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41、甲州一円に一揆打毀しに処罰者最小限に【甲州一揆】
「甲州一揆」(甲州騒動)1836 年(天保7)8月、甲斐 ( かい ) 国(山梨県)に起きた百姓一揆。当時、甲斐国騒立 ( さわぎだち ) 、甲州百姓騒立、のちに甲州騒動、天保 ( てんぽう ) 騒動、郡内 ( ぐんない ) 一揆、郡内騒動、その他さまざまの呼称でよばれた事件で、全国的にも最大規模のもの。
甲斐30万石は山地86%の天領で、ことに生産力の低い郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り、養蚕、馬方、棒手 ( ぼて ) (行商)、日雇い、山稼ぎなどによる収入で暮らし、米穀類は主として国中 ( くになか ) 地方(甲府盆地地域)から求めていた。ところが1830年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰を招き、不況による低賃金のなかで重税の取り立てのみ厳しく、病人、餓死、投身、家出、乞食、盗賊が続出した。
国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に対してとられた幕府の江戸廻米 ( かいまい ) 令に乗じて、米の買いだめ、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留 ( こくどめ ) 」を行った。農民は、国中の米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、まったく効果がなかったので、ついに米穀商に対して米の押買 ( おしが ) いを目的とした一揆を起こした。
これとは別に郡内領谷村 ( やむら ) (都留市)付近の農民は、8月17日の夜から翌日の明け方にかけて谷村の米穀商、両替屋など7軒を打毀した。甲州街道沿いの農民は同月20日、白野宿(大月市)のはずれの天神坂林で決起大会を開き、下和田村(大月市)の治左衛門 ( じざえもん ) 、犬目宿(上野原市)の兵助 ( ひょうすけ ) らを頭取に選び、その行動綱領を定めた。郡内の一揆衆は21日の早暁、笹子 ( ささご ) 峠を越えて国中地方に入ると同地方の無数の農民が加わり、無原則的な打毀を続けた。
治左衛門は当初の計画から甚だしく逸脱してしまったので歌田村(山梨市)から、そのほかの郡内衆は、22日、熊野堂村(笛吹市春日居町)の奥右衛門方の打毀を見切りに郡内へ引き揚げた。国中の一揆衆は、打毀の先々で貧農層のほか、村役人層をはじめ日雇人、無宿者、浪人、神主、修験者、被差別部落民も加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打毀を続けた。
一揆衆の数は数万と概算され、その行動区域は国中地方中心部の全域にわたり、甲州街道筋では信濃境までに及んだ。打毀の対象は米穀商、質屋、酒屋、太物 ( ふともの ) 屋、大地主、豪農などで、それらのうちで金品、酒食、武器などを提供してその難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319に及んだ。幕府は信濃の高島藩、高遠藩、および駿河(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900をもって鎮圧を図った。
この事件は、いち早く江戸の瓦版によって各地に伝えられ、水戸 ( みと ) 藩主徳川斉昭はこれを契機に、幕政改革を促す建白書をしたため、大坂の大塩平八郎 ( おおしおへいはちろう ) は、この事件から強い衝撃を受けた。
江戸幕府は3か年に及ぶ調査と、政治工作ののち、1838年(天保9)5月、下和田村の治左衛門(1836年11月牢死)ほか298人の処罰をしたのみで、各村々から村割の過料銭を、富裕層から冥加 ( みょうが ) 金を取り立て、極貧者の救済金にあて、あわせて両3年間の貢租の大幅減免などをもって事件の決着とした。
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