温故知新 0
徐福 0
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五卿八月十八日の政変により、長州に亡命し山口に在した七卿落ちの残存メンバー。 禁門の変の際には上洛しようとしたが、失敗して山口に戻っている。 攘夷の意志を持ち、諸隊が俗論派に追われて山口を退出する際は長府行に同行した。 五卿の長州退去が戦争回避の条件の一部となり九州へ移る際も、最大限正義派の為に行動したと言われている。· 三条実美· 三条西季知· 四条隆謌· 東久世通禧· 壬生基修脱藩浪士禁門の変の際に決起し、敗北後は長州軍に帯同し長州に亡命した諸国の脱藩浪士たち。 亡命後は五卿の家臣になるか、正義派諸隊の一つである遊撃隊に入隊するかに別れた。 征長軍が迫る際、他藩にネットワークを持つ脱藩浪士たちは長州を救うべく他藩へ積極的に和平斡旋をした。 五卿が長州から退去する際は、五卿を奉じる脱藩浪士は一緒に九州に移り、遊撃隊の脱藩浪士は高杉晋作の決起に協力した。 総員は遊撃隊に入隊した者を含め70人程度であると言われている。· 中岡慎太郎 (土佐脱藩浪士 公卿らの世話役)· 中村円太 (福岡脱藩浪士)· 淵上郁太郎 (久留米脱藩浪士)· 所郁太郎 (美濃国の医者 遊撃隊軍監)· 高橋熊太郎 (水戸脱藩浪士 遊撃隊参謀)征長軍総督府朝廷および幕府より長州征討を命じられ、西国を中心に三十五藩の藩兵により構成された討伐軍。 総督は尾張藩主徳川慶勝で、広島を本営とし長州征討に関する全権を委任されていた。 副総督は越前藩主松平茂昭で、小倉を本営とし九州諸藩を統括した。 総勢十五万人という大連合軍であるが、幕閣と総督の意思疎通すら出来ておらず、動員された諸藩の士気も低かった。· 徳川慶勝 (尾張藩藩主 征長軍総督 広島を本営とする)· 成瀬正肥 (尾張藩附家老 総督名代)· 長谷川敬 (尾張藩士 巡見使の一人)· 永井尚志 (江戸幕府大目付・若年寄 広島征長軍帯同)· 戸川安愛 (江戸幕府目付 広島征長軍帯同)· 松平茂昭 (越前藩藩主・征長軍副総督 九州諸藩統括 小倉に在する)· 若井鍬吉 (尾張藩士 小倉に在した広島本営との連絡役)福岡藩征長軍の一員。 福岡藩には多くの攘夷志士がおり、その筆頭である加藤司書は福岡藩の執政に任じられ、藩主黒田長溥も尊王攘夷派と目されていた。 そのため長州正義派は、福岡藩攘夷派を筑前正義派と呼び身内扱いしていた。 福岡藩攘夷派も、攘夷を実行した長州を高く評価し、かつ内戦を無益と考え戦争回避と長州藩の赦免に積極的に関与し、また諸隊の状況に同情し長州内の内戦回避にも尽力した。· 加藤司書 (福岡藩執政)· 月形洗蔵 (福岡藩士)· 喜多岡勇平 (福岡藩士)· 筑紫衛 (福岡藩士)· 建部武彦 (福岡藩士)· 早川養敬 (福岡藩医)薩摩藩征長軍の一員。 薩摩藩は禁門の変で長州撃退の功績があったため、征長軍で大きな発言力を持っていた。 長州藩は敵となった薩摩を薩賊と呼び激しく憎んでいた。 禁門の変では長州と相対した薩摩ではあるが、先年薩英戦争があり、外国勢力が日本に迫る時に内戦は無益であるとの認識から長州征討回避に動く。とくに西郷隆盛は征長軍総督慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切った。 また薩摩藩は藩命として長州内の内戦回避にも尽力したと言われる。· 西郷隆盛 (薩摩藩士 征長軍における薩摩藩代表)· 高崎五六 (薩摩藩士)了
2023年09月09日
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17「主な団体と人物」長州正義派尊皇攘夷を志向して藩政を指導し、八月十八日の政変ならびに禁門の変を引き起こし長州を存亡の危機に陥れる。 征長軍が迫る中でも藩政改革(主に軍備軍制改革)を主張し、謝罪はすれども責任者の処罰や領地割譲を断固拒否する武備恭順を説いた。 しかし俗論派が藩政を握ると、高位の正義派藩士の多くが投獄・処刑される。· 福原元僴 (長州藩家老)· 益田親施 (長州藩家老)· 国司親相 (長州藩家老格)· 清水親知 (長州藩家老格)· 宍戸真澂 (長州藩士)· 山田亦介 (長州藩士)· 前田孫右衛門 (長州藩士)· 竹内正兵衛 (長州藩士)· 毛利登人 (長州藩士)· 松島剛蔵 (長州藩士)· 中村九郎 (長州藩士)· 佐久間左兵衛 (長州藩士)· 大和弥八郎 (長州藩士)· 渡辺内蔵太 (長州藩士)· 楢崎弥八郎 (長州藩士)· 周布政之助 (長州藩士)長州正義派諸隊長州藩の攘夷方針に従い、兵力増強のために長州藩士のみならず、長州藩士以外の武士・庶民を兵員として編成された混成部隊の総称。 主な部隊に奇兵隊、御楯隊、遊撃隊、八幡隊、南園隊、力士隊などがあり、幹部や兵員には長州出身者だけでなく、他藩の脱藩浪士や攘夷志士が多く参加した。 高位の正義派藩士が追い落とされ、長州全体が俗論派に牛耳られる中、藩政府の統制を離れ、最終的に決起して俗論派の萩藩政府を打ち破る。決起時の総員は750人。うち奇兵隊が400人を占めたと言われる。 諸隊の大半は正義派に属したが、萩野隊や力士隊の一部は俗論派の萩藩政府につき正義派諸隊と戦った。· 高杉晋作 (長州藩士 奇兵隊創始者)· 井上聞多 (長州藩士 鴻城隊総督)· 赤禰武人 (長州藩士 奇兵隊総督)· 山県狂介 (長州藩士(中間) 奇兵隊軍監)· 石川小五郎 (長州藩士 遊撃隊総督)· 伊藤俊輔 (長州藩士 力士隊総督)· 太田市之進 (長州藩士 御楯隊総督)· 佐世八十郎 (長州藩士 高杉の参謀)· 吉富簡一 (周防国矢原村の豪農)長州俗論派長州藩内の佐幕派。 長州に征長軍が迫る際、正義派を追い落とし藩政を握る。 幕府への絶対(純一)恭順を説き、正義派高官を捕らえ大量に処刑するなど強権的な勢力であったという。 ただし正義派高官の処刑については幕府(征長軍)が促した為とされる資料もある。· 椋梨藤太 (長州藩士 政務座)鎮静会議員・その他長州藩士長州藩士は正義派・俗論派に別れ相争ったと言われるが、実際は大半の藩士がどちらにも属さず、両派の争いを止めようとした。 その中でも特に両者の停戦に尽力した一派は東光寺派、あるいは鎮静会議員と呼ばれた。 また正義派に同情的であっても、私情は私情として、実際の行動は藩政府の指示に従う藩士も多かった。· 杉孫七郎 (長州藩士)· 浦元襄 (長州藩士)· 根来上総 (長州藩士 馬関総奉行)長州藩侯長州藩主萩藩の最高権力者であるものの指導力を発揮できず、時々に藩政を牛耳る正義派・俗論派の両方の意見に半ば盲目的に従った。· 毛利敬親 (前長州藩藩主 隠居したものの長州藩内ではトップと目されていた。)· 毛利元徳 (長州藩藩主 敬親子息)長州支藩長州には複数の支藩があり、支藩藩主らは概ね尊皇攘夷思考で正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは宗藩である長州本藩の内部抗争であり、積極的な介入は避けた。 しかし長州藩内の独立勢力である事は間違いなく、俗論派が長州本藩を掌握し正義派諸隊に圧力をかけると、長州本藩内に居場所をなくした諸隊は、許可を得ずに長府藩に移動し、支藩藩主らに正義派への助力を乞うようになる。· 毛利元周 (長府藩藩主)· 毛利元純 (清末藩藩主)· 三吉周亮 (長府藩次席家老)長州藩岩国領長州には支藩の他に、関ヶ原の戦いの経緯により江戸幕府から半ば独立勢力と認められた岩国領があった。 長州藩毛利氏の家臣であり岩国領領主である吉川経幹は、朝敵認定され、かつ内乱状態に陥り身動きの取れない長州本藩の代わりに、長州藩を代表して幕府と和戦交渉をした。 吉川は、征長軍との開戦回避のために正義派幹部の処刑をしきりに求めた為、高杉からは俗論派筆頭・奸臣と憎悪された。 しかし征長軍が困難な休戦条件を持ち出す度、長州本藩の利益と藩主父子の安全を最優先に交渉に臨み、戦争を回避させたのも吉川であった。· 吉川経幹 (岩国領領主)
2023年09月09日
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16「戦後処理」3月15日、この時期、長州には奇兵隊・遊撃隊など叛乱前から存在する諸隊、鴻城軍など叛乱中に結成された有志隊などが混在していた。 この日、諸隊と有志隊は合流・整理され、奇兵・御楯・鴻城・遊撃・南園・膺懲・八幡・集義・萩野・第二奇兵の十隊にまとめられ、他は解体されることが決まる。 御楯隊は三田尻、遊撃隊は高森、膺懲隊は徳地、奇兵隊は馬関、八幡隊は小郡、集義隊は船木、鴻城隊は山口、南園隊は萩に屯し、四散した俗論派の撰鋒隊に備えると定められた。東光寺派は福原良通を総督として干城隊を結成した。 干城隊は正式な藩士を中心とした隊であり世録隊とも呼ばれた。 高杉晋作は干城隊の結成を歓迎した。 高杉は、身分が低いにも関わらず自分の決起に賛同せず、勝手に戦端を開き、一時は山口進撃にも反対した諸隊に不安感を持っていた。毛利家家臣を自認する高杉は、非常時は仕方ないとしても、なるべく早めに封建制度を回復し、上の身分に下の身分が従う体制を取り戻すことが望ましいと考えていた。 そのため諸隊の上に干城隊が立ち、干城隊が諸隊を指導・統制する体制を目指そうとした。 高杉は知人に宛てた手紙に「農は農に帰し、商は商に帰し」と述べており、諸隊の廃止も考えていた。しかし功山寺挙兵・元治の内乱をほぼ自力で勝ち抜いた諸隊と諸隊幹部は自信を深めていた。 各地に分散を命じられたにも関わらず、諸隊は御親兵と称して藩主の側に兵を送り、積極的に藩政に関与するようになる。 結局、高杉は最初から最後まで諸隊を御しきれなかった。 高杉は諸隊を隷属させることを諦め、統理の座を降りて無役となり、伊藤と一緒にイギリス留学を志す。 しかし井上聞多が、諸隊の専横が強まっており残留するよう高杉に泣きつき、このイギリス留学も中止となった。 その後も幕府の征討軍を迎え撃つ長州は身分ではなく能力主義を採用し、元村医の大村益次郎の指導のもと諸隊を中心に軍備を整え、高杉はその一方面司令官となった。3月17日、敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。慶応元年閏5月28日、野山獄にて椋梨藤太は息子とともに斬首され、二日後に中川右衛門らが切腹した。東光寺派を襲撃した俗論派も順次捕縛・処刑され俗論派は完全に潰えた。ただ内訌戦終了後、複数の俗論派が捕縛されたが当初は野山獄には送られず他家預けとされていた。 俗論派は正義派からポストを奪う事に熱心であったが、同時期に生じた天狗党の乱のように、老若男女を問わない虐殺はしなかった。 わずか49石取りで俗論派首魁と唾棄された椋梨藤太は、正義派の取り調べに対し「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と言った。三家老や正義派高官の処刑、諸隊鎮静部隊の派遣についても総督府巡見使長谷川敬の意向であったことを知った正義派幹部は、俗論派の処置に躊躇したようである。 最終的に捕縛から2ヶ月経った5月に処刑されたが、この時の長州は武備恭順を決心しており、次なる戦争への戦意高揚という側面があった。一連の元治の内乱は、内戦に至ったとはいえ幕府との戦争は回避しており、同時期の天狗党の乱と比較しても被害は少なかった。 内戦回避に尽力し、長州を救った脱藩浪士や福岡藩士、薩摩藩の西郷隆盛のその後の運命は過酷である。 脱藩浪士の中岡慎太郎、淵上郁太郎らは暗殺された。 加藤司書、月形洗蔵、喜多岡勇平、筑紫衛、建部武彦ら福岡藩士らは、乙丑の獄で全員刑死した。 西郷隆盛も、返しきれぬほどの恩を与えた山縣有朋に追い詰められ、西南戦争時に自決した。
2023年09月09日
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収縮する俗論派1月25日、藩主父子は東光寺派の建言を入れ、再び清末藩藩主毛利元純を山口の諸隊へ派遣し和平交渉を行わせようとするが、俗論派が大挙して押し寄せこれを阻止しようとした。 しかしこの日、諸隊鎮静総奉行毛利宣次郎は兵を率いて萩へ帰陣する。 また藩政府が支藩に求めていた援軍要請についても、正義派に同情的な長府藩藩主毛利元周らは最初から無視した。 岩国領の吉川経幹は要請に応え兵を挙げたが、和平使者として毛利元純が諸隊と交渉中だと聞くと岩国へ帰陣した。 継戦を望む俗論派の求心力は失われてゆく。1月28日、藩政府は休戦の延長を申し入れたが諸隊は拒否した。1月30日、奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開始した。 また諸隊に属していた癸亥丸を萩城城外の海上に進出させ示威行動を行わせる。 この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。 さらに諸隊に使者を送り、俗論派を革職したことと藩政改革を行う用意があることを伝えた。 これにより諸隊は進撃を止めた。元治2年2月、萩へ2月2日、諸隊幹部は敬親父子へ停戦の合意と謝罪の手紙を送った。2月5日、藩政府は萩城内の戒厳を解いた。 この時、俗論派の実戦部隊である撰鋒隊に不穏な動きがあった為、敬親はこれを召し出し解散させた。同日、江戸幕閣は慶勝に、尾張藩兵を用いて毛利藩主父子を江戸へ護送すること、また総督として九州五藩に五卿もまた江戸へ護送することを命じるよう指示した。 慶勝はそんなことをすれば天下の大乱になると反駁し、一兵たりとも出兵させなかった。 そののち慶勝は朝廷に参内し、朝廷は凱旋の祝酒を送った。そして慶勝は朝廷に帰藩の暇を請い、承認されたため幕府の意向を無視して尾張藩へ帰った。2月9日、長州支藩藩主の毛利元周と毛利元純が萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図るべきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。2月10日、東光寺派の香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎らが山口に至り、高杉に萩の情勢を伝え将来の計画を協議した。 この時、高杉は香川ら東光寺派に諸隊と同一行動を取ることを求め、香川らはこれを了承した。 その夜、萩への帰路の明木付近で香川らは俗論派に襲われた。 江木は重傷を負いながらも助かるが、残る香川らは全員が殺害された。 俗論派は香川らの殺害を正義派によるものと喧伝した。 これを知った高杉ら諸隊幹部は俗論派に罪を擦り付けられるのを嫌い、萩を攻略して俗論派を完全に打倒することを決した。2月14日、奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進軍し、萩城周辺を制圧した。 諸隊が明木に侵入したとの報せに接すると俗論派の幹部らは逃亡した。 癸亥丸が海上から空砲を撃ち示威活動をする中、諸隊は萩城へ入城する。 城内と萩市内は非常に混乱していたので、敬親が癸亥丸へ使者を遣わし発砲を止めさせた。 高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉えられた。2月22日、敬親父子は先霊社の臨時祭を納め、霊社に参拝し、騒乱の責任を先祖の霊に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓った。2月27日、敬親父子は萩城を出立し地方巡視に出る。絵堂方面の戦地を視察し2月28日に山口に帰り、3月22日、高田殿を諸隊会議所と定めた。
2023年09月09日
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五卿九州行同日、三條実美以下五卿が馬関より渡海した。馬関に残存していた諸隊の留守部隊とそれを統括した伊藤俊輔は、五卿の渡海を邪魔しなかった。 五卿を止めなかった理由について、状況が不透明であり諸隊幹部としても挙兵成功を確約できず、万一の際は五卿へ多大な迷惑をかける可能性があったため、あえて五卿自らの判断に任せた為と言われる。 五卿の輸送は萩藩政府役人と、長府藩が実行した。ただし五卿の長府滞留を強く願っていた高杉は後にこれを聞いて大いに怒り、深酒して以下の様に心境を歌った。 死を以って 遠登女申すを 遠登まりなされ 長門國にも武士もある赤村の戦い1月16日、高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を率いて絵堂方面より進んだ。 そして粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこれを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。粟屋は退却し明木の本軍と合流した。 この後、高杉は諸隊に向かって明木の討伐軍本営を衝くべきと主張したが、狭い山道を進むよりも山口に向かおうとした山縣は太田(御盾隊)、福田侠平(奇兵隊)、堀慎五郎(八幡隊)を集めて「もし諸君が明木に進軍するつもりなら私も異論はないが、それならば私を先鋒にしてもらいたい」と発言した。高杉は明木への進撃を撤回した。大田・絵堂、赤村の戦いは元治の内乱における最大の激戦であり、戦死者は両軍合わせて40〜60名程度となる。 鎮静軍の敗北を知った俗論派の萩政府は、長州支藩ならびに岩国領の吉川経幹へ援軍を要請する。山口掌握同日、山口の鴻城隊は萩から来た探索を捕縛し、佐々並に藩政府軍の先鋒隊が少数派遣された事を知る。 衆議の後、所郁太郎ら20人前後の小隊で襲撃することが決まる。 所らは佐々並口に居た番兵を射殺し、先鋒隊が駐屯していた佐々並の家屋に向けて発砲すると、佐々並口の先鋒隊はすべて逃亡した。この時期、萩には正義派にも俗論派にも与せず、両派の軍事衝突回避を目指す杉孫七郎ら中立の長州藩士達がいた。 東光寺に屯集していた彼らは鎮静会議員とも東光寺派とも呼ばれていた。 東光寺派は度々敬親にも拝謁し、諸隊討伐を中止して専横を強める俗論派幹部を革職するよう建言していた。 また東光寺派は諸隊からも俗論派とは別であることが認識されていた。 そのため東光寺派は山口と萩を行き来し、正義派に萩の情勢を伝えたり今後の藩政改革を論じるようになる。 俗論派は東光寺派を疎ましく思い、度々解散を命じたが杉孫七郎らは応じなかった。1月18日、山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々並の藩政府軍を襲撃し、その一部を占領した。 この頃井上は、俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出馬させることを危惧していた。 井上は赤村に屯する諸隊へ使者を送り、藩主が出馬した際の対応を相談した。 井上は、もし藩主が出馬した場合は馬上で切腹し、反乱したことをお詫びする他ないと伝えた。 山縣は、俗論派が藩主を奉じるならば、諸隊は洞春公(毛利元就)の霊牌を押立て猛追し、俗論派が発砲するならばこちらも応じるのみだと答えた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れるのは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。 井上は高杉・山縣らの説得を受け入れ、引き続き鴻城隊を指揮した。馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。 諸隊には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧や多額の金銭を積極的に寄附した。勝利と住民の支援で勢力を増し自信を深めた諸隊は、明木の藩政府軍を放置して、諸隊と諸隊幹部の大半を山口へ向かわせる。 諸隊は山口へ入ると諸隊会議所を開き、高杉晋作を統理に推挽して軍政を敷いた。 維新志士として不動の地位を占める高杉だが、名実ともに最高司令官であったのはこの時のみであり、またこの統理の地位もすぐに自ら手放すこととなる。三田尻・小郡その他の各地の代官はことごとく俗論派に与した者であったが、彼らもすぐに恭順し、萩を除く防長すべてを正義派である諸隊が掌握するようになる。1月21日、佐々並において、高杉らとも親しい清末藩藩主毛利元純が藩政府代表となり、諸隊と休戦条件について会談を行う。 藩政府は諸隊に佐々並から撤退することを要求したが、諸隊は拒否した。しかし両者は28日迄の休戦に合意した。
2023年09月09日
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太田の戦い1月7日、山縣ら諸隊幹部は前日入手した財満の書状を諸隊に広く知らしめた。 諸隊隊士は俗論派の横暴を知り激高し、大いに士気が上がったという。 これ以降、伊佐の諸隊は一致しての行動を取るようになる。同日、伊佐の諸隊の下に鎮静軍からの使者が来た。 藩政府軍は、いまだ諸隊の決起を把握できておらず、絵堂での戦闘は脱走した諸隊隊士による騒動だと誤認し、伊佐の諸隊本営に使者を送り、脱走した隊員を鎮圧することを求めた。諸隊は衆議の後、明木の藩政府軍へ戦書を持たせた使者送った。 その伝言は、『諸隊は君側掃清の為めに戦を開いた。諸君は上使の故を以て、之が罪を問はぬのである。因て速に帰りて、此旨を我が君公に上申されたい。併し本道は諸隊の行進する所。請ふ間道より帰途に就くべし』という挑発的なものであった。その後諸隊は、太田市之進・駒井政之進らに御楯隊分隊(50人)を与え補給路確保のため小郡まで南下させた。 小郡では櫻井慎平、佐藤新右衛門、北川清介、秋元新蔵らが決起に加わる。また小郡の庄屋たちは多額の金銭や大量の食料、それを運ぶ人夫として1,000人以上の人員を提供し、諸隊は補給路の確保に成功した。残存諸隊は絵堂を占領したが防御に向かない地形であり数でも劣勢のため放棄して南進し、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出た。 討伐軍は秋吉台と権現山の間を通じる本道の大田街道、権現山東縁を流れる大田川沿いの谷間道(川上口)を南下すると予測した諸隊は本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣は御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道と川上口が合流する大田勘場(役所)に本陣を置きⅤ路上に陣地を形成した。1月8日、馬関の白石正一郎の下へ、絵堂の戦いの一報がもたらされる。 ただし詳報はなかったようで、高杉らは白石邸に集まり今後の動向を衆議するのみであった。1月9日、小郡を占拠した御楯隊分隊は、さらに部隊を分けて駒井政之助に統率させ、山口へ派遣した。 山口に現れた御楯隊の下に吉富藤兵衛、杉山考太郎らが仲間を語らい続々と集結する。 とくに吉富は高杉から決起を聞いていたため事前に準備を進めており、200人の仲間を連れて御楯隊に参加した。 また吉富は駒井へ、高杉から井上聞太奪還を依頼されていた事を告げる。 駒井等は衆議し、高位の藩士でもある井上聞多を奪還し、分隊総督とする事を決める。 吉富は井上聞多の兄、井上光遠と共に、負傷して俗論派の監視下にあった親類預の井上聞多をその日の内に奪還した。1月10日、午前十時頃より大田に布陣する諸隊400人に対し、藩政府軍が攻勢をかける。 藩政府軍は本道を攻めつつ、主力を川上口にまわした。 奇兵隊の指揮官だった三好重臣(軍太郎)は敵の急襲に支えられず退却したが、本営の金麗社にいた総大将の山縣らは、自ら狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み、左翼より敵を狙撃させた。 山縣は川上口を支えるように厳命を下すと、奇兵隊の別隊長である湯浅祥之助の隊を横撃させた。 湯浅隊は大田街道右側の小山を駆け下りて敵の側面より攻撃し撃退した。 この際に鳥尾小弥太、山田鵬介の両伍長が活躍を見せた。午後四時頃、藩政府軍は総崩れとなり退却した。同日、山口の御楯隊分隊の下へ、多治比・吉敷・門田・朝倉・三田尻等より、家士、神官、僧侶、農兵らの志願兵が続々と集結する。 御楯隊分隊は井上聞多を総監とし鴻城軍と名を改めて農兵らを吸収して本陣を常栄寺に移した。 この処置は、正式な藩士を担がずに農民らが集まって武装すると、一揆と見做され罪に問われる為とされる。高杉合流1月11日、大田へ再び藩政府軍が大挙して襲来するも、諸隊はこれを防いだ。同日、馬関にいた高杉と遊撃隊のもとに1月6日の勝利の詳報がもたらされる。高杉や伊藤らは、諸隊が立ち上がり、なおかつ勝利したことを非常に喜び、馬関に展開していた遊撃隊・力士隊を伊佐へ進め諸隊と合流する事を決意する。 高杉は山縣への返信書簡の端に以下の狂歌を書き添えた。 わしとおまへは 焼山かつら うらはきれても 根はきれぬ1月12日、征長軍副総督松平茂昭が小倉を離れ帰国の途につく。1月14日、本道の呑水峠(のみずたお)で午前10時より午後2時に渡る大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は大いに上がった。 山縣は兵力が寡少である為これ以上の追撃に反対したが、高杉は決戦を主張した。 最終的に高杉の案が受け入れられ、赤村にある粟屋率いる前軍本営を夜襲する事に決まる。
2023年09月09日
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絵堂の戦い1月5日、諸隊は丸一日待機したがやはり藩からの使者は来なかった。 ここに至り山縣も戦争を決意した。 まず諸隊は、『戦書』を起草し、絵堂に屯している藩政府軍(前軍)の司令官である粟屋へ送付することにした。 内容は、俗論派が多数の正義派を惨殺・投獄した事を批判し、藩政府を煽動したとして椋梨藤太、岡本吉之進、中川宇右衛門ら俗論派の主要メンバーと戦争するというものであり、粟屋ら政府軍に恨みはないので、藩政府軍の参謀であり俗論派の代表格でもある岡本吉之進を引き渡して撤退し、今後は長州挽回のために力を貸して欲しいという内容である。諸隊のうち、奇兵隊の一部、南園隊、八幡隊の200人が秘密裏に藩政府前軍の屯する絵堂へ行進した。 絵堂の藩政府軍の軍勢は1,000人と伝えられる。1月6日夜、諸隊は絵堂に到着すると、中村芳之助が藩政府軍陣に馬を馳せた。中村は斥候番所を通過したが誰何されなかった。そこで直に粟屋帯刀の本営に赴き、戦書を投じた。 中村が帰陣した後、合図の大砲を撃ち開戦した。 諸隊は翌日未明までに藩政府前軍を破り、絵堂を占領した。 奇兵隊の一部は絵堂の外周を守備し明木本隊からの援軍に備えていた。 そこに藩政府軍の将、財満新三郎が数十人を率いて来た。 「諸隊が君公の命を奉ぜず、かかる乱暴に及ぶは何事ぞや」と叫ぶと、財満は奇兵隊の竹本多門が守備していた陣に突撃した。 竹本は財満を射殺させ、残る敵部隊を潰走させた。 この際、財満の懐を改めた所、俗論派藩政府が藩主父子の許諾を得ずに正義派高官を処刑したという書状が出て来たという。 長州藩の法律として、藩士の処刑にはかならず藩主の許しが必要であり、この文書は俗論派専横の証拠とされた。以上が広く伝わる諸隊決起の状況であるが、資料によって多くの矛盾がある。 例えば諸隊決起のあった6日に、高杉が山縣・太田らへ手紙を送っている。 内容は「新兵を編せんと欲せば 務めて門閥の習弊を矯め 暫く機兆之者を除之外 士庶を不問 棒を厚くして 専強欲者を募り 其兵を駁するや 賞罰を厳命にせば 縦へ凶険無頼之徒と雖も 之れが用をなさざるといふ事なし」とあり、さらに「欲云事多々なれ共 委細は別紙にて御承知被下 鄙意を可とするの諸君は速に来関を給へ 生亦議する事あらんとす」と続く。戦端を開いた当日の諸隊へ、新軍編成等の為に馬関へ赴くよう依頼する内容であり、長州内訌戦の最初の武力衝突となった絵堂の戦いの際、馬関の高杉と伊佐の諸隊が連携しておらず、高杉は諸隊が戦端を切る日取りすら知らなかった事を示している。実は正確な日付は不明だが、絵堂の戦いの直前、萩野隊が藩政府へ帰順する気配があった。 山縣らは萩野隊に対して、立場を明確にし藩政府へ投降する場合は伊佐を引き払うよう迫った。 萩野隊は、諸隊が藩政府軍と戦端を開いた場合、萩野隊は『中立を保つ』と返答した。 そしてその後すぐ諸隊の陣から脱走し、萩野隊は藩政府軍へ投降、鎮静軍に合流してしまった。また当初予定していた3日の開戦がずれ込んだ事や、諸隊600人の内200人しか絵堂の戦いに参加しなかった事は、荻野隊以外の諸隊も開戦に消極的であったことを示している。すなわち日本近代史のターニングポイントである功山寺挙兵の実際の武力衝突は、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。 また財満が持っていたという文書についても、偽書であるという証言がある。
2023年09月09日
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15「諸隊解散令」同日、遊撃隊鎮静軍が諸隊へ出発した。 藩政府軍は伊佐の諸隊については恭順済みと認識しており、進撃路に陣取る伊佐の諸隊へ使者を送り、鎮静部隊が通行する際は道を明けるよう伝えた。 諸隊は藩政府軍の命令を拒否し、諸隊は萩に赴き陳情を行う用意があり、逆に鎮静部隊が道を開けるべきだと回答した。 藩の命令を拒否する諸隊を怪しんだ鎮静軍は使者を送り、諸隊に武器を返納し解散するよう命じた。公爵山縣有朋伝によると、この時、伊佐の諸隊幹部は再度衆議を行い、馬関の高杉晋作に同調して決起することを決めたという。 ただし山縣は即座の戦闘開始に反対し、藩政府へ諸隊を武装解除すると偽り、武装解除する見返りとして、諸隊が度々提出していた武備恭順の建白書を承認するよう藩政府に要求することを決めた。 もちろん実際は武装解除せず、建白書が受け入れられなかった場合は、藩政府軍と戦端を開く決意をしていたという。また諸隊幹部は藩の使者に対して、一度にすべての隊の武装解除を行うと動揺が大きいため、順次武装解除を進め1月3日までに諸隊を解散することを伝え、3日までに提出中の建白書への回答を行うよう伝言した。 諸隊側の資料には、解隊を了承した為、使者は笑顔で帰ったとの記述がある。 ただし藩政府側の資料には、復命した使者は、諸隊の顔には怒気があり不穏な空気であったと記述がある。諸隊が俗論派の藩政府に恭順して伊佐に移った17日以降、ニ卿の萩行拒否、鎮静のための大軍派遣、7人の正義派高官の処刑、最後の正義派家老の切腹、また時期不明なれども萩に在していた南園隊が逃亡して伊佐の諸隊と合流するなど、正義派にとってボルテージの上がる出来事が頻発したのは間違いなく、複数の資料にある通り諸隊解散の命令の出た12月28日に、高杉とともに立ち上がることを決心したのは事実と思われる。12月29日、征長軍総督府は吉川監物へ、正式に解兵令を伝えた。 戸川ら総督府内の幕臣が広島を離れ江戸へ帰国する。同日、再び根来が五卿に拝謁し渡海を促す。同日、長府藩三好新造は藩政府に対し、御楯隊が功山寺を離れ、諸隊と合流したことを報告した。 また遊撃隊を追討する際は、奇兵隊が在陣している美祢街道を通るべきでない事を合わせて報告している。元治2年1月・赤禰武人元治2年1月1日、 公爵山縣有朋伝によると赤禰武人は馬関にて伊藤を訪ね、両派混同論を説き、さらに高杉を罵倒する。 伊藤は赤禰と別れた後、事の顛末を共に馬関にいた遊撃隊に話した。 遊撃隊は大いに怒り赤禰を探そうとするが、危険を察した赤禰は即座に逃げ出し、翌日には九州へ渡ったという。上述の様に、後に出世した功山寺挙兵参加者の多くが赤禰武人は俗論派に与した裏切り者であると証言している。 しかし赤禰武人はこれらの証言と当時の史料の間に矛盾がある人物でもある。 一時的にであれ諸隊が俗論派へ恭順した事実を糊塗するため、赤禰武人のみが俗論派に与し、赤禰のみが諸隊の足を引っ張ったとし、正義派は徹頭徹尾正義であったとするために、故意に赤禰をスケープゴートとして史料の改竄が行われたとする研究者もいる。同日、藩政府軍より伊佐の諸隊へ使者が来て、期日までの武装解除を重ねて命令した。伊崎会所襲撃1月2日、高杉は『討奸檄』という文章を起草し、兵を進め伊崎の会所を襲撃し金穀を奪った。この行動は先日の正義派高官処刑を聞いた高杉が怒った為とも、三日に予定されていた伊佐諸隊の決起の先駆けとも言われている。 また高杉はこの時の『討奸檄』を山県有朋へ渡すよう、白石正一郎へ依頼している。同日、遊撃隊の参謀前原一誠が諸隊を訪問する。また同日、吉川の使者が大阪薩摩藩邸を訪れ、薩摩藩の協力に謝意を示し、さらなる赦免斡旋を要請する。さらに同日、小倉総督府は長府藩家老へ解兵の旨を授ける。1月3日、建白書回答の約束の期限になっても藩からの使者は来なかった。 伊佐の山縣は、藩政府内の混乱を考慮してさらに一日の猶予を諸隊幹部へ懇請し承認されたという。1月4日、征長軍総督徳川慶勝が広島を離れ帰国の途につく。 江戸の幕閣は総督府の長州処分が寛大すぎるとして使者を送り、『毛利藩主父子の江戸護送、五卿の江戸護送、江戸より指示あるまで軍兵を引揚げない事』を求めたが、既に解兵令が出た後だった。 慶勝は、毛利処分については江戸幕府より従軍した幕閣らとも相談したものであり、また今回の出征については総督である自分に全権が委任されていると言って取り合わなかった。しかし江戸幕府はこの後も執拗に使者を送り、慶勝自ら江戸に上り状況を報告するよう求めた。 慶勝は困惑し江戸へ向かおうとするが、京都に入ったところで朝廷が滞京を命じた。 さらに朝廷は征夷大将軍徳川家茂の上洛の内命を下し、江戸幕府がその対応に追われるうちに慶勝の江戸行きは有耶無耶になった。
2023年09月09日
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山口県政へ❖ 明治9年に先収会社が解散した後、井上や木戸は農民たちの不平運動を抑えるために吉富に対して山口へ帰るように要望する。この時不平士族を集めた前原一誠による萩の乱がおこる。❖ この時期には全国的にも佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、西南戦争や自由民権運動が起こり、薩長藩閥体制への挑戦が連続していた。長州閥の政治家達はお膝元山口での不平農民や不平士族たち、自由民権運動を押さえ込むことを吉富に託したのである。❖ 山口に帰った吉富は民権派の地主たちを説得して回る。説得に当たって吉富は自由民権運動を頭からは否定しないが、世の民権運動は野蛮民権でありしっかりした政府がない状態での民権は混乱を招くだけなのでしっかりした政府の元で民権を徐々に達成していこうと言う。世界の大勢を説きながら説得する吉富に地主たちは賛同していく。❖ 明治12年(1879年)に始まった山口県議会で吉富は初代の県会議長に就任し、衆議院選挙に立候補するまで11年間県会議長を務める。❖ 地租引当米制度で巨利を得た井上らの不正を追及し続ける農民代表で県議になった町野周吉は県議2期目の明治17年(1884年)、井上・吉富らに罪を捏造されて逮捕、1年の禁固刑を受けて獄死する。❖ 明治15年(1882年)、吉富は地方政党・鴻城立憲政党を立ち上げる。綱領は大隈重信の立憲改進党の綱領と似通った綱領を採用したが、それは自由民権論者を懐柔して取り込むためである。❖ しかし吉富の本音は自由民権論を敵視し、井上らの長州藩閥体制下での緩やかな民権を求めるものであり、井上らの主導権を守りこそすれ脅かす意図はなかった。このため、山口県では自由民権運動は大きな動きになることはなかった。明治17年頃からは全国的に自由民権運動は衰えていく。❖ これに伴って自由民権論者を懐柔し取り込むための鴻城立憲政党も役割を終え解体されていく。❖ 吉富は鴻城立憲政党の機関紙として意図して準備した新聞を切り替え明治17年に「不偏不党、中正公明」をスローガンに掲げた防長新聞を創設する(昭和39年(1964年)創刊の防長新聞とは別物)。❖ 政府御用新聞と揶揄された東京日日新聞から派遣された保木利用が編集人になり「不偏不党、中正公明」をスローガンにしていても、実際にはその論調は薩長が主導する政府を擁護し、薩長政府に対抗する者を攻撃していた。吉富は防長新聞の社長を大正3年(1914年)まで29年以上にわたって続けている。 密書には「井上聞多は拙者真の知己に御座候所 此節幽閉被候故 誠に以って遺憾之事に御座候 何卒して脱走致候手段共は無御座哉」とあり、負傷して俗論派に幽閉されていた井上聞多の奪還を依頼していた。 さらに「少々金入用に御座候所 中々金を出し候者も少なく困窮仕候間 老兄(吉富)兼而之御忠誠之事 四五百両も御恵被下候」とあり、同時に献金を依頼していた。クーデターの最中であり事態が切迫していた為か、高杉は密使に対し、もし吉富が怪しい素振りを見せたり協力を断った場合は即座に刺殺するよう命じていた。 吉富はその場で協力を約束し献金に応じた。吉富はそれだけではなく自ら近隣の住民に呼びかけ、諸隊への直接参加の準備を始める。同日、二卿が伊佐より功山寺へ帰還した。12月28日、御楯隊が長府を引き払い、伊佐の諸隊の下へ向かった。 先に哀願書を出した事から推定すると、太田市之進も藩政府に恭順したようである。 これにより馬関の高杉ら遊撃隊はまったくの孤軍となる。 この後、五卿の下へ長州藩より告別使として根来上総が来訪して拝謁し、渡海を促す。
2023年09月09日
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脱隊騒動❖ 戊辰戦争で勝利した長州では明治2年(1869年)から3年(1870年)に脱隊騒動が起きる。戊辰戦争で活躍した長州藩諸隊を明治政府は解散させるが、兵士たちは不満を持ち反乱に及ぶ。❖ これに新政府から切り捨てられた下級武士や旧態とした体制に不満をもった下層農民たちが加わり各地で反乱は起き、反乱軍は山口を占拠する。❖ 吉富は木戸孝允と共に山口を脱出し、馬関(下関)から反撃して山口を奪い返し反乱を鎮圧する。❖ この時吉富の親戚の庄屋がいた小郡の農民兵の助力を得ている。脱隊騒動では下層農民は反新政府、吉富ら地主層は新政府側に分かれ、それはその後の山口県政に引き継がれる。❖ 吉富は反乱の鎮圧で木戸の信頼を得て上京し、小菅県の官吏、続いて大蔵省の官吏に任命され士族に列せられる。❖ この時、名を吉富簡一と改める。戊辰戦争の戦功がないため下級官吏であるが、木戸には明治4年(1871年)の岩倉使節団の随員に推薦されるほど期待されている。❖ 実業へ政商として❖ 木戸に期待され、出世コースに入った吉富であるが、すぐに官職を辞して山口に帰る。明治4年7月に廃藩置県が行われるが、この際に諸藩の債務の多くが切り捨てられた。❖ 吉富家は長州藩に5000石余りを貸し付け、その利子だけでも年に100石を超えていたが、この貸し付けが無くなってしまったのである。❖ 実家の経済的危機にあたって吉富は辞職し、山口に帰って家計の再建に取り組み、木戸に薦められた岩倉使節団への参加も断っている。❖ 井上らは吉富に中央へ戻るように呼びかけるが、吉富は官吏として名誉を求める気は全く無くしている。❖ 明治6年(1873年)、井上は政府を辞め親しい商人岡田平蔵と岡田組を創設し、岡田の急死後には先収会社を設立して実業界に入る。この時吉富は先収会社大阪支店頭取(支店長)を任される。❖ 政府を辞したとはいえ長州閥のコネクションを持つ井上は親しい中野梧一を山口県の権令(県知事)にあてるが、中野・吉富らで山口県の農民からの収奪を図る。❖ 山口県と吉富の交渉で先収会社への山口県産米の払い下げが決まり、明治6年度の山口県の地租改正では農民は現金ではなく現米で税の納入という事になったが(地租引当米制度)、この際1石あたり3円という米価が農民に押し付けられた。これは相場の半値程度であり、農民は甚だしく不当な安値で作った米を売らされたのである。❖ 山口県は農民から不当に安く納入させた地租米を、相場よりもはるかに安い値段で士族禄米として旧武士階級へ支給し、残りの米を地元と大阪で売ったが、大阪で売った分は先収会社が独占して取り扱った。❖ 岡田組から先収会社へ引継ぎが行われている明治7年(1874年)初頭では、米の相場は1石あたり6円程度の所、先収会社には山口県から1石あたり4円20銭で5万石の米が払い下げられた。❖ 同じように明治7年産米も翌明治8年(1875年)産米も相場よりも安い価格で山口県(実際は県が設立した防長共同会社)の県外売却分は先収会社に独占的に扱わせた[4]。❖ この時、山口県から直接先収会社に安価で米を払い下げては汚職の汚名を着せられる可能性があるので、建前上は農民の手で設立された形の防長共同会社が米を集めて地租の一括納入と米の販売する形にした。❖ 防長共同会社があげた利益は農民に還元する建前だったが、実際には利益は戸長(地主)が収奪し、井上や中野、吉富と士族、地主階級で山口の農民たちが作った米を不当に安く買い叩き巨額の利益を得たわけである。吉富も先収会社社員として月給250円という巨額の報酬を得ている(当時、最下級の職工は月給5-6円の時代である)。❖ 当然、米を不当に安く買いたたかれた農民たちは反発し反対闘争を繰り広げ、山口県政は動揺する。❖ 折しも江華島事件勃発を機に井上の政界復帰が決まり、明治9年(1876年)6月に先収会社は解散し、同年8月に地租引当米制度は廃止される。しかし、農民たちは搾取された分の返還を求め、責任を追及し続ける。❖ 地租引当米制度への農民たちの闘争は大津郡の町野周吉らを中心に繰り広げられていく。
2023年09月09日
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14「征長軍解兵令」12月27日、征長軍はついに解兵令を発し、長州征討は終了した。 ただし九州五藩の軍兵は、五卿受領が終了するまで残留する事とした。同日、高杉は吉富村の吉富藤兵衛へ、密書を持たせ密使を派遣した。 ❖ 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。❖ 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあった吉富藤兵衛は尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。❖ 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。明治7年(1874年)、井上が興した先収会社大阪支店長を務めた後にまた山口県に帰り、明治12年(1879年)に山口県の初代県会議長となり県会議長を11年務め、在任中は地方政党鴻城立憲政党や防長新聞を創設。❖ 山口県政の大立者として山口県の農民運動や自由民権運動を押さえ長州閥の大きな支柱となる。特に井上との関係は深く、彼の権力基盤を支えたことで知られる。❖ 明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に当選して国会議員となり、第3回、第4回の衆議院選挙にも当選するが、国会議員としてよりも農民階級ながら倒幕運動に参加し鴻城軍を組織したことや長州閥を支えた地方政治家として知られる人物である[1]。❖ 生い立ち❖ 吉富家は約26町歩(約26ヘクタール)の田畑を有し、苗字帯刀を許された大庄屋で、年収は3000俵にも及ぶ豪農だった。吉富家は農民階級ではあるが村役人でもあり、裕福な暮らしは貧農からは恨みを買い天保2年(1831年)の防長農民一揆で攻撃もされている。❖ このため吉富は下層農民には親近感は覚えず、明治維新後には下層農民からの収奪・農民運動の抑圧に走る。祖父は儒学を教える郷学講習堂を開き、吉富はここで儒学を学ぶが、郷学講習堂の学友に3歳年上の井上聞多(後の井上馨)がいた。幼少の2人は近所のガキ大将で親友であったという。武士階級である井上は成長して藩庁に出仕し、吉富は安政元年(1854年)に17歳で家督を継ぎ当主となり名を美之助から吉富藤兵衛と改めた。❖ 尊王攘夷運動・倒幕運動❖ 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来日本も長州藩も揺れ動くが、農民の身分ながら若き吉富も親戚の林勇蔵など尊王攘夷派の影響を受け国事に関心を持ったという。❖ 元治元年(1864年)3月には長州藩の攘夷に対する外国の報復(下関戦争)が予想されていたため馬関攘夷費として藩札85貫目を長州藩に献じて士籍に編入されている。❖ しかし、文久3年(1863年)11月に密航してイギリスを見てきた伊藤博文と井上馨は日本の国力では攘夷は無理だと悟って倒幕開国派に転じ、元治元年6月に下関戦争を防ぐために長州に帰還、井上から国際情勢を聞いた吉富も倒幕開国派に転じている。❖ 井上の工作も空しく下関戦争は勃発して長州藩の敗北に終わり、続く江戸幕府による第一次長州征討で長州藩は降伏、俗論党(保守派)が長州藩の実権を握り、井上は俗論党に襲撃されて重傷を負い、吉富家に身を寄せていた周布政之助は吉富屋敷で切腹している。俗論党が一旦は長州藩の実権を握ったが、高杉晋作ら長州正義派(改革派)はすぐに立ち上がり奇兵隊など長州藩諸隊を率いて巻き返す(功山寺挙兵)。❖ 高杉に軍資金の援助を求められた吉富は金を出すが、そればかりでなく自ら鴻城軍を組織して長州藩諸隊に加わる。❖ 鴻城軍の総帥には井上を担ぎ、吉富自身は吉野の変名を用いて鴻城軍の参謀兼会計を務める。この時山口に寄せてきた俗論党軍は主君毛利敬親を擁していたため、主君を相手にすることで動揺した井上に対して吉富は毅然と俗論党との戦いを主張している。❖ 高杉ら長州正義派は慶応元年(1865年)に政争に勝利し長州藩の実権を握り、引き続いて起きた翌慶応2年(1866年)の第二次長州征討でも吉富は鴻城軍を率いて戦っている。長州閥内で吉富はこの活躍によって出身地名から矢原将軍と呼ばれるようになっている。❖ 戊辰戦争では吉富の名は出てこないが、26町歩の庄屋の家長として地元を離れて戦乱に参加することはできなかったのであろう。❖ 吉富は後日、戊辰戦争に参加しなかったことを振り返り「あのとき、自分に田畑さえなければ」と述懐している。
2023年09月09日
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藩主父子蟄居確認同日、巡見使の本隊、石川・戸川らが萩に入る。同日、萩へ赴こうとする伊佐の二卿の元に俗論派政府の使者が来て、萩行き中止を請う。二卿は萩行きを断念し、藩主への挨拶として中岡慎太郎を萩へ遣わす事とした。 また萩に幕府方が来ており、諸隊が萩に迫る場合、兵力を持ってこれを拒むの備えありと伝える。12月21日、萩に至った巡見使石川が、毛利藩主父子の蟄居状況を確認し、条件履行は問題ない旨を確認し、翌日萩を出発する。 長谷川も23日に萩を出発し、巡見使は長州が戦争回避条件を満たしていることを確認した上で長州を去った。12月23日、 総督府は諸藩に対し、『三條実美始五人当月二十五日比迄に松平美濃守へ引渡候手順に運び候得共附属之暴徒不伏之者も有之候付兵士差向及説得其次第により彼等打取実美始早々引渡旨大膳より相届候付為心得相達候事』と伝え、残された五卿の渡海についても履行の目処が立った事を周知した。若井の助言と俗論派の硬化同日、広島総督府で状況を確認した若井鍬吉が、岩国に急行し吉川と面会した。 若井は諸隊鎮圧に兵力を用いれば、五卿移送も困難になる事が予想されるため諸隊追討部隊編成を取りやめるよう求めた。 また武力の不使用は、長谷川より上席である総督府名代成瀬正肥も同意していると伝えた。 吉川は、兵力の使用は長谷川の発案であり、尾張藩からの助言に矛盾があることを指摘した。 吉川は、近日中に長谷川も岩国を通り広島へ帰還する為、若井に岩国に留まってもらい、どちらが正しいか確認して欲しいと言った。 若井はすぐに京都へ行かねばならず滞在は困難と答えた。 吉川は若井に対し、長州藩は謹慎中であるため武力を用いるのは良くないと言った。しかし、萩藩政府は追い詰められた高杉ら遊撃隊が狂騒して小倉の征長軍を攻撃した場合を心配している。萩藩政府の統制を離れているとはいえ、長州人の部隊が征長軍に攻撃を仕掛ければ長州内訌戦どころではなく、本当の長州征討が始まる事になる。 現在の萩藩政府ではこれを最も恐れており、諸隊追討の意思は固いと伝えた。同日、伊佐よりニ卿の使いとして中岡慎太郎が萩へ赴き、藩主父子へ別れの挨拶をした。 この際に中岡は、膨大な諸隊追討軍が準備されつつあるのを目撃している。 追討軍の規模は一般的に2,000人と言われている。12月24日、長府に残留していた太田市之進と野村和作は、馬関の高杉晋作、伊藤俊輔の元を訪れ、総督府広島本営に赴き、哀願書を提出し、切腹して陳謝して藩主の赦免を求めたいと語った。 高杉と伊藤は無駄死になるとして止め、太田らは助言を受け入れ、馬関在住の総督府使者へ哀願書を提出するのみにとどめた。諸隊鎮静部隊結成12月25日、藩政府は決起した高杉らの追討を決め、毛利宣次郎を諸隊鎮静総奉行に任命した。 だがこの鎮静部隊編成には俗論派政府内で激論があった。 俗論派内の強硬派は全諸隊の追討と厳罰を主張する。 しかし大多数の意見は、決起した遊撃隊のみを追討し処罰についても首謀者のみに留めるものであった。 最終的に俗論派政府は、馬関にて決起した高杉ら遊撃隊のみを追討することとする議案を藩主へ提出した。 しかしこの追討についても、議案を見た藩主敬親が一読の後にこれを鎮静に改めさせた。 「そうせい公」と呼ばれた敬親が、議案を自ら変更することは非常にまれであった。清水清太郎切腹同日、清水清太郎が切腹に処された。 清水清太郎は最後に残った正義派家老格であり、彼の死により正義派高官はなくなった。また同日、月形洗蔵は高杉晋作と面会した。 月形は五卿を引き渡せば、萩政府と掛け合い決起の罪を軽くするよう交渉する旨を説いた。
2023年09月09日
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伊佐への移動と五卿萩行12月17日、 この日、月形は諸隊から五卿渡海の承諾を得るに至った。 奇兵隊総督たる赤禰武人、筑前正義派と呼び身内扱いしていた福岡藩攘夷志士、半ば君主と仰ぎながら九州行きを決めた五卿、最後の頼みの綱とした長府・清末藩藩主らの説得を受け、諸隊はついに藩政府へ恭順したようである。 恭順した諸隊は決起した高杉との混同を避けるため、長府藩領を出て長州本藩領である伊佐に撤退した。 奇兵隊軍監の山縣有朋は少し遅れて諸隊に続いた。 遅れた理由は時勢を悲観して剃髪したためと言われこれより後、山縣は素狂と名乗る。 ただし伊佐に移った後も、山縣ら諸隊幹部は高杉や遊撃隊と連絡を取り合ったという。説得を受け入れず長府に残留したのは、馬関の高杉ら遊撃隊と、決起を直前に断念し一時は切腹を考えた太田市之進率いる御楯隊のみである。 御楯隊は功山寺へ赴き五卿を守護するようになる。ただし公爵山縣有朋伝によると諸隊の伊佐行きは、三條実美・三條西季知が別れの挨拶のため萩へ行く際の護衛の為であり、諸隊が恭順したという記述はない。 それどころかこの萩行は、三條を通じて野山獄の正義派高官の釈放・武備恭順を藩主へ直訴する事を目的としていたとされる。 他にも公爵山縣有朋伝には、諸隊が伊佐へ移った理由は、高杉晋作挙兵に応え、萩へ進撃して藩政府軍と戦うためであるとする記述もある。 さらに両派混同論を解く赤禰は萩行へ同行せず、馬関へ赴き高杉に従い残留していた遊撃隊の説得を続けたという。この点も史料によって矛盾があり、どちらが正しいか不明である。同日、萩藩政府は、先日の巡見使長谷川の強行発言を受けて、藩主父子の上書として、諸隊・脱藩浪士征討の旨をしたためた書状を吉川を通じて総督府に提出し、萩藩政府は諸隊追討部隊の編成のため、萩在住の藩士に召集をかけた。甲子殉難十一烈士12月18日、 萩藩政府は渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派重鎮7人を捕らえ、野山獄に送った。 防長回天史によれば、七人の捕囚は巡見使長谷川の意を汲んだものと言われ、萩藩政府は長谷川の助言に従い7人を殺害する意図であった。 萩に滞留していた喜多岡らは俗論派の強硬姿勢に驚き、長谷川や萩藩政府に7人の助命を嘆願したが聞き入られなかった。 喜多岡は小倉にいた西郷へ危急を知らせる急使を送るとともに岩国にへ向かった。 吉川を通じて7人の助命嘆願をするためであった。後に小倉にて急使から事情を聞いた西郷は即座に岩国に向かった。 他にも小倉に在していた若井鍬吉、加藤司書らが、状況確認の為に総督府広島本営へ向かった。12月19日、萩藩政府は、野山獄に捕らえていた渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。(甲子殉難十一烈士)。公爵山縣有朋伝によるとこの処置は、諸隊の萩接近と高杉挙兵の報が萩に達し、俗論派は諸隊が萩へ到着すれば野山獄を破り正義派高官を奪還するものと考え殺害したとする。 萩藩政府はニ卿に急使を送り、伊佐にて急使と面会した二卿は萩行きを断念し長府に引き返したが、諸隊は正義派の処刑を聞き激高し、伊佐に留まる事を決めたという。 また俗論派は領民に対し、諸隊への支援を禁止する布告を出したが、領民は概ね正義派を支持しており、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行ったという。これも上述の通り、防長回天史等の史料において7人の殺害については巡見使長谷川の意向が強く働いたという記述があり、矛盾が生じている。 どちらが正しいかは不明であるが、他史料には伊佐に7人殺害の風聞が届いたのは23日という記述もある。山口城破却確認同日、幕府の巡見使、石川光晃、戸川安愛が山口城破却の状況を確認した。山口は城ではなく館であり、破却の仕方も屋根瓦十数枚を落としただけであったが、巡見使はこれを問題なしとして了承した。12月20日、 防長回天史によると、7人の処刑を知らない喜多岡は、岩国の吉川の元を訪れ正義派の助命嘆願を行った。 西郷も駆けつけてきて吉川に正義派の助命嘆願と、軍事衝突を起こさないように萩藩政府を説得するよう求めた。吉川は二人の言葉を入れて正義派の助命を約束したが、会議の途中、萩より急使が来て既に7人が処刑された事を告げた。 西郷らは愕然とした風体であったと吉川は書き残している。 喜多岡は、長谷川に諸隊の鎮撫について相談した事を話し、7人の処置は長谷川の発案に違いないと言った。 西郷は武力衝突の生じないよう調整してきたことがすべて無駄になったといい、長谷川を巡見使にした総督府の失敗であると言った。
2023年09月09日
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高杉の決起を事前に察知した長府藩は困惑していた。挙兵した高杉らが目指すのは長府藩内の長州藩下関新地会所である。功山寺から馬関へは長府藩領を通行する事となる。 長府藩の毛利元周らは概ね正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは長州本藩の騒動であり、またこの時期萩に赴いた長府・清末両支藩藩主は萩藩政府により、五卿の九州行きと諸隊恭順の為に働く事を命じられていた。 そんな中、長州本藩に叛旗を翻す高杉らの領内通行を認めることは出来なかった。 長府藩は高杉の元へ家老を送り、挙兵中止を要請し長府藩領は通行不可であると伝える。これを聞いた高杉は最初激怒したが、長州支藩である長府藩の立場を考慮し、新地会所へは船で向かうと家老に告げた。 ただし実際は船は使われず、高杉と決起群は長府藩領を陸路で通過した。 長府藩側はこれらの動きについて察知したが、妨害しなかった。高杉らは五卿に決死の覚悟を伝え決起した。しかしこの15日、萩より帰還した長府藩主毛利元周は、萩政府の命で五卿と諸隊へ九州行きを承認し、世帯へ萩藩政府へ恭順するよう言い諭した。 そして五卿も、本日(15日)より十日の猶予をもって九州へ移動することを約束した書状を月形へ渡した。 また五卿は、十日の猶予の間に一人二人が萩に赴き、藩主父子に別れの挨拶をすることを月形に伝えた。 これまで親身に付き従ってくれた諸隊に報いるため、最後に藩主と面会し正義派の復権を求める為であったとされる。同日、福岡藩士喜多岡勇平は萩の天樹院を訪れ、野山獄に繋がれた正義派高官の前田楢崎の罪を赦し、重役へ登用するよう再び請願した。また同日、総督府巡見使の先発・尾張藩士長谷川敬が萩に到着した。12月16日、高杉らは馬関新地へ到着し会所を襲撃した。 高杉らは会所襲撃は食料金銭を取れれば良く、人を殺すのは悪いと考え空砲を撃った。 馬関総奉行の根来親祐(根来上総)らもすぐに降伏し、会所は遊撃隊が占拠した。 遊撃隊隊士は根来に、俗論派と見做す役人を引き渡すよう強く求めた。 根来が引き渡した際の処置を尋ねると、斬首して晒首にすると息巻く。 根来は、海を隔てて征長軍と対峙している時に、内輪揉めをする場合ではないと遊撃隊隊員を叱責して下がらせ、役人には萩へ帰還するよう言った。役人は萩への道中に暗殺されるかもしれず、会所に留まりたいと言った。 根来は先ほどの遊撃隊隊士を呼び寄せ、役人は駕篭で萩まで送るが暗殺しないよう言い聞かせ、隊士は決して暗殺はしないと約束し、その通りになった。流血は避けられたものの、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていた。 楷書に金を宛てにしていて軍資金がない高杉らに同情した根来親祐は、幾ばくかの金銭を与えたが80人以上の人員の経費を賄うことは出来なかった。 そのため伊藤俊輔が、高杉と親しい馬関の豪商入江和作らの元を走り回り二千両の大金を借りだした。 他にも馬関周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、120人ほどの志願兵が馬関会所に来たという。そしてその後も志願兵は増える一方であったという。会所を掌握した後、高杉は18名(20名説もあり)からなる決死隊を組織し、三田尻の海軍局に向かい「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取しようとした。 決死隊は3班各6人に別れ、3隻の軍監に乗り付けた。 高杉は決起を告げ、俗論派政府打倒のため立ち上がることを迫った。 この後の経緯は不明な部分があるが、12月26日前後には説得が功を奏し、長州海軍の3隻はすべて正義派の隷下となった。 (丙辰丸と庚申丸の奪取には至らなかったものの癸亥丸艦長福原清介の説得には成功したという異説もある)。このように高杉は功山寺で決起し、馬関の会所ならびに海軍局を襲撃したが、どちらもほぼ無抵抗で占領を許し死亡者を出さなかった。現場では正義・俗論の両派とも武力衝突による流血を回避した。長谷川の助言同日、萩に滞在していた総督府巡見使である長谷川に、藩主父子は使者を送った。 長谷川は諸隊鎮撫、五卿九州行の状況を質問し、使者は現状をありのまま述べた。 その後、萩に滞在していた福岡藩士の喜多岡らも長谷川に面会した。 喜多岡は、諸隊鎮静に手を焼いていることをありのまま長谷川に伝えた。 萩藩政府と喜多岡の報告を聞いた長谷川は機嫌を損ね、形勢がそのようであれば総督府に報告し、巡見を中止すべきと発言した。 長谷川は、長州藩が諸隊鎮撫出来ないのであれば、尾張藩兵を用いて諸隊を討つと言った。 この強行な発言が総督の意向を含んだものかは不明である。 しかし萩藩政府は巡見使の発言を総督府の意向と重く受け止め、それまでの説得による諸隊鎮撫を改め、武力行使による諸隊征討方針に転換する事となる。
2023年09月09日
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13「功山寺挙兵」12月15日深夜、高杉晋作らは功山寺にて挙兵した。 高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われ、死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託している。 功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであった。 挙兵決行日は当初12月14日に定められていたが、説得や準備に手間取り翌日にずれ込んでしまった。 なおこの日の天候は吉良邸討入時と同じく、下関では珍しい大雪であったとされる。紺糸威の少具足を身に付け桃形の兜を首に下げた格好の高杉は、兵を引き連れ功山寺へ赴き五卿への面会を請うた。 五卿を奉じる脱藩浪士がこれを取り次ぎ、寝所から三條実美が現れる。 高杉は三條へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。 三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。 高杉は注がれた盃を飲み干し、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がった。 三條は高杉の決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。高杉の決起について、共に行動した当事者の伊藤博文が、後にその詳細を以下の様に語っている。其頃遊撃隊と遊撃隊と唱へて、来島に従ふて京都へ行つて帰つた残物の集まりがあつて、其の頭領株は、今日居る河瀬真孝で、高杉は彼等と段々言ひ合つて、到頭戦端を開くと云ふことになつた。慥か十二月十六日と思つて居るが、雪が降つて居た。吾輩は一寸馬関へ居つた。所で、其晩に高橋熊太郎と云ふ浪人を高杉が使に寄越して、今夜事を挙げるから是非帰つて来いと云ふて来た。それから長府へ帰つてみた所が、諸隊との談判が中々困難だ。例の遊撃隊だけは纏まつて居る。河瀬等が皆な高杉に同意をして居るから、それだけの人数は挙げてやると云ふことになつた。君も力士隊を持て居るから、一緒にやらう。宜しからうと云うので、吾輩の隊は功山寺と云ふ寺の隣りの寺であつたが、其所に御堀の隊と一緒に置いたのだが、帰つて力士隊の奴等に今夜出るのだから、兵糧の準備などをしろと言付けて置て、さうして高杉が遊撃隊の方に居るから、其所へ行て居つた。所が、奇兵隊等の方では、もう少し待て、共にやらうと云ふ論がある。高杉はどうしても待てぬと云ふ。結局其の議論が著かぬ。それでも高杉はああ云ふ流儀の男で、是非やらうと云ふ。宜しい。其所で河瀬や吾輩は宜しい。吾々もやらうと云ふ論になつて、夜半時分であつたらう。是れから出ようと云ふことになつて、陣揃えをしろと云ふことで、さうして三條さんなどが功山寺に泊つて居らるるから、御暇乞をしようと云ふことで、高杉さんとそれから、河瀬も、松原音蔵も来て居たかと思うが、何でも四五十人で三條さんの所へお暇乞に出た。所が今の宮内大臣をして居る土方と、水野丹後と云ふ御家老みたような者が居つた。それ等がもう夜半過ぎだから、眼を擦り擦り起て来る。三條さんは眠てござるので御起し申さうと云ふことで、其間に酒を一杯飲まそうと云つて。重箱の端に煮豆の食残りがある。それを出して飲で居る中に、三條さんが起て来られた。そこで吾々は此俗論を傍観して居る訳に参らぬから、兵を挙げて馬関へ出て、之を取て根拠地とし、俗論党と戦ふと云ふので、それで御暇乞を申すと云ふて、御暇乞をして庭へ下た所が、兵隊が整列して居る。それで吾輩は功山寺に御暇乞に出ようと云ふ前に、自分の陣屋へ行つて兵量の準備をしろと言付けて置いたから、這入らうとすると、門が閉めてあつて這入らせぬ。誰であつたか一人内から出て来て大変です、御堀さんが銃器も何も皆な取上げて門外へ一人でも出る奴は斬ると云ふことですから、御帰りになつては大変でございますと云う。そうかと云ふて、己れだけは行くと云ふので、右の通り高杉と共に三條さんの所へ上がつて出た所が、遊撃隊だけは揃つて居る。大砲が一挺あつた。森重健蔵が大砲方で後方から来る。吾々は馬に乗つて、高杉が総大将だ。さうした所が、雪が非常に積て居る。其所へ福田良介がやつて来て、雪の中に座つて、高杉に向ひ、今日だけは是非御止りを願ひたい。どうもさう云ふ訳には行かぬと問答をして居ると、森重が後方から総督お進みになつたら宜からうと、大きな声を出した。其はづみにずつと先へ出て仕舞つた。さうして何でも三十人か四十人居つたらうか、吾輩の力士隊の奴等へ墻を踏越て、忍んで出で、吾輩等に追付たのが、十五六人も居つたらう。夫から夜の未明に馬関へ行つた。」(徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋伝 (上中下)』山縣有朋公記念事業会、1933年)
2023年09月09日
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12「高杉の独走」五卿退去と諸隊恭順の空気が広まる中、一人高杉のみが信念を変えず俗論派と戦うことを主張した。 高杉は俗論派政府をまったく信用しておらず、正義派と俗論派の仲介を行う赤禰も信用しなかった。 高杉は諸隊の消極姿勢を見て憤激し、度々決起を提案したが諸隊幹部は拒否した。 消極的な諸隊に業を煮やした高杉は、少数の賛同者とともに決起し、諸隊全体をそれに続かせようと画策する。高杉は即時挙兵に賛同する御楯隊率いる太田市之進、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のみで功山寺にて挙兵し、馬関にある長州本藩の会所を占領する計画を建てる。 挙兵日は赤穂浪士の吉良邸討入と、吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である12月14日と定め、高杉らは決起の準備を開始した。 挙兵に際して自らを、死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や、初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を、挙兵する自らになぞらえていた為と言われている。同日、総督府は吉川に、近日中に戦争回避の条件の確認のための巡見使が長州に入ることを通告した。 先発として尾張藩士長谷川敬が萩に向かう。その後、幕閣である戸川安愛を筆頭として軍装した560人の大勢が、山口を経て萩を訪問する予定であった。 吉川は、長州内での偶発的な衝突を懸念し、息子を人質とする代わりに巡見使派遣中止を総督府に願い出る。 総督府は拒否したが、吉川はなおも食い下がり軍装ではなく平服での巡見を懇請した。 総督府は譲歩し、巡見使は平服で長州藩領に入る事となった。12月13日、高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対し、高杉を止めるため説得を試みた。 しかし高杉はあくまで消極的な諸隊幹部の態度に怒り、自らと一緒に立ち上がるよう逆に演説を行った。 高杉は、元が土百姓である赤禰武人に騙されていると言い、 さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫んだ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。しかし下級武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。説得が不調に終わった後、高杉は功山寺を離れ馬関に赴き、僅かな賛同者と決起の準備を進めた。 奇兵隊日記には、高杉は『脱走』したと記された。同日、萩へ正義派復権のために出張していた長府藩家老や清末藩主毛利元純が長府へ帰還した。 萩を訪れた支藩藩主たちは、藩主父子を握った俗論派から、長州本藩の命として五卿九州行と諸隊恭順の為に働くよう逆に言い渡されていた。 帰還した支藩藩主らは、藩政府の命により、諸隊へ萩藩政府への恭順と五卿の九州行きを説くようになる。 またこの頃より五卿も諸隊に対し、内訌戦を回避するため俗論派へ恭順するよう諭すようになる。頼みの綱とした長府・清末両藩が陥落した為か、太田市之進と彼の率いる御楯隊が、直前になって高杉の決起から脱落した。 高杉は大いに怒り太田を斬ると言い、太田も一時切腹を考えたが野村靖が仲介に入って和解した。このように決起直前、高杉と諸隊は激しく対立した。しかし彼らは不思議と友情を失わなかった。 諸隊幹部は高杉らの無謀な挙兵を邪魔することはなく、高杉らは銃器弾薬の準備を整えることが出来た。 また高杉から斬ると罵られた太田は剃髪して謝罪し、出陣に際しては酒樽と魚数尾を贈った。 奇兵隊の山縣は高杉の肩印に以下の歌を書いて決起の餞とした。(歌の中にある谷と梅は、当時の高杉の偽名である谷梅之助から取られている) 谷つづき 梅咲きにけり 白妙の 雪の山路を 行く心地して
2023年09月09日
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赤禰武人の帰還12月8日、赤禰武人が萩より長府に帰還した。 赤禰武人は、藩政府は「五卿が安全に九州へ移った場合、諸隊の存続ならびに藩士への取り立てる事」を約束したと伝え、諸隊は萩藩政府に恭順するべきであると提案した。公爵山縣有朋伝によれば、建言書で求めた武備恭順や藩政改革については無回答であり、また野山獄に収容された正義派高官についても回答なかった為、談判は失敗と見なされたようである。 赤禰の談判の内容に満足出来なかった山縣ら諸隊幹部は衆議を行い、事後策として五卿の内の一人を奉じて萩へ赴き、藩主へ正義派高官の釈放や武備恭順を直訴する案を検討する。 赤禰武人はこれに反対し、正義派と俗論派の和解を目指す両派混同論をしきりに説いた。 また独断専行の多い高杉の帰隊を拒否した。 しかし諸隊幹部は高杉を歓迎しており、この点において赤禰は無視されたという。防長回天史によれば同日、萩藩政府は福岡藩の斡旋に謝辞を示すため福岡藩へ使者を送ったとある。 諸隊隊士はこれを知り、月形ら福岡藩士に俗論派の使者を暗殺するよう依頼したという。 このように正義派の俗論派に対する不信感は拭い難く、五卿の九州行きは拒否され続け、月形と諸隊の話し合いは平行線を辿る。 月形は事態打開のため、小倉の西郷に馬関へ赴くよう依頼した。上記のように、功山寺挙兵の後に編纂された史料には細部に矛盾があるものの、諸隊が俗論派・征長軍(福岡藩・長州藩)の説得を受け入れなかったとするものが多い。しかし研究者の中には、複数の諸隊が両派混同論を受け入れ、藩政府に恭順したとする者がいる。後述するが残された史料から推察すれば、多くの諸隊が一度は藩政府と征長軍の説得を受け入れ恭順した可能性が高い。同日、総督府広島本営は諸侯の幹部を参集させ、長州の戦争回避の条件履行がスムーズに行われていることを説明した。 ただ軽すぎる処分に反発していた越前藩や熊本藩は、総督府に戦争回避の条件が履行されているか確認するよう求めた。 総督府は尾張藩士と江戸幕閣を巡見使として派遣し、長州藩内を査察して、条件が履行されているか確認することとした。12月11日、西郷隆盛は小倉を発し馬関に至り、月形および『諸隊の長官』と『謀議』した後、すぐに小倉に引き返す。 この時の『謀議』とは諸隊説得についての相談であり、『諸隊の長官』は赤禰武人であるとも、高杉晋作であるとも言われているが、現在まで確定されていない。12月12日、月形はさらに五卿の元を訪ね西郷との『謀議』の内容を伝えた。 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。 上述の通り謀議の内容は不明であるが、三條は月形へ『極密談合之件々 委細聞届候 当藩内輪之紛乱鎮静之効験相立次第 筑藩へ渡海之儀令決定候』と書き残しており、赤禰らの諸隊説得が成功しつつあった事を示唆している。 またこの時期の『小倉在陣日記』にも、『近頃長州の内にて奇兵隊之者 萩方と五卿附属方と二ツに相別れ』とあり、奇兵隊が切り崩されて分裂し、萩藩政府側についた者がいた事を示している。月形は小倉の西郷に急使を送り、五卿が九州移送を同意したことを伝え、西郷は月形へ返答の使者を送り、五卿に九州移送の日取りを決めるよう求めた。
2023年09月09日
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元治元年12月福岡藩の説得12月1日、福岡藩士越智小平太、真藤登、喜多岡勇平が長府(現在の下関市長府)の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かるという申し入れをしたが、五卿も諸隊も断固拒否した。越智は諸隊の様子について、『過激輩は昨今にては髪も延し候て長さ肩を過ぎ 眼色は血走り死を決候気色にて』と記述した。 越智らは、長州復権のためにも力を惜しまない事を五卿と諸隊幹部に説いた。 さらに勅命が出たこと、五卿の家族も望んでいること、内戦を回避すべきこと等をしきりに説いて九州への移動を受け入れるようせまった。 諸隊幹部は、福岡藩の義は忝なく思うが、薩賊と協力し征長軍が解かれない現状では、謀略でないか疑ってしまうと率直に言い、主君が朝敵と称せられ、奸臣が周りを囲んで居る現状において、五卿まで去られては長州を回復することができないと言った。 喜多岡は諸隊幹部の率直さに感動したものの、交渉自体は暗礁に乗り上げてしまい、説得を諦め小倉へ帰った。12月3日、今度は福岡藩の月形洗蔵が功山寺に赴き、五卿の筆頭、三條実美と面会した。 前日諦めた越智・喜多岡はと違い、月形は粘り強く交渉し、五卿が九州に渡れば、福岡藩と薩摩藩は五卿と長州藩の赦免に必ず力を尽くすと約束し、さらに他の条件は履行されている事を伝えた。この日、三條は多少軟化した。 三條は、世話になった長州藩が正義派・俗論派にわかれ内戦寸前であり、これを放置したまま九州へは渡れないと言った。 そして長州 藩の騒動が収まれば九州へ行くと言い、九州に住居する際も、五人別々ではなく全員一緒でありたい等の要望も出した。同日、五卿の従者である中岡慎太郎が小倉に赴き、五卿帯同の脱藩浪士は五卿の九州行きについて、条件付きながら賛成すると伝えた。 条件としては長州藩の面目を立てる事であり、現状では征長軍の兵威を恐れて五卿を差し出したと形となり面目が保たれない。 征長軍解兵後であれば五卿の九州行に賛成する事を伝えた。小倉に滞在していた西郷は、五卿の要望と中岡の条件について総督府と交渉するがまず受け入れられるだろうと語った。 西郷は、優柔不断で朝令暮改な幕閣や、練度も士気の低い諸藩の様子を征長軍内で目の当たりにし幕藩体制の限界を感じていた。また福岡藩士は、長州の保全と薩摩との和解こそ攘夷派の最重要問題と考え、しきりに西郷に説いた。 さらに本国・薩摩より長州の赦免に積極的に動くよう藩命が出されたようである。 この時期を前後して西郷は長州の減封について発言しなくなり、逆に長州の赦免に積極的に発言するようになり、長州内訌戦の阻止についても福岡藩士と協力するようになる。五卿と脱藩浪士の同意に力を得た月形は、残る諸隊を説得するため、萩藩政府と諸隊との和解の仲介を目指し筑紫衛を萩に送った。12月5日、長州藩より総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出された。同日、長州藩は、薩摩から先月送還された長州人捕虜に対する厚遇に謝するため、山田重作に金品を持たせて薩摩藩に派遣した。12月7日、萩に赴いた筑紫は、天樹院にて藩主父子に拝謁し、五卿の九州行のプロセスを説明した。 そして筑紫は、正義派重鎮として野山獄にいた前田孫右衛門、楢崎弥八郎を解放し、諸隊説得と薩摩藩応接の任に付けるよう申し出た。 おそらくこの案は、福岡藩士・西郷・長府の諸隊が打ち合わせて決めた、五卿九州行き承諾の為の条件であったと思われる。 毛利敬親はこれを政府に検討させたが俗論派は拒否し、筑紫の仲裁は不発に終わった。
2023年09月09日
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11「高杉の帰還決意」11また同日、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、月形洗蔵より長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取る。 高杉は即座に長州へ帰還し俗論派を打倒する事を決意する。 しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極めた。 月形らが帰国の世話をし、高杉は町人に変装して帰国することとなる。 高杉を匿っていた家主の望東尼は、変装の衣服の用意を徹夜で行い、以下の歌を添えて送り出した。まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ高杉はこの心遣いに感激し、後に野村望東尼が乙丑の獄において、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で姫島へ流刑になった際は人を遣わして奪還している。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼であった。11月22日、藩政府は諸隊鎮静御用掛として杉孫七郎を長府に派遣した。 杉は若干の金銭を諸隊に与えたが、五卿の筑前退去を要求すると諸隊は激怒し拒否した。11月23日、 小倉に滞在する西郷は、五卿とその周辺の動向を観察し、五卿を守護するのは脱藩浪士のみではなく諸隊も含まれる事や、小倉に参集した諸侯が疲弊している事などを把握した。 西郷は九州諸藩とも度々衆議を行い、五卿の長府退去について方策を話し合った。 その結果、福岡藩による説得を第一とし、説得が決裂した場合にのみ武力行使をして五卿を奪還することが決められた。11月25日、藩政府は椙杜駿河を長府へ派遣し、再度藩命として至急五卿を筑前に移送すべきことを伝えるも、諸隊は再び拒否した。支藩藩主の萩行同日、毛利元周の世子と清末藩主毛利元純が五卿に拝謁した。 五卿は支藩藩主らに正義派を庇うよう諭したという。 拝謁の後、毛利元周は諸隊に軽挙を慎むよう布告し、その後支藩藩主ら三人は萩へ向かった。 この時の支藩藩主らは正義派に同情的で、萩行きについても、藩主父子へ藩政が俗論派に傾きすぎている事を説き、正義派の赦免・復権を求める為であったとされる。高杉帰還同日、高杉晋作が筑前より馬関へ帰還する。 この時、諸隊幹部は赤禰武人や支藩藩主らが藩政府との調停に失敗した場合に備え、長州各地に派遣された俗論派に与する代官を暗殺する計画を建てていた。 これを聞いた高杉は、兵力が分散することや全員一致しての決起にならないこと、さらに暗殺という姑息な手段を取るべきでないとして反対した。 そして高杉は、事態を傍観すれば諸隊からの脱走が増加し自然解隊の恐れがあるため、諸隊が一致して即座に挙兵すべきであると諸隊に説いた。 事実この時、俗論派政府は諸隊の自然解散を目論み、諸隊の家族に圧力をかけていた。長府に駐屯する諸隊隊員たちは「萩及ビ其他ヨリ、親戚或ハ知人密カニ長府来リテ、或ハ利害ヲ説キ、或ハ父母兄弟妻子憂苦ノ情態ヲ述ベ、又ハ恐嚇シテ諸隊ニ在ル者ヲ誘イ帰レル者多ク、人々相互ニ疑懼ヲ懐ク」という状況に陥り、多数の隊士が脱落した。 また諸隊と行動を共にしている脱藩浪士たちの間にも、攘夷を捨て幕府恭順に傾く長州藩を見限り長府を去る者が出るようになっていた。諸隊幹部は高杉の意見を取り入れ暗殺計画を中止したが、支藩藩主や赤禰武人らが萩で政府と交渉をしている最中でもあり、即時挙兵には同意しなかった。同日、敬親父子は幕府へ恭順の意を示すため萩城を出て天樹院に蟄居した。11月28日、総督府は尾張藩士横井一太郎らを山口に派遣し、山口奉行内藤仁右衛門がこれに応対した。 横井らの山口行きは戦争回避の条件の認識共有と、長府・清末藩の状況確認のための巡回を目的としていた。 長府には萩藩政府に反抗する諸隊があり、萩藩政府は横井らを終始酒宴でもてなし山口に留めた。 山口に留まった横井らは条件の履行について、山口城破却は屋上の瓦を取り除くのみでよい等のアドバイスをして広島に帰った。
2023年09月09日
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戦争回避三条件11月19日、幕府征長軍は吉川経幹へ、以下の戦争回避の条件を正式に提示した。一、三老臣の首級は請取 参謀之輩斬首之儀も承届候 五卿之儀も申出之通無遅引可指出候 且右に付附属之脱藩人之始末も早々可申達事一、山口之儀は新規修築之事に付速破却可有之事一、先達て戸川鉾三郎より申渡候追討之御主意之趣に付 吉川監物を以申出候 謝罪之廉々は有之候得共 尚大膳父子恐入之次第自判之書面を以早々可申出候要約すれば、「五卿の引き渡しと附属の脱藩浪士の始末、山口城破却、藩主父子からの謝罪文書の提出」であった。 出張幕閣や広島に集結していた諸侯の中には、軽すぎる処分に不満を持つ者もいたが、尾張・薩摩という二つの大藩の支持の前に沈黙せざる得なかった。これらの条件について注意すべき点は、最終的な降伏条件ではなく、戦争回避の為の条件という事である。 この時点では総督府の誰もが、戦後落ち着いた時期に別途沙汰があり、長州藩は改易ないし減封されると考えていた。 西郷隆盛ですら、長州毛利は東北に数万石で減封すればよいと考えていた。 ただ最初から領土削減を戦争回避の条件として持ち出すと、短期間での妥結が不可能となるため、この時は総督府側はあえて減封に言及せず、吉川も一切触れなかった。福岡・薩摩藩への命令11月20日、総督府は、福岡熊本久留米薩摩佐賀の五藩に、長州より五卿を受け取り、分散して預かるよう命令を下す。 また五卿の長州からの受け取り及び各藩への分送は福岡藩が行うこと、さらに実行の際は五藩がよく相談して行い、必要な場合は兵力を以って強行する事を命じた。 脱藩浪士については福岡藩に『便宜の慮置可被有』という曖昧な命令を出し一任した。 これにより五卿九州行についての処置は、内戦回避に積極的な姿勢をみせる福岡藩と薩摩藩がイニシアチブを取ることとなった。同時に九州を所管する征長軍副総督越前藩主松平茂昭へ、五卿受領は征長軍の『處分事務外』なので、五藩が五卿請取の際に長州と武力衝突を起こしても、小倉に参集させた諸藩の軍勢を動かしてはならないと命じた。 征長軍として長州と戦端を開くのを嫌ったための処置と思われるが、松平茂昭は五卿受領の際に戦闘に至った場合、副総督の責任として傍観できないと反発した。 総督府は松平茂昭に折り返し、『時宜に応じ更に指揮する所あるべし』という曖昧な返答を出した。九州諸藩に戦争条件の条件が伝わると広島と同じく軽すぎると反発が出た。 総督府は九州諸藩と副総督松平茂昭を説得するため小倉へ西郷隆盛を派遣した。馬関会所同日、長府藩が萩へ使者を送り、五卿と諸隊の動向を報せ、長州藩政府へ事後策の指示を依頼した。 馬関は長府藩領であるが、長州藩は複数の会所を設置し長州藩の出張所とし、馬関総奉行を置いていた。 ようは馬関の会所は長州藩の飛び地の様な存在で、攘夷実行に備えて会所内には多数の武器・金品・糧秣が保管しされていた。 諸隊が馬関の会所の武器を奪うことを恐れた萩藩政府は、会所の武器を回収し萩に回送するよう命じた。 しかし馬関総奉行である根来上総は、征長軍が眼前にある事もあり、危急の事態の際の便を考慮して萩には送らず、武器は長府藩内へ移した。 この処置は、諸隊は長府・清末の両支藩を頼りにしており、長州藩の領分である馬関の会所は襲撃できても長府藩を攻撃することは出来ないだろうという考えからである。 また長府藩がいくら諸隊に同情的であっても、宗藩である長州本藩から預けられた武器を諸隊に渡すことは出来ないと考えたからであった。(ただし実際に諸隊が決起した際、長府藩家老が独断で諸隊へ、会所の物であるかは不明だが多くの金品を送っている)
2023年09月09日
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10「戦争回避条件のすり合わせ」11月18日、征長軍総督徳川慶勝は三家老の首実検を行った。 征長側は総督名代の成瀬正肥、江戸幕閣稲葉正邦、大目付の永井尚志、軍目付の戸川安愛。長州側は吉川経幹、志道安房が出席した。参謀の辻将曹と西郷は次室に控えていた。 『征長出陣記』ではこの時、永井は戦争回避の条件として、藩主父子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)、萩・山口城の明け渡しなどを吉川に通知した。 吉川は、自身が岩国領主であることを強調し、それらの条件を決める権限はないと断った上で、それらの条件が萩にもたらされれば、防長士民は一致して徹底抗戦するだろうが、今すぐに応える必要があるかと問うた。 永井は、条件は決定事項ではなく、今すぐ応える必要はないと言って吉川を下がらせた。 その後永井は西郷に、吉川の回答を告げ意見を求めた。 西郷は、面縛・開城を戦争回避の条件とすれば交渉は不可能であり武力で征討する必要があるが、長州を武力で征討するには半年か一年の年月が必要となると答えた。 さらに西郷は、世の中が動揺している時期でもあり、戦争が長引けば動員した諸侯から異論が出る事は避けられず、そうなれば幕府の威光に陰りが出ると言い、戦争回避の条件を緩和するよう具申した。 西郷の助言は大げさではなく、まさにこの時、 天狗党の乱が京都に近付いており、徳川慶喜自らが兵を率いて迎撃に向かう事態に陥っていた。 西郷は後の戊辰戦争時も、西徳川宗家の降伏条件として慶喜の引き渡しを求めた際、山岡鉄舟が引き渡しを拒否すると、この時と同様に敵君主の虜囚を降伏条件から撤回している。実はこれ以前にも征長軍と吉川の間で内々に応答があり、戦争回避の条件として山口城破却、謝罪文の提出、藩主父子と五卿の広島出頭を打診していた。 吉川は山口城破却と謝罪文の提出については了承したが、藩主父子の出頭は断固拒否し、五卿の引渡しについても長州藩の顔を立てる形にするよう、交渉の窓口となった福岡藩士と西郷隆盛へ懇願していた。 総督府と吉川の条件すり合わせの会議の途中、山口の五卿が何者かと一緒に長府に向かったとの情報がもたらされた。 広島に居た吉川と総督府は状況把握できず、五卿を連れ去ったのは長州藩士ではなく脱藩浪士であると推定した。対処に困る征長軍に対し、福岡藩士喜多岡勇平らは、福岡藩士が脱藩浪士を説得し、五卿を九州の五藩で預かる案を提示した。 攘夷志士の多い福岡藩士らは、激化する攘夷派脱藩浪士の説得に自信があった。 吉川も、五卿の引き渡しが征長軍ではなく、勤王色の強い九州諸藩へお移り戴くという形であれば長州の面目も立つとして同意した。 西郷も薩摩藩を代表して喜多岡の案を推し、尾張藩家老成瀬らも賛成し、最終的に征長軍に帯同した幕閣も了承したため長州の戦争回避の為の三条件が確定した。同日、征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
2023年09月09日
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長州藩の賓客❖ 三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。9月28日には平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。協議がまとまらないうちに、澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗することとなる。❖ 元治元年(1864年)正月、長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田にうつった。ここで当初は草刈藤太の邸に滞在し、間もなく井上聞多(後の井上馨)の実家に移った。ここでは実美のために離れが建設され、「何遠亭」と名付けられた。❖ 正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。これは実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を行おうとしたとし、長州藩の尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されていた。❖ 長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め、朝廷に働きかけていた。実美ら五卿もこの動きを支持し、7月の藩主父子の上京と時を同じくして、京を目指した。7月21日には讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するために鞆に向かったが出会えなかった。❖ 長州藩士の野村靖は内訌必至の長州藩に戻るよりは勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は藩主世子定広とは進退をともにすると約したと言って謝絶し、上関を目指した。❖ 第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられた。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めていたが、恭順派が台頭した藩内では五卿を引き渡すことも検討されていた。高杉晋作らは一時五卿を外国に留学させようとし、実美も一時応諾したが翌日になって断りを入れている。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。❖ 五卿は条件として藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉していたが、次第に藩内でも五卿の立場は悪化していった。❖ 尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた。❖ 太宰府での幽居❖ 慶応元年(1865年)正月15日、五卿は福岡藩に上陸し、宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊をへて、2月13日に太宰府に到着した。❖ 五卿の身柄は福岡藩が預かるが、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていた。❖ 五卿の幽閉先は太宰府天満宮の別当延寿王院であり、ここで学問や身体の鍛錬をおこたらず日々を過ごすこととなる。❖ また福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えている。桂は薩摩藩を信用するかを「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後も坂本龍馬・伊藤俊輔・井上聞多らと面会して薩長同盟成立の立役者の一人となった。❖ 慶応2年(1866年)には幕府から使者が訪れ、五卿を大坂に移すよう求めてきた。しかし実美らは死を賭してもでも動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対したため幕府は手が出せなかった。❖ この頃になると幕府の失墜は明らかであり、延寿王院は多くの訪問者で賑わいを見せるようになった。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索していたが、その候補となったのがかつての政敵である岩倉具視であった。❖ 実美は岩倉がかつての「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れることとなった。❖ 明治維新❖ 慶応3年10月27日、大政奉還が成立し、12月8日には五卿の赦免と復位が達成された。12月14日にこの知らせを受けた五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられた。❖ 反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった。翌慶応4年(1868年)には岩倉とともに新政府の事実上のトップである副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねた。この時期堺事件の対応にあたることとなり、「開国和親の布告」の作成にも携わるなど、かつての攘夷方針を完全に捨てることとなった。❖ 戊辰戦争においては、関東観察使として閏4月10日に江戸へ赴き、彰義隊の討伐を目指す大村益次郎を支持した。明治2年(1869年)5月24日右大臣・関八州鎮将となり、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となった。❖ 7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ねた。実美は岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し、これを実現させた。実美は東国と奥州を重視しており、「たとえ京摂を失(うしなう)とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べている。❖ 徳川宗家(静岡藩)や奥羽越列藩同盟参加藩への処罰では厳罰を主張し、戦後の石高を低いものに抑えた。❖ また箱館に籠もる榎本武揚を討伐する総督として前将軍徳川慶喜を起用する策が検討された際には、奇策を用いるべきではないと反対している。 武力衝突に至らないものの、萩藩政府の統制から完全に逸脱する行動であり、諸隊の行動はこの時点でクーデター同然であった。驚愕した浦は、すぐさま諸隊を追いかけ五卿に留まるよう進言したが聞き入れられなかった。浦は諸隊鎮静を果たし得ずとして萩藩政府へ辞表を提出し、家臣には諸隊に与しないよう命じた。諸隊は山口を立つにあたり、俗論派に捉えられた松島剛蔵ら正義派高官7名の釈放と諸隊存続、武備恭順などを俗論派の藩政府と交渉するため、奇兵隊総管赤禰武人を萩へ派遣した。 萩行きには時山直八らが随行しており、赤禰武人は正式な諸隊代表という立場であった。11月16日、征長軍総督徳川慶勝が広島に着陣する。11月17日、諸隊と五卿が長府へ到着する。 長府藩主毛利元周は五卿の到着を歓迎した。功山寺を五卿の滞在所として尚義隊・忠勇隊がこれを警護し、残余の諸隊は功山寺とその周辺の各寺院に分宿する事となった。 同日、三田尻に駐屯していた忠勇隊も長府に至り、諸隊に合流した。
2023年09月09日
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朝廷の掌握❖ この頃、実美は近衛忠房に対し、「(江戸のある武蔵国は)昔は野でしたから、また『武蔵野』となってもよいでしょう。」と放言し、近衛の怒りを買っている。❖ また薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどし、両者の不信を買った。❖ 実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた。当時、大久保利通は「長士の暴説に酔った」と評している。❖ 文久3年(1863年)正月23日、親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせていたため「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった。❖ 2月20日には学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許されるようになり、公家たちが尊攘派の影響をさらに強く受けるようになった。2月22日には尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなった。この交渉役に選ばれた実美は、慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった。❖ 鷹司関白は高齢で自信に欠けるところもあったために、実美ら尊攘派公家に抵抗することができず、実美は「関白殿下ですら時に屈従する」といわれる程の権勢を誇った。❖ この状況を憂いた青蓮院宮は山内容堂に実美の説得を依頼したが、効果はなかった。当時は尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。❖ 実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている。2月21日に実美は議奏に任ぜられ、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった。❖ 3月4日には将軍家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。3月11日には上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった。❖ 石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという。❖ ついに5月10日を持っての攘夷決行を約束させ、その当日には孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。❖ 島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された。しかしこの状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった。❖ 姉小路公知暗殺事件❖ 幕府は攘夷派公家の筆頭である実美と姉小路公知の懐柔を図ったが、実美については効果がなかった。一方で姉小路は大坂で勝海舟と議論したこともあり、開国に傾いたという噂が立つようになった。❖ 5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、実美は輿で青蓮院宮邸に向かうために別れた。その後まもなく、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺された。実美は青蓮院宮邸を目指して東に向かっていたが、家臣が不審な人物を目撃した。家士の戸田雅楽(後の尾崎三良)は実際の時間より遅い時間を告げて実美に訪問を諦めさせ、帰邸させた。自宅で姉小路遭難の報を聞いた実美は、すぐに姉小路邸に見舞いに向かっている。❖ 姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛であった。長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった。❖ しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは「偽勅」であり、早々に実美と徳大寺実則を「早々取除」くべきであると青蓮院宮に伝えている。❖ 権勢の頂点にあった実美だったが、薩摩藩の調査によれば、実美は過激派の言動に引きずられて今更意見を変えることもできないと嘆き、脚気がひどくなったこともあって邸に引きこもりがちとなり、「出家遁世したい」とこぼしていたという。❖ 失脚❖ 6月、久留米藩より尊攘派のイデオローグである真木保臣(和泉)が上洛して学習院御用掛となり、実美らに直接影響を与えるようになった。❖ 真木は「百敗一成」を唱え、攘夷のための準備が整わない状態であっても、天皇が先頭に立って攘夷親征を行うことによって、世の中の動きが変わると主張していた。真木を謀臣とした実美は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて、朝廷の方針となった。❖ しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮]と薩摩藩に対して救いを求めた。青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保の会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のためのクーデター計画を進めた。❖ 8月13日、攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出された。ところが8月18日朝、薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。❖ 実美の邸には久坂玄瑞や宮部鼎蔵、土方久元と御親兵が駆けつけた。実美は状況を把握するため関白鷹司邸に向かい、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉と出会ったが、肝心の鷹司関白は参内したまま戻っていなかった。❖ やがて彼らは参内を停止されたことを知り、長州藩も御所の警備から排除されたことが伝わった。真木や長州藩士と協議したのち、一旦妙法院に移り、ここで七卿は長州藩に向かうこととなった。❖ 8月19日未明、七卿は京都を出発し、長州藩に向かった。慣れない徒歩のために三条は足から出血し、戸田雅楽らは住民を脅しつけて駕籠を用意させた[36]。一方で徳島藩・広島藩・津和野藩に対し、義兵を挙げるため長州に有志を募る檄文を送っている。8月21日には湊川で楠木正成の墓に参拝した後、兵庫湊から船で長州を目指した。❖ 8月24日、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った。長州藩の上層部は当初七卿を迎え入れることは望んでおらず、藩境で抑留して帰京を勧告するつもりであったが、8月26日と8月27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港した。❖ このため長州藩は七卿を賓客として迎え入れることとなり、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を彼らの居館とした。この頃土佐藩士の中岡慎太郎は、土佐藩で土佐勤王党が排斥されたこともあり、七卿の傘下として動くこととなる。
2023年09月09日
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開戦回避11月14日、広島国泰寺へ急行した長州藩士志道安房が三家老の首級を征長軍総督名代成瀬隼人正と、江戸幕臣戸川安愛へ提出した。 さらに志道は四参謀も斬首した旨を伝えた。総督府はこれを受け、従軍する諸侯に「毛利大膳父子事伏罪之姿も相見候付 当月十八日攻懸日限之儀重て一左右相達候迄攻懸可被見合事」と布告し、18日に予定されていた開戦を延期した。同日、高田殿(井上聞多の実家であり山口での三條ら五卿の住居)の三條に奇兵隊より手紙が届く。 内容は、俗論派が諸隊討伐の命を下すようなので、山口では防戦しがたく長府へ移る為、五卿の諸隊との同行を願うというものであった。 五卿は衆議の後、これに同意した。また同日、福岡藩士筑紫衛が萩に入り、藩政府へ正義派と俗論派の和解を説き、捕縛されている正義派高官を開放し要職に付けるよう進言した。 これは福岡藩士らが、長州の内部抗争は藩の要職を俗論派が占めた為に生じたと考え、正義派と俗論派の均衡がとれれば内部抗争も自然解決すると考えたためとされる。 筑紫の案は採用にならなかったものの、これ以降萩藩政府と福岡藩の間に度々密使が行き来し、諸隊も度々福岡に赴くようになる。 9「諸隊と五卿の長府行」11月15日、諸隊は、山口を出て長府へ向かう。 諸隊は途中、高田殿へ赴き三條実美ら五卿に謁見し、五卿は諸隊の長府行に同行する事となる。❖ 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條實美、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。❖ 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。また内閣総理大臣を一時兼任している。❖ 生い立ち❖ 天保8年(1837年)、公卿三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。正室の子であったが、三男であったため、三条家庶流である花園公総の養子となる予定であった。幼い頃から聡明であると知られ、また福麿の教育係であった儒者富田織部の影響で、尊皇意識が高かった。❖ 安政元年(1854年)2月、次兄で三条家の嗣子であった三条公睦が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、4月に嗣子となった。❖ 8月には元服し、実美と名乗った。「美」の字を使った名乗りは本来「よし」や「はる」と読むが、実万はこれを忌み、儒者池内大学の勧めにより「実美」は「さねとみ」と読むこととなった。❖ またこの際に公恭を養子として迎えている。❖ 実万は攘夷達成のため、戊午の密勅発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなる。安政5年(1854年)10月23日、父・実万が隠居・蟄居し、富田織部など三条家の侍も多く逮捕された(安政の大獄)。このような状況下で実美は正式に三条家の家督を相続したが、翌安政6年(1855年)4月には実万は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去した。❖ 尊攘派公家の代表❖ 文久2年(1862年)、島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始めることとなる。5月10日には久光の意見を入れるとともに、関白九条尚忠をすみやかに退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出している。❖ 翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷の中枢に触れる事ができるようになった。実美を引き立てたのは実万の教えを受けた中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった。本来実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた。❖ 7月から8月にかけては、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。❖ さらに父実万の養女を妻としていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた。 ❖ この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった。❖ 8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した。❖ 6月には大原重徳が薩摩藩の運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動きは薩摩藩の影響力を削ぐねらいもあった。❖ 8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月には勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いている。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった。
2023年09月09日
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8「三家老四参謀の死」11月11日、俗論派は幕府への謝罪のため正義派三家老の福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させた。 切腹を一日早めたのは、諸隊の奪還を恐れた為と言われる。z 福原 元僴(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。通称は越後で、福原越後として知られる。長州藩支藩である周防徳山藩主毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。z 文化12年(1815年)8月28日生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、12歳の頃に長州藩寄組・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元(在任:1824年 – 1836年)から偏諱を受けたものと推測される。z 嘉永4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから、安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した。z 万延元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。z 文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。後述の長州軍上洛に至る政務において、どのような権限を持ち政務を行ったかは定かでは無いものの、在職期間から考えて、航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い。z 同年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元僴は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した。z その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。z 元僴は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相・益田親施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年11月12日に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。z 首級は他の家老らの首級と共に幕府側に送られた。z 辞世の句:くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにするz 死後z 慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義との汚名は破棄され、11月に完成した維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された。z 養嗣子は福原姓を憚って鈴尾五郎(後に毛利敬親の1字を受けて鈴尾親徳)[7]と名乗ったが、後に復姓して福原良通と名乗った。z また、佐世家に養子へ出された時に側室との間に実子彦七が生まれ、文久2年(1862年)に彦七と井上馨の妹孝子との間に孫栄太郎が誕生した。z 栄太郎は母方の伯父馨の庇護を受け慶應義塾へ入学、三井物産へ就職して明治34年(1901年)頃に小野田セメント社長になった。z 元僴については、昭和期に周防大島町出身の画家・中村青田によって作られたとされる木像が知られていたが、平成25年(2013年)に防府市の毛利博物館で肖像画が発見され、明治45年/大正元年(1912年)までに同博物館に預けられたとみられることから、前述の木像の元になった可能性が指摘されている。その他、地元彫刻家によって作られた銅像が、宇部護国神社に平成22年(2010年)に建てられた。z 人物z 寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている[6]。z 毛利博物館には元僴が描いたとされる郭公の絵が残されている。元治元年に藩兵を率いて上洛する直前に描かれたこの絵には、『太平記』で楠木正成が登場する一節と思われる文が書写されている。z 湊川の戦いで敗死した楠木正成は、事前に勝ち目が無いことを悟っていた(桜井の別れ)とされることから、長州軍の挙兵・上洛が成功するかどうか疑問視していたとの見方もある。 山口では鎮静奉行毛利親直が再び諸隊幹部を政事堂に招集し、藩主父子の新書を掲げ藩の方針に従うよう迫るも、諸隊幹部らはしきりに建白書の採用を請うのみであった。 この時、太田市野進と野村靖之助らが進み出て、幕府が兵器没収を命じたり、領土削減を命じた場合に藩政府はどう対応するか問いただした。 鎮撫使は止むをえないと答えた。 太田はさらに、藩主父子の身上に、言うに忍びざるの命(切腹や処刑の事と思われる)が下った場合はどう対応するか問うた。 鎮撫使の一人である諫早己次郎は、それもまた止むをえないと答えたという。 太田らは大いに怒り罵倒して政事堂を去った。同日、征長軍副総督越前藩主松平茂昭が小倉に着陣したが、従軍諸藩の軍勢はまったく到着しておらず、兵船の準備も整っていなかった。 茂昭は九州諸藩に書状を送り従軍を促す。11月12日、俗論派は、禁門の変を指導した正義派の四参謀を野山獄にて死刑に処した。同日、萩藩政府は山口に在していた藩主父子の夫人を萩に移す事を決める。 また諸隊の暴発に備えるため、萩居住の藩士に動員をかけ明倫館に兵を集めた。 さらに山口で諸隊説得にあたっていた鎮静奉行毛利親直にも使者を送り、諸隊の暴発に備えるため徳山・岩国に急行する事を命じ、毛利親直の兵として明倫館に集合した藩士の中から200人を徳山に派遣することを決定した。11月13日、三家老が切腹したという情報が山口にもたらされ、諸隊幹部は激怒した。 さらに諸隊は、萩藩政府が軍兵の動員をかけた事を察知する。 諸隊は衆議し、山口の地形は寡兵で守ることが出来ないと判断し、長府藩主毛利元周を頼り長府へ赴くことを決め、その旨を文書にして藩政府に提出した。 諸隊の戦略としては、五卿を帯同して長府に赴き、正義派に理解のある長府・清末両藩と力を合わせ、馬関の長州本藩会所を抑えて金米を取り、役人を追い払い、俗論派退治のための義兵を起こすというものであり、この計画は後に高杉挙兵の下地となる。
2023年09月09日
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薩土密約と薩土盟約| 四侯会議| 慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。| 薩土密約| 5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ(この密約は、戊辰戦争の際に乾が迅衝隊を率いて出征し達成されることとなる)。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。| 16日、西郷と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。| その後、乾退助が独断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士を薩摩藩邸に移すことを密約し、伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三らが江戸市内での幕府挑発活動の一翼をになうこととなった(これが江戸薩摩藩邸の焼討事件につながる)。| 薩土盟約| 土佐藩・乾退助らと薩土討幕の密約を締結した一ヶ月後の6月22日、今度は坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。| 薩摩が二重契約を結んだことは、薩摩にとってはどちらの局面になっても対応できることになるという解釈も成り立つが、その後の時局の推移を考えると、薩土討幕の密約が本筋であって、大政奉還のための薩土盟約はその時局を有利に進める為の策略として締結されたものと解釈可能である。| 大政奉還と王政復古| 9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。| 土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。| ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している)。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。| 密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。| 途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。| 長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。
2023年09月09日
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第二次長州征伐と薩長同盟| 慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませると人の勧めもあって、1月28日に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した。| この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。| これと並行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説していたが、3月中旬に上京した。| この頃幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。| 5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組に任命された。| この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して、紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。| 翌23日、家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。| この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。| この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。| 9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるんだ朝廷は同21日、幕府に長州再征の勅許を下した。| また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も一度は拒否したが、将軍辞職をほのめかして朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。| これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった。| 慶応2年(1866年)1月8日、西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。| 21日(22日という説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。| その後、3月4日に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。| 第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大島口・小倉口は高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。| 一方、幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て、21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。| 将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された。 しかし病気を理由に大目付役は返上した
2023年09月09日
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7「開戦回避への運動」同日、岩国にて吉川経幹は西郷隆盛と会談する。西郷隆盛・禁門の変前後| 元治元年(1864年)2月28日に鹿児島に帰った西郷は足が立たなかった。29日、這いずりながら斉彬の墓参をしたという。| 3月4日、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、14日に京都に到着し、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。| 京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。| そこで、藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした。| この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。| 文久3年(1863年)半ばに、南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本綿・茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した。このことから日本中の綿・茶値段は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである。世人は物価の高騰を怒ったのであるが、攘夷派は薩摩藩が攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を怒ったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が起きた。| こうして形成された薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した。| 4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し西郷は、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。| しかし、18日、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。この時、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らが採った中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木保臣ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩奸会賊」と呼ばれるようになった。| 第一次長州征伐前後| 元治元年(1864年)7月23日に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張を謀るべく、それに応じた。| 8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。| この間の9月中旬、西郷は大坂で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番となり、大島吉之助から西郷吉之助に改めた。| 10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。| そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分(切腹)を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。
2023年09月09日
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元治元年11月離脱計画11月1日、 徳地にて、山縣と会議をしていた松島剛蔵の元へ、俗論派に牛耳られている萩より出頭の急使が来た。 山縣は萩に行けば処刑されると考え、松島に留まるよう説得した。 松島は罪に問われるとしても遠島程度で済むはずだと答え山口に向かった。 萩に赴いた松島は捕らえられ、後に処刑された。同日夜、山縣の元に山口より諸隊参謀の福田侠平が来訪した。♣ 福田 侠平(ふくだ きょうへい、文政12年(1829年) - 明治元年11月14日(1868年12月27日))は、日本の武士、長州藩士。名は良輔、諱は公明、号は悠々。♣ 経歴♣ 文政12年(1829年)、周防国吉敷郡後河原(現山口県山口市)の長州藩士、十川権右衛門の次男として生まれた。のちに大津郡伊上村(現長門市)の福田貞八の養子となり、福田姓を名乗る。♣ 文久3年(1863年)、侠平35歳のとき、下関で奇兵隊が結成されると志願して入隊。元治元年(1864年)には書記役として英仏蘭米四カ国連合艦隊との戦闘(下関戦争)に従軍、同年参謀へと昇格し、翌慶応元年(1865年)には山縣有朋とともに軍監を兼務することとなる。♣ 高杉晋作の功山寺挙兵に際してはこれを暴挙として高杉の馬前を遮って止めようとしたが、最終的には高杉に同調し、奇兵隊士を集めてこれに参戦した。その後絵堂・大田の戦い、第二次長州征討(四境戦争)では小倉口の戦いを歴戦し、戊辰戦争においては北越戦線から陸奥へと転戦する。♣ 明治元年(1868年)11月14日、戊辰戦争に勝利して凱旋、下関に滞在していたところ突然卒倒して死亡した。♣ 人物[編集]♣ 大の酒豪であり、戦闘中も酒を常に携えていた。戦況が不利になった時にも酒を飲みながら「騒ぐな、あせるな」と平然と指揮を続けたという。♣ 明治元年(1868年)11月12日、北越・陸奥戦線から帰還し明治政府の成立を祝って大酒をしていたところ、2日後に倒れそのまま急逝したという。♣ 20歳代の若い指導者が多い奇兵隊の中で、総督である高杉よりも10歳上の福田は良き相談役であるとともに、若い志士たちの軽挙を諫める思慮深い一面もあった。このことから、高杉晋作が最も信頼した男とも言われる。♣ 福田も10歳年下の高杉に心酔していたらしく、その遺体は遺言により高杉の墓の隣に葬られた。 福田は、俗論派の勢力が日ごとに増大する事を伝え、これに対抗するため諸隊を合じ五卿を奉じて北部の須佐に撤退することを提案し、すでに五卿がこれを了承したことを伝えた。 山縣は驚愕し、交通の便のよくない須佐では再起を図ることができないと反対した。 代わりに山縣は、山口へ進出した後、五卿を帯同し正義派に同情的な長州支藩である長門長府藩の藩主、毛利元周を頼り馬関に赴くことを提案する。 福田は山縣に同意し、山口へ帰還して諸隊へこの案を伝えた。 山口の諸隊は衆議し、俗論派が勢いを増す現状を打破するため、まず全諸隊を山口に集結させることを決した。11月2日、奇兵隊・膺懲隊は徳地を出発し山口へ向かう。同日、高杉が馬関より九州へ渡航した。白石の弟、大場伝七らがこれに同行した。11月3日、西郷隆盛が広島を発して岩国に向かう。11月4日、奇兵隊が山口に到着する。 他にも太田市之進が椋野より御楯隊を率いて到着し、伊藤俊輔も馬関より力士隊を率いて到着する。 (俗論派に牛耳られている)萩藩政府の妨害の為か、萩付近に屯していた南園隊は山口に現れなかった。 諸隊幹部は山口に残る藩重役浦元襄の元を訪れ建白書を提出する。 建白書の内容は、幽閉中の三家老を許し、藩政を攘夷に戻し、藩主父子は山口帰還し、俗論派を抑えて正義派を登用し、武備恭順を目指そうというものであった。 この建白書は山口に集結したすべての諸隊の連名で提出された。 また諸隊は、これとは別に当時山口に留まっていた藩主父子の両夫人の館に建白書の写しを提出し、粗暴な行動に出ないことを約束した。 この日、諸隊隊員が藩政府が武器庫としていた毛利隆元の霊を祀る常栄寺に赴き、銃器等の引き渡しを強く求めた。 武器庫を管理していた役人は、解散を命令された諸隊に武器を貸与することは出来ないと拒否した。 山縣有朋は藩政府と全面抗争に なるのは得策ではないとして諸隊隊員を制止し、銃器は引き渡されなかった。この間、山口を掌握していた俗論派は藩主敬親の名前を利用して懐柔を試みたが、諸隊は応じなかった。
2023年09月09日
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6「解散命令」10月21日、藩政府は諸隊幹部を山口の政事堂に集合させ諸隊の解散を命令した。 また出席しなかった奇兵隊、八幡平、眞武隊には解散令を封送した。 山口に集められた諸隊幹部はその場で解散を拒否した。 諸隊幹部は合議を行い、以後、藩政府から距離を置き諸隊全体で同一行動を取ることで一致した。 そして諸隊は山口に在していた五卿を帯同し、正義派家老である益田の知行地・須佐へ移り各地へ檄文を出して藩政の転換を図ることを計画する。ただこの時出された解散令は比較的穏当で、「身元無者(おそらく脱藩浪士)」についても一箇所に差置、また危急の事態がいつ来るか分からず、全員いつでも復隊できるよう支給はこれまで通り行うとあった。 俗論派の萩藩政府は正義派高官の追い落としには熱心であったが、身分の低い諸隊には当初注意を払わなかった。10月22日、大坂城にて征長軍総督・慶勝は軍議を開き、11月11日までに動員を終え各攻め口に着陣し、1週間後の18日に開戦することを決定した。 一方、慶勝は岩国の吉川に使者を送り、降伏謝罪すれば開戦を回避できる旨を伝えるよう手配した。 実は慶勝は長州征討に否定的だった。 征長軍総督就任についても何度も拒否したが重ねて依頼されたため、全権を委任する事を条件に就任したという経緯があり、慶勝は戦争回避に意欲があった。 吉川は慶勝の使者にたいして、三家老の首を差し出して恭順の意を示したい旨の書状を復命する使者に持たせた。10月23日、高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じ萩を脱出した。 その際楢崎弥八郎を誘うも楢崎は萩脱出に同意しなかった。残留した楢崎は捉えられ、後に処刑された。10月24日、大阪にて征長軍総督徳川慶勝に、薩摩藩を代表して拝謁した西郷は、開戦回避の為に長州藩が受諾すべき条件とそれを履行させるプロセスを提案した。 慶勝は西郷の提案を非常に喜び、その場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とした。これより後、西郷は征長軍の参謀格となった。10月25日、萩を脱出した高杉は山口へ赴き井上聞多の病床を見舞った。同日、征長軍総督・徳川慶勝が大阪を出発し広島へ向かう。 また慶勝が大阪を出発する際、江戸幕府は禁門の変の際に捕らた長州人7人を斬首して征長軍の門出を祝した。10月27日、高杉は山口から三田尻を経て徳地へ赴き山縣と面会し脱藩の意図を伝える。 高杉は九州を巡って遊説し、各地で同志を募り攘夷を継続することを考えていた。山縣は隊に留まるよう説得したが高杉の意思は固く翻意させられなかった。山縣は、 九州へ赴く高杉に伊藤伝之助らを同行させることにした。 二人は夜遅くまで将来の方策を語りあったが、逃げる高杉にも残る山縣にも状況は絶望的であった。 高杉は議論の最後に以、下の俳句を書き留めている。♠ 伊藤 伝之輔(いとう でんのすけ、生没年不詳)は、日本の武士、尊皇攘夷派の志士である。諱は忠信。名は傳之輔とも。♠ 経歴♠ 長門国萩城下松本(山口県萩市)に中間の子として生まれる。安政5年(1858年)6月頃、松下村塾にて吉田松陰に師事した。♠ 同年7月、杉山松助・伊藤利輔(博文)・山県小輔(有朋)らと上国の状況偵察の藩命を帯びて上京。在京中の9月、尊王攘夷派の公家大原重徳の西下策のために上京した野村和作(靖)に協力するも発覚、12月幽囚を命ぜられ、次いで翌年1月には岩倉獄に投獄される。♠ 万延元年(1860年)閏3月に出獄、再び上京して国事に奔走。文久2年(1862年)4月の寺田屋事件(寺田屋騒動)の際には、薩摩藩の尊王派志士有馬新七らを助けようとするも失敗する。元治元年(1864年)7月の「奇兵隊血盟書」には、赤禰武人・山県狂輔(有朋)・時山直八らとともに名を連ね、花押・血判が残る。奇兵隊では輜重方・海陸運送方など兵站に関わり、戊辰戦争では北越官軍で参謀を務め、米沢攻略に加わるが、その後の事歴不明。♠ 備考♠ 伝之輔が岩倉獄に投獄されたことを知った師 松陰は、野山獄から安政6年2月2日付で書状を書き送っている。「聞く、足下獄に赴くと、驚くべし、賀すべし。其の驚くは、啻(ただ)に俗情を以てするに非ず。其の賀するは、故(ことさ)らに異説を爲すに非ず。足下京に在りて力を王事に致す。足下一跌して百事瓦解せり、吾れ安(いずく)んぞ驚かざるを得んや。然れども國に道なくして富み且つ貴きは、恥なり。今天下甚だしくは道ありと爲さず、則ち岸獄縲絏(るいせつ)、吾れ安んぞ賀せざるを得んや。但だ足下鋭を蓄へ志を養ひ、一蹉跌を以て自ら挫折することなかれ、賀々驚々、亦何ぞ道(い)ふに足らんや。近來政府頗る勤王の儀を倡(とな)へ、志士仁人交々之れに下に和す。時機方(まさ)に迫り、人心中(うち)に變ず。吾れ先に獄に繋がるるや、同志八人、一日連坐せり。已にして足下及び和作の事あり。吾れここに於て嘗て衆に大言して曰く、「長門の勤王は唯だ一義卿のみ、義卿の罪ここを以て最も重し」と。而して衆亦以て難ずるなし。今足下亦獄に赴く、則ち吾れ安んぞ一義卿と曰ふを得んや。且つ吾が二人獄に赴く、同志益々奮ひ、鋭意事を謀り、上なる者は勳を策し功を勒し、下なる者は首を刎ねられ腰を斬らるる、累々として相踵(あいつ)がんこと、皆未だ知るべからず。則ち今後、人復た吾が二人を説かざるなり。然りと雖も吾が二人縲絏岸獄に初志を變ずることなく、隱然として同志の膽を強め、政府をして賴りて以て策を決することを得しむ。後の者ありと雖も安んぞ吾が二人を外にするを得んや。春寒漸く薄らぎ、和氣日に旺んなり、餐を加へて書を讀み、以て岸獄を樂めよ。餘は未だ既(つく)さず。」♠ 元治元年10月、第一次長州征討が迫る中、椋梨藤太の率いる保守派(俗論派)が藩政庁で台頭したことを受けて高杉晋作が福岡へ逃れる際、徳地に駐屯する山県狂介・野村靖を訪ねるが、その帰路を伝之輔が警護している。 ともし火の 影ほそく見る 今宵かな10月29日、富海より船で馬関に到着した高杉らは白石正一郎邸に向かった。高杉は白石邸にて九州諸藩の浪士たちと会談し、九州で同志を得る計画を練る。
2023年09月08日
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ただし公爵山縣有朋伝は山縣没後に作られた伝記で、功山寺挙兵の段には他資料と矛盾する点が多くある。10月7日、山口にて福岡藩・薩摩藩の斡旋を知らされた吉川は、部下に書簡を持たせ広島の高崎の下へ派遣し、征長軍との交渉を依頼する。10月9日、正義派の毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太らが謹慎となる。10月11日、奇兵隊と膺懲隊は、藩政府の命令により、幕軍侵入に備えて徳地の要害に退却した。公爵山縣有朋伝によると同日、山縣らは俗論派の台頭を警戒し、藩政府に無断で奇兵隊・膺懲隊を徳地へ移動させることを検討したとあるのみで、史料に矛盾がある。10月13日、正義派の山縣半蔵、小田村素太郎(後の楫取素彦)、寺内暢蔵が罷免される。10月17日、高杉晋作が政務役を罷免される。10月18日、宮市を通過する吉川経幹に面会した山縣は、拝謁して武備恭順の建議書を提出した。さらに山縣は、但馬の脱藩浪士からもたらされた京都の情勢を吉川に報告した。10月20日、徳地に移動した後、奇兵隊総監である赤禰武人は諸隊に七ヶ条の要目を出し、周辺住民の慰撫と諸隊の綱紀粛正に努めた。 さらに諸隊幹部は諸隊の隊員が一人で外出する事を禁じ、隊員に送付される手紙はすべて幹部が検閲した。 徳地への移転についても「剛健質実の気象を振作し、誓て文弱氣死の風習をせん」と述べている。公 爵山縣有朋伝によると、奇兵隊と膺懲隊が三田尻を引き払い徳地に移ったのはこの日であり、俗論派の影響を避けるために藩の命令を得ず兵を動かした独断行動であったとされる。 さらにこの時、俗論派は山口を未だ掌握しきれておらず、山縣は山口に残留していた所帯方頭人(米銀出納事務を取扱う役職)に面会し、奇兵隊一年分の給与の前払いを依頼し、その給付を受ける事に成功したとある。 上述の通り矛盾しており、どちらが正しいかは不明である。同日、幕府は毛利藩主父子の字偏諱と官位を通達する。
2023年09月08日
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しかしながら、山田との関係は芳しくなく、木戸ら文官が山県の頭越しに兵部省を動かす状態が続くなか、改革途中で暗殺された大村益次郎の実質的な後継者として西郷の協力を得ることで軍制改革を断行、11月に山田も参加した岩倉使節団の外遊により留守政府の下で徴兵制を取り入れ、明治6年(1873年)1月の6鎮台設置と同時に開始された(徴兵令)。前年の明治5年(1872年)2月に肥大化した兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を置き陸軍大輔になり、3月に御親兵が改編された近衛都督も兼任、陸軍中将にも任じられ軍の中心人物になった。> しかし明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げつかせる。いわゆる山城屋事件である。> 山城屋の自殺と証拠隠滅工作により山県に司法の追及は及ばなかったが、近衛局から山県に反抗的な薩摩系将校たちが辞職を迫り、西郷の慰留はあったが責任を取る形で7月に近衛都督を辞任、明治6年4月に陸軍大輔も辞任し、陸軍中将の階級だけが残った。> しかし山県に代わりうる人材がなく、6月に陸軍卿で復職し参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。> 9月に使節団が帰国、征韓論と10月の明治六年政変には各鎮台巡視中のため不在だったが、西郷と木戸の間で板挟みになり煮え切らない態度を取ったため木戸の怒りを買い、政変後は卿の1人にもかかわらず木戸の反対で参議になれなかった(ほかの卿は参議兼任)。> 病気がちの木戸に代わり台頭した伊藤と大久保の支持で辛うじて現状維持できたが、文官の軍統制、陸軍の内部対立(山田は木戸の介入で軍から遠ざけられるが、彼の支持層が山県との対立を継続)など従来の問題を解決できないまま、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、代わりに近衛都督に復帰し参謀局長も兼ね、6月に陸軍卿も再任された。> 8月に大久保と伊藤の引き立てでようやく参議も兼任したが、立場不安定なため佐賀の乱、台湾出兵に関与できなかった。> ただ、参議兼任後は大久保らと江華島事件の対応にあたり、木戸との関係を修復して軍の立場も回復している。> 西南戦争> 明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため(名目上の指揮官は征討総督の熾仁親王、ほかの参軍は黒田と川村純義が任命された)、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。> また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。> 薩軍挙兵前の1月に、鹿児島が不穏なため熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を命じ、ほかの鎮台から兵隊を動員した時点で薩軍が挙兵、海路博多港に上陸し薩軍に包囲されている熊本城の北から救援のため南下した。熊本城を攻めあぐねた薩軍も一部を残して北上、両軍は田原坂など周辺で激突した。> 3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破できず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。> こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案を承諾、黒田を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。> それにより植木の薩軍は撤退、山県の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山県が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山県の下に属し従軍を続けた。> 撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山県は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。> 関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、ほかの戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後、山県は軍の指揮を執り、南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、ほかの戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。> やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている。> 態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。> また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った。内容は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮ったうえで、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった。> 政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した山県は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだとのちに回想している。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった。
2023年09月08日
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赤禰や山県は当初高杉が無謀な反乱に踏み切ることに危うさを感じ支持しなかったが、翌元治2年(慶応元年、1865年)1月に赤禰が出奔したあとは山県が事実上奇兵隊を掌握、高杉支持に転向し俗論派を野戦で撃破、長州正義派の勝利に導いた。> 慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、軍監のまま名目上は奇兵隊4代目総管である山内梅三郎の下についていたが、高杉とともに実権を握り北九州の小倉藩を占領する活躍を見せ、7月27日の赤坂・鳥越の戦いなど小倉藩兵の抵抗に苦しめられたが、戦局は長州藩有利のまま12月に和睦を迎えた。> 以後は木戸孝允の配下になり、慶応3年(1867年)4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流を結んだ。> 国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、天下の行く末や倒幕のための挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩した。> 充実した京都とは対照的に、長州藩に戻ってからは面白くない出来事が続き、山県の体調にも悪影響を与えた。> 合流を約束した薩摩勢がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられている。> 11月にようやく薩摩勢が長州勢と合流したあと京都へ向かったが、山県は人選から外れて同門の山田顕義が上洛勢に加わり、翌慶応4年(明治元年・1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで長州勢の指揮を執る、山県は奇兵隊を率いたまま長州に残るなど憤懣やるかたない日々を過ごした。> なお、上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている。> 戊辰戦争> 鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従えて3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。> また北陸地方・越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった(ただし、福田は木戸と西国へ行き離脱)。> 戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では黒田とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏4月19日に高田で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日の鯨波戦争で桑名藩兵に勝利し、翌28日に柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた。> しかし、越後口では長岡藩家老河井継之助と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられ、5月13日の朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山県は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる。> 膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山県はなすすべもなく西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども城外へ逃げ出す羽目になった。> それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際に河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み日本海を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、新潟港を落とし新発田藩を寝返らせたこともあり、4日後の29日に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した(河井は傷が原因で死去)。それから東へ進軍して9月18日から会津城籠城戦で包囲軍に加わり、4日後の22日に会津藩降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携がうまくいかず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。> 明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。> 明治維新後> 明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日に横浜港に到着、帰国直後の8月28日に兵部少輔に任命された。> しかし兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視ら文官への業務報告が行われる仕組みであった。内部の軍隊も長州・薩摩に分かれ、それぞれ木戸と大久保利通が実権を握っていた。> 兵部省がシビリアン・コントロールで弱体化する中で人事異動が行われ、山県の友人の兵部大輔・前原一誠は山県の就任前後に辞任、山田は山県の下である兵部大丞だがそりが合わないため、山県はさまざまな不安を抱えながら、兵部省の実質的なトップとして木戸の意向に沿いながら軍制改革を進めていった。> 各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩に入り、西郷を説得して翌明治4年(1871年)2月に一行は上京した。> 山県は一行に加わり西郷説得にも一役買い、薩摩・長州・土佐藩の兵力を集結させた御親兵編成と鎮台設置につながった。また、友人で入江九一の弟・野村靖、部下の鳥尾小弥太らと相談し兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議、有力者間の根回しを行った。> 前後して同年6月に熾仁親王が兵部卿を解任され山県は留任、7月14日の廃藩置県実施と同時に兵部大輔に昇進した。
2023年09月08日
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5「駆逐される正義派」10月3日、敬親は山口を発し萩へ向かう。 政務員や俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同する。 山縣ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子である毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して萩行を止めるよう求めたが受け入れられなかった。10月4日、元徳も山口を発し萩へ向かい、山口に残る藩重役は浦元襄のみとなる。 俗論派は萩に移った藩主を手中にし、萩・山口を掌握してゆく。10月5日、徳川慶勝は征長軍総督の任を受諾し、大阪にて征長軍の軍議を開くことを諸藩に周知した。公爵山縣有朋伝によると同日、俗論派が藩を壟断する状況に危機感を覚えた奇兵隊軍監・山縣狂介は、三田尻に駐屯している奇兵隊を他所へ移動させることを考え、石州国境に至るまでの方々の地形を視察したという。> 山縣有朋(やまがた ありとも、常用字体: 山県有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・6代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。> 長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のちに小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、のちに奇兵隊の軍監となる。> 明治政府では軍政家として手腕をふるった。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。> 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。> 自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。> 幕末> 天保9年閏4月22日(1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。> また父から勉強を教えられ、藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ。しかし幼少期から青年期に両親を相次いで失い、親代わりに育ててくれた祖母も元治2年(1865年)3月に謎の入水自殺を遂げ、家族に先立たれ寂しい青春を過ごしたことが山県の性格に大きな影響を与え、真面目だが猜疑心が強く、簡単に人を信用しない人物に成長していった。> このころ、友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。> 安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人として、松下村塾から選ばれた杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)らとともに上京し、尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化され、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。> 松陰門下となったことは出自の低い山県や伊藤らが世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数か月後、松陰は獄に下り刑死することになったため、山県の在塾期間はきわめて短かったと考えられる。しかし彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。> 文久3年(1863年)2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなる。高杉の6月の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山県などが世に出るきっかけを与えた。> 松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山県のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている。> 12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には、3代目総管・赤禰武人とともに副官に当たる奇兵隊軍監に就任し、しばしば病気で身を持ち崩しながらも兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ。> 長州防衛戦> 元治元年(1864年)、長州藩の運命が大きく動く事態が4つも起こった。1つ目と2つ目は7月の禁門の変とそれに先立つ6月の池田屋事件が京都で発生、杉山が池田屋で、久坂と入江九一ら同門の友人たちが禁門の変で次々と犠牲になった。3つ目は8月の下関戦争で、山県は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。4つ目は江戸幕府が禁門の変の報復として発令した第一次長州征討で、このときは家老らの切腹で戦争は回避されたが、高杉は幕府に恭順した椋梨藤太ら俗論派に反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。
2023年09月08日
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福岡藩・薩摩藩の和平斡旋同日、福岡藩士の喜多岡勇平、薩摩藩士の高崎五六(兵部)が、吉川経幹と開戦回避の話し合いのため岩国新湊に到着する。 吉川は山口出張中であったため、高崎は吉川の書状の入手を依頼した。 また高崎は、薩摩藩と長州藩は禁門の変で戦ったが、薩摩に遺恨はなく薩摩藩が捕虜とした長州人十人について引渡しの用意があることを伝えた。2藩の関与は、長州に亡命していた久留米藩の脱藩浪士淵上郁太郎が、知己の福岡藩士に長州藩の危急を救うための助力を求めたのが始めとされる。 長州藩に深入りすることを反対する福岡藩上層部を、加藤司書らが内戦回避は幕朝の為でもあると説得し和平斡旋に乗り出した。ただ福岡藩単独では事態打開は困難と考えたのか、喜多岡を京都の薩摩藩邸に派遣し助力を依頼し、当時京都に居た西郷がこの提案を受け入れ、高崎五六を同行させ岩国に向かわせたのがこの訪問である。高崎 五六(たかさき ごろく / いつむ、1836年4月4日(天保7年2月19日) - 1896年(明治29年)5月5日)は、江戸時代末期の薩摩藩士、明治時代の官僚、錦鶏間祗候。爵位は男爵。仮名を猪太郎または兵部と名乗り、のち諱を友愛。高崎正風は従兄弟にあたる。♤ 1836年(天保7年)、薩摩藩士の高崎善兵衛友道の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在川上村(現在の鹿児島県鹿児島市川上町)に生まれる。安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに入京。朝廷に奏聞しようとしたが失敗する。♤ 1862年(文久2年)、藩命により上京。藩士有馬新七らが島津久光の命に背いて伏見寺田屋に集会するのを察知し、久光に急告して騒擾を事前に食い止めた(寺田屋事件)。元治元年、長州征伐が起こり、西郷隆盛と協議のうえ朝稲兵助と変名して長州に入り、藩要人と議論を交わし、さらには長州藩謝罪恭順のために周旋した。♤ 維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官、東京府知事等を任じられた。1887年(明治20年)5月24日、勲功により男爵位を授けられ、1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる。1896年(明治29年)、病没した。享年61。亡くなった日を5月7日とする文献もある。
2023年09月08日
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慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同慶応2年8月の幕長戦争(第二次長州征伐)にも勝利した。慶応3年(1867年)、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。u そして同慶応3年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して上洛、王政復古の大号令を成功させる。敬親は慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。u 晩年と最期u 明治2年(1869年)1月、敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。u 6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した[1]。明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去[1]。享年53u 俗論派の抵抗により会議は紛糾したが、最終的に敬親が武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わった。 しかし会議からの帰途、井上は暴徒に襲われ重傷を負う。u 9月26日、禁門の変を阻止出来なかった事に責任を感じていた周布政之助(麻田公輔)が自殺する。u 周布 政之助(すふ まさのすけ、文政6年3月23日(1823年5月3日) - 元治元年9月26日(1864年10月26日))は、幕末の長州藩士。政之助は通称であり、諱は兼翼(かねすけ)という。また、変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。u 周布氏は益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。u 政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門兼正と村田伝左衛門信嘉の娘竹の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。u 来原良蔵や松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。政之助は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権を意味していた。u 財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎や高杉晋作ら吉田松陰の門下を中枢に登用したが相州防備の藩財政の悪化により失脚。しかし政権を握った坪井派が京都と長州の交易を推進したことが藩内の会所において疑心暗鬼をうみサボタージュが発生して失敗したことで再び藩政に復帰。u 文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた。u 守旧派に抗し藩政改革の起爆剤とする意図があったとされるが、ここにおいて村田派と坪井派の禅譲は終わった。u 元治元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。u 同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。u 備考u 酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。u 舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。また、高杉晋作が脱藩の罪で投獄された時にも、酒に酔って馬で野山獄に抜刀して乱入したとも言われる。u 明治期、政之助の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。 聞多襲撃と周布自殺は正義派に大打撃を与え、藩の要職を占めていた正義派は次々解任され、代わって登用された俗論派の幹部らが藩政府を掌握していく。また幕府が長州征討を決定し西国諸藩に動員をかけたとの情報がもたらされる。 俗論派は禁門の変を積極的に指導した正義派三家老、福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させ幕府に降伏する事を主張した。これに対し長州正義派の一つである諸隊の幹部は三家老切腹反対の建議書を提出した。9月30日、攘夷を理由に山口城へ居を移していた藩主親子の萩への帰還が決定する。 諸隊は、俗論派の牙城である萩に帰還せず山口へ残留するよう藩主父子に建議書を提出したが無視された。
2023年09月08日
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4「長州各派の経過」元治元年9月俗論派の攻勢元治元年9月25日、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ正義派の代表格である井上聞多は武備恭順論・藩政改革を説いた。l 毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。l 敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。l 家督相続以前l 敬親は文政2年(1819年)2月10日、毛利親著の長子で世襲家老家一門八家の一つである福原家当主・福原房純の養嗣子である福原房昌(のちの毛利斉元)の長子として生まれた。l 母は側室の原田氏[1]。同文政2年8月28日に房昌は毛利本家に戻り、9月10日に毛利斉煕の養子となって毛利教元に改名、11月11日に斉元と改名して、後に第11代藩主となる。幼名は猶之進といった。のちに教元を名乗っていた父から偏諱を与えられて教明(のりあき)[1]と名乗る。l 天保7年(1836年)6月12日、教明は萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸にいたとき、俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃したために、御客屋に避難した。l 家督相続l 洪水があって3か月とたたない天保7年(1836年)9月8日に父が死去し、その跡を継いで第12代藩主となった毛利斉広も幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずで死去した。l 教明に第8代藩主毛利治親の姻族田安徳川家から養子縁組の話があったり、斉広に教明より年長の異母弟の信順がいたりしたものの、教明が斉広の養子となって天保8年(1837年)に家督を継いだ。l 同年、第12代将軍・徳川家慶の偏諱を与えられて教明から慶親に改名した(「親」の字は祖父・親著に由来する)。l 家督相続に当たり、斉広の長女都美姫を正室とすることが取り決められていたが、都美姫は当時数え5歳とまだ幼少だったため、正式な婚儀は10年後の弘化4年(1847年)に執り行われた。l 藩政改革l 天保9年(1838年)に萩に入り、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行う。村田清風を登用して藩政改革を断行、村田の死後は村田とともに藩政改革を担った坪井九右衛門を登用した。l 天保12年(1841年)、江戸に文武修業の場である藩校有備館を建設、領内の実態調査を実施し天保14年(1843年)には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも努めた。敬親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年(1849年)に国許の藩校である明倫館の改革をも断行した。l 第一次長州征伐l 嘉永6年(1853年)、アメリカの提督マシュー・ペリーの黒船が来航すると相模国周辺の警備に当たった。安政5年(1858年)8月、密勅を受け「尊王」に尽力することとなった。l 同安政5年、坪井九右衛門を引退させ、周布政之助らを登用する。また、藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後、敬親は周布を重用し藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始した。u 文久元年(1861年)、長井雅楽を登用し航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索するが政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって、長井の政略は失敗した。u この後、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転させ(山口移鎮)、5月に外国船の打ち払いを開始したがアメリカ・フランスの軍艦からの報復攻撃を受けた。u 同文久3年の「八月十八日の政変」により長州藩は京を追われた。翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件で多くの長州藩士を含む志士らが会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛されるにおよび、長州藩は京に出兵し7月には禁門の変を引き起こした。u この長州藩の暴挙に対して、朝廷は幕府に長州征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪した。さらに同8月には、英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来し、敗北する(下関戦争)。u 第一次長州征伐が開始されると、国司親相・益田親施・福原元僴ら3家老を切腹させ恭順し、10月に敬親は萩に謹慎した。u 尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕u 慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する(功山寺挙兵)。これにより正義派(倒幕派)政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。
2023年09月08日
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対する俗論派は、長井雅楽・椋梨藤太・中川宇右衛門などが代表格であった。なお、正義派と俗論派との間の中間派という人たちも、波多野金吾(広沢真臣)など、少数ながら存在していた。抗争の過程1838年(天保9年) - 村田清風による藩政改革の本格開始。1843年(天保14年) - 三七ヵ年賦皆済仕法により債務を整理。1844年(弘化元年) - 清風の改革頓挫。坪井九右衛門に実権を譲る。当時は改革を支持。1847年(弘化4年) - 九右衛門、失脚。1851年(嘉永3年) - 椋梨藤太、右筆(政務役)就任。1853年(嘉永6年)黒船来航藤太、右筆を罷免。周布政之助政務役筆頭となる。1854年(嘉永7年) - 吉田松陰、渡航未遂。野山獄送致。1855年(安政2年)2月、政之助政務役辞任、代わって藤太、右筆に再就任する。5月、清風死去。松陰、杉家に幽囚(後に同地で松下村塾開塾)。1858年(安政5年)政之助政務役再就任。長井雅楽、藩の直目付に就任。当初は、政之助はこれを支持。幕府、日米修好通商条約を締結。松陰は激しくこれを非難、老中間部詮勝暗殺を計画。藩は警戒し松陰を投獄。1859年(安政6年) - 安政の大獄。藩は、幕府の求めに応じ、松陰を江戸に送致、松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首。1861年(文久元年) - 雅楽、公武一和に基づく「航海遠略策」を建白、これが藩論となり、幕府にも歓迎される。1862年(文久2年)高杉晋作ら御楯組を結成坂下門外の変により老中安藤信正ら失脚。これを受け雅楽ら保守派後退。1863年(文久3年)雅楽、切腹。藤太、中川宇右衛門ら失脚(隠居)。下関戦争勃発奇兵隊結成八月十八日の政変九右衛門、野山獄にて処刑。1864年(元治元年)7月、禁門の変。8月、四国艦隊による下関砲撃。9月、藩政を保守派が握る。4ヶ国と講和。周布政之助切腹(自殺)。10~11月、第一次長州征討11月、長州藩において尊皇攘夷派の処分(家老国司親相・益田親施・福原元僴 の切腹等)12月、晋作らによる功山寺挙兵。1865年(元治2年・慶応元年)1月、大田・絵堂の戦い。正義派が勝利し、保守派を一掃。5月、藤太、断首。宇右衛門、切腹。 椋梨 藤太(むくなし とうた)は、日本の武士・長州藩士。長門国の萩に生まれた。諱は景治。来歴小早川氏庶流で、小早川隆景死後に毛利氏家臣となった椋梨氏の分家出身。家格は遠近附士で禄高は49石であった。嘉永3年(1851年)に密用方から政務座役に抜擢され、長州藩の重役になる。長州藩校、明倫館に深く関わっている。幕末の長州藩において、中川宇右衛門とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、正義派)の村田清風・周布政之助・桂小五郎らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年(1855年)に再び実権を掌握した。安政5年(1858年)、熊毛郡代官に転じ、万延元年(1860年)までつとめた。元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変で暴走した正義派の壊滅後、同月から始まる第一征長後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、益田親施・福原元僴・国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で決起(功山寺挙兵)、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の絵堂の戦いによって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に岩国藩主・吉川経健を頼って逃亡した。椋梨藤太は逃亡したものの、海が荒れたため行き先を変更さざるを得なくなり、最終的には津和野藩領内で捕らえられた。そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑された。討幕派側の取調べの際に、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願しており、「斬首」の形で死んだのは椋梨のみであった。ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。
2023年09月08日
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久坂玄瑞「思慮周密、その才は当世無比」「晋作は遂に吾が及ぶ所に非ざるなり」入江九一 「久坂は(有志組の)隊長としては陣中に起臥し、兵士と起居飲食を共にしており、謹厳にして質素である。高杉はこれに反して多くは兵営外に泊まり、時には相合傘で、馴染の美人を引張って、陣中に入ったこともあった。しかしながら、この二人に対する兵士の人望は、全然同一であった」[7]伊藤博文 「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」「中々勇悍の人であった。創業的才藻には余程富んで居った」山縣有朋 「当時にありて既に群を抜き出でたる高杉なれば、今日にあっても、(伊藤・井上)彼らの比ではあるまいと思う」中岡慎太郎 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」勝海舟 「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ」田中光顕「兵を用いて鬼神の如き高杉、事に臨んで神出鬼没の英傑高杉、不世出の快男児高杉」「奇策縦横、神出鬼没、その一挙手一投足がすべて天下の魁となって闔藩の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動運動家の指導者の役を務めている」「自分は維新三傑をことごとく知っている。また坂本、武市、中岡その外、多くの名士先輩に接している。しかしながら、聳然として一頭地を抜いているものは高杉である」三浦梧楼「高杉晋作と云う人は全く偉人であったよ。我輩が是れまで偉い人だと思ったのは、この高杉一人だ。実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。(中略)その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない。大西郷は偉いというが、高杉は段が違う。大西郷には所作がない。ただボーッとしているだけだが、高杉は機略縦横、ゆくとして可ならざるはなしという人である」「今日までいろんな人にも接したが、あれ位感服し信頼した人もなかった。丈のすらりとした、男前も立派だった。平生は優しい目をしておられたが、それがどうかすると、ギロリと光ったものだ。その時は怖ろしさが、ぞっと身に染みるようだったよ。総てが親とは反対でな。先生の親は小心な謹直一方の人で、高杉小忠太といえば、真面目なおとなしい人で通っておったものだ。父母の教訓、家庭の修養もあろうが、それ以外ああいう男が生まれたのは、天ぢゃノウ。それで高杉は『鴉の白糞』で、長州の評判になったものぢゃ」「一方は血気旺盛な国士の典型、言わば蓋世の英雄であるが、他方は風流韻事を事とする、既に世故に長けた老成の風があった」「先生は、臨機応変、機智縦横、如何なる困難に遭遇しても、常に綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられた事は、何人といえども、企て及ぶべからざるものがある。それを普通世間では、単に慷慨悲歌の人、憂国熱誠の士ぐらいに考えて、磊落粗豪のみを以て事に当たったように、その表面ばかりを見ている者が多いようであるが、なかなかどうしてこの裏には、強いて思慮分別を煩わさずして、天才滾々として、随時に湧出した事は実に驚くべきもので、その事業の跡を見ると、よくその基礎を固め根底を作るという結果を、自然に現わしている。しかして、その活動を為すに当りては、縦横の機智と、臨機の天才とを応用せられたのであるから、何事に当っても迷うことなく、行って遂げざるなしという次第ぢゃ。まず俗論紛々として、帰着するところを知らざる藩論を一定し、続いて、あの猫額大の地を守って、天下の大軍を引受け、何の苦も無く四境にこれを破り、遂に薩長連合の素地を作って、維新大業の基礎を固められたのである。実にあんな短日月の間に、あれだけの大事を成し遂げた。その神出鬼没の働きは、唯々驚嘆するの外はないのぢゃ」渡邊嵩蔵 「久坂と高杉の差は、久坂には誰も附いて往きたいが、高杉にはどうにもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し」富永有隣 「彼は反復の士なり」奥村五百子 「(長州に潜入した際に)男装の自分を女であると見破ったものはただ高杉晋作一人あるのみである。高杉はさすがに豪いところがあった」長州正義派(ちょうしゅうせいぎは)とは、幕末の長州藩における派閥の1つ。江戸時代後期、長州藩内は改革派と保守派とに分かれており、同じ藩主毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。のちに改革派は正義派と称するようになり、幕府に恭順しようとする保守派を俗論派と呼んで区別した。正義派・俗論派の命名者は高杉晋作。「真の勤皇路線」「真の攘夷路線」(破約攘夷路線)を巡る藩論形成過程において1858年(安政5年)に命名した。正義派は、藩政改革を進めた村田清風を継いで改革派を率いた周布政之助の下、吉田寅次郎(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)・来原良蔵・井上聞多(井上馨)・久坂玄瑞・高杉晋作・寺島忠三郎・村田蔵六(大村益次郎)・山田市之允(山田顕義)・伊藤俊輔(伊藤博文)・佐世八十郎(前原一誠)・時山直八などで構成されていた。
2023年09月08日
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しかし、7月20日に将軍・徳川家茂が死去すると、7月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながることとなった。その後、下関市桜山で肺結核の療養中の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去。享年29(満27歳没)。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・山県狂介・田中顕助が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。墓所墓所は山口県下関市吉田の東行庵にある。2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された。また木戸孝允・大村益次郎らによって東京招魂社(現在の靖国神社)に吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちとともに祀られた。人物いわゆる辞世の歌について、「おもしろきこともなき世をおもしろく」「おもしろきこともなき世におもしろく」の両説あるが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明。なお東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっている。古川薫の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としている。また「に」が正しい場合「を」が広まることはなかっただろうという批判もある。かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である。都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。晋作は小柄であり、本人もそれを気にしていたため、直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長い刀を好んで愛用していた。その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。師である吉田松陰は晋作の非凡さをいち早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるために、あえて同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなど、とても優秀であったという。公金と私金の区別をつけない人物だった。藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれて刀を見せたことがあったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われ、そのことを遺憾に感じた晋作はそれ以後決して見せることはなかったという。晋作が上海で購入した モデル2アーミー 33口径6連発が、坂本龍馬に贈られた。のちに伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。言動「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。その中には英雄の死すべき時が必ず来る」「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。どんな難局にも必ず逃れ路がある。行き当れば曲り路ありと言う訳である。断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」吉田松陰「有識の士なり。しかし、学問をつとめず。またすこぶる意に任せ自ら用うるの癖あり。余かつて玄瑞を挙げ以て晋作を抑ゆ。晋作の心、甚だ服せず。未だ幾ばくならず。晋作の学業にわかに長じ、議論益々たかし。同志皆為に衽を斂む。余事を議するごとに多く晋作を引き之を断ず。その言往々、あなどるべからざる也」「その精識に至っては余の及ぶところではない」「高杉生、僕より少きこと十年、学問充たず、経歴浅し。然れども強質清識凡倫に卓越す」木戸孝允 「俊邁の少年なり。ただ惜しむらくは、少し頑固の性質あり。後来、おそらくは人言を容れざるべし。貴君(松陰)は早くその点を注意して、教えなされたならば、必ず彼の将来に利益するであろう」
2023年09月08日
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下関戦争と奇兵隊創設文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはない]。功山寺挙兵幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。四境戦争再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約が土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執った。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
2023年09月08日
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3「高杉晋作と長州正義派」高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、のちに東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。ほかに些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。栄典は贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とみちの長男として生まれる。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の三人の妹がいる。10歳のころに疱瘡を患う。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・まさと結婚する。留学文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。尊王攘夷運動長州藩では、晋作の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)が相談した。しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。
2023年09月08日
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なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、アメリカの損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金はアメリカ政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。] その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。] 日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。] 兵器・戦術など] 長州藩が砲台などに配備した大砲は、長州藩が嘉永年間に三浦半島の警備を命じられた際に佐久間象山の指導のもとに江戸で製造したものや萩の郡司鋳造所で製造したものなどであった。] 陸戦隊と一緒に上陸したアーネスト・サトウは、他に24ポンド砲、32ポンド砲、青銅製の11インチ砲があったと記録している。] これらの長州藩側の大砲は、連合軍艦隊の搭載砲(上記の参加艦船一覧表を参照)よりもはるかに小型で性能が劣っていた。] 口径差があるのに加えて、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する製造方法であったのに対し、連合国の大砲は、砲身を鋳造した後にドリルで削って正確に砲腔を作成する方式であることからも性能差があった。日本では、切削加工による砲腔の作成は、幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館で開始されたばかりであった。] 1864年の戦闘では長州藩の大砲62門が連合軍に鹵獲され、そのうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られた。] 戦利品となった大砲の一部は現存しており、現在パリの廃兵院(アンヴァリッド)に展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門である。] これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年(1854年)に江戸で製造し、後に下関へ移したものであった。] 山口県下関市長府の功山寺境内にある長府博物館 にも、パリ廃兵院から貸与された戦利品の大砲1門(1844年に萩で鋳造された和製大砲)が展示されている。ほかにイギリス、オランダ、アメリカの博物館に数門の存在が確認されている。] 馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、薩英戦争の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった。] このように、両軍の間には、兵器の性能の差だけでなく、戦術の差もあった。上陸した陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれ、奇兵隊他の諸隊が増強されていく。
2023年09月08日
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艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。] 戦闘開始の前日である元治元年8月4日(1964年9月4日)、長州藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。] 下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強であり、主力部隊を京都へ派遣していた(半月前に禁門の変が発生)こともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製のダミーの砲まで用意していた。] 元治元年8月5日(1964年9月5日)午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。] 長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。] 元治元年8月6日(1964年9月6日)、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣狂介は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。] だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。] 元治元年8月7日(1964年9月7日)、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ大砲を鹵獲した。] 8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。連合軍が一連の戦闘で鹵獲した各種大砲は62門に及んだ。] 陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人だった。] なお、イギリス軍にはカメラマンのフェリーチェ・ベアトが従軍し、戦闘の様子を撮影している。ベアトにとっては、クリミア戦争、インド大反乱、アロー戦争に続く4度目の従軍撮影であった。] 講和] 元治元年8月8日(1864年9月8日)、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。] この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れたと述べている。] 18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。] ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。] この談判の際に、すべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名である。] しかし、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になって長州側の通訳を努めた伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である。] 戦後] 禁門の変の勝利を受けて幕府は長州藩への攻撃の準備に取りかかった(第一次長州征伐)。] 京都と下関との二度の敗戦で戦う余力のない長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。] 12月、この俗論党政権に対して高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。翌慶応元年(1865年)に高杉らは内戦に勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。] 下関戦争の敗戦を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。] なお、オールコックの手元には届かなかったが、イギリス政府は日本における軍事行動を禁止する訓令をすでに出していた。] 下関戦争は結果としてこの訓令に背いたことになり、その責任を問われてオールコックは駐日公使を解任され、本国に召喚された(1864年12月25日離日)。] 下関賠償金] 長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。] イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。] 幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。] 明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサーアメリカ大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。] 300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、アメリカは合計で78万5000ドルを得ていた。] 実際のアメリカの損失は、] アメリカ船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル] 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル] 水夫への危険手当2000ドルだった。
2023年09月08日
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長州藩領内では一揆が発生し、一部の領民は自発的に外国軍隊に協力していた。長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。] また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。長州藩は砲台を増強し、なおも強硬な姿勢を崩さなかった。] 京都の政変と長州藩の孤立化] 幕府は、文久3年7月8日(1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。] 7月16日には中根一之允らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。] ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には中根一之允らを暗殺した(朝陽丸事件)。] 文久3年8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。] これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、8月18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。] 長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。] 7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。] 長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変)。] このほか、文久3年12月24日(1864年2月1日)には、関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、薩摩藩士24人が死亡した。当日は視界不良で薩摩藩の船と認識しての砲撃であったかは不明であるが、長州藩の謝罪で一応は解決した。] しかしながら、翌年にも長州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗員を殺害する事件が起きている。] 外交] 長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。] アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。] だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。] 元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。] 日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。] オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。] だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送る。] この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。] イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。] イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。] 伊藤と井上は三カ月かかって元治元年6月10日(1864年7月13日)に横浜に到着。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、アーネスト・サトウを伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。] 元治元年6月19日(1864年7月22日)、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。] なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団(横浜鎖港談判使節団)が帰国したが、使節がフランスと取り交わしたパリ約定には関門海峡を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていた。] オールコックは、幕府がこの約定を批准することにより、四国連合からフランスが脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わなかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった。] 元治元年7月27日-28日(1864年8月17-18日)にキューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。
2023年09月08日
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文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が上洛。朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。だが幕府は他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件の損害賠償交渉にも追われており、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をすることになり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩に伝えていた。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日にイギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、攘夷実行の体裁をとった。] しかし、同時に口頭で閉鎖実行の意志がないことも伝え、9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。] 長州藩の攘夷決行] 攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。] 攘夷期日の文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。] 総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。] 文久3年5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(英語版)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。] キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ペンブローク号は長崎に戻らず上海に向かったため、同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。] キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。] 文久3年5月26日、オランダ外交代表ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。] キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行の許可証も受領しており、幕府の水先案内人も乗艦していたため攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが17発を被弾し死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。] 長州藩のアメリカ、フランス艦船への砲撃は当時の国際法に違反するものである。] アメリカ・フランス軍艦による報復] ペンブローク号は長崎ではなく上海に向かったため、事件の知らせが横浜に届いたのは文久3年5月25日(1863年7月16日)であった。アメリカ公使ロバート・プルインは、横浜停泊中のワイオミング号の艦長デビッド・マクドゥーガルを列席させて幕府に抗議した。] この時期のアメリカは南北戦争の最中でほとんどの軍艦は本国にあったが、南軍の通商破壊艦アラバマ号(英語版)を追跡していたワイオミング号が、居留民保護のために一時横浜に入港していたものであった。] 幕府は自身が処理するとしたが、マクドゥーガルは報復攻撃を促した。前任者のタウンゼント・ハリス同様に親幕府姿勢を取っていたプルインも最終的に同意し、ワイオミング号は横浜を出港した。] 文久3年6月1日(1863年7月20日)、ワイオミング号は下関海峡に入った。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。] 壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。] ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。この戦闘でのアメリカ側の死者は6人、負傷者4人、長州藩は死者8人・負傷者7人であった。もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、陸上の砲台も艦砲射撃で甚大な被害を受けた。] 文久3年6月5日(1863年7月24日)、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号(英語版)が報復攻撃のため海峡に入った。] セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。] アメリカ・フランス艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
2023年09月08日
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鷹司邸で戦死した入江ら久坂隊の戦死者の首級は福井藩士が藩主・松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した為、明治三十年代に碑石が修築された。] 下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と同4年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。敗れた長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。] 名称] 歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。] 今では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。] また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある。] 孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。] 前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。] 後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。] フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。] 戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。] 馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。] 背景] 嘉永6年(1853年)ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。] 孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった。また、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くようになっていた。] これらの動きに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。] この事件により幕府の威信は大きく揺らぎ始めた。加えて、開港により、特に生糸が大量に輸出され、品不足・価格高騰が生じ、さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した(五品江戸廻送令、幕末の通貨問題)。これに伴って政情も不安となり、幕府の開港政策を批判する攘夷の機運は、全国的に高まっていった。] 後に倒幕の中心勢力となる長州藩は、文久元年(1861年)の段階では直目付長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策を藩論としつつあり、長井自身が幕府にも具申して大いに信頼を勝ち得ていた。] しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったため、尊皇攘夷派の恨みを買っていた。] 文久2年(1862年)、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、同年6月には長井は藩主から罷免され、翌文久3年(1863年)には死罪を得て自裁した。] 自然、尊王攘夷が藩論となっていった。長州藩士や長州系の志士たちは朝廷の攘夷派公卿と積極的に結びつき京都朝廷の主導権を間接的に握るようになっていった。
2023年09月08日
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2「禁門の変から下関戦争」] 禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。] 前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。] 大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。] 禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。] 「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。] 経過] 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。] 政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。] しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。] 長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられた。] 進発論を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。] 京都の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主松平容保への襲撃を企てるが、警備が厳重だったため実現しなかった。] そんな中、雄藩による参預会議が失敗に終わり、公武合体派諸侯が相次いで京都を離れたため、これを好機と見た久坂と来島は強く進発論を訴えた。] そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていった。慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。] 6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉り、長州藩に同情し寛大な措置を要望する藩士や公卿もいたが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾正厚、久留米藩士大塚敬介らは議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。] 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。] 禁裏御守衛総督・一橋慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押されやむなく挙兵。] 戦闘経過] 19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。] 一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。狙撃を受けた来島又兵衛は自決した。] 真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。] しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡。] 帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。] 戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。] 生き残った兵らはめいめいに落ち延び、福原・国司らは負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退した。天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退するなどして、長州へと帰還した。] 主戦派であった真木和泉は敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、その他の勢との合流に失敗。兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。] 20日に郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って自爆した。] 戦後] 御所に向かって発砲したこと、藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には藩主・毛利敬親に追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、薩摩や会津への深い遺恨が後世に伝わっている。] 一方、薩摩藩と交戦して死亡した20人の遺体は、薩摩藩により相国寺の塔頭寺院の大光明寺に葬られ、明治39年になって毛利家により墓石が建立された。
2023年09月08日
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「高杉晋作と功山寺挙兵」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「禁門の変と下関戦争」・・・・・・・・・・・・・43、 「高杉晋作と長州正義派」・・・・・・・・・・・・304、 「長州各派の経過」・・・・・・・・・・・・・・・515、 「駆逐される正義派」・・・・・・・・・・・・・・616、 「解散命令」・・・・・・・・・・・・・・・・・・767、 「開戦回避の運動」・・・・・・・・・・・・・・・858、 「三家老四参謀の死」・・・・・・・・・・・・・・999、 「諸隊と五卿の長府行」・・・・・・・・・・・・・10510、「戦争回避の条件のすり合わせ」・・・・・・・・・11911、「高杉晋作の帰還決意」・・・・・・・・・・・・・12412、「高杉の独走」・・・・・・・・・・・・・・・・・13313、「功山寺挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・・13614、「征镸軍解散令」・・・・・・・・・・・・・・・・・15115、「緒隊解散令」・・・・・・・・・・・・・・・・・・16216、「戦後処理」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17917、「主な団体と人物」・・・・・・・・・・・・・・・・18218、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・191 1「はじめに」「功山寺挙兵の起因」(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。禁門の変・馬関戦争の後、朝廷と江戸幕府は長州藩へ、懲罰として十五万もの征長軍派遣を決定した。 長州では藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、ついに武力衝突にまで発展する。 最終的に正義派が勝利し俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。
2023年09月07日
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