝦夷征伐が起源と言われていた。もちろん史実の上では現在の盛岡市までしか北上していないことになっているが、青森市内には蝦夷征伐が行われたこと伝える史跡が複数残っており、いずれかの人物が来た可能性は高い。文室綿麻呂は811年に蝦夷大征伐を行っておりその大半が田村麻呂没後である。 この前年、薬子の変にあたり誤認逮捕されていた綿麻呂が田村麻呂によって解放されたことから、綿麻呂自身がみずからの戦功を田村麻呂に捧げたとも考えることができる。岩手県「大武丸」も参照気仙郡の猪川観音(長谷寺)、小友観音(常膳寺)、矢作観音(観音寺)の気仙三観音の勧進由来では、大嶽丸の残党と目される三鬼の残党の退治譚が記される。宮城県宮城県白石市斎川の古将堂の勧進由来では、田村将軍が東征の際に、悪路王や赤頭という荒土や丹砂を塗って化けた妖魁を鈴鹿御前の援助で討伐したので、この地に2人を祭祀したとある。秋田県秋田県三種町と能代市にまたがる房住山では、鬼面と呼ばれる阿計徒丸、阿計留丸、阿計志丸の長面三兄弟が住み、眷属を指揮して良民を苦しめるも、坂上田村麻呂将軍に倒された。将軍が房住山で鬼の慰霊法要をしていると、東の山上から日高山の麓の洞穴に逃れ生き延びた阿計徒丸が目を覚まして「身の丈1丈3尺5寸ある大長丸(おおたけまる)と申す」と叫んだ。山形県山形県では『奥羽観蹟聞老志』「長谷堂城の項目」や、長井市の總宮神社などに田村麻呂による建立としている寺社は確認出来るものの、田村語りに関連した伝承は皆無に等しい。阿部幹男は、阿玉桜(伊佐沢の久保桜)は、かつて山形県でも田村語りが語られていた痕跡ではないかとしている。福島県郡山市田村町の田村神社では『鎮守山縁起』に取り込まれている。田村郡では大滝根山が、白河市付近では国見山が鬼神や大武丸の住みかとして設定された。関東地方関東地方では、茨城県鹿嶋市鹿島神宮、那珂市上宮寺、城里町桂地区下野達谷窟、栃木県矢板市木幡神社、将軍塚、那須烏山市の星宮神社、大田原市那須神社、群馬県三国峠田村神社、埼玉県東松山市正方寺などが挙げられる。埼玉県「風洞の字名」も参照東松山市では、大同元年に田村将軍が正法寺の岩殿観音に祈願して毒竜を退治し、弁天沼に首を埋めたという話が残る。同様の話は児玉郡美里町でも田村麻呂による大蛇退治として語られ、その際に美里町小茂田・沼上・十条・阿那志・古郡の5か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって(北向きに)祀った、北向大明神とか北向神社と称される神社を建立。中部地方中国地方では、山梨県富士吉田市小室浅間神社(冨士山下宮)、長野県安曇野有明山、長野市松代町西条清水寺、若穂保科清水寺、諏訪市諏訪大社、静岡県浜松市岩水寺や有玉神社が挙げられる。長野県長野県の安曇野をはじめ松本盆地一帯には田村麻呂が魏石鬼八面大王を妻の紅葉鬼神ともども征伐したという伝説が広く残されている。これは『信府統記』「第十七」の記述に基づく伝承であるが、『仁科濫觴記』に見える田村守宮を大将とする仁科の軍による八面鬼士大王を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている。近畿地方近畿地方では、三重県亀山市片山神社、滋賀県甲賀市田村神社などが挙げられる。鈴鹿山脈は古来より交通の要所であり盗賊が横行したことから鬼や賊の伝承が残されている。田村麻呂が鈴鹿御前や鈴鹿山の鬼神・大嶽丸を討伐した話として『鈴鹿の草子(田村の草子)』、奥浄瑠璃『田村三代記』を通じて坂上田村麻呂伝説が広く知られている。鈴鹿峠を滋賀県側へ下ったところに坂上田村麻呂公を主祭神とする田村神社が鎮座する。三重県「金平鹿」および「藤原千方の四鬼」も参照熊野の周辺では鬼ヶ城伝説を中心に泊観音(清水寺)、大馬神社などの縁起に坂上田村麻呂伝説が残されている。熊野近くの南牟婁郡御浜町尾呂志でも、鬼ヶ城で鬼の首魁や手下を討伐した田村将軍が四鬼の窟に棲む鬼を征伐したという伝承が伝わっている。滋賀県甲賀市には、鈴鹿山の悪鬼を平定した田村麻呂が残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われ、矢の落ちたところに本殿を建てたとされている田村神社や、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺がある。東近江市には十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺がある。中国地方中国地方では、岡山県倉敷市児島由加神社などが挙げられる。岡山県岡山県倉敷市児島由加にある由加山には、この山を根城とした阿久良王[注 3]という妖鬼を退治にきた伝説が残る。通生の浦へ船でやってきた田村麻呂は神宮寺八幡院で7日7夜に渡って鬼退治の祈願をしたという。岡山市南区および玉野市の金甲山は、田村麻呂が由加山の鬼退治に向かう際に、戦勝を祈願して神の峰に金の甲を山頂付近に埋めたという伝承が名前の由来とされる。ふもとの円通寺の竜王様に戦勝御礼として金の甲を奉納したという。
2024年01月06日
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2「坂上 田村麻呂の出自」(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。「坂上田村麻呂の出自に一説に出生」田村麻呂生誕の地については現在まであきらかにされていない。高橋崇は、大伴宿奈麻呂が田村の里に住んだことから娘が田村大嬢と呼ばれたことを例に挙げ、もし田村麻呂も地名に由来する命名であれば「平城京田村里」(奈良市尼辻町付近)が有力な候補地であろうと推測している。俗説として陸奥国田村庄で誕生したという坂上田村麻呂奥州誕生説や、蝦夷出身であったとする坂上田村麻呂夷人説がある。1910年代にはカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンなどが田村麻呂が黒人であるという記述を行い、カナダやアメリカの黒人コミュニティの間の一部では現在も広まっている(坂上田村麻呂黒人説)。坂上田村麻呂伝説(さかのうえのたむらまろでんせつ)は、平安時代初期に活躍した大納言・坂上田村麻呂に関する伝説。主に鬼神討征など文芸的な伝説・創作の『討征譚』、地名や記念物および寺社建立にまつわる言い伝えの『寺社縁起譚』の2系統に分類されその両方が交錯する『英雄譚』が日本各地に残されている。征夷大将軍や鎮守府将軍として功績を残したことから、足跡を辿るように東北地方に特に多く分布する。平安時代中期、坂上田村麻呂と藤原利仁は史実をかけ離れて説話や軍記物語、寺社の縁起などに頻繁に登場すると同時に、その人物像も次第に史実から解離して伝説化が進んだことで田村語りが萌芽して成長し始めた。京都での最も早い伝説化は、元亨2年(1322年)に臨済宗の僧・虎関師錬がまとめた『元亨釈書』巻9「清水寺延鎮伝」に「奥州の逆賊高丸が駿河国の清見関を目指して攻め上がり、坂将軍田村の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた」と、清水寺の創建縁起から続けた物語が加えられ、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』では登場していなかった高丸が登場したことで脚色が加えられ、史実から遊離して説話化が進んだ。東北地方における田村麻呂の事蹟や田村語りは、鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃成立、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている『吾妻鏡』に武具の奉納の言い伝えや達谷窟における賊の討伐と寺院の建立が残されている。文治5年(1189年)9月21日の条では、源頼朝が胆沢郡鎮守府に鎮座する鎮守府八幡宮に参詣した事が記されている。田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。これは平安京に岩清水八幡宮が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。同年9月28日の条では、頼朝が鎌倉へと帰還する途中、平泉達谷窟を通ったときの記述に「田村麻呂利仁等の将軍、綸命を奏じて夷を征するの時、賊主悪路王並びに赤頭等、塞を構ふるの岩屋なり」とあり、岩屋から外ヶ浜まで10日あまりで至り、坂上将軍は鞍馬寺を模して多聞天を安置、西光寺と号して水田を寄付したと続けている。『吾妻鏡』で田村麻呂利仁と続けて書かれていることが、のちの田村麻呂と利仁の融合へと影響した。文芸作品「田村語り」も参照生前から毘沙門天の化身と評価されていたことから、田村麻呂の事績や伝説は早くから文芸作品となって、室町時代初期の京都では勢州鈴鹿の悪魔を討つ能『田村』や、中期から後期にかけて鈴鹿御前と夫婦となり近江国の高丸や鈴鹿山の大だけ丸を討つお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』が語られ、江戸時代の東北地方では『田村の草子』を底本にした奥浄瑠璃『田村三代記』が作られ、人々に伝えられた。全国各地の寺社や霊地の縁起に取り入れられたのは、これら田村語りのスケールの壮大さが可能にした。主人公「坂上田村丸」も参照歴史上の人物である坂上田村麻呂がモデルとされ、物語や伝説によっては出羽や北東北で活躍した鎮守府将軍・藤原利仁と融合されていることもある。『鈴鹿の草子(田村の草子)』では坂上田村丸俊宗 / 坂上田村麻呂俊宗、『田村三代記』では坂上田村丸利仁 / 坂上田村麻呂利仁とされる。通称は田村丸、田村丸利仁、田村丸将軍など。史実性の議論岩手県、宮城県、福島県を中心に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布するが、京都市の清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。坂上田村麻呂伝説について高橋崇は、討征譚や縁起譚の他に口誦伝説も多く、征討のさいに腰をかけて休んだ石や、矢をかけた矢掛松、奥州誕生説を説いて産湯に使用した泉など「だれの場合にもつきものの採るに足らぬ俗説も多い」とし、伝説がどのようにして作られ、いかなる方法で流布したかなども考慮しなくてはいけないとしている。また後世の東北地方で田村麻呂を称え、思募していることについて、田村麻呂本人にとってはあずかり知らないことであるが、後世の人々が伝説を受け入れたのは確かであるとしている。討征譚東北地方では『田村三代記』が間接的に地元の伝説や寺社縁起譚として取り入れられた場合があり、一般的に地元の鬼神退治譚もしくは鬼神退治の後日譚(残党の退治譚)といった内容となる。東北地方の他に伝説や縁起譚を持つ寺社は関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方にまで及ぶ。各地の縁起は田村語りを基本にしつつ、その地方の歴史的、地理的な役割が反映されている。
2024年01月06日
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その他各国当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者たちの回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気づけた」と記されるなど、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし1804年に独立したハイチはナポレオン率いるフランス軍を撃退して世界初の黒人共和国となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、来日していたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。実際に、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会、オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモなどに影響を与えている。なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール」のうちのひとつにすぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも山本五十六、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。「開戦に関する条約」の創設日本がロシア皇帝ニコライ2世に対し宣戦布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃したことから、1907年の万国平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行われた。日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した(日本における効力発生は1912年)。その後の日露関係満州へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係はほとんど同盟状態に近いものとなった。しかしロシア革命の勃発によってこの関係は崩壊することになる。了
2024年01月05日
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終戦後は、日本は当初唱えていた満洲における列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は、直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4,000人から1,783万6,000人まで増加している。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。辛亥革命により1912年に宣統帝が退位し、袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任した。日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華民国を継いだ中華人民共和国がソ連から満州を完全に返還されたのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、日本あるいはロシアの近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述することが多い)。大韓帝国日露戦争の風刺画開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していた。その後、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国はさまざまな権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合された。モンテネグロ公国モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。のちに第一次世界大戦ではともに連合国として戦うことになったが、モンテネグロ王国はその最中セルビア王国によって併合された(ユーゴスラビア王国)。その後、第二次世界大戦においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、1952年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は日本国との平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された。しかしその後、セルビア・モンテネグロ(旧名・ユーゴスラビア連邦共和国)からモンテネグロが独立する際にこの問題が取り上げられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦の継承国であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男衆議院議員は、「1904年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出した[36]。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している。 2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は6月16日に独立を承認、山中あき子外務大臣政務官を総理特使として派遣した。UPI通信社は6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)。なお、日英同盟の規定により、当時の日本が2か国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった。
2024年01月05日
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しかし、当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、のちには「五大国」の一角をも占めることとなった。この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。 終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している。また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱え、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案がまとめられた。しかし、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非をめぐって2個師団増設問題が発生することになった。日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。なお、脚気惨害については「陸軍での脚気惨害」「海軍の状況」を参照のこと。ロシア港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機のひとつであったロシア帝国は、この敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱などより始まるロシア第一革命が発生することになる。西欧イギリスは日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。すでに締結されていた英仏協商とあわせて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうしてイギリスは仮想敵国を、日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していく。イギリスでは「教育勅語」こそ日本発展の原動力として、菊池大麓博士に講演を依頼したほどであった。ドイツのヴィルヘルム2世はドイツ軍に「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓話をした。アメリカアメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化していく。またルーズベルト大統領は、新渡戸稲造の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情にあわせて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京のアメリカ公使館などが襲撃の対象となったことなどを受けて、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた。清朝[日露戦争の戦場であった満州は清朝の主権下にあった。満州民族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルビンをはじめとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに、義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。
2024年01月05日
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皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した。合意内容ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満州・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした[20]。ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた[20]。講和内容の骨子は、以下の通りである。日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。日本は1905年10月10日、講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している。日本はポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春〜大連の支線、朝鮮半島の監督権を得た。鉄道守備隊はのちに関東軍となった。10月、満州軍総司令官下に関東総督府を設置し、軍政を敷いた。清国がこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対して英米が反発、1906年3月に満州の門戸開放を迫ったため、日本は満州開放の方針を確認し、関東総督府を関東都督府として改組した。1906年11月、民間企業で日本最大のコンツェルンとして南満州鉄道株式会社を設立、以降、南満州鉄道を柱とする満州経営権益は日本の重大な課題となった。日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した。またアメリカとも桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認した。フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907年、日仏協約を締結。ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年日露協約(第二次日露協商)を締結し、日本が南満州、ロシアが北満州を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認した。日本は列強の承認の下、1910年に韓国併合にいたった。満州は「10万の生霊を20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした。イギリスは、フランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立した[25]。日米関係は満州権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し悪化していたが、1907年の日米紳士協定、1908年の高平・ルート協定によって緊張を宥和させ、1911年の日米通商航海条約によって日本は関税自主権を獲得し、日本は従属的な立場を解消させた。明治天皇は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下した。明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す。 日本日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により、相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保したうえ、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道を獲得するなど満州における権益を得ることとなった。こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果、戒厳令が敷かれるまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。これはいかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利したものの日本もその国力が戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動からきているものである。なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争でもっとも儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。
2024年01月05日
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講和会議講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューキャッスル のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。交渉参加者は以下の通りである。日本側全権委員:小村寿太郎(外務大臣)、高平小五郎(駐米公使)随員:佐藤愛麿(駐メキシコ弁理公使)、山座円次郎(外務省政務局長)、安達峰一郎(外務省参事官)、本多熊太郎(外務大臣秘書官)、落合謙太郎(外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、立花小一郎陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、竹下勇海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、ヘンリー・デニソン(外務省顧問)ロシア側全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元蔵相・伯爵)、ロマン・ローゼン(駐米大使(開戦時の駐日公使))随員:A・プランソン(外務省条約局長)、フョードル・フョードロヴィチ(ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、N・シポフ(大蔵省理財局長)、Ⅴ・エルモロフ陸軍少将(駐英陸軍武官)、A・サモイロフ陸軍大佐(元駐日公使館付陸軍武官)、I・コロストウェツ(ウィッテ秘書。後、駐清公使)、C・ナボコフ(外務省書記官)講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。ロシア軍の満州よりの全面撤退、満州におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。満州のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。満州横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、1.2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされたが難航した。8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満州開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った。8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送ったが、23日の第8回本会議の日本側からの妥協案も皇帝の意を受けたウィッテによって拒絶されている。ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世に講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。交渉が難航し、これ以上の譲歩は不可能と判断した小村は、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同衝撃を受けたという。これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が非公式に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。
2024年01月05日
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結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている。対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった[10]。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフロシア外相は駐仏大使ネリドフを推薦したがネリドフはこれを辞退し、ムラビヨフ駐伊大使も引き受けなかったので、結局ウィッテが登用された。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである。すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」と語ったといわれる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた。日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。
2024年01月05日
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「ポーツマス条約講和会議」ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。交渉の経緯交渉に至るまで1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損害が甚大で払底しつつある他、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、さらにロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている。パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった。中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した。
2024年01月05日
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「ドミトリー・ドンスコイ」は日没までの砲撃と夜間の駆逐艦による攻撃を迎え撃った上で深夜に退艦・自沈作業を行っており、翌朝日本側が放棄された艦を発見して捕獲作業に入る前に沈没した(第10合戦)。27日夜、一等巡洋艦「オレーク」、同「アヴローラ」、二等巡洋艦「ジェムチュク」、駆逐艦「ボードルイ」、同「ブレスチャーシチー」の5隻はまとまって航行していたが、途中でウラジオストクへの直行をあきらめ南シナ海方面へ戻った。しかし「ブレスチャーシチー」は前日の被弾が原因で28日朝に沈没してしまい、「ボードルイ」が残ってその乗員を救助したが、「ボードルイ」は「オレーク」などとは再合流できなかった。「オレーク」など3隻は6月3日にマニラへ入港してアメリカに抑留された。「ボードルイ」は燃料の欠乏により数日間漂流していたが、イギリス船に曳航を依頼して6月4日、上海へ入港して清に抑留された。また輸送船「スヴィーリ」は5月29日に、水雷母艦「コレーヤ」は5月30日に上海へ入港して清に抑留された。輸送船「イルツイシ」は損害のため島根県沖まで逃れ、28日に船は放棄され29日朝に沈没した(イルツイシ号投降事件)。輸送船「アナディリ」は消息不明となっていたが6月27日にマダガスカル島へ到着し、そのまま本国へ戻っている。結果バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失った。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであった。病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。 11、「講和勧告と樺太攻略」5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。また欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。講和勧告と樺太攻略セオドア・ルーズベルト大統領は日本海海戦のあとに外務大臣小村寿太郎から要請を受け、1905年6月6日に日本・ロシア両国に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。日本軍は和平交渉の進むなか、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領がのちの講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。講和へロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延していた。経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていたうえ、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費18億円あまりを投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しく、講和の提案を拒否しなかった。アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
2024年01月05日
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夜間戦闘「オリョール」とその後続艦3隻はその行方をくらますため「左8点一斉回頭」を行い、20時にはネボガトフ乗艦の「インペラートル・ニコライ1世」を嚮導として無灯火航行に入り再び北へ向かった。しかしバルチック艦隊の一部の艦艇はサーチライトを使って夜襲部隊に対して迎撃しようとし、相手に対して目標を作ってしまった。連合艦隊の駆逐隊と水雷艇隊は一部の隊を除き攻撃に移ったが、中には衝突したり目標を見失ったりしたため攻撃できなかった艦もある。結局総計で魚雷54個を発射し、連繋水雷8群連(1群連につき4個)を投下したが、使用時間の遅い連繋水雷を除いてどれが命中したかははっきりしていない。バルチック艦隊はこの襲撃で「ナヴァリン」が沈没し、「シソイ・ヴェリキー」、「アドミラル・ナヒーモフ」、一等巡洋艦「ウラジミール・モノマフ」が損害を受けた。このうち「シソイ・ヴェリキー」に命中したものは、他より遅らせて攻撃した第4駆逐隊が28日2時30分ごろに投下した連繋水雷6群連のものと推測されている。損傷した3隻はウラジオストク行きをあきらめ、自沈のため対馬へ向かった。日本側も無傷とはいかず、駆逐艦「暁」と衝突した水雷艇「第69号艇」(第1艇隊)と、敵艦からの砲撃を受けた水雷艇「第34号艇」(第17艇隊)、同「第35号艇」(第18艇隊)の水雷艇3隻が沈没している。他に駆逐艦「夕霧」と同「春雨」も衝突事故を起こして共に小破した(第2合戦)。第4駆逐隊を除いて夜襲は0時前に終了したが、「インペラートル・ニコライ1世」に続行するのは、「オリョール」、海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」、同「アドミラル・セニャーヴィン」、二等巡洋艦「イズムルート」の4隻のみとなってしまった。残敵掃討28日の夜明け、連合艦隊の戦艦・巡洋艦からなる各戦隊は第7戦隊を除き各々鬱陵島に向かっていた(第2戦隊は第1戦隊に続行し、第3戦隊は分散しており第4戦隊は前日からの臨時6隻編成であった)。4時50分、北上中の第5戦隊が「インペラートル・ニコライ1世」など5隻を発見し、以後接触を保った。第4戦隊も接近して敵艦隊であることを確認し、各戦隊に知らせた。この艦隊の陣容を知らされた東郷はこれを敵残存艦の主力であると判断し、第4戦隊に接触を保つことを命じ第1・第2戦隊をこれに向かわせた。第6戦隊も加わった第4・第5戦隊は南方から敵を追っており、第1・第2戦隊は9時30分に「インペラートル・ニコライ1世」などを発見し、北方から敵の前面をさえぎって包囲した。10時30分、距離8,000mをもって第1・第2戦隊は射撃を開始した。10時34分、ネボガトフの指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白い旗を掲揚し降伏の意を示したが、戦時国際法で必要な機関停止をしていなかったため、連合艦隊は砲撃を続けた。10時53分にネボガトフも機関を停止しなければならないことに気づき、機関は停止された。連合艦隊もこれを受けて砲撃を中止した(第4合戦)。日本側は第1・第2戦隊の各艦がこの4隻の捕獲に当たった。しかし「インペラートル・ニコライ1世」の前方を進んでいた「イズムルート」はこれに従わず、東方へ逃走を図った。出羽が移乗して油谷湾より急ぎ戻ってきた「千歳」や第6戦隊がこれを追ったが、速力が及ばず逃走を許した。「イズムルート」は東から大きく迂回してウラジオストクに向かったが、ロシア沿岸で座礁して爆破の上放棄された。これより先の夜明けごろ、「千歳」は北上の際に単艦で行動していた駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」と遭遇し、居合わせた駆逐艦「有明」とともにこれを攻撃、撃沈した(第3合戦)。第4戦隊は包囲運動中、二等巡洋艦「スヴェトラーナ」と駆逐艦「ブイスツルイ」を発見し、「音羽」と「新高」がこれを追って攻撃した。「スヴェトラーナ」は撃沈され(第5合戦)、「ブイスツルイ」は途中で分離したが「新高」と途中で加わった駆逐艦「叢雲」に追われ、逃走をあきらめて朝鮮半島沖に艦を擱座させ乗員脱出後に爆破処分とした(第6合戦)。「シソイ・ヴェリキー」、「アドミラル・ナヒーモフ」、「ウラジミール・モノマフ」は対馬周辺で沈没し、乗員は日本側に救助された。「ウラジミール・モノマフ」には駆逐艦「グロームキー」がついていたが、駆逐艦「不知火」と水雷艇「第63号艇」に追撃され、蔚山沖にて降伏した。日本側はこれを捕獲しようとしたがそのまま沈没した(第7合戦)。「アドミラル・ウシャーコフ」は27日夜に洋上で停止して修理を行ったため大きく遅れており、単艦で北上していたが14時ごろ、「インペラートル・ニコライ1世」などの捕獲作業中だった日本側に発見されてしまった。日本側は装甲巡洋艦「磐手」と同「 八雲」が捕獲作業を中断してこれを追った。「アドミラル・ウシャーコフ」に近づいた「磐手」は降伏を勧告したが、「アドミラル・ウシャーコフ」はこれに従わず17時30分に砲撃を開始し、18時10分には抵抗をあきらめ自爆して沈没した(第8合戦)。ロジェストヴェンスキーを乗せて北上していた「ブイヌイ」は機関の故障や石炭の欠乏により、ウラジオストクへ到着することが困難になってしまった。28日の夜明け、一等巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」と駆逐艦「ベドヴイ」、同「グローズヌイ」と合流できたため、ロジェストヴェンスキーは「ベドウイ」に移乗し「グローズヌイ」とともにウラジオストクへ向かうことにした。しかし14時15分、所属隊から離れ故障の修理と補給のため蔚山に寄港(補給用に仮装水雷母艦「春日丸」がいた)してから鬱陵島に向かっていた駆逐艦「漣」と同「陽炎」によって発見された。「ベドウイ」と「グローズヌイ」は逃走したが16時30分、「ベドウイ」が遅れ始め16時45分には距離4,000mで「漣」と「陽炎」が砲撃を開始した。「グローズヌイ」は逃げつつ応戦したが、「ベドウイ」は機関停止を行い降伏した。「漣」はこれをロジェストヴェンスキー司令官とともに捕獲した。「グローズヌイ」は「陽炎」の追撃を振り切り、数少ないウラジオストック到着組の1つとなった(第9合戦)。「ドミトリー・ドンスコイ」は「ベドウイ」と別れた後、「ブイヌイ」を撃沈処分してウラジオストクに向かったが、17時50分に鬱陵島付近で第4戦隊に発見された。さらに「音羽」と「新高」も迫ってきたため「ドミトリー・ドンスコイ」は自沈するために鬱陵島へ向かった。
2024年01月05日
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第2戦隊による報告14時56分に「左八点一斉回頭」を行い単横陣となった第1戦隊各艦の後尾を通過する第2戦隊は東南東へ直進を続け、バルチック艦隊に3,000mの距離で攻撃を加えた。バルチック艦隊はしばらく右回頭を続けたため、第2戦隊も南東に進んで敵の先頭を巡り攻撃した。バルチック艦隊はさらに右へ回頭し第2戦隊から離れたため、第2戦隊は15時10分に砲撃を中止し「左16点逐次回頭」を行い、15時16分に針路を西北西とした。15時20分に北方へ向かうバルチック艦隊を左舷正横やや前方に認め、距離6,000mで砲撃を再開した。15時26分には距離3,100mまで近づいたが、バルチック艦隊は濃霧と爆煙で見えなくなり砲撃を緩めてマストの旗を頼りに砲撃を続けたが、15時34分には左舷に「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し、1,700mという至近距離で砲撃を加えたがほとんど反撃が無いことから砲撃を中止した。見えなくなった敵主力は第2戦隊の後方から北方に逃れると考えられ、同時に第1戦隊が引き返してきたことを確認したため15時47分に右へ回頭して北東へ針路を取り、第1戦隊の左前方に入った。佐藤の証言1935年(昭和10年)に記録された「日露戦役参加者 史談会記録」による佐藤の証言によれば、「クニャージ・スヴォーロフ」は14時50分の段階でまだ列の戦闘にいて、そこから舵の故障で左折して後続の艦が列を乱したとしている。第2戦隊の「左16点逐次回頭」には触れているが、バルチック艦隊主力の行動については触れていない。追撃16時15分、第1戦隊は東北東に変針し敵と接近を図った。バルチック艦隊は隊列が乱れ四分五裂となっており、特に両艦隊の間に入り込んでしまった「クニャージ・スヴォーロフ」は更なる集中砲火を受けて悲惨な状況となった。バルチック艦隊は緩やかに右へ回り、第1戦隊も16時24分にはおおよそ東に向かった。第1戦隊に先行していた第2戦隊は16時30分に敵を見失った。バルチック艦隊は右へ回り続けたため、第1戦隊は敵がまた後尾を回って北へ逃れようとすることを慮り、16時35分に「左八点一斉回頭」を行ったが、バルチック艦隊はこれを見てか北進を止めた様子を認めすぐに単縦陣へ戻ろうとしたが、「右八点一斉回頭」の信号を各艦が確認するのに手間取り一斉回頭を行えたのは16時43分であった。この間にバルチック艦隊を完全に見失ったため、第1戦隊は16時51分から南に変針した。第2戦隊はこれに先立って南へ向かっていたものの、北方へ向かう第1戦隊を見失いかけたため16時47分に北西へ向かって第1戦隊に近づこうとしたが、南方からの砲撃音と第1戦隊の南進が確認でき再び南方へ向かった。第3・第4戦隊は反航戦から同航戦に移りつつ攻撃を繰り返し、16時20分には曳船「ルーシ」を撃沈し、仮装巡洋艦「ウラル」や工作艦「カムチャツカ」にも損害を与え脱落させた。第5・第6戦隊も攻撃に加わったが、16時40分に南下してきたバルチック艦隊主力の一部と遭遇し、巡洋艦「浪速」が浸水するなど被害を受けたため一旦退避した。この時にバルチック艦隊は主力と巡洋艦・特務船が合流し、北へと針路を変えた。また第3戦隊旗艦の巡洋艦笠置は15時7分ごろ水線部に受けた損傷で浸水がひどくなり、18時に油谷湾で修理を行うため離脱した。これには護衛と第3戦隊司令官出羽重遠の移乗のため巡洋艦「千歳」が同行し、巡洋艦「音羽」、同「新高」は臨時に第4戦隊に合流した。「クニャージ・スヴォーロフ」は上部構造物のほとんどを破壊され海上を漂うようにしていたが、17時30分頃駆逐艦「ブイヌイ」がこれを発見、ロジェストヴェンスキーや幕僚らを移乗させて他の艦を追った。ロジェストヴェンスキーは頭部に負傷を負って意識を失いかけており、指揮権をネボガドフに譲った。「クニャージ・スヴォーロフ」はその後も攻撃を受け、最終的に第5戦隊に随伴していた第11艇隊の魚雷により19時20分、沈没した。またそれより先の19時ごろ、その周辺に漂流していた「カムチャツカ」は第4戦隊などの攻撃により沈没している。第1千体は17時28分には南進を続ける第2戦隊と分離して北北西に向かった。第1戦隊は17時40分ごろには孤立していた「ウラル」を撃沈した。さらに17時57分、ほぼ同方向に進むバルチック艦隊を発見して砲撃を再開した。この時のバルチック艦隊のうち、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」を除いた主力艦10隻は「ボロジノ」を先頭としてそれに「オリョール」が続き、損害の大きな「インペラートル・アレクサンドル3世」などが後方に回っていた。第1戦隊は当初「ボロジノ」に攻撃を集中し、爆煙で照準が困難となったあとは主に「オリョール」を狙った。この際は距離が詰まらず、18時45分以降、第1戦隊は主砲のみでゆっくりとした射撃を行った。19時頃には「インペラートル・アレクサンドル3世」が大きく左へ列外に出てから沈没した。それに後続して列外に出た海防戦艦「アドミラル・ウシャーコフ」、戦艦「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキー」、一等巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」はそのまま南方に逃走しようとしたが、敵艦が見つけられなかったために北上してきた第2戦隊を発見して再び北へ向かった。しかし残りの主力艦と合流しきれず、夜間に四散して各個撃破された。日没を迎えた後も砲戦は続いたが19時10分に「三笠」は砲撃を中止し、後続の各艦もそれに倣い19時20分に砲戦が終了した。しかしその時、「ボロジノ」は最後の被弾が弾薬に引火し2回の大爆発を起こし転覆、沈没した。日本側はこの27日昼間の戦闘を一まとめに第1合戦としており、以降の戦闘にも発生順に数字をつけている。連合艦隊の戦艦・巡洋艦は翌日の戦闘に備え鬱陵島に向けて移動を開始し、昼間は所属戦隊に付随していた駆逐隊と水雷艇隊は、日没に備えてバルチック艦隊の周囲に接近し、完全に暗くなると北・東・南の三方から次々と襲撃に移った。
2024年01月05日
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第2戦隊は被害を抑えるために右変針で敵からやや距離を取った後、14時15分から回頭を開始し第1戦隊の航跡の後ろに付き、発砲を始めた。同航砲撃戦バルチック艦隊の第1・2戦艦隊は単縦陣への陣形変更を早く終えようとしたが、「三笠」が回頭し始めた時点で第1戦艦隊の殿艦である戦艦「オリョール」と第2戦艦隊の先頭艦である戦艦「オスリャービャ」が並走しており、陣形が整わないうちに砲撃を始めていた。すでに「クニャージ・スヴォーロフ」は「オスリャービャ」の前に割り込んでいたため、「オスリャービャ」はし右に蛇行し速度を落とさざるを得なかった。「クニャージ・スヴォーロフ」は左前方斜めにいる「三笠」の横正面になる形となったため右に変針し並航となるようにし、単縦陣を整えて同航砲撃戦に入った。14時20分、第1戦隊はバルチック艦隊との間合いを距離5000mへ詰め、同航砲撃戦は最高潮となり三笠の被弾も急増した。 その後30分間、両艦隊は何回か浅い角度の右転針を行ったが、バルチック艦隊主力の速度11ノットに対して第1・2戦隊は15ノットであり、「三笠」は常に敵の先頭の「クニャージ・スヴォーロフ」の左前方を斜に圧迫し、徐々に先行した。14時27分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れた。しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持した。これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の被弾により急速に戦闘力を失っていった。バルチック艦隊主力後方の艦は徐々に先行する「三笠」へ向けて砲撃が困難となり、前方の艦も被弾で砲撃が減り、「三笠」の被弾は峠を越えた。14時35分、連合艦隊第1戦隊は東へ転針を行った。14時43分には東南東へ転針を行った。これによりウラジオストックへ向かおうとする同艦隊の北進路も遮蔽していった。この間にも連合艦隊の砲弾は舷側を撃ち抜くなど着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱した。オスリャービャは舷側被弾口からの浸水への対処が進まず致命的になりつつあった。この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。連合艦隊の第3・第4・第5・第6戦隊は大回頭に参加せずバルチック艦隊の後方を回り、14時45分に第3・第4戦隊が主力艦隊の右方にいたバルチック艦隊の巡洋艦・特務船に対する攻撃を開始した。第2戦隊の独断専行「クニャージ・スヴォーロフ」の急な右回頭は舵の故障によるもので、回頭を続けていた。「クニャージ・スヴォーロフ」に続くバルチック艦隊の2番艦、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はすぐにこれを見抜き、事前の取り決めどおり自身が先頭に立つことを決め、東南東の針路を保持した。しかし「インペラートル・アレクサンドル3世」も集中砲火を受けて列外に出た。14時55分頃、後を引き継ぎ先頭に立った戦艦「ボロジノ」艦長セレブレーンニコフ大佐は左へ回頭し北へ変針し、第1戦隊の後を進む第2戦隊の右舷へ向けて突進する形を取り、第2戦隊が行き過ぎたその後方をすり抜けようとした。これに対応するため、東郷は第1戦隊に「左八点一斉回頭」(全艦左へ90度一斉に回頭)を命じ、第1戦隊は14時58分に各艦が変針を行った。第2戦隊の上村はこれに一旦倣おうとして旗旒信号まで出したが、「ボロジノ」が右へ針路を変え南方へ逃走することを防ぐため、信号を取り消して直進し、17ノットに速度を速めた。「クニャージ・スヴォーロフ」の脱落後は「インペラートル・アレクサンドル3世」や「ボロジノ」がバルチック艦隊の針路を決めていたが、乗員が後の沈没時に「ボロジノ」の砲員1人を残して戦死したため、正確な航路やその意図を測ることは不可能になっている。この後の展開は第1戦隊と第2戦隊の報告が食い違ったものになっており、日本側の戦史では両方をそのまま掲載してしまっている。ただし海戦図として残されたのは第1戦隊のものが基礎となっている。また第2艦隊先任参謀であった佐藤鉄太郎はさらに異なった証言を残している。この最中の15時7分あるいは同10分には「オスリャービャ」が沈没している。またバルチック艦隊の後方で離れて航行していた病院船「アリョール」と同「コストローマ」は、15時30分に仮装巡洋艦「佐渡丸」や同「満州丸」に捕捉され、臨検のため荒れた外海から三浦湾に移動させられた。第1戦隊による報告第1戦隊は、14時58分に「左八点一斉回頭」を行い北東に進む単横陣となったが、第2戦隊が敵との間に入り込んでしまったため砲撃を一旦停止した。15時5分に北進する敵の前面に出るため「左八点一斉回頭」を行い、装甲巡洋艦日進を先頭にした逆順単縦陣となり西北西に進み、15時7分に左舷戦闘を開始した。北進するバルチック艦隊主力は北進を一旦断念し「ボロジノ」が避けるように右へ回頭しバルチック艦隊主力は一時的に東進し反航戦の態勢となった。この頃「インペラートル・アレクサンドル3世」が先頭に復帰した。その後、バルチック艦隊主力は北からの日本の艦隊の攻撃を避けるように右へ右へ回頭を続け、乱れた艦列をまとめ再び北進への隊列を整えようとした。第1戦隊は反航戦を行いながら西北西への直進を続けた。この戦闘の終盤では、機関の調整によって操船の自由をある程度取り戻し北進する「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し砲撃を加えたが、東郷は「クニャージ・スヴォーロフ」が既に戦闘力を失っていると判断し砲撃を切り上げた。他の敵艦主力は後方に遠ざかり見えなくなった。第1千体は「差は地点一斉回答」を2回行い、15時49分には「三笠」を先頭にした単縦陣に戻り、北東へ針路をとった。15時55分、第1戦隊は東微南約7,000mに北方へ遁走する敵艦主力を発見、16時1分に距離6,500mで砲撃を再開した。「クニャージ・スヴォーロフ」は孤立したまま北東に針路を取り、主力の前方を進んだ。
2024年01月05日
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456地点は益田市周辺の北側に当たり、受電文の456地点に「?」がつけられているのは容易に電波の届く位置ではないからと推測される。「信濃丸」が5時10分に445地点付近で仮装巡洋艦「八幡丸」と合流したという報告が極秘戦史に記載されているが]、その元の報告書である戦時日誌では455地点と記載されていることから、実際には446地点とすべきであったと推測できる。なお第3報のものは1枚の電報送達紙に暗号文(『ヒヒヒ「y」』)とその訳文(『敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ』)が記載されたものが残されている(記録場所は対馬南部に存在した神山[こうやま]望楼)。戦闘連合艦隊出撃特に脚注・注釈の無い限り、「極秘 明治三十七八年海戦史」の記述に基づく。 5時5分頃、敵艦見ゆの報に接した第1・第2艦隊に「直ちに出港用意」が 下令され、6時頃、連合艦隊は出港を始めた。「三笠」は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した(打電文後半は秋山真之が書き加えた)。6時35分に「三笠」は先頭に立ち、7時10分、「三笠」は加徳水道を抜け外洋に出た。触接対馬・尾崎湾にいた第3艦隊の大部分は5時34分に触接のため出航し、同地点にいた第2艦隊所属の第4駆逐隊もそれに倣った。「秋津洲」も合流した第3艦隊は10時頃バルチック艦隊を発見しその左前方につき「三笠」に向かって敵情報告を始めた。バルチック艦隊も、夜明けから「和泉」やその他の艦艇を確認していた。10時30分には第3戦隊も加わりバルチック艦隊の左真横について敵情報告を始めた。11時42分頃旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦が第3戦隊に向け砲撃を行った。第3戦隊は16ノットに増速し砲撃を返しつつ距離を離した。やがてロジェストヴェンスキーが発砲を中止させ日本側もやめた。双方に1発の命中弾もなかった。第3戦隊は再び近づき、徐々に減速しながらバルチック艦隊の前に出ていった。第4駆逐隊は第3戦隊がバルチック艦隊の前に出ていくとそれについていった。この時バルチック艦隊の第1戦艦隊は右八点正面変換(右90度逐次回頭)を行いさらに左八点一斉回頭により単横陣を形成しようとしたが途中で止めて単縦陣に戻った。ロジェストヴェンスキーは戦後の査問会で、日本艦が見えなくなった隙に第1・第2戦艦隊を一列横陣に展開しようとしたが第3戦隊が再び確認できたためその命令を途中で取り消した、と述べており敵主力に対する備えだったという。日本側は単横陣が第3戦隊と第4駆逐隊に対してのもの、特に駆逐艦が機雷を撒く危険に備えるものと解釈しており、2番艦と3・4番艦との挙動の違いから2番艦の戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」が信号を誤読して左八点一斉回頭ではなく逐次回頭を行い、3・4番艦は一斉回頭の動きから逐次回頭に修正したと判断している。どちらにせよ12隻の単縦陣を形成していたバルチック艦隊の主力である第1・2・3戦艦隊は、第1戦艦隊の左側に少し遅れて第2・3戦艦隊が続くという中途半端な陣形となってしまった。ロジェストヴェンスキーはこれを元に戻すべく命令を下したが、「三笠」が姿を現したのはそれの完了より前であった。邀撃用意「三笠」は沖ノ島付近での邀撃を目論み南下していたが、波が高く水雷艇の航行に支障をきたしていたため8時50分には水雷艇を三浦湾に退避させ、また連繋機雷の使用にも適さないとして10時8分に奇襲隊の解隊命令を出した。この頃から第3艦隊旗艦の防護巡洋艦「厳島」より敵情報告を受け取るようになったが、敵の位置は「和泉」のそれより東寄りであった。次いで第3戦隊旗艦の防護巡洋艦「笠置」からも報告があったが、敵の位置は「和泉」のものより西寄りであった。敵の位置は「和泉」のものが正確であったが、このずれは26日も波が強く艦がそれに流されていたことによるもので、修正も行われていたがその計算が合っていなかった。「和泉」が正確だったのは26日夜に一旦神ノ浦(若松島か?)に退避していたためである。これによる混乱はあったがひとまず「厳島」の情報を元に動くことにしている。13時15分、「三笠」は第3戦隊を発見し、第3戦隊もまた連合艦隊主力を視認してその後尾に回った。13時39分、南南西に航行していた「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を南西(ほぼ正面艦首方向)に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。次いで13時40分、右に変針して北西微北へ向かった。この変針の目的は記述が無いが、敵を実際より東側に位置するとした「厳島」の情報で敵のほぼ正面に出てしまったため、反航時のバルチック艦隊との横距離を修正する動きと思われる。13時55分、「三笠」は左に変針して針路を西にとった。その時、両艦隊の距離は約7海里(≒13,000m)。東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗(一説によれば「もう後がない」の意味)の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた[。14時02分、さらに三笠は左に変針して針路を南西微南にとり、第1戦隊は北東微北の針路をとっていたバルチック艦隊に対して反対の針路に入り、そのまま反航戦を行うかのように装った。海戦図からの推定ではそのまま両国の艦隊が直進すれば先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃で間隔は6,000mとなる。敵前大回頭14時05分、敵を南微東に距離8,000mで臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針した。東郷による報告書ではこれを「敵の先頭を斜に圧迫し」としている。14時08分、「三笠」に続いて「敷島」が東北東に定針したその時、バルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」に攻撃を集中した。日本側はすぐには撃ち返さず距離が縮まるのを待ち、14時10分に「三笠」が距離6,400mをもって「クニャージ・スヴォーロフ」に向けて発砲を始めた。その後、第1戦隊は回頭を完了した艦から発砲を始めた。
2024年01月05日
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24日に至り、東郷は大本営に対して相当の時期まで敵艦隊を発見できなければ渡島大島への移動をするという電報を送っている。25日に東郷は各司令官を集め軍議を行い、信号によって開封される移動のための密封命令を発し、さらに5月26日正午までに敵発見の情報が無ければ移動すると大本営に電報を送ったが、大本営はこれに行き違う形で慎重を期す旨の返電を送った(有線でいくつかの基地局を中継するため、送信から受電までに時間を要した)。第1艦隊と第2艦隊の大部分は加徳水道に残り、「三笠」は大本営との連絡がしやすいように鎮海湾に入った。26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊より分離した運送船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に入電した。位置関係を考えればバルチック艦隊は25日夕方にまだ九州以南にいることと判断でき、東郷はバルチック艦隊が太平洋側で発見されるまでは対馬海峡で待ち続けると決した。もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない[注釈 6]。発見と通報5月27日午前2時45分、九州西方海域にて、成川揆大佐を艦長とする連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「オリョール」の灯火を発見した。信濃丸側は「オリョール」が汽船としか確認できなかったため、月明かりを利用して判別するために大きく回りこんで接近した。4時40分に300mまで近づいて病院船と確認してから臨検をしようとしたが、夜が明けつつあった4時45分、距離1,500㎡以内に航行中の艦影・煤煙を多数視認し、脱出を試みつつ敵艦隊らしき煤煙を発見と打電し、次いで4時50分に203地点で敵艦発見と打電している。「信濃丸」は脱出に成功し一度はバルチック艦隊を見失うも、再度発見して接触を保った。近くの第4警戒線(中通島辺りから巨文島辺りを結んだ線)で哨戒任務に当たっていた第3戦隊と、「和泉」、「秋津洲」は信濃丸の電信を受けバルチック艦隊への触接のために動き出した。一番近くにいた「和泉」は6時45分にバルチック艦隊を発見し接触を保った。7時過ぎに「信濃丸」は近づいてきたバルチック艦隊の駆逐艦を避けるための行動中、さらに他に煤煙を認めたためバルチック艦隊と離れて調査に向かった。「和泉」はバルチック艦隊の右側で並航しそのまま7時間に亘り敵の位置や方向を無線で通報し続けた。「信濃丸」は夜間とはいえ危険を冒してロシア艦隊に並航し観測を行い電波を発射し続けていたが、バルチック艦隊からは発見されなかった(当時は無線方位測定器の実用化以前)。ロシア側からの記述では、「オリョール」乗員は午前5時すぎに汽船を認め、その後、朝靄の中にロストしている。曰く、「旗はよく見えなかったが、どうも胡散くさく――日本の哨戒船に相違なかった」。ロジェストヴェンスキーは、何もしなかった。午前6時ごろ船が現れ、接近してみると「和泉」だと判った。「和泉」はまる一時間ほど、ロシア艦隊と同じ針路で進んだ。受信機には暗号があわただしく入ってきた。ロジェストヴェンスキーは、砲を「和泉」に向けるよう命令したが、狙いをつけただけだった。(以下しばらく記述が続き、午前9時過ぎ、複数の日本艦の出現の記述の後)「ウラル」は600哩を交信できる(大出力の)無線機を具えていたのだが、「ウラル」からのロジェストヴェンスキー向けの通信妨害の許可を求める信号に対し「日本側ノ無電ノ邪魔ヲスルナ」と応答があり、通信妨害は行われなかった。ただし「信濃丸」の報告書には妨害電波を受けたという記述がある。信濃丸の第一通報「信濃丸」の27日朝に送った通信文は「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」・「敵ノ第二艦隊見ユ 203地点」・「敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ(對州は対馬国の別称であり、對州東水道は対馬海峡東水道を指す)」・「敵艦隊15隻以上ヲ目撃ス」となっている。そのうちの前の3つは予め略符が決められており(地点表示は含まない)、カナ1文字を連続送信することとされていた[7]。順番に「ネ」「タ」「ヒ」が割り振ら れており、「タタタタ」で「敵ノ第二艦隊見ユ」の意味となる。「敵ノ第二艦隊見ユ」の部分は「敵艦見ユ」と略されることが多いが、実際には敵艦発見報は第2太平洋艦隊・ウラジオストック艦隊(略符「ミ」以下同じ)・偵察巡洋艦(「ヨ」)・仮装巡洋艦(「レ」)・駆逐隊(「チ」)とで区別されていた。この「信濃丸」の第2報である艦隊発見報の地点を456地点としている作品・文献[9]があり、それは各望楼で記録された電報送達紙を集めた冊子にあったものを情報源に推測していると思われるが、それは翌28日早朝、対馬の北東の海域で「シソイ・ヴェリキー」を発見した時のものである。確かに暗号文(『タタタタ(モ四五六)「yr」セ』略符号を丸括弧で囲むのは電報業務の一般的慣習。最後の「セ」は不明)が記載されているものと訳文(『敵艦隊見ユ 456地点 信濃丸』)が記載されているものがあるが、その2枚は28日に記録された部分に収録されている他、日付も「二十八」と読め、記録場所も対馬北部に存在した大河内[おおかわち]望楼であると読める。第7戦隊の報告書でも28日6時45分に「敵ヲ発見ス456地點(?)」{原文ママ、點は点の旧字体}と記録されている)。訳文にも「456」に緑の文字で「?」とつけられている。
2024年01月05日
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支隊はズダ湾で黒海から来た義勇艦隊の仮装巡洋艦と合流し、11月26日にはスエズ運河を通過して12月30日にフランス領マダガスカル島のノシベ 港に入った。本隊は12月19日に喜望峰を通過し、翌年(明治38年)1月9日に支隊との合流を果たした。そこで知らされたのは1月1日に旅順要塞が陥落し、旅順艦隊の残存艦艇も事実上日本の手に落ちたことであった。これにより日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航の目的は達成困難になり遠征を中止することも考えられ、艦隊は同地にしばらくとどまることになった。なおノシベで居座り続けていたわけではなく、ノシベから100㎞北のアンツィラナナ (1975年まではディエゴ・スアレス と呼ばれていた)にも停泊したという複数の記述がある。ロシア海軍上層部は本国に残っていた艦艇で第3太平洋艦隊を編成し、日本艦隊と砲撃力を互角に近づけることで遠征を続行することを決定した。この知らせと制海権を奪回せよとの命令を受けたロジェストヴェンスキーは、現在の戦力では制海権の奪回は不可能で、第3太平洋艦隊は老朽艦で逆に戦力減であること、現在の戦力でウラジオストクに入り通商破壊に徹することが最良であると返答し、すぐに出航するべきであると説いた。2月15日に第3太平洋艦隊はリバウを出航したが、その知らせを聞いたロジェストヴェンスキーは病気と称して辞職を願ったが許されなかった。3月16日、第2太平洋艦隊はノシベを出航した。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。4月5日にはマラッカ海峡に入り、4月14日にフランス領インドシナのカムラン湾に入り第3太平洋艦隊を待った。この時ロジェストヴェンスキーは本国に第3太平洋艦隊を待たずにウラジオストクへ急航したいと打電したが許可されなかった。4月21日にフランスより退去要求を受けたが、4月26日にバンフォン湾(英語版)の国際法違反にならない場所で投錨した。第3太平洋艦隊は3月26日にはスエズ運河を通過し、5月9日に第2太平洋艦隊と合流を果たした。連合艦隊の準備日本海軍の連合艦隊は、すでに1904年(明治37年)8月10日の黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊にも勝利したことで極東海域の制海権を確保していた。また旅順要塞の陥落および旅順艦隊の壊滅の後、艦艇を一旦ドック入りさせるとともに、入念に訓練を行い、バルチック艦隊の迎撃殲滅に自信を付けて行った。残る最大の問題はバルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかだった。ウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破されかねないと考え、戦力を集中していずれか1箇所に賭けた。とはいえ、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するためには、距離が遠いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要がある。津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。1905年(明治38年)2月21日には連合艦隊旗艦三笠が朝鮮半島の鎮海湾に入り、同地を拠点に連合艦隊は対馬海峡で訓練を繰り返した。日本側の地点表示・哨戒態勢日本側は戦闘予想海域を直交する等間隔の直線で区切り、その交点に数字を割り振っていた。また陸地が目標となるいくつかの地点を集合場所としてアルファベットで表示し(例:鎮海湾がC地点)、海峡を横切る6つの警戒線と通過する方向になる3つの幹線を設定し交点にアルファベット2文字の地点表示をつけた。なお哨戒海域を碁盤の目のように細かく分画し、その一つひとつに哨戒用の艦船を配置したという話があり、軍籍船舶以外にも漁船まで動員した哨戒艦船73隻で行ったという。しかしそれに関する記述は戦史に存在しない。27日朝に哨戒を行っていたのは第3戦隊と第6戦隊所属の防護巡洋艦「和泉」、同「秋津洲」、及び仮装巡洋艦5隻である。また配置の基準も地点ではなく警戒線である。ジャンクを雇い入れ偽装下士卒を配置し、台湾周辺海域において漁業などを装いつつ監視を行うという指示は出されている。これはバルチック艦隊が台湾周辺を一旦占拠する可能性に備えたものである。連合艦隊の迷い5月14日、バルチック艦隊はバンフォン湾を出航した。5月19日にはバタン諸島付近でイギリス汽船「オールドハミヤ」を拿捕した一方、日本に向かっていたノルウェー汽船「オスカル」は臨検のみで解放した。バルチック艦隊は「オールドハミヤ」(乗員はロシア海軍の船員と交代)と仮装巡洋艦「テレーク」と同「クバーニ」を分離し、囮としてバラバラに宗谷海峡回りでウラジオストクに向かわせたが、これらは日本側に発見されずいずれもウラジオストクにたどり着けなかった。22日ごろバルチック艦隊は宮古海峡を通過し東シナ海に入り対馬海峡通過は確実のものとなった。ここで日本の民間船に目撃されるがその通報は海戦より遅れた(久松五勇士参照)。バルチック艦隊は23日に洋上で停止し、各艦搭載出来得る限りの石炭を積み込んだ。また同日にフェリケルザムが病死したがその死は秘匿され、ネボガトフにすら知らされなかった。25日8時には仮装巡洋艦「リオン」と同「ズネーブル」を護送とし、運送船6隻を上海方面に向かわせた。ロジェストヴェンスキーは水雷攻撃を避けるために対馬海峡を日中に突破すると決め、時間調整として26日に艦隊運動の演習を行っている。連合艦隊は5月23日に日本へ到着した「オスカル」からバルチック艦隊と遭遇し、バルチック艦隊の士官から対馬海峡へ向かうと聞いたという情報を受け取ったが、19日以降の足取りはつかめていなかった。
2024年01月05日
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大本営は、奉天会戦の勝利を受けてウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画し始めていた。また、4個師団(第13・第14・第15・第16師団)を新編し、講和圧力のために、樺太へ上陸・占領した。 これを知った大山巌満州軍総司令官は児玉満州軍参謀長と協議し、児玉を急ぎ東京へ戻して戦争終結の方法を探るよう具申した。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。日露の講和を促そうと、アメリカ合衆国大統領のセオドア・ルーズベルトが駐露大使のマイヤーに訓令を発し、ニコライ2世に謁見させたが、バルチック艦隊の実情をよく知らなかったロシア宮廷には、「バルチック艦隊が思い上がった日本に鉄槌を下すであろう」という希望的観測から講和を渋る声があった。そのため、いったんは日露講和は頓挫する。 しかし、5月日本海海戦において日本海軍が完勝すると、アメリカ合衆国の調停によって両国は交渉の席に着き、9月、休戦が成立。10月、ポーツマス条約が批准され、日露戦争は終結した。 日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。この結果を受けて、日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、まもなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方、両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。 10、「日本海海戦」バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で行われた海戦である。日本ではこのロシア側の艦隊を「バルチック艦隊」と呼ぶ事が通例となっており、本稿でもこの呼称を用いる。日本以外の国々では主力決戦の海域に因み対馬沖海戦と呼ばれる。この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた。この結果は和平交渉を拒否してい日露戦争開戦前のロシア海軍は対日戦に備え、旅順およびウラジオストクを母港とする極東の太平洋艦隊の艦船増強などに努め、ほぼ2倍の戦力とすることで日本の連合艦隊(戦艦6隻)を圧倒しようと目論んだ。しかし1904年(明治37年)2月の開戦時は、戦艦「オスリャービャ」などは本国から派遣途上で、ボロジノ級戦艦5隻も本国で建造・調整中であった。「オスリャービャ」の合流は断念され本国へ引き返させた。1904年(明治37年)5月、ロシアは新艦隊を編成して「第2太平洋艦隊」の名前を与え極東海域へ増派、それまでの太平洋艦隊は第1太平洋艦隊と改称することを発表した。その後、司令長官にはジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将(後に中将へ昇進)、副司令官にはドミトリー・フェリケルザム少将を任命した。編成された軍艦はバルト海にいるあまりにも古すぎる旧式艦を除いたほぼ全ての艦であった。なお黒海艦隊はロンドン条約により黒海を出ることを禁止されており、仮装巡洋艦などを除いてこの遠征に加わることはできなかった。しかし当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事であった。さらに、航路は日本と日英同盟を締結していた上に、ドッガーバンク事件の影響で険悪となったイギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスも日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった。遠征途中に旅順艦隊が壊滅した知らせが入ると、更なる増援としてニコライ・ネボガトフ少将を司令長官とする第3太平洋艦隊が編成された。バルチック艦隊の出航1904年(明治37年)10月15日、第2太平洋艦隊はリバウ軍港を出航した。10月21日深夜、第2太平洋艦隊は北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾いた。以後第2太平洋艦隊はイギリス海軍艦隊の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。11月3日、タンジェで第2太平洋艦隊は喜望峰を回る本隊とスエズ運河を通過する支隊に分かれた。第2太平洋艦隊は戦艦でもスエズ運河を通過できる大きさで設計された艦のみで構成されていたが、実際には建造の不手際と追加資材の搭載による重量超過で喫水が当時のスエズマックスを上回ってしまい、かなりの弾薬や石炭を降ろさなければ通過できず余計に時間がかかるとみなされたためである。
2024年01月04日
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このため、満州軍総司令部は作戦変更を行い、ロシア軍右翼の側面に回り込むために迂回を続ける第三軍に対し、さらに大きく奉天を迂回・包囲してロシア軍退路を遮断するとともに奉天を攻撃するよう命令した。一方、ロシア軍の総司令官クロパトキン大将は旅順を陥落させた乃木の戦闘指揮能力とその揮下の第三軍を高く評価しており、当初ロシア軍左翼を攻撃した鴨緑江軍を第三軍と勘違いして、これに対して大量の予備軍を派遣した。ところが、本当の第三軍がロシア軍右翼を包囲するように動き出したと知って、ロシア軍左翼(鴨緑江軍正面)の応援に送ったこの予備軍をまたさらに右翼(乃木第三軍正面)へ転進させるという命令の変更を行った。このため、乃木軍はロシア軍の正面を受け持ちつつ奉天へ前進するという苦しい状況になり、連日のロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になっていた。この時もし第三軍が奉天後方に回り込んで哈爾浜=奉天間の鉄道遮断に成功すれば、ロシア軍に対する物理的・精神的打撃は決定的であった可能性がある。また、クロパトキンは3万8千人ほどの第三軍を約10万人と過大に見積もっていたが、この誤断が生じたのは増援を重ねた10万のロシア軍に対して、乃木の第三軍が対等以上に戦ったからであるとされる。ロシア軍の後退戦術と日本軍の決戦主義(3月6日~8日)ロシア軍は奉天前面を攻撃する日本軍の第二軍、第四軍、第一軍に対して反撃して損害を与え続け、自軍も損耗しつつも、3月6日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めた。これはロシア軍正面を中央より第三軍のほうへ移す処置であった。このため、ロシア軍側面を攻撃していたはずの第三軍及び秋山支隊は敵正面に対することになってしまい、苦戦を強いられた。他の前線でもロシア軍が随時反撃を加え、日本軍の被害は徐々に増大していった。もしクロパトキンがこの時期に総反撃を命じたら、満足な予備軍さえ持っていなかった日本軍が崩壊するという危機的状況にあった。しかし日本軍の首脳部はあくまで全線での総力戦を指令し続け、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は文字通り死体の山を築いた。そうした状況が数日続くにおよび、遂には銃を捨てて逃走する日本兵の姿すら見られる状況に至り(大石橋の惨戦)、満州の日本軍は絶体絶命の状況にあった。児玉源太郎満州軍参謀長はついに作戦全体の方針転換を決め、腹心の松川敏胤少将と図って、第四軍と第二軍に奉天への前進を指令した。奉天会戦の結末(3月9日~10日)3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第三軍によって退路を遮断される事を恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。これは満州軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力のある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者および捕虜約9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。そのためクロパトキンは鉄嶺も捨てて、北へさらに退いた。すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れたクロパトキンは罷免された。会戦後は日本軍の能力は格段に落ちており、鉄嶺まで占領して補給線が伸びきってしまった日本軍としては、この辺が攻勢の限界であった。これは物資だけでなく人的補充という意味でも同じで、最後まで勇戦した第三軍は損耗率が4割から6割近くあったにもかかわらず、その補充の予定すら立たない状況であった。特に第一線の将校、すなわち少尉から大尉程度の、前線指揮を執り兵の先頭を進む下級将校の欠乏は目を覆わんばかりで、開戦当初に配属されていた士官学校出身の現役将校はこれまでの会戦や旅順攻囲戦などによって大量に損耗していた。このため、大部分の将校が速成教育しか受けていない者や予備役から召集された者ばかりになり、前線での指揮も満足に取れない者が多く、またたった一日の行軍で体力を消耗してしまうような老齢の者も多く存在するような状態になっていた。これは奉天会戦開始前の鴨緑江軍所属の後備第1師団においてすでに顕著であり、同軍は奉天会戦後期にはほとんど活動できないまでになっていた。奉天会戦の影響と日露講和への道奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前のナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍と日本軍では補給能力に格段の差があった。だがクロパトキンが罷免されたことで結果的にロシア軍が自ら敗北を認めてしまった形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。代わりに総帥として就任したリネウィッチ将軍は、軍隊秩序を乱した者を処罰していくことによって、軍の建て直しに腐心した。ロシア軍は敗北を認めた上で、やがて日本軍に反撃することを意図していたと言える。ロシア側は奉天会戦に敗北したとは言っても、ロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国の約10倍)はいまだ半分の動員しか行っておらずまだ健在であり、またインド洋にはバルチック艦隊が極東への航海の途上であり、陸海軍ともに額面上の継戦能力はまだ十分にあった。しかし、この年の1月の血の日曜日事件を皮切りにロシア第一革命が始まるなど、激しくなる国内の反乱分子の活動への鎮圧活動、およびドイツ帝国への対抗として露仏同盟を結んでいたフランスがこの年の3月の第一次モロッコ事件でドイツと対立するなど、他の欧州諸国に対する抑止力も大量に必要とされていたため、もはや遠く極東への戦力の大量補充は実質上不可能となっていた。奉天会戦勝利の報に日本中は沸き返り、さらに戦争を継続すべしという世論が高まった。
2024年01月04日
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この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼすべてを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引きこもっている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請する。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促した。11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取りやめ、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領した。これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などでほとんどの艦は船底を貫通されることはなく、ほとんどの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないようにすべて自沈させられた。沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。 9、「奉天会戦」奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年2月21日から3月10日にかけて行われた、日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌(実質的には参謀長の児玉源太郎)、ロシア側 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。日本軍は緒戦から危うい勝利を拾い続け、ここまでなんとか全体での優勢を保っていたが、国力の限界を超えて軍に補給を続けなくてはならなかった。また、ロシア軍を追って満州の奥深くへ進撃を続けたため、兵站の維持や兵力の補充はさらに困難になり、旅順攻囲戦の激しい消耗を経て戦争の継続自体が危うい状況になっていた。1905年3月、満州軍首脳は、奉天で増援を待つロシア軍に対して、日本軍有利の今の内に講和を結ぶため、賭けとも言える総力戦を挑んだ。大山巌は「本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん」と訓示し、その決意を将兵たちに示した。前哨戦(2月21~28日)ロシア側は、当初日本側左翼(第二軍、特に秋山支隊が防衛する黒溝台付近)に対する攻勢を企図していたが、2月21日、それよりわずかに早く日本軍最右翼の鴨緑江軍(満州軍揮下)が陽動のために進軍を開始し、清河城にこもるロシア軍を攻撃して24日に清河城を攻め落とした。しかし鴨緑江軍は、乃木第三軍より編入された四国善通寺第11師団と後備第1師団によって編成されており、このうち第11師団は現役兵師団ではあったが旅順攻囲戦によって現役兵を大量に失い、応召兵によって補充されていたため戦力的には問題があった。このため、日本軍得意の夜襲をかけても逆にロシア軍から夜襲を受けるなど、開戦時の日本軍に比べると攻撃に精彩を欠いていた。鴨緑江軍は何とか清河城支隊を撃退したが、クロパトキンが派遣した予備兵力に遮られ、膠着状態に陥った。第一軍も攻撃を開始し、27日に前哨基地を落として一定の戦果をあげた。包囲作戦開始(3月1日~5日)主導権を握ったと判断した日本軍は、3月1日を期して奉天に対する包囲攻撃を開始した。作戦当初、日本軍は陽動として最左翼の乃木希典の第三軍・秋山支隊によってロシア軍右翼を攻撃させ、鴨緑江軍(ロシア軍左翼を攻撃中)と連動させることによってロシア軍の両翼を圧迫し、その両翼に援軍を出して手薄になるはずの正面に対して、大規模な攻勢を展開する意図を持っていた。秋山支隊がビルゲル支隊を破り、両翼で第三軍・鴨緑江軍が戦況を進展させている状況になったが、奉天正面で激しい攻撃を行ったにもかかわらず、進展が見られないばかりかロシア軍に撃退されてしまう状況が続いていた。これは、カノン砲や28サンチ榴弾砲[2]による準備砲撃が、満州の厳寒によって地面が凍っていたため砲弾が弾かれ、威力が半減していたことや、当時使われていた黒色火薬の威力の不足により、ロシア軍陣地を十分に叩くことができなかったことが原因であった。
2024年01月04日
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鴨緑江会戦の後、第二軍は遼東半島に兵を進めた。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。第四師団による攻撃が金州城に対して開始されたが、失敗に終る。 第一師団からの増援2個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了した。その後南山に対して攻撃が加えられた。金州湾からの海軍の艦砲射撃が攻撃を援護したものの、凄まじい損害を受けた。しかしながら粘り強い日本の攻撃により砲弾の尽きたロシア軍は撤退を開始。第二軍は南山を占領して一応の勝利を収めた。第二軍はその後弾薬の補給を受けて満州へ向かった。撤退したロシア軍は若干の抵抗をしながらも旅順へ撤退し、背水の陣で第三軍と対峙することとなった。第三軍の司令官乃木希典も、第二軍に所属していた長男・勝典をこの戦いで失っている。 8、「旅順要塞」旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。 4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12日 – 13日に実施されたが失敗した。ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する(常陸丸事件)など活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日 – 9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日 – 10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。旅順攻略第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら、港湾への大弧山からの観測射撃を8月 – 10月まで黄海海戦を挟んで実施し、旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。
2024年01月04日
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旅順艦隊の戦艦(「ツェサレーヴィチ」を除く)および多くの艦艇は、戦艦「ペレスヴェート」座乗の次席指揮官パーヴェル・ウフトムスキー(ロシア語版)少将の指揮下で沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。戦艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻がドイツ領の膠州湾租借地、防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻が上海、防護巡洋艦「ディアーナ」がフランス領インドシナのサイゴンで抑留され、防護巡洋艦「ノヴィーク」は日本列島を迂回して太平洋を北上、樺太のコルサコフにまで到達したものの追撃してきた防護巡洋艦「千歳」と「対馬」によって撃破された(コルサコフ海戦)。また、駆逐艦一隻が座礁、自沈した他、駆逐艦「レシテリヌイ」が芝罘に入港したが日本軍に鹵獲され、「暁」として編入された(後に「山彦」と命名される)。旅順では各艦の損害を修復することが出来ず、この結果、旅順艦隊はこれ以後大がかりな作戦が出来なくなった。出撃の報告は芝罘にいたロシア領事の手によってウラジオストクにも伝達され、ウラジオストク巡洋艦隊が旅順艦隊を援護すべく出撃した。出撃30分後には「レシテリヌイ」からの報告により出撃中止命令が出されたが艦隊には届かず、ウラジオストク巡洋艦隊は上村彦之丞中将率いる第二艦隊に蔚山沖で捕捉され撃破された(蔚山沖海戦)。遼陽会戦(りょうようかいせん)は、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。遼陽は中国東北部、遼寧省の都市で、当時は人口6万のハルビンに次ぐ南満州の戦略的拠点。地理的には平野で、旅順からハルビンへ至る東清鉄道が走る交通の要衝でもあった。日本の参謀本部では、川上操六・児玉源太郎らが対露戦略を構想していた。日本軍はロシア軍がシベリア鉄道などを利用して兵力を輸送してくる以前に積極的に朝鮮半島に進出し、ロシアの主力軍が集中する以前に、短期決戦で同地を確保する作戦を立案。満州へ向かう主力戦とウラジオストクへ向かうウスリー支作戦による分進合撃を構想し、遼陽は奉天・海城・鉄嶺らとともに進撃目標の1つとされた。ロシア側でも開戦以前から基本戦略が存在し、本国から兵力を輸送して遼陽付近を第一線に兵力を集中させ、ハルビンを退路に本国からの増援を待ちつつ攻勢する作戦を構想。開戦直前には陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキンが満州軍総司令官として赴任する。1904年2月9日、日露戦争が開戦。日本側は第12師団の仁川上陸(朝鮮への威圧的上陸)、旅順港を封鎖しての黄海の制海権確保に成功し、遼東半島からの上陸が可能になった。第3軍(乃木希典)が旅順攻略を担当し、基本戦略通りの分進作戦を実施し、第1軍(黒木為楨)が朝鮮半島の大同江に上陸して5月1日に鴨緑江会戦を経た後に北上。第2軍(奥保鞏)は5月5日遼東半島の塩大澳に上陸、旅順要塞孤立化のための南山攻略を行った後に大連を占領、5月30日より東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ北進する。第4軍(独立第10師団と呼ばれていたが、後に第5師団を加えて軍に編成、野津道貫大将指揮)は中間地点の大弧山から上陸し、遼陽を目指す進撃を開始、柝木城を攻略し、遼陽を包囲した。日本側の制海権確保でロシア側は基本戦略を変更し、クロパトキンは兵力を直接遼陽へ集結させ、日本軍第一軍が迫る国境地帯の鴨緑江へも展開する。また、このほかに旅順救出の部隊を編成し、兵力を出すも現場指揮官の戦意が乏しかったため、日本軍第二軍の兵力の見誤りからに遼陽に引き揚げてしまう。日本軍は8月にほぼ遼陽に集結し、東から第1、第4、第2軍を展開。第1軍が太子江を渡河して東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦を計画だった。8月3日秋山好古少将率いる騎兵第1旅団(習志野)は、敵情の偵察を行うように命じられ、遼陽会戦前まで敵情の偵察任務に赴いた。この秋山少将率いる部隊は騎兵第1旅団を中心とし、そのほかに歩兵第38連隊(伏見)、野砲兵第14連隊、騎砲兵中隊、工兵第4大隊第3中隊の複合型集団を構成しており、秋山支隊と呼ばれた。8月26日、第1軍は紅沙嶺へ進攻し、同日午後には弓張嶺において第2師団が白兵での夜襲を敢行し、ロシア軍を駆逐し、第一線陣地であった同地を撤退させる。第2軍も8月25日に進撃し、ロシア軍を後退させる。28日には満州軍総司令部は第二軍に標高209メートルの制高地でもある首山堡陣地の攻略を命じ、30日には陣地への攻撃を開始するが、戦況は行き詰る。30日深夜には第1軍が連刀湾から太子江を渡河して遼陽を迂回し、梅澤旅団とともにロシア軍第二陣地を攻撃。ロシア側は第1軍の側撃を予期していたものの偵察の不備もあり日本軍の行動を捕捉できず、各軍団からの増派部隊で応戦した。第1軍は饅頭山を確保し、主力戦ではロシア側の兵力抽出の影響もあり、9月1日には首山堡を確保する。9月4日、クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を指令した。日本側は兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃は行われなかった。南山の戦い(なんざんのたたかい)は、遼東半島・金州城の南近郊の南山と呼ばれる所で1904年に行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦い。ロシア軍は機関銃などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。日本陸軍第二軍は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず総兵力の10%を超える兵員を失ってしまった。
2024年01月04日
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2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で、日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は、第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日 – 5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。 7、「黄海海戦」黄海海戦(こうかいかいせん)は1904年(明治37年)8月10日に大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦。この海戦でロシア太平洋艦隊の艦船は激しく損傷し、以後大規模な海戦を行うことはなかった。ロシア太平洋艦隊(以下旅順艦隊と記述)司令長官であり、優れた海軍軍人であったステパン・マカロフ中将が、日本海軍連合艦隊(以下連合艦隊と記述)との一連の戦闘により戦死する。その後任として司令長官職を代行することとなったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は、防備の堅い旅順港に出来るだけ閉じこもり、連合艦隊との直接的な衝突を避け艦隊を温存するという消極的な行動を見せていたが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令した。これを受け旅順艦隊は1904年6月23日に一旦出航したものの、連合艦隊に遭遇したためすぐに港内へ引き返した。しかし日本陸軍第三軍による陸上からの旅順要塞攻撃が開始され、8月に入り第三軍と行動を共にしていた日本海軍陸戦重砲隊が大孤山に設けた観測所を使って照準を行い、旅順港の艦船を砲撃した。8月9日、命中弾により戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷を受け、ヴィトゲフト自身も負傷するなどの損害を受けた。ヴィトゲフトはこのまま旅順港に艦隊を置いておくことが危険になってきたと判断し、艦隊の大部分を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。なお小さな砲艦や直前に触雷して修理中の装甲巡洋艦「バヤーン」は旅順残留とした。一方連合艦隊側は、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を壊滅させておくことで、艦隊数による日本側の不利な状態を極力改善しておきたいことと、当面の日本海における制海権を確保しておく必要性があることから、旅順艦隊が港から出てくるのを待ち望んでいるという状況があった。海戦連合艦隊は12時30分に、旅順の西南23カイリ付近で南下してきた旅順艦隊を確認し、攻撃を図る。しかし旅順艦隊は海戦に及ぼうとせず、終始ウラジオストク方面に逃げの姿勢に徹した。日本艦隊は旅順艦隊との距離7000メートルで丁字戦法を実行すべく艦隊行動を行ったが、旅順艦隊に後方から逃げられて引き離されてしまった。15時20分から追撃を始めたが追いついて砲撃を再開できたのは17時30分になってからであった。18時40分、旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃し、ヴィトゲフトと操舵手が戦死、またイワノフ艦長などが昏倒。操舵手が舵輪を左に巻き込んで倒れた上、舵機に故障を起こしたために「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散した。連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃し夜間には水雷攻撃を行ったが失敗した。
2024年01月04日
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第七次攻撃4月7日に日本の連合艦隊司令部は第七次攻撃を発令した。その作戦案は、第四・五駆逐隊と第十四艇隊および蛟龍丸から成る部隊が第二駆逐隊の護衛の下で旅順港口付近へ機雷を隠密敷設するとともに、第三戦隊(装甲巡洋艦2隻で増強)がロシア艦隊主力の誘致を図り、第一戦隊が誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容であった。悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃した。同日午後11時から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦村雨に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設した。この間、雨による視界不良によりロシア側から発見されることはなかった。13日の早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦ストラーシヌイが交戦したのをきっかけに、ロシア巡洋艦バヤーンが救援のため湾外へ出撃し、日本の第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となった。日本艦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮のもとに戦艦ペトロパヴロフスク他、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻の艦隊主力が出撃した。退避する第三戦隊よりの電報を受けて日本の第一戦隊が救援に駆けつけたが、ロシア艦隊はこれを見て反転し、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せた。この時、10時32分ペトロパヴロフスクおよび続航する戦艦ポベーダが共に触雷した。ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射した。被害を受けたペトロパヴロフスクは砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死した。4月14日、マカロフの後任指揮官として極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が戦艦セヴァストーポリに着任して直接指揮を執ったが、以後日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなった。更に日本陸軍が塩奥襟襖付近に上陸したことを5月4日に知ったアレクセーエフは連絡を絶たれることを恐れて奉天へ脱出し、艦隊の指揮をウィットゲフト少将に任せた。第八次攻撃4月14日夜より15日未明に第二・四・五駆逐隊および第九艇隊は旅順口へ進出したが目標を発見できなかった。同じく15日朝に駆逐隊の収容およびロシア艦隊誘引の任務に出撃した第三戦隊も目的を達することが出来なかった。第一戦隊と共に旅順口に進出した新戦力の春日、日進は間接射撃を行ったがロシア艦の出撃はなかった。第八次攻撃以後の海上戦闘5月2日の夜には閉塞船12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が実施されたが、閉塞には成功しなかった。日本海軍は、第七次攻撃で機雷が効果を発揮したことから、機雷作戦の拡大を決めた。同年8月にかけて19回にわたり仮装砲艦による機雷敷設を行ったほか、同年6月から12月までは艦載水雷艇も投入し、ダミーを含め計1703個の機雷を旅順港口から約9キロメートルまでの一帯へ敷設した。ロシア側も機雷による作戦を展開した。5月5日、旅順口の監視を続ける日本艦隊の航路に対し、ウィットゲフト少将は敷設艦アムールによる機雷敷設を実施した。これにより15日の午前11時10分に老鉄山沖で八島と初瀬が触雷沈没した。日本側は八島の沈没のみ発表し、初瀬の沈没は翌1905年5月末まで伏せられた。この前後には日本側の被害が続出していた。14日には水雷艇四十八号と宮古が触雷して沈没、15日1時30分に旅順沖で吉野が春日に衝突されて沈没、16日には龍田が座礁、17日には事故で大島、触雷で暁を失った。6月23日、旅順艦隊がウラジオストックへ向けて一旦出航するも、すぐに引き返した。日本海軍の作戦に対する批判開戦直後に行われた第一次攻撃について、不徹底であったとの批判がある。肯定論軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』 →成功した作戦。ジュリアン・コーベット→目的通り、部分的な制海権を獲得した。平野龍二「日露開戦劈頭における旅順口攻撃の再評価」 →当面の旅順艦隊の行動を抑制して陸軍の仁川上陸と韓国政治を有利に運び、朝鮮半島が確保された。その後も、制海権を握ることで第一軍主力の上陸や補給の成功に貢献した。批判論外山三郎『日露海戦史の研究』→奇襲のチャンスに第二撃が行われず、ロシア主力艦隊に決定的な打撃を与えられなかった。主力部隊が突入すれば全滅に近い戦果が期待できた。大江志乃夫『世界史としての日露戦争』→思想と闘志に欠けていたため、戦果拡大が行なわれず、3度の閉塞作戦が必要になり、それも失敗した。相沢淳「『奇襲断行』か『威力偵察』か?-旅順口奇襲作戦をめぐる対立-」2005年(『軍事史学 第号』)→軍令部の作戦方針の「奇襲断行」に反して「威力偵察」に終わり、旅順艦隊を撃ち漏らしたことで陸軍の大規模投入と犠牲が強要された。奇襲に評価は様々に分かれるが、大国ロシアに果敢に向かって攻撃に一定の評価はできるのではないか。 この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが、大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。
2024年01月04日
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第五駆逐隊は探照灯を避けながら老鉄山東岸に沿って徐々に進んだがついに発見された。1時30分に探照灯の消灯に乗じて偵察を行ったところ、駆逐艦2隻と艦種不明の1隻を発見し、これに魚雷攻撃を行った。襲撃の後、水雷艇を用いた航路偵察が行われたが、探照灯により発見され砲撃を受けた。陸上砲台の砲撃停止と航路が確認されたため、老鉄山沖に待機していた5隻の閉塞船団は4時15分より天津丸、報国丸、仁川丸、武揚丸、武州丸の順で突入を開始した。旅順口を目指す閉塞船団は探照灯に捉えられ猛烈な砲撃を受け、閉塞は不十分なものとなった。水雷艇隊は危険を冒して突入隊の収容を行った。天津丸・報国丸・武揚丸の乗員は第十四艇隊により収容されたが、第九艇隊(燕欠)は攻撃を行ったため仁川丸・武州丸の乗員収容が行えなかった。24日中に仁川丸・武州丸の乗員が収容できなかったため、更に東郷長官は25日に千早・龍田を旅順口へ派遣して捜索を続けたが発見できなかった。乗員達は砲火を避け隠れながら退避を行い、両船の乗員は偶然遭遇して合流した後、ジャンク船等を使って清国の登州を経由して帰還を果たした。また、閉塞に先立って攻撃を行った第五駆逐隊は一度退避していたが、砲声を聞いたため閉塞作戦を援護するために引き返し、あえて砲台に接近して探照灯を灯して牽制したが攻撃を吸収することができず、6時30分に砲撃が途絶えたため湾外へ脱出した。第四駆逐隊は第二戦隊の前衛として7時過ぎに老鉄山沖に到達し、旅順口に接近すると港内にロシア駆逐艦3隻を発見したため砲撃を加えた。ロシア駆逐艦および陸上砲台も応射したが港外への出撃がないため7時20分に離脱した。閉塞作戦後も旅順港外をロシア巡洋艦バヤーン、ノヴィークのほか駆逐艦5隻が徘徊しており、日本艦隊を攻撃したり、閉塞船に砲撃を加えるなどした。24日12時に東郷長官はロシア巡洋艦が入港困難である可能性があることから、夜半より第四駆逐隊による魚雷攻撃を命令した。25日0時に第四駆逐隊は老鉄山沖に進出、1時30分より第二小隊の村雨・春雨が旅順口に進むと、2時ごろロシア陸上砲台や哨戒艦は探照灯で照らされた沈没閉塞船を誤射していた。村雨は目標を認めて3時3分に魚雷を発射した。春雨も同じく3時8分に魚雷を発射したが退避中に砲撃を受けた。村雨は第二次攻撃のために引き返し、3時10分に座礁しているとみられるレトヴィザンに向けて魚雷を発射した。第一小隊の速鳥と朝霧は25日2時30分に襲撃に入り、50分よりロシア駆逐艦数隻に向けて魚雷攻撃を行い、反転後にロシア艦と砲撃を交えた。さらに両艦は回頭して第二次魚雷攻撃を行った。第五駆逐隊は大連湾にて目標を探したが発見できなかった。続いて25日の朝より港内間接射撃のため第一・二戦隊が旅順口に進出すると、饅頭山沖に航行するロシア巡洋艦バヤーン、アスコリド、ノヴィークの3隻と遭遇したため、11時31分にこれに砲撃を加えつつ陸上砲台も目標として射撃した。ロシア艦は命中弾を受けて港内へ退避したため港外から間接射撃を行った。第一・二戦隊の攻撃中に老鉄山沖を警戒していた第三戦隊も10時40分頃にロシア駆逐艦を発見して砲撃し、座礁したヴヌシーテリヌイ(を翌日自沈に追い込んだ。陸上砲台の射程も考慮してこれらの攻撃は遠距離で行われた。3月6日、旅順のロシア艦隊司令官にマカロフ中将が着任した。第四次攻撃第一軍の上陸を援護するため旅順港の第四次攻撃が企画された。3月10日の未明、第一駆逐隊が旅順口に進出するとマカロフ中将も駆逐艦6隻を繰り出して海戦となり、沈没艦はなかったが双方に被害が出ていた。続いて旅順口に達した第三駆逐隊もロシアの駆逐艦レシーテリヌイ、水雷艇ステレグーシチイと戦闘となりステレグーシチイを無力化した後に捕獲を試みたがロシア巡洋艦のノヴィークとバヤーンが港外に出動してきたため曳航を諦めて撃沈した。10時頃より第一戦隊が3隻ずつに分かれて10時8分から12時30分までおよび12時50分から13時46分まで間接射撃を行った。ロシア側は、干潮のため港口を通過できず出撃できなかった。この間接射撃により戦艦レトヴィザンに一発の砲弾が命中しその他の艦船や砲台にも被害が出た。日本陸軍は予定通り、10日に第1軍主力(近衛師団、第2師団)を平壌近くの鎮南浦へ上陸させ、29日までに完了した。以後、平壌で第12師団と合流して北上を開始したが前進速度と悪路のために補給が困難となり、制海権も確保されていることから3月末には補給ポイントを義州南方・鉄山半島の望東浦および梨花浦に前進させた。第五次攻撃3月22日の未明から朝にかけてに第四駆逐隊と第五駆逐隊が旅順口に進出しロシアの哨戒艦艇と交戦した。続いて第一戦隊の富士、八島が位置につき、9時56分より間接射撃を行った。ロシア側も対抗して陸上に砲撃用の観測所を新設しており、港内の軍艦が港外の日本艦隊へ間接射撃で応射した。また、ロシア艦隊は艦艇修理と整備を進めたうえマカロフの着任により迎撃を活性化させていた。富士と八島の攻撃に対して、巡洋艦バヤーン、アスコリド、ノヴィークを出撃させ、続いて戦艦ペトロパヴロフスク、ポルターヴァ、セヴァストーポリ、ペレスヴェート他の優勢な艦艇を出撃させたため、日本側は艦隊を退却させた。第六次攻撃(第二回旅順口閉塞作戦)3月27日の未明、閉塞船4隻による第二回旅順口閉塞作戦が実施された。閉塞隊を援護するため、同時に第一・二・三駆逐隊および第九艇隊が出動した。この間、ロシア駆逐艦シーリヌイが陸上砲台の誤射により大破擱座した。夜が明けてもロシア艦隊は活動を続け、バヤーン、ノヴィークなどの巡洋艦の他、戦艦ポベーダ、ポルターヴァ、ペトロパヴロフスクなどが出航したため、閉塞作戦が失敗した。
2024年01月04日
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1904年(明治37年)2月6日の朝、連合艦隊は佐世保軍港より出撃、第一戦隊(三笠、朝日、八島、敷島、初瀬、通報艦龍田)は7日に朝鮮半島南岸の九針岩付近でロシア貨物船「ロシア号」を拿捕した。先行してロシア商船「アルグン号」を拿捕した第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常磐、磐手、通報艦千早)と合流し、遅れて第三、第四戦隊、第一・二・四・五駆逐隊も旅順沖へ集合した。ロシア側の態勢ロシア海軍は、旅順に太平洋艦隊の主力を配置していた。開戦時のロシア旅順艦隊(主な戦闘艦艇)[1]戦艦7隻:ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポルターヴァ、ペトロパヴロフスク、セヴァストーポリ、ポベーダ装甲巡洋艦1隻:バヤーン防護巡洋艦8隻:パラーダ、ジアーナ、アスコリド、ボヤーリン(、ノヴィーク、ザビヤーカ、ラズボイニク、ジギート砲艦・水雷砲艦6隻:グレミャーシチイ(、オトヴァージヌイ、ギリャーク、ボーブル、フサードニク、ガイダマーク駆逐艦18隻(詳細略。他に開戦後の竣工艦が数隻)旅順港の特色旅順港は細い水路で結ばれた内港と外港から成る地形だった。旅順港はかねてよりロシアが待望した極東の不凍港であった。ただし、浅水港であり浚渫が不足していたため、喫水の深い戦艦などを内港に停泊させた場合に干潮による着底で艦底を傷めるおそれがあるほか、潮位によって出港不能となった。逆に、浅水であることを利用して、水線下の水雷被害を干潮時に修理することができた。そのため、大型艦船は当初は水深の深い外港に停泊していたが、攻撃が始まると旅順艦隊の主力は内港へ引きこもることが多くなった。また、外港と内港を繋ぐ湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させる閉塞作戦が実施されることとなった。戦闘経過第一次攻撃1904年(明治37年)2月8日18時、日本の連合艦隊は旅順東方44海里の円島付近に進出、第一・二・三駆逐隊を旅順港、第四・五駆逐隊を大連湾へ進撃させた。20時50分、旅順港外にロシア駆逐艦を発見したので灯火を消したために衝突事故を起こした。日本の駆逐隊は隊列を乱しながらも更に進み、9日0時20分より港外停泊中のロシア艦隊を発見、約10000mから魚雷攻撃した。脱出後は仁川へ10日に集合した。この夜襲で戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、防護巡洋艦パラーダに魚雷が命中した。ツェサレーヴィチは水線下の舵機室を破壊されて浸水、右舷に傾いた後、左舷に18度まで傾いた。レトヴィザンとパラーダも水線下に大破口を生じて浸水した。3艦は徹夜で防水に努めて、他艦の助けにより曳航されて湾内に入るも座礁擱座した。同時に第四・五駆逐隊が大連湾を襲撃したが敵艦に遭遇しなかった。続けて翌9日朝より第三戦隊が旅順口の偵察と誘出のためにロシア艦隊に7000mまで接近したが前夜の混乱により戦意がなく、反撃されなかった。続いて第一・二戦隊が11時55分より距離8500mから約一時間にわたって昼間砲撃を行ったが、ロシア艦隊は誘いに乗らず、日本側も陸上砲台の射程に入らなかったため、互いにわずかな損害を出すにとどまった。日本の夜襲を許したスタルク中将は罷免され、代わってマカロフ中将が着任することとなった。開戦劈頭に旅順口を襲撃した駆逐隊第一駆逐隊(司令:浅井正次郎大佐)白雲(狭間光太少佐)霞(大島正毅少佐)朝潮(松永光敬少佐)暁(末次直次郎大尉)第二駆逐隊(司令:石田一郎中佐)雷(三村錦三郎大尉)電(篠原利七少佐)朧(竹村伴吾大尉)第三駆逐隊(司令:土屋光金中佐)薄雲(大山鷹之助少佐)漣(近藤常松少佐)東雲(吉田孟子大尉)第二次攻撃[編集]日本海軍は第二次攻撃として再度の水雷夜襲を計画した。2月11日17時に第四・五駆逐隊が牙山湾を出港し、第三戦隊も続行したが、12日の明け方から雪を伴った強風が吹き荒れて、進撃する艦、避難する艦、引き返す艦など艦隊は分散してしまった。2月14日の未明に旅順口へ到達した第四駆逐隊(司令:長井群吉。速鳥、朝霧、春雨、なお村雨は分離して不在)は港外を警戒するロシア駆逐艦3隻と北方に停泊する1艦を発見し、停止艦に対して魚雷攻撃を加えた。攻撃に気付いた陸上砲台からの攻撃を受けたが命中はなかった。荒天により艦隊行動が乱れたこともあり、予定していた港内を狙った間接射撃は実施せず、第二次攻撃は僅か駆逐艦3隻による襲撃になり、戦果も不明であった。この間に2月16日から27日まで行われた第12師団の仁川上陸が成功し、以後漢城は日本側が確保した。また、前年の交渉では頓挫した日韓議定書が13日からの交渉で23日に締結されるなど韓国の政治情勢は日本有利に導かれた。第三次攻撃(第一回旅順口閉塞作戦)2月18日、東郷は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令した。23日23時50分、警戒および襲撃を任務とする第五駆逐隊(司令:真野巌太郎中佐。陽炎、不知火、叢雲、夕霧)と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出した。24日0時30分より月が没すると黄金山・城頭山・白銀山のロシア砲台から探照灯による照射が始まった。
2024年01月04日
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1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど)も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4 パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった[20]。結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなった。国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる。開戦時の両軍の基本戦略日本側 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後、陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。ロシア側陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。「日露の開戦」日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。 6、「開戦旅順口攻撃」旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき)は日露戦争の開戦した1904年(明治37年)2月から5月にかけて行われた大日本帝国海軍連合艦隊によるロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃。日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、旅順口攻撃を計画した。日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞作戦を実施した。 この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が容易になった他、第一次日韓協約が締結されるなど戦地に連なる韓国との外交関係を有利なものとした。しかし、旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を与えることには成功せず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が脅かされたため、陸上側からの旅順要塞の攻略が必要となった。日本軍の先制行動1904年(明治37年)2月4日、御前会議で開戦が決定されて陸海軍に対して大命が下り、6日からの作戦発動が命じられた。5日17時に連合艦隊司令長官東郷平八郎は出動命令を受け、6日1時に佐世保に集結していた艦隊の幹部を三笠に集めて打ち合わせを行った。9時に出撃、7日には朝鮮半島北西岸の小青島付近に進出、また陸軍第2師団の第一陣2200人の一部を乗せた運送船3隻の護衛と陸軍の上陸予定地の仁川を抑えるため、第二艦隊第四戦隊(浪速、高千穂、新高、明石)を分派した。
2024年01月04日
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同年3月23日、龍岩浦港が開港した。同年5月、韓国政府は韓露条約を破棄し、同時に豆満江・鴨緑江・鬱陵島の森林伐採の特許権の破棄を声明した。 日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな憶測を報じたが、実質的な成果がないことに失望した。また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。6月24日、日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書が内閣に提出された(七博士建白事件)。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった。さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満州撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。直前交渉1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。日本側は2月8日に旅順口攻撃を行い、2月11日に大本営を設置、3月15日に元老の松方正義、井上馨らが帝国軍人援護会を結成した。各国の思惑帝政ドイツは心情的には帝政ロシア側であったが、具体的な支援は行っていない。外貨調達戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長はのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。
2024年01月04日
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1545年に明宗が12歳で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・尹任(朝鮮語版)の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。朋党政治:西人と東人1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。東西に別れた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。前史ロシアの森林伐採権取得1896年2月11日より李氏朝鮮の国王である高宗はロシア公使館に移り住み (露館播遷)、その間、1896年8月28日に、帝政ロシアは朝鮮と『露人「ブリーネル」茂山及鬱陵島山林伐採並植付に関する約定書』を結び、森林伐採の特許をユーリ・イワノヴィチ・ブリーネル(ロシア語版)の設立する「朝鮮木商会社」へと与えた[2]。また、ブリーネルはこの約定書に付帯して鴨緑江の森林伐採の特許を得た。鴨緑江の権利は本契約の署名から五年以内に事業に着手しなければ無効とされていたものの、しばらく着手されることはなく、後に期限が20年延長された[4]。ロシアの韓国からの撤退1898年3月、帝政ロシアは清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結んだ後に韓国から撤退し、同年4月、日露間で韓国への干渉を制限する西・ローゼン協定が結ばれた。この西・ローゼン協定について、帝政ロシアのセルゲイ・ヴィッテは回顧録の中で『もし我々がこの協約を正直に守り、ただ紙の上ばかりでなく、この協約の精神にもっと忠実であったなら、言い換へれば、朝鮮を完全に日本の勢力下に渡してやったなら、恐らくロシアと日本との平和関係はいつまでも続いたことであろう』と述べている。ロシアの鴨緑江への進出1902年4月、ロシアは清国と満州還付に関する露清条約を結び、ロシア軍は満州からの撤兵を始めたものの、ロシア将軍エヴゲーニイ・アレクセーエフは撤兵に反対していた。1903年1月、アレクサンドル・ベゾブラーゾフがロシア全権大使として極東に到着し、アレクセーエフはベゾブラーゾフの支持を得て撤兵を中断した。また、ロシア将軍アレクセイ・クロパトキンの軍隊は「森林伐採事業を支援するため」として鴨緑江方面に進出した[7]。クロバトキン将軍は自著の中で、「(ロシアの)対満鮮策を妨害するヨーロッパ人を排斥する」ことを目的とする「北朝鮮に防御陣地を作って兵卒五千名と砲その他をもった分隊を配置する計画」をアバーザ提督より渡されたと記している。帝政ロシアのウラジーミル・ラムスドルフ(英語版)とセルゲイ・ヴィッテは、「ベゾブラーゾフ一派のこの行動は日露戦争を誘致する」としてベゾブラーゾフ一派と対立した。ベゾブラーゾフと対立していたセルゲイ・ヴィッテの回顧録によれば、ベゾブラーゾフは以前より以下のように述べていたという[8]。ベゾブラゾフの説くところは斯うであった。『我々は断じて朝鮮を放棄するわけには行かない。しかし我々は関東州占領後、日本との急激な衝突を避けるためにやむなく朝鮮を放棄したのである。少なくとも公式には一度朝鮮を放棄したのである。だから今となっては、かくれた非公式の手段で朝鮮に勢力を扶植するよりほかに途はない。それには全たく個人的な性質をおびた各種の利権を獲得しなければならない。そして実際は政府が指導者となって、組織的に漸次に朝鮮を占領するのである』同年3月26日、ロシア帝国は三大臣が「譲歩政策」の方針に署名した。同年4月、木商会社の代表「クンスブルグ」が鴨緑江山林事業の開始を韓国皇帝に通告した。同年5月7日、ロシア帝国は会議で『「譲歩政策」は結局我々を戦争に導びく。』『ロシアの経済的利益は、その利益を保護するため極東において武装の必要を生じた。』とする覚書を承認し、ロシア帝国はこの新方針に基づき以下の決議を行った。鴨緑江の朝鮮側の河岸で主権を握ること。このため該事業に軍略的色彩をかくさず且つ朝鮮政府よりの利権獲得を具体化せざること。二、鴨緑江の支那側沿岸にて利権を獲得せずに主権を握ること。三、該事業に外人を参加せしめざること。四、外人をして満州に干渉せしめざること。上記の決議に基づき、帝政ロシアは龍岩浦事件を起こした。帝政ロシアは、その冒険主義的な新方針により英・米・独・日を敵に回すこととなった。韓国政府は龍川郡守にロシア人の退去を命じ、ロシア公使に抗議文を送ったものの、同年7月20日に韓国はロシアと龍岩浦租借条約を締結することとなった。この韓露間の龍岩浦租借条約に対し日本は、「(1896年の)森林合同契約は一民間企業に対して権利を与えたものであって、ロシア政府自ら経営するのは契約外であり、韓国の主権を侵害するものであったため、これを是認するのは韓国政府にとって甚しい不利を来す」「龍岩浦をロシア人専用の開港場および居留地にすれば、他国人は均霑の利益を得られない (ため、各国との通商条約内にある最恵国待遇の規定に反する)」「龍岩浦において外国人を露国会社の裁判に附するのは、各国との通商条約の規定に反する」として韓国政府に対し条約の即時破棄を要請した。1904年2月、日露戦争が勃発し、同月、日韓間で日韓議定書が結ばれた。
2024年01月04日
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1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の李山海(朝鮮語版)を中心とした北人と穏健派の禹性伝(朝鮮語版)を中心にした南人の2つの派閥に分裂した。 5、「開戦への対立」「日英同盟」ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア・フランス・ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満州への進出を押し進めていった。1900年(明治33年)、ロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる。日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満州から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。開戦に至るまでの議論・世論日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになる。同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた(龍岩浦事件)。 龍岩浦事件 (りゅうがんぽじけん) とは、1903年5月に帝政ロシアが朝鮮の鴨緑江の森林伐採権を悪用して、ロシア軍を鴨緑江河口の龍岩浦(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道龍川郡)に駐屯せしめ、軍事基地を設置しようとした事件である。龍巌浦事件とも言う。この事件は日露戦争の引き金となった。
2024年01月04日
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1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。明に対しては徹底的な親明政策を執り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示したが、対馬国守護大名の宗貞盛の奮戦により大損害を被り、撤退した。次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。世祖の中央集権第6代の端宗(第5代文宗の 息子)は壱壱歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(朝鮮語版)(世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。勲旧派と士林派の対立と士禍世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むが、成宗の治世(1469年 – 1494年)では政治的には一応の安定を見た。成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(朝鮮語版)(1431年 – 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・成希顔(朝鮮語版)・柳順汀(朝鮮語版)らのクーデター中宗反正により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。
2024年01月04日
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日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。李成桂による建国13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし(威化島回軍)、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(禑王(禑は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになるから、軍を翻した行為こそ、君臣父子の名分をわきまえたものであり、朝鮮を統治した聖人箕子の正統をつぐ資格があると正当化した[21]。親明政策高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と昌王は殺された。家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとする。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、事大とは君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だと、嘆いている。仏教弾圧朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と 共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。
2024年01月04日
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国名高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名[4]であったが[5]、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われて。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する。国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが[8]、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった。日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」あるいは「李朝」を用いる。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。代区分国内政治における区分朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 – 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 – 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 – 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 – 1910年)の区分に分けられる。対外関係における区分一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 – 1637年)と、清の朝貢国であった時代(1637年 – 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 – 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。第1の区分の末期には、文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。19世紀末期になると、清以外にも欧米列強や日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。
2024年01月04日
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しかし幕府の財政状況の悪化を考慮した6代将軍義教によって再開され、1549年、13代将軍義輝の代まで続けられた。室町幕府の得た利益、即ち明の支出は多大であり、これには倭寇鎮圧の見返りという性格があったと見られている。なお、日本では懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。南朝・北朝および室町幕府いずれも天皇は冊封を受けておらず、前者は天皇の尊厳を傷付けることなく、国内政治に利用し得る「日本国王」の称号を得るため、後者は、実権を握り、天皇に代替する立場としての「日本国王」になるためという思惑が、それぞれ指摘される。明滅亡後、清代には冊封体制の範囲は北アジア・東南アジアなどに大きく広がり、インド以東ではムガル帝国と鎖国体制下の日本のみが冊封体制に入らなかった。また冊封の称号の違いについて、身内と目される国は『王』、化外の国は『国王』と使い分けられている。皇帝からの書状についても違いがあり、北元・吐蕃には「皇帝問」、その他には「皇帝勅」としている。冊封体制の終焉大きく広がった冊封体制の崩壊が始まるのは、19世紀、西欧列強の進出によってである。清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった。 ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。 当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。 4、「李王朝」李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。王朝名としては李朝(りちょう)。日本語の「李氏朝鮮」は「李家支配下の朝鮮」の意。北朝鮮では朝鮮封建王朝と呼ばれ、日本と北朝鮮以外の全ての国では大韓民国と同じ「朝鮮王朝」とも呼ばれる。李朝は歴史の順番によって高麗の次の王朝にあたり、朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもあった。1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった[2]。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、近代国家としての形式的な独立や実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。
2024年01月04日
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宣統2年(1910年) - 四川総督趙爾豊、蜀軍を率いて1905年から四川の西隣に隣接するチベット諸侯(土司)たちの征服に着手していたのがついにラサまで到達。チベット政府ガンデンポタンとラサを占領した蜀軍の双方から情報収集したネパール王、蜀軍に援軍を申し出る。同年夏、皇帝名義で、ネパール王の恭順な姿勢はほめるべきものだが、援軍は不要とコメント。宣統3年(1911年) - ネパールの貢期は「五年一貢」であるが、次の朝貢使がチベットから四川省経由で中国入りを目指した。その途上、清朝からの独立を目指すチベット軍と、このとき四川からラサまでのルートを制圧していた蜀軍(四川省)との戦闘が勃発、巻き込まれたネパールの朝貢使が立ち往生している間に、1912年に清朝は滅亡した。冊封体制をめぐる学説と批判定義冊封体制とは東アジアの国際外交関係であり、宗主国側の行為である「冊封」の語を用いて「冊封体制」というものを生じた。「東アジア世界」を特徴付けるものは漢高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方、高句麗は585年からは隋と対立する陳に対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対する朝貢を怠り、さらには隋領内に侵入する事件まで起きる。これに激怒した文帝は高句麗に対する遠征軍を起こす。この軍は苦戦し、撤退を余儀なくされるが、高句麗が謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢を怠り、文帝に代わって煬帝が立った後の607年には突厥と結んで、隋に対抗する姿勢を見せた。煬帝はこれに対して二百万と号する大遠征軍(隋の高句麗遠征)を起こすが、三度とも失敗に終わり、隋滅亡の主要因となった。他方、中国王朝との接触を行っていなかった倭国は、隋に対して遣隋使を送るようになる。この際煬帝に対して「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國)で始まる国書を送ったことが知られているが、これは、当時台頭し始めた俀國なりの大国意識に基づく、冊封体制への忌避感の表明と見られている。また、唐使の高表仁が倭国王(中国の史書のうち『旧唐書』は舒明天皇5年1月26日(633年)「與王子爭禮 不宣朝命而還」とし王子とする)と礼を争い帰国するなどした。ただしこの時期の倭国もまた東アジア世界の一員であり、「冊封体制の外部」にあったとしても、主に政治制度の確立という点で中国王朝からの影響は大きかった。隋が滅び、唐が成立すると、624年に朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で淵蓋蘇文による権力奪取が起きるとこれを理由として2代太宗は高句麗遠征(唐の高句麗出兵)を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。その過程で唐と新羅との関係が密になり(唐・新羅の同盟)、660年、唐は百済と戦争中の新羅からの救援要請に応じて兵を送り、百済を滅ぼした。その後も連合は維持され、668年には高句麗を滅ぼした。更に百済遺民の要請を受けて出兵した倭との白村江の戦いにも勝利する。しかし新羅は二国の旧領が唐の郡県支配に置かれることを不快に思い、これに攻撃(唐・新羅戦争)を仕掛けて朝鮮半島を統一するに至った。唐は当然これに怒り、新羅の王号を剥奪し討伐軍を送るが失敗に終わり、最終的に新羅が謝罪して入朝するという形式をとることで和解し、拡大した支配領域を維持したまま再び新羅は冊封を受ける。以後、新羅と唐は冊封体制の中でも最も強固な関係となる。一方、高句麗の遺民たちは北に逃れ、震国を建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄を渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海と呼ばれるようになり、唐の冊封体制に入った。また白村江の戦いに敗れた倭国では、大宝2年(702年)第8次以降の遣唐使により唐との関係修復を試み、これを朝貢の形式で行っているが冊封を受けることはなかった。唐の隆盛とともに冊封体制も安定期を迎え、冊封体制を通じて各国に唐文化が伝えられた。各国では唐の制度を模した律令制が採り入れられた。冊封体制の崩壊と再生冊封体制の安定も唐の衰退と共に揺らぎを見せ、唐滅亡によって冊封体制のみならず東アジア世界が崩壊することになる。五代十国時代の後、中国を統一した宋(北宋・南宋)では遼や金などに対して対等更に臣下としての礼を取らなければならなくなり、冊封体制の中心とは到底なりえなかった。その一方で宋代・元代を通じて中国を中心とした交易網が飛躍的に発展しており、これが以後の冊封体制の再生に大きな役割を果たす。洪武帝が元を北に追いやり(北元)、明が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。朝鮮半島に於いては高麗に代わって李氏朝鮮が興り、明の冊封を受けて朝鮮王とされた。この頃の日本では、朝廷が分裂した南北朝時代という特殊な状況もあり、南朝の征西将軍であった懐良親王が、明からの倭寇鎮圧の要請を機に、北朝に対し自勢力の正統性を主張するため日本国王として冊封を受けている。また後に北朝室町幕府3代将軍の足利義満も、明との貿易による利益を得るため、同じく日本国王として冊封を受けている。明は当初、義満の資格について天皇の陪臣に過ぎないとして通行を拒んだものの、国情を脅かす倭冦の鎮圧を、権力基盤を確立した義満に期待して妥協し、最終的には、位階上天皇との封建的関係性が明白な准三后を称する義満と関係を結んだ。以降日明間で勘合貿易が行われることとなったが、これは朝貢の形式をとっていたため、日本の体面を汚すとして4代将軍義持によって中断される。
2024年01月04日
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字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている。そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる。「東アジア世界」の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮・日本・ベトナムであり、「東アジア世界」の中心にかけられる「網」が冊封体制であるとしている。このように当初は「東アジア世界」を説明するためのものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異なる時代にまで一定の言及をしている。冊封体制の始まり周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交阯郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。冊封体制の完成倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権のお墨付きを得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けた。新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。冊封体制の全盛二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。
2024年01月04日
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ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。冊封が行われる中国側の理由には、華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部は礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想は、それら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることができるという思想である。つまり夷狄である周辺国は、冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。 また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。冊封の最も早い事例としては前漢初期に南越国・衛氏朝鮮がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、清代にはインド以東の国ではムガル帝国と鎖国体制下の日本を除いて冊封を受けていた。「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の外交の周〜漢と近隣諸国・諸民族朝鮮半島朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、中国系商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。秦代は遼東郡の保護下にあった。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢王朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、朝鮮王国が成立した。南越王国中国南部から東南アジアにいたる交易ルートは、戦国時代、楚が掌握していたが、秦にいたり、百越とよばれた原住民を征服し、桂林郡(広西)、南海郡(広東)、象郡(ベトナム北部)の三郡を置いた。秦末の混乱期、南海郡の司令官趙佗はこの三郡を押さえて独立政権を樹立し、南越王と自称した。漢は建国初期、趙佗の政権を承認し、「南越王」の称号も認めた。三国〜南北朝と近隣諸国・諸民族隋・唐と近隣諸国・諸民族唐の帝国秩序貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)とを定期的に中央政府に納入する内地諸州(10道315州県)王朝に服属した蕃夷が貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)を不定期に納入し、長官を世襲する羈縻諸州(800州府)突厥・契丹・奚・渤海・回鶻・堅昆・突騎施王朝から冊封を受けて中華秩序に組み込まれ貢献を定期的に行う蕃夷靺鞨・吐蕃・室韋・新羅・南詔・吐火羅諸国貢物のみを不定期に朝貢する遠夷(入蕃)日本・林邑・扶南宋・元・明と近隣諸国・諸民族琉球の中山察度王が明に朝貢、次いで南山王、北山王も朝貢し、朝貢貿易が始まる。清と近隣諸国・諸民族琉球王国は日本による琉球処分、琉球藩設置に際しても清に朝貢を続けるが最終的に尚泰王が追放され王国は滅亡、沖縄県設置に至り朝貢関係は廃止となる。史上最後の朝貢使はネパールから清朝に派遣されたもので、光緒32年(1906年) - 6月1日付で「稟」を送り、「朝貢品」を携えて「陽布」(カトマンズ)を発足したことを清朝に通知。光緒33年(1907年) - ラサに駐紮している清蔵大臣聯豫は正月16日付で北京に報告。同年、ネパールの朝貢使、北京入り。光緒34年(1908年) - 8月16日、北京を出立。宣統元年(1909年) - 7月27日、チベットに到着。同年12月11日、チベットを発って帰国。
2024年01月04日
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また、ロシアは、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃した。アメリカ公使ホレイス・ニューン・アレンは「韓国でのロシアの干は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している。しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した。1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。財政問題及び通貨問題1896年7月、英国人の税関長ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公使シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件が起きた。通貨においては、韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。近代化と日本の保護国へ1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革(朝鮮語版)を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となった。日韓併合と併合後1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した。 大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年(明治43年)の詔勅 (前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された。 3、「冊封体制」(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)又册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「冊封国」の側は「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)などを行った。「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した。「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された[3]。冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。 したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。
2024年01月04日
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国号の大韓は、高句麗、百済、新羅の三国(三韓)統一を達する名称として出た。原文奉天承運皇帝詔曰:「朕惟檀、箕以來、疆土分張、各據一隅、互相爭雄、及高麗時、呑竝馬韓、辰韓、弁韓、是謂統合三韓。及我太祖龍興之初、輿圖以外、拓地益廣。(以下省略)」現代韓国語による大意「奉天承運皇帝(高宗)は次のように詔が下された。「朕が思うに、壇君、箕子以来(朝鮮は)領土が分離され各各(の勢力)が各地を占めては互いに覇権を争ってきたが、高麗の時代に馬韓、辰韓、弁韓のいわゆる三韓を統合した。そして我の太祖(李成桂)が王位に就いた初期のうちに(従来の)国土以外にも領土を広げた・・以下省略」高宗実録によると、清からの冊封体制離脱に当たり、朝鮮王宮では明から下賜された国号「朝鮮」を変更する提案が家臣から高宗になされた。その際、高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、かつ「韓」を含む名称が歴代の統一朝鮮王朝の国号として使われていなかった。そのため、国号としての格が従来より上がる漢字一文字の「韓」に、修飾語の「大」を加えた「大韓」が新しい国号に定められたという。原文上曰: "我邦乃三韓之地, 而國初受命, 統合爲一。 今定有天下之號曰‘大韓’, 未爲不可。 (省略)。"舜澤曰: "自三代以來, 有天下之號, 未有承襲于前者矣。 而朝鮮乃箕子舊封之號也, 堂堂帝國, 不宜因仍其號矣。 且大韓之號, 稽之帝統之國, 無襲舊者矣。 聖旨切當, 無敢贊辭矣。"現代韓国語による大意お上(高宗)が言うには「我が国は三韓の地であるが、国の初め(李成桂の李朝樹立時)に天命を受けて一つの国に統合された。今、国号を‘大韓’に定めては為らぬことは無い。...」舜澤(沈舜澤(朝鮮語版))が言うには「三代以来、国号は以前のものを踏襲した例がありません。ところで、朝鮮は箕子がかつて(周の武王から)封じられた時の称号であるので、堂々とした皇帝の国として、その称号(朝鮮)をそのまま使うのは正しくありません。‘大韓’の称号は、皇帝の系統を継いでいる国で考えますと、古き者から踏襲したものではありません。聖上(高宗)の仰られることは極めて当然のことで、あえて付け加えるような言葉はございません。」また、国名を「帝国」としたのは、冊封からの離脱に際し、国王の称号を「皇帝」へと変更したからである。小島毅は、「清という皇帝がいる国の庇護下にある王国だったのが、日本が後押しして、清から自立した帝国になり、大韓帝国を正式な国号とします」と評している[9]。李氏朝鮮時代と日清戦争朝鮮国(李氏朝鮮)は、1637年に清と三田渡の盟約を結んで冊封国となっていた。その後、19世紀後半に列強の帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年(明治8年)の江華島事件を契機として翌1876年(明治9年)に日本と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮はアメリカやフランスなどの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。このような情勢を受け、朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立する。そうした中で1882年(明治15年)、両派の暗闘から壬午事変が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の角逐の場であったため、日本は権益を確立するため朝鮮国に対する清朝の影響を排除する必要があった。そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に日本が清国に勝利、下関条約を締結した。この条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させた。冊封体制からの離脱(君臣関係の離脱)朝鮮国王高宗は1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。その後、清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。諸外国の動き[編集]李氏朝鮮では、親露派のが誕生しており、日本とロシアは小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定を結んでいた。1897年9月、ロシア公使がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルへと代わり、同年10月に彼が英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件が起きた。
2024年01月04日
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ロシア帝国の動機ロシア帝国は満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。関東州(かんとうしゅう)は、日露戦争の終結後、その講和条約であるポーツマス条約に基づき、中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借権がロシアから日本に移行した地域。1905年12月の大日本帝国と清朝の間で締結された満州善後条約から1945年8月に日本が敗戦するまでの期間、日本はこの租借地で植民地経営をおこなっていた。現在の中華人民共和国 遼寧省 大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。現在の大連市のほぼ南半分、普蘭店区の普蘭店湾から東へ皮口まで引いた線の南側に相当する(この線の北側は清国で、のちに中華民国・満洲国・中華人民共和国に帰属)。南満州鉄道附属地については南満州鉄道を参照のこと。「関東」とは中国語で山海関東側、つまり満州(満洲)全体を指す。ロシア租借地時代日清戦争で日本が清朝から割譲された領土のうち、遼東半島についてはロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で返還することとなった。1898年にロシアは遼東半島の一部を25年の期限で清朝から租借した。ロシアはここに旅順軍港を築港し、日露戦争では遼東半島は日本とロシアの激戦地となった。日本租借地時代1905年9月戦後のロシア帝国との講和条約であるポーツマス条約で、清朝からの租借地の権利を日本が引き継ぐことになった。同年12月22日には、清朝との間で満州善後条約(中日会議東三省事宜条約)を締結し、この地域における権益をロシアから日本へ移譲した。ロシア時代のダルニーは「大連」と改称された。この租借地の名称は「関東州」であり、当初は軍政が布かれていたが、1906年9月1日に民政に移管され、関東都督府が設置された。その後、関東都督府は1919年4月に関東軍が分離し関東庁に改組、1934年12月 には関東局とその下部機関である関東州庁に改組した。清朝崩壊後、関東州の租借地は1915年に中華民国との条約により租借期限を壱九九七年まで延長された。1932年、関東軍が東三省全土を占拠し満洲国を建てると、租借権の設定は満洲国から受けている形式に改定された。1937年には、満鉄附属地の行政権を満洲国に返還した。1945年のソ連対日参戦で関東州はソ連軍に占領されて関東軍は降伏し、関東局・関東州庁は瓦解した。大連はロシア時代から自由港であったため、関東州成立後も自由港として存続し、活発な貿易が行われた。大連で荷揚げした中国国内向きの貨物を再度関東州と中国との間で検査するのは非効率であるとして、大連には中国(後に満洲国)の税関が設置されていた。しかし、実際には抜け道が多かったため密貿易の拠点のひとつになっていたといわれている。通貨関東州は日本の通貨(日本統治時代の朝鮮における発券銀行である朝鮮銀行券・朝鮮圓(円)、日本銀行の円との等価交換が保証されていた)が流通していた。なお、この通貨は内地では使用できなかった。1945年日本の敗戦により中華民国に接収された。 「戦争の性格」日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦であったとしている[7]。関与国・勢力日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはマッカーサー元帥の父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく、東洋特有の事情として一蹴された。やがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。「朝鮮半島をめぐる日露対立」大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。大韓帝国(だいかんていこく、朝鮮語:〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、(テハングク))、韓国(かんこく、(ハングク))とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。
2024年01月04日
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ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は権益地を有する北満洲に侵功、占領し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。1931年に日本(大日本帝国)は自ら起した柳条湖事件を契機に、権益地が含まれる南満州のみならず満洲全域を侵攻、占領し、翌1932年に満洲国を建国した(満州事変)。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。これは清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は退位させられる際に中華民国から満州に独自の国家を設立することを希望していたことが背景にあった。満洲国は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満州に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満州で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満州国建国以前の満州では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満州国は統一した通貨を発行して、満州各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張り巡らせ、奥地など満州の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率低かった対策に学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中国民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満州国地域における日本人以外の人口は満州国建国以前よりも増加した。背景にはインフラがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満州国成立した1932年には約3000万だった終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている。ただし 、人口増加率で見ると満州建国前と大差はない。1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満州を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが、後に毛沢東に粛清された。満州地域は満州国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東、華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満州国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった。中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。大連市(だいれん-し/ダーリェン-し、中国語:大连市、英語:旧名:ダルニー市、)は、中華人民共和国遼寧省の南部に位置する地級市(地区クラスの市)。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。大連市総人口は約600万人超(市区人口は211万、都市的地域の人口は325万人)であり、遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市である。大連市はアジア大陸の東海岸に位置し、中国東北遼東半島の最南端にあり、東経120度58分〜123度31分、北緯38度43分〜40度10分にまたがり、この緯度付近には日本の仙台市、アメリカ合衆国のサンフランシスコ市、ワシントンD.C.、ギリシャのアテネ市がある。東は黄海、西は渤海、南は山東半島と海を隔てて向かい合い、北は広大な東北平野に隣り合っている。大連は東北、華北、華東地域が世界各地とつながる海上の門口であり、最も重要な港、貿易、工業、観光都市である。 大日本帝国の動機大日本帝国はロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、日本帝国の安全保障を堅持することを主目的とした。開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している。朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。
2024年01月04日
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ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名として「満族」と呼称しており、「満洲」の語を使うことを禁止している。また、かつては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルビンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。満洲略史歴史的にこの地域は、古くは遼河文明が栄え、その後は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上周代に周に属する燕が勢力を伸ばし、後に遼東郡、遼西郡などが置かれていたが余りの寒さのために人はほとんど居住せず、不毛の地であった。周王朝の時代から粛慎が遊牧しており、時代と共に挹婁、勿吉、靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。満州の南部には濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)など、 モンゴル系とされる鮮卑の前燕、後燕などや契丹の遼(916年から1125年)なども存在した。 チベット系の氐族の立てた前秦(351年から394年)の支配が一部及んだ事もある。12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族が金を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の明に倒され、一時は明の支配下となり、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族への冊封による間接統治に改められた。17世紀に女真族から名称変更した満州族が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天、吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。 当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し,漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。 近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)。ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1860年の満州(遼寧、吉林、黒龍江の東三省)の人口は320~370万人ほどと見積もられており、それが、1908年には1583万あるいは1734万人、1931年の満州事変前には3000万人、1945年の満州国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加している。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増したとも言われるが、清朝崩壊以前から人口増加率に大きな違いは無い。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、袁世凱の勢力圏であった満州も中華民国政府の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満州でも張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。
2024年01月04日
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「日露戦争の起因」(にちろせんそう)は、1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を全面的に承認されたほか、ロシア領であった樺太の南半分を割譲され、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を移譲された。 同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も譲渡された。なお、賠償金については一切の要求を認められなかった。戦争目的と動機満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地が含まれている。なお、漢字表記は「満洲」が正式である。「満洲」という言葉は、もともとは17世紀にはおもに民族名を指していたが、地域名に転用されたものである。19世紀以降の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。満洲の範囲日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。広義の満洲としては、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーオダ盟)、通遼市(旧ジェリム盟)、フルンボイル市(旧フルンボイル盟)、ヒンガン盟が含まれることが多い。また、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を外満洲と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後のアイグン条約(1858年),北京条約(1860年)によりロシアに割譲された。外満洲を含めた面積は、約1,550,000 ㎞2に及ぶ。満洲は本来、地名ではなく民族名である。漢字表記では五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれもさんずいの字が選ばれた。民族名の「マンジュ」満洲民族)は、のちに清朝の太祖と諡されるヌルハチの支配領域をマンジュ・グルン(満洲国)と呼び、清の創始者であるホンタイジが、1634年に元の玉璽を入手した際にそれまでの呼称ジュシェン族(女真,女直)が「属民」を意味したため、これを禁止し、この呼称に統一したという。由来については諸説あり、一般には民族信仰であった仏教のマンジュシリ(文殊菩薩。曼殊、満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提出されている。「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の満洲民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」と呼ばれるようになったからである。これに対応して漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)、「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。
2024年01月04日
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「歴史の回想・日露戦争」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、 「日露戦争の起因」・・・・・・・・・・・・43、 「冊風体制」・・・・・・・・・・・・・・・284、 「李王朝」・・・・・・・・・・・・・・・・435、 「開戦への対立」・・・・・・・・・・・・・626、 「開戦旅順口攻撃」・・・・・・・・・・・・767、 「黄海海戦」・・・・・・・・・・・・・・・948、 「旅順要塞攻略」・・・・・・・・・・・・・1029、 「奉天会戦」・・・・・・・・・・・・・・・10710、「日本海海戦」・・・・・・・・・・・・・・11711、講和勧告と樺太攻略」・・・・・・・・・・・15312、「ポーツマス条約・日露講和会議」・・・・・15613、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・188 1、「はじめに」日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア鎮圧後もこの地域に居座り、事実上の占拠支配下に置いた。日本では、この状態に挑戦支配権の大きな危機感を募らせ「満韓交換論」でロシア一時的妥協を行い衝突を回避しようとする主張も現れたが、1902年日英同盟を結んでロシアとの全面対決の方向次第に強めた。特に1903年以降、ロシアが満州から撤兵を履行しなかったので、それを求めて強硬な外交交渉を開始したが、日露双方が互いに軍事力を強化、誇示しつつ行った交渉は決裂した。「戦争の経過」戦争は、1904年2月8日の日本陸軍の仁川上陸と旅順港外での日本艦隊のロシア艦隊の攻撃と翌日の仁川沖でのロシア艦隊との戦闘に始まり、宣戦布告は2月10日に行われた。第一軍が朝鮮北部からロシア撃退して満州地域に攻め込むととともに、5月には第2軍が遼東半島に上陸、さらに第4軍が第1軍と第2軍が遼東半島に上陸した。この間、海軍は旅順港の閉塞作戦を遂行して日本海の制海権確保を図ったが目的を達しえず、旅順要塞を陸上から攻撃するために第3軍が送られた。第1・2・4軍は呼応そて北上し、8,9月の遼陽会戦に勝利し、以降、沙河、黒溝台などで苦戦しまがら、奉天へと軍を進めた。他方、第3軍の旅順攻撃は強固なロシア軍の近代要塞に膨大な犠牲を強いられたが、ようやく1905年1月に占拠し、ロシア軍の旅順艦隊を壊滅させた。3月に陸軍は総力を上げて奉天会戦を行い、かろうじて占領したが、戦線は鉄嶺付近に移った。この時、日本の武器・兵力、その他は補給力は限界に達していた。ロシアはバルチック艦隊を1904年10月に本国から送り出し、ウラジオストクの艦隊と合流させて日本海の制海権の奪還に目指しなたが、5月27,28日の対馬海域での回線で日本の連合艦隊に敗北した。「講和」これ以上は戦争の継続は国力の限界を超えていたので、日本は奉天会戦と日本海海戦とを契機にアメリカに講和の斡旋を強く依頼した。他方、ロシアも1905年1月の革命運動の高揚依頼、その政治体制は大きく揺らいでいたし、欧米列強も帝政ロシアの崩壊を恐れて講和へと動いた。その結果、I、ローズベルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれ、9月5日に日露講和平和条約が結ばれた。
2024年01月04日
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もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。 そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。 奥州再仕置軍の進撃 九戸以外にも、大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。 白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。 8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。 9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。 九戸城の戦い 九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。 城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。 九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた(仕置軍・南部側説)。 そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた(当初から和睦と見せかけた蒲生氏・浅野氏の計略説も在り)。 九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。 浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、助命の約束は反故にされる形で九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた(小田原攻めの際の北条家家臣の忍城の例も多少関連が在ったとも)。 その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。 政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。 この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した。信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。 この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養女である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。 また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。なお九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。 一方で所領を安堵された安東実季は、後年になって奥羽仕置を振り返り「百年程前の出羽・陸奥両国では、庄内・最上・南部・秋田・仙北・津軽に分立し、各領主は仲が悪く闘争に明け暮れていた。Ø しかし豊臣秀吉により天下が統一され互いに和潤の状態になった」とし、仕置によって東北の戦乱状態が解消された事を評価している。 了
2023年09月24日
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上杉景勝とその重臣色部長真もまた、8月10日頃には大谷吉継とともに庄内地方(山形県沿岸部)の仕置にあたっていたことより、17日頃には上浦郡にあったと推察される。吉継は横手盆地東部の横手城に入り、景勝は盆地西端の大森城に入った。 検地は、棹入れを前提とする指出検地の方法をとり、その基準は「出羽国検地条々」によった。 指出は、仙北地方の慣例にしたがって苅高(稲の収穫量を単位としてはかった村高)とし、それを一定の換算率により永楽銭の貫高に改め、年貢は銭納とした。しかし、最終的には石高に換算しなおし、他の地方との統一が図られた[1]。諸史料によれば、8月末ころまでには概ね仙北・秋田地域の仕置がすすめられ、実際の検地は9月に実施されたと考えられる。 その間、仙北地方においては武具狩りがおこなわれ、城の破却は35か城にのぼった。 一揆の発生 9月下旬ころ、検地もひとまず終了し、上杉景勝がそろそろ越後へ帰国しようかという段になって仙北地方と由利地方に検地反対の一揆が勃発した[1]。仙北では諸給人・百姓らが仕置に反対しての蜂起であった。 一揆勢力は各所に放火し、増田(横手市増田町)・山田(湯沢市山田)・川連(湯沢市川連町)の古城に2万4,000名余が籠もった。 一揆発生の報せを聞いた景勝は、増田を攻撃したのに対し、一揆勢は山田・川連の両城から援兵を出し、防戦に努めた。 上杉勢は2,000余の軍兵を川連城付近まで極秘裏に進軍させ、陣貝を合図にして一挙にせめて一揆勢を破った。 これにより、川連・山田に籠城した一揆衆が降伏し、一揆はいったん平定された。 一揆勃発の背景としては、上述の豊臣政権の土地政策に対し、在地領主の先行き不安感、検地によって一地一作人となって土地支配権や年貢徴収権が失われることへの不満、隠田・焼畑などの摘発にともなって、これらの耕地が課税の対象となったことに対する反感なども考えられる。 10月、横手盆地中部の六郷(仙北郡美郷町六郷)において、大谷吉継配下の者が検地の縄を入れた際、百姓たちがしきりに訴訟し、検地を妨害するので大谷衆はその場で3名を見せしめのため斬殺し、5名を捕縛した。 それに対し、怒りと怨嗟にかられて蜂起した農民が吉継の家臣を殺害、その数は50名から60名に達した。これを契機に一揆が再燃、仙北各地で蜂起した。 10月14日、大谷勢を大森にのこし、上杉景勝およびその旗本1万2,000騎が出動して、鍋倉四郎(現在の横手市平鹿町地区を本拠とする)以下2,000余名の籠もる増田の館を攻撃した。 一揆衆は上浦郡各地から集まって上杉軍を包囲したが、上杉勢は浅舞、柳田(いずれも横手市)、川連、山田など一揆の拠点を攻略し、一揆衆の首1,580を討ち取ったといわれる。 上杉方も討死200余、負傷500余の被害が生じる激しい戦闘となった。 このとき、中郡の本堂氏は大谷に従軍して一揆討伐に加わり、由利衆も一揆討伐に加勢した。押収した武器はことごとく大森城に納められた。増田館を請け取ったのは上杉家臣藤田信吉であり、一揆衆からの人質は翌年3月まで色部長真・佐藤甚助の駐在する大森城に留め置かれた。 仙北一揆は鎮圧されたが、その結果は小野寺氏にとっては大きな災厄となった。一揆平定後、上杉勢は引き上げたが、色部長真が大森城に残留し、仙北地方をきびしい統制下においた。 北出羽の諸領主が、あらためて恩給地として知行宛行(ちぎょうあてがい)の朱印状を交付されたのは、この年の12月以降のことであった。 小野寺氏領であった上浦郡4万7,400石のうち3分の1にあたる1万5,800石ははじめ代官領に編入されていたが、『秋田家文書』所収の秋田実季「覚書」によれば、湯沢・増田周辺(上浦郡南部)が最上義光にあたえられた[1]。それを受けて文禄2年(1593年)、最上勢が湯沢・増田の地に進駐し、湯沢城に楯岡満茂を入れて同地を差配させている。 大谷吉継は、奥羽検地と仙北一揆平定の功績により、それまで越前国府中12万石を領していた木村重茲の知行分を秀吉から拝領したとされるが、重茲は文禄元年(1592年)に山城国淀18万石に加増移封され、その代わりに青木一矩が越前府中城の城主となっているので、吉継にあたえられた府中知行分はあくまでもその一部とみられる。 上杉景勝は、小田原参陣の功などにより出羽庄内地方を加増されたが、庄内およびその背後の仙北・由利の検地はその支配を固めるものとなった。 なお、上杉家臣の色部長真は仙北にあったとき保呂羽山波宇志別神社(横手市大森町八沢木)の保呂羽権現を尊崇し、居城の越後岩船郡平林(新潟県村上市)に勧請して千眼寺保呂羽堂を建立したといわれる。 この年の一揆は、仙北・由利のみならず、庄内藤島一揆や葛西大崎一揆さらには和賀・稗貫一揆など、奥羽中央部のほぼ全域に波及する形勢をみせた。特に葛西大崎一揆は規模が大きく、秀吉配下の新領主木村吉清・木村清久の父子は、このため秀吉より減封を余儀なくされている。 10月20日、越後への帰途、上杉景勝は仙北・由利から庄内に入ろうとしたところを三崎山(にかほ市、現在の秋田・山形県境に立地)で一揆に要撃された。庄内一揆の鎮圧には11月10日頃までかかっている。 このような、続発する一揆は戦国奥羽の最後の大反撃と評されるが、とくに仙北の場合は本領主が残存するなかで広がっている点に特徴があり、その点からすれば、外来者である豊臣政権とその政策に対する抵抗であった。 そしてまた、「なでぎり」も辞さずとした奥羽の一揆に対する豊臣政権の強硬な姿勢は、紀州攻めにおける紀州一揆に対する姿勢と共通するものがあり、秀吉は、いわば中世的な「一揆」体制を完全に封じ込めることによって天下一統を果たしたととらえることが可能なのである。 九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。 南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた第24代当主・南部晴政が、天正10年(1582年)没すると南部家内は後継者問題で分裂する。
2023年09月24日
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また、仕置によりそれまで南部氏内部で南部信直とほぼ対等な立場にあった九戸政実が、信直の家来として扱われたことに不満を抱いて信直と武力衝突を起こした(九戸政実の乱)。豊臣政権はこうした一揆・紛争を鎮圧するため、翌天正19年(1591年)に大規模な軍勢を派遣せざるを得なくなったのである。 和賀・稗貫一揆(わが・ひえぬきいっき)は、天正18年(1590年)、奥州仕置に反発した陸奥国の国人領主が仕置軍(豊臣政権)に対して起こした反乱のことである。慶長の和賀氏の一揆については「岩崎一揆」を参照のこと。 豊臣秀吉は天正18年、小田原征伐の軍を起こした。関東、奥羽の領主、大名たちは続々と小田原に参陣し秀吉軍に加わったが、小田原に参陣しなかった結城義親、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)らは、その後の奥州仕置によって所領没収、城地追放の処分となった。 稗貫氏が城地を追放された後の鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)には、秀吉の奉行である浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。 浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。 一揆の発生 検地に対して不満を抱いた大崎氏、葛西氏、胆沢郡の柏山氏ら没落大名の旧臣、農民らが、奥州仕置軍が帰るや10月に一揆を結んで各地で蜂起し、木村吉清ら秀吉の派遣武将を討ち、勢いを振るった。 この時、和賀郡や稗貫郡でもこの騒動(葛西大崎一揆)に協調して和賀義忠、稗貫広忠らが蜂起した。 一揆勢は、10月23日(または10月28日)和賀氏の元居城であった二子城(現在の岩手県北上市二子町)の浅野長政代官・後藤半七を急襲して攻略し、和賀氏の旧領を奪回した。 その勢いで鳥谷ヶ崎城を2千余名が包囲した。一揆勢2千は少し前まで現役の士卒で土民の一揆よりはるかに戦慣れしており、それに対し鳥谷ヶ崎城代官・浅野重吉の城兵はわずか100騎と足軽150人ほどしかいなかったが、城が天然の要害の地にありなかなか落城しなかった。 秀吉から北奥に領地を安堵されていた南部信直は不来方城(後の盛岡城)に軍勢を集結させて、自らが500騎ほど引き連れて鳥谷ヶ崎城へ救援に駆け付け11月7日城を包囲している一揆勢に攻撃をしかけ囲みを解いた。 南部軍は鳥谷ヶ崎に一旦入城したが積雪期が近づき、冬に城を護り通すのは困難であると判断、城を捨てて浅野重吉らを連れ南部氏居城の三戸城に撤退した。 結果、鳥谷ヶ崎城含め稗貫氏の旧領も一揆勢の手に渡った。 こうして豊臣政権が奥羽に派遣した郡代、代官は悉く、旧領主の軍勢によって駆逐された。 再仕置軍の侵攻 これら大規模な一揆と翌天正19年(1591年)南部領内で火を噴いた九戸政実の乱の鎮圧のため、秀吉は天正19年6月20日号令をかけて奥州再仕置軍を編成した。 白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は奥羽に侵攻し、蒲生氏郷や浅野長政と合流して一揆を平定しながら北進した。和賀氏らも頑強に抵抗したものの、再仕置軍に鎮圧された。和賀義忠は逃走の途中で土民に殺害されたという。 その後この領地は南部信直に与えられ、和賀氏、稗貫氏は没落していった。 これを恨んだ和賀忠親(和賀義忠の子)は、のちに再び一揆を起こすこととなる(岩崎一揆)。 南部信直は重臣の北秀愛を和賀稗貫8千石の城代とし、北秀愛は鳥谷ヶ崎城を花巻城と改名している。 仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年)9月下旬ころ出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡)で発生した、豊臣政権に対する検地反対一揆である。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は奥羽地方の諸豪族に対し小田原征伐への参陣を命令した。 出羽国北部では、仙北三郡北部(北浦郡)の角館城城主戸沢盛安がこれにいち早く呼応し、仙北三郡南部(上浦郡)の小野寺義道とその一族西馬音内茂道、中央東部(中郡)の本堂城の城主本堂忠親、沿岸部の秋田氏や由利衆なども参陣したが、秀吉はかれらに朱印状をあたえて所領を安堵した。 秀吉は新しく服属することとなった地域に対しては、大名・小名の旧領をそのまま安堵するのではなく、原則的には、いったん太閤蔵入地としたうえで改めて恩給するようなかたちを採用したが、このような政策を実施していくためにはまず検地をおこなう必要があった(太閤検地)。 後北条氏を降して関東地方を平定したのち、陸奥国会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、天正18年8月10日、奥羽全域の総検地を命令した。8月12日、秀吉は黒川において検地施行に関する4か条の朱印状を発給しており、それによれば「一人も残し置かず、なでぎりに申し付くべく候」「一郷も二郷も、悉くなでぎり仕るべく候」など検地に対する反対には苛烈な処分を認める強硬な姿勢を示した。 ただ実際には、それに先だつ7月11日の時点で、越後国の大名上杉景勝に対しては、秀吉家臣大谷吉継を軍監として庄内・最上・由利・仙北の出羽各地の検地を、また、加賀国の前田利家らに対しては秋田・津軽・南部の北奥羽各地の検地を、それぞれ命じていた。 仙北地方の検地は『上杉景勝年譜』によれば、8月中旬以降には着手されており、戸沢光盛宛の木村重茲・大谷吉継・前田利家連署状によれば、この3名は8月17日ころには小野寺氏領周辺、上浦郡方面にいたものと考えられる。
2023年09月24日
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清久は寺池城に赴いて父と対策を協議したが、名生城に戻る途中に立ち寄った佐沼城で一揆勢に囲まれてしまい、救援に赴いた吉清もろとも佐沼城に閉じ込められてしまった。 その結果一揆勢は寺池城・名生城をも木村父子から奪取し、木村領は「一揆もち」(『伊達家文書』)と称されるまでの状態となった。 帰京の途にあった浅野長吉は、滞在していた白河城でこの知らせを受けると二本松城へと引き返し、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。10月26日に氏郷と政宗は伊達領の黒川郡下草城にて会談し、11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることで合意した。 ところが鎮圧を始める予定の前日の15日に、氏郷の陣に政宗家臣・須田伯耆が一揆を扇動したのは政宗であると訴え出て、さらには政宗の祐筆であった曾根四郎助が、政宗が一揆に与えた密書を持参した。 また政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空砲であるとの報告もあり、16日に氏郷は単独で一揆勢に落とされていた名生城を占領し、籠城して一揆及び政宗に備えるとともに、秀吉に使者を遣わして情勢を報告し、氏郷からの報告を受けた秀吉は石田三成を派遣して対策を命じた。 片や政宗も単独での行動を開始し、高清水城・宮沢城を攻略、24日には佐沼城を落として木村親子を救出し、両名を氏郷の居る名生城へ送り届けた。 氏郷は木村親子救出後も政宗への備えを解かず、名生城に籠城して越年することを決め、帰路の安全確保のため政宗に人質を要求し、政宗は一門の重臣伊達成実・国分盛重の両名を提出した。 一方その頃、旧領主・大崎義隆は上洛して秀吉に小田原への不参陣を謝罪し旧領への復帰を願い出ており、12月7日に秀吉は義隆に対して検地終了後に旧領の三分の一を宛い大崎氏の復帰を許す旨の朱印状を下していた。 政宗喚問~鎮圧(天正19年) 明けて天正19年(1591年)1月1日、政宗からの人質を預かった氏郷は、名生城を出て会津へと帰還した。 10日には相馬領に三成が到着し、政宗に対して秀吉からの上洛命令を伝え、氏郷・木村親子らを伴って帰京した。 2月4日、上洛した政宗に対する査問が行われると、政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張した。 秀吉はこの主張を認め、政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次・徳川家康にも出陣を命じた。 5月に米沢へと戻った政宗は、6月14日に再び出陣して本格的に一揆の掃討に取りかかる。 しかし、一揆勢の烈しい抵抗に遭い浜田景隆・佐藤為信ら重臣が相次いで討ち死にを遂げるなどしたが、7月4日に寺池城が陥落すると残った一揆勢も降伏して、ようやく一揆は終息する。 8月14日、政宗は桃生郡須江山に一揆の主立った者らを呼び寄せると、泉田重光・屋代景頼に命じて皆殺しにし12月7日、秋保氏一族の馬場定重・頼重父子に命じて小野城主・長江勝景(葛西晴信・相馬義胤からみて義兄)を殺害させた。 領主・木村吉清は一揆発生の責任を問われて改易となり、吉清は氏郷を頼ってその客将となった。木村領の葛西・大崎13郡は政宗に与えられることになったため、前年に大崎義隆へ下された朱印状は反故となり、大崎氏の大名復帰は叶わなかった。 9月23日、秀吉から葛西・大崎13郡の検地と城砦改修とを命じられていた家康は、仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。 政宗は岩手沢城を岩出山城と改名し、慶長6年(1601年)に青葉城を築いて移るまで居城とした。 政宗による一揆への関与 政宗が一揆に書状を送るなどして煽動したという疑惑については、政宗の関与を否定するむきも有るが(氏郷の策略・須田伯耆の誣告・一揆衆による宣伝工作等)、政宗自身が一揆を煽動していたとの見解が最有力である。 奥州仕置で惣無事令後に獲得した会津ほか8郡を没収された政宗が、失地回復の手段として、一揆を起こさせて新領主の木村を失脚させ、一揆鎮圧の功績を以て葛西・大崎旧領を獲得しようと企んだ、というのが大体の筋書きで、須江山における一揆謀殺も、証拠湮滅のために行われたと見られている。 秀吉もまた、政宗の申し開きを表向きは認めたものの、明らかに懲罰と見受けられる措置(下記参照)をとっていることから、政宗の煽動が一揆発生の原因と判断したと考えられる。 戦後処理・影響 秀吉は政宗に葛西・大崎13郡30万石を政宗に与えたが、その替わりに本来の所領12郡余72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)44万石を没収して氏郷に与えた。 これにより政宗の所領は19郡余58万石となった。 政宗に新たに与えられた葛西・大崎13郡は一揆による荒廃が甚だしく、加えて200年余もの間伊達氏の所領であった伊達・信夫・長井の3郡を喪失したことにより、実際に被った経済的損失は減封分14万石を大きく上回るものであった。なお、葛西・大崎13郡が復興を遂げて仙台藩が実高100万石とも称されるようになるには、寛永3年(1626年)の川村重吉による北上川改修工事の完成を待たねばならない。 同時に転封に伴う伊達家中の知行再編が行われたが、減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、困窮した家臣団の不満が高まった。 転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。 また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり、集権化は大幅な後退を余儀なくされた。 9「国人領地の一揆」Ø これに呼応するかのように、旧和賀領と旧稗貫領で和賀・稗貫一揆、出羽仙北地方で仙北一揆、出羽庄内地方でも藤島一揆が発生した。
2023年09月24日
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