歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月08日
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カテゴリ: 高杉晋作




赤禰や山県は当初高杉が無謀な反乱に踏み切ることに危うさを感じ支持しなかったが、翌元治2年( 慶応 元年、1865年)1月に赤禰が出奔したあとは山県が事実上奇兵隊を掌握、高杉支持に転向し俗論派を野戦で撃破、 長州正義派 の勝利に導いた。


> 慶応 2年( 1866 )の 第二次長州征討 では、軍監のまま名目上は奇兵隊4代目総管である山内梅三郎の下についていたが、高杉とともに実権を握り北九州の 小倉藩 を占領する活躍を見せ、 7月27 赤坂・鳥越の戦い など小倉藩兵の抵抗に苦しめられたが、戦局は長州藩有利のまま12月に和睦を迎えた。


> 以後は 木戸孝允 の配下になり、慶応3年( 1867 )4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、 薩摩藩 西郷隆盛 大久保利通 黒田清隆 らと交流を結んだ。


> 国父 島津久光 や家老 小松清廉 とも面会し、天下の行く末や倒幕のための挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩した。


> 充実した京都とは対照的に、長州藩に戻ってからは面白くない出来事が続き、山県の体調にも悪影響を与えた。


> 合流を約束した薩摩勢がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられている。


> 11月にようやく薩摩勢が長州勢と合流したあと京都へ向かったが、山県は人選から外れて同門の 山田顕義 が上洛勢に加わり、翌慶応4年( 明治 元年・ 1868 )1月の 鳥羽・伏見の戦い で長州勢の指揮を執る、山県は奇兵隊を率いたまま長州に残るなど憤懣やるかたない日々を過ごした。


> なお、上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている。


> 戊辰戦争


> 鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀 福田侠平 を従えて3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。


> また 北陸地方 越後 方面への出陣を命じられたことで山県は 戊辰戦争 に加わることになった(ただし、福田は木戸と西国へ行き離脱)。


> 戊辰戦争( 北越戦争 会津戦争 )では黒田とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督 高倉永祜 の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏 19 高田 で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監 三好重臣 が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監 岩村高俊 率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は 27 鯨波戦争 桑名藩 兵に勝利し、翌 28 柏崎 を占領した。別動隊も 小千谷 を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた。


> しかし、越後口では 長岡藩 家老 河井継之助 と友軍の桑名藩士 立見尚文 の前に苦戦を強いられ、 5月13 朝日山 の戦いで奇兵隊を率いた友人の 時山直八 を立見率いる 雷神隊 に討ち取られ、山県は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる。


> 膠着状態だった戦線は 19 に本隊の三好による 長岡城 陥落で新政府側が有利になったが、 7月25 に河井が長岡城を奇襲で奪還( 八丁沖の戦い )、山県はなすすべもなく 西園寺公望 総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども城外へ逃げ出す羽目になった。


> それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際に河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み 日本海 を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、 新潟港 を落とし 新発田藩 を寝返らせたこともあり、4日後の 29 に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した(河井は傷が原因で死去)。それから東へ進軍して 9月18 から 会津城籠城戦 で包囲軍に加わり、4日後の 22 会津藩 降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携がうまくいかず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。


> 明治2年( 1869 )、維新の功によって 賞典禄 600石を賜っている。


> 明治維新後


> 明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、 6月28 に西郷の弟・ 西郷従道 とともに渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年( 1870 )に アメリカ 経由で 8月2 横浜港 に到着、帰国直後の 8月28 兵部少輔 に任命された。


> しかし兵部卿 有栖川宮熾仁親王 は名目上のトップで、実際は 岩倉具視 ら文官への業務報告が行われる仕組みであった。内部の軍隊も長州・薩摩に分かれ、それぞれ木戸と大久保利通が実権を握っていた。


> 兵部省が シビリアン・コントロール で弱体化する中で人事異動が行われ、山県の友人の兵部大輔・ 前原一誠 は山県の就任前後に辞任、山田は山県の下である兵部大丞だがそりが合わないため、山県はさまざまな不安を抱えながら、兵部省の実質的なトップとして木戸の意向に沿いながら軍制改革を進めていった。


> 各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩に入り、西郷を説得して翌明治4年( 1871 )2月に一行は上京した。


> 山県は一行に加わり西郷説得にも一役買い、薩摩・長州・ 土佐藩 の兵力を集結させた 御親兵 編成と 鎮台 設置につながった。また、友人で入江九一の弟・ 野村靖 、部下の 鳥尾小弥太 らと相談し兵制統一の必要性から 廃藩置県 の必要性を提議、有力者間の根回しを行った。


> 前後して同年6月に熾仁親王が兵部卿を解任され山県は留任、 7月14 の廃藩置県実施と同時に兵部大輔に昇進した。






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最終更新日  2023年09月08日 11時59分47秒
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