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北家
と山部王(後の
桓武天皇
)を推す
藤原百川
ら
式家
との間で意見の対立があり、他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立 →
他戸立太子が行われた事と式家への政権移行後にその廃太子が行われた事には矛盾は無いと考えられている。
称徳天皇首謀説
中西説に対して、 細井浩志 は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に “ 不正の暴露 ” などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。
細井は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲3年10月の詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調している事から、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。
また細井は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。
『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。
宇佐八幡宮側の内部事情説
また、道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もある。
山上伊豆母 によれば、 天平感宝 元年( 749 年 )に宇佐八幡宮から祢宜の外従五位下・ 大神社女 と主神司従八位下・ 大神田麻呂 が建設中の 東大寺盧舎那仏像 を支援すると言う神託を奉じて平城京を訪れた。
これによって宇佐八幡宮は 封戸 と「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ 朝臣 の 姓 と従四位下と外従五位下の 官位 が授けられた。ところが、 天平勝宝 6年( 754 年 )にはこの時の両名が 薬師寺 の 行信 と組んで 厭魅 を行ったとして位階と姓の剥奪と 流刑 に処せられた。
これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と 律令制 ・ 鎮護国家 が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと考えられる。翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされている。これも朝廷からの宇佐八幡宮への圧迫の結果であると見られる。
このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの前代の 男巫 的要素を併せ持った道鏡が政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたと本説は解釈する。
後世への影響
神託事件にゆかりのある 大阪府 八尾市 (道鏡の出身地)・ 岡山県 和気町 (和気清麻呂の出身地)・ 大分県 宇佐市 (宇佐神宮の所在地)は相互に 姉妹都市 となっている。
4「多賀城赴任はあったのか?」
宝亀2年( 771 年 )閏3月1日に 佐伯美濃 が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は 鎮守府 のある 多賀城 に赴任していたものと思われる。
多賀城 (たかのき / たがじょう、多賀柵)は、現在の 宮城県 多賀城市 にあった日本の古代 城柵 。国の 特別史跡 に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
奈良時代 から 平安時代 に 陸奥 国府 や 鎮守府 が置かれ、 11 世紀 中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。
なお、周辺はかつて「 潟 の世界」が想定されていたが、1,900~1,500yrBP . にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。
奈良 平城京 の 律令 政府が 蝦夷 を支配するため、軍事拠点として 松島丘陵 の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。
平時は陸奥国を治める 国府 (役所)として機能した。創建は 神亀 元年(724)、 按察使 大野東人 が築城したとされる。 8 世紀 初めから 11 世紀 半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は 724 年 – 762 年 、第2期は 762 年 – 780 年 で 天平宝字 6年(762) 藤原恵美朝狩 が改修してから 宝亀 11年(780) 伊治公砦麻呂 の反乱で焼失するまで、第3期は 780 年 – 869 年 で焼失の復興から 貞観 11年(869年)の大地震( 貞観地震 )による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波 被災まで、第4期は 869 年 – 11 世紀 半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。
なお、多賀城の「 城 」としての記載は『 日本三代実録 』中の 貞観津波 が「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の日本三代実録では「修理府」、 藤原佐世 『古今集註孝経』の 寛平 6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほか、「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。
多賀城創建以前は、仙台 郡山遺跡 (現在の 仙台市 太白区 )が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、 政庁 や食料を貯蔵するための倉などが置かれ、附属寺院が設けられていた。
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