温故知新 0
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◎戊辰戦争と慶応4年の一揆・慶応4年(明治元年)の戊辰戦争の勃発によって各地で世直し一揆が再燃した。ただし、鳥羽・伏見の戦い以後西日本では大きな戦いが発生しなかったこともあり、大規模な一揆の発生はなかった。一方、戦場となった東日本の各地では大規模な一揆が発生した。◎関東地方北部・鳥羽・伏見の戦いの報が江戸に伝わった直後の1月15日、関東取締出役渋谷鷲郎が関東一帯の村々から公私領を問わずに農民を徴兵する決定を下した。このため、上野・下野・武蔵の3国で大規模な一揆が発生した。2月12日に武蔵・上野の農民が渋谷がいる岩鼻陣屋に向かって進撃した。これに驚いた渋谷は15日に命令を撤回した。ところが、その際に一部の村役人が徴兵の選定に際して不正があったとして下旬より三国の村々で村役人の追放などを訴える大規模な一揆へと発展した。特に上野では2月22日に多胡郡で起きた一揆は周辺を巻き込んで拡大し、吉井藩・七日市藩・小幡藩は次々と一揆軍に「降伏」した。3月10日には岩鼻陣屋も放棄され、羽生陣屋が新政府軍に落とされると、上野・北武蔵の一揆は最高潮に達し、上野では一揆の制圧下に置かれなかったのは高崎・前橋・伊勢崎の3藩のみであったとされている。3月末に安塚村(下都賀郡壬生町)、日光道中石橋宿で発生したといわれ、瞬く間に下野中央部の全域に広まった。積もり積もった不満が一気に噴出したものである。 その頃、新政府の東山道軍が北関東に進出したが、3月11日諸藩に対して共同で一揆の取締を命じるとともに新政府軍もこれを支援する方針を立てた。この方針に従って鎮圧に当たった結果、3月末から4月にかけて一揆は沈静化に向かった。一揆鎮圧に新政府軍の支援を受けた北関東の諸藩は藩論を恭順にまとめることになる。 ◎北越奥羽地方・5月に入ると、佐幕派の桑名藩の飛領がある越後国魚沼郡で一揆が発生した。同郡に入った新政府軍が戦乱を理由とした年貢の半減に応じた結果、間もなく鎮圧された。また、8月には村松藩でも村役人の追放を訴える一揆が起きて藩と新政府軍に鎮圧されている。この地域の一揆の主な舞台は北越戦争及び会津戦争の主戦場でもあった長岡藩と会津藩であった。長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対する一揆が発生した5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広がり一時は7000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日にようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主松平容保の京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支配組織を完全に解体に追い込んだのである。※打ちこわし・打ちこわし(うちこわし)とは、江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。主に都市部において、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703)に長崎で発生し、享保18年(1723)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。 了
2023年08月15日
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45、討幕の波が新時代に民衆一揆へ【世直し一揆】「世直し一揆」(よなおしいっき)は、江戸時代後半から明治時代初期にかけて多発した一揆。江戸時代後期、社会の不安定な状況によって各地で一揆が頻発するようになる。特に幕末に日本が開国して安政条約が締結されると、生糸や茶の輸出が盛んになり、その分物価が急上昇した。更に江戸幕府や諸藩の財政悪化による重税によって人々の生活は苦しんだ。特に文久年間以後には政情が緊迫するようになると、諸藩が万が一に備えて米を備蓄するようになって豊作でも米が流通しないという事態に陥った。元治元年(1864)に京都で禁門の変が起きるとその傾向に拍車がかかり、続く長州征伐の決定によって全国的に米価が上昇した。これによって都市部では打ちこわしが、地方では一揆が頻発するようになった。特に慶応2年(1866)の第2次長州征伐中と同4年(明治元年・1868)の戊辰戦争中にその最高潮に達した。打ちこわしや一揆そのものは生活苦の改善や新規の徴税や徴兵に反対するものが中心であり、思想的・政治的な背景に欠くもので、最終的には幕府・諸藩・新政府のいずれかの兵に鎮圧されて終わった。だが、攻撃の主要な対象が今まで徴税を行ってきた幕府や諸藩及びこれと結びついた村役人・御用商人などに向かったことによって、結果的には幕府・諸藩の軍事行動の足を引っ張る結果となり、(一揆当事者の意図とは関係なく)長州征伐から戊辰戦争にかけての薩長(新政府)優位の流れを間接的に生み出す役目を果たしたことは否めない。従って、旧幕府勢力が完全に崩壊して、続く版籍奉還・廃藩置県によって幕藩体制が消滅すると、今度は攻撃対象が新政府側に向かうことになり、解放令反対一揆や血税一揆、地租改正反対一揆の形で現れることになった。※長州征伐と慶応2年の一揆・◎大坂周辺・蔵屋敷が集中する大坂では、文久2年(1862)頃から米価の高騰が続き、元治元年(1864)に将軍徳川家茂が大坂城に入って以後、主だった幕閣や諸侯、旗本及びその家臣たちが大坂に集中して急激に人口が増加した。更に禁門の変によって長州藩追討が決定されると、関門海峡を支配する同藩の海上封鎖によって東北・北陸から同海峡・瀬戸内海を経由して大坂に向かう航路の封鎖が確実となり、第2次長州征伐実施のために事実上の幕府軍の拠点となっていた大坂において兵糧米確保が行われた慶応2年には10年前の米価の10倍の水準にまで跳ね上がった。そのため、大坂及びその周辺の住民はその日の米も確保できない状態に陥った。慶応2年5月1(旧暦)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた一揆は、たちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方ハ一揆おからさる所なし」(『幕末珎事集』)と評された。◎江戸周辺・長州征伐や海上封鎖の影響を直接受けなかった江戸でも大坂と同じように10年前の米価の4倍の水準にまで跳ね上がっており、市民の不満は急激に高まっていた5月28日には品川宿で打ちこわしが始まり、翌日以後、江戸市中及び内藤新宿でも同様の事態となった。江戸の打ちこわしは大坂と比べて小規模ではあったが、6月6日まで散発的に続いたが、江戸町奉行はその取締りを十分に行うことが出来ず、奉行所の門外に「御政事売切申候」という張り紙までされる始末であった。この打ちこわしでは江戸に多かった西洋との貿易を扱う商人も襲われており、また打ちこわしから3ヵ月後の9月18日にはヴァン・ヴォールクンバーグアメリカ公使が道に迷って雷門前に出たときに江戸市民の投石にあって警備の武士と小競り合いとなるなど江戸の治安は悪化しつつあった。6月13日に武蔵国秩父郡を中心とした武蔵15郡・上野2郡の地域で総勢十数万とも言われた武州世直し一揆が勃発した。19日に幕府軍に鎮圧されるまでの7日間に参加した村200余り、打ち壊された村役人や豪商の屋敷520ヶ所と言われる大規模な一揆に発展した。後に一揆のうちの一部集団には横浜の外国人居留地を襲撃する計画があったことも発覚し、続く9月のアメリカ公使襲撃(前述)と並んで外国公使らを緊張させ、江戸幕府に米価・貧民対策を迫る原因となった。ほぼ時を同じくして幕府天領の陸奥国伊達信夫両郡において「生糸并蚕種紙改印」(慶応元年実施)の廃止などを求める信達騒動(信達一揆)が発生した。6月14日から6日間にわたる一揆は村役人の邸宅や桑折代官所を襲撃し、隣の福島藩の中枢である福島城城下町に突入した。福島藩は武力で威嚇して解散させたものの、一揆の過激化を恐れて一揆側の要求そのものは全面的に受け入れた。 ◎長州周辺部・討伐目標となった長州藩の周囲、特に天領である大森銀山一帯や譜代大名である浜田・小倉両藩などは軍隊の駐屯に加えて過大な負担を要求された。ところが7月18日に浜田城が長州藩軍に落とされ、21日には大森の幕府代官が逃走、8月1日には小倉藩が小倉城を放棄(11日に長州藩軍に占領)すると、その領内で一斉に一揆が発生した。幕府側の援軍として現地にいた松江藩軍や大森銀山警備の職にあった紀州藩安藤家(後の紀伊田辺藩)軍が一揆に押されて潰走した。だが、石見では同国を占領した長州藩軍に、豊前では香春で再起を図った香春藩(旧小倉藩)軍によって鎮圧された。だが、11月に入ると、美作津山藩や豊後杵築藩、播磨龍野藩でも軍役などの負担に耐え切れなくなった農民らによる一揆が発生した。これらの諸藩は長州討伐のための経路上にあり、幕府軍の動きを制約することになる。なお、龍野藩の一揆では援軍にかけつけた赤穂藩軍が返り討ちにあっている。
2023年08月15日
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44、利権絡み反対一揆【加賀藩領嘉永2年河北潟埋立反対一揆】「加賀藩領嘉永2年河北潟埋立反対一揆」銭屋五兵衛疑獄の発端となった騒擾。1849年(嘉永2)北前船の廻船業者銭屋五兵衛が河北潟に4600石の干拓計画をたてて藩に許可されたが、この計画を知った粟崎・大根布。宮坂、荒屋、室、大崎、内日角の沿岸7か村の漁民が漁業権を擁護しようとして反対運動を起こした。また、工事人夫に黒鍬組という専門土木を採用して地元民を使用しなかったのも反感を買った。1852年5月工事に着手すると、番小屋を壊したり、資材を潟に投入するなど妨害が相次いだ。夏に至ると潟に多数の死魚が浮かんだ。これを食して中毒死した者もでた。これは、漁民の妨害を制止して工事を早めるため、五兵衛が魚介類を全滅させる土壌を緊縮させる目的で石灰を投入したことによるという疑惑がもたれ、五兵衛一族の関係者が検挙され疑獄事件に発展した。*銭屋五兵衛(1774~1852)江戸後期の豪商、海運業者。銭五と呼ばれた。加賀国金沢の犀川河口の宮腰浦にまれ、幼名茂助、亀巣と号と称した。父の代に海運に乗り出したが、廃業し、質屋と醤油醸造業を始めた。五兵衛は1789年(寛政元)家督を相続し、古手・太物商に手を広げ、1811年(文化8)質流れの120石積の船をもって海上進出。松前交易の波に乗り、全国34カ所の支店、大小船、二百数十艘をもった。1836年(天保7)隠居し、「米商禁止、船商売は当てにならず」と述べている。加賀藩執政奥村栄実と結んで御手船裁許となり大坂廻米、米相場で利益を上げ晩年河北潟の干拓に乗り出す。栄実の死後に代わって長連弘を中心とする改革派の黒羽織党に謀られて、厳しい詮議を受けながら牢死をした。加賀藩の海運には上方依存があった。世紀初めより地船育成に、大船建造が進められ、この上方依存から脱却政策が銭五の成長を支え、彼により上方廻米が進んだ。代わった黒羽織党は松前交易により台頭し新規海商と結ぼうとし、銭五のように特権商人は邪魔になり葬り去られることになった。 ※長 連弘(ちょう つらひろ)は、加賀藩年寄。長氏第29代当主。加賀八家長家第9代当主。文化12年(1815年)、加賀藩年寄本多政礼の次男として生まれる。文政2年(1819)2月、外祖父長連愛の継嗣となり新知2500石を賜る。天保2年(1831)、連愛の死去により家督と3万3000石の知行を相続し、加賀藩年寄となる。弘化4年(1848)12月、従五位下大隅守に叙任。嘉永2年(1849年)政権を担い、儒者上田作之丞の教えを受けた改革派・黒羽織党による藩政を主導する。嘉永5年(1852)、前政権を担当していた奥村栄実と協力関係にあった御用商人銭屋五兵衛を投獄して獄死させる。安政元年(1854)、失脚して藩主前田斉泰に年寄職を罷免される。安政4年(1857年)4月22日死去。享年43。家督は嫡男の連恭が相続した。 ◎黒羽織党(くろばおりとう)は、江戸時代末期(幕末)に、加賀藩の藩政改革を主導した長連弘を中心とする党派である。金沢城下で私塾拠遊館を営んだ実学志向の儒学者上田作之丞の教えを信奉した集団で、弘化4年(1847)末から長一派が罷免された嘉永7年(18546月までを「第一次黒羽織党政権」(嘉永の改革)と称し、長の死後となる文久2年(1862)から翌年にかけて黒羽織党の面々が復職し、短期間藩政を主導した時期を「第二次黒羽織党政権」と呼ぶ。"黒羽織"党の名の由来は、彼らが仲間内で会合する際、常に黒い羽織を着ていたためとも、「黒羽織」が方言でフグを意味し、その毒のように人々に害をなしたためともいわれる ※加賀藩領寛永2年河北潟埋立反対一揆」この一揆は豪商銭屋五兵衛の利権がらみで、4600石の干拓事業に絡む農民の反対運動と藩政の銭屋五兵衛失脚の黒羽織党の策略が絡み合った一揆と事件である。粟崎・大根布・宮坂・荒屋・室・大崎・内日角などの7か村の漁業権確保の反対運動であった。
2023年08月15日
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43、領地替えの反対一揆【荘内藩天保11年転封反対一揆】「荘内藩天保11年転封反対一揆」江戸後期、天保の改革直前、三方領知替に伴う領主の転封に反対したおきた百姓一揆。転封の発令された1840年(天保11)11月の後半、庄内藩主の「善政」を書き上げ、転封令の中止を求める村役人が組織した江戸出訴の動きが始まった。同時に領内百姓の集会がもたれるようになり、翌1841年の2月には1万5000名規模の集会になった。村、組、郷、通を単位とした全藩的規模の反対一揆で、庄内藩の天保の改革による負担増に加え、移転費用の重圧に対して軽減を求める要求を含んでいた。仙台、水戸などの近隣有力大名に訴願し、諸大名の幕府批判を引き起こし、7月転封令を撤回させた。 ◎三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)とは、江戸時代に江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)互いに交換させることを言う。例えば、領地Aを持っている大名家Aを領地Bへ、領地Bを持っている大名家Bを領地Cへ、領地Cを持っている大名家Cを領地Aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。天保11年(1840年)・武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたもの。実現することはなかったが、数ある三方領知替えの中で最も有名である。第11代将軍徳川家斉の実子・斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な 庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたものだったが、庄内藩の士民を挙げた猛烈な抵抗にあい(天保義民事件)、翌年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの問題に対する不満が高まった。同年7月に12代将軍徳川家慶の「天意人望」に従うとする判断によって沙汰やみになった。 ◎天保義民事件は、天保11年(1840)に出羽国庄内藩主酒井忠器らに出された三方領知替えに対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件。天保11年(1840年)庄内藩主酒井忠器は江戸幕府より、越後長岡藩への転封命令を受けた。庄内藩は表高14万石であるが、実高は21万石と言われ、藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって比較的安定した藩財政を維持していた。ところが、この転封が武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるために行われるものと判明したために庄内藩内は紛糾した。庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに、表高7万4千石に過ぎない長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして西郷組のや玉龍寺の僧侶文隣らを中心に「百姓と雖も二君に仕えず」と宣言して反対運動を展開し、江戸でも公事師をしていた同藩出身の佐藤藤佐らが、反対運動を行った。ところが、翌天保12年(1841年)1月に家斉が、続いて5月には斉省が病死したこと、更に川越藩が斉典の生母を通じて大奥から老中水野忠邦ら幕閣に対して転封工作を行ったことが明らかになると、諸大名からも批判の声が上がるようになり、7月に将軍徳川家慶の名において、三方領知替えの中止と川越藩への2万石の加増が決定された。また、当時は民衆が徒党を組んで公儀に対して反抗することはもっとも重い罪とされ、主だった者は死刑とされていたが、処罰の権限を持つのは主君である庄内藩酒井家である(幕藩制の下では、江戸幕府や徳川将軍家は藩主である酒井家とは主従関係にあったが、酒井家と主従関係にある庄内藩の家臣や領民に対しては直接処分する権限はなかった)ため、何ら処分が行われなかった。この事件の背景には藩主を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりとともに、水野への支持と幕府に対する反抗の広がりへの危惧の板挟みとなった将軍家慶の政治的判断があったと考えられている。実際、三方領知替え決定の責任者であった水野忠邦は、幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態にも関わらず、老中の地位を慰留されている。 *文隣 (ぶんりん)1800~1863 江戸時代後期の僧。寛政12年生まれ。出羽(でわ)飽海(あくみ)郡(山形県)の法華宗(ほっけしゅう)玉竜寺の住職。天保11年幕府が鶴岡藩主酒井忠器(ただかた)に越後(えちご)(新潟県)長岡への転封を命じた際,本間辰之助らとともに藩内の農民をひきいて反対運動を展開し,幕府に中止をみとめさせた。文久3年9月13日死去。64歳。俗名は佐藤彦太郎。 ※「荘内藩天保11年一揆」は天保改革の一連の中で起きた。「三方領知替」に農民は反対した一揆である。三方領知替とは江戸幕府は幕藩の相互に転封しあう手法の一つである。大名の都合で、お国替えされると百姓には移転費用の重圧に、苦しい百姓の負担となる。転封令に村役人が組織的に出訴の動きが始まった。同時に領内の百姓が集会を開き日頃の不満と相成って、1841年の2月には1万5000人の規模の集会は、村、郷通の単位で軽減を求め、近隣の有力大名にも訴願し、、庄内藩の何の落ち度もないのに、7万4000石に転封させられるのに道理に合わないと西郷組や玉龍寺の住職文燐らが反対し、江戸にも働きかけた。この三方領知替は老中水野忠邦の工作と知っても諸大名からも批判が続出した。結果、7月転封令を撤回させた。
2023年08月15日
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42、流通統制に一揆が勃発し譲歩終息【佐渡国天保9年一揆】「佐渡国天保9年一揆」1823年(文政6)に設置され、専売機関の役割を果たした広恵倉などにより流通統制や役人の非違などに反対して、1838年(天保9)に発生した一揆。佐渡国騒動と通称する。4月上山田村善兵衛が佐渡一国惣代として巡見使へ訴願。巡見使離島の前日、善兵衛が逮捕されると、一万人の百姓らが善兵衛の保釈を求めて決起。善兵衛は釈放されたが、百姓らは小木町の問屋や村々の米屋を打毀した。奉行者はいっきを鎮定できず、無政府状態に陥ったが、8月高田藩によって300人ばかりが逮捕されて、一揆は終息した。徳川斉昭は大塩平八郎の乱などとともに問題の一つしてこの一揆を取り上げ、改革の必要性を強調した。善兵衛は義民として顕彰されている。 ◎「天保佐渡一国騒動」と呼ばれる佐渡最大の農民一揆の関係資料です。天保9年(1838)、上山田村の善兵衛が、江戸将軍の代替りにより佐渡に派遣された巡検使に対し、連年不作の窮状や年貢の重いこと、広恵倉(こうえそう=年貢の貯蔵倉)の矛盾などをしたためた直訴状を差し出したところ、捕縛され投獄される事件が起こりました。これに怒った大勢の島民は善兵衛の保釈運動に立ち上がりますが、善兵衛が釈放された後も群衆化・暴動化は続き、やがて「天保佐渡一国騒動」へと発展しました。善兵衛らは再び逮捕され、取り調べは相川で始められましたが、やがて関係者は江戸送りとなり、裁きも受けず短期間に病死するという奇怪な結末をとげるのです。「天保一国騒動江戸表情報」は、江戸送りとなって入牢中の25人の情報を誰かが書き送ったもので、差出人も宛名もありませんが、古くから上山田惣代所に保存されていたもので百姓18名中13名の死亡が報じてあります。「一国騒動連判帳」は、各町村ごとの石高と金額、町村名と印判または「受取申候」と書いてあるもので、帳面の表紙は白紙ですが、費用取立をかねた連判帳と思われます。「諸入用帳」は、年中入用覚帳となっていますが、町村ごとの石高・年貢などが書いてあり、経費の割り元帳であったと考えられる。 *佐渡山田村善兵衛 1793~1839 江戸時代後期の一揆(いっき)指導者。寛政5年生まれ。佐渡(新潟県)羽茂郡(はもちぐん)上山田村の農民。天保(てんぽう)9年佐渡奉行に対する不満を佐渡一国惣代として巡見使に上訴し,投獄された。島内の農民は米屋などをうちこわす一揆(天保一国騒動)をおこしたが,鎮圧され,善兵衛は天保10年江戸で獄死した。47歳。姓は中川。 ◎巡見使・①巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった。②江戸時代,将軍の代替りに五畿七道の幕領,大名領の民情政情を視察するため派遣された役人。使番1人に小姓組番,書院番の者2人を差添え,定員は 35人で,都合により幾組にも分れて巡視した。元和1 (1615) 年に始るといわれ,徳川5代将軍綱吉の頃から整備された。 ※佐渡国の専売機関の広恵倉(年貢などを収納する倉)や流通統制など役人の非違などに反発し1838年(天保9)に発生した一揆。善兵衛が佐渡一国の総代として、巡見使(大名領の民情政情を視察するため派遣された役人。)に請願。巡見使は善兵衛の訴願を聞き入れず島を離れる前日に逮捕して騒動が勃発した。一万人の百姓が善兵衛の保釈を求め、村々の米屋を打毀、一時期島は無政府状態に陥り、天保佐渡一国騒動へと発展していった。首謀者の善兵衛は逮捕され、釈放され、また逮捕相川でと調べて、江戸送りになって、江戸で獄死した奇怪な経緯で結末を向かえたという。
2023年08月15日
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◎天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し1国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。甲斐国は1724年(享保9年)に幕府直轄領(天領)化され、甲府町方を管轄する甲府勤番と三分代官による在方支配が行われていた。甲府盆地を抱く国中地方では近世に新田開発が進み穀倉地帯となり、国内で産出した米穀は甲府問屋仲間が統括し、一部は信濃国から移入された米穀とともに鰍沢河岸に集積され、富士川舟運を通じて江戸へ廻送された。一方、山間部である郡内地方の生業は耕作地が少ないことから山稼ぎや郡内織の生産など農間余業の依存が強く、必要な米穀は国中や相模国、駿河国からの移入に頼っていた。寛政年間には甲府問屋仲間が弱体化し、鰍沢宿の米穀商が買い占めを行い廻米として移出される米穀が増加し、信濃から買付を行う商人も進出したため米価の高騰が発生していた。 1833年(天保4年)には全国的にも冷夏による凶作のため米価高騰や飢饉が発生しており(天保飢饉)、冷夏の影響は郡内地方において深刻で、国中でも八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の百姓夏目家の日記では冷夏の影響を「五十年以来無覚之凶作」とし、天保騒動で打ちこわしの対象となる山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門家ではこの頃既に打ちこわしの空気が発生しており、甲府町方でも世情不安が伝わり動揺が生じている。郡内勢は当初、武七・兵助に統率され百姓一揆の作法に則った活動を行っていたが、国中に至ると「悪党」と呼ばれる国中百姓や無宿人らが参加し、騒動は激化・無秩序化する。無宿人に率いられた国中勢は郡内勢と分かれると暴徒化し、鉄砲や竹槍などで武装し盗みや火付けなどの逸脱行為を行い、村々に対して一揆への参加を強制した。国中勢は8月22日には石和宿(笛吹市石和町)を襲撃すると二手に別れ、一方は甲州道中から甲府町方(甲府市)へ向かい、一方は笛吹川沿いに南下した。甲州道中を進んだ一揆勢は翌8月23日に甲府町方を守備する甲府勤番永見伊勢守、甲府代官・井上十左衛門の手代らの防衛戦を突破すると甲府城下へ乱入し、城下の穀仲買や有徳人らの屋敷を打ちこわし、火付けも行った。甲府城下の打ち壊しをおこなった一揆勢はさらに二分し、一手は遠光寺村から巨摩郡中郡筋西条村(昭和町)へ進み、西青沼町から飯田新町と打ち壊しを続け、荒川を経て巨摩郡北山筋上石田町(甲府市)、西八幡村・竜王村(甲斐市西八幡・竜王)まで進み、打ちこわしや火付けを行うと、釜無川を渡河せず笛吹川筋で打ちこわしを続けた。天保騒動に対して伊豆国・駿河国・武蔵国・相模国の幕領を管轄する韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)も、騒動の波及を危惧して情報収拾に務めている。江川は騒動の発生した天保7年8月に伊豆・駿河の廻村を終えて韮山代官所へ帰還したところで騒動の発生を知り、幕領である武蔵・相模への波及を警戒し同月29日に手代の斎藤弥九郎らとともに甲斐へ向かっている。江川は9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると8月に帰還した。騒動の鎮圧に失敗した三分代官に対しては吟味への参加を許さず、番所や牢の新築に際した経費を負担させている。吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(うち130人あまりが無宿人)以上が捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となる。また、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。一方で、積極的に騒動鎮圧に協力したものに対しては褒賞が与えられている。 *武七は、天保7年当時70歳。五人家族で持高は一石六斗であるが、徐々に減少し農閑余業を行っていた。また、無宿人・無頼の徒らを従える親分であったという。兵助は、天保7年当時40歳。姓は水越で、3人家族。犬目宿で旅籠屋を営む。屋号は「水田屋」。水田屋の経営は先代の代から悪化し、兵助は蜂起に際して妻に離縁状を出している。なお、武七・兵助両名の騒動後の動向は後述。武七・兵助は「身分不相応之者」から貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付け、国中の熊野堂村(笛吹市春日井町熊野堂)・奥右衛門家に代表される国中富裕農民に米の買い占めを停止され米穀を郡内に放出させる計画を目論む。熊野堂村の小河奥右衛門は郡内へ米穀を商う穀物商で、天保飢饉に際しては米穀を買い占め、郡内では米価高騰の元凶と認識されていたという。両名は郡内百姓の集結を促し郡内勢を率いると山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門を標的に国中へ向けて出立し、道中各地で打ちこわしを行い、奥右衛門宅の打ちこわしを行うと帰村した。 ※甲州一揆は甲州騒動、天保騒動、騒動の郡内騒動など多くの呼び名がある。規模でも最大級の一揆である。甲斐30万石山地は86%の天領で、生産力の弱い郡内地方の農民は賃織り、養蚕、馬方、棒手(行商)日雇い、出稼ぎなどの収入の暮らしである。天候異変や凶作で米価は高騰、幕府の江戸江戸廻米(大量の米を地点から地点へ輸送すること)や郡内へ「穀留」を行った。農民は米穀商や代官所に米の放出を嘆願したが、一向に効き目がなかった。堪り兼ねた百姓たちは、米穀商、両替商7件に打壊しをした。甲州街道沿いの村々から一揆勢に加わり、武装された甲府役人や代官所と交戦しながら広まって行った。日雇い人、無宿人、浪人、神主、被差別部落民も加っていった。一揆衆は数万人と概算された。打壊しをされた家屋、村数118村、家319軒に及んだ。藩側は近隣諸藩より出兵900人の応援をえて鎮圧することが出来た。その後の一揆首謀者処罰で下和田村治左衛門が牢死した者一人と298人の処罰をしたのみで、村割で富裕層から冥加金をとりたて、極貧者に救済金に当てられた。
2023年08月15日
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41、甲州一円に一揆打毀しに処罰者最小限に【甲州一揆】「甲州一揆」(甲州騒動)1836年(天保7)8月、甲斐(かい)国(山梨県)に起きた百姓一揆。当時、甲斐国騒立(さわぎだち)、甲州百姓騒立、のちに甲州騒動、天保(てんぽう)騒動、郡内(ぐんない)一揆、郡内騒動、その他さまざまの呼称でよばれた事件で、全国的にも最大規模のもの。甲斐30万石は山地86%の天領で、ことに生産力の低い郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り、養蚕、馬方、棒手(ぼて)(行商)、日雇い、山稼ぎなどによる収入で暮らし、米穀類は主として国中(くになか)地方(甲府盆地地域)から求めていた。ところが1830年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰を招き、不況による低賃金のなかで重税の取り立てのみ厳しく、病人、餓死、投身、家出、乞食、盗賊が続出した。国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に対してとられた幕府の江戸廻米(かいまい)令に乗じて、米の買いだめ、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留(こくどめ)」を行った。農民は、国中の米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、まったく効果がなかったので、ついに米穀商に対して米の押買(おしが)いを目的とした一揆を起こした。これとは別に郡内領谷村(やむら)(都留市)付近の農民は、8月17日の夜から翌日の明け方にかけて谷村の米穀商、両替屋など7軒を打毀した。甲州街道沿いの農民は同月20日、白野宿(大月市)のはずれの天神坂林で決起大会を開き、下和田村(大月市)の治左衛門(じざえもん)、犬目宿(上野原市)の兵助(ひょうすけ)らを頭取に選び、その行動綱領を定めた。郡内の一揆衆は21日の早暁、笹子(ささご)峠を越えて国中地方に入ると同地方の無数の農民が加わり、無原則的な打毀を続けた。治左衛門は当初の計画から甚だしく逸脱してしまったので歌田村(山梨市)から、そのほかの郡内衆は、22日、熊野堂村(笛吹市春日居町)の奥右衛門方の打毀を見切りに郡内へ引き揚げた。国中の一揆衆は、打毀の先々で貧農層のほか、村役人層をはじめ日雇人、無宿者、浪人、神主、修験者、被差別部落民も加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打毀を続けた。一揆衆の数は数万と概算され、その行動区域は国中地方中心部の全域にわたり、甲州街道筋では信濃境までに及んだ。打毀の対象は米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農などで、それらのうちで金品、酒食、武器などを提供してその難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319に及んだ。幕府は信濃の高島藩、高遠藩、および駿河(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900をもって鎮圧を図った。この事件は、いち早く江戸の瓦版によって各地に伝えられ、水戸(みと)藩主徳川斉昭はこれを契機に、幕政改革を促す建白書をしたため、大坂の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、この事件から強い衝撃を受けた。江戸幕府は3か年に及ぶ調査と、政治工作ののち、1838年(天保9)5月、下和田村の治左衛門(1836年11月牢死)ほか298人の処罰をしたのみで、各村々から村割の過料銭を、富裕層から冥加(みょうが)金を取り立て、極貧者の救済金にあて、あわせて両3年間の貢租の大幅減免などをもって事件の決着とした。
2023年08月15日
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◎秋田藩北浦一揆1834年(天保5)1月出羽(でわ)国(秋田県)仙北(せんぼく)郡前北浦地方、同年2月から3月同郡奥北浦地方で起こった百姓一揆。近世秋田藩で起こった数多い一揆のなかで、もっとも大規模なもの。直接の原因は、前年の大凶作で米の確保に困った藩が、農民の飯米分以外の米をすべて指定値段で買上げを強行しようとしたことにあり、それに藩政への不満も重なった。1月前北浦の数千人の農民が城下久保田(くぼた)への出訴を企てたが途中で阻止された。ついで2月奥北浦の農民が参集、やはり城下に向かう途中で阻止、かわって藩政改革を含む17条の要求を提出したが、結局は退けられた。しかし、この一揆は後の藩政に大きな影響を与えた。[高橋秀夫]『小沼洋子著「凶作と一揆と藩政」より ◎久保田藩は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩とも呼ばれる。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。 *佐竹 義術(さたけ よしやす)は、佐竹氏一門の佐竹北家第15代当主。佐竹北家角館第8代所預。寛政5年(1793年)、佐竹義文の子として生まれる。文政7年(1824)、藩主佐竹義厚が将軍徳川家斉に拝謁する際に同席する。文政8年(1825)、父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。天保5年(1834)、北浦一揆が発生すると、自ら一揆勢と面談して取り鎮めた。天保7年(1837)、嫡男の義陳(よしのぶ)が17歳で早世する。天保12年(1841年)死去。家督は外孫(長女の長男)で多賀谷厚孝の長子である義許が養子となって相続した ※出羽久保田藩は雄物川に物流物資集散地としてにぎわっていたが、全国的大凶作で雄物川に米が中々集まらず、久保田藩は蔵米の払い下げをするものの、7倍の米価に「米よこせ」運動が始まり、800人が米を要求して町の豪商、豪農に押しかけた。これに驚いた役人は一件ごとに調査をし、決められた量の「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」の配給することに決定した。農民はこの二つの「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」に反対、阿仁銅山で働く4000人の食料として、角館から送られてくる1000石、から5000石の輸送されていた。「家口米仕法」については、郡方吟味役が肝煎を集め「来月6月に上方から米が入るので、それまで藩内やり繰り、一日3合、4月に7合、5月に8合と計算された。日々の分は通帳を持って受け取りことになった。これに農民は反発、1月26日には二千数百人が長野御役屋に包囲し、悪口雑言、騒ぎ立て、久保田城に目指した。郡奉行の金易右衛門との交渉が始まって、結果農民たちの要求は通ることはなかった。「郡方に騙されるな、役屋をつぶせ」と言葉が飛び交い、米の炊き出し30俵を持っても農民の狼藉は収まらなかった。佐竹北家の当主が西野川原まで出馬し「願いの筋を文書で示せば久保田に行って申し伝える」と言って解散を促した。その後は久保田は300石の御救い米を送った。農民の処罰は出なかったが、奥北浦一揆は処罰者が出た。
2023年08月15日
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40、米不足で配分で一揆不満収まらず【北浦一揆】「北浦一揆」は、江戸時代後期の1834年(天保5年)に出羽久保田藩の仙北地域で発生した農民一揆。同藩史上最大規模の農民一揆であった。雄物川の河口にあった土崎湊は、久保田藩の物資集散地としてにぎわっていたが、1833年(天保4年)は、久保田藩が大凶作となり、土崎湊近辺の村々からも雄物川流域からも米がなかなか集まって来なかった。久保田藩は蔵米の払い下げを行うものの、8月には平年の7倍程度の米価となった。8月18日、土崎湊では「米よこせ」運動が始まった。中心となったのは農村から来た仲仕(荷役人夫)であった。800人程度が米を要求して、町の豪家や豪商に押しかけた。この集団は夕方頃に町役人と久保田からの応援の役人によって解散させられた。この日、藩の首脳は協議の上、1軒ごとに人数、年齢、職業を調査して、決められた量の米を配給することに決定した。この手法は後に仙北地方で施行された「家口米仕法」の始まりとなる。前北浦とは現在の大仙市のうち、旧中仙町と旧太田町に当たる地区である。44の村があり、御役屋は長野村六日町(旧中仙町)にあった。1834年1月26日に「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」の中止、その他を要求して二千数百人もの農民が、長野御役屋を包囲した。阿仁銅山廻米とは、阿仁銅山で働くおよそ4000人の食料として、仙北地区から大覚野峠を越えて輸送する米である。年によって異なるが、角館からは1000石から5000石の米が輸送されていた。「家口米仕法」については、1833年12月、郡方吟味役が前北浦の肝煎を集め「来年6月に米が上方から入るので、それまでは藩内でやりくりをしたい。3月までは一人あたり一日3合、4月は7合、5月は8合と計算して、その残りは藩が全て借り上げたい。または、一俵3貫300文で買いたい」と申し渡した。その後、新任の吟味役が到着し、各家ごとに徹底して食料の調査を行った上で「一人あたり一日2,5合の見積もりで3月31日までの分を保有して、残りの米は全て借り上げる。3月31日までの分も、親郷共の倉まで運んで備えておき、日々の分を通帳をもって受け取ること」とした。 これに反発した農民は、1月26日に二千数百人で長野御役屋を包囲し、かがり火を焚きながら悪口雑言、夜更けまで騒ぎ立てた。長野御役屋では相手にならないと、農民達は翌日久保田城を目指して歩き始めた。郡奉行の金易右ヱ門は驚き、部下を連れて神宮寺に駆けつけ、舟渡の網を切り落とし、農民達を説得した。農民達は説得を受け翌28日に鑓見内村(旧中仙町)鎮守の八幡宮に集まった。その日の午後に、農民達と金易右ヱ門との交渉が始まった。交渉に先立ち、金易右ヱ門は農民から代表者を出すように要求し農民の分断を図った。交渉時には農民達は恐れ入るばかりで、結果的に農民達の要求は通ることがなかった。角館小館御役屋の支配する奥北浦の村々は43か村であった。これは現在の仙北市(旧田沢湖町、旧西木村、旧角館町)および大仙市のうち旧中仙町の桜田村を含む地区に相当する。奥北浦一揆を主導した村は西長野村、川原村、山谷川崎村(すべて旧角館町)であった。前北浦農民一揆に先立つ1833年10月に山谷川崎村において、傘連判状が作成されている。村の全戸数と同じ79の名前を押印、申し合わせ事項が書かれている。その主な内容は「町方からの借金の返済や日用品のつけは、支払い方法を交渉するので、全員がそれに従うこと。また、借金の抵当として出した物件は何人たりとも手をつけない」というものであった。前北浦農民一揆が収まってから20日ほどたった2月18日、「不穏な動き」が西明寺村で見られた。19日の朝から廻米蔵宿・九右衛門宅の近くに農民が集まってきた。九右衛門は役人に連絡し、役人が九右衛門宅に駆けつけると、農民達は手に手にナタや鎌、竹槍を持ち「銅山廻米阻止」をスローガンに九右衛門宅を取り囲んでいた。農民達は奥北浦の家々から一人ずつ参加するように呼びかけられたもので、もし不参加であれば家を焼き家族に乱暴するとまで言われていた。集まった農民は千人程度で、役人が「村から代表者を出し、その者と御役屋で交渉する」と提案しても農民達は前北浦一揆の苦い経験をふまえてか、受け付けようとしなかった。農民達は昼になって昼飯を要求したので、役人は廻米の中から14俵ほど炊き出した。また、農民達は近村の肝煎の家にも押しかけて食事を要求した。役人達は騒ぎ立てる農民に目的を聞くと、郡方支配をなくして佐竹北家の支配にして欲しいということであった。役人は農民に「それならば御役屋に申し出れば良い。問題が解決するまでは、阿仁廻米は停止する」と説得した。昼下がり、農民達は役人と一緒に角館に向かった。農民達は人数を増やしてときの声を上げ、貝を吹き上げながら移動した。梅沢村や卒田村では肝煎宅に押しかけ食事をする程度の農民達だったが、20日正午過ぎ、雲然村(旧角館町)の親郷肝煎・久吉宅で、乱暴狼藉を働いた。役人や足軽は必死になって鎮めようとするが、「郡方にだまされるな。小館御役屋を毀せ」と言って聞かず、御役屋の米30俵を炊き出しても農民達の狼藉は収まらなかった。佐竹北家当主である佐竹義術が西野河原まで出馬して、農民達に「阿仁銅山廻米は停止する」「願いの筋を文書で示せば、久保田に行って申し伝える」と言って、解散するように諭した。農民の一部(西長野村、川原村、山谷川崎村の者)は約束の印を貰いたいと頑張った者もいたが、暗くなってようやく農民達は解散した。後日、佐竹北家は銅山廻米を続ける代わりに、久保田に送る米の中から300石をお救い米と払米にした。また、久保田に送る書状は基本政策に関わることであったので佐竹北家はこれを握りつぶした。前北浦一揆では農民の処罰者は出なかったが、奥北浦一揆では農民の処罰者が出た。
2023年08月15日
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39、皮産物の不吉と一揆打毀し多数処刑【長州藩天保一揆】「長州藩天保一揆」1831年(天保2)長州藩領内のほぼ全域に起こった一揆。防長一揆ともいう。防長一揆ともいう。藩内農民の皮迷信(秋口に皮類を扱うと凶作になる)による皮騒動を発端とし、瀬戸内側や近接地域で一揆が拡大し第一期(7月下旬から8月上旬)と藩の一揆が鎮静工作の過程で、各地域での様々な矛盾に表面化し、一揆が同時多発化し第二期(8月下旬から11月上旬)と続く。第一期では藩の産物取り立て政策による。米価・諸物価格高騰で苦しく下層・貧困層の、産物会所、米穀商人、村役人への打毀しが先行し第二期も米穀不足の状況下で村役人の不正疑惑や村政運営への不満が爆発、各農民層を巻き込んだ広範囲で長期の抵抗が続いた。同藩では1830年と1837年の一揆があり、藩体制は動揺した。 ◎「長州天保大一揆」1831年(天保2)防長両国にわたり、藩府の専売制強化に反対して起こった大百姓一揆。参加者は15万~20万ともいわれる。一揆の原因は、藩府が安い値段で各地の特産物を買い上げる「御内用産物方」を設置したことによる。この制度は、藩の専売制の強化策であった。一揆の発端は、長門(ながと)国吉敷(よしき)郡小鯖(おさば)村(山口市)の皮番所で、産物方用達が禁忌を犯して犬皮を用いていることを見とがめられた事件に始まり、これを契機に、またたくまに藩内12地区に次々と広がった。一揆勢は各村の御内用方(庄屋(しょうや))宅を打毀(うちこわ)したが、その数は741軒に達した。藩府は同年末から主謀者の検挙を行い、死罪10名、遠島24名という処分をした。 ◎「長州一揆」1831年(天保2年)、小鯖[おさば]村(山口市)で中関の御用商人石見屋嘉右衛門[いわみやかえもん]が駕籠に犬の皮をしいていたのを農民が見つけたことから騒ぎとなり、一揆に発展しました。当時、稲の穂が出る頃に皮革類が田の回りを通ると風雨を招くと言われており、農民達は皮革類を持ちこませないように見はる小屋を立てて、通行人の荷物を調べていました。石見屋は、皮革類を持ち歩くことで天候をくずし、米の値段が上がるのを利用してもうけようとした、と思われたのです。一揆勢は各地で村役人や商人の家を打ちこわし、どんどんその人数を増やしていきました。この一揆は最終的には、三田尻宰判だけでなく長州藩全体を巻き込む一揆となり、十数万人が一揆に参加したと言われています。 ◎長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。長州藩の江戸中期・1831年(天保2),長州藩全藩を席巻した大百姓一揆。天保大一揆ともいう。長州藩は1829年(文政12)に産物会所を設けて特権的な豪農商を御用達に任命し,翌年には薬種と綿以外のいっさいの商品の他国からの仕入れを禁止して,農民の商品経済を藩の厳重な統制の下に置いた。1831年7月末,この産物政策にからんで,吉敷郡小鯖村の皮番所での御用達商人と農民の紛争が発端となり,百姓一揆が勃発した。7月に瀬戸内海沿岸地帯の三田尻,山口,小郡を中心に広がり,9月には瀬戸内海沿岸の他の地域,中部山間部,日本海沿岸地帯へと波及し,代官らの取締りも効果を示さず,一門寄組以下正規藩兵が城下入口の警固と鎮圧に出動した。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。 *毛利 重就は、長門長府藩第8代藩主、のち長州藩第7代藩主。諱ははじめ元房、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。享保10年(1725)、長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞。匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。また、宝暦元年(1751)には本家にあたる長州藩第6藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。天明元年(1781)、徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じだったため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める。天明2年(1782)に家督を四男・治親に譲って隠居し、自身は三田尻の三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789)に死去した。享年64。 ※長州藩天保一揆は「皮迷信」によりことから端を発し、その皮迷信は(秋口に皮製品を扱うと凶作になる)という言い伝えで一揆が始まった。藩は各地の特産物に「御内用産物方」が皮番所で禁止を犯して犬皮用いたことを見とがめられた事件に始まり、当時稲の穂が出るころに皮革類が田の周りを通ると暴風雨になるという。農民たちは皮革類を持ち込ませないように、見張り小屋を建てるほどだった。石見屋は皮を持ち歩くことで天候を崩し、米価が上がることを画策、これを知った農民は商人、御内用方(庄屋)を打毀し、その数741件に達した。一揆の数十数万人に達したという。その後幕府は首謀者の逮捕行い、死罪10名、遠島24名の刑に処した。
2023年08月15日
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38、水争いから一揆打毀し多数処刑【紀州藩領文政6年一揆】「紀州藩領文政6年一揆」紀ノ川流域の村々で発生した水争いから発展して、紀州藩にたいして農政政策の転換を要求した一揆。1823年(文政6)5月干ばつを契機に村々で水争いと打毀しが発生した。6月8日伊都郡名倉村で蜂起以降は惣百姓一揆に転化し、酒屋、米屋、質屋などを襲撃するとともに、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。一揆勢はさらに紀ノ川沿いに西進し、和歌山城下北方で町奉行の説論を了承して居村へ引き返した。その直後有田郡でも小前農民が小作者としての要求を掲げて一揆に立ち上がった。一揆の終焉後、藩は「皮多身分」の者を含む33人を獄門に処するなど厳罰に処した。「文政の百姓一揆」 財政に苦しむ紀州藩 18世紀に入ると,紀州 藩では藩の収入に比べて支出が多くなり,財政が苦しくなっていたので,たびたび節約の御お触れを出した。このような時期,1789(寛政元)年に徳川治宝が10代藩 主 になり,藩財政 の立直しに取り組んだ。まず武士の教育に力を入れ,才能がある武士を役人にして,役所の費用を減 らす工夫を命じた。藩の収入を増やすために,橋本町(橋本市)などで御仕入方 という役所を新たに 設けて,特産物や他の藩から入ってくる米などを,御仕入方を通して売り買いさせるように改め、そのもうけの一部を藩へ納めさせました。広がる百姓一揆 1823(文政6)年は、春先に雨が降ってからのち日照りが続き、各地で田植が出来なかった。植えた稲が枯れそうになる被害が広がった。なかでも紀ノ川下 流 域の村々で水不足がひどく,宮井用水(和歌山市)の水を使う村々の農民が、大勢が上流の村へ押しかけ,用水の取入れ口や庄屋の家をこわすなど,さわぎを起しました。 同じころ,亀池(海南市)の水に頼 たよ る亀ノ川下流域の農民たちも、上流の村へ押し寄せ水争いをしまし た。こうして田植をめぐって,各地で村と村の水争いがしだいに広がりをみせてきた。 6月8日の朝,久しぶりに少しばかりの雨が降りましたが,伊都郡名倉村(橋本市)の農民たちが,雨 乞の祈りをしようと集まりまった。 話をしているうち に「米の値段が上がってきたのは,米屋が値を上げているからだ。」と不満の声が強まり,村中に呼びかけて,米 屋などを打ちこわし始めた。当時一 揆 き はきびしく禁 止されていたが,彼らは,近くの村々へも参加す るよう強く働きかけ,多くの農民たちを引き連れて,庄 屋や米屋など豊かなくらしの家々を襲 った。そして 次の日には,騒動 は主に橋本市北岸から,大和国や河内国 付近まで広がった。 河原 に集まった一揆の群衆をしずめようと,伊都郡役 所の役人が出て行きたが,農民たちの要求は強く,農民の願いを取りまとめた農民の代表が,物資 の流通に深くかかわっていた御仕入方役所を廃 止することなどについて回答を求めた。 水争いから始まった 第3章 紀州徳川家の時代 文政一揆の記録(個人蔵) 文政の百姓一揆153 一揆が,紀州藩の政治のやり方を改めてほしいと要求する一揆 へと,大きく変わって行った。 役人は,藩へ報告してから返答すると説得しましたが,一団 はすぐに回答するよう求め,一揆の勢いは強まるばかりで,役 人の態度に憤慨 した農民たちは,10日には和歌山城をめざして 進み,行く先々で金持ちの家をこわし,物を持ち出した。 そして11日には数万人の農民が和歌山城近くの地 蔵 の辻 まで 押し寄せた。藩は鉄砲まで出して守りを固めて,農民たちを押しとどめた。藩は農民たちの代表が出した要求の受 入れを約束したので,4日間も続いた大百姓一揆は収まった。 紀ノ川流域の一揆がしずまったころ,有 田 川流域の村々でも打ちこわしがおきましたが,藩は素早 い対 応をとり,藩役人の説得と藩 兵を出して守りを固め,一揆の広がりを防いだ。 今までにない紀ノ川流域の大百姓一揆で農民の願いは通ったが、藩は騒 動 を引き起こした中心者を つぎつぎと捕 とら え,その数は384人にものぼりった。 きびしい取り調べが続き,死 刑 にされた者は33名に達した。一方長く藩の政治をおこなってきた治宝は,翌1824年に藩主を退 き,隠 居されらえた。 これは百姓一 揆を招いた責任をとったからだと言われている。武士の支配が大変強い時代でしたが,農民がくらしを守るために,藩へ政治の改革を求めて立ち上がっ たことは紀州藩では例がなく,新しい時代の幕開けを予感させる出来事であった。 地元の役所へ訴えないで,直接幕府の役所などへ訴えでること。(和歌山の歴史より) ◎「皮多」中世期・近世の被差別部落の名称。皮田、河田とも書く。皮革業に従事したが、農村では農業で生計を立てるところも多かった。掃除・下級行刑・皮革の役を課せられ、斃牛馬処理を行った。1526年(大永6)駿河の今川氏親朱印状に「かわた彦八」小田原北条家領伊豆のにも「かわた」が見える。◎「小前」元々も意味は大前に対して小前で、財産の少ない家、貧乏人。江戸時代の百姓について田畑を少ししか持たない者(小前百姓・小百姓)をさす。具体的には、①村役人を含めた本百姓。②村役人・村役人層以外の本百姓。③無高もふくめ弱小な百姓。④小作人、の4種類の者が見られる。幕府・領主が基本的な農民の階層として把握していた本百姓は、村の支配体制の上では、村を治める庄屋・名主あるいは組頭=小前という関係に置かれていた。①②はこうした関係に基ずいた用法である。村役人も退役すれば小前の身分とされる。 ◎「村方騒動」江戸時代、村落内部に生じた百姓間の対立、紛争・村方出入り、小前騒動と言う。江戸時代の村々は、村内の身分階層に伴う地位・権利問題、村政の運営の方法や村入用の負担を巡って問題、地主・小作関係など、さまざま課題を抱えていた。これらの諸問題を大きく規定したのが、幕藩領主で採用されたのが村請負制であった。この制度により、近世の村は、百姓の生産・生活のための共同組織である。 ※「紀州藩領文政の百姓一揆」一揆は紀ノ川流域の水争から端を発し、藩財政の逼迫に節約の「お触れ」が出された。藩自体も財政立て直しに、役所の費用の減らす工夫を命じた。百姓自体も生活は困窮し、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。文政6年は天候が悪く、長雨から、日照り続きで、紀ノ川流域は水争いが生じ、用水取り入れ口で紛争し、百姓の不満は一挙噴出し、一揆勢は紀ノ川沿いを西進し、和歌山城下北方で藩の交渉で代表の出した要求は受け入れらえた。一揆が鎮静化して一揆を起こした責任を問う厳しい取り調べがあって、その数384人に登り、死罪など獄門に処する者33人に処罰が下された。
2023年08月15日
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37、日銭徴収で一揆打毀し多数処罰『宮津藩領文政5年一揆】「宮津藩領文政5年一揆」1822年(文政5)丹後国宮津藩領で起こった。同藩史上最大の全藩一揆。藩主松平宗発は当時寺社奉行にあり、役職や昇進運動にかかわって増大する費用調達のため、藩は年貢の前倒し上納に加え、この年万人講と称する一人一日三文ずつ日銭徴収を開始し、これらが一揆勃発の引き金になった。一二月一三日与謝郡石川で始まった打壊しは城下を含む与謝郡一帯、ついに中軍、竹野郡へと広まり、大庄屋、庄屋、手組(日銭徴収担当者)の居宅など四十軒の移譲が打毀された。藩から万人講凍結などが示されたことにより騒動は十八日までに収束するう。翌年藩は改めて譲歩案を表明したが、併せて関係者の一斉検挙を行い、首謀者を獄門・打ち首に処した。 ◎「文政一揆」(1822)石川の奥山村・ 山田の対岸石川は文政百姓一揆の発端地として有名である。文政五年(1822)宮津藩は、藩主本庄宗発が幕府の寺社奉行加役の重職にあって江戸に出仕し、丹後はほとんど重役に委せきりであった。そのために莫大な費用を要し、藩の財政が窮乏したために、御勝役頭取沢辺淡右衛門、元締松山源五右衛門、郡奉行飯原鎮平、郡奉行見習代官頭取古森乙蔵らが画策して、年貢として先納米、先先納米をとったあげく、万人講と称する人頭税を考えついた。そしてこの徴税のために責任を大庄屋に押しつけ、これを助けるために出役庄屋を設け、大庄屋と出役庄屋には年貢の一部を手数料として渡すことにした。これを知った江戸家老栗原理右衛門の庶子関川権兵衛が、分宮の祭礼の時に奥山村の吉田為治郎(喜右衛門)に話した。為治郎は急ぎ奥山へ帰り、姉さくの夫である吉田新兵衝(滋蔵・中部常吉村より入聟)に話した。一刻も猶予できないと文政五年十二月八日領内一二○ヶ村の百姓にひそかに激をとばした。 同年十二月十三日の霜の降る夜、みのかさをかぶり、手に手に鎌、なた、竹やりなどを持った加悦谷の百姓たちは続々と野田川べりの加久屋僑につめかけた。夜半に浪江要助という者が橋詰にのろしを上げると同時にかねてから手はずのあった三河内の中田、宮津の狼煙山より合図ののろしが上がり、手はじめに上山田の大庄屋小長谷安四郎、石川村大庄屋芦田庄兵衛、出役庄屋八郎兵衛宅を打ちこわした。これに呼応して与謝郡内百姓はもとより、中郡、竹野郡、加佐郡の一部の百姓が蜂起してその勢約五万人、各地の大庄屋、出役庄屋、ちりめん問屋等を打ちこわして宮津城の大手門に押し寄せた。驚いた宮津藩ではなすすべを知らず、ちょうど江戸表より帰城した家老栗原理右衛門をして百姓の要求をのませてようやく十七日になって鎮まった。ところが翌六年石川村に潜入した藩の密偵が駄菓子屋の主人から新兵衝、為治郎のことを聞きこみ、二月十五日未明村上淡右衛門ら捕手が奥山を急襲して両人を召捕った。新兵衝の妻さくはその時、汁をよそおうと見せかけてすばやく連判状を火にくべた。処刑者が意外に少いのはそのためである。そののち奥山村元蔵をはじめ石川村からも次々と三五名の百姓が召捕られて入牢し、きびしい拷問にも唯一人として口をわらず、この間奥山村の与治右衛門と、宮津町大久保稲荷大工の長五郎は牢死し、結局文政七年(1824)2月22日、新兵衝と為治郎の二人のみが処刑された。また関川権兵衝は、百姓に同情して事実を知らせた罪により切腹させられている。 一揆を事実上指揮した総髪の大男といわれる宮津大久保稲荷の神主坂根筑前(清太郎)はいち早く大阪へ逃亡したといわれる。 二人の首級はある夜ひそかに石川福寿寺の住職が盗み出して奥山村に埋めたといいそのような大騒動が起きたども思えぬような静かな奥山の墓地には、 元来宮津藩は田辺、峰山両藩と異なり、領主が次々とかわって、それも悪政が多かったため、一揆が群をぬいて多く発生している。江戸時代に府下で五六件の一揆のうち.田辺藩二回、宮津藩十回、峰山藩では一回も起きていない。『丹後路の史跡めぐり』より引用。 *松平 宗発((まつだいら むねあきら、天明2年7月2日(1782) ~ 天保11年8月25日(1840)は、江戸時代後期の大名、老中。丹後宮津藩第5代藩主。本庄松平家8代。3代藩主松平資承の三男。4代藩主松平宗允の弟。正室は牧野康儔の娘。子に長男宗篤、次男資懐(那須資礼養子)、三男常要、四男安行、娘(西尾忠固正室)、洵子(松平忠栄継室)、娘(青山幸礼正室)、娘(松平信宝継室)、娘(安藤信正正室)、娘(安部信任正室)、娘(久野純固室)、娘(中西元良室)。官位は従四位下、伯耆守、侍従。奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を経て、老中に就任。藩の財政回復の為に万人講という政策を行った。万人講は、領民に1日3文の貯蓄をさせ、毎月庄屋がそれを集めて上納させる政策であったが、各地で反対する打ち壊しが発生し、文政2年(1822年)に廃止された。宗発死後、家督は養子の松平宗秀(4代藩主宗允の三男)が継いだ。 ◎松平〔本庄〕家宮津藩は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなった。松平(本庄)氏の家祖・宗資は5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。明治4年(1878)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。藩家の本庄松平氏は明治2年に華族に列し明治17年(1884)に子爵となった。 ※宮津藩文政一揆は藩主松平宗発が江戸にて重職にあって、重役家臣にまかせっきりで藩の財政は困窮していた。年貢の増微に万人講という一人一日3文の徴収で増収を図った。この人頭税に百姓は反発、一挙一揆に勃発していった。与謝郡石川から始まった庄屋、大庄屋への打壊しは、中郡、竹野郡へと広まって、百姓蜂起は膨れ上がり約5万人が、ちりめん問屋、出役庄屋から宮津城の大手門まで迫った。宮津藩ではなす術もなく、江戸表より帰城した家老粟原理右衛門が百姓の要求を受け入れてようやく鎮まった。その後一揆の首謀者として次々捕縛され、35名の農民と厳しい取り調べが行われた。厳しい拷問に誰一人首謀者を口をわらなかったが、大工の長五郎が牢死、新兵衛と為治郎が処刑され、百姓に同情し事実を知らせた関川権兵衛は切腹をさせられた。
2023年08月15日
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36、減免へ一揆打毀しに鎮圧【富山藩領文化10年一揆】「富山藩領文化10年一揆」1813年(文化10)富山藩で起こった百姓一揆。凶作による年貢の減免要求、人別銭の賦課反対、2万石の籾納品拒絶(脱穀拒否)、大久保塩野(旧大沢野大久保。現、富山市)新開にたいする不満などが一揆の理由とされる。藩役人、支配の十村、資本家地主、農村への進出する町商人への反発が底流にあった。10月15日富山西町の岡田屋嘉兵衛方、富山舟橋向かいの河原屋周五郎方への打ち荒らしが始まり、八尾町(現富山市)では米屋など11軒が襲われた。同月20日に婦負郡中部の在村地主が10人、11月9日には同北部の十村3軒が打毀された。一揆の首謀者は永牢、領分追放に処せられ、被害者十村、地主、町用人も処罰された。郡奉行も免職減俸され、救米など4000石が出された。 ◎「十村」加賀藩の農政機関名で大庄屋に相当する。1604年(慶長9)に設置。当初は主に新開と走百姓対策の職責とし、十村組頭肝煎、十村肝煎と呼んだが、藩の農民支配体制が整うにつれて吏僚化して農政全般を職掌し、管轄する村組も十か村程度から数十か村へと大組化した。 そののち、山廻り、新田裁許が分置されて職掌を分掌した。十村役の等級は、無組御扶持人十村、平十村の3級で、それぞれに並役、列役を置いて九等級に格付けし、役料は管轄下の成人男子1人につき年2升ずつ出す鍬米で、ほかに年貢収納代官を兼務しその給分を受けた。1821年(分性)18年間は廃止されたが、元十村は郡奉行の下で年寄り、年寄り並の職名で勤務した。十村の多くは世襲で互いに縁組し、百姓身分の中から格別の階層をなす観があった。1870年(明治3)9月に廃止。支藩の富山藩・大聖寺藩にも十村制度があった。 *前田 利幹(まえだ としつよ)は、越中富山藩の第9代藩主。明和8年(1771年)、加賀大聖寺藩の第5代藩主・前田利道の八男として江戸で生まれる。享和元年(1801)に富山藩の第8代藩主・前田利謙が死去したとき、次男の利保が2歳の幼年だったため、利謙の養子として迎えられ、家督を継いで第9代藩主となる。藩財政再建のため、有力町人と協力して新田開発を行なった。享和2年(1802)には恵民倉の設立や商品作物の導入などを行なったが、商品作物の導入はかえって物価を高騰させたために農民の反発を招き、文化10年(1813)には百姓一揆が発生した。天保2年(1831)の富山大火、財政難解消のために天保4年(1833)に発行した銭札により、却って金融恐慌を起こしてしまうなど、藩財政は打つ手がないほど追い込まれていった。 ◎棟別銭(人別銭)むねべつせん・「むねべちせん」とも読む。鎌倉~戦国時代に行われた家を対象とした臨時課税の一つ。朝廷,幕府,大寺社などが,皇居,将軍邸,社寺,橋梁などの造営,修理の費用にあてるため,全国あるいは特定の国,荘園に棟ごとに賦課した。 ※富山藩で起きた百姓一揆は、家を対象に臨時課税の人別銭と籾納品(籾納品は脱穀して納品をすることで、手間がかかり百姓に暮らしに影響する。)の二件の負担に一挙農民の不満が爆発し、一揆の百姓は庄屋、藩役人に打壊し、米や11軒が襲われた。一揆の首謀者は捕らえられ、永牢と領分の追放されたが、救済米4000石が放出された。
2023年08月15日
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*青山 忠裕は、江戸時代中期から後期の大名・老中。丹波篠山藩第4代藩主。青山家宗家10代。第2代藩主青山忠高の三男。天明5年(1785)、兄で第3代藩主の忠講が嗣子なく21歳で没したため、家督を継ぐ。忠裕は、寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされるポストを残らず勤め、文化元年(1804)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。老中在任中、相馬大作事件の裁判や、桑名藩、忍藩、白河藩の三方領知替えなどを担当した記録がある。文政元年(1818)、藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせる。また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘など摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた。天保6年(1835)に隠居し、家督を四男の忠良に譲る。翌天保7年(1836年)没した。 ◎助郷(すけごう)は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。さらに、村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。日光道中では、元禄9年(1696年)に常設の「定助郷」を編成した。享保10年の名称改正以前は「大助」と呼称されていた。当初は宿駅の要請で公儀御用の管理が困難であり、知行する領主の責任と差配によるものであったが、編成後は宿駅から至近距離にある村々は道中奉行による助郷証文よって勤め高に基づいて定助郷が固定化さ支配された。江戸時代末期には人馬需要の激増があり、宿とともに周辺村々に対しても、助郷役「負担」による村財政と農民生活の影響について、丸山雍成による『近世宿駅の基礎的研究』にしめされている。 ※「牛久助郷」常陸の国牛久宿で起こった一揆。一揆は公用馬の常陸国牛久宿で起こった定助郷差村化(江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。定助。)に反対する助郷村人の一揆だった。街道沿い、近隣の村々は行きかう街道の運搬や役人の往来、参勤交代の人馬の手配、補充など指定される「定助郷村化」が余りにも負担に疲弊し僅かの手当てでは賄えず、水戸街道牛久宿疲弊と困窮を招いたと、牛久・荒川沖両宿の総代が、他の助郷拡大の要求に百姓一揆が起きた。助郷拡大の対象の村々の村役人が集結した。発起人の小池勇七、吉十郎らが呼びかけ、55か村6000人が女化稲荷に集結し、人馬請負人の久野村藤治、牛久宿問屋麻屋左衛門、画策人阿見村組権左衛門の鎮圧部隊の出動以前に解散した。一揆の結果10年間の助郷村差村となった。
2023年08月15日
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35、神出鬼没の一揆に助郷の打毀し処罰し鎮圧【牛久助郷一揆】「牛久助郷一揆」は、1804年(文化元年)に現在の茨城県牛久市で発生した一揆。1804年(文化元年)10月、牛久宿近くの女化原に大勢の百姓共が徒党を組み牛久宿問屋の麻屋治左衛門他2人の居宅を打壊し、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩と土浦藩に対して騒動鎮圧の公儀御達が出された。女化一揆とも呼ばれるこの騒動は、打壊しの後間もなく治まり、勘定奉行所の松平兵庫頭が掛りになって徒党共の吟味を行い、翌1805年(文化2年)8月に裁許状が村々に届けられた。10月23日に、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩主・堀田正順宛に「女化原で百姓共が集まり、騒立てているので、3人の代官と相談の上、早々取鎮めるよう」書付が渡された。そこで、「万一、百姓が手向かいする時は、飛道具(鉄砲)を使ってもよいのか」文書で問合わせたところ、「時宜によって飛道具等使っても苦しからず」と口頭で了解が得られた。早速、佐倉藩江戸屋敷から佐倉城へ連絡があり、同日午後4時から6時頃に、一番手(56人)と二番手(37人)の兵が龍ヶ崎宿へ向けて出立した。25日午後2時頃、三番手(38人)の兵を佐倉藩堺の松崎村へ派兵し、模様次第で差向ける事ができるようにした。11月1日、3人の代官から、「老中青山下野守殿から引払いの御達」があった旨、仰せ渡され、一の手と二の手は同日16時に若柴宿を引払い翌12時に佐倉へ到着、三の手は20時に松崎村を引払い翌朝2時に佐倉へ帰着した。土浦藩では、20日夕4時に手代からの要請を受け、とりあえず御徒目付の中川六郎兵衛他総勢17人を急派した。一の手は、夜9時に土浦を出発、深夜2時に牛久宿へ到着し、中川六郎兵衛が手代二人に面談した。打合せの結果、百姓共が牛久宿へ来る恐れが高く、二の手の増派が必要と判断し土浦へ連絡。21日夕4時に物頭の西川平次郎外総勢46人が土浦を出立、夜八時に牛久へ到着した。10月23日、三の手として御目付室兵右衛門以下34人が土浦を出立した。これに伴って、引続き四の手の体制整備を命じた。10月23日、郷目付に申付、女化原を探索した所、百姓共は同日昼過に退散した事を確認した。土浦領烏山村名主の父親が扱いに立入、内々解決したものであった。これに伴って、四の手の派兵は中止とし、土浦で待機することになった。10月31日夕4時に百姓共1500人~1600人で、牛久宿の麻屋治左衛門居宅が打破られた。土浦藩の二の手が到着する前の出来事であり、1の手(17人)は、手代2人の旅宿佐野屋を固めていたが、その前を百姓達が手向いなどせずに通過した。奉行所の裁許・女化騒動は、近隣の53ヶ村の村々が参加した。奉行所は、不参加の農民も参加者を引留めなかったので有罪とし2602人に過料(合計422貫文=約百両)を科した。勇七は、張札を作ってこの騒動を起し、頭取に選ばれた事から主犯と認定され、獄門(打首)と裁定された。吉十郎は勇七に協力して騒動を起したと裁定され、桂村の兵右衛門は打壊しを主導した罪で、2人共遠島と裁定された(尚、3人共入牢中に拷問によって病死した)。勇七と吉十郎は、積金の利息で人馬を雇う案を話合うつもりで集会を開いたにもかかわらず打壊しの暴挙に至ってしまい有罪になり、桂村の兵右衛門は打壊しの発言があったと認定されて有罪にされている。女化騒動の参加村は、関宿藩・仙台藩・谷田部藩の藩領と、旗本知行地の村々であり、牛久藩と土浦藩の藩領からの参加村は無い。参加村は、領主の押さえが不十分な飛地にある村々で起こった騒動であったと考えられる。勘定奉行所の松平兵庫頭が提出した裁許状の「常州村々百姓共徒党に及候一件」は、勘定奉行所に「例類集」として保存され、維新後は新政府に引継がれ、現在は国立国会図書館に保存されている。 ◎牛久騒動・1804年(文化元)10月常陸国牛久宿で起こった定助郷差村化反対(助郷役を課するよう宿駅より道中奉行に願い出されて、その指定をうける村。)の百姓一揆。女化騒動ともいう。公用人馬の増大で水戸街道牛久宿疲弊と助郷村の窮乏を招いた。牛久、荒川沖両宿の総代が助郷村の拡大を願い出たところ、幕府は役人を牛久宿に派遣、助郷拡大の対象となる村々の村役人を呼び出した。これに対して発起人小池村勇七、吉十郎らを呼びかけに、18日朝55カ村から6000人余りが女化稲荷がある女化原に結集。19~20日にかけて、人馬請負人の久野村和藤治、牛久宿問屋麻屋左衛門、画策人阿見村組頭権左衛門の居宅などを打壊しした。幕府は代官三人他を鎮圧に派遣し、鉄砲の使用を認めたが、一揆勢は近辺諸藩の鎮圧部隊の出動以前に解散。一揆の結果は10年の助郷差村となり、頭取3人は獄死し、裁可は頭取の獄門、遠島のほか、2600人余りに過料を課せられた。
2023年08月15日
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34、天領と藩領の曖昧さに負担増に一揆【享和・村山一揆】「享和・村山一揆」1801年(享和1),出羽村山郡の幕領や天童・山形両藩領に発生した一揆。前年の凶作による米価騰貴と、特産の 紅花値段が下落したことから,買喰いの者とよばれる下層民は、夕方頃から各地に屯集、27日に天童城下の商人を打ちこわし、その後も周辺各地の地主等を打ちこわしつつ山形城下をめざした。29日、山形藩は、米価値下げ・質物利子下げなどの要求を認めたが,城下への侵入は阻止。その後周辺諸藩の出兵により一揆は解散した。主謀者のうち無宿の秋田大五郎は捕縛(牢死)されたが、落合村国平は逃亡。一揆を契機として郡内で米穀を備蓄する 郡中議定ぎじょうのシステムが整備された。「村山一揆」・百姓一揆の直接原因としては徳川時代にしばしば継起せる凶作、及び幕府の「生かさず殺さざる様」との施政方針に基く貢祖の重課、領主は奉行、代官、名主等の暴虐等が其の主な原因である。 山形県の場合は、早冷多雪にして天恵に浴すること少く、凶作に陥り易い地域の上、私領直領等錯雑し、行政区画は甚しく細分せられ、近接地域内に於ける行政方法の相違も著しく、農民間に統治者に対する不信が起り易い土地であった。 山形県内に於いて徳川時代に発生した百姓一揆の主なるものは56件あるが、国替、属領変更等の行政的原因に依るもの4件と名主庄屋に対する不平不満に基くものを除けば、他の殆んど大部分は不作、米価騰貴、負担の重課等の経済的原因に基因するものである。これらの一揆を発生地方別にみると、村山地方23件、最上地方8件、庄内地方18件、置賜地方4件となり、形態別では暴動、打毀26件、強訴、越訴17件、暴動及び越訴を兼ねたもの3件、逃散7件、不穏3件となる。 一揆中異例に属するものとしては、天保11年及び明治2年の両度に亘る庄内藩転封阻止一揆にして百姓一揆が領主、代官等の支配階級に反抗するのが原則とするのに反し、本一揆は一面に於ては経済的利害関係より出たことは是認せられるべきであるが、主従離別を悲しむという封建的倫理観より出たものにして、農民は領主の同情者として転封命令を中止せしむべく越訴を行ったものである。 (長井政太郎編「出羽百姓一揆録」による) ◎幕領・天領(江戸時代における江戸幕府の直轄領のことである。幕府領、幕領ともいう。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所、代官所、支配所(とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。幕末の慶応4年(1668)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。豊臣政権時代の徳川氏の蔵入地が基である。関ヶ原の戦い、大坂の役などでの没収地を加えて、17世紀末には約400万石となった。その年貢収入は幕府の財政基盤となった。 ※出羽国村山郡は天領(幕領)、大名領(藩領)、寺領と混在してる地域で、諸国地域によって地場産業の特産品にも課税される。山形では「紅花」が有名である。また寺領として一向宗本願寺奉金徴収と不作によって、米価高騰と金銭不足に酒の値段や、油粕から肥料まで物価高騰に農民の暮らしは困窮し、仲買人を廃止し、直接販売を要求する一揆が勃発し、商家、地主などを打壊し、城下に2000人余りが乱入した。衝突で農民が二名死亡、近隣の大名も警備に出動した。首謀者大五郎は獄死したという記録がある。
2023年08月15日
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◎宇和島藩・宗利以降の時代・宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図った。この時代は後世の模範になったとされているが、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ、貞享4年(1687)頃には藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、元禄元年(1688)には5か年計画を立てるに至った。元禄6年(1693)11月、宗利は宗贇に家督を譲って隠居した。第3代藩主宗贇は仙台藩の第3藩主伊達綱宗の三男で、宗利の婿養子である。元禄9年(1696)7月、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行われて再度10万石となった。ただしこれは、藩や商人で進めていた新田開発や収穫のない荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等により藩財政はますます逼迫した。正徳元年(1711)に宗贇は死去し、三男の村年が第4代藩主となる。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札の発行と被災者の救済、植林・植樹から、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な藩政改革が試みられたが、肝心の村年が享保20年(1735)5月に31歳で急死した。第5藩主村候は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖である。寛保3年(1743)に倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し、寛延元年(1748)に藩士と庶民共学の藩校・内徳館(のちの明倫館)を開いた。また、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売とした。さらに農政改革をはじめ、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行なった。これらの改革は成功したが、天明の大飢饉により藩は深刻を極め、疲弊した藩では一揆や村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6年(1794)9月に村候は死去した。なお、村候死去の前年に吉田藩で紙の専売をめぐって武左衛門一揆が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっている。第6代藩主には村候の子村寿が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行った。だがこの時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次いだ。また文化9年(1812)には萩森騒動と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生している。さらに文化5年(1808)夏に伊能忠敬が宇和島に入って測量を行っているが、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行われ、宇和島にかなりの負担をかけ、藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれている。 ◎伊予吉田藩は、明暦3年(1657年)7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が宗藩より3万石を分知されて立藩した支藩である。三河国の吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁として、現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋が置かれた。この3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で、2人の兄が相次いで早逝するなかで世継となった三男・宗利を妬んだ宗純が、仙台藩の伊達宗勝(政宗の十男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主・伊達忠宗に送っている。なお、宗勝は後の伊達騒動の首謀者として断罪されていることも一考に価する。結局、彦根藩主・井伊直孝の仲裁により3石分知は果たされたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立した。両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩の家臣となり専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続いた。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなった。第7代藩主・宗翰は宇和島藩主・村寿の子、第8代藩主・宗孝も宇和島藩主・宗城の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えてよい。享保の大飢饉では大被害を受け、2万7000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなる。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしたが、このために寛政5年(1793年)2月に吉田藩最大の一揆である武左衛門一揆が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめた。寛政6年(1794年)11月13日には藩校・時観堂を創設し、森退堂を登用した。幕末は第8代藩主・宗孝が実兄・宗城と不仲だったことから佐幕派として行動し、兄の仲介で新政府より許されている。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする吉田県を設置(草高3万石、現石1万4730石)。同年11月15日、第1次府県統合により吉田県を廃止、同時に旧宇和島県、旧大洲県、旧新谷県と合併し、新たに宇和島県を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、神山県を経て愛媛県に編入された。 ※伊予吉田藩で起きた百姓一揆である。寛政2年(1790)吉田藩は紙座を設けて、御用商人の法華津屋に紙の取り扱う専売権を与えために、製紙業者に従事する者の収入は激減した。このために吉田藩領の日吉村の百姓武左衛門が浄瑠璃語りの装束で3年間にわたり農家を戸別訪問し大一揆への意味をまとめ上げ,法華津屋を打毀して専売制を改めさせようとした。一揆衆は宇和島藩に訴えるために、伊吹八幡神社前に集結した。一揆百姓は7500人に膨れ上がり、吉田藩の宗家である宇和島藩に一揆勢の主張を認めさせようと主張を申し入れ、宇和島藩は主張の全て認め、一揆の首謀者を罰しない約束した。この約束は吉田藩の裏切りで破却され、吉田藩の役人は百姓に酒を与えて、武士分に取りたてると偽り、武左衛門の出身などを所在まで聞き出した。直ぐに武左衛門を捕縛し、斬首した。吉田藩家老の安藤継明は、この卑怯な吉田藩のやり口に一揆の説得にあたり自分の責任を感じ、藩の責任を負って白装束に身を変えて、八幡川原の土手で切腹をした。これを見ていた農民はいたみ安藤邸跡に安藤神社を建立した。
2023年08月15日
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33、製紙の利権で一揆で義民の武左衛門【武左衛門一揆】「武左衛門一揆」江戸時代後期に南予(伊予南部)の伊予吉田藩で発生した百姓一揆である。寛政2年(1790)、吉田藩は紙座を設けて御用商人の法華津屋に紙の専売権を与えたため、製紙産業に従事する領民の収入は激減した。このため、吉田藩領の日吉村の百姓武左衛門(嘉平)が桁打ち(浄瑠璃語り)に身をやつして3年間にわたり農家を戸別訪問して大一揆を纏(まと)め上げ、彼らは法華津屋を打ち壊して専売制を改めさせようとした。一揆衆は吉田藩の宗家である宇和島藩に訴えるために伊吹八幡神社前の河原に集結し、その総勢は7500名を数えた。一揆勢に対し、吉田藩は家老の安藤継明(儀太夫)が八幡河原に出向き、責任と解決のために一揆勢の前で切腹した。また宇和島藩は一揆勢の主張を全て認め、一揆の主導者は処罰しない事を約束した。しかしこの約束は吉田藩の裏切りにより破棄され、吉田藩の役人は百姓らに酒を与えて「首謀者を士分に取り立てたいから教えてほしい」と計略をめぐらせて武左衛門の名前と所在を聞き出し、捕縛して斬首した。武左衛門の出身日吉村(現在の北宇和郡鬼北町)では、武左衛門ら一揆の主導者を義農として崇敬顕彰している。安藤継明も安藤神社に祀られ、現在も同地の町民には「安藤様」として崇敬されている。 *武左衛門・没年:寛政6(1794)生年:生年不詳・江戸中期の義民。寛政5(1793)年伊予国(愛媛県)吉田藩に通称吉田騒動と呼ばれる百姓一揆が発生した。吉田藩は特権商人と結託し,特産物である紙の専売化を計画し,紙生産者である小百姓に税を賦課し始めた。百姓たちは,吉田藩の本家である宇和島藩への越訴を実行した。このとき,一揆勢およそ9600人を指揮し,宇和島藩との交渉に当たった頭取が武左衛門である。その結果百姓側の要求は全面的に受け入れられた。しかし,吉田藩は頭取の追及を開始し,武左衛門は捕縛され,斬首のうえ獄門とされた。後世,武左衛門に対する義民伝承が生まれた。また大正8(1919)年には,顕彰碑も建立されている。 *安藤継明( あんどう-つぐあき)・(1747~1793) 江戸時代中期-後期の武士。 延享4年2月14日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)吉田藩家老。寛政5年紙の専売制に反対した武左衛門一揆(いっき)(吉田騒動)のとき,2月14日農民の説得にあたり,藩の責任を負ってその場で自刃した。のち農民たちはこれをいたみ安藤邸跡に安藤神社を建立した。47歳。通称は儀太夫。安藤儀太夫は、切腹を覚悟して家を出ました。刀も常よりは良いものを持ち、白装束も用意しました。願いを聞いてとらすから出て参れとふれたところ、出てきたのは上大野村の勇之進であったと伝えられています。しかし、周囲から罵声がとんで話はできなかったのです。その後、八幡河原の土手で切腹するのですが、ただちに絶命したかは不明です。吉田藩は医師をよびにやったり、大騒動をします。医師は「かような御事態では、お墨付きを頂かなければ治療にはとりかかれません。」と言います。虫の息があったのかもしれません。切腹の後、供の者はおろおろとなり、見苦しい有様でした。鈴木作之進は命じて片づけさせます。切腹の報は、会談中であった吉田藩尾田家老と宇和島藩桜田家老に届きます。尾田家老は、取り乱してあとを追って切腹しまいかねない状態であった。「家中は でんぐりかえりて 隼人が仰天ふだまをぬかして 火鉢を踏むやら お色も青ざめ ももたち(股引き)とりあげ うろたえ騒げば・・」と『吝嗇(りんしょく)ちょんがり』は伝えます。切腹の結果、急速に解決に向かいました。 安藤儀太夫は、解決が長引き、お取りつぶしになることを恐れて、藩を救うために切腹しました。61年後、百姓を救うために切腹したとして民衆の神となりました。 末席家老の安藤儀太夫 は、吉田藩の評定の場で、願いは認めるべきだと強く主張し、他の家老たちに認めさせており、優れた人物であったことは間違いないことです。
2023年08月15日
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32、豪商人の排除に一揆に妥協点【松前藩領寛政2年一揆】「松前藩領寛政2年一揆」1791年(寛正2)凶業続きの江差近在漁民が大網操業に抗議をして起こした一揆。訴願により前年より、禁令が出されたが守らておらず、蝦夷地で大規模な鮭漁している栖原屋、阿部屋の追放を求めて3000人余りが城下が近在へ迫り、藩応戦の体制となった。寺院の仲介とあり、藩財政に寄与している大商人の追放は出来ない。大網は厳禁するという藩の態度で衝突なしに落着した。 *栖原角兵衛(1780~1851)江戸時代後期の松前物問屋商人、請負漁業、廻船業者。苗字は北村、名は信義。角兵衛は世襲名。7代目。紀州有田郡栖原の海民に系譜をもつ。江戸の薪炭・材木問屋に転向し、松前藩の城下店を拠点に苫前や留萌、根室、厚岸の場所請負人として鰊・鮭、鱒漁などの蝦夷地漁業に進出した先代の事業を拡大し、海産物を大坂に江戸に廻漕販売をした。また、伊達林右衛門と共同して江差町の造成や樺太漁業の経営にあたる一方、秩父で伐採業も行い、天保期には松前城下第3位の分限者に成長した。9代目の時には、経営場所ではアイヌ労働者の過酷な強制徴用を行ったことから、悪者の代名詞になった。 *伊達林右衛門(1758~1837)蝦夷地の場所請負人として松前藩政、幕府の蝦夷地経営に関係した大商人。陸奥国伊達郡山崎村の吉田林右衛門家7代目、のちに江戸の親戚伊達浅之助家で修業、松前関係の商売を但当し1793年(寛政5)には松前に伊達屋の屋号で店を構え、1796年から増毛場所を請け負う。以後、歴代の林右衛門は北蝦夷地、択捉という遠境の大場所など多くの場所請負に活動、一方、幕府「の蝦夷地用達を務め、将軍家斉に謁する機会を持つ、藩の士分の資格を得て、勘定奉行に任せられるなど、蝦夷地の産業開発と併せ藩、幕府の蝦夷地地経営の行財政に深くかかわった家柄であった。 ◎「場所請負制」蝦夷地に対するアイヌ交易権・漁業権を運上金を上納して商人が請け負う制度。松前藩では蝦夷地に設定されていた商場が知行地であり、そこでの交易が藩士の収入源であったが、18世紀初期の不漁期に運上金と引き替えに商場の経営権を商人に任せる藩士を出てくる。18世紀中頃まで藩主直領以外はほとんど請負化される。商場では交易だけでなく鰊漁などが盛んになり、商場の経済性が大きくなってくる(この頃から場所という呼称が目立つ)。18世紀末までに藩主直領も請負化するが、運上金が競いあげられ、利益追求中心の場所経営が進み、交易の不正、アイヌ酷使が問題になってくる。国後・目梨のアイヌ蜂起(1789)を招くことになり、ロシア接近の状況下にアイヌの離反が心配され、第一次幕府漁期に廃止され、直捌きとなったこともあった。しかし財政負担の問題から間もなく請負制に戻り、復領後の松前藩、第二次幕領の時期を通じて請負制は続けられた。アイヌや出稼ぎ和人漁民を犠牲にしつつ、幕藩権力、商人資本の経済基盤を成していた制度である。明治期には全廃された。 ◎松前藩は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼に関係ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。 ※「松前藩領寛政2年一揆」は漁業の江差近辺の漁民が、操業権で松前藩に請願し、禁令が大規模物産問屋、請負漁業、廻船業者、栖原屋・阿部屋などを追放を求めて3000人余りが城下の近在に迫った。大商人で広範囲で交易で、松前藩の財政に寄与し、松前藩の藩政に経済的に、潤っている以上、松前藩は大商人の追放は出来ない。ただし大網は厳禁するという藩の返答だった。漁民はやむなく受け入れ、衝突は避けられ落着した。
2023年08月15日
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31、失政に一揆に藩主再興し収束【福山藩領天明6年一揆】「福山藩領天明6年一揆」1786年(天明6)12月から翌年3月にかけて遠藤弁蔵の苛政に対して2度蜂起した全藩一揆。幕府の重臣であった阿部正倫は、(1745~1805)は弁蔵を抜擢して財政再建にあたらせた。弁蔵は国産木綿の流通統制や極度に厳しい年貢の取り立てなどを行ったために農民が疲弊した。しかもこの年が大凶作になったために、芦田・品治郡で12月15日に蜂起すると、瞬く間に全藩一揆に拡大した。20日に藩が要求書を受理した為に一旦は鎮静化したが、江戸在住の正倫が容共を拒否したために、翌月下旬から再び藩領全域に前回を上回る激しい打毀しが始まった。しかも2月には岡山藩に越訴もあり、正倫はやむなく農民の要求を聞き入れて弁蔵を罷免した為、ようやく一揆は収束した。 *阿部 正倫・延享2年(1745) - 文化2年(1805))は、江戸時代中期の大名。江戸幕府の幕閣で寺社奉行、老中を務めた。先代藩主・阿部正右の三男として生まれる。延享3年(1746)生まれという説もある。長兄・正表、次兄・正固の死により嫡子となった。明和4年(1767)に備中守を授かり従五位下に任ぜられた。明和6年(1769)に正右の死去により家督を継いだ。 前代から福山藩の財政は危機的状況に陥っており、正倫は襲封と同時に財政改革に取り組むが、あまり効果は挙がらず、それどころか天候不順が重なって一層の収入不足に喘ぐことになった。また、一揆の勃発により改革は後退し、結果、更に厳しい財政緊縮を強いられることになった。そこで、それまで改革の中核に据えていた叔父の安藤主馬に代えて、叩き上げの遠藤弁蔵に財政再建を担当させ、収入の増加に成功するが、遠藤の施策は苛烈を極め、領民の恨みを買うことになった。しかも、福山藩は「鬼より怖い」といわれた「上下銀」(天領の貸金)の借入にも手を染めており、藩財政はより深刻な状況へと陥っていった。しかし江戸に在府した正倫は、その実情を帰国するまで理解することはできなかった。この上下銀の返済に窮した正倫は、田沼意次への働きかけや寺社奉行の地位を利用して、返済の凍結を成功させ、最終的には借入の担当者(佐藤新四郎)を藩内から追放することで決着を図った。なお、遠藤弁蔵は後述する天明大一揆の責任を負わされ、獄死する。正倫は幕政では、安永3年(1774年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任、天明7年(1787)に老中に抜擢されるなど、順調な出世街道を歩んでいた。ところが、老中就任を祝う臨時税を領民に課そうとしたところ、藩領全域を巻き込んだ藩史上最大の一揆(天明大一揆)が勃発する。また、松平定信を中心とした改革派の攻勢により、失脚した田沼派に属した正倫は立場を失い、病を理由に天明8年(1788)、わずか11ヶ月の任期で老中を辞任する。その後は、藩政の建て直しに専念するため福山に帰国するが、藩内の綱紀の乱れは正倫の想像を超えるもので、正倫は失望に陥る。それでも藩士教育のため、福山城西堀端に藩校の(福山)弘道館を創設するなど、士風の振興を図ろうとしたが、あまり効果は挙がらなかった。また、財政再建に取り組んで、藩主親政による徹底した経費削減や有力商人への接近、農政改革など矢継早に政策を実施していった。その結果、財政再建には至らなかったものの、一揆を抑えることには成功した。 ※福山藩主阿部正倫が藩政の財政再建に遠藤弁蔵を抜擢、その任を命じた。弁蔵の再建策は国産木綿の厳しい取り立てに疲弊した上に、この年の大凶作で芦田・品治郡で農民の不満は爆発、蜂起すると瞬く間に全藩に拡大した。これに驚いた藩は農民の要求を受け入れたために鎮静化したが、江戸在宅の正倫が受け入れ拒否に、前回以上の打毀しが始まり、越訴もあって弁蔵を罷免し終息したが、その後遠藤弁蔵は天明の大一揆が勃発しその責任を負わされ、獄死した。
2023年08月15日
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30、惣代の不正発覚に町民一揆【近江八幡町天明6年一揆】「近江八幡町天明6年一揆」1786年(天明6)から翌年にかけて近江国蒲生郡八幡町に起こった町民一揆。飢饉の最中の1786年10月、町民寄宅に投げ文があり、町民の生活難打開と賦課軽減のために行動することを求めてた。この投文を機に町民に押されて町年寄りは惣会所の帳簿検査に及び、380両余りの使途不明金を発見、代官所は、惣年寄はじめ関係者の処罰をした。町民の動きは活発になり、地子銀の免除や御用金の延期などを求めたが、これに対して領主朽木氏は代官所に圧力に加えて、先に処罰した惣年寄を復職させるとともに首謀者を逮捕した。憤慨した町民は代官所に押し寄せ、逮捕者は釈放された。併せて惣年寄の改選が行われ、町人たち意向が反映させれた。 *朽木氏は、日本の氏族の一つ。近江源氏佐々木氏の分流である高島氏の有力庶家。高島郡の中でも、安曇川上流域(高島郡北部)である朽木谷を領した。鎌倉時代から江戸時代にかけて活動した。佐々木信綱の子高島高信の次男頼綱を祖とする。 頼綱の三男・朽木義綱が近江国朽木庄を領して朽木氏を称したのに始まる(宗家である高島氏は高信の長子である泰信が継承、頼綱の長兄・頼信は横山氏、次兄・氏綱は田中氏の祖となる)。宗家高島氏や他の高島氏分家とともに高島七頭と称され、高島郡の有力武士の一つであった。義綱の子孫・朽木経氏は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。室町時代には足利将軍家に仕え、室町幕府の側近として仕えた。朽木材秀・稙綱・晴綱・藤綱・輝孝が将軍(足利義材(義稙)・義晴・義藤(義輝))から偏諱を受けている。足利将軍の没落後、朽木元綱は織田信長、豊臣秀吉に仕え領土を保全し大名として家名を保った。関ヶ原の戦いにおいては当初西軍についたが東軍に内通し、そのため江戸幕府成立後も大名として存続を許された。元綱の死後、 領知はその3子(宣綱が6470石・友綱が3010石・朽木稙綱の3010石)に分割され、嫡流の長男・宣綱は交代寄合の旗本となった。さらに宣綱の子・智綱の代に、弟2人(良綱1000石・元綱700石)へ分知したため、本家は4770石で幕末を迎えた。 なお宣綱の子の一人高通が外家の号京極を名乗り、丹後峰山藩の大名となっている。また、元綱の三男・朽木稙綱は幕臣として若年寄に就任し、加増されて1万石の大名となり、近江朽木藩主となった。その後下野国鹿沼藩・常陸土浦藩を経て、子孫は丹波福知山藩主として、明治維新まで存続した。 ◎惣会所・大阪の惣年寄は、江戸の町年寄のようにめいめいの居宅を役所とせず、郷(北組、南組、天満組)ごとに惣会所があり、惣年寄はそこに集合して事務をとった。惣代は元来、町々の町代であり、町代が順々に町奉行に赴いて、郷内の用事をしていたため、町奉行所では惣代といっていた。しかし、町々の用事が多いため、町奉行所にでるのは迷惑であるといって、人を雇って出頭させた。ところが、雇人が事務に熟達してきて、雇人だけで用がすむようになり、これを町奉行所で惣代とよんだ。このように惣代は、郷内から扶持銀をもらう雇人であった。しかし、後に惣年寄と同じく世襲となり、町々からもらう扶持銀は、後におおいばりで町代に持参させたり、先取りしたりした。郷によって違いはあるが、惣代一人の収入は大抵、一年銀3貫目ほど、これに年頭八朔などの役得が1貫目ほど、合計4貫目ないがいの収入があった。ただし、父子同時に勤めるときは、若干の合力銀を貰った。手代・物書ほか・惣代の下に、これを補助する手代がいて、惣代1人あたり手代1人の比である。この手代は、書類の認方に従事する物書がおり、江戸・大坂の場合、北組、南組それぞれに3人、天満組には2人が置かれた。後には筆工もできて、定期雇用と臨時雇用とをあわせて、郷ごとに3人ずつ置かれた。さらに会所守は、会所の書類を保管する役として、郷ごとに1人、惣会所に住んだ。物書以下の給料は2ヶ月を1季とし、1季は200目ずつであった。以上のほか、小使人足が北組、南組にそれぞれ21人、天満組に17人いて、これは当日、使役の多少に応じて賃銀をもらった。 ※近江八幡町天明6年一揆。惣会所の不正発覚騒動一揆と言える。町民寄宅に投げ文があって、生活苦難打開策として賦課軽減の行動を促す文面だった。そこで町民寄宅を調べるうちに帳簿に使途不明金が露呈、代官所は380両の不明金に代官所は惣年寄はじめ関係者が処罰された。惣会所は下記の「惣会所」にあるように、役所の委託を受けて年貢などの会計処理をする町民の事務所のようなところ、惣代は半ば世襲的な熟達した町民の役職であったようで、惣年寄も自宅や寄り合い所で記録などの仕事し、代官所側に立って行う行政書士の代行のようなものかもしれない。町民の暮らしが苦しい中、380両の着服とあれはただでは収まらず、町民は地子銀(地代)などの免除や御用金の延期などを求めた。朽木氏は代官所に圧力を加え押し寄せた町民の首謀者を逮捕し、処罰した惣年寄を復職させた。再び町民は代官所に押し寄せ、抗議し逮捕者の釈放と惣年寄の改選を要求した。その後町民を意向が反映された。
2023年08月15日
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29、財政難に増税に負担の農民一揆【松江領天明3年一揆】「松江藩領天明3年一揆」1783年(天明3)1月18日に出雲国飯石郡三刀屋町と神門郡大津町で起こった一揆。松江藩家老朝日丹波が主導する明和の改革に対する領民の不満が鬱積しているところへ、前年5,6月の長雨で洪水による不作で米価が高騰を招いてしまったことが背景にある。三刀屋に集まった近郷を含む1万数千人民衆は宮内屋市兵衛宅を襲って打毀し、大津に集まった1万人余りの民衆は松江城下町に強訴を企てた。下郡役森広幾太が代表して藩へ愁訴をした。一部成果を獲得した。 *松平 治郷は、出雲松江藩の第7代藩主。直政系越前松平家宗家7。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。寛延4年2月14日(1751)、第6代藩主・松平宗衍の次男として生まれる。明和4年(1767)父の隠居により家督を継いだ。将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字をとり治郷(はるさと)と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。文化3年3月11日(806)、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、文政元年4月24日(18181)に死去した。享年68。墓所は松江市の月照寺。松江市殿町鎮座の松江神社に主祭神として祀られている。 *「朝日丹波」(1705~1783)江戸後期の松江藩家老。名ははじめ茂保と名乗り、のちに藩主松平よりの諱字を郷保と与えられた。7歳で家督を継ぎ1000石。1735年(享保20)中家老、1739年(元文4)仕置添役、1744年(延享元)家老、仕置役、1749年(寛延)城代となり、1766年(明和3)藩主治郷の後見をしながら藩政改革(明和の改革)に取り組んだ。その改革は年貢増微に頼り、藩の債務は破棄、義田は没収、商品生産は制御するなど、強引な復古的勧農抑商政策を進めるため、藩財政は好転したが、領民の不信と不満を招き1783年(天明3)の一揆(松江藩領天明3年一揆)の要因となった。 ◎義田制度、松江藩財政再建策の一環として延享改革で実施された土地政策。貢租の大幅な前納という性格を持つ。時期的に分けて、寛延の義田(1748)宝暦義田(1763)、明和義田(1764)の3種がある。寛延の義田は、願いにより高持百姓に御礼米と称し一定量の米、またが銀を藩に収めさせた、納めた御礼米に相当するだけの願人の所持田を免租地とし、その田に付属する諸役人をしり目に半減するというもの、宝暦の義田で、島外の富農・富商に出銀させ、代償に大根島の租税を与えることを約束したもの。明和の義田は10年を限って免訴地としたものである。その後、藩の明和改革でこの制度は一方的に廃止され、義田は無償で没収された。 ※松江藩家老の朝日丹波は、このままだと松江藩は何れ破綻すると思い、年貢増微に明和改革導入しょうと試みていた。それを知ってか農民の不満鬱積し不穏状態に、前年の5,6月の長雨に不作で米価が高騰を招き、そんな背景に一揆が勃発した。三刀屋に集まった近郷近在から参集した1万数千二余の農民が、宮内屋市兵衛宅を襲い打毀し、大津にも1万に余りの農民は松江城下に強訴を企てた。下郡役森広幾太が代表で藩へ愁訴し、一部成果を得て終息した。
2023年08月15日
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28、自藩米を江戸大坂に廻米に一揆【弘前藩領天明3年一揆】「弘前藩領天明3年一揆」陸奥国弘前藩の廻米中止を要求し米問屋を打毀し、弘前、江戸への直訴した一揆。連年の凶作による餓死者の続出にもかかわらず藩を江戸、大坂へ廻米。1783年(天明3)7月20日青森町で落合専右衛門らを頭人として町民3000人余りが米問屋10軒を打毀す。その後鯵ヶ沢では米を売り出し、打毀しは未遂に終わった。広須・木造新田の農民2000人余りは貯蔵米の返却を求め弘前に強訴、深浦の3000人余りは米問屋2軒を打毀す。その後餓死者、他領への流亡者が続出し、深浦の荘厳寺の僧聞岌らが江戸に上がり藩主に直訴。藩では幕府から借り受けた米10万俵を津軽に送り、翌年幕政改革に着手。首謀者への処罰はなかったが、専右衛門は裁定以前に70歳で牢死した。 *「落合専右衛門」生年:正徳年間(1711~1784)天明3(1783)年7月の陸奥国(青森県)弘前藩領青森湊打ちこわしの指導者。伊勢屋市郎右衛門といい,青森大町で酒造を営み,町年寄番代を務めた上層町人。俳号九三子を持つ文化人でもあった。身代が傾き名も改め,晩年は手習い師匠で暮らす。七十余歳の専右衛門が廻米停止などを求める藩への嘆願書を起草。事件後,弘前に送られ,全責任をひとりで負い永牢に処せられ牢死した *津軽 信明は、江戸時代後期の大名。陸奥弘前藩(津軽藩)の第8代藩主。宝暦12年(1762年)6月22日、第7代藩主・津軽信寧の長男として生まれる。安永5年(1776)3月1日、将軍徳川家治にお目見えする。同年12月18日、従五位下出羽守に叙任する。幼少期から才能に恵まれ、宇佐美恵助、戸沢惟顕らから教えを受けてその才能に磨きをかけた。また、当時名君と呼ばれていた肥後熊本藩主・細川重賢や出羽米沢藩主・上杉鷹山(治憲)、そして陸奥白河藩主・松平定信らと親交を持ったことも、信明の才能と見識を広げる一因となった。天明4年(1784)2月晦日、父の急死により家督を継いで藩主となった。この頃、弘前藩では天明の大飢饉では、死者13万人と言われるほどの大被害を受け、その救済費などによる出費から財政が悪化していた。このため信明は藩財政改革に乗り出し、乳井貢、毛内有右衛門ら有能な士を登用、不正を行なう家臣に対しては厳しい処罰で臨んだ。改革のうち珍しいものとして、有右衛門の進言を容れての藩士の帰農、土着策がある。有右衛門は武士の窮乏化が促進するのは武士が年貢である米に頼りすぎるからであるとし、藩士を織田信長の兵農分離以前の半農半士の状態に戻そうとしたのである。この頃、弘前藩では飢饉という天災が相次いで領地は荒廃し、百姓は差し出す年貢さえなく、田を捨てて逃亡するという有様であった。そこで藩士を半農半士にすることで、荒廃した田畑を復興させようとしたのである。しかし、当初は反対論が多く、はじめは希望者のみにとどめた。その後、赤石安右衛門や菊地寛司らの尽力もあって、荒廃した田畑のうち1000町歩が復興した。信明はさらに倹約令や出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなどして、着実な改革を行なって財政を再建した。しかし寛政3年(1791年)、30歳の若さで急死し、改革は後一歩というところで挫折した。これには毒殺説もある。嗣子がなかったため、跡を養嗣子の寧親(別家の津軽著高の子)が継いだ。 ※弘前藩では天明の大飢饉では13万人という死者を出し、百姓は差し出す年貢はなく、田畑を捨てて逃げ出し農民も少なくなかった。そんな中でも江戸に大坂に廻米に憤慨した農民一揆が落合専右衛門緒指導の元3000人が米問屋に打毀した。木造新田でも2000人余りが一揆を行った。弘前藩や見かねた荘厳寺の僧侶まで、幕府に困窮した弘前の状況を訴え、幕府から10万俵の借り受け津軽に救済米を送った。そこで荒廃した田畑を復興させるために、藩士に半農藩士の戦国時代に有ったような制度に戻そうとした。年貢制度を見直し徐々に改善していった。一揆の首謀者落合専右衛門は処罰はなかった。専右衛門は裁定の前に牢死した。
2023年08月15日
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27、絹売買に税収に一揆が勃発し藩側撤回【絹一揆】「絹一揆」(きぬいっき)とは、天明元年(1781)に上野国西部一帯にて展開された絹市に対する課税反対を求める一揆。絹運上騒動(きぬうんじょうそうどう)とも。江戸時代中期、上野国や武蔵国の農村では、養蚕業が盛んになり、生糸や絹織物が生産されるようになり、各地に絹市と呼ばれる市場が形成され、江戸や京都などの問屋から原料や商品の買い付けに訪れる買付人が増加していた。江戸幕府では元禄元年(1698)と宝暦元年(1759)に上野・武蔵の絹に対して課税を行う計画が立てられたが、この時は桐生などの絹織物生産地の反対があって中止された。ところが天明元年(1781年)になって地元の有力者である小幡(現在の甘楽町)の新井吉十郎他2名が他の賛同者の名簿とともに上野・武蔵の47か所の絹市に対して10か所の反物并絹糸貫目改所を設置する申請が江戸幕府に出された。有力者たちは改所に関与して絹の販売を独占しようと図り、一方田沼意次を中心とする江戸幕府首脳も米に依存した財政に対する限界から代わりの財源を求めており、絹製品の品質向上と運上に代わる改料確保につながるこの計画を許可したのである。そこで、幕府は現地に対して改所設置と反物1疋に対して銀2分5厘、糸100目につき銀1分、真綿1貫目につき銀5分の改料を買取人から徴収することが伝えられると、現地の農民はこれに強く反発した。しかも同様に反発した買取人たちも買取を拒否したために絹市が事実上停止してしまったのである。これに激怒した上野の人々は対策を講じ始めた。桐生などの上野国東部の人々は幕府に訴願を行って取消を求めようとした。だが、西部の人々は今回の改所設置の背景に西部の地主や商人達がいることを知り激昂した。西部の人々は8月2日の上州藤岡での寄合をきっかけに一揆として蜂起、8日に神流川に集まった人々は当初江戸を目指すことも検討したものの、協議の結果、改所構想の申請者を追及する方針に変更した。8月9日小幡の新井吉十郎の屋敷が打ち壊され、続いて他の申請者やそれに賛同した地主や商人の屋敷が打ち壊されただけではなく、七日市藩陣屋も攻撃され、更に一揆は今回の申請に許可を出した老中松平輝高が藩主を務める高崎藩に向かってなだれ込んだ。これに驚いた幕府は8月16日に改所中止を決定して翌日には現地にも伝えられたが、この報が広まる直前の8月18日には高崎城を包囲した一揆軍と高崎藩兵が衝突した。だが、直後に双方に改所中止が伝わったために一揆は解散したのである。 *松平 輝高(まつだいら てるたか)は、江戸時代中期の上野高崎藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任。高崎藩大河内松平家4代。高崎藩初代藩主・松平輝規の長男。所司代在任中、竹内敬持を逮捕した(明和事件、宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779)、松平武元の死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した(絹一揆)。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる。長男・輝行が早世したため、次男・輝和が家督を相続した。 ※上野国西部の養蚕農民の一揆、絹製産地の上野、武蔵では農家の養蚕の絹市と呼ばれる絹市場が形成され、地域に絹市場が出来るに従って、江戸、京都の問屋筋から原料の生糸の買い付けに訪れる「買付人」が増加し市場の商いも大きくなっていた所に、絹生産の有力者新井吉十郎らの働きかけで47カ所の絹市に対して十カ所の「反物、絹糸貫目改所」の設置を賛同者の名簿と共に幕府に働きかけた。幕府の田沼意次は、新たな税収減に着目、許可をした。絹の徴収、課税しょうと動きを知った農民は強く反発した。西部の人々は8月2日に上州藤岡で寄り合いきっかけに一揆として蜂起、8日には小幡の新井吉十郎の屋敷が打毀しになって、その後次々に打壊し広まって行き、高崎藩になだれ込んだ。一揆軍と高崎藩兵とが衝突し、改所中止が伝わって一揆は解散した。
2023年08月15日
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26、飢餓と買い占めで一揆【上野国・信濃国天明3年一揆】 上野国・信濃国天明3年一揆」1783年(天明3)9月から10月にかけて起こった上野国、信濃国にまたがる打壊し。同年7月に浅間山が噴火し、その降灰により農作物は大きな被害と打撃を受けた。 崎藩では稲作は検見によって年貢高を決定し、畑作は50%引とする」触れを出したが、9月27日には群馬郡浜川村近辺の村々の数百人が集まり、江戸半屋敷に直訴しようとしたが、藩役人が指導者を逮捕し鎮静化した。 方、穀物買い占めによる米価高騰を理由に、29日碓氷郡磯辺村の酒蔵、質屋への打ち毀しが始まり、10月2日から5日には信濃国佐久郡・小県郡へ波及。さらに、上野国前橋藩領の村々の穀物、質屋を打毀しをしている。 ◎浅間山大噴火と上信越の打ちこわし・天明3年は東北地方の著しい天候不順による大凶作とともに、信濃国と上野国の境にそびえる活火山・浅間山が大噴火を起こし、甚大な被害をもたらした。 浅間山は(天明3)の4月から噴火活動を開始し、7月には大規模な火砕流が北麓の村落を埋没させた後、利根川の支流である吾妻川に流入して火山泥流となり、吾妻川から利根川にかけて大量の火山灰を堆積させながら流れ下ることにより洪水を引き起こし、更には利根川に大量の土砂を堆積させ、河床の上昇をもたらした。 た一連の噴火活動で噴出した大量の火山灰は多くの耕地を荒廃させ、米価高騰の引き金となった。天明3年9月20日(1783)には上野の安中藩では米価の高騰に抗議する打ちこわしが発生し、10月には打ちこわしは信濃へと広がった。上野から信濃へと広まった打ちこわしは、当時の百姓一揆ではおおむね守られていた領主への訴願をその活動の中心とし、盗みや略奪は行わないという統制が崩壊し、これまで見られなかった金品や衣類、食糧を強奪するために打ちこわしを行うといった暴力的な様相を呈した。 れまでおおむね守られてきた一揆や打ちこわし時の統制が崩れ、領主への訴願ではなく盗みや略奪を目的とした打ちこわしが広がった原因は、天明期の領主はこれまでと比較して領内の問題を解決する能力が低下し、領民が訴願行為に期待を持てなくなった現れと考えられる。 れまでとは異なる略奪目的の打ちこわしが広まった事実に衝撃を受けた幕府は、略奪を主導する扇動者がいると判断し、扇動者を「悪党」と呼び、一揆の指導者である「頭取」と区別して悪党に対する厳しい弾圧を行った。 信越に広まった略奪目的の打ちこわしの扇動者に対する弾圧を進めながら、幕府は天明4年閏1月16日(1784)に、関東、東北一円、信濃に村役人や農民が所持している自家用以外の米、麦、雑穀を売るように指示し、さらに穀類の買占め禁止、米屋などに対する打ちこわしを禁止する法令を出した。 れは天明の大飢饉、浅間山の大噴火の被災地である関東、東北、信濃では極度の食糧不足により米価や穀物の価格が急騰しており、供給量を増やすことによって価格を下げ、一揆や打毀しを防ぐことを目的とした。しかし天明4年2月28日(1784)には、武蔵多摩郡の村山で、領主への訴願行為を全く行わずして米の買占めを行っていた人々に対する打ちこわしが発生してしまった。 ◎天明3年から4年にかけての幕府の米価対策・天明3年に東北地方を襲った大凶作と浅間山の大噴火というダブルパンチは、全国的な米価の急騰をもたらしていた。幕府はお膝元である江戸での米価高騰に対して危機感を抱き、矢継ぎ早に対策を講じた。 ず天明3(1784)には、全国の譜代大名の居城などに非常時用に備蓄されていた城詰米のうち、近畿、中国、九州の諸藩を中心とした37藩の11万石余りを江戸に向けて回送するよう命じた。天明4年に入ると江戸の町奉行所は江戸市中の米蔵に対する見分を繰り返し、米を扱う商人を奉行所に出頭させた上、米の買占め、売り惜しみを行わないよう命じた。天明4年1月16日(1784)に幕府は、米穀売買勝手令という法令を公布する。 当時、決められた業者のみが米の流通、販売を行うことが出来るとされていた規制を撤廃し、例えば江戸に持ち込まれた米を問屋を通さずして自由に販売してよいとするものであった。問屋を通さない米の販売を認める米穀売買勝手令は当時としては画期的なものであり、米の流通量を増やして米価を引き下げることを目的とした緊急時の時限立法的な色彩が強い法令であった。しかしこの法令は期待したほどの成果を挙げることはできなかった。これは米の流通の活性化という点からは米穀売買勝手令によって大坂からの米の搬出が活発となったが、今度は大坂が米不足に襲われ価格が急騰したため、大坂町奉行所はあわてて大坂からの米の搬出を厳しく制限する措置を行ったことなどによるものであった。結局米穀売買勝手令は天明4年の秋、米の作柄がある程度期待できることが市場に周知されたことによって米価が落ち着きを見せた。天明4年9月10日(1784)に廃令となった。なお米穀売買勝手令は凶作によって再び米価が激しく高騰した天明6年(1786年)、そして天明7年(1787年)に再施行され、特に天明7年の施行時には法の意図したものとは全く逆の結果を招き、米価高騰に拍車をかけることになった。天明4年4月23日(1784)、幕府は全国を対象として、村役人や農民が所持している自家用以外の米の販売を行うこと、米の買占めを行う者がいたらまず領主に申し出て、打ちこわしという手段に訴えないこと、さらに諸藩が江戸への回米を行う際に道中で米の売買を行うことを禁止する法令を出した。これは全国的な米価高騰を受けて米の流通量の増加を図り、米の買占めの制裁を行う意味での打ちこわしを押さえつけ、そして回米を行う際の米の売買禁止は江戸に流入する米の量を確保する意図があった。幕府としては全国的に米の流通量を増やして米価を引き下げる政策とともに、お膝元の江戸で流通する米の絶対量を確保するという、時には矛盾する政策の遂行を余儀なくされていた。このような矛盾は米不足による米価高騰に対して、大坂からの米の搬出を厳しく制限した措置後の大坂とその周辺地域などでも発生しており、米価高騰の中、難しい経済運営を余儀なくされていた。しかし天明3年から4年にかけては、天明の大飢饉に直撃された東北地方と浅間山の大噴火による甚大な被害を蒙った関東地方と信濃以外に打ちこわしは広がらなかった。これは天明3年の米の作況が東海以西ではさほど悪くなかったことと、幕府が江戸、大坂、京都の三都で実施したお救い米の支給が功を奏したためである。天明4年2月11日(1784)、大坂堂島の米仲買商16名が買占めにより摘発されていたが、天明4年4月23日(1784)には16名の仲買商が所有していた196440石の米のうち約三分の一にあたる65000石が、江戸、大坂、京都で米価高騰で困窮する人々へのお救い米として利用されることが決定された。65000石のうち30000石が江戸、25000石が大坂、10000石は京都へ向けられることになり、お救い米として市場価格よりも廉価で売り渡され、困窮した人々への支援に充てられた。端境期に行われたこの措置は米価のさらなる高騰を食い止め、米価が高騰した厳しい情勢はなお続いたものの、天明3年から4年にかけては大規模な打ちこわしが全国的に広まる事態は避けることができた。 ◎うちこわし【打ち壊し・打壊し・打ち毀し】①たたきこわすこと。とりこわし。②江戸時代、中下層の百姓・町人が群集して豪農・米穀商・高利貸しらの家屋・家財などを破壊すること。一八世紀半ばから都市の米騒動を中心に、百姓一揆や幕末の世直し騒動の中で多くみられた。 ※「上野国・信濃国天明3年一揆」は浅間山噴火に端を発し、天候不順による大凶作と自然災害から農民は困窮し、米価高騰が引き金となって、打毀しの連鎖が各地に広まっていった。最初に上野の安中藩の米価高騰への抗議の打毀しから、領主への請願は百姓一揆で衣類、食糧の略奪は行わないと統制が取れていた。ところが何者かの扇動の略奪が始まって幕府は大きな衝撃を受けた。略奪を主導する先導者を「悪党」と呼び、一揆の指導者の「頭取」と区別していた。ところが一部の者が米の買い占めを始めた。打壊しに矢次早やに幕府は対策を講じ、譜代大名の居城に非常時用の備蓄米を、近畿、中国、九州の諸藩37藩の11万石余りを江戸に向け回送するように命じた。幕府は、米穀売買勝手令を出し、普段なら流通を経なければ販売できないものを、問屋を通さずに、緊急避難的に販売を認めた。ところが大坂が米の不足に陥り価格が高騰したために、調整を行い大坂からの米の搬出を制限した。調整米6万5000石をお救い米として3000石を江戸に、2500石を大坂に、1000石を京都に米が回されて鎮静化に向かった。
2023年08月14日
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25、増税に領民一揆首謀者の処刑で落着させた【虹の松原一揆】「唐津藩領明和8年一揆」1771年(明和8)肥前国藩領で起った一揆。参加農漁民は1万人とも2万3000人とも言われている。普代藩の唐津藩で、1762年(宝暦12)に土井利里から水野忠任へ藩主交替し、新藩主が転封費用などによる財政窮乏打開策にために年貢増微策を実施した。これが反対し既得権を守ろうとする農漁民が蓑、笠、鎌などを携え、7月20日、城下町近くで幕府領との境に位置する虹の松原に屯集した。虹の松原一揆とも呼ばれ、要求内容は無年貢地への課税廃止や新規運上の廃止など、水野氏新政策への反対である。一揆勢は7月24日に解散するが、この後も庄屋層が藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取る。首謀者は平原村大庄屋の富田才治らと言う。 ◎「虹の松原一揆」は、1771(明和8年)に肥前国唐津藩で発生した一揆である。唐津城に近い虹の松原(現在の佐賀県唐津市)に集結した農民が新税の撤回を要求、藩にこれを認めさせた。なお、「虹の松原」は明治時代以後の呼称であり、当時は「二里松原」と呼ばれていた。この事件ももとは「松原寄り」と呼ばれていた。当時の唐津藩主水野忠任が課した農民への増税に対して不満が高まり、これに対して一揆が計画された。虹の松原は、もともと唐津藩の初代藩主寺沢広高の命令で植林された防風林であるが、当時は幕府の直轄領(天領)となっていた。唐津城にも近い松原に集団で立てこもることで武力的に威嚇するとともに、天領での事件ということで幕府から唐津藩への処罰をも懸念させる事態とした。また、役人達に発覚しないように、統制のとれた行動ができるよう、緻密な計画を立て実行された。最終的には武力的衝突もなく、一滴の血も流さず、農民は唐津藩に増税を撤回させることに成功した。しかし、面目を潰された藩は以後厳しい取り調べを行ったため、その翌年、指導者であった冨田才治ら4人は見かねて首を差し出すことで合意、西の浜で処刑されることでこの事件を終結させた。 ◎唐津藩(は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。寺沢広高は豊臣秀吉に仕え、1592の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、長崎奉行に任じられた。慶長の役には朝鮮に渡海して活躍している。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に肥後国天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その跡を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを幕府から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となった。その後、播磨国明石藩より大久保忠隣の孫の大久保忠職が8万3000石で入る。その跡を継いだ大久保忠朝は、1674年に庄屋が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩へ移封となった。入れ替わりで松平乗久が7万石で入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩へ移封となる。入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後は小笠原氏の支配で明治時代を迎えることになる。唐津藩最後の藩主となった小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に与して箱館まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。しかしこのため、長行を歴代藩主として数えず、その養父である小笠原長国をもって最後の藩主とする史料も多い。唐津藩は表向きの石高は6万石から12石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。 *水野 忠任(みずの ただとう)は、江戸時代中期の大名。三河岡崎藩第7代藩主。肥前唐津藩初代藩主。忠元系水野家8代。旗本水野守満の次男として生まれる。宝暦元年(1751)、同族である岡崎藩主水野忠辰の娘を正室に迎え、その養子となる。忠辰は藩財政の立て直しを目指して政治改革を図ったが、重臣によって挫折させられ、遊蕩にふけるようになった。宝暦2年(1752年)、忠辰は重臣たちによる主君押込を受けて隠居を強制させられ、忠任が家督を相続した。一連の騒動は水野騒動と呼ばれる。宝暦12年(1762年)、肥前唐津藩に転封される。忠任は窮乏化する財政のために新領地での増税政策をとったが、これは旧来の唐津での慣行を無視するものとして領民の反発を受けた。明和8年(1771年)に虹の松原一揆が発生し、領民の要求により増税政策を撤回することを余儀なくされている。安永4年(1775)に家督を養子の忠鼎に譲り隠居する。文化8年(1881年)死去した。 *「富田才治」(1724~1772)1771年(明和8)に肥前国唐津藩領で起こった唐津藩領明和8年(虹の松原一揆)一揆の首謀者と言われる。平原村の大庄屋であり、隣村半田村長頭らとともに一揆指導者として自首し処刑された。従来、一揆後に書かれた記録によって、富田の深謀遠慮が強調されてきたが、佐賀藩多久領の家臣の一揆見聞録によると、彼は最後まで実力行使を避けようとした。中下層農民の突き上げにより虹の松原に屯集する一揆が起こったとされる。 ※「唐津藩領明和8年一揆」譜代大名の唐津藩で土井利里から水野忠任へ藩主交替に伴って、新藩主が転封費用の捻出に年貢増微を実施した。この増税に農漁民1万人とも2万3000人と言われる一揆が勃発した。蓑、鎌、笠などを携え「虹の松原」に集結した。その後庄屋層も藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取った。農民一揆の首謀者は平原村の大庄屋富田才治、自分が首を差し出すことで事態の収拾がつくのであればと,自首し、西の浜で処刑された。
2023年08月14日
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24、村民に助郷の負担で一揆拡大で取り下げ【中山道伝馬騒動】「中山道伝馬騒動」(助郷一揆)(なかせんどう てんまそうどう)とは、江戸時代の一揆。1764(明和元年)閏12月下旬から翌年1月にかけて主要街道の一つであった中山道沿いで発生した一揆。騒動が武蔵国を中心に上野国、信濃国と広範囲に及んだこと、領主側の立場でもある村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。後北条氏滅亡したのち、徳川家康が江戸入城した。江戸時代には幕府により中山道をはじめとする東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道による五街道の整備が進められ、公用のための伝馬制が整えられていた。街道添いには宿場町が設置された。宿駅は常備人馬で継ぎ送りをするが、支障が出る場合には宿駅近郊の郷村が補助的に人馬の提供を行う、その課役制度である助郷制度が設定された。助郷制度の成立は、幕府が寛永14年(1637年)東海道、美濃路などの宿駅に助馬村の設置を命じ、元禄2年(1689年)より各宿の助郷の有無とその現状の調査をはじめ、中山道は元禄6年に調査した。その後、幕府は元7年(1694年)には東海道・中山道の宿駅近郊の村々に助郷制を定め、「助郷帳(証文)」を交付した。また、中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在した。幕府は増助郷政策を行い宝暦・天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生していた。明和元年2月には大宮・上尾・桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。明和元年(1764)には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿に至る28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じられ、さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求める増助郷策が続いた。助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発し出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結して蜂起、幕府側に抵抗した。明和元年(1764年)12月から翌2年正月に、騒動は瞬く間に街道沿いに広がり、武蔵・上野・信濃および下野の一部にわたって発生し、20万人が参加したといわれる伝馬大騒動が起こった。10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、江戸市中へ飛び火することを恐れた幕府側は、助郷の追加負担を取り下げ沈静化を図った。しかし治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する打ちこわしを起こし、中山道の機能がマヒする事態となった。幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。 *遠藤兵内( えんどう-ひょうない)1721~1721 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。享保(きょうほう)6年生まれ。武蔵(むさし)児玉郡関村(埼玉県美里町)の名主。明和元年(1764),幕府の助郷役増加計画に反対して武蔵を中心におきた百姓一揆,伝馬(天狗)騒動を指導。要求はみとめられたが,首謀者として3年2月13日獄門となる。46歳。通称は関村兵内。名は「へいない」とも。 ◎助郷は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。さらに、村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。日光道中では、元禄9年(1696年)に常設の「定助郷」を編成した。享保10年の名称改正以前は「大助」と呼称されていた。当初は宿駅の要請で公儀御用の管理が困難であり、知行する領主の責任と差配によるものであったが、編成後は宿駅から至近距離にある村々は道中奉行による助郷証文よって勤め高に基づいて定助郷が固定化さ支配された。江戸時代末期には人馬需要の激増があり、宿とともに周辺村々に対しても、助郷役「負担」による村財政と農民生活の影響について、丸山雍成による『近世宿駅の基礎的研究』にしめされている。江戸後期の助郷役の負担は、中山道の宿駅でもみられ、宿駅や助雛附の輸送量と通行者が増加による繁栄した一方で、無賃、または低賃銭の伝馬役などの負担があり、その不足分を補填のため助郷村の財政が窮乏し、「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ」という。明治5年(1872)に、助郷制度は廃止された ※「中山道傳馬騒動(助郷一揆)江戸時代の一揆。1764年(明和元年)主要街道、中山道沿いに起きた一揆。騒動は武蔵国を中心に上野国、信濃国など広範囲に及んだ。主要街道沿いに宿場が設置されそれに伴って、伝馬制が整備され往来の馬の乗り継ぎ機能を持たせ、役人が管理し近隣の村々百姓に常備馬の手配から管理をさせ、僅かな賃金で近隣の村に課役の費用の負担に耐え切れず、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結し蜂起、幕府側に抵抗した。騒動は瞬く間に周辺に広まって武蔵、上野、信濃及び下野の一部まで波及し、20万人の伝馬大騒動が起こった。幕府側追加負担を取り下げて鎮静化を図った。幕府側はこの騒動に際し、首謀者として名主遠藤兵内が獄門に処せられた。遠藤兵内は義民として義民として祀られている。
2023年08月14日
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23、一揆打毀しに藩側要求受け入れる「福井藩領明和5年一揆」「福井藩領明和5年一揆」1768年(明和5)越前国福井藩領で起こった。福井城下で打毀しを伴った全藩的規模の百姓一揆。藩主の江戸参勤費用の才覚金調達、前年度の凶作による米価高騰につけこむ御用商人、町人の米買占めと藩庁役人の非違などを原因とする。3月下旬、破れ笠、破れ衣まとった蓑虫と呼ばれる中・下階層百姓の一揆勢が福井城下に乱入、富者の家で食乞うた。同時に城下に下層階民衆も合流し、特権階級御用調達町人を襲った。打壊しは徹底したが、盗みは禁じ、拍子木に合わせ行動した。火の元には念を入れて、藩側の要求を入れ、逮捕者は釈放し騒ぎを鎮めようとしたが、むしろ一揆は全領に波及し藩は屈服した。藩庁は主要な要求は認め、一揆側に処罰者無く、藩側では家老以下多数の処罰者を出した。 ◎「明和5年越前一揆」一揆が起こした波紋は五箇地方以外にも大きく広がった。明和五年六月、幕府領福井藩預所丹生郡鮎川浦で、百姓共と同浦「猟師そり子共」とが対立し、同二日に三人が江戸の勘定奉行所へ「駈込」訴を行った。幕府の裁許は九月五日に出たが、「そり子」の言い分を相当認めた内容であった。 同年十二月十四日には福井藩領南条郡今泉浦などで打毀しが発生した。「蓑虫」共は暮方、同浦の北五右衛門家へ押し寄せて打毀し、次いで郡上藩・小浜藩相給の南条郡上中津原村吉助・与右衛門宅をも壊した。理由は、旗本金森左京の白崎陣屋や郡上藩千福陣屋から、上中津原村や西尾藩領下中津原村等の米八〇〇俵を移出するよう、舟持ちの米屋浜野三郎右衛門と北五右衛門に依頼があり、時節柄白崎陣屋は福井藩へ相談、同藩はこれを受けて今泉浦の問屋・村役人へ積出しを命じたことによる。騒動後の二十日、福井藩は河野浦から二〇人ばかり、二十四日には赤萩村の一一人を福井へ連行し、厳しく吟味を行った。その結果、赤萩村が出頭村と断定され、廻文に関わった四人が頭取として死罪、他に六人が追放、さらに同村庄屋・長百姓三人が村追放とされた。河野浦でも一人が蟄居、二人が一三里外へ追放となった。福井藩は三月の一揆とはうって変わり、厳罰で臨んだのである。 明和八年八月八日には勝山藩領で検見取騒動が起こった。年貢の増徴を図る藩は元禄十年以来の定免制を検見制に改めるため、江戸から地方役人二人を招き、彼等の指導でこれを実現しようとしたのである。村々の庄屋たちは城下尊光寺で協議し、夜に入ると一般百姓も集まって九頭竜川原で篝火を焚き騒いだ。藩役人が出動して解散を促したが、検見撤回の藩書付が出ない限り動かないと強硬である。かくして藩は検見制実施の撤回を伝え、幕府役人二人は早々に江戸へ引き揚げた。百姓側は、当時藩勝手役として京都から来ていた商人高橋丈右衛門の罷免と、彼に家を提供していた打波屋伊八の追放をも要求したが、これらは認められなかった(「永代帳」勝山市教育委員会保管文書)。この件では頭取吟味もなかった。庄屋を中心とする領内惣百姓の団結を誇示する行動のみで藩の意図を打ち砕いたわけである。(福井藩史より)*松平 重富は、越前福井藩の第12代藩主。寛延元年(1748年)11月6日、徳川宗尹(一橋宗尹)の三男として江戸一橋家屋敷で生まれる。第11代藩主で異母兄の重昌が宝暦8年(1758)に死去したため、同年3月21日にその養子となって跡を継いだ。宝暦10年(1760)に元服し、従四位上左近衛権少将に叙任されるとともに、兄同様、伯父(宗尹の長兄)で第9代将軍の徳川家重から偏諱を賜って越前守重富(表記は重福とも)と名乗る。藩政においては藩士の知行削減などを中心とした財政再建を目指したが、連年による大雪・大火・風水害・疫病などによる被害が大きく、逆に財政は悪化する。しかも重富自身が江戸の一橋家の生活に慣れていたために豪華絢爛な日常生活を送り、さらには米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行なった。ところがこの御用金政策が逆に米価高騰を招き、さらに凶作も重なって福井には貧民があふれ、明和5年(1768)には打ちこわしまで起こった。福井藩ではこの領民の不満が爆発した藩政史上最大の打ちこわしに対応できず、やむなく一揆側の要求を認め、家老酒井外記ら関係する役人や御用商人を処分する。徳川将軍家と縁戚だったため、幕府から援助金をもらって藩政の再建を目指すが、天明の大飢饉をはじめとする災害などもあって財政はさらに悪化した。1790年に菜種を専売制に、寛政11年(1799)には糸会所を設置し、塩を専売制にする。同年9月18日、長男の治好に家督を譲って隠居し、左兵衛督を名乗る。さらに徳川将軍家と縁戚関係にあることを利用し、重富は御家騒動以降に格の落ちていた越前家の官位復活運動を活発に行った。光通以降、福井藩主は早世などもあり、従四位下左近衛権少将までしか到達できていなかったが、弟の治済や幕閣に働きかけ、寛政10年(1798)には越前家の元の官位である正四位下、左近衛権中将まで昇った。これにはここまでの歴代藩主と違い、重富の在位が長期に渡った、という理由もある。重富の藩主在任は41年におよび、歴代藩主の中で最長だった。文化6年(1809年)6月18日に死去。享年62。 ※「福井明和5年一揆」は二例記録されている。この二例の一揆はどの様な関連性があるのか分からない。一件の一揆は福井城下町で「蓑虫」と呼ばれる中・下階級層の一揆勢が藩庁に役人の不正を不満とし乱入し、拍子木合わせ行動し、藩側に要求を申し入れた。結果、要求の大方は受け入れらえ、藩庁の家老以下役人が処分されたと記されている。片や一揆例は五箇地方から丹生郡鮎川浦、百姓と「漁師そり子供」が対立と、南条郡今泉浦の「蓑虫」共と北五右衛門へ押し寄せて打壊しを働き、次に郡上藩、小浜藩相給の中津原村吉助、与右衛門宅も打壊した。理由は旗本金森左京の指示絡みの紛争で福井藩に相談し、役人頭取4人が死罪、他に6人が追放の刑に処された。他に勝山半まで検見取騒動が起きている。二件の一揆の関連性は無いにしろ、同時期に福井藩で農民一揆が発生したのかもしれない。
2023年08月14日
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22、一揆で藩役人の腐敗発覚【上田騒動】「上田騒動」(農民一揆)(うえだそうどう)とは、信濃国上田藩で発生した農民一揆である。宝暦11年(1761年)、上田藩(藩主松平忠順)の農民約13000人が上田城へ押し掛けた。 この一揆での願いは、年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、中村弥左衛門をはじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢の徴収方法を従来の定免法から古来の検見法に戻し、農民を踏み台にして得た年貢で立身出世を謀ろうとした、とされている。一揆に参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民がほとんどであった。12月11日、諏訪部の河原に集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主は江戸に出府中で、家老の岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。岡部は農民達を前にして、「もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町で打ち壊しを行ったほか、小牧村(現・上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。宝暦12年(1762)1月9日、上田城に呼び出された農民は岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴は御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡した。農民たちにすれば、自分達の要求の大半が受け入れられたため、一揆は成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった。呼び出しから10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。宝暦13年(1763)3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783)に出獄し、寛政2年(1790)に84歳で死去した *松平 忠順(まつだいら ただより)は、信濃上田藩の第3代藩主。江戸幕府の奏者番、寺社奉行、若年寄。伊賀守系藤井松平家5代。享保11年(1726年)11月22日、第2代藩主・松平忠愛の長男として江戸で生まれる。寛保元年(1741)に従五位下・内膳正に叙位・任官する。寛延2年(1749)8月2日、父の隠居で家督を譲られ、伊賀守に遷任する。父と違って有能で、儒学を基礎とした積極的な藩政刷新を目指したが、父の時代にすでに藩財政は破綻していたため、宝暦3年(1753)に半知上納を行ない、宝暦9年(1759)に倹約令を出している。しかし民政においては、かなり質の悪い役人が取り仕切って年貢増徴を行なっていたため、宝暦11年(1761)12月に百姓一揆(上田騒動)が起こり、藩は百姓の年貢減免・役人罷免要求を認めざるを得なくなった。宝暦13年(1763)に奏者番に任じられ、明和元年(1764)に寺社奉行、安永4年(1775)に若年寄上席などを歴任した。天明3年(1783年2月8日、江戸で死去した。享年58。跡を長男の忠済が継いだ。 ※「上田騒動(農民一揆)は農民一揆が起こり藩政の不正発覚から発生した。郡奉行中村弥左衛門の不正の取り締まりで、この役人年貢の微収方法で従来の定免法から検見法に戻し、農民を踏み台に立身出世を目論みに露見した。これを知った農民は上田藩の近隣近在の村々から諏訪部の河原に集結し13000人の農民は上田城になだれ込み、藩主江戸にて不在、家老の岡部九朗兵衛は藩主にとりなす約束でその場は収めたが百姓一揆は庄屋など打ち毀し襲撃した。後日上田城に呼び出され、沙汰が出された。不正の郡奉行は罷免、一揆の首謀者の半平、浅之丞は死罪、太郎兵衛は永牢が言い渡された。農民の言い分は聞き入れられた。
2023年08月14日
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◎多度津藩は丸亀藩の支藩である。多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で1万石を領し、多度津に陣屋を構えた(前半は丸亀城内に居館を置いた)。丸亀藩3代藩主の高或が3歳で藩主となったため、庶兄である高通を後見人として幕府に分封を願い出た。1694年(元禄7年)1万石の分封が認められここに多度津藩が成立した。後見人とはいえ高通自身も4歳での封襲であったため、陣屋は構えず、丸亀城内に居館を置いた。高通は1711年(正徳元年)になって実質的に多度津藩主として政務を執った。その後、3代高文まで丸亀城内に居住した。4代高賢は1827年(文政10年)、幕府に陣屋の建設を願い出て認められ、その年に陣屋を構えた。1871年(明治4年)廃藩置県により倉敷県となる。その後、名東県を経て香川県に編入された。 *大西権兵衛1703~1750 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。元禄(げんろく)16年生まれ。讃岐 (香川県)の人。寛延3年飢饉(ききん)で困窮する農民6万5000人を代表して,租税減免の嘆願書を丸亀藩に提出。農民の要求はききとどけられたが,同年7月28日他の首謀者6人とともに強訴の罪により処刑された。48歳。 ※丸亀・多度津地方は寛延年間(1748~1750)は数年来の風水害に襲われ、丸亀・多度津藩領内の那珂、多度、三野、豊田の百姓は生活は困窮を極めた。それに加え蔵役人や庄屋が横暴、不法、租税の増加などにより「如何なる隠順なる四郡の民も忍ぶに忍び難く」という状態に百姓たちは徳政を訴え申立書も庄屋たちは握りつぶした。城内まで自分たちの苦しさや思いが伝わらず、一揆しか方法がないと農民は「一揆しかあるめー」と決起へと走り出した。一揆を計画指導をした丸亀藩5人、多度津藩2人の7人の百姓だった。三野郡笠岡村の神社の宇賀神社の山門楼の上に集まり密議を行ったという。丸亀藩から大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛の三人、三野郡大野村からは兵治郎、那珂村から小山金右衛門、多度津藩から多度碑二殿村の甚右ヱ門と三井村の金右ヱ門の二人で全部で7人、大西権兵衛が指導者格だった。寛延3年(1750)多度郡の百姓の仲介で、三野村から豊田村の百姓あてに金倉川河原に集まるように廻し状が送られ、当日には4万人が集まったという。農民の一揆に参集した民衆に驚いた丸亀藩は三野、豊田郡の百姓に、願いの筋を申し出よと伝えたが、莚旗の農民は鳥坂を超え善通寺に合流した。その時には6万人余りに達していたという。4郡の一揆勢は善通寺の客殿で、13箇条の嘆願書を示された。その要旨は、年貢の未納米の1000石の年賦弁済、夫食米の給付、年貢米の斗升搔不正の中止、相場並みの銀納値数、出費の多い役人の出張回数の軽減なであった。藩側から「内10箇条の重要項目の要求を認め、3箇条は追って沙汰をいたす」の回答に、ほぼ百姓の嘆願を認めたことになった。各地で頻繁に起こり一気に幕府は危機感を募らせ、一揆、強訴の禁止などを命令が下り、一揆関係者を次々に捕らえていった。大西権兵衛ほか首謀者7人は金倉川河畔に於いて磔、斬首、獄門の処せられた。処 罰は権兵衛の子供及び9歳の末っ子まで打ち首の処された。その後、権兵衛はじめ7人の義民は七義士と呼ばれ密かに弔われた。明治36年には権兵衛ゆかりの笠田村に神社を建立、七人の義民は神として祀られた。(讃岐の風土記より参考)
2023年08月14日
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20、多数の義民で鎮静化【丸亀藩・多度津藩領寛延3年一揆】「丸亀藩・多度津藩領寛延3年一揆」讃岐国丸亀、多度津両藩にまたがり、1750年(寛延3)13箇条の要求をして数万の農民を動員した強訴、一揆。要求には未納年貢の諸雑税、代銀納による実質的増税、蔵役人による規定量以上の要求に反対、干鰯(ほしか)運上の停止などがる。多度津藩三井組は正月15日雨霧山へ、亀山藩多度・那珂郡の農民は正月19日吉原村へ、西讃勢は正月19日から本山川原に集合した。23日には両藩の役人と善通寺客殿で会合し、干鰯運上などの停止などを除き10箇は即刻聞き届けられた。7月28日には一揆の中心人物の処刑があり、中心の大西権兵衛ら4名は極刑、丸亀33名、多度津8名の追放も処された。 ◎丸亀藩は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続き廃藩置県を迎えた。なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。1587年(天正15年)讃岐国へ織田信長と豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正が封じられる。1597年(慶長2年)亀山に丸亀城を築き始める。1602年(慶長7年)丸亀城が完成し、親正の嫡子である生駒一正が居城とする。1615年(元和元年)播州赤穂の人が塩屋にきて製塩業を始める。一国一城令により丸亀城は破却を命じられる。1640年(寛永17年)生駒騒動により生駒氏は改易される。1641年(寛永18年)山崎家治が肥後富岡より西讃に入封し、丸亀城を本城とし丸亀藩となる。生駒氏改易から山崎氏入封まで、讃岐は隣国伊予の西条藩・大洲藩・今治藩の分割統治となっていた。1642年(寛永19年)丸亀城の改修に着手し、ほぼ現在の縄張りとなる。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入封する。1660年(万治3年)現在の丸亀城天守が完成する。1670年(寛文10年)丸亀城大手一の門、二の門を南から北へ移築する。1688年(貞享5年)下金倉村の中洲に別邸をつくり、万象園と名づける。1694(元禄7年)京極高通に多度津1万石を分け多度津藩とする。1705年(宝永2年)初めての藩札を発行する。1781~1788(天明年間)うちわの製造が藩士の内職として盛んに奨励される。1794年(寛政6年)藩学校正明館を創立する。1838年(天保9年)金毘羅街道の一つである丸亀街道の起点の目印として、江戸に住む人々の浄財により、太助灯篭が作られる。1858年(安政5年)西讃府志が完成する。1871年(明治4年)廃藩置県により丸亀県となる。丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていた。幕末になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士たちに隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士たちからうちわの作り方を学ばせ、国元に返し内職で作らせ、金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直した。その後、うちわづくりは一般町民にも広まり始め、丸亀の名物となる。
2023年08月14日
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18、義民彦内の犠牲で収束「陸奥国寛延2・3年一揆」「陸奥国寛延2・3年一揆」1749年(寛延2)から、陸奥国の南部、主として現福島県域各地に起こった年貢減免、藩役人・村役人の交替等を要求した大一揆。同年秋、幕領信夫、伊達地方で養蚕収入年貢を皆済していた現地の実状を無視した新代官に対して不満が爆発、一斉に蜂起した農民は桑折陣屋に押し寄せた。信達一揆とも言われている。要求は一部通り、商品生産地域に適合した年貢徴収方式となった。同年会津藩領騒動、二本松藩領でも、藩政期最大規模の一揆が起こっている。連年の不作から減免を訴え、貸米の起源つき強要等に反対すると同時に、村役人層に対して批判の鉾先を向け始めたことが大きな特徴である。一揆の指導者斎藤彦内 (1709~1750) 江戸時代中期の一揆。宝永6年生まれ。陸奥伊達郡(福島県)長倉村の農民。寛延2年凶作にもかかわらず幕府が増税をおしつけたため,一揆回状(天狗回状)を信夫郡,伊達郡68ヵ村にまわし,1万7000人を動員して桑折(こおり)代官所に強訴。首謀者のひとりとして,寛延3年7月死罪となった。42歳。 *義民斎藤彦内の墓・福島市との境界の摺上川沿いにあり、福源寺は諏訪神社の北西にあって斎藤彦内の墓がある。 寛延2年(1749年)の冷害は「田方立毛青立」(田畑の作物が実らない)の状態で記縁的凶作となった。 信達68村は桑折代官に年貢軽減を願ったが、許されず一万余にのぼる農民が減免と延納を強訴した。後世「天狗廻状騒動」といわれている。 騒動終了後、斎藤彦内・蓬田半佐衛門・猪狩源七の三人は首謀者として処刑されました。 この物語は、明治40年半井桃水によって朝日新聞に連載され天下の血を沸かしたといわれている。 ◎信達一揆(しんだついっき)江戸時代後期と末期に、陸奥国信夫・伊達両郡(福島市周辺)にまたがり起こった大百姓一揆。1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。1749年の寛延一揆(彦内騒動)は、幕府領桑折(こおり)代官所に新たに赴任した代官神山三郎左衛門が、管轄下の村々が凶作にもかかわらず、年貢を増徴しようとしたのに対し、減免や代金納・分割納入などを求めて、68か村の農民が12月11日代官所を襲った。指導者の伊達郡長倉村(伊達市)組頭斎藤彦内らは獄門・死罪などに処せられたが、要求の多くは実現した。 ◎「信達騒動」(しんだつそうどう)信達一揆ともいう。江戸時代,陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)で起こった百姓一揆。この地域では近世後期にしばしば百姓一揆が起こっているが,なかでも1749年(寛延2)の幕領での惣百姓強訴と1866年(慶応2)の世直し騒動は,信夫・伊達両郡にまたがる規模のものであったので信達騒動と呼ばれている。寛延の惣百姓強訴は1749年桑折(こおり)代官所の代官として着任した神山三郎左衛門が,凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したのが原因である。 ※「陸奥国寛延一揆」は陸奥南部の現福島県で起こった年貢減免、藩役人、村役人の交替を要求した一揆で、幕領信夫、伊達地方では養蚕収入の実状を無視した新代官に不満が爆発、一斉蜂起で信夫郡、伊達郡の68か村、1万7000人を動員して一揆が起きた。首謀者の一人として斎藤彦内が死罪となった。農民の要求は多くは受け入れられた。後世の人々は彦内の遺徳をしのんで諏訪神社に隣接して墓も残されている。 19、農民増税に一揆は鎮圧される【佐賀藩領寛延3年諫早一揆】「佐賀藩領寛延3年諫早一揆」1750年(寛延3)肥前国佐賀藩大配分の諫早領2万6000石で、武士、百姓、町人らが本藩の土地処分に反対して起こした越訴、箱訴、強訴。諫早茂行が本藩のお家騒動に関与していたことから、知行高1万石の没収となる。減知処分は諫早家中の知行地、禄米の減少と、同領百姓の年貢負担増が危惧されることから家中(若杉春后ら下級武士)百姓を中心とした激しい抵抗運動が展開された。3月に長崎奉行へ越訴、5月に豊後国日田代官所へ越訴、7月に大坂町奉行所に箱訴する。6月1日には百姓1万3,4000人が佐賀城下への強訴を企て、百姓勢の後には武士の一団が見られたという。結局、諫早家中、百姓が大量に処分され、減知も断行された。 ◎「諫早一揆の詳細」は佐賀藩主5代宗茂が1738年(元文3)は眼病を患って隠居し、6代藩主嫡男宗教が継ぎ10年ほど経った、1748年(寛延元年)三支藩の一つ蓮池藩主の直恒が諫早家の茂行と組んで老中酒井忠恭に働きかけ宗教を隠居させ弟主膳を佐賀藩主に陰謀を企てた。この事は宗教の知るところとなって幕府に報告された。幕府老中酒井忠恭は罷免された。宗教も直恒も出仕停止の処分に処され、諫早の茂行は隠居謹慎、諫早の領の一万石は没収された。諫早家ではこの処分に対して重臣が協議し、恭順派と反対派に分かれ結論が出なかった。そんな藩内の混乱は領内の民百姓に知れ渡ってしまった。これは諫早領の年貢は本藩より優遇されていることで、本藩に組み入れられることは、年貢の増微になるということ意味するからであった。諫早家では一万石の上地に変えて、物成り4000石を納入する妥協案を示したが、本藩はこれを認めず上地の村を指定してきた。指定されてきた。指定された村々は農民はこれに対して長崎奉行に訴えようとするが、これを農民側は説得され中止した。この最中農民と行動を共にする下級武士80人(若杉春后)ほどが、武士らは農業を営んでいた。次いで農民側は日田代官所に訴状を提出した。日田代官所は訴状を突き返したが、同時に訴状の写しを本藩に送り取り締まりの強化を求めた。藩では諫早家の当主行孝を出頭させて代官所への訴人を逮捕を命じた。これを聞いた諫早領の農民は立ち上がり、諫早大手口に押しかけ騒動となった。また農民は多良に集結した。この時白石鍋島藩家の隠居徹竜が間に入り、日田への訴人は逮捕せず、諫早領の上地は3年のみと言う条件でことを収めようとしたしたが、農民側はこの条件を飲まなかった。農民側は大坂町奉行に上訴し、これを知った本藩では一揆の鎮圧を決定し実力行使に出た。一揆の首謀者の若杉春后は捕縛し佐賀に送られて、他の農民数名も逮捕された。若杉春后を失った農民はたちまち団結が失われ乱れ農民側は敗れた。上地が実行されて諫早家は蟄居、諫早家家老の諫早五郎は切腹、三村惣左衛門は獄門、農民側では若杉春后ほか三人が磔になった。13人の農民が死刑、13人が追放処分になった。このように諫早家の領地没収が農民一揆になり、農民の敗北に終わった。 *肥前国佐賀藩第6代藩主・鍋島 宗教、享保3年(1718) ~ 安永9年(1780)第5代藩主・鍋島宗茂の長男。母は久世通夏の娘・貞姫(貞樹院)。正室は中院通躬の娘・綱姫。子は娘(伊達村俊室)。幼名は萬吉。初名は教茂(のりしげ)。官位は従四位下、丹後守。元文3年(1738年)、父の隠居により家督を相続し、第6代藩主となる。父と同じく将軍徳川吉宗より偏諱の授与を受けたが、父と同名になるのを避け、二文字目には「茂」ではなくもう一方の「教」をあてる形で諱を「宗教」とした。財政難は深刻で借銀高は増加、家中の献米・献銀に依存した。寛延3年(1750年)には諫早一揆が起こる。従四位下侍従丹後守に叙せられ、宝暦10年(1760年)隠居し、家督を弟の鍋島重茂に譲った。安永9年(1780年)に63歳で死去した。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。 ◎江戸時代の佐賀藩・35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。龍造寺氏の支配体制を引き継いだため、龍造寺一族の所領もそのまま安堵する必要があったのである。 このため、幕府への普請役への出費などを理由に、家臣の領地3割を返上させる「三部上地」を2度、慶長16年(1611年)、元和7年(1621)実施し、直轄領拡大を行っている。1度目は全家臣、2度目は龍造寺4分家が対象となった。また、龍造寺4分家に差し出させた知行を支藩に割り当て、龍造寺4分家に養子を送り込むなどして、徐々に藩全体の鍋島化を図っていった。当初は、鍋島氏の一族鍋島生三、鍋島氏の外戚家門である石井氏の鍋島(石井)茂里らが藩政を主導していたが、のちに多久、諫早、武雄、須古の龍造寺4家が藩政の実権を握ってゆく。 これは、藩政を龍造寺4家に担当させる一方、財政面の責任も取らせようとした「勝茂の真に巧妙な統治策」の結果であるという。寛永11年(1634年)、高房の遺児・伯庵が幕府に龍造寺家再興を訴え、その後もたびたび訴訟を起こしたが、佐賀藩の大勢は鍋島氏の支配を支持しており、幕府も伯庵の訴えを取り上げることはなかった。10代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋技術の摂取につとめた。特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤った。 ※藩主跡目の紛争に陰謀が働き、老中が介入し、幕府が領地の削減の処分、削られた領民の負担増に一揆が勃発する。藩内のごたごたの内紛が農民まで波及する。首謀者が半農半武士の若杉春后が義民となるが、武士だけでは暮らしていけない苦しい藩財政が如実に表れた一揆であった。年貢増微を窺う藩政と、少しでも負担を少なくしたい農民の攻防続く。
2023年08月14日
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17、農民増税の愁訴を無視し処罰「摂津国河内国延享2年一揆」「摂津国河内国延享2年一揆」勘定奉行神尾春央の上方巡見を契機に年貢増備策に対して、幕領村々はその撤回を求めて幕府に願い出た。ついに摂津・河内の農民は朝廷に愁訴した一揆。年貢減免を求めて摂津・河内、大和、和泉、播磨の幕領村々は代官、大坂町奉行所、京都所司代等に訴願を繰り返したがすべて却下された。1745年(延享2)4カ国幕領の内摂津・河内の三郡の農民は朝廷の内大臣、武家伝奏に幕府に斡旋を愁訴、2万余りの農民がその門の前に押しかけた。結局農民の願いは聞き入れられず、愁訴の首謀者は処罰、朝廷への愁訴を教唆した代官元締は死罪となった。 *「神尾春央」(1687~1753)江戸中期の幕臣、勘定奉行。若狭の守、下嶋為政の次男。神尾春政の養子となり、1701年養父の跡を継ぐ(200俵)以後奥向きの勝手御用を務め、1736年に勘定吟味役に昇進した。その翌年は勝手方の勘定奉行にとなり、勝手掛け老中松平乗邑の下で年貢増備を推進した。1744年(延享元年)には自ら畿内、中国筋に赴き、有毛検見法、田方木綿勝手作仕法などの新仕法の導入をして年貢の大増微を行ったが、翌年4月に大坂周辺幕領農民の堂上方へなど出訴など、民衆の反発を招いた。後年、本多利明も、「神尾氏が日、胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの成りといへり、不忠不定というべし」と痛烈に非難している。松平乗邑失脚の翌年、1746年勝手方に関わる権限を縮小された。なお勘定奉行の地位にあり、年貢増微を指令し続けた。 *「松平乗邑」江戸中期の大名、享保の改革期の老中。徳川普代の大給松平家に生まれる。乗春と奥平昌能の娘との子。1690年(元禄3)遺領6万石を継ぎ肥前の唐津藩主になる。伊勢国亀山、山城国淀と領地を移される。1722年大坂城代に就任し、左近将監を名乗る。翌年、老中となり。下総国佐倉藩に移される。8代将軍徳川吉宗の信任厚く、享保の改革後期の1737年に勝手掛老中に就任。勘定所官僚や代官たちを率いて幕府財政の再建に取り組みが、その強引な年貢増微や規制強化政策により、社会諸階層から反発を招き、1745年9月に吉宗が将軍職を引退すると、翌月に老中を免職、蟄居させられた。 ※「摂津国・河内国延享2年一揆」1745年(延享2)摂津・河内・大和・和泉の4カ国にまたがる2万人余りの農民が年貢減免を求めて、幕領の村々は大坂町奉行所、京都所司代等に訴願を繰り返した。大坂城下は幕領が多く藩政とは違った農民一揆の形になる。幕臣勘定奉行神尾春央の上方巡見を契機に年貢の増微に、幕領の村々は不満と挽回を求めて大坂町奉行から京都所司代まで押しかけ愁訴した。愁訴された所管外の直訴に戸惑った大坂町奉行に京都所司代は、農民の直接の愁訴に困惑した。結局その願いは聞き入れられず、愁訴の首謀者は処刑され、愁訴を示唆した代官所の役人は死罪になった。摂津・河内・和泉・大和の百姓の一揆が起きた原因は、勘定奉行の神尾春央の農民政策の失策であり、上司の将軍吉宗の松平乗邑の年貢増微の強化と強引さが、社会諸階級から大きな反発を招き、吉宗の死後、失脚した。
2023年08月14日
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16、飢餓と家臣内紛で一揆で役職処罰「久万山一揆」「久万山一揆」1741年(寛保元年)伊予国松山藩久万山で発生した一揆。3月、久万山の下坂・北坂の農民が紙専売制に反対して松山に出訴を企てたが藩に慰撫にされた。7月、口坂も加えて久万山三坂の農民が3000人蜂起し、大洲藩城下近くに逃散、同藩主に強訴しょうとした。原因は凶作による米価の高騰に、換金作物であるお茶価格の落下にあった。松山藩は久万山の大宝寺住職斉秀に仲裁を依頼した。その結果藩は譲歩し、茶税の増微中止、差上米の免除、小物成りの五割増の中止、紙専売仕法は従来通りとし、8月農民は帰村した。家老奥平貞国らは処罰された。 ◎「松山藩」伊予国温泉郡松山を藩庁とする親藩中藩。近世初期、小早川隆景、福島正則の伊予支配後、1596年(文禄4)加藤嘉明が6万石で伊予郡正木城に入った。関が原合戦後、嘉明は20万石に加増され、松山城を築いたが、1627年(寛永4)陸奥国会津に入封、1634年忠知は嗣子がなく死没してから徐封された。翌年伊勢国桑名から孫松平定行(1587~1668)が入封、維新まで15代に渡って久松氏の支配が続いた。定行は松山城を改修し殖産興業に務めて、多くの国産品を創始し、藩政の基盤を築いた。1663年(寛文3)以降干ばつなどで藩財政が破綻。奉行高内又七は春免を施行して税制を確立した。享保飢饉では義農作兵衛の餓死など領民に被害が大で、1741年(寛保元年)には久万山一揆が発生、「松山騒動」と言われるまでお家騒動も起こった。 *「義農作兵衛」(1688~1732)享保の飢餓(1732)に際し、麦種一斗を枕に、種の重要性を説きつつ餓死した篤農家。松山藩領筒井村の水呑百姓作平の長男。精励して33aの自作地15aの小作地を耕作。飢餓で松山は5705人の餓死者を出し、藩主が謹慎を命じられた。作兵衛餓死後、筒井村庄屋が上申書を提出、藩は作兵衛の基碑を建立。愛媛県伊予郡松前町筒井公園に「義農之墓」の碑文がある。義農神社は作兵衛を祀る。 *「奥平 貞継」元禄16年(1703年) - 安永7年(1778年))は、伊予松山藩家老、奥平藤左衛門家4代当主。父は松平政定。養父は奥平貞虎。兄弟は松平忠暁、小出英都。子は奥平貞幹、水野忠徳。通称次郎八、酒之丞、弾正、左門、藤左衛門。元禄16年(1703年)9月27日、300俵の幕府旗本・松平杢之助政定の次男として江戸に生まれる。父政定は、2000石の旗本・松平織部定之の七男で、母が松山藩の家老奥平貞由の娘であった。宝永7年(1710)祖母の実家、伊予松山藩家老である奥平藤左衛門家の家督と、養父の遺禄の内2500石を相続する。正徳4年(1714)与力を預けられ組頭となる。享保3年(1718)家老職見習。享保5年(1720)家老となり、同年300石の加増を受ける。享保14年(1729)知行3000石となる。享保年間より、藩政を巡って、同僚の家老奥平三郎兵衛貞国(久兵衛)と二派に別れて争う。両奥平家は、藤左衛門家が、初代藩主松平定行の生母の弟貞由の子孫であるのに対し、三郎兵衛家は、貞由の叔父貞政の子孫という、本来一族の関係であった。享保16年(1731年)貞国が隠居を命じられ藩政を退いたことで、一旦は勝利を収めた。享保17年(1732年)の享保の大飢饉で、最多の3500人にも上る餓死者を出してしまった松山藩は幕府の不興を買い、同年12月に藩主松平定英へ裁許不行届として差控の処分を受ける。翌享保18年(1733年)4月に差控を解かれた藩主定英は、5月に急死。新たに藩主となった定喬は手始めに、隠居の身であった奥平貞国(久兵衛)に家老再勤を命じ、貞継ら飢饉当時の藩政指導者の処分を行った。そこでの貞継は、領内の困窮を尻目に大坂で遊興に耽っていたとして、家老を罷免され、久万山に蟄居を命じられる。享保19年(1734年)嫡男貞幹が新知1500石で家名存続を許された。享保21年(1736年)4月蟄居処分を解かれ大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月久万山地域の農民3000人が、紙専売仕法反対等を訴え一揆を起こし大洲藩に逃散する事件が発生。今度は久兵衛貞国が、その責任を問われ遠島となり失脚。同年12月に大坂表より召喚された貞継は、翌寛保2年(1742年)家老職に復帰。寛保3年(1743年)知行3000石を賜り、軍用方並支配方用係となる。寛延3年(1750年)500石の加増を受ける。宝暦3年(1753年)病により家老を辞職して隠居する。安永2年(1773年)隠居料50人扶持を賜り、左門と名乗る。安永7年(1778年)6月11日死去。享年71。 ※久万山一揆の発端は享保の飢餓で松山藩の農民は多数の死者に疲弊し際、筒井村の水呑百姓、麦種の重要性を説きつつ餓死した。飢饉で松山では5705人の餓死者を出した。警鐘を鳴らした作兵衛の聞き入れず多数の餓死者を出した藩主は謹慎を申し付けられた。藩政は奥平家老両家の主導権争いに勝利した、奥平貞国は田畑に代わる租税として紙専売制導入に対して、百姓は立ち上がり口坂・北坂・下坂の農民3000人立ち上がった。藩内では家老奥平氏両家の主導権争いで奥平貞継は敗れ、奥平貞国側が勝利した。貞国は租税の紙専売制に農民の反発に3000人の一揆が起こり、この蜂起で、一揆で責任を問われ、遠島を申し付けられ失脚した。
2023年08月14日
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15,失政に転封に不満に一揆が鎮圧【姫路藩領寛延2年一揆】「姫路藩領寛延2年一揆」1749年(寛延2)に播磨国姫路藩(松平氏15万石)で起こった全藩一揆。原因は藩の失政と大庄屋制の弊害にあった。前年末に藩主松平明矩(1709~1748)が死去し、その直後に年貢延納を求めて動きがあった。幼少の松平朝矩の相続と上野国前橋藩への転封が決まると、正月16日から領内各地で連鎖反応的な打ちこわしが発生した。藩当局は鎮圧に失敗し城門を閉ざした。19組の大庄屋と庄屋、御用商人など60軒が打毀しになった。農民は一挙に一揆に発展、藩内は混乱に陥った。事態を重く見た幕府の指示で、大坂城代と大坂町奉行が一揆参加者の取り締まりを行い、新藩主の酒井氏によって200名以上の処罰がされた。首謀者には厳しい磔刑に処した。事態はその後鎮静化したが、犠牲になった滑甚兵衛は後世に義民として顕彰され、また「播姫太平記」などの一揆物語が作られた。 *松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。正徳3年(1713年)、陸奥白河藩支藩の白河新田藩主・松平知清の長男として生まれる。享保6年(1721)の父の死に伴い新田藩主となるが、本家白河藩に子がいないため、享保12年(1727)に伯父にあたる松平基知の養子となり、享保14年(1729)閏9月2日、白河藩を相続する。知清または基知から偏諱を授かってこの頃までは義知(よしちか、初名)と名乗っていたが、基知の死後にその1字を憚ったのか、のちに諱を明矩に改めている。寛保元年(1741)11月1日、姫路に国替となった。延享2年(1745)、9代将軍徳川家重が将軍に就くと、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられたが、費用がないため藩領に臨時の御用金を課した結果、大一揆が発生し、その最中の寛延元年(1748年)に36歳の壮年で死去した。家督は幼少の長男・朝矩が継いだ。 *滑甚兵衛・没年:寛延3年(1750)生年:生年不詳・江戸中期の播磨国(兵庫県)姫路藩寛延大一揆の指導者。飾西郡古知之庄(夢前町)の人。住居地の小字により滑甚兵衛と呼ばれた。一揆のとき,40~42歳で持高11石余。寛延2(1749)年姫路藩松平氏の治政下,凶作による年貢の延納要求や大庄屋,庄屋の不正糾弾のため農民が蜂起。単発的な強訴や打ちこわしののち,1月28日飾西郡前之庄組大庄屋打ちこわしを幕開けとして、藩内の平野部,海岸部に波及し、2月3日まで打ちこわしが展開した。甚兵衛は発端となった打ちこわしを巧みに組織し、一揆後,甚兵衛宅を「なめら会所」として地域自治が成立。首謀者として磔刑に処せられ、のち義民として祭られた。 ◎姫路藩・1741年に榊原氏に代わって再び入封した越前松平家も、その8年後には松平朝矩の幼少を理由に上野前橋に転封され、かわって老中首座酒井忠恭が前橋から入封する。姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を2度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した。 ※「姫路藩領寛延2年一揆」1749年(寛延2)播磨国姫路藩(松平15万石)で起こった全藩一揆。原因は旧藩主死去の為に、幼少の新藩主松平朝矩になったが、同時に藩政で年貢の厳しい取り立ての動きがあって、幼少の朝矩に転封が決まった。直後から百姓へ年貢の取り立てと、連続打ち毀しが発生し、19組の大庄屋と、50軒の庄屋、御用商人の打ち毀しになった。農民の反発で一挙蜂起、一揆になり混乱になった。その後幕府の指示で一斉取り締まり行い200名以上処罰されたが、首謀者の滑甚兵衛は磔(はりつけ)に処せられた。一揆の犠牲者として滑甚兵衛は後々世にまで地域の偉人として顕彰されている。藩政には行き過ぎた年貢の負担や強硬取り立ては後々問題を起こす要因になる一つの例である。
2023年08月14日
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*池田 宗泰(いけだ むねやす、享保2年2月13日(1717年3) - 延享4年8月21日(1747年9月25日)は、因幡国鳥取藩4代藩主。鳥取藩池田家宗家6代。鳥取藩3代藩主池田吉泰の長男。母は側室の中村氏。正室は紀州藩主・徳川宗直の五女・久姫。子は池田重寛(長男)、幼名を長吉、のち世嗣となり勝五郎と改める。官位は従四位下、出羽守。鳥取城で生まれる。享保16年(1731)、第8代将軍徳川吉宗(第2代藩主池田綱清の母方の従兄弟にあたる)の面前で元服、吉宗と父・吉泰より偏諱を賜り宗泰と名乗る。従四位下を叙任する。元文4年(1739)、父・吉泰の死去に伴い家督を相続する。この年、因幡・伯耆両国で増税に反対した領民による大規模な一揆「元文一揆」が起こった。このため、藩主就任早々、倹約令を出し藩財政の立て直しを計った。寛保3年(1743)、正室・久姫と婚姻する。延享4年(1747年)8月21日に死去した。享年31。家督を2歳の長男・勝五郎(のちの重寛)が継いだ。 *「松賀勘右衛門」(?~1740)江戸中期の農民。鳥取藩領元文4年一揆の首謀者。因幡国八東郡東村に生まれ、幼少から才知をうたわれ、算術に通じた。また眼病の治療を良くし、それ通じて藩士と交わった。農村政策をしばしば建言したが、入れられず、1738年(元文3)郡代米村所平らを排斥するために、弟夫源治らとともに一揆を計画、同志を因幡・伯耆の各地に遊説させ、1739年2月には数万人が参加する一揆を指揮した。一揆勢は城下町に進入を阻止され瓦解、勘右衛門は分家東館家臣永原弥左衛門長屋に潜伏中捕らえられた。翌年11月処刑された。一揆勢が集結した鳥取市安長に嘉右衛門を祀る地蔵、生地に顕彰碑がある。 ◎鳥取藩は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。江戸時代を通し池田氏が治めた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。元和元年(1615)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。寛永9年(1632)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5000石を治めることとなる。この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。2国を領し因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では米子に城が置かれ、城代家老として、荒尾氏が委任統治(自分手政治)を行った。この他に倉吉、八橋、松崎、浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治を行っていた。なお、これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職が置かれていた。また、因幡国内には支藩として鹿奴藩と若桜藩を置いた。天保の大飢饉は鳥取藩でも猛威を振るった。その被害は「申年がしん」と称されている。 ※「元文一揆」は1739年(元文4)鳥取藩で起きた大規模な一揆である。首謀者が加賀勘右衛門だったので、「勘右衛門」とも呼ばれている。その規模からいって5万人は藩政史上最大の百姓一揆と言われている。当時当地方は飢餓などで藩政が混乱し、藩内では米村派と物頭派に分かれ内紛が乱れ、折しもの長雨に3万1000石の被害を被ったという。凶作に内紛と藩内に混乱に年貢の取り立ても厳しく、農民の不満は限界に来ていた所に、計算に知識に長けていた八東郡東村の松田勘右衛門が一揆を計画、村から村へと広まっていった。村人と徒党を組んで大庄屋の屋敷を討ち壊していった。一揆の動きをした近隣、近在から各地から2万人以上が参集し、鳥取城下に達した時には5万人余りに膨れ上がり、鳥取町目付に一揆勢から願書を渡し受理された。翌日には郡代の松井番右衛門に対応させ12箇条の回答書を提示、城下に乱入を試みが失敗した。一揆のもの疲れからか村へ帰途に着く者多く、鎮静化した。翌日松田勘右衛門は処刑、関係者40人は継法系に処せられた。藩内内紛の米村広当は国外退去に処せられ、藩主池田宗泰は農民には一定の配慮を見せ、幕府からの沙汰はなかった。
2023年08月14日
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13、一揆絡みの家騒動【加賀藩領寛文7年検地反対一揆】「加賀藩領寛文7年反対一揆」浦野一揆ともいう。1667年(寛文7年)加賀藩重臣長連頼の普代家臣浦野孫右衛門らは起こした検地藩に賛同した十村(大庄屋)らが藩庁に越訴した。その罪で、久江村園田道閑ら首謀者三名が磔刑、獄門、一名獄死、二名国外追放など多くの犠牲者を出した。これは、検地の施行の是非を回り、長家の家臣浦野孫右衛門一党が主家長家にたいして反逆したお家騒動と、それに一味した道閑らが藩庁に直訴する代表的越訴型一揆の二面性を持っている特異な事件であった。しかしこれを機に長家領に許されていた地方知行制が廃止され、やがて改作法もこの地に実施されて加賀藩政が確立した。 *長 連頼(ちょう つらより)は、江戸時代初期の武士。加賀藩家老。長連龍の次男。長氏23代当主。兄に長好連。室は香集院(不破光政娘)。子に長元連。 慶長9年(1604年)、前田氏の家臣・長連龍の次男として誕生する。元和5年(1619)に父が死去し、すでに兄も死去していたため、家督と能登鹿島半郡ほか加賀国・能登国内、3万3千石を継ぐ。鹿島半郡は、織田信長から父の連龍が受領した地で、前田氏の家臣となってからも、本来なら他の家臣が分散して知行地を持っているのとは別格に、金沢のほかにも知行地の鹿島郡田鶴浜にも本拠を持っており、藩主もこれに手をつけることができなかった。そんな中、在地の家臣の浦野孫右衛門信里と金沢の家臣の加藤采女の対立があり、浦野が新田開発をし、それを私有しているという噂が流れた。そこで寛文5年(1665)2月に新田の検地を実施しようとしたが、これを加藤采女派の策謀と思った浦野派は、同年3月27日、検地反対の旨の書面「検地御詫」を連頼の子息の元連を仲介して提出した。しかし、9月には検地が一部行われ、浦野は元連と連携して、十村頭の園田道閑ら有力農民を扇動して検地の阻止に出て、検地をすることができなくなった。これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し、寛文7年(1667)2月15日、本多政長、横山忠次、前田対馬、奥村因幡、今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した。藩主・前田綱紀は、鹿島半郡を直接統治する機会と考え、介入し浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕。このことを江戸幕府の保科正之(綱紀の舅)に相談し、寛文7年(1667年)に浦野父子ら一派の首謀者は切腹、切腹した者の男子は幼児であっても死刑に処された。協力した有力農民も一味徒党として捕らえられ、園田は磔、3人の子は斬首刑となるなど、軒並み死刑となった。事件は長家の家中取り締まり不行き届となり罪は子の元連にもおよび、剃髪のうえ蟄居となり、その子の千松(のちの長尚連)が後継者となるが、検地の場合は藩の命令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなどの条件がつけられた。この事件を浦野事件(浦野騒動)という。 *「園田道灌」江戸時代の義民。加賀藩長家領鹿島半郡の十村頭の大庄屋の代表。長連頼の普代家臣が起こした検地反対一揆に賛同し藩庁に出訴した罪で、磔刑、息子三人は打ち首となった。 その後検地反対の農民の犠牲になった道灌に村民の思慕が集まり「おいたわしや、とこやちの道灌様は、七十五村の身代わりに」臼籾歌に歌う労働化に成ったほどの、祠が奉られている。 ※加賀藩の重臣の長氏は能登国3万3千石の領主の普代家臣浦野孫右衛門の起こした「検地反対」運動を展開した。主君を裏切ってまで検地反対をしたかについては、年貢の負担増に村民の暮らしを守るために賛同者を募り説明したのだろう。浦野孫右衛門の検地反対に賛同した十村頭の大庄屋園田道灌が百姓代表として越訴を加賀藩に訴え出て、表面化、長家の中で二派に分かれた「浦野騒動」お家騒動に浦野孫右衛門一派に園田庄屋の思いが一致し「検地反対一揆」が発生したと思われる。
2023年08月14日
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◎久留米藩は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。 米藩(べいはん)とも称される。久留米地域は、平安時代末期の長寛2年(1164)、肥前国の国人の草野氏が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後、戦国時代が終わるまでの約400年間、北部の山本郡は草野氏が統治し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭である柳川城主の蒲池氏が統治した。天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州平定ののち、筑後3郡7万5千石を領することになった小早川秀包は、久留米城を改修して居城とした。秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれ、文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増される。しかし、関ヶ原の戦いの際に西軍に与したため改易となる。関ヶ原の戦いののち、筑後一国32万5000石は田中吉政の所領となった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には子の田中則政(吉信)を置いた。田中氏時代、久留米城の拡張が行われているが、慶長20年元和元年(1615年)の一国一城令により破却されている。元和6年(1620)、2代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易となった。その所領は分割され、久留米を含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏の所領となった。なお、筑後南部には立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三池藩(1万石)が成立した。元和6年(1620)、丹波国福知山藩8万石の大名であった有馬豊氏は、一挙に13万石の加増を受け、久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は大坂の陣の功績とされている。なお、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったのは不可思議である」旨の発言をしている。有馬豊氏は、播磨国の赤松氏庶流の豪族・有馬則頼の二男で、豊臣政権では姉婿である遠江国横須賀城主渡瀬繁詮に仕えてその所領を継承、豊臣秀吉死後は父とともに徳川家康に接近し、家康の養女蓮姫を娶ったという経歴を持つ。関ヶ原の戦い後の福知山への加増転封や父の所領(三田藩)の編入を経て、久留米移封によって一代で21万石の大名にまで躍進した人物であるが、同時に多様な出自を持つ家臣団を持つこととなった。渡瀬家から引き継いだ「横須賀衆」、父の三田藩から引き継いだ「梅林公御代衆」、豊氏が福知山で召し抱えた「丹波衆」、そして久留米で新たに召し抱えた家臣などである。こうした派閥は、のちの藩内抗争の下地となった。初代藩主・豊氏は、入封後に廃城と化していた久留米城の修築を手がけ、城下町を整備した。年貢の増徴策を取る一方、新領地の人心掌握にも腐心している。寛文4年(1664)から延宝4年(1676)にかけて、筑後川の治水・水利事業が営まれ、筑後平野の灌漑が整えられた。米の増産を目的としたこれらの事業は逆に藩財政を圧迫する結果となった。第4代藩主・頼元は延宝3年(1675)より藩士の知行借り上げを行った。早くも天和3年(1681)には藩札の発行を行っている。また、頼元はすすんで冗費の節約を行い、経費節約の範となった。第5代藩主頼旨の時に豊氏の男子直系が絶え、旗本石野家(赤松氏一門)出身で旗本有馬家(則頼の四男にはじまる家)を継いでいた則維が迎えられて第6代藩主となった。則維は、頼元以来続けられてきた財政再建のための藩政改革を引き継ぎ、これが功を奏し何とか好転した。領民が6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、その治世は平坦なものではなかった。 ※「久留米領藩享保13年一揆」は6万人規模の一揆に藩側も農民側の要求を受け入れた。百姓に犠牲者がなかったのは珍しいくらいで、一揆の処理は農民だけでなく家臣重役のも厳しい処分を課した。藩主有馬 頼徸の藩政には目安箱を置くなどして農民の不満など聞き入れ、農民の娯楽にも理解を示した。藩政は将軍吉宗に見習って善政政務に全力を尽くした。
2023年08月14日
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12,一揆側・役人側も両成敗決着【久留米藩領享保13年一揆】「久留米藩領享保13年一揆」1728年(享保13年)筑後国久留米藩領で起こった強訴。同年2月、藩は財政窮乏の打開策として、夏物成(麦、菜種などのへの課税)の増微を実施する。これに1712年(正徳2)以来の年貢増微策に対する不満も加わって一揆となった。領内東部の生葉・竹野・山本郡の農民が中心となり、2月下旬から各地で屯集、協議を展開し、3月には誓詞・血判の上嘆願書を作成し藩側に提出した。藩側の一定の譲歩によって一時鎮静化したが、7月から8月初旬に再び不穏となり、8月には領内東部の農民が中心となって城下町への強訴を開始、藩側は高10石に一斗ずつの年貢減免を申し渡し、強訴が終息した。農民側の犠牲者はなく、財政方の改革担当の本庄主計が断罪となった。当時は九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。 *有馬 頼徸(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名・数学者(和算家)。筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」として著名である。一方為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではなかった。正徳4年11月25日(1714年12月31日)第6代藩主・有馬則維の四男として生まれる。享保14年(1729)父の隠居により16歳で家督を継いで藩主となる。しかし若年のため、元文2年(1737)までは重臣が藩政を担った。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起こる。頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施した。広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励した。当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。天明3年11月23日(1783年12月16日)70歳で死去。後は長男・頼貴が継いだ。 *稲次因幡守正誠(まささね) の略歴・元禄15年(1702)・久留米城下篠山町に出生(父は有馬志摩経雄(つねお)、代々有馬家家老の家格で禄高三千石・永4年(1707)・(6才)9月家督をつぐ・享保4年(1719)・(18才)5月家老職につく(同年、藩主則維(のりふさ)より有馬の称号及び因幡の名号を給わる。藩主則維の江戸参勤に随従し、藩主に世子廃立の不可を諫めて、ようやく許しを受けた・享保13年(1726)・(25才)5月、検見その他政道について、有馬内蔵助と連名で藩主に上書・享保13年(1726)・(25才)8月18日、上3郡の百姓、5700余人、善導寺に勢揃い。これに対して、因幡は農民嘆願の民意を受け入れて声明を出し、一揆(享保の一揆)を沈静させた。享保14年(1729)・(28才)7月4日(28才)に則維が官職を退き七代頼僮(よりゆき)の代となる。・享保19年(1734)・8月、(33才)禄300石を取り上げられ、家老職から十人扶持の小身となる。筑前国境の津古に蟄居享保20年(1735)(35才)蟄居津古村、武作方に移り蟄居。疱瘡を病んで死去。35歳。
2023年08月14日
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11、苛政に農民二度の一揆で収束【享保3年一揆】①「備後国恵蘇・三次郡享保3年一揆」広島支藩の三次藩松波勘十郎を雇って実施した藩政改革に端発した一揆。1718年(享保3年)1月27日、藩の収奪強化と前年の凶作で打撃を受けた恵蘇郡農民は、炊き出しの強要と強訴の参加呼びかけながら廻村して三次へ到着。三次郡の農民も加えてその数6000人に膨れ上がった。一揆勢は、村ごとに小屋掛け・野宿しながら藩と交渉に入った。郡制の改革、年貢の減免、専売の制の廃止、救恤米銀の貸与、農政の責任者郡奉行吉田孫兵衛の罷免などを要求を、ほぼ全面的に飲む2月3日の藩側の回答で騒動は収まり、一揆勢はそれぞれ帰村した。この一揆の勝利はその後の藩に大きな影響を与えた。 *松波勘十郎(?1710)江戸中期、複数の領主の財産運用・再建に手腕を振るった財政家。美濃国鶉村生まれ。幕府代官のもとで才覚を表す。1685年(貞享2)小藩の財政を再建し、大和郡山藩では年貢増微と新たな借り入れに成功。1699年(元禄2)備後国三次範の財政再建を依頼されるが、この頃京都に屋敷を設け領主財政運用の債権の拠点となった。後に陸奥国の棚倉藩、美濃国加納藩、常陸国水戸藩では涸沼北浦間の運河開削を中心に政策を展開するが、領民の藩より追放された後に捕らえられて水戸にて獄死した。「三次藩」備後国三次に藩庁置いた広島藩の支藩。領石高5万石。1632年(寛永9)浅野長晟の死去で継子光晟が広島藩を襲封した同じ日、幕府命により庶兄浅野長治に5万石を分立して立藩。長治は江川・西域川に囲まれた堅固な堤防を築き、三次町を整備するとともに、領内特産の鉄、紙、牛馬など奨励して財政基盤の拡充を図った。しかし、寛文・延宝期になると支出増大に伴う借金累積に陥った。1699年(元禄12)には全国に登用された、松波勘十郎を登用して藩政改革を断行、領内の米穀・特産物を集中的に収納させた大阪に廻送、その販売代金で借金返済に充てる政策をとった。1718年(享保3)全藩の総百姓一揆により改革は頓挫した。1719年継嗣断絶により4代長経を最後に廃藩になり、本藩に還付された。 ②「広島藩領享保3年一揆」1718年(享保3)3月から4月にかけておおよそ三十万余りの百姓が蜂起したと言われる。広島藩は1711年(正徳元年)従来の代官制を廃して、豪農を所務役人、頭庄屋に命じて地方の支配に臨んだ。これは「地方功者」によって郡村支配徹底を図ったものである。年貢率が上昇するなど農民の反発を買った。1718年3月、甲奴郡や三上郡で始まった強訴、打毀しは瞬く間に全藩に広まって、刑務役人、頭庄屋宅に多くが打毀し大一揆に展開していった。これに驚いた藩は「郡方新格」の撤廃、年貢の減免など農民の要求を受け入れ譲歩した。4月の上旬には鎮静化していった。 ※享保3年一揆は「備後国領」と「広島藩領」に一揆が起きた。「備後国領」に起きた一揆は藩再建請負屋の松波勘十郎を雇って藩政改革を実施した。前年の凶作に藩政改革に打撃を受けた農民は組織的に炊き出し、小屋掛け、野宿しながら、一揆は6000人に膨れ上がり、藩は止む無く交渉に入り、一揆の要求に減免、専売制の廃止、米銀貸与、農政奉行松波勘十郎の罷免を要求し、藩側は全面的に要求を受け入れて、一揆は収まった。この一揆の最も大きな要因は広島藩の三次藩の分藩に端を発していた。本藩継子に対して幕府から庶兄長治に5万石に分立から藩政は乱れ、松波の藩財政再建に三次藩の政策の失敗が農民の不満を買い一挙に一揆に膨らんだ。「広島藩領」に起きた一揆は1718年(享保3)二カ月にわたって30万にあまりに膨れ上がった。要因は藩政改革として代官制を廃して、頭庄屋に藩政の年貢を代行させた。これに帰って農民に反発を買って、一揆が一挙に拡大し藩は農政改革を撤廃し、年貢の減免などを受け入れ鎮静化していった。
2023年08月14日
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10、過剰検地に財政難で直訴で改易【沼田藩領天和元年一揆】「沼田藩領天和元年一揆」1681年(天和元年)上野国沼田藩領で起きた一揆。同年、江戸両国橋用用材を請け負った藩主真田信利(信直)が期限内未納入を理由に改易された。原因は利根郡月夜野村の茂左衛門が領主の苛政を将軍徳川綱吉に直訴した為と思われる。直訴状の写しが各地に流布している。松代と上田を支配した真田信之が1658年(万治元年)死去すると、松代城主に果たせなかった信利が松代から自立し、領主権力強化を図り、家臣団整理して表高3万石を14万石にした石高制検地、年貢徴収法の強化などの藩政改革を進めた。領民の負担は増加し、前年度は凶作に、四割の領民は飢えに苦しむとまで言われた。百姓は疲弊し、一揆が起こったとされている。詳しい実態は不明である。藩主真田の改易の理由はその経緯は、延宝8(1680)年、信直は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。信直は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。 *「磔茂左衛門」(はりつけもざえもん)(生没年不詳)上野国利根群月夜野村の義民。1681年(天和元年)沼田藩真田信利の苛政を領内177か村の惣代として将軍徳川綱吉に直訴したという。実態は不明で。伝承によれば、茂左衛門が板橋宿の茶店に置いた直訴状を収めた文箱が、上野寛永寺から将軍へ届けられたことから、沼田藩の実状が明らかになって、沼田藩の改易に繋がった。茂左衛門も磔刑に処せられ、死後その霊を茂左衛門地蔵に祀ったという。今日も芝居、歌舞伎で『磔茂左衛門』上演されている。杉木 茂左衛門(すぎき もざえもん、寛永11年(1634)? - 貞享3年(1686))は、江戸時代の義民。上野国(群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。また一説1662年、沼田藩主真田信利の悪政が始まる。1680年、大飢饉の発生により、経済状況がより悪化。1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。 *真田 信利(信直)は、江戸時代前期の上野沼田藩主。父は真田信吉。母は側室で真田家家臣依田氏の娘。「信利」(信直)は真田信之の庶長子である信吉の次男として生まれる。 当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、松代藩の分領(分地)であった。沼田は信吉死後、信直の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638)に幼くして没した。当時は信直も兵吉を名乗る3歳児だったため、信直の叔父に当たる真田信政が相続した。信直には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与され、小川城跡の二の丸を陣屋として、寛永16年(1639年)から明暦3年(1657年)まで母親と共に居住した。明暦2年(1659)、祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、沼田領主であった叔父信政は本家松代藩を相続し、沼田領は代わって信直が領有することになる。信政は2年後の明暦4年(1658)2月に死去した。松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。一方で信直は自身が信之の長子信吉の子であることを理由として「真田家の、松代藩の正統な後継者は自分である」と幕府に訴え出て幸道の本藩相続撤回を求めた。信直には正室の実家の土佐藩や老中で下馬将軍酒井忠清、信之の長女光岳院殿の嫁ぎ先である高力氏が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により沼田領は松代藩から分離独立させられ、信直を藩主として沼田藩として立藩した。これ以降、信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。延宝8(1680)年、信直は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。信直は山形藩奥平家に、長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。また一説では、辰之助は長姫(信利の姉)の養子となり、初め真田修理亮信明、後に千種有純になったとも言われている。尚姫も長姫の養女となり、久我通誠に嫁いでいる。翌天和2年正月には、幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められた。その後、信直は奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、同地で没した。享年54。 ※沼田藩藩主真田信直は松代藩から信直自身が松代藩の正式な後継者だと家督騒動を起こし幕府から、松代藩から分離し、沼田藩藩主に真田信直として分離独立をした。信直は松代藩10万石に対抗するために表高3万石を領内総検地によって実高14万4000石に強引に打ち出し幕府に報告をした。その後幕府が再検地したところ実高6万石に過ぎなかった。江戸の藩邸も松代藩邸も引けを取らない豪邸に、そのため領民は重い年貢負担の為に多数の餓死者を出した。折から信直は両国橋の改修の用材の調達を、木材商大和屋から請け負った。折しも台風で利根川、片品川の氾濫で用材は流失し、翌年の天和元年の10月の納入が間に合わず、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴で露呈し、幕府から治世不良、納期延滞で改易された。
2023年08月14日
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*金森 頼錦(かなもり よりかね)は、江戸時代の美濃八幡藩の第2代藩主。金森可寛の長男。父の可寛は初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが、享保13年(1728)に37歳で死去したため、頼錦は享保14年(1729)に跡継ぎとなり、従五位下若狭守に叙任した。享保21年(1736)の祖父の死去により家督を継ぎ、兵部少輔に改めた。延享4(1747)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754)、年貢の税法を検見法に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた。宝暦13年(1763年)6月6日死去、享年51。◎定免法(じょうめんほう)とは、江戸時代における年貢徴収法のひとつ。起源は平安時代にあって、鎌倉時代、室町時代、豊臣時代にも用いられたが、広く用いられたのは江戸時代である。従来の年貢徴収法は、年毎に収穫量を見てその量を決める検見法(けみほう)が採用されていたが、これでは収入が安定しないので、享保の改革の一環で導入された。享保7年(1722)のことであったとされる。定免法では、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず一定の年貢を納めることになった。しかし、余りにも凶作のときは「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。定免の継続期間は享保13年(1728)3月の触書には5箇年、7箇年、10箇年、15箇年があるが、年期が終わると更に申請して年期を切り替え、従前の税額に増して定免を継続することができた(継年期)。定免法の実施により幕府の収入は増え、また安定化したと言われる。 ◎検見法(けみほう、けんみほう)は、近世の日本における年貢徴収法のひとつ。田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法である。検見取法(けんみどりほう)ともいう。検見は、元は毛見と称し、作物の出来具合=立毛を見分することである。検見法には、色取検見・畑検見・木綿検見・請免居検見・遠見検見・投検見など様々な種類があった。検見法は、代官が農村に赴き、田の一坪分を収穫高のサンプルとして刈り取り、脱穀してその田の規定収穫量を満たしているかを調べて、不足があった場合はそれを考慮してその年の年貢高を修正して課税した。これを坪刈(つぼがり)という。 ※「郡上一揆」は延宝年間(1677)と宝暦年間(1754)に起きた大規模な一揆である。延宝年間の一揆は藩の財政は苦しく、年貢の増税に定免法から検見法に改められた。美濃国郡上藩遠藤氏の年貢増収に反対する百姓一揆。遠藤内検地と呼ばれ増微を図った。1677年百姓は藩の会所や江戸に赴き年貢の軽減を訴えた。百姓の要求に一旦は受け入れられたが、藩内の増微反対派が増微派の杢之介の屋敷に取り囲み襲撃し、両派争うが藩主帰国し両派処分で一揆は解決した。その後宝暦年間に再び一揆が勃発し、金森氏の年貢微収改正に反対した一揆。定免法から年貢の厳しい「検見法」に改められたのに百姓は反発し一揆を起こした。百姓は城下町に強訴に藩は一旦あきらめたが、再び強要し、百姓は南宮神社に集結し、江戸藩邸に訴願をおこなった。この混乱が大きくなって、神社紛争「石撒白騒動」が起こり、騒動と一揆が重なって金森氏の改易へと一因になった。
2023年08月14日
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9、増税で農民に苛政、江戸に駕籠訴で藩主改易【郡上一揆】「郡上一揆」江戸時代に美濃国郡上藩で延宝年間(1677)に発生した一揆と、宝暦年間(1754)に発生した大規模な二件の一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた。農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した。しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された[。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る。老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した。郡上藩領全体の石高は元文元年7月18日(1736)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内は宝暦6年(1756)の記録では23293石となっている。当時の郡上郡内では水田による稲作と畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆、蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力は限られたものであった。江戸時代の郡上一揆発生当時に農民たちは郡上での農業について、郡上藩は白山に近く大日ヶ岳、鷲ヶ岳などという山々に囲まれているため、春は遅くまで雪が残る上に水が冷たく、秋は霜や降雪が早く、稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシ、シカ、サルが作物を荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章が残っている。延宝4年(1676)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民は強く反発し、増税取り下げを要求した。当時の郡上藩主遠藤常春は幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争いが激しさを増して藩政の主導権争いとリンクし、大混乱に陥った。そのような情勢下で農民たちは一揆を起こし、結局、喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税派双方の責任者クラスを処分したという事態が発生していた。その上に、もともと生産性が高くなかった郡上郡内にも、時代の変革の波はやってきていた。郡上一揆が発生した江戸時代の中期には商品経済が発達を見せ、米以外に養蚕やタバコなどといった換金性の高い生産活動に従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製の農機具や肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性が高まっており、この結果、郡上でも養蚕や紙漉きなどといった労力を要する現金収入手段を得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化が始まっていた。またこのような社会情勢の変化に応じて、郡上藩は商品作物などに対する課税強化を進めていた。郡上一揆当時の郡上藩主は金森頼錦であった。金森氏は天正18年(1585)に金森長近が飛騨を平定し、3万8700石の領有を認められた後、関ヶ原の戦いで東軍に属したため、金森氏は引き続き高山藩主として飛騨一国を治めていた。第6代藩主である金森頼時の元禄5年(1692)7月、金森頼時は飛騨の領地を召し上げられ出羽上山に転封となった。金森氏領地であった飛騨は天領となり、これは幕府が飛騨の豊かな山林資源や鉱物資源に目を付け、天領とするために金森氏を転封させたとも言われているが、転封の真の理由ははっきりしない。しかし金森氏の上山領有はわずか5年足らずで終わり、元禄10年(1697)6月、今度は郡上へ転封となった。二度に渡る転封により金森氏の財政は大きく圧迫された。上山時代、財政難に見舞われた金森頼時は幕府の許可を得て家臣の召し放ちを行ったが、郡上藩主となった直後の元禄12年(1699)前々藩主であった井上正任、前藩主井上正岑の定めた、作物の収穫高を行った上で年貢高を決定する検見法による税率が高かったことにより、農民らが江戸表の金森藩邸に訴えるという事態が発生したため、金森頼時は作高に関わらず定率の年貢を賦課する定免法へと変更し、それに伴い税率も引き下げられた。転封とその直後に実施した税率引き下げにより財政状況が更に悪化したため、元禄14年(1701)には幕府の許可を得て更なる家臣の召し放ちを行わざるを得なかった。その上、江戸の芝金椙邸は享保2年(1771)に焼失し、享保8年(1723)9月には再建されたが、翌10月に再び焼失してしまった。藩の財政難を案じた金森頼時はその後江戸藩邸の再建を行わず、元文元年(1736)、仮住まいの江戸芝の藩邸で死去した。
2023年08月14日
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8、年貢引き上げに惣代に磔で終息【小浜藩領承応元年一揆】「小浜藩領承応元年一揆」とは、江戸時代に小浜藩領内で発生した一揆。承応元年(1652年)に指導者である松木荘左衛門が処刑されたことからその名がある。小浜藩では年貢として大豆を徴収する例があり、元は大豆1俵あたり4斗であった。ところが、藩主である京極氏が4斗5升(一説では5斗)に引き上げ、新しく領主になった酒井氏もこれを維持したために農民の間で反対運動が起きた。寛永17年(1640年)に小浜藩内252か村の惣代が年貢引き下げの訴願を行い、以後も繰り返されたが認められず、8年後の慶安元年(1648年)になって、藩側は松木荘左衛門ら惣代を逮捕した。惣代たちは藩の厳しい吟味によって次々と藩に屈服したが、松木のみは最後まで主張を取り下げず、承応元年(1652年)になって松木を磔(はりつけ)にしたもの磔の、年貢は旧に復した。このため、松木は義民として祀られることになった。 ※酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。 天正15年(1587年)6月16日、徳川家康の家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。慶長14年(1606年)11月、従五位下讃岐守に叙任。元和6年(1620年)4月24日、第2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。寛永元年(1624)8月には将軍家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となる。寛永4年(1627)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩の第2代藩主となる。寛永9年(1632)9月19日、武蔵国のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し、侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。寛永11年(1634)閏7月6日には、若狭1国および越前、近江、安房に加増され、若狭国小浜へ移り、12万3500石を領する。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。寛永15年(1638)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。寛永20年(1643)11月4日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。讃岐守の兼帯留任となる。明暦2年(1656)5月26日に家督を四男の忠直に譲って隠居する。晩年は、若年にして酒井氏嫡流雅楽頭家の家督を継いだ忠清を後見していたという。寛文2年(1662)7月12日に死去した。享年76。福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られている。 ※松木 庄左衛門(、寛永2年1月25日(1625)-承応元年5月16日(1652年)は、江戸時代前期の小浜藩の義民。実名は不詳。法号より長操(ちょうそう)とも称される。 若狭国遠敷郡新道村(現在の福井県三方上中郡若狭町新道)の庄屋。寛永17年(1640年)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。小浜藩では関ヶ原の戦いで木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。このため、大豆納の年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4斗5升に改めて増徴を図った。築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために人々の不満は高まった。そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として陳情を行った。以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。だが、1人庄左衛門のみはこれを耐えて、獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原で磔に処せられ、28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。惣代が年貢の引き下げの願いを行い繰り返されたが認められなかった。年貢の大豆は一俵当り4斗だったが、新藩は一俵4斗5升に引き上げられた。そこで元通りの年貢1俵4斗にするように願い出た。惣代たちは厳しい吟味に屈服し取り下げていく中、1648年藩側の強硬対応に松木荘左衛門らの惣代が申し立てを取り下げず、投獄されたが獄中で引き下げを求めた。藩側は1俵4斗に戻す代わり磔に処した。庄左衛門は28歳の若さで死去した。以後大豆の初穂には遺徳をしのび神前に供えて遺徳をしのんだという。昭和になって松木神社が建立され義民として崇敬されている。
2023年08月14日
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*松倉 勝家は、江戸時代前期の大名。肥前島原藩2代藩主。初代藩主・松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。重政と共に島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用、計画のみで頓挫したルソン遠征の準備など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課した。これには豪勢な島原城を改築(城を全面白色に塗色するなど)し、他藩に自己の存在をアピールしようという意図があった。さらに、領内に多かったキリシタンへの弾圧も残忍を極めた。寛永7年(1630)に父・重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。寛永11年(1634)は悪天候と旱魃から凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残る。やがて勝家は年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している。寛永14年(1637)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。乱の鎮圧後、寛永15年4月4日(1638)、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。 *天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621年)~元和9年(1623)?~ 寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。島原の乱における一揆軍の最高指導者とされている。本名は益田 四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は当初は「ジェロニモ」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ」に変わっていた。一般には天草四郎時貞という名で知られる。また、後述の通り豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤であったとする伝説もあるが信憑性は低い。肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない(生年も諸説ある)。益田家は小西氏滅亡後、浪人百姓として一家で宇土に居住したという。生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があったという。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、様々な奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こしたという逸話もある。もっとも、このような類の逸話は、イエス・キリストが起こした奇跡として新約聖書の四つの福音書にも多数書かれており、上記の逸話は四郎の名声を高める目的でこれら福音書の言い伝えを参考に創作されたと見ることもできる。1637年に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となる。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わるが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないと見られる。一揆軍は当時すでに廃城となっていた原城に立てこもり、3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたものの、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられた。この時、四郎も原城の本丸にて幕府方の肥後細川藩士・陣佐左衛門に討ち取られたと伝えられる。殺された後に首は切断され、原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒された。なお、このとき幕府側には天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、幕府軍の陣には四郎と同じ年頃と見られる少年たちの首が次々に持ち込まれたものの、幕府軍はどれが本物の四郎の首であるか分からなかったため、以前から幕府軍に捕えられていた四郎の母(洗礼名:マルタ)にこれらの首を見せたところ、母は陣佐左衛門が持って来た首を見て顔色を変え、その場で泣き崩れた。これにより、幕府軍は佐左衛門が持って来た首を四郎の首と断定したという。また、四郎の母が建立したと思われる墓石が後年民家の石垣から発見され、原城跡に移築されている。 ※「島原・天草一揆」は江戸時代に起きた最大の一揆で、幕末前では最大の内戦であった。もともとこの地域はキリシタン信者の多い所であった。1614年に有馬晴信の所領で、有馬晴信自身がキリシタン大名であった。その後有馬晴信が転封となり入れ替わるように大和五城から松倉勝家が入封した。乱・一揆のきっかけは圧政・重税に誘発され、農民はキリシタンを救いのよりどころとし、農民一揆と信仰の抑圧による反乱っと一揆と混同されている。未だ反乱軍を構成したキリシタン弾圧による殉教者として認められていない。あくまでは松倉勝家の過酷な取り立てに、自らは贅を尽くし、独自の検地で実質4万石程度の石高を10万石に見積もり、領民に過重な年貢・労役を課した。キリシタンへの弾圧も残忍を極め、父・重政の死後、過酷な収穫で領民を苦しめた。庄屋から娘の人質を取り、反抗するものの残忍な殺し方をした。また旧藩主小西氏の旧臣らの浪人が溢れ百姓の不満の鬱積と、キリシタンの弾圧と重なって一揆は一挙に膨張し、松倉氏だけでは対応できず、九州地方の諸大名の援軍で4カ月で収束したが、松倉藩主の失政は免れず、反乱の責任を厳しく問われた。勝家は改易、最終的に江戸に護送され斬首刑に処せられ、大名は切腹が本来の責任の取り方であったが、斬首刑は松倉勝家だけである。一揆の総勢は3700人と言われ、幕府軍は8万人で圧倒的な兵力の差があった。また最終的に一揆側の籠城で男女37000人は全員が死亡、生き残ったのは内通者だけだったという。
2023年08月13日
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7、苛政、失政の藩主斬首された大名【島原・天草一揆】「島原・天草一揆」(島原の乱)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格14的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637)勃発、寛永15年2月28日(1638)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている。寛永14年(1637)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。ただし、この一揆は島原半島の雲仙地溝帯以南の南目と呼ばれる地域の組織化には成功し、ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった。北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ。島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する。これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37000人程であったといわれる。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタン(16世紀末の最盛期には日本の人口の10%を占めていた)を蜂起させて内乱状態とし、これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた。この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であったが、乱後、天草四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされた。乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかった為、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。板倉重昌は寛永15年1月1日(1638)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。この報せに接した幕府は1月10日、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。新たに着陣した松平信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子の水野勝俊と有馬康純嫡子有馬直純が争ったという。幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。 わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。
2023年08月13日
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◎近世の直訴について。近世において一般民衆(農民、町人)や下級武士を原告とした訴訟は、原則的に所轄の奉行所などが取り扱うこととなっていた。この原則を回避して直接、将軍や幕閣に訴える行為を直訴と呼んだ。また、本来の手続きや担当者を「飛び越して」行なわれることから、越訴(おっそ、えっそ)とも言われた。その方法として外出中の駕籠に駆け寄る方法を取ることも多く、それを駕籠訴(かごそ)と言った。 訴えの目的はさまざまあるが、たとえば年貢率の問題など、奉行所などでは解決できない問題についての訴えをする場合や、領主や代官の非を訴える場合などがあった。近世における百姓一揆の形態の変遷の中、初期(17世紀)は佐倉惣五郎の越訴事件などを代表とする、直訴によるものが中心であり、これを「代表越訴型」の一揆と呼んでいる。世間に流布された直訴のイメージは年貢の減免や悪代官などの不正を農民が訴えるなどという今日の行政訴訟に該当する事案がほとんどであったように誤解されている。しかし実際には民事事件が直訴のほとんどを占めていた。これは近世の訴訟手続き上一般民衆が訴えを提起するには所属する町や村の役人の同意が必要とされていたことに起因している。例えば江戸町民を原告とする民事事件では、まず最初に原告が所属する町役人に事件の相談を行う。相談を受けた町役人は被告側の町役人経由で調停を行いその結果町役人が調停による解決が不可能であると判断して初めて町奉行所に訴えを提起することができた。いわゆる現在でいうところの調停前置制度である。この町役人の調停に当事者が不満を抱いた場合『町役人が怠慢で真面目に活動していない』あるいは『相手方と結託してこちらに不利な調停を行っている』などの理由を挙げて町役人の同意なしに『直ちに訴訟を受け付けて欲しい』として直訴が行われた。 また町民側の調停力、裁判権が及びにくい武家や寺社などの特権階級を相手方とする民事事件でも直訴が行われた。この場合には幕閣のみならず相手の武家の上役や親類筋などにも直訴が行われた。 そして刑事事件においても再審理や刑の減免などを願う駕籠訴が行われており、現実には民事、刑事、行政それぞれの訴訟分野で直訴が行われていた。 旧事諮問録に収録されている元評定所留役の小俣景徳の談話によると「越訴(直訴)は毎日二、三人あった」とされており直訴は特別な行為では無く日常茶飯事であった事がうかがわれる。またそれらの直訴の取り扱いは「不法行為ではあるが事柄によっては取り上げられることもありましたが殆んどは廃棄されました」と述べており、正規の手続きを経ていない直訴であっても訴えの内容を確認した上で受理・不受理を決定していた事がうかがわれる。直訴はある程度作法化されており、例えば駕籠訴では以下のようになっていた。訴人は紋付き羽織と袴で正装し、訴状は「上」と上書きした紙に包み、先を二つ割にした青竹の棒の先に挟んで持つ。始めに行列前方より訴状を捧げて訴人が行列に接近しようとする、すると供侍がこれを制止する、訴人は制止されても諦めず再度接近しようとする、供侍はまたこれを制止する、それでも訴人は諦めずにみたび接近しようとする。そこで初めて供侍は『再々にわたるので仕方なく』として訴状を受け取り、供頭に訴人の身柄を拘束するように指示を行う。この時訴人の身柄が拘束されるのは訴状の内容や訴人の身許などの事実関係を確認する事情聴取のためであり、訴人を処罰するためのものではない。事情聴取が終わり身許が確認され訴状の内容に虚偽など問題がなければ訴人は解放される。この時農民であれば領主が身許引き受け人として引き取ることになる。勿論受け取った領主側で更に事情聴取が行われるがいきなり問答無用で処罰などということはなかった。処罰などをした場合は農民を引き渡した側の体面を潰すことになるからである。 訴状を受け付けた側には積極的に介入し能動的に事件解決にあたるというまでの義務はなかったが、関係方面に照会を行い必要と認めれば善処方を要請する程度のことは行われた。これにより事件が明るみにでることになり関係者は適切な対応をする必要に迫られることになった。また事件がもみ消されるのを防ぐために複数の方面に対し直訴を行うという訴訟戦術もしばしば採用されていた。 ◎直訴は死罪か、直訴はすべて原告が死罪と確定しているものと広く誤解されているが、直訴行為自体が処罰対象となったものはそれほど多くはなく領主や代官の非を訴えた場合であっても、原告勝訴であれば死罪にならなかった。死罪となった場合でも『直訴の内容が不届きであった』あるいは『徒党を組んで騒動を起こし狼藉を働いた』などという直訴行為そのものを対象としない処罰理由がほとんどである。例えば天保11年の三方領知替えでは庄内藩の転封に反対する領民により多数の直訴が行われた。大名の転封という幕府の政策(大公儀御政道)に反対する直訴であるにもかかわらず直訴をした領民に対する処罰は無かった。 しかし、訴える時点で死を覚悟しなければならないため、そのようなエピソード(義民伝承)が農村に数多く伝えられたことから、直訴=死罪という誤解が浸透していったものと考えられる。 ※悪政に苦しむ百姓の最後の手段が「直訴」である。何れの地代も直訴は固く禁じられ、願いが通っても死罪は免れない。白岩一揆の場合百姓への圧政に大規模の百姓が放棄した。騒動の両者に罰が下され、百姓惣代30人は磔に処せられらた。忠重は改易、領地没収、33年後何者かによって夜中暗殺されるという。
2023年08月13日
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6、苛政に一揆領主取り潰し改易【白岩一揆】「白岩一揆」1633年(寛永10年)出羽国村山郡の庄内藩支藩白岩領で起こった。藩の圧政に反対する一揆。1622年松代藩主酒井忠勝の庄内入封に伴い、弟忠重が8000石を以て白岩領を支配した。以来、高利の種籾貸付、高値の米の売り付け、所産物の安値買い上げ、重い年貢賦課、人夫の徴収、百姓女房への城への召し上げなど圧政を繰り返した。4150人余りの身売り、餓死者を出すほどであった。百姓惣代の江戸への直訴、領内では数百人の百姓が白岩城へ押し寄せ、藩兵と戦い家老を討ち取ったと伝えられる。江戸直訴惣代30人は磔(貼り付け)に処せられた。忠重は領地没収となった。 *酒井 忠重は、出羽国村山郡白岩領8000石領主。旗本寄合。酒井家次の三男。酒井忠次の養子。慶長3年(1598年) 酒井家次の三男として生れる。慶長7年(1602年) 既に亡き祖父・酒井忠次の養子となる。元和元年(1615年) 徳川家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出される。元和3年(1617年) 従五位下長門守に叙任。元和8年(1622年) 出羽国村山郡白岩4000石領主となる。寛永10年(1633年) 1000人余りの餓死者を出すなどの苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える(白岩一揆)。寛永15年(1638年) 江戸奉行所の判決により白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられる。寛永19年(1642年) 忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚。・承応元年(1652年) 忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かったため幕府に提訴し、庄内藩主・酒井忠当より金2万両を贈られて義絶される。 寛文5年(1666年) 息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり、改易される。寛文6年(1666年)9月24日、夜中、何者かに襲われて死亡する。享年69歳。
2023年08月13日
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*北野 孫兵衛(?~ 1609年)は、戦国・江戸時代初期の武士で、周防国山代本郷村(現山口県岩国市本郷町および錦町)の庄屋。名は季勝。江戸時代初め、山代慶長一揆の指導者であった山代十一庄屋の代表として、長州藩に対して一揆を先導したことで知られる。父は本郷村庄屋の北野次郎右衛門、母は三分一左衛門九郎の娘と伝えられ、鎌倉時代の武将・和田義盛の末裔とされる。北野氏は、義盛の末子である和田季盛が周防に住み着いたのを契機に、その子孫が30貫の領地を代々に渡って治め喜多野と称したことから発祥し孫兵衛季勝は、その9代目の当主である。元来、孫兵衛は毛利家に仕えており、天正年間は毛利輝元の家臣として転戦し、のち輝元が豊臣政権の五大老となって大坂入りした際は孫兵衛も大坂へ随行した。武芸に秀でていたとされ、とくに弓の名手と伝えられている。しかし、関ヶ原の戦いに前後して毛利家を離れ、長く仕官せず浪人として過ごした。本郷村の庄屋となるのは慶長の半ばという。 *北野孫兵衛は農民一揆の義民として首謀者として犠牲者となって、斬首された偉人として、子々孫々に言い伝えられている。今日もその偉業を称え「山代義民顕彰会」に残され崇敬されている。山代十一庄屋・一揆を主導した11人全員が即日捕われ、斬首の刑となった。生見村の新原神兵衛の家系からは芥川龍之介が子孫として出ている。また波野村からは孫右衛門の名が見られるが庄屋ではなく、彼のみ一介の百姓である。斬首となった11人は本郷村 北野孫兵衛季勝・府谷村 西村次右衛門・宇佐村 広兼七兵衛・宇佐郷村 山田平兵衛・河山村 岡新左衛門・波野村 中内助兵衛・生見村 新原神兵衛・南桑村 揚井市介・阿賀村 宗正作兵衛・大原村 讃井五兵衛・波野村 孫右衛門。 ※毛利藩は、折からの財政難に直面しており、その維持のため領内全てに対し慶長検地を行なった。この検地は慶長12年(1607年)から3年のあいだ続き、結果として課せられたのは7割3分(現在でいう73%)という極めて厳しい重税であった。この税率に困窮した生活を強いられた領民の声を行動にうつす動きが広がり、府谷村の庄屋・西村次右衛門をはじめとする11村落の庄屋が立ち上がり孫兵衛もこれに加わった。孫兵衛たちは、代官所へ嘆願を行い4割の減税などを求めた。慶長13年(1608年)10月、藩はこの嘆願をいったんは受け入れる形で年貢における高率の負担を撤廃したが、翌年の3月28日、代官所は、この動きを一揆暴動と処断し、これを主導した孫兵衛のもとに出頭命令を下した。翌日、出頭した孫兵衛らには即日死罪の判決が下され、孫兵衛を含む11人の首謀者全員は縄を打たれ、引地峠で斬首された。孫兵衛らの首は本郷まで運ばれたのち、本郷川の土手に建てられた梟首台の上に晒されたが、夜になり孫兵衛の領民数名が彼の首を盗み、成君寺裏手の赤江の地に葬った。一方で、孫兵衛らの意向に反して藩の検地に進んで協力した庄屋たちは、この一揆に加わらず村落は安堵されたが、この一揆を境に、山代では室町以来残ってきた中世的な国人思想の強い自由自治政治は消滅し、近世の幕藩体制が浸透してゆくきっかけともなった。寛文4年(1664年)、本郷村の安養院に居を借りていた禅僧の休伝が、十一庄屋を悼み50回忌まで追善供養を行い、寺の建立が許され建立寺が建てられた。明治32年(1899年)、有志により十一庄屋の頌徳碑が建立される。また、現在までで首塚があるのは北野孫兵衛季勝のみであるが、その首塚は、藩の目をあざむく意味もあってか碑銘のない塚となっている。明治6年(1873年)より、新政府は増税を目的とした地租改正を実施するが、山口県ではそれに先立ち明治5年より調査を開始した。この際主導的立場にあったのが、小郡宰判大庄屋林勇蔵である。この調査は独自の方法によって実施されたために、政府は再調査を実施した。勇蔵は大蔵省の再調査にも毅然とした態度で臨んだが、これは勇蔵が慶長一揆のことを山代の大庄屋であった三分一健作から聞き知っていたためと言われている。結果、勇蔵の調査の厳密さが証明され、明治7(1874)年2月、全国に先駆けて山口県の地租改正は認可された。明治15年(1882年)6月、勇蔵は健作へ郵書を送り、慶長一揆のことをさらに詳しく調べるように依頼している。この返書を受けて、同年12月14日、吉敷郡鯖山禅昌寺において、11人のために大施餓鬼が実施された。明32年(1899年)に至り、成君寺住職の発議で山代各村長に呼びかけて資金をつのり、十一庄屋頌徳の碑が建てられた。処刑400年目にあたる平成21年(2009年)11月14日、山代義民顕彰会により「義の心」と刻まれた石碑が、岩国市本郷総合支所向かいの市有地に設置された。
2023年08月13日
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5、過剰な石高負担増え農民一揆に走る【山代慶長一揆】「山代慶長一揆」とは、江戸時代慶長年間に、周防国山代で発生したとされるである。山代地方は、周防国の東端、安芸国との国境に位置する。戦国時代には大内氏の支配下にあったが、実際には刀祢と呼ばれる有力地侍達による自治が行われていた。その後、毛利氏の大内氏領への勢力拡大に伴い、弘治2年(1556年)頃には毛利領となる。この際に成君寺城の戦いが発生し、山代の地侍達は大内方と毛利方に別れて戦っている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に加担した毛利氏は、中国地方8カ国120万から防長2カ国29万石へと減封となるが、山代地方は毛利氏の支配が続くこととなった。毛利氏は太閤検地の一環として天正15~18年(1587~1650年)に領国内の検地を実施しているが、このときの山代地方の石高は5300石と言われている。その後、慶長5年にも検地を行い、石高11900石とされた。毛利氏は、関ヶ原敗戦後の減封に対処するため、慶長12年から年(1607~1610年)に再度検地を実施しており、防長2カ国で、実高539268石となったが、幕府には369411石と上申し、これが表高とされた。山代の検地は慶長12年に行われ、実高は28325石とされ、慶長5年検地時の2,5倍となった。僅か10年で生産力が倍増する訳も無く、これは田一反あたりの石盛を高く設定したことに加え、小成物と呼ばれる各種作物も対象とすることにより、人為的に石高を高く見積もったものであった。毛利氏の年貢率はもともと73%と高く、農民の負担は途方もないものとなった。この過酷な課税が山代一揆の原因となる。一揆の実態は不明であるが、慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多数の農民が参加したとされる。一揆を代官所の人数だけで鎮圧することは難しく、代官所は減税の方向で一揆の鎮撫に努め、一揆を解散させた。結果73%の年貢率は40%に減額されたと言われている。翌慶長14年3月18日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を翌日に出頭させる旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛、引地峠の刑場に連行され斬首、物河土手に裊首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。
2023年08月13日
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