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年(天保5)1月出羽 (
でわ )
国(秋田県)仙北 (
せんぼく )
郡前北浦地方、同年2月から3月同郡奥北浦地方で起こった百姓一揆。近世秋田藩で起こった数多い一揆のなかで、もっとも大規模なもの。直接の原因は、前年の大凶作で米の確保に困った藩が、農民の飯米分以外の米をすべて指定値段で買上げを強行しようとしたことにあり、それに藩政への不満も重なった。
1月前北浦の数千人の農民が城下久保田 ( くぼた ) への出訴を企てたが途中で阻止された。ついで2月奥北浦の農民が参集、やはり城下に向かう途中で阻止、かわって藩政改革を含む17条の要求を提出したが、結局は退けられた。しかし、この一揆は後の藩政に大きな影響を与えた。[高橋秀夫]『小沼洋子著「凶作と一揆と藩政」より
◎ 久保田藩 は、 江戸時代 の 藩 の一つである。 秋田藩 とも呼ばれる。 久保田城 を 居城 とした。藩主は 佐竹氏 で、 室町時代 以来の 常陸 守護 の家柄であったが、 関ヶ原の戦い における挙動を咎められて 出羽国 (後の 羽後国 )秋田へ移封された。
石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は 大広間 詰 国持大名 。支藩として、 新田分知 された家が2家有る他、2代義隆の実家 亀田藩 ( 岩城氏 )が事実上の支藩となっていた時期もあった。
* 佐竹 義術 (さたけ よしやす)は、 佐竹氏 一門の佐竹北家第15代当主。佐竹北家 角館 第8代所預。寛政5年(1793年)、佐竹義文の子として生まれる。 文政 7年(1824)、藩主 佐竹義厚 が 将軍 徳川家斉 に拝謁する際に同席する。 文政 8年(1825)、父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。
天保5年(1834)、 北浦一揆 が発生すると、自ら一揆勢と面談して取り鎮めた。天保7年(1837)、嫡男の義陳(よしのぶ)が17歳で早世する。天保12年(1841年)死去。家督は外孫(長女の長男)で 多賀谷厚孝 の長子である義許が養子となって相続した
※ 出羽久保田藩は雄物川に物流物資集散地としてにぎわっていたが、全国的大凶作で雄物川に米が中々集まらず、久保田藩は蔵米の払い下げをするものの、7倍の米価に「米よこせ」運動が始まり、800人が米を要求して町の豪商、豪農に押しかけた。
これに驚いた役人は一件ごとに調査をし、決められた量の「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」の配給することに決定した。農民はこの二つの「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」に反対、阿仁銅山で働く4000人の食料として、角館から送られてくる1000石、から5000石の輸送されていた。
「家口米仕法」については、郡方吟味役が肝煎を集め「来月6月に上方から米が入るので、それまで藩内やり繰り、一日3合、4月に7合、5月に8合と計算された。日々の分は通帳を持って受け取りことになった。これに農民は反発、1月26日には二千数百人が長野御役屋に包囲し、悪口雑言、騒ぎ立て、久保田城に目指した。郡奉行の金易右衛門との交渉が始まって、結果農民たちの要求は通ることはなかった。
「郡方に騙されるな、役屋をつぶせ」と言葉が飛び交い、米の炊き出し30俵を持っても農民の狼藉は収まらなかった。佐竹北家の当主が西野川原まで出馬し「願いの筋を文書で示せば久保田に行って申し伝える」と言って解散を促した。その後は久保田は300石の御救い米を送った。農民の処罰は出なかったが、奥北浦一揆は処罰者が出た。
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