歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月08日
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カテゴリ: 高杉晋作



なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船 タキアン号 1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、アメリカの損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金はアメリカ政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。 アメリカ合衆国 国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。


] その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官が 森有礼 公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。


] 日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。



] 兵器・戦術など


] 長州藩が砲台などに配備した大砲は、長州藩が 嘉永 年間に三浦半島の警備を命じられた際に 佐久間象山 の指導のもとに江戸で製造したものや 郡司鋳造所 で製造したものなどであった。


] 陸戦隊と一緒に上陸したアーネスト・サトウは、他に24ポンド砲、32ポンド砲、青銅製の11インチ砲があったと記録している。


] これらの長州藩側の大砲は、連合軍艦隊の搭載砲( 上記の参加艦船一覧表を参照 )よりもはるかに小型で性能が劣っていた。


] 口径差があるのに加えて、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する製造方法であったのに対し、連合国の大砲は、砲身を鋳造した後にドリルで削って正確に砲腔を作成する方式であることからも性能差があった。日本では、切削加工による砲腔の作成は、幕府の 関口製造所 や薩摩藩の 集成館 で開始されたばかりであった。


] 1864年の戦闘では長州藩の大砲62門が連合軍に鹵獲され、そのうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られた。


] 戦利品となった大砲の一部は現存しており、現在 パリ 廃兵院 (アンヴァリッド)に展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門である。


] これは長州藩が三浦半島警備用に 嘉永 7年( 1854 )に江戸で製造し、後に下関へ移したものであった。


] 山口県下関市長府の 功山寺 境内にある 長府博物館 にも、パリ廃兵院から貸与された戦利品の大砲1門(1844年に萩で鋳造された 和製大砲 )が展示されている。ほかにイギリス、オランダ、アメリカの博物館に数門の存在が確認されている。


] 馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、 薩英戦争 の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった。


] このように、両軍の間には、兵器の性能の差だけでなく、戦術の差もあった。上陸した陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれ、奇兵隊他の諸隊が増強されていく。






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最終更新日  2023年09月08日 07時38分37秒
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