温故知新 0
徐福 0
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〇復権と晩年頼之の養子頼元は赦免運動を行い、康応元年(南朝の元中6年、1389年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免された。そして、明徳2年(1391年)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、義満から上洛命令を受けた頼之が入京を果たした。義満は頼之の管領復帰を望んでいたが、頼之は既に出家していたため、代わりに頼元を管領とし、頼之はこれを補佐することとなった。幕府役職にない頼之を幕政に参画させるため、義満は将軍の私的な会合に近かった御前沙汰に頼之を加える形式で開催し、重要事項の審議を行った。この先例は、後に義満が嫡男義持に将軍職を譲って出家した後、自ら幕政を主宰する場合にも用いられた。明徳元年(1390年)、備後が乱れるにおよび、頼之は備後守護になってこれを平定した。翌年の明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦った後、再び京都に召喚されて幕政に関与したが、明徳3年(1392年)にはいって風邪が重篤となり3月に死去した。享年64。葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。江戸時代の逸話集『雑々拾遺』によれば幼くして聡明さを見せ、『細川三将略伝』によれば従兄の細川清氏と力比べをしたなどの幼少時の逸話や、父頼春に伴われ夢窓疎石の法話を聞き感化されたという。· 10歳のころ、「主人の御用で使いにゆく途中で親の仇に出会ったらどうするか」が話題になったとき、たちどころに「親の仇を持つものはなによりも仇討ちを遂げるべきであり、そのあいだは主に仕えるべきではない」と述べたという]。· 文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩『海南行』も有名である。· また、軍事作法について記した書状も存在している。幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。· 管領を辞任して出家すると言い義満に引き止められたり、評議の場で故意に義満の怒りを買い将軍の権威を高めようとしたとされる。· 京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。· 『細川家譜』等に拠れば、明徳の乱に従軍した折、路傍の寺院で供え物を拝借したという。細川家ではこれを吉例とし、代々元旦には饗膳を供えたという。· 江戸時代に徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた阿部忠秋は、「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」「細川頼之以来の執権」と評される。· 勝海舟は、日本の経済を発展させた歴史上の人物として、豊臣秀吉などとともに頼之を挙げている。家系父は細川頼春、母は黒沢禅尼。妻は持明院保世の娘で室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっており、義満と同年代の実子がいたが早世したとも考えられる。弟には、細川氏嫡流(京兆家)となった養子頼元の他、阿波守護家の祖詮春、和泉上守護家の祖頼有、備中守護家の祖満之がいる。養子は、頼元の他に、和泉下守護家の祖基之(満之の子)がいる。
2023年07月27日
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〇康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。l 背景[編集]l 室町幕府2代将軍足利義詮の頃には守護同士が対立し、執事の細川清氏などは失脚した後に南朝に属して京都を奪還するなど幕政は不安定な状態にあった。清氏失脚後には斯波高経、義将父子が政権を持つが、佐々木道誉との対立などから貞治の変で失脚する。l 義詮死去の直前には四国、中国地方で南朝側と戦っていた細川頼之が道誉など反斯波派の支持を得て管領に就任する。頼之は義詮の子で幼少の3代将軍足利義満を補佐し、半済令の試行(応安大法)や南朝との交渉、九州探題今川了俊の任命・九州派遣などの政策を実施するが、旧仏教勢力の比叡山と新興禅宗の南禅寺との対立においては南禅寺派を支持していたため比叡山と対立し、比叡山の強訴に屈服、南禅寺の住職春屋妙葩が隠棲して抗議するなど宗教勢力とも対立していた。l 天授4年/永和4年(1378年)、紀伊での南朝方の武将橋本正督の活動に対して、頼之は弟で養子の頼元を総大将として軍勢を派遣するが、諸将が命令に従わず鎮圧に失敗。l 成長した義満は反頼之派の山名義理・氏清兄弟を派遣し、大和での軍事活動にも復帰した斯波義将や土岐頼康ら反頼之派を派遣した。l 天授3年/永和3年(1377年)には義将の所領内の騒動が頼之の領地であった太田荘(現富山県富山市)に飛び火すると、頼之と斯波派、土岐氏、山名氏らの抗争が表面化し、頼之派から斯波派に転じる守護も現れた。l 反頼之派の蜂起l 天授5年/康暦元年(1379年)に入ると、反頼之派は義満に対して頼之の排斥・討伐を要請し、近江で反頼之派に転じた佐々木高秀が挙兵した。中央進出への好機と見た鎌倉公方足利氏満がこれに呼応して軍事行動を起こそうとし、3月8日には関東管領上杉憲春が諌死する事件も起こる。l それでも氏満は上杉憲方に出兵を命じるが、かねてから関東管領の地位を狙っていた憲方は伊豆まで兵を進めると密かに義満と交渉して関東管領任命の御内書を得ると直ちに鎌倉に帰還し、4月30日には氏満に迫って管領就任を認めさせた。l 一方、京都では4月13日に義満が義将らの圧力で高秀や頼康らを赦免すると、義将ら反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を迫った。l そのため義満は閏4月14日に頼之を罷免、頼之は自邸を焼いて一族を連れて領国の四国へ落ち、その途上で出家した。l 頼之の失脚後、後任の管領には義将が就任し、幕府人事が斯波派に塗り替えられ、春屋妙葩も復帰した。l その後、斯波派と伊予の河野氏らの圧力で義満は頼之追討令を下すが、河野通堯が頼之に返り討ちに遭ったため追討は中止、翌年には頼之を赦免している。そして、元中8年/明徳2年(1391年)に頼之の弟の頼元を管領に任命し、頼之自身もその後見として幕政の中心に復帰させていることから、この政変は頼之からの自立を望んだ義満の提唱によって起こされたものと考えられる。l また斯波氏・細川氏両派の抗争を利用し、相互に牽制させて守護大名の強大化を防ぐ狙いがあったとも考えられる。l 一方、政変後、鎌倉公方の足利氏満は義満からの問責を受けたため、謝罪の使者として古先印元を派遣して許しを請い、5月2日に赦免を受けている。l だが、翌年3月には氏満の幼少時代からの師であった義堂周信を義満が強引に京都に召し出し、義満の意向を受けた上杉憲方は氏満と周信を脅してこれを受け入れさせる有様であったl 。これ以後、氏満は将軍家や関東管領に対抗するために自らの勢力拡大を意図して小山氏の乱などを引き起こして関東・奥羽の有力大名を抑圧するようになり、永享の乱・享徳の乱まで続く鎌倉(古河)公方と足利将軍家及び関東管領上杉氏との対立の発端となった。l 義満はこの政変の後、将軍直轄の軍事力である奉公衆を整備し、元中6年/康応元年(1389年)に土岐頼康の甥康行を追討(土岐康行の乱)、元中8年/明徳2年の明徳の乱においては山名氏を討伐、応永2年(1395年)に九州探題今川了俊を罷免、応永6年(1399年)の応永の乱においては大内義弘を追討して有力守護を弱体化させ、幕府の支配体制を固めていく。
2023年07月27日
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〇九州探題の解任と晩年l 応永2年(1395年)7月、了俊に上京の命が下り、同年8月に上京した。ところが、上京した了俊は九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として渋川満頼が任命された。l 了俊は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事となった。l 後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。l 応永6年(1399年)には義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。甥の泰範は、了俊が自ら所望して守護職を得たものと勘違いして恨みを抱いており、了俊が大内と通じていると義満に讒言し了俊と仲秋の守護職を奪い取った。l 失意の了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。応永の乱平定後の翌応永7年(1400年)には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。しl かし、了俊は憲定や守護職を奪った泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、応永9年(1402年)には上洛し、政界に関与しないことを条件に赦免された。l 晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行なった。享年に関しては諸説あり87歳から96歳で没した。l なお『今川家譜』などには応永27年(1420年)8月(『寛政重修諸家譜』では同年8月28日)に96歳で没したとあるが、正徹の紀行『なぐさめ草』には応永25年(1418年)の時点で既に了俊が物故していたことが記されている。墓所は静岡県袋井市の海蔵寺に所在する。 応安3年(南朝の建徳元年、1370年)8月には、北朝後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、後光厳の兄の崇光上皇が実子の栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。頼之は事態収拾は聖断によるべきと深入りを避けつつも天皇側を支持するが、上皇側は義詮の正室で義満の継母渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じた。さらに比叡山など伝統的仏教勢力と五山の南禅寺など新興禅宗勢力の抗争から政治問題が発生した。天龍寺住職春屋妙葩の発議で進められていた南禅寺の楼門建造を幕府は助成していたが、南禅寺と園城寺の抗争から南禅寺僧定山祖禅が著作において天台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めた。山門側が神輿を奉じて入京すると、頼之は内裏を警護させ強訴を阻止し、朝廷の要請もあり定山祖禅は流罪に処したが楼門造営は続行させた。山門側は尚も破却を求めて強訴を続け、朝廷や諸将も山門を恐れたため遂に屈し、7月には楼門撤去を決定する。五山側では春屋妙葩が住職を辞するなど幕府の裁定に抗議し、五山側とは溝が生じることとなった。〇康暦の政変頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川了俊の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった。しかし、康暦元年(南朝の天授5年、1379年)に頼之の養子頼元を総大将とする紀伊南朝征討が失敗する。義満がこれに代えて反頼之派の山名氏清らを征討に向かわせ、さらに斯波氏や土岐頼康に兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極高秀らも参加して将軍邸を包囲した。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。義満は斯波派の頼之討伐の要望を抑えたが、政変を知った伊予の河野通堯は幕府に帰服すると斯波派と結んで討伐の御書を受け、頼之に対抗した。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化を進めていたことから、その力で通堯や細川正氏(清氏の遺児)らを破り、永徳元年(南朝の弘和元年、1381年)には通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めていった。
2023年07月27日
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◯九州平定l 3代将軍足利義満時代の建徳元年/応安3年(1370年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。l 観応の擾乱後に南朝方の菊池武光が征西大将軍懐良親王を奉じた征西府、尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬等が分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。l 本国・遠江で準備をした後、10月に京都を出発、建徳2年/応安4年(1371年)5月に安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら国人衆を招集している。l 同年12月に九州へ渡り、豊前へ至った。l 了俊は周防・長門の大内弘世、義弘父子等の協力も得て新興の国人勢力と連絡し、阿蘇惟村の協力を得て豊後に嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませ、弟の仲秋は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。l 文中元年/応安5年(1372年)6月には懐良親王、菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。l この後戦局は肥後へ移り、文中3年/応安7年(1374年)7月、水島まで出兵した。天授元年/永和元年水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を呼びかけた。l 三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。l この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。l 九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣している。l また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。水島の変から2年後の天授3年/永和3年(1377年)には菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。l 戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い)。一方、この頃から了俊は、右手の中風に悩まされるようになった。l 蜷打の戦い以降、了俊は再び南朝方に対する攻勢を強め、弘和元年/永徳元年(1381年)には武朝を本拠地隈部城から追放している。l 南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対しては5男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年10月に帰順させている。l 元中8年/明徳2年(1391年)に八代城の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させ、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。l 但し、氏久と伊久は天授3年にも1度降伏しているが、これは満範が国一揆を率いて日向都之城主北郷義久を攻める直前だったためである。l 都之城の包囲が解かれた後に氏久は国人一揆の調略を行い、了俊の元へ参陣して来なかったので、天授4年/永和4年(1378年)3月に両者は決裂。満範に都之城の再包囲を命じたが、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月1日と3月3日に志布志城から後詰に来た氏久に敗れて都之城から撤退した(蓑原の合戦)。l 南北朝合一後も氏久の息子元久と対立、了俊は応永元年(1394年)に4男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった。l 外交では懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍足利義満の手に委ねた。また、高麗の使者鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、元中9年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。l これにより、大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求めるなどの善隣政策を推進した。
2023年07月27日
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〇管領時代貞治5年(1366年)に執事(管領)斯波義将とその父高経が失脚する(貞治の変)。頼之は幕府に召還され、佐々木道誉や赤松氏ら反斯波派の支持や鎌倉公方足利基氏の推挙もあって、死去直前の義詮の命により管領に就任した。頼之は当時11歳の新将軍義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わった。内政面では倹約令など法令の制定、応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行する。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制した。南朝勢力に対しては、応安2年(1369年)に楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し、翌年には今川貞世(了俊)を九州探題として派遣して懐良親王ら九州の南軍を駆逐させ、平定を推し進めた。 14、「九州探題」(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。l 鎌倉時代の永仁元年(1293年)に鎮西探題が設置されたが、後にそれを踏襲する形で、室町時代に九州の統治のため設置された。室町幕府は京都に政権を置いたため、鎌倉に設置された鎌倉公方が関東を中心に、奥州探題が東北地方を統治する。l 九州探題は九州統治を担当し、李氏朝鮮との外交なども行った。後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が京都奪還に失敗して九州へ落ち延び、少弐氏と共に多々良浜の戦いで宮方の菊池氏らを破り、東上した際に一色範氏を大宰府に残したのが始まりである。l だが、九州においては島津氏、大友氏などは従わず、少弐氏とも対立する。後醍醐天皇の皇子である懐良親王が菊池氏に迎えられ、大宰府を奪還して九州に南朝勢力を築いた。斯波氏経、渋川義行が任じられた後、3代将軍足利義満時代の応安3年/建徳元年(1370年)に管領の細川頼之により今川貞世(了俊)が任命され、南朝勢力の掃討、御家人の守護被官化に務める。l 了俊は朝鮮からの使者も迎え、倭寇討伐の要請などを受け幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に関わる。l 渋川氏の世襲[編集]l 康暦元年/天授5年(1379年)の康暦の政変で了俊を支援した頼之が失脚し、九州で独自の勢力を持っていた了俊は応永2年(1395年)に解任され、後任には頼之の政敵であった斯波義将の女婿・渋川満頼(義行の子)が就任し、以後は渋川氏代々が世襲する。l しかし少弐氏との戦いで渋川氏は衰退、中国地方の大内氏の後援なしに存続できなくなるまでになった。そして渋川義長が少弐氏に通じたため、天文3年(1534年)に大内氏に討ち取られ、以後、九州探題の衰微は決定的となり、最終的に天文24年に最後の探題領であった筑前姪浜が大内氏によって接収されて、事実上その役目を終えた。l 戦国時代にも形式的な幕府の職として存在し、渋川氏の滅亡後には大友宗麟らが任命された。江戸時代には同様の役割を担う西国郡代が設置された。 l 「今川 貞世」(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。l 法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。l 畿内での活動l 幼少時は不明だが、父に従っていた記録は残り、12、13歳頃から和歌を学ぶ。足利将軍家内部の対立から室町幕府初代将軍足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父と共に将軍側に属する。直義派や南朝勢力と戦い、正平10年/文和4年(1355年)には細川清氏と共に東寺合戦で戦う(『難太平記』)。l 室町幕府執事となった清氏が正平16年/延文6年(1361年)に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、正平22年/貞治6年(1367年)に2代将軍足利義詮が死去すると出家。
2023年07月27日
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〇13、「観応の擾乱から四国平定まで」三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)に生まれる。史料上の初見は観応の擾乱における阿波での軍事行動となる。初代将軍尊氏に従う父のもとにあったが、観応元年(南朝の正平5年、1350年)に阿波の国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。阿波在陣中の観応3年(1352年)に南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、将軍継嗣義詮に属し、讃岐の軍勢を率いる弟の頼有らとともに男山合戦に参加して南軍を駆逐した。その間に阿波の南軍が再び活発になると、頼之は父の阿波守護を継承して領国経営に従事し、小笠原氏や伊予の河野氏、国人勢力らとの戦いの中、次第に四国における領国支配体制を固める。このころ南朝と通じて山名時氏ら反幕府勢力を結集させ、中国地方から伊予にかけて勢力を及ぼし、京都を脅かしていた足利直冬(義詮の異母兄)に対し、義詮が征討の軍を起こした際は、阿波の頼之は伊予への発向が命じられ、文和3年(正平9年、1354年)には河野通盛に代わって伊予の守護に補任された。義詮軍は翌年進発したが、越前守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還されたため、頼之は引き返した義詮とともに京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わった。南軍駆逐後は従兄の清氏とともに三宝院賢俊を訪ねるなど京都に滞在し、右馬頭に任じられた。l 神南の戦い(こうないのたたかい)は、南北朝時代の観応の擾乱の余波で発生した合戦の一つ。正平10年/文和4年(1355年)2月、摂津国神南(大阪府高槻市神内)において、足利尊氏方の足利義詮の軍勢と、足利直冬方の山名時氏の軍勢との間で行われた合戦である。l 概要l 正平6年/観応2年(1351年)観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。l 直義の養子足利直冬は、直義死後は中国地方に勢力を広げていたが、正平9年/文和3年(1354年)山名時氏、桃井直常、斯波高経ら旧直義派武将、南朝方の楠木正儀と共に上京作戦を開始した。l 足利尊氏は京都での戦いを不利と判断し、後光厳天皇を伴って近江国武佐寺へ退去。翌正平10年/文和4年(1355年)1月に足利直冬は桃井、斯波ら北国勢を伴って入京した。l 足利義詮は当初播磨国で戦っていたが、山崎の西、神南の峰に布陣。これに対し直冬方の山名時氏・山名師義らが攻撃を行なったが、佐々木道誉、赤松則祐らの奮戦により山名勢は敗退した。l その後、直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、尊氏・義詮が率いる軍により敗退。3月、直冬方は京都から撤退した。 翌延文元年(正平11年、1356年)に再び直冬征討軍が起こされると、頼之は備後守護に補任され、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する大将を命じられた。この時頼之は、闕所処分権を将軍尊氏に拒否されたため、就任を固辞し阿波へ下国しようとしたが、従兄清氏の説得で帰京したという。頼之は、阿波の南軍に対しては有力被官新開氏を守護代として備えつつ、自らは中国地方へ発向して備前・備中・備後・安芸・伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与などの軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として中国大将、地方統轄者としては中国管領と呼ばれており、長門探題として中国地方に勢力を広げた直冬に対抗させる幕府の意図があったとも考えられている。頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定しているころ、中央では将軍尊氏が死去して義詮が2代将軍となり、頼之の従兄清氏が執事に任命された。だが、貞治元年(正平17年、1362年)に清氏が斯波氏や佐々木道誉らとの政争に敗れ南朝側に奔って阿波へ下ったことから、頼之は義詮から清氏討伐を命じられた。7月に讃岐へ移った清氏勢を、頼之は宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)の兵を率いて白峰城で破った。清氏はこの戦いで敗死した。清氏討伐中、再び活発化した直冬勢力だったが、その有力な支持勢力だった大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰順していたため、やがて鎮圧された。時氏の帰順工作には頼之も関わっていたとも言われる。頼之は、中国地方の安定により中国管領を解かれたものの、本国の阿波に加えて讃岐・土佐の守護を兼ね、さらに伊予の河野通朝を追討して四国を平定した。
2023年07月27日
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〇直冬蜂起近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。もともと九州では尊氏が北畠顕家に敗れて落ち延び、その後上京した際に一色範氏(道猷)を九州探題として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子懐良親王を征西大将軍として派遣し、懐良親王は菊池武光を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種のパラノイアのようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった少弐頼尚は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。こうして正平5年/貞和6年(1350年)に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。しかしながら正平7年/観応3年(1352年)に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。 この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に長門と石見では勢力を保っていた。正平9年/文和3年(1354年)5月には、桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。正平10年/文和4年(1355年)1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし神南の戦いで主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年(1363年)には幕府に帰順している。なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/延文3年(1358年)に戦病死している。
2023年07月27日
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破談l 南朝方はこの和議を受けて増長する。後醍醐天皇の側近北畠親房を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。l まず閏2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍を解き、これに替えて宗良親王を任じる。l すると新田義興・脇屋義治・北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した(武蔵野合戦)。l 一方閏2月19日には北畠親房の指揮下、楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝方が京都に進軍、七条大宮付近で義詮・細川顕氏らの軍勢と戦い、翌日には義詮を近江に駆逐して入京した。24日には准后宣下を蒙った北畠親房が17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移した。l 後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へと移して京をうかがった。l 義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの与力も得て布陣を整え、3月15日には京へ押し返してこれを奪還、さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し兵糧攻めにした。l この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。l こうした事態を受けて尊氏と義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。l 北朝の再擁立l 尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。京都は奪回したものの、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然として南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。l 最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。l 事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の生母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。l 広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が8月17日践祚、9月25日後光厳天皇として即位した。9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い、文和元年とした。l 良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。l 何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に後白河法皇が後鳥羽天皇を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。l 南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで女院を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。l だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。 12、「時氏離反と道誉の伸長」南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/文和2年(1353年)には道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は出雲に侵攻し道誉の部将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。この中で道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。
2023年07月18日
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11、「足利直冬の台頭」l この年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。l 尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。l 翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。l 10月28日、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。しかし、この直前の10月26日に直義は京都を出奔していた。l 直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。これが擾乱の始まりである。l 関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。l 直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。l 高一族の滅亡l 正平6年/観応2年(1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。l 2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。l 南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。l この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。l 2月20日、和議は成立するも、果して2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。 [編集]l 高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。l 高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。l 一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。l 南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。l 3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。l 8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。l 正平一統l 成立l 京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。l 尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。l 南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。l また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。l 尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。l 一方尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(観応3年、1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。l その後浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
2023年07月16日
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直義の排除l そうした中、貞和5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の上杉重能や畠山直宗、禅僧妙吉らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてこれを糾弾、その執事職を免じることを尊氏に迫りこれを成し遂げた。l そして直義はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出す。『太平記』にはこの時、直義方による師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されているが、直義はさらに光厳上皇に師直追討の院宣の渙発を奏請してまで師直を討とうとしている。l 同年8月12日、師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰と合流して、直義を一気に追い落とす逆クーデターを仕掛け成功する。意表を衝かれた直義は翌13日に尊氏の屋敷に逃げ込み、これで危機を脱するかに見えた。l しかし師直方の軍勢は、そこが将軍御所であろうとまったく意に介さずこれを包囲した上で、君側の奸臣として上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求した。直義にとってこの両名を失うことは両腕をもがれるようなものなのでこれを許さなかったが、それならばと師直は包囲網を固めて兵糧攻めの構えを見せる。l すったもんだの末に禅僧夢窓疎石が仲介に奔走し、ここに重能・直宗を配流とすること、そして直義は出家して幕政からは退くことの2条件のもとに師直は包囲を解くことに同意、ここに創業間もない足利幕府の屋台骨を揺るがせた政変もひとまず終息に向かった。l 直義に替わって幕府の政務統括者となったのは、鎌倉を治めていた尊氏の嫡男・義詮だった。そしてこの義詮の帰洛と入れ替わりに鎌倉に下向したのは、新たに初代鎌倉公方として関東の統治を任された義詮の弟・基氏だった。l 基氏には実務者として上杉憲顕をつけ、これを関東執事に還任してその輔佐にあたらせた。しかし憲顕は他でもない重能の兄である。師直はこれを警戒して、関東執事の定員を2名に増員した上で高師冬をこれに還任して目付にした。l この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。l いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。l 同年11月に義詮が入京。12月8日、直義は出家して恵源と号した。ところが早くもその月の内に上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった[9]。l 擾乱の勃発
2023年07月16日
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10、「細川 頼之」(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府管領。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の3代将軍義満の管領として幕政を主導、半済令の施行や南朝との和睦などを行った。義満が長じた後、康暦の政変で失脚したが、その後赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元とその子孫が斯波氏・畠山氏とともに三管領として幕政を担った。頼元以後代々右京大夫(唐名右京兆)に任ぜられたことから、この系統は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる。l 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。l この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。l 足利直義派と高師直派の対立l 初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。l なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。l 訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。l 直義は鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。l これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。l それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった。l この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国や細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。l 更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。l ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。l 特に延元3年/暦応元年(1338年)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている。l 南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4年/暦応2年(1339年)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。l しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2年/暦応4年(1341年)に塩冶高貞が直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国3年/康永元年(1342年)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。l こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった。l 正平2年/貞和3年(1347年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。l 代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。l この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。l 政権成立後のこの頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み、ほぼ隠居状態にあった。
2023年07月16日
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10、「細川 頼之」(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府管領。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の3代将軍義満の管領として幕政を主導、半済令の施行や南朝との和睦などを行った。義満が長じた後、康暦の政変で失脚したが、その後赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元とその子孫が斯波氏・畠山氏とともに三管領として幕政を担った。頼元以後代々右京大夫(唐名右京兆)に任ぜられたことから、この系統は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる。l 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。l この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。l 足利直義派と高師直派の対立l 初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。l なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。l 訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。l 直義は鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。l これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。l それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった。l この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国や細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。l 更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。l ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。l 特に延元3年/暦応元年(1338年)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている。l 南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4年/暦応2年(1339年)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。l しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2年/暦応4年(1341年)に塩冶高貞が直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国3年/康永元年(1342年)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。l こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった。l 正平2年/貞和3年(1347年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。l 代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。l この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。l 政権成立後のこの頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み、ほぼ隠居状態にあった。
2023年07月16日
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応永15年(1408年)の義満の死後は子の義重を管領職に推し、宿老として4代将軍足利義持を補佐する形で重用された。義満の後継には公家社会などから義持の弟・足利義嗣が支持されたが、義将はそれを事前に押さえている。さらに朝廷からの義満に対しての太上天皇追贈を先例のない事を理由に辞退させ、日明貿易(勘合貿易)の停止を勧めるなど、義満の死後にその政策を批判した動きをとる。更に応永16年(1409年)6月7日には、出家の身で4度目(5度目)の管領に就任(『教言卿記』他)し、8月1日には11歳の孫の義淳に管領を譲ることで斯波氏による幕政支配を目指したものの、それから程なく応永17年(1410年)5月7日没。享年61。法名は法苑寺殿道将雪渓。人々はその死を「当世武門の重人也。一家の愁傷か」と悼んだと伝えられる(『柳原家記録』)。京都における義将の本邸が室町通の勘解由小路にあったため、勘解由小路殿(かでのこうじどの)と通称された。彼以降の斯波家当主は代々左兵衛督、または左兵衛佐に任官したため、同家が武衛(兵衛府の唐名)家の名称で呼ばれるようになると、それによって勘解由小路邸も武衛陣と呼称された。現在の京都においても旧武衛邸付近一帯(平安女学院周辺)を武衛陣町と呼び、その名を今に伝えている。また、武家家訓『竹馬抄』の著者(別人説あり)としても知られる。義将の死後、孫の義淳は管領を解任され、甥の満種(義種の子)が加賀守護を解任されるなど徐々に斯波氏の勢威は下降していく。人物・逸話義将は高潔な人格に寛大な性格を持ち、正道を誤る事無く、雅にも通じていたとされ、以下のような逸話も残る。· 将軍義満がある時人を罰して、その人物の邸宅までも取り壊そうとした。これを知った義将が「昔、鹿ケ谷の陰謀の首謀者である俊寛・平康頼・藤原成経らが罰された時、その者達の邸宅は壊されることはありませんでした。· 罪があるなら人を罰すれば良いだけのことで、その者の邸宅を取り壊すというのは(天下の将軍の行いとしては)いかがなものでしょうか」と諌めたとされる。· 越中にて桃井一族と戦いを繰り広げていた時の事、ある大雪の夜に義将は月光に照らされた雪を肴に酒を嗜み、その身に迫る寒さを忘れたという。· 後に越中を平定して都へ帰還するとこの時の事を思い返し、雪が降るたびに酒を温めこれを鑑賞した。またこれにちなみ自身を「雪渓」と号した。· 和歌を好んだ義将は「源氏物語」研究の第一人者であった四辻善成に師事していた。義将は旧皇族(四辻宮家)にも関わらず閑職に甘んじていた師を後援し、やがて善成は左大臣にまで昇進した。· しかし増長した善成が皇籍復帰と親王宣下まで望むようになると、それまで後援していた義将は態度を一転させ、「そのような事は無益なことです。お止めください」と師を諌め、さっさと善成を出家させてしまった。· 義満死後、太上法皇の尊号が贈られることになった時、将軍義持の相談を受けた義将が「将軍家にとって大変名誉なことではありますが、臣下の身でそのような待遇を得た前例はございませんので、ご辞退されるのがよろしいでしょう」と義持に進言したという。· 禅宗に深く帰依した義将は、春屋妙葩といった禅僧たちと親しく交わり、五山禅林の整備に協力したといわれる。· また連歌や和歌に長け、勅撰和歌集である『新後拾遺和歌集』と『新続古今和歌集』に選ばれた他、豊原信秋より笙を学ぶなど文化には大きな理解を示した。逸話ではあるが、このような正道にかなった義将の行いを世の人々は褒め称えたという。一方で義将は、戦功著しい優れた武将であり、手熟れた政治家でもあった。· 応安の復権後、越中守護に復した義将は、未だ幕府の勢力下に無い同国の平定に尽力することとなる。· この時、義将の前に立ちはだかったのが長年同国に勢力を張って猛将として知られた桃井直常・直信兄弟であった。· 特に直常は、かつての直義・直冬党の最有力の武将として長年にわたって幕府軍を苦しめた強敵だったが、義将はこれを自ら軍勢を率いて討ち破り、越中の完全平定を成し遂げた。· この越中平定が後に義将を反細川勢力の旗頭に押し上げる契機の一つとなった。· 細川頼之とはかつての因縁もあって政敵の間柄であった。諸侯の頼之への不満が溜まると、その機を逃さずにこれを纏め上げ、将軍邸を囲んで将軍義満に頼之の管領更迭を迫り、ついに頼之を都から追い落とすことに成功した(ただし後年頼之は復帰し再び義満の腹心として幕政を主導することになる)。· その他にも細川派であった九州探題の今川了俊更迭に関与したり、子の義重、孫の義淳をそれぞれ管領に据えて自身は裏からその実権を握るなど、少年時から政治の表舞台に立って浮沈を繰り返した手熟れた政治家としての顔をのぞかせる。また、義将が鎌倉公方と内通した罪で義満に討伐されるとの風聞が洛中流れた折、義将は嫡子義重を義満の元へ赴かせ申し開きをさせた。
2023年07月16日
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最期l 応永15年(1408年)4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。l 4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。l このため、将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。l しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが夕方になって蘇生した。l 5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した。享年51(満49歳没)。l 法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。l 鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。l 死後l 義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。l 永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。l この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。l また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。l のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所と呼ばれるようになった。l 6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。l また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。l 人物l 今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。l このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。l このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。l このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。l 義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。l 永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった。l また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時の軽装である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。l 自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという。l 皇位簒奪の意図はあったかl 田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。l 義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母に准ずる扱い)、ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。l また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。l 4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。l これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している[23][36]。l 今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。l 「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年生まれ(ただし現在では亥年生まれとされる)、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。
2023年07月14日
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勘合貿易と北山文化l 義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。l しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。l 機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。ただし、これについては異説もあり、1408年(応永15年:義満死去に伴う)と1413年(応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある。l また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も戦国期の将軍(義稙・義晴)よりは低かったとする指摘もある。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、明治以前では最も長い元号となった。l 義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。l 1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。l そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。l 1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。l 同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。l 遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。l 1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。l 1399年(応永6年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく。l この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥・世阿弥父子を庇護した。l また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔がある。l 塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。l 相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の1404年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したという。
2023年07月14日
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8、「義満家督・将軍職相続」l 正平22年/貞治6年(1367年)11月になると父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。l 朝廷は12月3日に義満を正五位下・左馬頭に叙任した。12月7日に義詮は死去し、義満が第3代将軍として足利将軍家を継いだ。l 1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、4月には管領細川頼之を烏帽子親として元服が行われた。l このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。l 1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。l 幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。l また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎えた。l さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。l 1375年(永和元年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。l 1378年(天授4年/永和4年)には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地により室町幕府と呼んでいる。l 義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。l 1382年(永徳2年)には開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。l 1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。l しかし、元中5年/嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった(『後太平記』)。
2023年07月14日
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幕府の宿老として幕府の管領に返り咲いた義将は、管領と政所の機構を整備して権限を強化、春屋妙葩を僧録に任命して禅僧の統括を図るなどよく義満を補佐し室町幕府の安定に力をつくした。また斯波氏としても建武以来の領国であった越前を取り戻し(越中を畠山基国と交換)、義将の弟・義種が加賀の守護に任じられ、弘和⒉年(1382年)12月には従四位下左兵衛督に昇進するなど幕府内で勢力を拡げていったが、頼之の領国伊予を没収し河野通堯に与えてこれを討伐しようとした計画は、通堯が返り討ちに遭ったことや、義満がこれ以上の細川氏への刺激を抑えたことによって失敗に終わった。やがて義満の将軍権威が確立して主導的な執政が行われはじめ、元中6年(1389年)に頼之が赦免されると、義将の政治的立場は微妙なものになり、元中8年(1391年)には義将は管領を辞し、領国の越前へ帰国した。この後代わって頼之の弟で養子の細川頼元が管領となった。しかし頼之が元中9年(1392年)に没すると再び幕政に参与し、翌明徳4年(1393年)6月からは三度管領に就るなど、義将は生涯において執事・管領職を5回、延べ18年にわたって幕政を主導した。九州探題の今川貞世(了俊)の解任にも関与しているとされる。将軍義満が出家すると追従して出家し道将と号して、家督を子の義重に譲った。応永⒉年(1395年)7月25日、正四位下右衛門督に昇る。それまで衛門府の督は平家の公達や、鎌倉将軍の源頼家等を除いて武家に任官された例が無かったため、関白一条経嗣はその日記『荒暦』において「武臣の右衛門督、未だ聞かざる事也」と、義将の右衛門督任官が公家社会で驚きをもって迎えられたこと記している。応永6年(1399年)に大内義弘が挙兵した応永の乱の討伐にも義重とともに従軍し軍功をあげた。乱後、義満は斯波父子の働きに恩賞として義重に尾張、さらに遠江の守護職が与えられた。至徳年間からは信濃守護を兼ねていたため、斯波氏は越前・尾張・遠江・信濃・加賀に及ぶ五州の太守となり、ここに最盛期を迎えた。但し、信濃は短期間で小笠原氏に交代、領国化はならなかった。義満死後を主導l 足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 – 1394年)である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室の紀良子。l 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。l 義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。l 幼少期l 正平13年/延文3年(1358年)8月22日、京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継入道照禅の屋敷で生まれる。l 祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。幼児期は伊勢邸で養育された。l 義満は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折してその後幸子との間に子は無く、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。l 義満が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。l やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、正平16年/康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房らに京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。l この後しばらくの間、則祐により義満は養育される。l 翌年、幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津に泊まった際にその場所(明石・須磨あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。l 京都に帰還した義満は新しく管領となった斯波義将に養育され、正平19年/貞治3年(1364年)3月に7歳で初めて乗馬した。l 正平20年/貞治4年(1365年)5月には矢開の儀を行ない、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。l 正平21年/貞治5年(1366年)12月7日には後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられた。l なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。l 貞治5年/正平21年(1366年)8月に貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の義満は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。
2023年07月14日
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4「鎌倉御家人から建武政権へ」l 嘉元3年(1305年)に足利(斯波)宗氏の嫡男として誕生する。高経がいつ頃家督を継いでいたかは不明であるが、父・宗氏が諸系図で「早世」とあることや、元亨3年(1323年)12月の北条貞時十三回忌供養に足利宗家の貞氏、足利三河家の貞義らと共に出席していることから、既にこの頃には足利尾張家の当主となっていた可能性がある。l 元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)に従って倒幕の兵を挙げ、六波羅探題攻めに参加する。l 鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が行われると、越前守護職に補任された。建武元年(1334年)、紀伊飯盛山の佐々目氏の反乱の際には、戦果の芳しくない楠木正成に代わりこれを鎮定した。l 新田一族との戦いl やがて尊氏が建武政権から離反するとこれに従って以後武家方の有力武将として各地を転戦する。l 延元元年/建武3年(1336年)の新田義貞、楠木正成との間で行われた湊川の戦いにも山手軍の大将として参陣。楠木勢の退路を塞ぐなど勝利に貢献する。l 合戦後、尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇が吉野に南朝を成立させて南北朝時代となると、北朝の越前守護として主に北陸方面で南朝方と攻防を繰り広げた。l 湊川の戦い後、新田義貞が尊良親王、恒良親王の両親王を奉じて越前へ入国すると越前での戦況は激化。l 延元2年/建武4年(1337年)に、越前で高師泰と共に南朝方の金ケ崎城(福井県敦賀市)を攻め、両親王を擁した義貞、義顕親子を破る。事実上の総大将であった義貞こそ取り逃がしたものの、尊良親王と義顕を自害させ、恒良親王を捕らえるなどの軍功をあげる。l その後義貞の巻き返しによって府中や金ヶ崎城を奪われたが、高経は平泉寺の宗徒を自陣営に抱き込んで義貞の攻勢を防いだ。l そして延元3年/建武5年(1338年)閏7月、越前藤島の灯明寺畷においてついに義貞自身を討ち取る大功をあげた(藤島の戦い)。l 延元4年/暦応2年(1339年)からは義貞の弟脇屋義助が宮方の大将として立ち塞がり、一時は越前から加賀へ落ちるなど苦戦を味わったが、興国元年/暦応3年(1340年)に反攻をしかけ義助を美濃へ追い、興国2年/暦応4年(1341年)残る宮方勢力を討ち破り越前を平定した。l この間、嫡男の家長は奥州の北畠顕家への抑えと鎌倉に残った尊氏の嫡男義詮の補佐のため奥州総大将と関東執事に任命されたが、顕家の進撃を止められず延元2年/建武4年12月25日(1338年1月16日)に戦死している(家長の子孫は高水寺斯波氏として紫波郡に土着)。また弟の家兼は奥州の統治を任され、正平9年/文和3年(1354年)に奥州管領に就任。子孫は奥羽一帯に土着して大崎氏(奥州探題)・最上氏(羽州探題)となった。l 離反と帰参l 足利幕府の内紛から発展した観応の擾乱が勃発すると、はじめ足利直義方に与してその有力武将となるものの、直義失脚後に尊氏方に帰順。やがて直義が南朝に降伏し尊氏方に対して挙兵すると、これに呼応して直義方に復帰したが、直義の死後に再度尊氏方に帰順した。l この間に正平一統における南朝方の京都制圧においては義詮を助けて京都奪還に功をあげる。l しかし正平10年/文和4年(1355年)、尊氏の庶子で直義の養子である直冬に呼応して三度幕府に反旗を翻し、今度は自身が京都を制圧するに至った。l その翌年の正平12年/延文元年(1356年)、軍勢の衰えた直冬方から離反してまたも幕府へ帰参するなど、叛服常なき行動を繰り返した(なお、次男の氏経は直冬方の離反には従わず、尊氏が父・高経から没収した越前国を与えられている)。
2023年07月14日
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執事・管領の一覧執事高師直(1336年 – 1349年)高師世(1349年)高師直(1349年 - 1351年)仁木頼章(1351年 – 1358年)細川清氏(1358年 ●管領・斯波義将(1362年 – 1366年)細川頼之(1367・年 – 1379年)斯波義将(1379年 – 1391年)細川頼元(1391年 – 1393年)斯波義将(1393年 – 1398年)畠山基国(1398年 – 1405年)斯波義重(1405年 – 1409年)斯波義将(1409年)斯波義淳(1409年 – 1410年)畠山満家(1410年 – 1412年)細川満元(1412年 – 1421年)畠山満家(1421年 – 1429年)斯波義淳(1429年 – 1432年)細川持之(1432年 – 1442年)畠山持国(1442年 – 1445年)細川勝元(1445年 – 1449年)畠山持国(1449年 – 1452年)細川勝元(1452年 – 1464年)畠山政長(1464年 – 1467年)斯波義廉(1467年 – 1468年)斯波義廉(西幕府)(1468年 – 1477年)細川勝元(東幕府)(1468年 – 1473年)畠山政長(東幕府)(1473年)畠山政長(1477年 – 1486年)細川政元(1486年)畠山政長(1486年 – 1487年)細川政元(1487年)細川政元(1490年)細川政元(1494年 – 1507年)細川澄之(1507年)細川澄元(1507年 – 1508年)細川高国(足利義晴方)(1508年 – 1525年)細川稙国(1525年)畠山義堯(1526年)細川晴元(1536年 – 1549年)細川氏綱(1552年 – 1563年)室町時代の3代将軍足利義満が定めたとされる管領職に就任する家柄のこと。「応永5年(1398年)、足利義満が朝廷の五摂家七清華に習って武家の「三職七頭」を定めた。所謂三職は足利氏一門の斯波氏・細川氏・畠山氏であり、三管領(執事別当)と号した。七頭は山名氏・一色氏・土岐氏・赤松氏・京極氏・上杉氏・伊勢氏等であり、そのうち山名氏・一色氏・赤松氏・京極氏を京都奉行(侍所別当)とし四職と号した。奏者は伊勢貞行とされた。また武田氏・小笠原氏の両人を弓馬礼式奉行とし、吉良氏・今川氏・渋川氏らを武頭とされた」(『南方紀伝』)。三管領の3家には嫡流の宗家と庶流の分家があるが、管領を代々任じられるのは宗家であり、それぞれの嫡流当主が歴代通称とした官途の唐名を元に、「斯波武衛家」(代々左兵衛督)、「細川京兆家」(代々右京大夫)、「畠山金吾家」(代々左衛門督)と称し、それぞれ管領(斯波、細川、畠山)家または(斯波、細川、畠山)管領家とも呼ばれる。三管領の3家はそれぞれ分裂し戦国時代を激しく戦ったが安土桃山時代まで生き残り、それぞれ残った当主の細川昭元・畠山昭高・斯波義銀は織田信長の親族と縁組をし信長の義兄弟・準義兄弟となることによって政治的にも重要度を回復した。後に豊臣政権に移行した後も、高貴な家柄の末裔として厚遇されることとなる。江戸時代は高家として江戸幕府に仕える家や、大名家の家老職として地方に下る家など、独自の運命を辿った。北畠四管領室町時代に伊勢国に勢力を有した国司大名北畠氏の一門かつ重臣の中で特に有力な者を四管領と称した。北畠四管領、伊勢四管領とも。 3、「斯波 義将」(しば よしゆき)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。l 斯波 高経(しば たかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏(足利尾張家)4代当主。l 元弘3年(1333年)の足利尊氏の挙兵に従って鎌倉幕府に反旗を翻し、建武政権において越前守護職を得たが、後に尊氏が建武政権に反するとこれにも従って北朝軍の有力武将となる。l 北朝では北陸方面の司令官として活躍し、南朝軍の有力な司令官であった新田義貞を討つ功績を上げた。l やがて観応の擾乱が起こると足利直義陣営に属して尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時室町幕府の最高権力を得たものの、まもなく佐々木道誉らの策謀により失脚。洛中を落ちて越前杣山城にて失意の中病死した。l 斯波氏は足利宗家4代当主の泰氏の長男・家氏から始まる名門で、成立当初より「足利」の名字を公称し、家氏以降の代々の当主が尾張守を称したため足利尾張家と号するなど、他の足利一門とは一線を画す高い家格を有した。l このため「足利家の分家、庶流」というよりは「足利家の別家、別流」の扱いであり、高経も足利尾張守高経と表記されることもある。また足利本家から独立した御家人であったため、高経の「高」字は尊氏の初名である「高氏」とおなじく北条得宗家の北条高時の偏諱とみられる(高経と尊氏は同年生まれ)。l 室町幕府が成立すると4男義将が管領となり、高経はその後見をつとめた。本格的に「斯波氏」を称するのは義将以降のことである。以後、室町時代を通して三管領の筆頭となった(詳細は斯波氏を参照)。
2023年07月13日
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形骸化、消滅享徳元年(1452年)からは持国と交代した勝元が寛正5年(1464年)までの12年間管領に在任していたが、その期間に義政は将軍親政を志して側近の伊勢貞親・季瓊真蘂を登用、管領を通さず命令を下達、将軍が貞親を通して訴訟受諾及び裁判を行うなど親政を試み、不知行地還付政策や家督争いへの介入で守護権力を抑制しようとした。だが、これらの政策は守護の反発に遭い、文正元年(1466年)に勝元・宗全らが起こした文正の政変で貞親・真蘂が追放され義政の親政は挫折した。翌応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、はじめ管領の斯波義廉は宗全率いる西軍に属し、将軍義政らは勝元率いる東軍に確保されており、将軍と管領が分裂することとなった。管領ではなかった勝元は管領奉書に代わり自身の発給文書によって軍事指揮を行うようになり、応仁⒉年(1468年)に義廉が罷免され勝元が管領に再任された後もこの方法を用いた。これによって管領が持っていた軍事的権限を失墜させる結果をもたらすと共に後の京兆専制の形成に影響した。勝元の死後は畠山政長と勝元の子細川政元が持国・勝元の時と同じく交代で管領に在任していたが、政長は従兄の畠山義就討伐に明け暮れ殆ど京都を留守にしていた状態で、政元も短期間在任と辞職を繰り返して幕政に関わらなかったため管領は形骸化していった。また、応仁の乱が幕府儀礼の一時的な縮小をもたらしたこと、適任者の不在(斯波氏と畠山氏の分裂および領国への下向、細川勝元の早世による幼少の当主(政元)の出現)が、管領の不設置・非常設化を促進したという見方もある。一方、義政も息子の義尚に将軍の地位を譲った後、義尚が幼い事を理由に公家の日野勝光(日野富子の兄で義尚には実の伯父にあたる)に自分や義尚の代わりに御前沙汰に参画させることで管領の職務であった訴状の受付や将軍の裁許手続を行い、以降の将軍も評定衆・申次衆・内談衆と称される側近集団に同様の役割(将軍の代理として御前沙汰に参加して内容を将軍に報告・裁許を得る)を担わせた。応仁の乱後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退し、政元の細川氏が管領職を独占、政元は明応⒉年(1493年)の明応の政変で将軍を廃立し、専制権力を確立した(京兆専制の成立)。だが、後継者を巡って政元が家臣に暗殺されると(永正の錯乱)、細川氏は分裂して長期の抗争を繰り広げ衰退、家臣で実力者の三好長慶が台頭した。そして永禄6年(1563年)の細川氏綱の死後、自然消滅の形で廃絶したとされている(細川政権)。が、既に享禄4年(1531年)の細川高国の自害をもって廃絶していたとする説もある。通説では高国の後に晴元・氏綱が管領に就任したとされているが、両名が細川宗家の家督継承者であった事実はあっても、管領職に就任したとするのは後世編纂の『重編応仁記』・『足利季世記』などの軍記物や系譜類などのみの記載で、同時代の一次史料にはそれを示す記述はない。このため、晴元・氏綱が実際に管領に就任したことを疑問視する説がある。例えば、今谷明は『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)において作成した「室町幕府諸職表 執事・管領」において、細川晴元・氏綱の管領任命を事実ではないとして歴代管領から外している。浜口誠至は応仁の乱後に管領になったのは畠山政長・細川政元・高国の3名のみで、細川京兆家当主でも細川澄之・澄元・稙国・晴元・氏綱・昭元の6名の管領就任を裏付ける史料は無いとしている。浜口は細川政元以降管領が細川氏による独占(管領職と細川宗家家督の一体化)と細川宗家の家督継承者が将軍から右京大夫に任命されていたという個々の事実は間違っていないものの、江戸時代に編纂された軍記物は細川宗家の家督相続・右京大夫任官・管領補任を全て一つのものとして捉えて、戦国期の一次史料からは確認できない「細川宗家の家督継承時に管領に補任される」(更に、管領が戦国時代にも常設、実際には管領に任命されていない細川宗家当主の管領在職)という誤解を生み出したと解説している。その背景として、戦国期の管領は政治的権限を待たない、将軍の元服などの重要な儀式の時だけに任命される臨時の役職に過ぎなくなっており、細川京兆家の当主も管領の地位によらず、将軍の擁立者・後見人として将軍の任免権に左右されることなく政治的権力を行使する存在であったとする説も出されている。なお、近年の説の見解に基づけば、細川晴元と氏綱の戦いの最中である天文15年(1546年)に行われた足利義藤(後の義輝)の元服と将軍宣下の際に義藤の烏帽子親の役目を行う新たな管領が任じられる可能性があり、細川晴元派の六角定頼と細川氏綱派の遊佐長教が烏帽子親=管領任命の政治工作に動いていたが、交戦中の両者が元服の儀に参加する事は不可能であったため、六角定頼が管領代となって烏帽子親を務めたことにより、管領は任命される事は無かった。
2023年07月13日
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