温故知新 0
徐福 0
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「黒田官兵衛の群像」 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・2 「黒田孝高の出自」・・・・・・・・・・・3 「播州時代」・・・・・・・・・・・・・・4 「信長の才能に家臣に意欲」・・・・・・30 「羽柴家の家臣時代」・・・・・・・・・37 「信長軍として松永久秀と戦う」・・・・42 「織田家臣時代」・・・・・・・・・・・67 「豊臣家臣時代」・・・・・・・・・・・91 「豊前国守時代」・・・・・・・・・・132 10、「関ヶ原の戦い」・・・・・・・・・・140 11、「晩年と説話」・・・・・・・・・・・162 12、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・178 1、「はじめに」 黒田孝高(1546年~1604年)安土桃山時代の武将、大名。幼名万吉、通称官兵衛、勘解由。官兵衛自身キリシタン洗礼名ドン・シメオン。父は美濃守職隆、母は明石氏の娘。小寺政職。赤松氏一族で播磨国御着城主の端城姫路城を預かる。父の跡を継ぎ天正の初年頃から織田信長に接近し、1577年(天正5)羽柴秀吉の播磨入国では進んで姫路城に迎え、中国攻略に従った。1578年信長に離反した摂津有岡城主の荒木村重を説得に赴いたが、逆に監禁されて、1579年11月に落城の際に救助された。その後も秀吉に従軍し、1586年には九州攻略の先手を命じられて、毛利氏とともに九州入りをした。翌年秀吉が九州に入ると、羽柴秀長とともに豊前・日向方面を攻め、その戦功豊前国京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐郡内12万石の領知を得た。1589年家督を嫡子長政に譲った。1950年小田原攻めでは、北条氏政・氏直父子に和議の使者として派遣され、開城の際は城請取の役を務めた。北条氏直は和議成立の礼として孝高に室町中期の写本になる貴書「吾妻鏡」を贈り、孝高の死後には長政は遺物として将軍徳川秀忠に献じた。1592年(文禄元)朝鮮出兵に参陣し、8月に漢城に赴いたが、翌年秀吉の不興を買い長政に遺言6か条を残した。慶長の役にも出陣したが、1598年(慶長2)秀吉の死により帰国した。1600年関ケ原の戦いのおり大友義統を石垣原の合戦で破り、安岐城・小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定した。関ヶ原の戦功で長政が筑前一国に移されると、孝高も福岡に移った。山城国伏見で病没。墓は福岡の崇福寺にある。
2023年10月28日
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左脚に関する傷病歴Ø 7歳の時、河中に落ちて左の膝を激しく打ち、後に(天文12年(1543年)頃)刈谷田川で長尾俊景と戦闘した際に、左の内股に矢傷を受け、大きな傷痕を残したという。また、永禄4年から5年(と見られる)に、左脚が気腫になり、歩く時に引きずる様子が見られた。戦場では杖代わりに三尺ばかりの青竹を引っ提げて、軍兵を指揮したという(常山紀談)。Ø その他の傷病歴Ø 永禄2年(1559年)6月、二度目の上洛中に腫れ物を患う。腫物医の診断によると癰(よう)という重度のおできで、気血の滞留が病因と診られた。背中に出来た腫れ物を家臣たちが口で吸い出して治療にあたり、ほどなく治癒したと伝わる[36]。Ø 永禄4年(1561年)、関東進撃中に腹痛を患っている。 永禄8年(1565年)36歳の時、瘧(熱病)に罹る(花ヶ前盛明 年表)。卒去したとの流言蜚語が乱れ飛んだ。また、左脚が不自由になったのは、この際に併発した急性関節炎によるものとする説もある。元亀元年(1570年)10月、41歳の時に軽い中風を発症した。 死因Ø 生前の謙信は大の酒好きだったことで知られ、過度の飲酒や食生活(塩分の摂り過ぎなど)による高血圧が原因の脳血管障害とみられ定説となっている。 部下への配慮Ø 天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。Ø 驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。 出家騒動Ø 家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信(当時は長尾景虎)は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。Ø しかし8月17日、大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差しだしたことで騒動は収まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。Ø この当時、本庄実乃・上野家成派と大熊朝秀・下平吉長派に分かれて家中を二分する対立が起こっており、蘆名氏や武田氏を巻き込んで越後国は騒乱状態にあった。Ø この出家騒動以後、家臣団のほとんどは引き続き謙信に臣従したが、大熊朝秀はこれを機に越後を出奔、武田信玄の許に逃れて以降は武田氏に重用されている。 宿敵・武田信玄Ø 信玄との生涯に亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある。 信玄は永禄10年(1567年)に同盟国の駿河今川氏真との関係が悪化し塩止めを受けているが(「萩原芦沢文書」)、武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が採れない。これを見越した氏真の行動であったが、謙信はこの氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。 だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという。この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない。Ø この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。Ø 『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止した。理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。Ø 「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。
2023年10月28日
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17「謙信の最期」 Ø 天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、3月13日の未の刻(午後2時)に急死した。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され[27]、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。 養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかったため、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発し、勝利した景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となったが、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。Ø 未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明。 没後Ø 謙信没後に米沢藩主となった上杉家では江戸時代の延宝2年(1674年)4月に藩主・上杉綱憲の傅役である竹俣充綱が上杉家の家史編纂を進言し、延宝5年(1688年)に正式に開始され、元禄9年(1696年)5月には「謙信公御年譜」が完成している。 人物 身体的特徴 吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」と謙信のことを大天狗扱いするなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情である。Ø 誓文の血判から判定された血液型はAB型である。 宗教・文化的側面Ø 謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。 青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺法印で無量光院住職であった清胤から伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。Ø 戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。Ø 特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。 七尾城の戦いのとき、謙信は有名な『十三夜』の詩(七言絶句の漢詩)を作ったという。 この詩は頼山陽の『日本外史』に載せられて広く知られることになったが、『常山紀談』や『武辺噺聞書』ではこれと少し違っているため、頼山陽が添削したものとみられている。また、十三夜は七尾落城の二日前であり謙信が本丸に登っていないことや、和歌によく通じた謙信も漢詩はこの他に一度も作っていないことなどから、これを不自然とし、この詩自体が後世の仮託とみなす説もある[注 7]。 内政・諜報 内政面においては衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とするなど、領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。 女性関係 生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、子供は全員(景勝・景虎・義春・国清)養子だった。 謙信には複数の恋物語が伝わる。ひとつは、彼がまだ二十代の折、敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたが、重臣(柿崎景家ら)の猛烈な反対によって引き裂かれ、娘が剃髪出家した後、ほどなくして自害してしまい、食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたというものがある。 謙信が女性と交渉した事実が確認できないことについて様々な説があるが、いずれも確かな根拠に基づいたものではない。 食事関係Ø 謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという。これは、日ごろは倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためである。Ø 日ごろの倹約ぶりを知る部下たちはその豪勢な食事に喜び、結束を固くした。これが客をもてなす「お立ち飯」、「お立ち」として、今なお、新潟や山形の一部に風習として残っている。 健康面・死因
2023年10月28日
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勝頼は直後の岩村城の戦い、二俣城の戦いで東美濃の要衝岩村城と遠江の要衝二俣城を失ったこともあり、これ以後、家康との戦いは続けるものの、中央の信長包囲網に積極的な関与はできなくなっている。 一方、天正元年に京都を追放された足利義昭は信長の護衛の下、まだ三好義継が健在だった若江城に移送された後、和泉堺、紀伊興国寺へと転々とし、最終的には天正4年(1576年)になって毛利輝元を頼り、毛利氏の庇護下に入って、当時毛利領だった備後鞆へと移っている。 第三次包囲網 包囲網の再構築 天正4年2月、足利義昭は中国地方を支配していた毛利氏を頼り、備後の鞆に動座して毛利輝元の庇護を受けたが、それ以前の紀伊にいた頃から信長包囲網の再構築を企図していた。 当時、義昭は形式的には征夷大将軍であり、将軍として御内書を出して各地の大名の糾合に務めている。この結果、長らく信長と対立していた本願寺、紀伊の鈴木氏、武田氏のみならず中国の毛利氏、山陽の宇喜多氏、北陸の上杉氏、松永氏などが包囲網に参加した。 また、こうした義昭の動きは、信長の傘下に入っていた勢力に動揺を与えた。特に半独立を保ちながら信長に寄騎していた丹波の波多野秀治、但馬の山名祐豊が天正3年年末から天正4年初頭にかけて相次いで叛旗を翻し、信長包囲網に加わった。 こうして反織田勢力が再び結集されたことに対して、信長は石山本願寺を従前どおり塙直政に包囲させるとともに、一向一揆を鎮圧した越前には柴田勝家を送り、加賀一向一揆の鎮圧と北陸への侵攻を企図している。 本願寺への攻勢 天正4年4月、信長は冷戦状態が続いていた石山本願寺に対して攻勢に出ることを決断し、塙直政、明智光秀らを中心とする軍勢が天王寺方面を攻略しようとした。一方、6年前の野田城・福島城の戦いでも織田方を脅かした鈴木重秀はこの時も本願寺方についており、鉄砲の扱いを熟知した雑賀衆の前に織田軍は苦戦を余儀なくされ、三津寺の戦いでは畿内統治の鍵を握っていた塙直政が討死し、明智光秀が天王寺砦に籠城する結果となった。 天王寺砦に籠城する光秀らを信長が後詰して発生した天王寺合戦では寡兵ながらも信長の陣頭指揮で本願寺軍を押し返したが、信長自身が負傷するなど、一進一退の攻防が続いた。信長はこの後佐久間信盛を本願寺包囲軍の主将に置いて作戦を包囲戦に切り替えた。 一方、柴田勝家は越前から加賀に侵攻した。かつて加賀一向一揆を支えていた指導者の多くが越前が鎮圧された時に死亡しており、加賀一向一揆は組織だった反撃ができないまま、織田方が優勢となった。 毛利氏、上杉氏の本格介入と松永久秀の謀叛 このように本願寺に対する信長の圧力が強まる中、天正4年4月にそれまで信長と同盟関係にあった上杉謙信が石山本願寺と和睦交渉を開始、5月中旬に講和を成立させた。謙信が本願寺と講和に踏み切った背景には、毛利輝元に庇護されていた足利義昭が謙信に幕府再興を要請したからとされる。 これにより、本願寺、毛利輝元、上杉謙信の同盟が成立し、信長と謙信の同盟は破綻した。 そして、北陸では上杉謙信が一向一揆と同盟を結んで越中から能登へ侵攻を開始し、畿内では毛利輝元が石山本願寺への海上からの補給を試みた。4毛利氏の補給作戦については、毛利輝元配下の村上元吉らが7月13日に来援し、大阪湾木津川河口で織田方の水軍を破り、石山本願寺への補給が成功している(第一次木津川口の戦い)。また、謙信は11月から畠山氏の籠城する能登七尾城を包囲するが、堅城であるため、強攻することもできず、翌天正5年(1577年)3月に本国の越後が後北条氏の侵攻を受けたため撤退している。 翌天正5年になって、信長はまず本願寺の有力な寄騎である雑賀衆を離反させるべく、2月から紀州征伐を行った。 この紀州征伐により雑賀衆は打撃を受け、形式的な降伏をしており、本願寺に対する包囲はより厳しいものとなった。しかし、8月に入り、包囲の要衝である天王寺砦を守っていた松永久秀が突如砦を焼いて撤退し、謀叛を起こした。 この松永久秀の謀叛に対して、信長は嫡男信忠率いる一軍を大和に派遣し、10月までに久秀の居城である大和信貴山城を陥落させ、謀叛を鎮圧した。 これらと並行して柴田勝家は加賀侵攻を継続していたが、天正5年7月になって七尾城が再び謙信の侵攻を受けたことから後詰の要請を受け、これを容れて能登への遠征を開始した。しかし、七尾城は勝家の援軍を待たず9月に陥落し、七尾城陥落を知った勝家は撤退するが、手取川で上杉軍の襲撃を受けて敗北した。(手取川の戦い)
2023年10月28日
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同年7月3日、和睦から3か月ほどで義昭が再挙兵し(義昭は信玄の死を知らなかったと思われる)、槇島城に籠った。更に高屋城では、三好三人衆と結んだ遊佐信教が畠山昭高を殺害して実権を握った。信長は槇島城に篭る義昭を攻め、追放している(槇島城の戦い)。7月28日に、信長は元号を元亀から天正と改元。直後の8月2日に、淀城に立て籠る三好三人衆の岩成友通を討ち取った(第二次淀古城の戦い)。 天正元年8月8日、浅井長政配下の阿閉貞征が降伏したのを受け、信長が小谷城を包囲して浅井氏を追い込むと、朝倉義景の軍勢が浅井氏の救援に現れた。 しかし夜陰に乗じて密かに越前へ撤退する朝倉軍を、追撃した信長は刀根坂の戦いなどで撃破し、越前まで乱入。8月20日に義景を自害させると、すぐさま小谷城攻めを開始し、9月1日に長政も自害に追い込んだ。 同年11月、三好義継を若江城の戦いで自害させ、翌月松永久秀を降し、包囲網を瓦解させた。 同18日、本願寺から信長に茶器「白天目」が送られており、両者の間で和平が成立したと考えられる。 参加勢力 比叡山延暦寺 (近江)- 元亀2年(1571年)9月、焼き討ちを受けて壊滅。 筒井順慶 (大和)- 元亀2年(1571年)11月、明智光秀と佐久間信盛の斡旋により信長に臣従。 和田惟長 (摂津)- 元亀4年(1573年)3月10日頃、旗幟不鮮明であったが、家臣の高山友照と斬り合い、致命傷を負う。 荒木村重 (摂津)- 元亀4年(1573年)3月29日、織田家に寝返り逢坂関にて信長に謁見する。 池田知正 (摂津)- 元亀4年(1573年)3月頃、家臣の荒木村重が信長に寝返った為、追放される。 武田信玄 (甲斐、信濃、駿河) - 元亀4年(1573年)4月12日、帰国途上に信玄が病死。勝頼が対立を継続。 北条氏政(伊豆、相模、武蔵) - 武田氏と同盟し、遠江に援軍を派遣した。 篠原長房 (淡路、讃岐、阿波) - 元亀4年(1573年)7月16日、主君三好長治、十河存保の攻撃を受け自害。結果的に両名も信長包囲網から離脱。 三好三人衆 (山城・摂津) - 天正元年(1573年)8月2日、岩成友通が討死。同月、三好長逸と三好政康が逃亡。 足利義昭 (山城) - 元亀4年(1573年)7月18日、槇島城の戦いに敗れ、京都から追放される。 内藤如安 (丹波) - 足利義昭を支援し、2千の兵を率い二条城に入城した。 朝倉義景 (越前) - 天正元年(1573年)8月20日、自害。朝倉氏は滅亡。 浅井長政 (近江) - 天正元年(1573年)9月1日、自害。浅井氏は滅亡。 本願寺 (摂津、加賀) - 天正元年(1573年)11月頃、信長と和睦、その後再度対立。 三好義継 (河内) - 天正元年(1573年)11月に自害。 松永久秀 (大和) - 天正元年(1573年)12月末に降伏。 遊佐信教 (河内) -天正2年(1574年)4月、高屋城において戦死。 六角義賢 (近江)- 天正2年(1574年)4月13日、甲賀郡北部の石部城から南部の信楽に逃れ、抗争を続ける。 伊丹親興 (摂津) -天正2年(1574年)11月、伊丹城を荒木村重に攻められ自害。 長島願証寺(伊勢) -天正2年(1574年)9月、焼き討ちを受けて壊滅。 三好笑岩(河内) - 天正3年(1575年)4月、高屋城にて降伏。 日根野弘就(伊勢) - 長島一向一揆に参加。その後、織田家に仕官。 遠藤慶隆(美濃) - 武田信玄に内応していたが、処罰されず存続。 雑賀衆 (紀伊) - 本願寺を支援し抗争を継続。 甲賀衆 (近江) - 足利義昭や六角義賢を支援。 伊賀衆 (伊賀) - 足利義昭や六角義賢を支援。 包囲網の瓦解から再構築まで こうして天正元年末には包囲網は実質的に瓦解した。しかし、生き残った本願寺は顕如の指導の下石山本願寺に篭り、各地の一向門徒を決起させて信長に対する対立姿勢を強めていった。 特に天正2年(1574年)1月に発生した越前一向一揆は5月までに越前を占領し、従前より本願寺の影響下にあった加賀を含めて北陸で強大な地盤を築こうとした。 しかし、包囲網の瓦解により、圧力を受けることが少なくなっていた信長はこうした一向一揆に対して積極的な反撃に出て、石山本願寺を配下の塙直政を中心とする部隊に包囲させると共に、長島一向一揆を天正2年9月に、越前一向一揆を天正3年(1575年)5月ごろまでに鎮圧し、本願寺の影響力を削いでいる。また、信玄が死んだとはいえ武田氏は勝頼の下で依然として強大な勢力であり、徳川領の三河、遠江へ度々侵攻して家康を悩ませていた。特にこの時期に遠江の要衝高天神城が陥落しており、家康は苦戦していた。しかし、続いて天正3年に勝頼が三河の長篠城へ侵攻したことがきっかけとなって発生した長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍の前に勝頼は敗北を喫している。
2023年10月28日
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第二次包囲網 阿波三好氏と松永氏の同盟 元亀2年(1571年)になると、義昭は自らに対する信長の影響力を相対的に弱めようとして、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめた。 元亀2年2月、織田信長は浅井長政の妨害を排除して長政の重臣磯野員昌を調略して佐和山城を降し、近江南部の支配を確固たるものにすると、同年5月に北伊勢の長島一向一揆を攻撃、同年9月には比叡山延暦寺を焼き討ちし、分散している反織田勢力の鎮圧に努めた。 同年5月、篠原長房の率いる阿波・讃岐の軍勢が浦上宗景、宇喜多直家の要請に応じ備前児島に上陸、毛利氏を撃退している(本太城合戦)。 翌6月12日、足利義昭と織田信長は篠原長房討伐の御内書を小早川隆景に与えており、毛利家・織田家・将軍足利義昭が阿波三好家・浦上家に対し、共闘しつつあった事がわかっている[5]。また、河内高屋城の畠山昭高(信長妹の婿)と和泉岸和田城の松浦光も、それぞれ天正元年(1573年)、天正3年(1575年)に家臣に暗殺されるまで三好勢と抗争を続けている。 同年6月11日、篠原長房の率いる阿波・讃岐の軍勢が畿内に再上陸し、畠山昭高の高屋城を攻撃しており[6]、同年8月末には、摂津の荒木村重と池田知正が、足利義昭方の茨木重朝、摂津三守護の伊丹親興、同じく和田惟政を攻め、重朝と惟政を討ち取っている。勢いに乗った池田勢は茨木城、郡山城を攻め落とし、京都の手前にあって和田惟長の籠る高槻城を攻囲する。 これに松永久秀・久通父子、三好義継が篠原長房と同盟して攻囲軍に加わり、フロイスの『日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。 3か月間の攻城戦の後、織田信長が9月9日に佐久間信盛を、足利義昭が9月24日に明智光秀を派遣したところ、荒木村重らは兵を引き上げている(白井河原の戦い)。 織田信長と足利義昭の対立 元亀3年(1572年)閏1月4日には、高屋城において三好家に通じた遊佐信教による畠山昭高暗殺未遂事件が発生している(『多聞院日記』)。 同年3月、織田信長は北近江へ出陣し、浅井長政の居城小谷城に対して付け城を築いて包囲する。長政が北近江に釘付けとなったことで、美濃と京都を結ぶ連絡線は安泰となり、近江の戦況は信長有利に推移する。 同年5月、松永久秀が三好義継と共に畠山昭高の領内・河内交野城を攻めたが、信長が佐久間信盛、柴田勝家等の援軍を送った為、松永・三好の両名はそれぞれ大和信貴山城、河内若江城に籠っている。 同年7月、信長は北近江に再び出陣して虎御前山砦を築き、朝倉軍による来援を阻止できるようにして小谷城の攻囲を強める[8]。 北近江戦線は膠着状態だったが、8月に朝倉義景の家臣前波吉継、富田長繁が織田軍に降伏している。 同年9月、信長は足利義昭と武田信玄を通じ石山本願寺との和睦交渉を進めているが、その成立は確認されてない。その後の経緯から、この交渉は途中で放棄されたと推測される。 同年10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、両者の対立は決定的なものになる。これに従い。また、近江では同月に長政の家臣宮部継潤が横山城の守将木下秀吉の調略で信長に寝返るなど、やや小康状態となる。 同年10月、東海方面では武田信玄が多数の軍勢を集め、徳川家康の領内に侵入し、美濃に別働隊を向かわせる。同年12月に発生した三方ヶ原の戦いでは徳川家康と信長の援軍が信玄の前に大敗を喫した(なお、信玄のこの挙兵の目的については諸説ある(西上作戦を参照))。 また、信玄が信長との対決を視野に入れて三河に侵攻し、元亀4年2月,足利義昭が信玄の加入で信長勢力と反信長勢力の立場が逆転したとみて、信長と協力して天下静謐を図る路線を放棄して信玄との連携・天下静謐の確立へと方針転換した(信長包囲網が確立された)とする説もある。 同年12月、篠原長房は淡路に戻って禁制を発給しているが、その嫡子・篠原長重が高槻を超え、山城大山崎の離宮八幡宮にて禁制を発給している。 また、山城淀古城も三好三人衆の一人岩成友通のものとなっている。 武田信玄の死と包囲網瓦解 元亀4年(1573年)1月、三方ヶ原における武田軍の勝報を受けて義昭は、それまでの信長との表面的な友好関係を脱し、自ら二条城に篭って挙兵した。当初は義昭との講和を目論むも、拒絶された信長は同年3月末、遂に京都へ出兵。京都に着陣した頃には、摂津の荒木村重と、義昭の配下だった細川藤孝が信長派へ転属した。義昭を攻めた信長だったが、天皇の勅命で4月5日に講和を結んだ。 なお徳川領に侵攻中だった武田勢では、本国・甲斐への撤退中の同年4月12日に信玄が病死した。一方、阿波では同年5月から7月にかけて、篠原長房が主君三好長治、十河存保に攻められ自害している(上桜城の戦い)。
2023年10月28日
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信長包囲網(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。 永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。 永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、同5日に本圀寺の足利義昭、明智光秀を急襲したが、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度、阿波に逃亡した(本圀寺の変)。 こうした足利氏 - 織田氏と、阿波三好氏 - 三好三人衆との対立とは別に、同1月、織田信長は義昭の行動を制約する殿中御掟を出している。 内容は信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的としたものだったが、義昭は各地に密書を出すなど、これを無視して動くことがままあった。そして、形式的には臣下である信長に縛られることを嫌った義昭と、コントロールしようとする信長の間での対立は深刻化していくことになる。 永禄12年2月、播磨の赤松政秀が織田信長に救援を要請。8月から9月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。 第一次包囲網 浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗[編集] 上洛した信長は、征夷大将軍・足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促したが、朝倉義景はこれを無視し、両者の関係は悪化した。 元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉氏の越前へ遠征を行うが、北近江の浅井長政の裏切りにより撤退する(金ヶ崎の戦い)。 同年6月、信長は野洲河原の戦いにて、甲賀から北上し湖南に進出した六角義賢・義治父子を退けた。 同年6月末、信長は徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、近江南部の支配権を確立し、近江北部も窺うようになった。また、この姉川の戦いの結果、横山城が陥落したこともあり、浅井・朝倉軍は琵琶湖東岸を南下することは困難となった。 しかし、同年6月19日、三好三人衆の1人三好長逸に通じた摂津の荒木村重が、池田城から主君・池田勝正を追放してしまう。これにより、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田城、福島城を拠点に反織田の兵を挙げる。 同年8月、信長は三人衆を討つため摂津へ遠征し、野田城・福島城の戦いが発生した。 この戦いの最中の9月13日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆につき織田軍を攻撃、更に、浅井・朝倉軍が琵琶湖西岸を南下、信長の重臣森可成と弟信治が討死してしまう。織田信長は浅井・朝倉軍が京都へ侵入することを恐れ、同9月23日、三人衆の討伐を諦め、摂津からの撤退を開始する。 同27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めている。 織田信長と比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣は年末まで続き(志賀の陣)、加えて顕如の命を受けて北伊勢で蜂起した伊勢長島一向一揆衆に、信長の弟信興が討たれるなど、織田家は各地で窮地に陥ってしまう。 同年10月30日、織田信長は本願寺顕如との和睦に成功する。11月には六角義賢・義治父子と和睦。 また、篠原長房とも松永久秀の仲介により篠原と松永の間で人質交換が行われ11月21日に和睦が成立、さらに信長は朝廷と足利義昭に調停を依頼して、北陸が深雪に閉ざされる冬の到来を懸念する浅井氏・朝倉氏との講和を12月に成立させ、窮地を脱した。 参加勢力 本願寺(摂津、加賀) - 元亀元年(1570年)10月30日に和睦。 雑賀衆(紀伊) - 本願寺を支援。 六角義賢(近江) - 元亀元年(1570年)11月に和睦。 三好三人衆(摂津) - 元亀元年(1570年)11月21日に和睦。 篠原長房(阿波、讃岐、淡路) - 元亀元年(1570年)11月21日に和睦。 三好長治(阿波) - 篠原長房ともに畿内に上陸。 十河存保(讃岐) - 篠原長房ともに畿内に上陸。 安宅信康(淡路) - 篠原長房ともに畿内に上陸。 荒木村重(摂津) - 三好三人衆の上陸を支援。 池田知正(摂津) - 荒木村重と同調。 浅井長政(近江) - 元亀元年(1570年)12月に和睦。 朝倉義景(越前) - 元亀元年(1570年)12月に和睦。 比叡山延暦寺(近江) - 包囲網瓦解後も信長と対立を続ける。 筒井順慶(大和) - 信長方の松永久秀と対立を続ける。
2023年10月28日
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尻垂坂の戦いで一揆勢の総大将を務めた杉浦玄任は、加賀へ帰国した後、国主・朝倉義景が織田信長により敗死に追い込まれたため国主不在となった越前へ転戦。天正2年(1574年)、顕如の要請に従い、朝倉氏旧臣を討伐して越前を制圧。大野郡司として亥山城(現・大野市)城主となり、顕如に越前守護として派遣された下間頼照等と共に、越前一向一揆を起こした。 Ø その結果、苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させ、年末にこれを制圧した。11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長から、同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。Ø 翌天正元年(1573年)3月、信玄の画策により再起した越中一向一揆が再度富山城を奪った。このため越中国から越後国への帰路についていた謙信はすかさず兵を返し、未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。Ø 4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略。Ø さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧した。Ø 一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。12月、足利義昭に足利家再興を依頼される。 北条氏政との戦いØ 天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。Ø しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。 天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。 上杉軍は騎西城・忍城・鉢形城・菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなってしまった(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力を大きく低下していた。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。なおこの年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られる。Ø 天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。 15「本願寺との講和・信長との戦い」Ø 天正4年(1576年)2月以降、毛利輝元の庇護の受けていた足利義昭が反信長勢力を糾合し、同年5月頃からは義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越一和が試みられている。Ø 同年4月、謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた石山本願寺の顕如と和睦交渉を開始、5月中旬に講和を承諾し、成立させた。Ø 本願寺との交渉にあたったのは、上杉側の山崎秀仙であった。Ø 謙信が本願寺と講和した背景には、足利義昭が毛利氏の庇護下で鞆に落ち着き、義昭自身が謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる。Ø また、前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。Ø 顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越一和は成立しなかったものの、謙信と本願寺との講和によって、信長包囲網が築き上げられたのである。Ø だが、謙信が本願寺や毛利輝元との同盟を決めたことで、信長との同盟は破綻し、上杉氏と織田氏は以後敵対し続けた。
2023年10月28日
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上杉方諸将の鰺坂長実・河田長親・山本寺定長は談合して日宮城の救援に向かい西進、神通川を越え五服山にて6月15日、一揆勢の大軍と衝突した(五福山の戦い)。 上杉軍は奮戦するも衆寡敵せず後退、新庄城へ退却する途中の神通川渡し場において一揆勢の猛追を受け、大敗を喫した。 援軍を期待できなくなり孤立した日宮城は、その日の内に降伏開城し、守将の神保覚広や小島職鎮は能登の石動山天平寺へ逃れた。一揆勢の勢いは止まらず、神通川西岸の白鳥城、東岸の富山城をも陥落させる。 7月29日には上杉方の山浦国清(信濃葛尾城主・村上義清の嫡男)の陣を攻撃、上杉方は河田長親が救援に駆けつけ数十人を討ち捕らえるも、上杉軍は多くの負傷者を出している。一揆勢は、これら一連の大攻勢により、越中の西部から中部にまで勢力を拡大。上杉軍は苦戦し、日宮城に代わって上杉方の前線基地となった越中中部の拠点・新庄城は、落城の危機に陥った。 上杉謙信の出陣 越後にいた謙信は、越中での戦況を憂慮。7月、北条氏政が関東・上野に攻め入ったが、これには養子の長尾顕景(後の上杉景勝)率いる上田衆(上田長尾家の軍勢)を派遣することで対処。 8月6日、自身は関東への出陣を取り止め、越中への出陣を決意。信濃口には武田軍の侵入に備えて守備隊を配置し、10日、自ら約1万の上杉軍本隊を率いて越中へ出陣した。18日には新庄の山の根に着陣、先着の上杉軍と合流したことで大軍となり、兵力で一揆軍に対抗できるようになった。これにより、富山に陣を張り新庄城を攻め立てる杉浦玄任率いる一揆勢に対し、劣勢を挽回し始めた。しかし、謙信が9月13日に家臣・栗林政頼へ送った書状(栗林文書)に「自敵大軍与見申侯」と書いている通り、敵の一揆勢は未だ大軍であり、また一向宗を信仰する団結力強固な集団であった。 さらに謙信が後発部隊に対し、一揆勢の鉄砲に注意するよう書状に記したように、鉄砲を数多く揃えていたため、新庄城での攻防は一進一退となった。一方の玄任も、謙信着陣に対抗して8月20日、金沢御坊にいた加賀一向一揆の頭領・坪坂包明(坪坂伯耆守)に対し、加賀南部二郡(能美郡・江沼郡)からの援軍派遣を要請している。31日、瑞泉寺顕秀は、この日の夜、銃撃戦があったと坪坂包明に報告しており、戦いの激しさが窺い知れる。 9月初旬、この地域で秋霖(秋雨)が幾日も降り続き、一揆勢自慢の大量の鉄砲が使えなくなってしまう(火縄が濡れて火が点かないため)。 この好機を逃さず謙信率いる上杉軍は攻勢に転じ、当初新庄城を攻め立てていた一揆勢は、次第に押され始めて西へ後退。謙信は総攻撃をかけてこれを追撃し、びや川(現在の神通川と常願寺川間を北流する琵琶川。ただし現在と流路は異なる)の堤の登り口付近の尻垂坂において、激戦となった。 上杉軍は一揆勢を圧倒し、びや川が一揆勢の血で赤く染まったと伝えられる程の大勝となった。上杉軍は、富山城へ敗走する一揆勢を追い立て、その勢いのまま富山城を包囲した。 なお謙信は、戦いの後に尻垂坂において首実検を行い、それらを埋葬している。謙信は既に、上野の北条・武田軍が退散した知らせを受け、援軍として上田衆を急ぎ越中へ呼び寄せており、富山城の落城は時間の問題となった。 17日未明、富山城の一揆勢は小旗をたたんで日宮城方面に退去し始める。その晩には、飛騨高原諏訪城主の江馬輝盛が謙信の要請を受けて出陣しており、山浦国清が出迎えている。上杉軍は神通川を越え西進し、翌18日、謙信は一揆方の滝山城(別称・富崎城で現・富山市旧婦中町)にも攻撃を開始した。 上杉軍は廻輪(くるわ)を破り実城(みじょう)だけにしたため、籠城していた水越氏は河田長親の役所へ投降。謙信はこれを助命した上で城内を焼き払い、23日に破却している。10月1日、富山城が落城。18日には一揆方の椎名康胤が降伏を申し出るが、謙信はこれを許さず、越後に帰国した。 合戦後の経過 尻垂坂の戦い等、一連の攻防で越中中部から駆逐された加賀・越中一向一揆は、これ以降勢力を衰退させていった。元亀4年(1573年)正月、一向一揆は和平を提案したため、越中在陣の謙信は和議を結んだ。この和議をきっかけに、椎名康胤は長尾顕景(後の上杉景勝)・栗林政頼らを介して謙信に再び許しを請い、これを認められている。 謙信は、富山城を押さえ帰路につくが、その途中で武田信玄の使者・長延寺実了の画策により、一揆勢が富山城を占領。謙信は即座に引き返し、富山城を奪還。康胤を再び降伏させた。一揆勢は神通川を渡河して敗走。 これにより神通川以東は、完全に謙信の支配下となった。4月25日に謙信は越後に帰国している。 同年7月から8月にかけて、謙信は再度越中へ出陣し、未だ敵対する椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破。これにより、ほぼ越中の平定を達成した。 これ以降謙信は、関東の北条氏政の動向を牽制しつつ、引き続き加賀・能登へ西進して京への上洛を目指していく。 一方の加賀・越中一向一揆は、後に謙信に従うことで和睦し、以降は織田信長を共通の敵とするようになる。
2023年10月28日
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尻垂坂の戦い(しりたれざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)9月初旬に越中国尻垂坂(現 富山県富山市西新庄)において、上杉謙信軍が加賀一向一揆・越中一向一揆連合を破った戦い。富山城の戦いと言われることもある。 加賀・越中など北陸の一向一揆は、織田信長と戦った石山本願寺の一向一揆と同様に大量の鉄砲を保有しており、また一向宗の宗徒で構成されていたため団結力も強固であった。 謙信にとって一向一揆は、武田信玄や北条氏康に次ぐ強敵であった。謙信はこの尻垂坂の戦いを含む前後一連の戦いでの勝利により、越中において一揆等の反上杉勢力に対する優位が決定的となり、主導権を確立して後に越中を平定。京への上洛を目指す道を拓いた。 上杉謙信と越中一向一揆の対立 越中は元来、加賀・越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆が強固な勢力を持つ国であった。越後の上杉謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆と激しい戦いを繰り広げてきた。謙信が越後守護代として家督を相続し、さらに越後国主になって以降も越中一向一揆との対立は続いた。北信濃・川中島において謙信と敵対した甲斐の武田信玄は、謙信の背後を牽制するため、加賀一向一揆・越中一向一揆を扇動した。 弘治2年(1556年)8月23日、謙信の家臣、箕冠城主・大熊朝秀は信玄に通じて謀反を起こし、一揆勢を率いて越中から越後へ攻め入ったが、謙信は上野家成を派遣し、これを破っている。(駒帰の戦い) 永禄3年(1560年)3月29日、謙信は、一揆勢と結び勢力を拡大する越中守護代・神保長職を、その居城・富山城に攻め勝利を収めている。 しかし謙信が関東へ出陣し、相模の北条氏康と戦っている間、長職は再起して攻勢に出た。同5年(1562年)9月、謙信は長職を増山城に攻め、降伏させた。 永禄11年(1568年)、謙信は、先年家臣団の反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱の復権を支援するため、越中へ侵攻。放生津で一揆勢と対陣しつつ、3月16日に守山城へ攻撃を開始した(放生津の戦い)。 これに対し、越中一向一揆の頭領である勝興寺(安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆の頭領・金沢御坊の坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信の越中侵攻を報じ、警戒を呼びかけた(『勝興寺文書』)。 25日、謙信の家臣で揚北衆の本庄繁長が本国・越後で反乱を起こしたとの知らせが入り(本庄繁長の乱)、攻撃を中止。越後へ引き返し鎮圧に向かう謙信の背後を突くべく、顕栄は反撃に出ている。なお顕栄の息子・顕幸も父に従い謙信と長年争っていたが、後に大阪石山本願寺籠城に加わり織田信長とも戦っている(石山合戦)。 翌・永禄12年(1569年)、本庄繁長の乱を鎮圧した謙信は大軍を率いて、前年に離反し一向一揆と結んだ越中守護代・椎名康胤の立て籠もる松倉城を百日間に渡り攻撃した。しかし越中三大山城に数えられる松倉城の守りは堅く、また関東の不穏な情勢もあり落とすことが出来なかった。(松倉城の戦い) 元亀2年(1571年)2月から3月にかけて、謙信は2万8千の大軍を率いて越中へ出兵し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させた。 さらに敵方となっていた富山城・新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。 越中一向一揆と加賀一向一揆の合流 元亀2年(1571年)4月28日、武田信玄の後継者である武田勝頼は北陸における一向一揆の主将・杉浦玄任(杉浦壱岐守)に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して謙信に対抗するよう求めた。信玄は、上洛する上で背後の敵である謙信を牽制する必要があった。このため信玄は石山本願寺の顕如に、越中で一向一揆が謙信に対し蜂起するよう要請している。 翌・元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が謙信に対して挙兵し、これに呼応して越中一向一揆の拠点である勝興寺・瑞泉寺が一斉に蜂起した。 杉浦玄任は永禄10年(1567年)に越前に侵攻し、朝倉義景との戦いで勇名を馳せた名将であった。また勝興寺を率いていたのは顕栄、瑞泉寺を率いていたのは第七世住職・顕秀であった。 さらに椎名康胤と神保長城(神保長職の子)も一揆勢に味方する。これに対し謙信は、関東・上野において信玄及び相模の北条氏政と対立していたため、自ら出馬できず。上杉家家臣である越中の鎮将・河田長親は、一揆勢に対抗するため吉江忠景を派遣。5月19日、忠景は太田保本郷(現・富山市)に陣を張った。 越中一向一揆は加賀一向一揆と合流、3万を越える大軍に膨れ上がった一揆勢は23日、河上五位庄(現・高岡市)に陣を張った。上杉方の前線基地・日宮城(火宮城とも。現・射水市)は一揆勢から激しい攻撃を受け、城兵の鉄砲の弾薬が不足するなど危機的状況に陥った。同日、守将の神保覚広・小島職鎮等は、新庄城(現・富山市)の鰺坂長実に後詰めを求めている。
2023年10月28日
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元亀元年(1570年)4月、氏康の七男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「不識庵謙信」を称した。 元亀2年(1571年)2月、2万8千の兵を率いて再び越中国へ出陣。椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ、数年に亘り謙信を苦しめた松倉城や新庄城・守山城などを攻撃した。康胤の激しい抗戦を受けるも、これらを落城させる。Ø しかし康胤は落ち延びて越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続ける。その後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになる(越中大乱)。 11月には北条氏政から支援要請があったため関東へ出兵。佐竹義重が信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。なおこの年の2月、謙信と共に信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈っている。 14「越中一向一揆・北条との戦い」Ø 元亀2年(1571年)10月、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去る。元亀3年(1572年)1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対する。また上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動。これにより謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになる。 尻垂坂の戦いØ 元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。 5月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城・白鳥城・富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。 加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。 蓮如は文明6年(1474年)から文明7年(1475年)までの間、吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。 文明5年(1473年)には富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。 蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していたが、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。 ところが、今度は越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆)。 また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。 長享2年(1488年)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、政親を高尾城に滅ぼした(長享の一揆)。 足利義尚は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。以後、加賀に宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。 ところが、永正3年(1506年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川の戦い・般若野の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、享禄4年(1531年)には大小一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された。天文15年(1546年)に尾山御坊(金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。弘治元年(1555年)、永禄7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。 元亀3年(1572年)は杉浦玄任を総大将とする一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突、各地で上杉軍を破るなど猛威を振るった。 しかし謙信率いる上杉本隊が到着するに至り戦況が悪化し、尻垂坂の戦いで大敗を喫し、一揆の勢いに陰りが見え始める。 石山本願寺の降伏、尾山御坊の陥落により一揆は解体された。尾山御坊を攻略したのは佐久間盛政だった(一揆を沈静化させたのは前田利家だった、と言う説がある)。 8月、謙信は越中へ出陣し、一向一揆の大軍と戦い激戦となった。謙信は新庄城に本陣を置き一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引く。しかし9月に双方が城を出るに至り、野戦での決戦となった。謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。
2023年10月28日
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これは氏真が遠江を失い駿河の支配まで揺らぐようだったら今川家臣を調略して駿河に攻める計画を明かしたものと考えられている。 実際には反乱が駿河に広がることは無かったが、信玄が同盟の破棄を考え始めたきっかけとして注目される[9]。 武田氏は永禄初年頃より織田氏との外交関係をもっており、信長は永禄8年(1565年) 9月に将軍足利義昭を擁立し上洛を行っている。信長は今川の当敵であったものの同年に信玄庶子の美濃国衆を通じて高遠領主諏訪勝頼(武田勝頼)との婚姻が成立している。 同年10月には、武田家において氏真妹を室とする信玄嫡男の義信が謀反を企てたとして幽閉され、永禄10年(1567年)に自害する事件が発生する(義信事件)。義信事件の背景には武田家中における外交方針の対立があったと考えられている。 氏真は同年6月に甲斐への塩止めを敢行しており、11月には氏真の要請によって義信の妻が今川家に帰され、さらに武田氏の当敵にあたる越後上杉氏との同盟関係を模索している(ただし、丸島和洋は武田・徳川による今川領国の分割計画を知った上杉謙信から今川氏真に申し入れがあったとする説を採る)。 武田氏は徳川氏などに今川領国の分割を持ちかけており、甲駿同盟は手切に至り崩壊していると見なされている。 当時、三国同盟以外に、武田・徳川の今川領国の密約、武田・織田の甲尾同盟、徳川・織田の清洲同盟が交わされ、織田・上杉両氏の間でも外交的なつながりがあった。更に信長の仲介で武田信玄と上杉謙信の和睦が一時的にも成立しており、両者は必ずしも不倶戴天の敵ではなく状況が許されれば和解・連携の可能性が存在し続けていた。こうした状況下で武田・今川両氏ともお互いの外交政策の情報が伝わっており、信玄は氏真による義信の妻の帰還要請や謙信との交渉を同盟破棄の大義名分に用いようと考えて氏真の非を北条氏などに訴え、一方では武田・今川・上杉による「甲相越三国同盟」成立の噂を流して今川家中を動揺させようとしている。 翌永禄11年(1568年)、武田氏は徳川氏と共同で駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏は北条氏にも今川領国の割譲を持ちかけているが、伊勢宗瑞(北条早雲)の代から今川氏との友好関係(前述のように今川氏の支援がなければ早雲の出世も不可能であり、両家は言わば義兄弟に近い関係であったという)があったうえ、氏真の正室であった氏康の娘・早川殿が氏真とともに遠江国掛川城へ徒歩で逃げる羽目になったことに氏康は激怒し、駿相同盟を重んじて娘婿・氏真を保護すべく駿河に援軍を出した。これにより武田・北条間の甲相同盟も崩壊する。 氏康は嫡孫北条氏直が氏真の後の今川の家督を継ぐ形式を整え、駿河支配の名目を整えた。 北条氏は武田氏を攻囲するため越後上杉氏との同盟をもちかけ(越相同盟)、翌永禄12年(1569年)に武田氏は牽制のため北条領国への侵攻を行ったほか(小田原城包囲、三増峠の戦い)、信長・将軍義昭を通じて上杉氏との和睦を図るなど(甲越和与)、三国同盟の崩壊後は将軍義昭・信長政権など中央情勢と連動して展開していくことになる。 Ø 信玄はさらに氏真を破り駿府城を攻略した。これにより力の均衡が崩れて氏康の居城・小田原城に危機が迫ったため、氏康はそれまで盟友であった信玄と激しく敵対する。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える苦しい情勢となった。Ø 永禄12年(1569年)1月、氏康は輝虎に和を請う。これに対し輝虎は当初、この和睦に積極的でなかった。Ø しかし度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されており(第二次関宿合戦)、これを救うためにも北条氏との和議を模索し始める。3月、信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる氏康と同盟する(越相同盟)。 この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保したため、これより本格的に北陸諸国の平定を目指すことになる。しかし一方で、北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱く結果となった。長年に亘り北条氏と敵対してきた里見義弘は輝虎との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。なお輝虎はこの年の閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈っている。 永禄12年(1569年)8月、前年に続いて越中へ出兵し、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に亘り攻囲(松倉城の戦い)。 支城の金山城を攻め落としたものの、信玄が上野国へ侵攻したため松倉城の攻城途中で帰国し、上野国の沼田城に入城した。 元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。10月、氏康から支援要請を受けたため上野へ出陣し、武田軍と交戦した後、年内に帰国した。
2023年10月28日
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同盟の効果 同盟締結による三者の利益は明らかで、 武田氏では、信濃における覇権を確固たるものにするため、天文22年(1553年)から始まる川中島の戦いで越後国上杉氏との数次にわたる争いが本格的になった。この合戦では、甲相同盟により同じく北武蔵において上杉と対決していた北条と相互に兵を出し、今川氏からも援軍が派遣されている。不利な点は、今川氏と北条氏が三河から下総までを支配しているため、日本海側に領地を獲得しない限り直接海に出られない、又交易出来ないということである。 北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、北武蔵侵攻において武田氏とは上杉謙信という共通の敵を持つことで甲相同盟により後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めることが可能となった。 不利な点は上洛する道を今川氏と武田氏に塞がれていることが挙げられる。ただし北条氏はそもそも上洛を志向していないという説が有力である。 また、永禄9年10月26日に今川氏真の名前で駿府の今宿に出された法度に駿河・関東が共に凶作で伊勢国から駿府を経由して関東に売却する米に関しては米座でなく商人頭の友野氏が扱うように命じた規定があり、関東が凶作で北条氏の領国が飢饉に陥った時には今川氏が救援の手を差し伸べていたことが判明する。 今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。 武田氏の太平洋沿岸への進出が事実上不可能であること、北条氏が将来上洛を企画しても陸路では難しいことを考慮すると、三国同盟は今川氏が最も得をすると考えられる。(そもそも働きかけているのは今川家の太原雪斎である)。 その一方で、三国同盟で解決出来なかった問題もあった。例えば、三河・信濃・美濃の国境地帯に勢力を置く、東濃地方の遠山氏は隣の信濃の木曽郡・伊那郡が武田氏の支配下に入ると、その傘下に入って美濃の斎藤道三に反抗しつつ、三河北部にも度々進出して今川氏と戦っている。 斎藤氏と織田氏が同盟を結んでいる時期には武田氏が遠山氏の動きを抑えつつ今川氏と共同で対処する方針を取ったが、斎藤道三の死後に織田氏と斎藤氏が敵対関係に入ると、遠山氏の動きも活発化して今川氏の三河進出に支障を来たす事態となった。 善得寺会盟 甲相駿三国同盟は別に「善得寺会盟(善得寺の会盟、善徳寺の会盟、または会盟を会談)」と呼ばれることがある。 また「善得寺会盟」を出来事、甲相駿三国同盟を外交状態と、区別して表記されることもある。が、「善得寺会盟」自体の史実性は否定されている場合も多い。 善徳寺は現在の静岡県富士市今泉に所在した臨済宗寺院で、創建は南北朝時代。善徳寺城と呼ばれる城郭でもあった。 今川義元も幼い頃に入山し、後北条氏との争いで焼失するが、その後再建された。 この同盟の功労者として今川氏に仕えた太原雪斎の名がよく挙げられている。雪斎は善得寺で修行していたことがある僧で、主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説き、武田信玄と北条氏康をも説得したとされる。 そして、三者の会談の場として、権力から中立である寺院がふさわしく、自身とも縁が深い善得寺を斡旋した、というものである。 この三者会談は小説や歴史ドラマなどにも取り上げられることが多く、武田信玄、北条氏康、今川義元の三人が実際に顔を合わせて盟約について話し合った様子が描かれている。 有名なものでは、NHKの大河ドラマ『武田信玄』で、三人が富士山の見る方角について和やかにかつ敵愾心を持って会談する場面がある。 しかし、このように戦国大名が直に対面する機会は全体から見ると非常に希であること、この「会盟」の出典が北条側の軍伝のみであり「会盟」の記録に誤った部分があること、またこの時期の武田氏は、すでに上杉氏との争いで予断を許さない状況にあり、信玄の出席に現実味がないことなどから、「善得寺会盟」なる逸話は創作であるとされるのが一般的である。 実際には、太原雪斎の働きかけによって武田氏・北条氏それぞれの重臣が協議を行い、当主の合意が得られた結果、と考えられている。 外交情勢の変化と三国同盟の崩壊 永禄年間には三国を巡る外交情勢にも変化が生じ、今川氏は尾張国内を統一し台頭していた織田信長と対立し、永禄3年(156年)には桶狭間の戦いにおいて義元が討死し氏真が当主となるが、今川領国は三河において松平氏(徳川家康)の自立を招くなど動揺を招いた。 一方、武田氏は永禄4年9月の第四次川中島の戦いを契機に川中島四郡の支配を安定させ、上杉氏との抗争は続くものの北信を巡る戦いは収束していた。 ところが、今川氏真が三河を失い、続いて永禄6年(1563年)に遠州忿劇と呼ばれる国衆の大規模反乱が起きると、信玄は穴山信君の重臣である佐野主税助に対して秘かに反乱が駿河にまで広がるようであれば(出陣中の上野国から)急遽帰国して「彼方の調」を行う旨を伝えている。
2023年10月28日
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0年(1541年)に武田家では信虎嫡子の晴信(信玄)による信虎の駿河今川家への追放が起こり、晴信へ当主交代する。晴信は翌天文11年に信濃諏訪氏との同盟を手切とし、諏訪侵攻を行った。さらに晴信は天文13年(1544年)に相模北条氏との和睦を進め、翌天文14年には今川・北条間の第二次河東一乱を調停し、今川・北条に山内上杉氏を加えた三者間での和睦を成立させる。その後、後北条氏と山内上杉氏の和睦は崩壊し再び敵対関係に入り、河越城の戦いで後北条氏は大勝を収める。 天文22年には信玄娘の黄梅院が北条家に嫁ぐなど武田と今川・北条三者の間では和睦と婚姻が行われ三国同盟の下準備が整い、一方で武田氏は信濃の領国化(信濃侵攻)を本格化させたため信濃国衆は山内上杉氏を頼り、天文16年の佐久郡志賀城攻めを機に山内上杉氏との関係は険悪化していく。 今川氏との同盟関係は晴信への当主交代後も継続され、天文19年(1550年)に義元正室であった信虎娘が病死するが、天文21年には義元娘が晴信嫡男義信に嫁いだことで同盟は回復する。 武田氏が晴信期に外交方針を転換し今川・北条との同盟関係に転じた背景には信濃侵攻の本格化が指摘され、信濃侵攻においては守護小笠原氏や北信国衆村上氏との抗争が激化し、天文17年(1548年)の上田原の戦いにおいて武田氏は大敗している。こうした経緯から武田氏は今川・北条との同盟関係により信濃侵攻を安定して進められるようになり、越後の長尾景虎(上杉謙信)との抗争が激化していく(川中島の戦い)。 なお、甲斐においては後北条領国の相模に接する郡内地方には譜代家老の小山田氏、今川領国の駿河に接する河内地方には御一門衆の穴山氏がおり、それぞれ甲相・甲駿関係において取次を務めるなど大名間に存在する国衆として重要な役割をになっている。 甲相関係においては小山田氏が主に取次を担当しているが、宿老で晴信初期に諏訪郡代を務めている板垣信方、晴信側近の駒井高白斎、向山又七郎らが外交に携わっているほか、甘利信忠の関与も可能性が考えられている。なお、小山田氏は後北条氏の軍役帳である『小田原衆所領役帳』にも向山又七郎とともに名が記載されており、後北条氏から取次給を得ていたと考えられている。 甲駿関係においては一門の穴山氏が担当しているが、ほか板垣信方や駒井高白斎の関与が確認されている。 北条氏(後北条氏) 相模小田原の北条氏は元々室町幕府の有力な官僚である伊勢氏の出身であり、足利一門である今川氏と近しい関係にあった。 北条氏の始祖である伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿は今川義忠の正室であり、義忠と北川殿の子今川氏親(盛時の甥)を盛時が家臣として補佐していたことから、盛時が自立した後も同盟関係(駿相同盟)にあった。 しかし、天文6年(1537年)に今川家の後継者争い(花倉の乱)に乗じて、武田氏と今川氏が婚姻同盟を結ぶことになると、早雲の後を継いだ氏綱は兵を挙げて駿河東部に侵攻し(河東一乱)両氏と衝突。のちに講和に応じ和平への道を選んだが、緊迫した情勢は続いた。 天文15年(1546年)、北条氏は河越夜戦の勝利によって武田・今川の連携を後ろ盾としていた両上杉氏・古河公方を駆逐し関東での支配圏を少しずつ広げていた。その後和睦成ったとはいえ今川氏との緊張は続いたが、関東支配のためには武田氏や今川氏との関係悪化は不利益との判断から、両氏との同盟締結への道を模索していた。 今川氏 駿河府中の今川氏は、今川氏輝が北条氏との同盟関係を重視し、武田氏とは敵対していた。 しかし天文5年(1536年)、氏輝の死去によって後を継いだ今川義元は、家督相続に際して、天文6年(1537年)に武田氏と婚姻することで外交方針を転換した。このため北条氏との対立を招き、富士南麓の領土紛争に発展した北条氏との関係は、講和によってひとまずの沈静をみた。 その一方で今川氏は遠江、三河へ進出し、尾張の織田氏とも対立、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いなど大規模な軍の衝突も起きていた。 このように東と西に敵を持つことは戦略上好ましくないと考えた義元は、武田・北条両氏との関係修復の上、新たな盟約を結ぶことを求めた。 婚姻同盟の締結 それぞれの利害関係から合意にいたった三国の同盟は、当主である武田信玄、北条氏康、今川義元の娘がお互いの嫡子に嫁ぐ婚姻同盟として成立した。 天文21年(1552年):今川義元の娘嶺松院が 武田信玄の子武田義信に 天文22年(1553年):武田信玄の娘黄梅院が 北条氏康の子北条氏政に 天文23年(1554年):北条氏康の娘早川殿が今川義元の子今川氏真に このように三国の盟約が実現された。
2023年10月28日
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しかしその後、共同して謙信と戦っていた信玄と氏康の同盟関係に亀裂が生じ、両者は駿河今川氏を巡って激しく敵対する事態となった。 氏康は謙信との和睦を要請し、謙信がこれを受け入れ越相同盟が成立したため、関東における上杉・北条の争いは一旦収束を見た。 元亀元年1月の戦い 元亀元年(1570年)1月、再び背いた昌綱を従わせるため、謙信は唐沢山城に迫った。しかし真冬の時期の攻城はさすがに不可能であったため、謙信は兵を引いた。 越中への進出 永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束し、武田氏は駿河今川領国への侵攻から三河徳川氏との対決に推移し、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切となった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍義昭・織田信長らとの関係で推移する。 永禄11年(1568年)3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)。7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した。 ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。 その上で11月に繁長の居城・本庄城に攻撃を加え、謀反を鎮圧する(本庄繁長の乱)。 このころ甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化し、同年11月25日に今川氏真は武田氏の当敵である上杉氏に和平をもちかけ信濃への牽制を要請しているが、謙信はこれを退けているØ 永禄12年(1569年)には蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。 13「越相同盟」 永禄11年(1568年)12月、氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた信玄と断交、長年敵対してきた輝虎との和睦を探るようになる。 甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。 甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。 締結時に3者が会合したという伝説(後述)から善徳寺の会盟とも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。 戦国期には地位権力としての戦国大名の確立にともに大名権力による国内統一が行われ、大名領国の拡大に伴い領国同士の境界紛争が生じ、戦争や和睦や同盟といった外交関係がもたれるようになった。甲斐・駿河・相模の三国においても守護武田氏や今川氏、後北条氏による大名領国が形成され、領国間に存在する国衆などを通じて境界紛争や和睦など外交関係をもつようになっていた。 戦国大名同士の同盟は藤木久志によれば攻守軍事協定・相互不可侵協定・領土協定・婚姻の4つの要素から成立し、甲相駿三国においても戦争・和平を繰り返しながらそれぞれの要素を満たして同盟関係の成立に至り、東国情勢に大きな影響を及ぼした同盟として機能した。 戦国期武田氏の外交関係 甲斐国では応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱を契機に守護武田信満が没落したため国衆が台頭し、守護武田家内部の内訌と有力国衆の抗争、関東情勢の影響が複雑に関係し、有力国衆は駿河今川氏や相模後北条氏、信濃国衆ら国外勢力と結び乱国の様相を示していた。 信虎期には甲斐国内の統一が達成され、信虎は天文6年(1537年)には娘(於豊)が今川義元に嫁いだことで駿河今川氏との同盟が成立したほか(甲駿同盟)、信濃諏訪氏や上野の関東管領山内上杉氏(当主は上杉憲政)、武蔵扇谷上杉氏と同盟を結び信濃佐久・小県方面への侵攻を志向していたが、両上杉氏と同盟したため後北条氏とは敵対関係にあった。 なお、信虎は上杉朝興の娘を嫡子の晴信(信玄)の正室に迎えて扇谷上杉氏との関係強化を図ったものの、晴信夫人は間もなく死去している。
2023年10月27日
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戦いの推移 永禄3年2月の戦い 永禄2年とする説もある。約十回に及ぶ唐沢山城の戦いで唯一、昌綱が謙信と手を組んで北条氏と戦った合戦。北条氏康の子・氏政率いる3万余の大軍が唐沢山城を攻撃する。昌綱は抗戦し、謙信に救援を要請した。 これに対し謙信は寡兵で北条軍を破ったとされる。しかしこの合戦は創作の可能性が指摘されている。 永禄4年12月の戦い 永禄4年(1561年)3月、謙信は昌綱らを従えて氏康の居城・相模の小田原城を包囲した。氏康は窮地に陥るも、陥落するには至らず上杉軍は越後へ引き上げた。上杉軍が去ると氏康は反撃を開始し、北条軍は唐沢山城に迫った。 謙信は信濃の川中島で、甲斐の武田信玄と死闘を繰り広げており、昌綱に援軍を送る余裕はなかった。このため孤立した昌綱は氏康に降伏し、これを反逆とみなした謙信により攻撃されるに至った。しかし唐沢山城の堅牢さと冬の到来もあり、謙信は兵を引き上げた。 永禄5年3月の戦い 謙信は上野の厩橋城で年を越した後、永禄5年(1562年)3月に唐沢山城へ攻め寄せた。しかし堅固な唐沢山城を攻め切れず、再び兵を引き上げた。昌綱は昨年に続いて二度も謙信を撃退したことで、その武勇を戦国の世に知らしめることになった。謙信はこの後、越中で神保長職が反乱を起こしたため越中出兵を余儀なくされ、関東における北条氏の勢力回復を招くことになる。 永禄6年4月の戦い 永禄6年(1563年)2月、氏康は信玄の援軍を得て、上杉方の武蔵における最重要拠点・松山城を攻撃、これを陥落せしめた。 謙信は越中から急遽越後へ引き返し、雪に埋もれた三国峠を越えて関東へ戻り救援に向かっていたが、間に合わなかった。関東を留守にしている間、他の関東の多くの城も北条方に寝返っていたため、謙信はこれらを次々に攻め寄せて降伏・開城させていった。この謙信の勢いの前に、昌綱はあえなく降伏し、唐沢山城は開城した。 謙信がこの年の冬から翌年の春に至る関東出兵で降伏・開城させた城は、武蔵の騎西城・忍城、下野の唐沢山城・祇園城、下総の古河城・結城城、常陸の小田城など多数に上った。 永禄7年2月の戦い 永禄7年(1564年)2月、昌綱は謙信が下野を去った後に、再び反旗を翻した。唐沢山城は、上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心・古河城(古河御所)へ進軍する際の経路を押さえる拠点であり、昌綱の度重なる反抗は謙信にとって大きな痛手であった。この2月の戦いは、10回近い唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦となり、上杉軍は激しく攻め立てたが、佐野軍は徹底抗戦した。 唐沢山城は急峻な山頂にある上、水の手も豊富であり、謙信といえども攻め落とすのは容易ではなかった。 しかし昌綱が頼りとする北条氏は当時、安房の里見義堯と国府台で戦っており、援軍を送ることはなかった。 さすがの唐沢山城も孤立無援で謙信に攻められては守り切るのは難しく、上杉軍の猛攻の前に三の丸・二の丸を奪われ本丸にも迫られた。昌綱は、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、ついに降伏。謙信は、義昭と広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。 この戦いで斎藤朝信と吉江景資、色部勝長(揚北衆の一人)、が軍功を挙げ、謙信から感状を賜っている。 永禄7年10月の戦い 8月、謙信が信玄と川中島で5度目の戦いに忙殺されている間、信玄と同盟する氏康は再び北関東へ軍勢を送って、唐沢山城を脅かした。昌綱は圧力に屈して再び謙信から離反し、上杉軍の再侵攻を招いた。10月、謙信は唐沢山城に迫ったため、昌綱は降伏。昌綱から人質を取って越後へ帰国した。 永禄10年2月の戦い 前回の戦いで昌綱から人質を取ったこと及び、北条氏が安房の里見攻めに主力を差し向けていたため、昌綱はしばらく謙信から離反することはなかった。 しかし謙信は、西上野・北信濃で武田氏・関東各地で北条氏・越中で一向一揆と、三方面での戦いを強いられており、永禄9年(1566年)に下総の臼井城攻めおよび上野の和田城攻めに失敗したことで、多くの関東諸大名が北条・武田方へ離反してしまった。 北条氏の勢力が再び下野に迫るに及んで、昌綱は再び北条氏へ離反した。永禄10年(1567年)2月、謙信は唐沢山城へ攻め寄せたが、関東諸大名の援軍もなく苦戦。冬の寒さと雪もあり、雪解けを待つことにして撤退した。 永禄10年3月の戦い 雪解けとともに唐沢山城へ殺到した上杉軍の前に、佐野軍は降伏を余儀なくされた。度重なる離反にも関わらず、謙信は再び昌綱を助命している。 唐沢山城を取り戻したものの、この年には上杉方の関東における最重要拠点・厩橋城の城代・北条高広が北条方に寝返る事件もあり、謙信の関東管領としての威信が失墜し兼ねない事態となった。
2023年10月27日
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臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)は、戦国時代の永禄9年(1566年)に北条氏与力の千葉氏・原氏と上杉氏の間で起きた戦闘。 永禄9年(1566年)の正月末に、越後国の戦国大名・上杉謙信(当時は輝虎)は、下野国佐野に向けて軍を進めたのち、常陸国へ出兵。 先の上杉軍が攻略していた小田城を奪取した小田氏治を攻め、2月16日にこれを開城させると城内の人々の売買の許可を出す。 2月中に下総国西北部へ侵入し、関越軍による乱暴狼藉の禁止の制札を松戸市の本土寺に出した。 3月には船橋大神宮にも同様の制札を発給した[3]。船橋は江戸湾の重要な湊で、物資の集積地として繁栄しており、船橋を掌握して、兵糧等の物資を調達して軍事行動を展開しようとしていた。 そして3月20日、北条氏に与する千葉胤富の家臣・原胤貞の治める下総臼井城へ進攻、上杉勢が有利に戦闘を進め、実城の際まで迫ったが、胤貞より指揮を託された軍師・白井入道浄三の知謀や、この戦いでの活躍を赤鬼と畏怖されるようになる北条軍・松田康郷の武勇によって、情勢が変化(『北条記(相州兵乱記)』、『関八州古戦録』)。3月23日には上杉勢は数千人の死傷者を出したうえ(『戦国遺文』)、上杉方の里見氏・酒井氏の陣ががら空きとなってしまい、23日の晩に上杉勢がそこに移った。このことから攻撃方の主力は上杉勢や北関東の諸将ではなく、里見氏・酒井氏の軍勢であったことが判明する。24日には上杉勢の敗北が決定的となった。撃退された要因は籠城方の健闘にあったといえる。上杉勢は4月半ばに退去した。 室町幕府足利将軍家の後継者である足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井まで持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかと指摘されている。 この臼井城での敗北により、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸将が離れていくこととなり、関東平定が困難な状況に陥った。このことが、北条氏からの越相同盟の申し入れを受け入れる原因のひとつになったといわれる。 敗軍の損害について 北条方の史料によれば、上杉軍の撤退が始まると、北条氏政は武田信玄に「敵数千人手負死人出来」(『諸州古文書』)と伝え、足利義氏は臣下の豊前山城守に「去廿三日大責致し、五千余手負い死人出来せしめ、廿五敗北の段、孚以って肝要御満足に候」(『豊前氏古文書抄』)と書き送った。 しかし、この死傷者数には誇張があり、上杉方の記録である「房州人数三百余人打ち死に」(『海上年代記』)が実態に近いとする論考があるが、なぜこの数値を誇張と判断したか、上杉方の記録を正しいとみたか、その論拠に関しての言及はない。『諸州古文書』と『豊前氏古文書抄』の記録は「手負死人、(死者と負傷者込み)」であり、『海上年代記』は「打ち死に」に限っているという違いもある。Ø 臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。Ø 9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。Ø さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。Ø 関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。Ø 永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。しかし厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。Ø 4月、高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)(唐沢山城の戦い)。 唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)は、永禄年間から元亀年間にかけて、下野国唐沢山城(現在の栃木県佐野市富士町、栃本町)において、越後の上杉謙信と下野の佐野昌綱の間で約10度にわたって繰り広げられた戦い。 下野国の唐沢山城は、下野南部における重要拠点であり、上杉謙信が関東出兵する際に押さえておく必要のある城であった。当時の唐沢山城主は、佐野氏の第15代当主・佐野昌綱であった。 昌綱は、越後の上杉謙信と相模の北条氏康という二大勢力に挟まれる苦しい情勢の中、御家の存続と領民を守るため、武勇と知略をもって戦国時代の荒波を乗り切ろうとした。唐沢山城は、関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城であり、謙信はこの城の攻略に手を焼くことになる。 このことから「関東一の山城」と言われるようになった。幾度も攻め寄せる上杉軍に対し、昌綱は唐沢山城に篭城して時に撃退し、時に降伏した。しかし上杉軍が越後へ去って北条軍が攻め寄せると今度は北条氏に降伏し、再び上杉軍が攻め寄せると上杉氏に降伏するという臨機応変な状況判断で凌いだ。 戦国時代において多くの戦国大名が滅亡する中、佐野氏が命脈を繋ぐことができたのは、昌綱の才覚と唐沢山城の堅固さによるものであった。
2023年10月27日
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この時の戦闘の激しさを、真壁氏幹の郎従・稲川石見守という18歳の若武者が目撃している。「武者ぼこりの一面に立つ中に、打ち合わせる太刀の光が電光のように煌めくだけであって、戦い終わってからも戦場に黒い霧が立ち込めたように、おぼろおぼろに見えた」と後に語っている。 小田方の先鋒・菅谷政貞は大いに戦功を上げたが、嫡子・彦次郎政頼は弓弦絶え、矢種尽きて苦戦しているので、左右の者はひとまず退くことを勧めたが、命を捨てて忠節を尽くすのはこの時ぞと叫び、群がる敵中に切り込んで討ち死にした。 申の刻(16時)まで激戦は続き、小田勢は地の利を生かして奮戦したものの敗色は濃くなる一方であった。氏治は朝方渡った筑輪川に馬を乗り入れ引き返そうとしたが、あまりに馬が疲れているので馬首を川上に引き向けて水を飲ませているところへ、上杉勢が6,7騎追いかけて来て矢を放った。 札よき鎧なので裏まで貫通せず、氏治は川岸を駆け上り敗れた兵をまとめて小田城に帰還し防御に手筈をして上杉勢の攻撃に備えた。 小田城の戦い 謙信に出兵を要請した佐竹義昭・真壁氏幹は山王堂の戦いが終わった頃にようやく到着し、敗走する小田勢を追撃して小田城に殺到した。氏治は篭城したが、小田城は平城で防御がさほど強固でなく、大軍に包囲され攻め立てられては持ち堪え切れなかった。北条の後詰もなく、氏治は夜ひそかに数十騎とともに藤沢城へ逃れた。氏治に代わって戦い指揮を執った老臣・信太治房は最後まで城内で戦い自害。小田城は落城した。 Ø 同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。Ø 結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した(唐沢山城の戦い)。 第五次川中島の戦い 永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。 しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。Ø これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏・高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。 12「関東の上杉方諸将の離反Ø 永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。 6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。 さらに5月には、将軍・足利義輝が三好三人衆の謀反により殺害された(永禄の変)。 永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。 3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。 撃退された要因は籠城方の健闘であったとされる、また足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されている[18](臼井城の戦い)。
2023年10月27日
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12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、間に合わず松山城は落城。Ø しかし輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰を降伏させた。 次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。Ø さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年。Ø 永禄7年(1564年)1月、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、28日に山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した。 山王堂の戦い(さんのうどうのたたかい)は、戦国時代の永禄7年4月28日(1564年6月7日)に常陸真壁郡山王堂(現在の茨城県筑西市山王堂)で行われた野戦。 越後の上杉謙信が常陸の小田氏治を破った戦い。当時関東で関東管領の上杉謙信と相模の北条氏康の二大勢力が激しく敵対しており、氏治は当初上杉方であったが北条方へ離反。上杉軍の常陸侵攻を招き、氏治は居城・小田城を出て野戦に及んだが、激戦の末敗退。 小田城は陥落して氏治は謙信に降伏し、北条氏の勢力圏は常陸から消失した。この戦いにおける謙信の並外れた速さは、「神速」と表現されている。 合戦までの経過 常陸国の情勢 常陸では小田城の小田氏治と太田城の佐竹義昭が対立していた。当初は両者とも上杉方であったが、氏治は北条氏康の誘いに乗り北条方に通じた。 さらに義昭と敵対する下野の那須資胤および下総の結城晴朝と相応援することを約した。これにより一時的に関東北東部は、上杉方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経と、北条方の小田氏治・結城晴朝・那須資胤という対立関係となった。 永禄6年(1563年)2月、佐竹義昭が上杉謙信の関東出陣に参加すべく常陸を留守にした隙を突いて、氏治は三村の戦いにおいて義昭の縁戚で佐竹方の府中城主大掾貞国を破った。貞国が敗れると、義昭は大掾氏の家督に実弟昌幹(後の小野崎義昌)を送り込み、常陸中部における佐竹氏の勢力を固めた。小田氏と佐竹氏の対立はいよいよ激しくなり、義昭は宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らと連署して、上杉謙信の出馬を要請した。 上杉謙信の出馬 永禄7年(1564年)4月、上野国平井にいた謙信は義昭らの要請に応え、ただちに陣触れして出陣。長尾一党・新発田重家(揚北衆)・柿崎景家・山本寺定長・色部勝長(揚北衆)・中条藤資(揚北衆)・竹俣清綱(揚北衆)・北条高広・河田長親らを前後に従え、夜に日をついで一気に押し進んだ。宇都宮氏家原を経て、27日(6月6日)夜には常陸国山王堂に着陣。 あまりの速さに関東諸大名の援軍は間に合わず、兵力は8000余騎であった。援軍要請した真壁氏幹が、使者の持ち帰った謙信の返書を披見している時に、謙信の先手は早くも宇都宮の氏家原に進軍したという注進に仰天したという。 山王堂はなだらかな丘陵地で、すそには差し渡し四町ばかり深泥の所があり、その向こうに三十町四方ほどの芦原がある。 戦略地形としては申し分ない所であり、謙信はここに本陣の旗をたて、諸軍を配置した。地元の者を呼んでこの辺りに名の知れた武士はいないかと聞くと、その者は海老ヶ島の平塚入道自省と小田四天王の菅谷・飯塚・赤松・手塚の名を挙げ、夜討ちの可能性があるから御用心あれと告げたが、謙信は意に介しなかった。 野戦・山王堂 小田氏治は謙信率いる上杉勢が押し寄せたと聞いて、菅谷政貞を先鋒として3000余騎を率いて小田城を出発。大島、酒寄を駆け抜け、茨城郡稲野村西念寺前諸塚あたりから筑輪川(筑波川)を渡った。 山王堂近くの三十町四方の芦原に着陣したのは28日の明け方で、川を背にして推尾村(押飛村)の南に旗を立て、先手を山王堂に向け、深田を前にして陣をとった。 28日(7日)辰の刻(8時)、上杉軍は丘上から静々と降りてきたが、突如疾風の如く、鬨の声をあげて深田を真一文字に突き進んできた。 小田方の菅谷政貞、信太治房、平塚弥四郎、赤松凝淵斉らは敵を寄せつけじと、弓・鉄砲・槍・薙刀で応戦。多くの死者が出たが、上杉勢は怯まず、討たれた味方の人馬を足代にして泥田を踏み越え、叫びながら切り込んできた。 さすがの小田勢も、この猛攻に耐え切れず十町ばかり退いて陣容を立て直そうとするも、上杉勢が追撃にかかったので、両軍入り乱れて鎬を削り、鍔を割り、黒煙を蹴立てて戦った。
2023年10月27日
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合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。しかし武田軍にとってはこの戦で家中の調整役であった信玄の実弟信繁が討ち死にしてしまったことが後の義信事件の遠因になったとする見解もある。 この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。[要出典] Ø 荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁・山本勘助・両角虎定・初鹿野源五郎・三枝守直ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えたという。Ø 第四次川中島を機に北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、永禄後年には武田・上杉間をはじめ東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。同年11月に武田氏は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始し、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。 生野山の戦い(なまのやまのたたかい)は戦国時代の永禄4年(1561年)11月27日に武蔵国生野山(生山とも。現・埼玉県本庄市・美里町)において、北条氏康と上杉政虎(上杉謙信)との間で行われた戦い。 この合戦の背景には武蔵国の中原を押さえる要衝・松山城の支配権を巡る北条氏と上杉氏の対立があった。 氏康は小田原城の戦いで政虎の攻勢を食い止めた後反撃に転じ、上杉方に奪われた武蔵北部を奪還するため、松山城・秩父高松城の攻略に向かった。 一方で武田信玄と4度目の川中島の戦いを繰り広げていた政虎は、越後国へ帰国後すぐに救援軍を差し向けた。 なお、この上杉軍を政虎自らが率いていたかは不明である。北条軍は、後詰めの上杉軍を、松山城に程近い生野山で迎え撃ち、野戦に及んだ。その結果、北条軍が勝利(小幡氏文書)。 上杉軍は下野方面へ撤退し、その後は唐沢山城へ陣を進めた(歴代古案)。一方北条軍はそのまま上野武蔵境まで進軍。秩父高松城を降伏させ藤田氏の勢力圏を奪い返した。だが松山城まで陥落させるには至らず。これ以降も氏康は信玄と同盟し、一方で謙信は里見義堯と同盟して関東の覇権を巡って熾烈な攻防を続けることになる。Ø しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させた。 その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。Ø 政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。Ø これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる(唐沢山城の戦い)。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。 11「北条・武田との戦い」Ø 関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。Ø 永禄4年、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた箕輪城主・長野業正が病死したため、この機を逃さず信玄は上野国へ攻勢をかける。同時に北条氏康が反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばす。Ø これに対し関東の諸将は、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗する。 関東出兵Ø 永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。Ø この後7月には越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、長職を降伏させた。ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。
2023年10月27日
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信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。 実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。 政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。 これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。 膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。 政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた[注釈 4]。 9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。 これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。 政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。 10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。 乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。 頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。 川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。 なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。 また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された上杉家御年譜では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。 形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。
2023年10月27日
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なお、山内上杉家では、室町時代後期に関東管領が天皇の綸旨にて任じられた事がある経緯から、関東管領職が朝廷の官職と同一とみなされて上杉顕定以降の関東管領は朝廷から任官を受けたり官途名を名乗る事は無く仮名を名乗り続け、関東管領前に任官を受けたり官途名を名乗っていた者は以降の官位を受けずに就任前の名乗りを続けていた(公式には官職名や官途名が優先されるため)。Ø 謙信が関東管領就任以降に官位を受けずに「弾正少弼」のままでいたのはその慣例に従ったとみられている(先例として顕定の前任者で管領就任後も兵部少輔を称し続けた上杉房顕がいる)[16]。 10「第四次川中島の戦いと北条の反撃」Ø このころ武田勢は北信へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。 第四次合戦 『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。 勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。 川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。 一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。 そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。 現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。 合戦の背景 天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。 永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。 永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。 川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。 関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。 同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。 『甲陽軍鑑』等における合戦の経過 上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。 自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
2023年10月27日
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小田原城 関越大連合軍の攻勢を篭城で乗り切った北条氏はこの後、小田原城の普請を絶やすことなく縄張りを広げ、武田信玄に攻め込まれた際も小田原城で篭城してやり過ごす。 後の豊臣秀吉による小田原征伐では、田畑、城下町までをも囲い込む周囲9キロに及ぶ惣構えとなり、多くの名将が率いる22万の兵力を相手に3ヶ月の篭城戦に耐え、敵方に力攻めを断念させた。 しかし、支城がことごとく陥落し、城内では重臣の内応が露見。先に降伏した一門や反戦派の説得もあり、開城した。 俗説では、かつての籠城策の成功によって生じた過信が豊臣連合軍との交戦を決意させ、北条氏に滅亡をもたらしたとも言われる。しかし、実際は沼田問題が一応の解決をみた時点で氏政の上洛(豊臣政権への参画)は決定していた。籠城策が決定したのは、名胡桃城事件によって秀吉から宣戦布告され、交戦が避けられない状況になってからである。 松平元康 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、本拠地である三河国岡崎城に帰還していた今川氏傘下の松平元康(後の徳川家康)が、翌永禄4年(1561年)4月に今川方の牛久保城を攻撃して今川氏に叛旗を翻して自立を果たし、更に織田信長と清洲同盟を結んだ。 この三河国の動きも謙信の小田原城攻撃と関連しているという見解が出されている。 柴裕之は松平元康が今川氏から自立するにあたって武田・北条両氏が今川氏真を支援することを警戒していたが、謙信の侵攻によって武田・北条両軍が上杉軍と対峙したことで彼らの援軍が三河に送られる危惧が解消されたことが自立を促す一因になったとしている。 一方、丸島和洋は桶狭間の戦い直後の松平元康はあくまでも今川氏真の命に従って岡崎城にて織田軍の西三河侵攻に対峙していたが、今川氏真が三河への援軍よりも同盟国である武田・北条両氏への支援を重視して小田原城への援軍を送ったことで不満を抱き、無援のまま織田氏と戦うよりも織田氏と結んで今川氏から自立することで領国(西三河)の維持を図ろうとしたとしている。 なお、その後今川氏真は北条・武田両氏に対して使者を派遣して三河奪還のための援軍を要請しており、それを受けて信玄も南信濃の国衆である下条氏に三河調略を進めるように指示を出したとされているが、永禄6年(1563年)遠江国で遠州忿劇と呼ばれる大規模な国衆反乱が起きると今川氏真の統治能力が疑問視され、信玄は三国同盟破棄と今川領侵攻を検討するようになっていく[12]。 Ø また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。Ø 小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が関東で氏康と戦っている間に、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。Ø こうした情勢の中、長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。Ø このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いた。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させる(松山城の戦い)。松山城には城将として上杉憲勝を残し、厩橋城には城代に義弟・長尾謙忠をおいて帰国した。 「関東管領就任」 この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。Ø もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。Ø 就任の許可は13代将軍足利義輝から直々に貰い関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ちを務めた。Ø ただし、『藩翰譜』によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。『応仁武鑑』や『萩原家譜案』にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為あるいは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。
2023年10月27日
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謙信は関東管領として戴く古河公方に近衛前久を迎え入れたかったが、関東の諸将では小山秀綱が足利藤氏を推し、簗田晴助が足利藤政を推して揉めた。 謙信は、同16日、簗田晴助に起請文を与え、藤氏が擁立されることになったもの連合軍が一枚岩では無い事が露呈してしまった。 それでも謙信は山内に数日間滞在し、関東諸将と談合。また参陣をねぎらった。 一方、武田信玄は北条氏支援のため北信濃に出兵し、4月、または5月に謙信の属城割ヶ岳城を落としたとされる。 さらに信濃・川中島に海津城を完成させた。この城は川中島で信玄方と睨み合いを続ける謙信方にとって脅威であり、謙信も川中島で対抗策を講じる必要に迫られる。また武田氏が扇動した一向一揆が越中で蜂起した。 また当時、関東では飢饉が続発していたため兵糧に窮していたともいわれ、上杉軍内部においても長期に渡る出兵を維持できないとして佐竹義昭・小田氏・宇都宮氏が撤兵を要求(「杉原謙氏所蔵文書」『歴代古案』)、一部諸将が無断で陣を引き払った(『謙信公御年譜』)。武蔵松山城では上田朝直が反旗を翻すなど、参陣諸将の足並みが乱れたこともあり、結局、小田原城を落城させるには至らなかった。玉縄城、滝山城、河越城、江戸城等の北条氏直下の支城も落ちることなく持ちこたえた。 謙信は、川中島において信玄と雌雄を決する意図もあり、再び小田原城に向かうことなく軍を引き、鎌倉を発った(上杉家文書)。 謙信はこの後、越後へ帰還途上の4月、北条方へ寝返った上田朝直の武蔵・松山城を攻略、城将として上杉憲勝を残した。 古河御所には足利藤氏とともに近衛前久がおかれた。謙信は、将軍足利義輝から関東出兵をねぎらう御内書を受け取り、6月下旬には厩橋城をたち、10ヶ月に及ぶ関東遠征を終えた。参戦武将・上杉連合軍・は関東幕注文 上杉憲政※ (平井城、関東管領) 長尾景虎 謙信の在陣中に反旗を翻した上田朝直の他に、謙信が関東を去ると東金酒井氏・山室氏・高城氏が再び北条氏に帰属した。9月には三田綱秀が北条氏に攻め滅ぼされた。 北条軍・足利義氏 (古河公方)・北条氏康 逸話 小田原城攻防のさなかの昼時、謙信は蓮池の端に馬を繋ぎ、持参した弁当を広げて、小田原城の眼前で昼食をとりはじめた。 これを見た北条方が10挺の鉄砲隊で2度、その謙信目掛けて撃ちかけたが、弾丸は鎧の袖は撃ち抜ちぬくものの謙信に当たることはなく、謙信はその状況で悠々と茶を3杯飲みながら食事を続けたという。(『名将言行録』、『松隣夜話』) 鎌倉で関東管領就任式の際、他の諸将が腰を屈めて参礼する中、名門の出であった成田長泰は騎馬上で参礼するのが常となっていた。 しかしそのことを知らなかった謙信はこれを無礼に思い、扇子で顔を叩いたという逸話がある(『関八州古戦録』)。 怒った長泰は本拠に兵を退いた。これが後に関東の諸将の離反に繋がったとも言われているが、この長泰打擲にまつわる逸話は研究者の間では事実とは認識されてはいない。 別の話では、関東管領就任式において、千葉胤富と小山高朝が席次を争い、謙信が仲裁して両名は一旦は納得して座に着いたものの、この直後、大石源右衛門が陣を離脱し、続いて千葉胤富が自領に戻ると再び北条氏に同調。これを見た小山高朝、一色氏、結城氏、長沼氏、壬生氏、毛呂氏、相馬氏も兵を引いたとある。 影響 謙信は、10万を超える大軍を率いて北条氏の領土へ奥深く侵攻、北条氏眼前の鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領就任式を敢行し、その名を天下に轟かせた。同時に、包囲に1ヶ月耐え抜いた小田原城も堅城として認識されるに至った(近年の研究では、小田原城包囲は10日間ほどと見られている)。 短期間に北条氏を追い詰めた謙信であったが決着を付けるまでには至らず、謙信の帰国後、北条氏は勢力を盛り返していく。その後、両者はときに武田氏を交えながら関東全域を戦場として熾烈な戦いを繰り広げることになる。 関東諸将 成田長泰打擲の逸話で説明されてきたような、離反や北条への再帰属に関しては、北条氏からの圧迫のほか、関東管領として謙信が定めた序列に不服を持った諸将の反発を招いたという説もある。 元々、北条氏躍進以前の関東では、関東公方やその執事たる管領家ですら権益争いと恩讐の中で分裂し、その元で関東諸将は合い争っていたという事情をかかえていた。 常に反北条の姿勢を崩さなかった佐竹氏・里見氏・太田氏等以外の関東諸将の多くは、その後も謙信と北条氏の間で揺れ動きながらも、結局は関東で在地統治している北条氏に帰属するか、両者の攻防の中で衰退していった。
2023年10月27日
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そのため、信濃の村上義清らと上信同盟を結び、これに対抗しようとしたが、このことから信濃侵攻を目指す武田氏とも対決せざる得なくなり、結果小田井原の戦いに敗れ、本拠の平井城も危うくなってしまった。 このため越後の上杉謙信(当時の名は長尾景虎)を頼った。謙信は1559年には上洛し、関白近衛前久を奉じ関東管領を補佐すべく後北条氏討伐を計画した。 緒城攻略戦 永禄3年(1560年)8月26日、里見義堯からの救援要請をきっかけに、謙信は越後勢8000余りを率い北条氏康を討伐するため出陣。 三国峠を越え10月初旬、上野に侵攻すると沼田城を攻略、城主北条氏秀(沼田康元)を追うと、岩下城、続いて厩橋城を落とす。謙信は厩橋城を接収し関東攻めの拠点とすると那波氏の居城・那波城を攻略、更に武蔵に南下して羽生城も陥落させた。 一方、北条氏康は里見義堯の久留里城を包囲していたが、上杉軍の襲来を知り河越城を経由し、9月下旬頃松山城に入る。 上野・武蔵の諸将は、旧主である憲政および関白・近衛前久を奉じ、圧倒的な軍事力を見せる謙信のもとへ参集した。 対して、常陸・下野の反応は鈍く、謙信は29日、龍渓寺にさらなる説得を依頼している(謙信公御年譜・上越市史218)。太田資正にも正木時茂と原胤貞の抗争の仲介を依頼した(上杉家文書)。 しかし親北条氏の家老原氏の原胤貞が実権を掌握している下総の守護千葉氏の惣領千葉胤富は古河の北条氏に援軍を送り、のちに和議を申し入れて謙信の関東管領就任式に参列したものの、上杉軍に加わることはなかった。 『小田原衆所領役帳』に記載された他国(伊豆・相模以外)衆からの離反が相次ぎ、北条氏の擁する古河公方の足利義氏からの諸将への要請も奏功せず、謙信の進撃の前に劣勢に立たされた氏康は、同盟する武田信玄に援軍と背後からの牽制を要請。さらには今川氏に救援を求めると、今川義元を織田信長に討ち取られた直後で混迷の中にも関わらず今川氏真は河越城等に援軍を派兵する(仏厳寺文書・小倉文書他。しかし謙信率いる遠征軍の勢いは止まらず、氏康は、松山城から小田原城へ退き、篭城策を選択する。 12月初旬、上杉軍に河越城、古河御所といった重要拠点を包囲され、古河公方の足利義氏をはじめ北条方の支城では、玉縄城の北条氏繁、滝山城の北条氏照や河越城の北条氏尭も篭城に徹した。 永禄4年(1561年)謙信は厩橋城で年を越した。2月になると越後に残っていた直江実綱も関東に召集された(上越史253)。 そのまま上野から侵攻し、関東公方の在所である足利義氏の本拠地・古河御所を制圧、2月下旬に武蔵松山城に着き、同27日鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げたのち(妙本寺文書・上越史259・260・263)、海沿いを進撃。藤沢、平塚を経由し小田原に攻め込んだ。 小田原城の戦い 永禄4年(1561年)3月、参陣の遅れていた北関東の諸将も謙信の元に結集し、この頃『関東幕注文』が完成する。謙信は旧上杉家家臣団も含め10万人を超える大軍となった遠征軍(関八州古戦録では11万3千人とも。9万余説もあり)で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した。 上杉軍先陣は3月3日頃に当麻(相模原市南区)に陣を取り、同8日に中筋(中郡)に達し、14日には大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊と激突した(大藤文書・田原城主大藤式部丞宛て感状)。 しかし上杉軍はさらに南下、22日に曽我山(小田原市曽我)、24日にぬた山(南足柄市怒田)でも戦闘が行われた。謙信も3月下旬までには小田原近辺に迫り、酒匂川辺に陣を張った(古今消息集・越4-285)。 攻防の中心となった北条氏の本城・小田原城では、太田資正の部隊が小田原城の蓮池門へ突入、激しく攻め立て北条軍も粘り強い抵抗を見せたと、後世成立の軍記である『関八州古戦録』等は伝えている。 信頼性の高い史料にこの時の包囲戦の様子の詳細を伝える物はなく、わずかに上杉家文書で、小田原城下での両軍のぶつかり合いは認められず、挑発のため城下に放火をしても北条方は城から討って出ることはなかったとされる。 3月下旬には氏康と同盟を結ぶ武田氏の援軍が甲斐吉田に到着する(大藤文書)。 今川氏の援軍も近日出陣のための準備ができたと知らせが入った(大藤文書)。また、この頃既に長期布陣に対する不満が遠征軍諸将から出始めていた。越後でも関東への兵や荷の輸送についての紛争が各地で起り、謙信は伝馬・輸送に関する制札を出している(相沢清右衛門所蔵文書・『上越市史』264)。 閏3月初め、謙信は参陣諸将とともに鎌倉に移り、関東管領就任式を執り行い、長尾景虎から上杉政虎へと改名する。
2023年10月27日
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武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。 上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。 この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。 『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。 しかし武田軍にとってはこの戦で家中の調整役であった信玄の実弟信繁が討ち死にしてしまったことが後の義信事件の遠因になったとする見解もある。 この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。[要出典] 9「小田原城の戦い」 永禄2年(1559年)5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。室町幕府の記録の後鑑(江戸末期に江戸幕府が編纂したモノ)には、関東管領記、関東兵乱記(相州兵乱記)、春日山日記(上杉軍記)を出典として掲載されている。Ø また、内裏修理の資金を献上したともいうが、朝廷の記録である御湯殿上日記には、永禄3年6月18日に、越後の長尾(景虎)が内裡修理の任を請う、という記述があるだけで、年次や記述内容に違いがある。 言継卿記には、永禄2年5月24日、越後国名河(長尾)上洛云々、武家御相判御免、1,500人。という記述であり、上杉家譜などの兵5,000という記述と異なる。Ø なお、天野忠幸はこの年に景虎だけではなく、織田信長や斎藤義龍も急遽上洛していることに注目している。この前年である永禄元年、足利義輝と三好長慶の戦いは長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた。Ø このため、義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名が動揺し、状況を確かめるために上洛に踏み切ったのではないか、と推測している。 景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の違いが大きく実現しなかった。Ø 永禄3年(1560年)3月、越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。 5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。上野国に入った景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩 下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。Ø この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、景虎のもとへ結集、兵の数は増大した。Ø 景虎は、年が明けると自ら軍の指揮を執り上野国から武蔵国へ進撃。深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻、2月には鎌倉を落とした。Ø 氏康は、総大将が武略に優れる景虎であるため、野戦は不利と判断。相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ退却し、篭城策をとる。Ø 永禄4年(1561年)3月、景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万余の軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を追い込む。 小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)は、永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)に、関東の上野、武蔵、相模において、上杉氏、長尾氏の連合軍と後北条氏によって行われた一連の合戦である。大槻合戦ともいう。この合戦は、その後10年余にわたる上杉謙信による関東遠征の端緒である。本項では、合戦の経緯として、上杉軍の越山から小田原城包囲戦前後の緒城攻防戦、関連事項についても併せて解説する。 合戦にいたる経緯 関東管領である上野国平井城城主・上杉憲政は、河越城の戦いに敗れて以来、相模の後北条氏から圧迫を受け、徐々に勢力をそがれ、武蔵から北関東をうかがわれる状況になっていた。
2023年10月27日
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『甲陽軍鑑』等における合戦の経過 上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。 妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。 信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。 実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。 これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。 膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。 政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。 これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。 9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。 これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。 政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。 10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。 乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。 頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。 なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。 また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された上杉家御年譜では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。 また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。
2023年10月27日
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一方、このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。 義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に晴信は信濃守護、嫡男義信は三管領に補任されている。 晴信の信濃守護補任の条件には景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている。 一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(長野盆地北部)を失って弱体化、飯山に押し込められた。このため、景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。 第四次合戦 『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。 勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。 川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。 一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。 確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。 合戦の背景 天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。 永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。 永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。 北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。 やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。 関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する
2023年10月27日
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第二次合戦 川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。 天文23年(1554年)、晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉方と対峙する北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。 天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿(初代)が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。 晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。 そこで長尾軍は旭山城とは裾花川を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に葛山城(長野県長野市)を築いた[4]。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。 晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。 兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。 その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。 第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。 第三次合戦 第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。 弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。 景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市川氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には景虎家臣の大熊朝秀が武田方に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田方に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。 弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。 同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。 長尾方でも攻勢を強め、4月18日には景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。 晴信は市河氏への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。長尾方では武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には尼飾城を攻めるが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。 武田方では7月5日に安積郡小谷城を攻略すると北信・川中島へと侵攻し[12]、8月下旬には「上野原」において武田・長尾方は合戦を行う。 景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
2023年10月27日
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一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。 長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。 景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。 一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。 なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。 8「第二次から第三次川中島の戦い」Ø 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して受戒し「宗心」の戒名を授けられた。Ø 天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。Ø 高広は帰参を許される。この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。Ø また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。Ø 対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。 ところが弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託し(「歴代古案」)、春日山城をあとに高野山に向かう。 しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。 弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れる。雪解けの4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。 5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍する。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けた。7月、武田軍の別働隊が長尾方の安雲郡小谷城を攻略。 一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃する。その後8月、両軍は髻山城(近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。 弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝える。また『宇都宮興廃記』によれば同年、上野国経由で下野国に侵攻し、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱したために景虎は軍を引き上げた。 多功長朝率いる宇都宮勢は上野国の白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵国岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。
2023年10月27日
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川中島 信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。 長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。 武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。 この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。 これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。 第一次合戦 川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。 天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。 9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。 武田軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮[3]らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。 一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。 長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。 景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。 これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。 なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。 第一次合戦 川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。 天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。 9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。 武田軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。
2023年10月27日
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川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。 最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊[1])を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。 なお、上記の指揮官、戦力、損害については第四次合戦のものであることを断っておく。 川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。 第一次合戦:天文22年(1553年) 第二次合戦:天文24年(1555年) 第三次合戦:弘治3年(1557年) 第四次合戦:永禄4年(1561年) 第五次合戦:永禄7年(1564年) 戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。 なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。 1929年には渡辺世祐がはじめて五回説を提唱し、戦後は小林計一郎以来この五回説が支持されている。二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。 戦国期東国の地域情勢と川中島合戦 室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。 甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。 武田氏では天文11年(1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。 なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。 武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。 それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。 その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。 武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。 天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。 同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。 対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。 特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。 更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。
2023年10月27日
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しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。 1590年 - 北条征伐の戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康養女の婿である真田信幸(昌幸長男)が支配する。 1597年 - 信幸が城郭整備をする。 1600年 - 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が改易となった昌幸の上田領も合わせて継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。この頃、五層の大天守を築く。 1615年 - 大坂夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる。 1622年 - 信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領として継続。 1638年 - 信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承する。 1656年 - 信之が隠居し、信政が松代藩藩主となる。沼田領は、信吉の子・信利が継承。 1658年 - 信政が死去し、その相続を巡って真田本家と真田信利との間でお家騒動が起こる。これを期に沼田領は沼田藩として独立した。信利が初代藩主となる。 1658年 - 松代藩への対抗意識から再検地を行い、元来は表高3万石だったところを松代藩より多い14万4千石(実質は6万石余)として届ける。のち、同じく対抗意識から江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装した。 1681年 - 信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され、沼田藩は廃藩にされる。以降1703年まで天領となる。 1682年 - 沼田城は破却され、堀も埋められる。 1703年 - 本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興される。以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされないまま、明治の廃藩置県に至る。 1916年 - 旧沼田藩士の家の久米民之助が城地を購入し、公園として整備。1926年に沼田市へ寄贈され、現在は沼田公園となっている。 1976年 - 沼田市指定文化財(史跡)に指定された。 2017年 - 続日本100名城(116番)に選定された[2]。 小松姫の逸話 小松姫(稲姫)は徳川四天王の本多忠勝の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。 関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。 昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。 一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。 北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される[注 3]。 7「第一次川中島の戦い」Ø 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。Ø さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を 村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍の指揮を執って村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。Ø ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。Ø 9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。
2023年10月27日
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6「沼田城争奪戦」 沼田城(ぬまたじょう)は、上野国利根郡(現:群馬県沼田市)にあった日本の城(丘城)。1976年(昭和51年)3月30日、沼田市指定史跡。幾つかの守護城に囲まれた堅城である。 沼田氏の居城として建築され、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点として機能した。沼田藩の藩庁。はじめは倉内城と称した。2017年(平成29年)には、続日本100名城(138番)に選定された。 群馬県沼田市倉内にあり、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川側は約70mほどの崖となっており、典型的な崖城でもある。 沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏と争った。 江戸時代に城主は真田家5代、天領、本多家3代、黒田氏(譜代大名)2代を経て、土岐氏12代目に明治維新を迎えている。 真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられたが、時代とともに縮小し、本多氏時代には三の丸を改修して館を建てる程度の規模になった。 明治維新後、1916年に旧沼田藩士の家の久米民之助によって城地が購入され整備された。1926年には沼田町(沼田市)に寄付され、現在は沼田公園となっている。 歴史・沿革 1532年 - 沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点となる。1560年以前 - 山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻のなかで、どちらに属すかを巡り沼田氏がお家騒動を起こす。後北条方側が勝ち後北条氏出身の沼田康元が城主となる。 1560年 - 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とす。沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)を率いる立場になったが城は景虎の直属(上杉家の「沼田三人衆」と呼ばれる上野家成、河田重親、松本景繁による城代支配)となる。 1569年 - 『加沢記』ではこの年に沼田氏のお家騒動が起こり、隙をついて上杉氏が沼田城を支配し、本庄秀綱による城代支配になる。後北条氏との関連は記述されない。ただし後世史料のため年代などが疑問視される。 1578年 - 謙信死後に起こった御館の乱により沼田城を後北条氏が制圧。城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置く。同年、甲越同盟の成立で上杉景勝が武田氏の沼田攻略を承認し、真田昌幸が攻略の命を受ける。 1580年 - 昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配下におく。同年、後北条方と由良氏の支援を得た、顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵するが、昌幸の謀略により、泰清に殺害される。 これによって沼田氏は滅亡する。天正10年(1582年) - 3月、織田氏・徳川氏連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、その功により、織田家臣・滝川一益が武田遺領のうち上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。これにより、沼田城は滝川家臣・滝川益重の城となる。同年6月の本能寺の変を経て、武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。 天正壬午の乱において沼田城は後北条家に降った真田昌幸の支配となり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入る。これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退ける。 1589年 - 豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、秀吉家臣の津田盛月と富田一白、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、真田氏から北条氏に引き渡され、猪俣邦憲が再び城代となる。 しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。 1590年 - 北条征伐の戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康養女の婿である真田信幸(昌幸長男)が支配する。 1597年 - 信幸が城郭整備をする。 1600年 - 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が改易となった昌幸の上田領も合わせて継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。この頃、五層の大天守を築く。 1615年 - 大坂夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる。 1622年 - 信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領として継続。 1638年 - 信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承する。
2023年10月27日
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しかし、自立傾向が強かった本庄氏ら越後北部の国人領主らは揚北衆と呼ばれ、上杉氏が派遣した守護や守護代としばしば対立した。 永禄11年(1568年)、上杉輝虎(謙信)の命を受け長尾藤景・景治兄弟を謀殺したが、これに対しての恩賞がなかったことに不満を持った繁長は同年、甲斐国の武田信玄の要請に応じて上杉氏からの独立を目論み、尾浦城主で大宝寺氏(武藤氏)の当主・大宝寺義増と結んで挙兵した。 繁長の勇猛さにさすがの謙信も鎮圧に手間取ったが、謙信は先に庄内へと兵を進めて義増を降伏させ、孤立した繁長に猛攻を加えた。 翌年、繁長は蘆名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(後の本庄顕長)を人質として差し出すことで帰参を許された(本庄繁長の乱)。 以後は謙信に臣従したが、天正6年(1578年)、謙信の死により発生した御館の乱では、自身は上杉景勝方に付いて上杉景虎方の鮎川氏と戦った。また、一方で嫡男・顕長を大宝寺義氏(義増の子)と共に景虎方に付け、乱が景勝方の勝利に終わると顕長を廃嫡した。その後は景勝に引き続き仕え、新発田重家討伐など上杉家臣として数々の軍功を挙げる。 天正11年(1583年)、庄内進出を目指す山形城主・最上義光に義氏が謀殺されると、繁長は義光の庄内侵攻を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。 義氏の弟・大宝寺義興は繁長との連携をより強固にするため、繁長の次男・千勝丸を養子として迎える(後の大宝寺義勝。武藤義勝とも)。 しかしこれが親最上派の国人達の激しい反発を買い、繁長が新発田攻めで動けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて義光が庄内に軍を進めた。天正15年(1587年)11月、尾浦城が陥落し義興は自害。義勝は実父を頼って落ち延びた。翌天正16年(1588年)8月、義光が伊達政宗との合戦で動けない隙に乗じて繁長・義勝父子は庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで反武藤派国人連合からなる最上軍に勝利を収めた。 繁長は最上勢を追撃して東根まで軍を進めたが、最上勢の奇襲に遭い撤退した。庄内地方に復帰した義勝は、天正17年(1589年)5月、豊臣秀吉に謁見し、大宝寺氏は上杉景勝の与力大名として公認された。 天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景勝が由利郡・仙北郡の検地を行ったとき、繁長は同僚の色部長真と諍いを起す。その直後、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は鎮圧されるが、繁長・義勝父子は庄内の藤島一揆を扇動したとの嫌疑を受けて改易され、大和国に配流された。 その後、文禄の役に参陣して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。慶長3年(1598年)、景勝が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。 関ヶ原の戦いが迫った慶長5年(1600年)8月下旬、景勝の命により信夫郡福島城に移り、梁川城の須田長義と共に伊達軍の侵攻に備えた。関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、また最上義光を攻めていた直江兼続が敗退すると、10月6日、片倉景綱・茂庭綱元・屋代景頼らが率いる伊達軍が福島城へと攻め込んできた。繁長はまず義勝に迎撃させたが、宮代・瀬上間の野戦で敗れ、義勝は撤収して繁長と共に福島城に籠城した。 伊達軍は孤立した福島城を包囲し城下まで攻め入り、砂金実常の部隊が城門まで突出して攻撃を加えたが、宮代から出撃した岩井信能や須田の襲撃の報告を手にした繁長が城外に打って出た為、伊達軍は挟撃され、手負いも多く出たため(片倉景綱の家臣の国分外記と須田弥平左衛門らが討死)、政宗はいったん攻撃を中止し、福島城へ向けて釣瓶打ちに銃撃を加えた後、国見山に陣を返した。この時、梁川城の須田長義が信夫山の後背に展開していた伊達軍を追撃して小荷駄隊を襲い、「竹に雀」の陣幕を奪う働きを見せた。伊達側の記録によれば、国見山に帰陣した伊達軍は、梁川城での調略工作が、横田大学の伊達方への内通が発覚したことにより失敗に終わったため、福島城への2度目の攻撃を中止して、翌7日即座に北目城へ撤退した。 また、摺上川を上り茂庭から稲子峠を経て北目城へ撤退したとする説がある。いずれにしても、繁長は伊達軍から福島城を死守したのは事実である。 10月20日に徳川家康に対して抗戦を継続すべきか講和すべきか軍議が行われ、この席で兼続は抗戦継続を唱え、繁長は講和を勧めた。 景勝は繁長の意見を容れて終戦工作を開始し、11月3日には繁長に上洛して折衝にあたるよう命じ、上洛した繁長は伏見留守居役・千坂景親と協力して終戦工作に奔走した。その結果、繁長らの努力が実って上杉家は存続を許されたものの、会津120万石から米沢30万石へと減封された。 これに伴い繁長も3,300石に減俸されたが、引き続き福島城代を務め、重臣として家中の再建にあたった。 慶長18年(西暦では翌1614年)12月20日死去。享年74。上杉景勝は繁長の武勇を称え、「武人八幡」の称号を与えた。法名は憲徳院殿傑伝長勝大居士。墓所は福島県福島市の長楽寺。長楽寺には繁長の木像が安置されており、毎年9月に行われる供養祭には一般公開されている。 家督は先に大宝寺氏に養子に入っていた次男の大宝寺義勝が本庄氏に復帰し、本庄充長と改名することで相続した。
2023年10月27日
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翌年の小田原城攻撃までに長尾景虎は、関東諸国の諸将を糾合して大軍を編成するが、この時に景虎の傘下に集まった諸将を記した『関東幕注文』という史料がある。ただし、景虎をあくまで「憲政の名代」とする史料があるため、幕注文に記された諸将は関東管領である上杉憲政の名の下に参集・連合した可能性も指摘されている。 またこの中には宇都宮氏・小山氏・古河公方勢などの反北条の諸勢力の他に、藤田氏・三田氏などの一旦北条に服属した国人も多い。 ただ前述の様に上野国内で北条方として反攻したのちに服属した武将もあることから、実際には『関東幕注文』に記された諸勢力と同等の国人勢力が北条についていた可能性も指摘される。北条軍との戦いは北条氏康が小田原城へと籠城したため長期戦となった。 永禄4年(1561年)3月、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎(のちの上杉謙信)に関東管領職を譲渡した。このとき、景虎に「上杉」の氏と自身の偏諱(憲政の「政」)を下賜して上杉政虎と名乗らせ、山内上杉家の家督の正式な後継者とすると共に、同家系図、伝来の重宝を譲渡した(一説には永禄2年(1559年)。 もしくは養子にした時点で管領職を譲っていたともされている。)。 その後は隠居して剃髪し、光徹と号した。以後は謙信が関東経営に携わり、憲政の関与は史料上に見えなくなっている。 最期 天正6年(1578年)に謙信が死去すると、養子の上杉景虎と景勝との間で家督をめぐる争い(御館の乱)が勃発する。旧山内上杉家臣に後北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持したとされる。 一方、当時越後に亡命していた山内旧臣の大部分(大石綱元、倉賀野尚行ら)は景勝方についていることが確認されているため、実際は不明である。 当初は拮抗していた争いも、越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝が有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされる。天正7年(1579年)、憲政は景虎の嫡男・道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝の許に向かったが、2人は景勝方の武士によって陣所で討たれた。享年57。一説には四ツ屋付近で包囲され、自刃したとも云われる。 墓は景勝が転封された米沢の照陽寺にある。 人物・逸話 『甲陽軍鑑』では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。また北条氏康と何度も戦い一度も勝てなかったが、これは北条を軽輩と見下して、配下に任せて自身は出陣しなかったためだと批判されている。 天文11年(1542年)に常陸国鹿島神宮に納めた願文には北条氏討滅を誓う文言が記されている。 天文20年(1551年)3月には氏康の上野侵攻に遭い平井城が落ち、憲政は関東を放棄し領国から常陸の佐竹氏の許に向い佐竹義昭に関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたが、これを拒否されたという(『佐竹氏物語』)。しかしこれは佐竹氏側の所伝しか見えず、また平井落城年が研究結果による年代と矛盾している。 なお類似の話として、上杉氏側の史料の研究によって、その100年近く前の関東管領である上杉憲実が佐竹義人の子・実定を養子に迎えて関東管領職と上杉氏の家名を継承させようとして家中の反対を受けたことは確認されている。 5「北条軍を撃退」Ø 景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。 本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。 天文8年(1540年)、越後国の国人・本庄房長の子として誕生。幼名は千代猪丸。 繁長が生まれる直前、父・房長は同族の色部氏と共に、越後守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸を養子に迎えることに異を唱え、入嗣推進派の中条藤資らと対立した。 伊達氏の支援を受けた中条氏に攻められた房長は、弟・小川長資と同族・鮎川清長の勧めにより、本庄氏と盟友関係にある出羽国庄内地方の武藤氏のもとに逃れた。 しかしこれは長資の罠であり、その隙に長資によって居城を奪われてしまう。弟の謀反に衝撃を受けた房長は病に倒れそのまま死去した。 房長を失った本庄氏の家臣団は遺児・千代猪丸を当主に立てたものの、長資をその後見人として認めざるを得ず、本庄氏の実権は長資の手に落ちた。 天文20年(1551年)父の13回忌の会場で千代猪丸は長資を捕えて自害に追い込み、実権を取り戻した。まだ幼少と言われる年齢だった千代猪丸は「気性剛強で勇猛」と評された。 当初は長資を支援していた長尾景虎(後の上杉謙信)と対立していたが、永禄元年(1558年)家臣となり、川中島の戦いや関東攻めなど、謙信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。
2023年10月27日
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同年7月4日に憲政は救援のため信濃佐久郡への出兵を行うと、諏訪郡の諏訪頼重は盟約関係にある武田氏・村上氏らに無断で憲政と和睦し、所領を分割する。 この頃伊豆国・相模国の後北条氏が武蔵国へ進出し、憲政の軍をたびたび破った。後北条氏の勢力拡大を危惧する憲政は天文14年(1545年)に仇敵扇谷上杉家の上杉朝定と結び、後北条氏に接近していた古河公方・足利晴氏を上杉方に引き込み、駿河国の今川義元とも和睦した。 そして古河公方・関東管領の威光により周辺武士を糾合し、義元の挙兵で北条氏康が駿河へ出陣した隙に、晴氏・朝定と共に北条綱成が守る河越城(かつての扇谷家の城。)を大軍で包囲した。 しかし翌天文15年(1546年)4月、今川氏との戦いを収めた氏康との決戦で大敗を喫し(河越城の戦い)、3,000人余の将兵を失って居城である上野平井城に逃れた(この時、本陣を命がけで守り、逃走を手助けしたのは本間近江守と本庄氏一族の本庄藤三郎と本庄実忠とされる。)。 その後は「憲当」と改名して勢力の立て直しを図ったが、天文16年(1547年)に村上氏との連携により信濃志賀城救援に出兵した際に、佐久郡小田井原における小田井原の戦いで武田晴信(信玄)に大敗を喫した。 武蔵では自立的な忍城の成田氏に続き、代々の山内上杉家家臣も離反していく。北多摩・入間を領した勝沼城の三田氏が後北条氏に帰順し、秩父・児玉・大里の雄たる藤田氏や南多摩の大石氏が後北条氏から養子を迎え降伏して、憲政は次第に上野に押し込められていった。その上野でも伊勢崎の那波氏と国峰城の小幡氏、館林の赤井氏が氏康方についてしまう。特に那波氏は後北条氏の最前線として活発に行動し、周辺の上杉勢[9]と衝突している。 平井落城と越後入り 天文21年(1552年)、武蔵の最前線たる御嶽城(足利長尾氏寄子・安保氏の城。)が落城して平井城が北条軍の脅威にさらされると、箕輪長野氏・安中氏など西上野の河西の衆が那波氏に通じ後北条氏に服属、続いて憲政の馬廻衆も離反した。 これにより平井城から憲政は退去せざるを得なくなり、同年3月に落城した。憲政は山内上杉家家宰・足利長尾氏や東上野の雄・横瀬氏を頼ろうとするが、既に後北条氏により足利長尾氏は平井周辺と武蔵国内の多くの領地を奪われ本領足利へ退き、また横瀬氏は東西から親北条の那波氏・赤井氏の攻撃を受けており、憲政は足利長尾・横瀬両氏の居城へ入れず、利根吾妻の上野北部へと向かい、そのまま越後国の長尾景虎(上杉謙信)の許に逃れていった。 なお『関東古戦録』によれば、平井落城の際に平井城に留まった嫡男・龍若丸が憲政により置き去りにされ、厩橋にあった家臣に預けられたが、その家臣が後北条氏へと裏切ってしまい、龍若丸は北条氏康に捕らえられ処刑されたという。一方で、同時代史料の「仁王経科注見聞私 奥書」によると、御嶽城落城の際に若君(龍若丸と推定)が捕縛され氏康に殺害されたと風説が流れたという。 憲政の越後入りの時期については異説が示されている。通説では平井落城後にすぐに越後へ向かったとされるが、『上杉家文書』には弘治3年(1557年)、『上杉家御年譜』には永禄元年(1558年)に憲政が越後入りしたと伝えており、このうち永禄元年説が有力とされる。平井落城で上野南部は後北条氏の領国と化したが、越後国に入る前は上野中部・北部にあって後北条氏に対抗していたとされる。 しかし東上野は古河公方の影響が強かったため、古河公方が足利義氏擁立で後北条氏の傀儡と化すると、その命令に屈する形で天文23年(1554年)に横瀬氏と桐生氏が、弘治2年(1556年)に最も抵抗の激しい足利長尾氏も後北条氏に降伏することになった。 そして永禄元年には吾妻の岩下城(岩櫃城)主の上野斉藤氏が北条に降伏し、正確な年は不明だが厩橋長野氏や沼田氏も北条に従属しており、上野国内の親上杉勢力が壊滅したため、越後長尾氏を頼ることになったと指摘される。また武蔵方面でも親山内家であった同族の深谷上杉家当主・上杉憲盛などが降伏している。 憲政の越後入りは前古河公方・足利晴氏と重臣の簗田晴助が仲介したといい、憲政は白井長尾氏・総社長尾氏・安中氏[注釈 5]など上野国人を率いたものであった。なお白井長尾氏・総社長尾氏などはすぐ上野へ帰国し北条勢に備えたとみられるが、永禄3年(1560年)までには抗しきれず後北条氏に服属している。 関東管領職の譲渡 越後に入った憲政は長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とする。『上杉家文書』では弘治3年(1557年)というが、史料が複数の時期に渡って書き足されたもののため、時期には異論もある。 永禄3年(1560年)には、旧臣の足利長尾氏と安房国の里見義堯の要請もあって、憲政は景虎に奉じられて関東へ進攻した。後北条氏から北条康元が入っていた沼田城をまず落とし沼田氏を復権させると、これを見た白井長尾氏・総社長尾氏・箕輪長野氏はすぐさま上杉軍に呼応し参陣したとみられる。 一方で北条方として活躍した那波氏・赤井氏は応じず、のち謙信に滅ぼされている。さらに北条の支配を受け入れていた厩橋長野氏・上野斎藤氏は抗戦した上で服属した。
2023年10月27日
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4「家督相続・越後統一」Ø 天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。Ø 秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍の指揮を執り、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。 だが、翌年の天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて攻撃を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。Ø するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。Ø 天文17年(1548年)になると、晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。Ø さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。 同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。 天文19年(1550年)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。 同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。 不満の原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと、そして長年に亘り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が増してきたことであった。Ø 天文20年(1551年)1月、景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。Ø 政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げたのである。 一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担した。その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。 「第一次〜第三次川中島の戦い」Ø 天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。 上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。 山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った、謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。Ø 憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。 家督相続 大永3年(1523年)、上杉憲房の子として生まれる。大永5年(1525年)に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である上杉憲寛(古河公方・足利高基の子、初名:足利晴直。)が家督を継いで当主となった。家臣の古幡良家(畑将監)の娘を養女とする。 享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、先代実子の憲政を擁立する成田氏・安中氏・藤田氏・小幡氏などの勢力が、対立していた憲寛方の長野氏らに勝利し、憲政が山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。同年中、古河公方家内部対立も決着がついた。 北条・武田との戦い 天文10年(1541年)、信濃国の村上義清・諏訪頼重、甲斐国の武田信虎らは上野国と隣接する信濃小県郡へ侵攻し、5月23日の海野平の戦いで海野棟綱を破ると棟綱は上野へ逃れ、憲政に救援を求める。
2023年10月27日
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この侵攻は一般的に、永正4年(1507年)に顕定の弟で越後守護を務めていた上杉房能が守護代の為景を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの報復と捉えられている。片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと推測する。 また、山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に宛てて「定実に対して一切の余儀(=遺恨)は無い」と伝えていることから、永正5年の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を山内家の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める。 ともあれ、房能の仇討ちを大義名分として越後に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。しかし顕定の越後統治は非常に強硬で上手くいかず、国人の反発を受けた。翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。同年、足利義稙の命令で信濃国佐久郡の伴野貞慶と大井行満の争いを和解させている。 翌永正7年(1510年)6月20日の長森原の戦いで敵の援軍であった高梨政盛に敗北し、衆寡敵せずして自刃、享年57。 死後、顕実が関東管領を継いだが、越後から帰還した憲房が顕実と衝突して内乱を起こし、山内家の衰退に繋がった。 管領塚 新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承をもつ塚が点在していたが(下原百塚)、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ顕定の墓と伝えられている。近代に行われた一部の発掘調査では鎧通しが出土しており、更には武具や人骨も出土したという話もある。現在、管領塚は史跡公園として整備されているが元の塚からは移築されたものである。 Ø 虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。Ø この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。Ø 越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。Ø 為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。 天文5年(1536年)8月に為景は隠居し、虎千代の兄・晴景が家督を継いだ。虎千代は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされる。 実父に疎んじられていたため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。 武勇の遊戯を嗜み、左右の人を驚嘆させた。また好んで、一間四方の城郭模型で遊んでいた。後年、景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男信勝に贈っている。 天文11年(1542年)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送した。 兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。 天文12年(1543年)8月15日、虎千代は元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る。 その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。 当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。 景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。 混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。謀反を鎮圧することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。
2023年10月27日
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このため同年10月には室町幕府8代将軍・足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、房定の次男である龍若(顕定)が山内上杉家の家督を継いで当主となった。 享徳・長享の争乱 時は享徳の乱の最中であり、古河公方・足利成氏と関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、文明3年(1471年)には古河御所を占領してこれに勝利している。しかし文明8年(1476年)に有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り(長尾景春の乱)、翌文明9年(1477年)正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。 この乱の背景には顕定の入嗣前に既に顕在化していた上杉氏体制内部の矛盾、即ち権力闘争があったとされる。 更にこの乱に乗じて攻め入った成氏軍に上野国白井付近まで追い詰められた顕定と扇谷上杉家の上杉定正は、文明10年(1478年)正月に幕府と成氏の和睦を取り持つことを条件に古河公方と和睦した。 その後、景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになった。 文明14年(1482年)に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立し30年に及んだ享徳の乱は終結したが、顕定は定正と対立し、定正が道灌を暗殺したのを契機に長享元年(1487年)に長享の乱が起こる。 長享2年(1488年)に両者の抗争は本格化し、「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、関東管領の山内家とその分家的存在の扇谷家とでは実力が隔絶しており、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。 明応2年(1493年)、もとは山内家の領国で堀越公方に譲られていた伊豆国へ伊勢宗瑞が討ち入るという事件が起こった。 明応3年(1494年)に両上杉氏の抗争が再発すると、定正は伊勢宗瑞の軍を相模国・武蔵へ招き入れたが、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死したため伊勢軍は撤退した。長享の乱初期に扇谷家を支援していた古河公方もこの頃には一転して山内家方となっていた。 明応5年(1496年)には顕定の軍勢は相模に攻め入り、7月に宗瑞の弟・伊勢弥二郎の立て籠もる小田原城を自落させた。 この戦いで相模の西郡は「一変」したという。その後、東郡へ軍勢を進め上田氏の実田要害を囲み、更に定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて河越に軍を進めた。明応6年(1497年)に顕定は河越城に対する前線基地として武蔵上戸に陣を置き古河公方・足利政氏を招いた。 政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還するが、上戸陣はその後も7年にわたり山内家の陣所として機能した。 永正元年(1504年)に駿河国守護・今川氏親と伊勢宗瑞の援軍を再びえた上杉朝良と戦うが(立河原の戦い)、2,000人余りの死者を出して大敗する。しかし実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に及び、翌年には朝良を河越城に攻めて降伏させ、朝良の江戸隠居を条件に和睦した。長享の乱における事実上の勝利宣言といえる。 古河公方との関係と永正の乱 明応3年(1494年)に古河公方と結びついて以来、顕定は東国における公方-管領体制の再構築を図っていた。 特に足利政氏とは、礼的な秩序における待遇の向上を実現させ、さらには政氏の弟・義綱を養子として迎え入れて、「顕実」と改称させるなどして密接な関係を築いた。顕実はそれより以前に養子となっていた憲房を差し置き、顕定の正統な家督後継者に据えられたとみられている。 後に政氏と子の高氏(高基)が不和となると、顕定はこれを憂えて出家して「可諄」と称し、両者の仲介に立った。 古河公方の内乱を収めた直後の永正6年(1509年)7月、顕定は養子・憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放した。
2023年10月27日
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越中から伊達尚宗に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会をうかがった。邑山寺において捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、4月20日に海上から越後蒲原津に進出した。5月20日には為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利し、また信濃から援軍として高梨政盛[注釈 7]が駆けつける。6月12日、顕定方だった上条氏が為景側に転向し、6月20日に為景は越後府中を取り戻した。ついに長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させた。 永正9年(1512年)5月、揚北衆の鮎川氏が反逆するが、山吉・築地ら武将を使わして鎮圧した。 大永元年(1521年)2月、長尾為景は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)、つまり一向宗を信仰することを禁止した。 下克上の代表格であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等の献金を行った。 これにより叙爵し信濃守となったほか、幕府より守護や御供衆の格式である白傘袋・毛氈鞍覆・塗輿を免許される。 同じ事は、朝倉氏や浦上氏といった他の守護代出身の戦国大名も行っており、京都の将軍と直結して家格を上昇させ、越後守護上杉氏とは異なる「長尾」という新たな家を作り上げることで、守護の権威からの自立を図ったものと言える。。 その後は越中や加賀国に転戦して、神保慶宗・椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大したが、晩年は定実の実弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ、天文5年(1536年)には隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定を賞する綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。 以前は、隠居して間もない天文5年12月24日(1537年2月4日)に死去したとされていたが、近年はそれ以後の文書でも為景の生存が確認されていたことが見直されている。「上杉家御年譜」と「越後過去名簿」の資料の軽重を考慮すれば、「越後過去名簿」に従って、「没年は天文10年12月24日である。」とするべきであろう。晩年について『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』では晴景に家督を譲った後も実権を握り続けたと説明している。 また、上杉定実の養子に縁戚である伊達稙宗の息子・時宗丸(後の伊達実元)を迎えようとしたのは為景と中条藤資であったとする説もある。 しかし、越後国内では反対が強かった上、長尾家の越後支配の安定のために定実没後も傀儡の守護として時宗丸を立てようとした為景と時宗丸を梃子に越後を伊達氏の勢力圏に加えようとした稙宗の思惑が一致せず、天文9年(1540年)の稙宗による越後国内の反対派への直接的な軍事介入を機に為景が交渉打ち切りを決めたために縁組構想は一旦破綻し、為景没後に構想が再開されたものの伊達家中内にも反対が広がって伊達家を二分する洞の乱の発展したとされる。 揚北衆等の国人領主は統制できず、為景は彼らの上位に君臨する公権力として振舞う事は出来なかったが、これらは子・晴景、謙信の課題として引き継がれる事になる。 3「上杉家内紛に勝つ」Ø 母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。幼名の虎千代は庚寅年生まれのために名づけられた。Ø 主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿の弟」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。Ø 次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。 上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。 山内上杉家の家督相続 享徳3年(1454年)、上杉房定の子として誕生。寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が武蔵国五十子陣にて陣没したが男子がいなかった。 家宰・長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして房顕の従兄弟で上杉一族の重鎮である越後国守護・上杉房定の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。
2023年10月27日
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2「上杉 謙信の出自」(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 – 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や「越後の虎」、「越後の龍」などと称された。Ø 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。Ø 1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。Ø 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で死去した。Ø 兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。Ø ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。 享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男(または次男、三男とも)虎千代として春日山城に生まれる。 長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後国の戦国大名。越後守護代・越中国新河郡分郡守護代。上杉謙信の実父。米沢藩初代藩主・上杉景勝は外孫に当たる。 越後守護代であった長尾能景の子として生まれる。生母は信濃高梨氏。永正3年(1506年)、般若野の戦いで父が戦死すると、中越地方の五十嵐氏・石田氏が反乱を起こすが、越後長尾氏の家督を継いだ為景によってまもなく平定された。 翌永正4年(1507年)春頃「為景謀反の気あり」と守護・上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、8月にその機先を制して房能の居館を襲撃する。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。 この新守護擁立に反対する阿賀北地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱は9月に為景に対して一斉に蜂起する。 この挙兵の知らせを蒲原郡代の山吉氏を通じて中条藤資から受けた為景は、蘆名氏・伊達氏に協力を要請した。10月、為景方は本庄氏の拠点、本庄城を攻略することに成功する。 永正5年(1508年)5月には色部氏の平林城が落城し、6月、岩谷城に籠城していた竹俣氏も降伏する。残った反為景勢は会津に逃亡し、のちに蘆名氏や中条藤資の世話により為景と和睦した。 8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられた。 しかし永正6年(1509年)7月28日、房能の実兄である関東管領・上杉顕定とその子・憲房が為景に対して報復の大軍を起こし越後に侵入する。 関東管領の軍勢は越後上田荘を拠点として、越後府中を落とし中越・上越地方を抑えた[11]。為景は劣勢となって定実と共に越中国に逃亡した。 為景は越中から伊達尚宗に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会をうかがった。邑山寺において捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、4月20日に海上から越後蒲原津に進出した。5月20日には為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利し、また信濃から援軍として高梨政盛[注釈 7]が駆けつける。6月12日、顕定方だった上条氏が為景側に転向し、6月20日に為景は越後府中を取り戻した。ついに長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させた。 永正9年(1512年)5月、揚北衆の鮎川氏が反逆するが、山吉・築地ら武将を使わして鎮圧した。 大永元年(1521年)2月、長尾為景は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)、つまり一向宗を信仰することを禁止した。 下克上の代表格であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等の献金を行った。
2023年10月27日
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「上杉謙信の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、 「上杉謙信の出自」・・・・・・・・・・・・43、 「上杉家内紛に勝つ」・・・・・・・・・・・94、 「家督相続」・・・・・・・・・・・・・・・145、 「北条軍を撃退」・・・・・・・・・・・・・276、 「沼田城の争奪戦」・・・・・・・・・・・・337、 「第一次川中島の戦い」・・・・・・・・・・398、 「第二次から第三次川中島の戦い」・・・・・499、 「小田原城の戦い」・・・・・・・・・・・・6510、「第四次川中島の戦いと北条の反撃」・・・・8011、「北条・武田との戦い」・・・・・・・・・・9112、「関東の上杉方諸将の離反」・・・・・・・・9813、「越相同盟」・・・・・・・・・・・・・・11014、「越中一向一揆・北条との戦い」・・・・・12415、「本願寺と講和・信長と戦い」・・・・・・・13816、「謙信の最期」・・・・・・・・・・・・・・16117、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・180 1、「はじめに」上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。
2023年10月26日
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「上杉謙信の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、 「上杉謙信の出自」・・・・・・・・・・・・43、 「上杉家内紛に勝つ」・・・・・・・・・・・94、 「家督相続」・・・・・・・・・・・・・・・145、 「北条軍を撃退」・・・・・・・・・・・・・276、 「沼田城の争奪戦」・・・・・・・・・・・・337、 「第一次川中島の戦い」・・・・・・・・・・398、 「第二次から第三次川中島の戦い」・・・・・499、 「小田原城の戦い」・・・・・・・・・・・・6510、「第四次川中島の戦いと北条の反撃」・・・・8011、「北条・武田との戦い」・・・・・・・・・・9112、「関東の上杉方諸将の離反」・・・・・・・・9813、「越相同盟」・・・・・・・・・・・・・・11014、「越中一向一揆・北条との戦い」・・・・・12415、「本願寺と講和・信長と戦い」・・・・・・・13816、「謙信の最期」・・・・・・・・・・・・・・16117、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・180 1、「はじめに」上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。
2023年10月26日
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そしてこの戦いから約1年6ヶ月後の元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、出雲の最後の拠点である真山城が毛利軍の攻撃を受け落城する。 城に籠もっていた勝久は隠岐に脱出し、尼子再興軍は出雲国より一掃されることとなった。 補説・逸話 秋上宗信が天野隆重から「降伏する」との偽の書状を受け取った際の対応について史料により異同がある。 『雲陽軍実記』では、山中鹿之助(山中幸盛)が宗信に「隆重は毛利無二の忠臣であるため月山富田城を任せられている。その隆重が一戦もせずに降参するとは理解しがたい。 よって、無勢で籠城するのは難しいと考えての嘘の降参であり、真の目的は合戦を長引かせ、その隙に残った毛利方の諸勢力を糾合しつつ本国からの加勢を待つ作戦である」と油断しないよう忠告したが、宗信は「隆重ほどの義士に偽りの降参はない」と言って信じなかったため敗れたとする。 一方、『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、幸盛をはじめ尼子再興軍の将は、隆重が出した嘘の書状を見破ることができず大いに喜び勇んだが、宗信が敗北したことで初めて偽りの降伏であったことを知り悔しがったとする。 『雲陽軍実記』によれば、秋上宗信率いる尼子再興軍が天野隆重ら毛利軍の攻撃を受けて退却する際、200名の裏切り者が出て軍の被害が増大したとする。 尼子再興軍の山中幸盛・立原久綱らが再度、月山富田城を攻撃した際の戦いについても史料により異同がある。 『雲陽軍実記』では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き、伏兵をもって月山富田城に籠もる毛利軍をおびき寄せる作戦を取ったため、その策を見破る事ができなかった隆重は城下まで誘い出されて合戦となる。 戦いは尼子再興軍が圧倒し、隆重ら毛利軍が多数の死傷者を出して城内へ退却するのにあわせ、尼子再興軍が城内へ攻め込もうとしたところ、石見の毛利軍来襲の急報を受け退却したとする。 一方の『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き伏兵をもって城兵をおびき寄せる作戦を隆重は看破しており、弓矢・鉄砲を射かけ尼子再興軍に勝利したとする[37]。Ø 了
2023年09月30日
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また、この地から月山富田城へ進む道は布部山の尾根づたいに通じており、一度、布部山の麓から山頂まで登る必要があった。 周りは険峻な山で囲まれ、尾根道へ登るには西側の水谷口か東側の中山口のどちらを通る必要があった。 つまり、三沢・横田方面から月山富田城へ進むには、水谷口か中山口、2つの谷口のどちらかを通る必要があったため、この2つの谷口を抑えておけば毛利軍の進軍を阻止することができた。 山中幸盛と立原久綱は大将である尼子勝久を居城である末次城に残すと[27]、少数の軍勢を率いて出陣する。 末次城には大勢が籠もっているように見せるため、また毛利方に「少数で出陣してきたのは謀ではないか」と疑いを持たせて時間を稼ぎ、その隙に味方の軍勢を集結する策謀であった。 この策が功を奏したのか[注釈 、幸盛らは各地の尼子再興軍を招集し、毛利軍の来襲前2月11日(3月17日)には布部山の地に陣を張ることに成功する。 明日12日には毛利軍は布部山の南方12㎞に位置する比田の地(現在の島根県安来市広瀬町西比田)まで迫ってきており、まさにギリギリの行軍であった。幸盛は軍を半数ずつ2手に分けると、水谷口、中山口の中腹にそれぞれ配置し、本陣は布部山の山頂付近に置いた(主要な参戦武将は、#戦いに参戦した武将を参照)。 要害山城の陥落及び毛利軍の着陣 2月7日(3月13日)、三沢・横田に在陣する毛利軍は掛合(現在の島根県雲南市掛合町)と馬木(現在の島根県仁多郡奥出雲町大馬木)に押さえとして兵を残すと、2月12日(3月18日)に比田を抜けて翌13日に布部へ陣を進める。同日、布部にある尼子再興軍の要害山城を攻略する。 この要害山城は、尼子再興軍の将・森脇久仍が籠もる城であったが、兵数が300あまりと少なくまた小城であったため、毛利軍の来襲前に幸盛らの説得により久仍は退却し空城となっていた。 要害山城を攻略した毛利軍は、布部山の尼子再興軍の陣を見ると同じく2手に軍を分け、大将である輝元はその後方に陣を敷いた(主要な参戦武将は、#戦いに参戦した武将を参照)。 布部山の戦い 2月14日の五ツ時((3月20日午前7時ごろ)、毛利軍は布部山に布陣する尼子再興軍に対して攻撃を開始する。 戦いは当初、地の利に勝る尼子再興軍が優勢であった。尼子再興軍は、山の麓から攻め上がってくる毛利軍に対して上方から鉄砲・弓矢により攻撃を行い、毛利軍の兵を多数撃ち倒した。 更に水谷口では毛利軍の将・熊谷信直の嫡子である細迫左京亮を森脇久仍部隊が、中山口では毛利軍の将・田門右衛門尉、粟屋又左衛門を尼子再興軍の将・横道権允と横道源介がそれぞれ討ち取るなど数の少ない尼子再興軍が毛利軍を圧倒していた。 しかしながら、毛利軍の吉川元春が地元の豪族を買収して布部山の山頂へと続く間道を聞き出し、別働隊を率いてその間道から布部山の頂上に登って尼子軍の本陣を強襲すると状況が一変する。 本陣を落とされたと知った尼子再興軍の兵は浮き足立ち、毛利軍の攻勢もあって尼子再興軍は総崩れとなった。 これによって戦いの趨勢は決定し、尼子再興軍は敗北、総退却となった[注釈 15]。退却の際、毛利軍の追撃を受けた尼子再興軍は、横道秀綱や目黒左近右衛門が討ち取られるなど多数の将兵が犠牲となった。 ただし、殿として最後まで残って戦った山中幸盛と立原久綱は、無事に居城である末次城へ帰還している。合戦後の情勢 この戦いに勝利した毛利軍は、翌日2月15日(3月21日)に尼子再興軍に包囲されていた月山富田城を開放し兵糧を入れることに成功する。 このとき城内では兵糧が全く無くなっており、落城寸前の危険な状態であった。輝元ら毛利軍は籠城していた将兵らを賞すると共に軍をここで再編すると、同月下旬ごろ尼子再興軍の居城・末次城を攻撃するため約7,000の兵を率いて出陣する。 これに対し尼子再興軍は、末次城は平城であるため籠城に向かないと判断し城を捨てて新山城へと退却した。 その後、毛利軍と尼子再興軍は山陰の各地で激しい戦いを繰り広げていくこととなる。 毛利元就が居城である吉田郡山城で容態が悪化し元春の軍を残して毛利軍が帰還したときには、一時的に尼子再興軍が勢力を盛り返したこともあったが、すぐさま元就が直属の水軍部隊を派遣したため兵力で勝る毛利軍が次第に尼子再興軍を圧倒していった。
2023年09月30日
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毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。Ø そして2月14日(3月20日)、毛利軍は尼子再興軍と布部の地(現在の島根県安来市広瀬町布部)で戦い勝利する(布部山の戦い)。翌日2月15日(3月21日))には、城内の兵糧が全く無くなり落城寸前であった月山富田城を尼子再興軍の包囲から開放し救援に成功した。Ø これにより以後の尼子再興軍と毛利軍との攻守は大きく入れ替わり、尼子再興軍は衰亡していくこととなった。 布部山の戦い(ふべやまのたたかい)は、永禄13年2月14日(1570年3月20日)に尼子家再興を目指す尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利軍との間に起こった野戦である。 戦いのあった場所が布部の中山(現在の島根県安来市広瀬町布部)であったことから布部山の戦いと呼ばれる。軍記資料には「尼子・毛利の国の戦いも今日が最後」と記される激戦であった。 戦いまでの経緯 尼子氏の滅亡 永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏の当主・毛利元就は、尼子氏を滅ぼすため出雲へ進軍する。 元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていき、永禄5年12月(1563年1月)には島根半島の荒隈(洗合)へ本陣を構え[4]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを開始する。 この毛利軍の侵攻に対し、尼子軍は各地で戦いを繰り広げつつ激しく抵抗していった。 しかしながら、永禄6年10月(1563年11月)に島根半島に位置する補給要衝・白鹿城を毛利軍によって奪われると(白鹿城の戦い)、続いて永禄8年(1565年)初頭には西伯耆一円を毛利軍によって支配され、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立する。 こうして尼子軍の補給経路を絶ったうえで毛利軍は、永禄8年4月(1565年5月)に洗合から星上山(現在の島根県松江市八雲町東岩坂)へ本陣を移すと、月山富田城への攻撃を開始する。毛利軍は城下で麦薙ぎを行うとともに、同月17日(5月16日)には月山富田城へ総攻撃を行った(第二次月山富田城の戦い)。この攻撃は尼子軍の抵抗により失敗に終わるも、その後、毛利軍は兵糧攻めの作戦に切り替えて月山富田城への圧力を強めていった。 永禄9年11月21日(1567年1月1日)、居城である月山富田城を毛利軍によって包囲されていた尼子家当主・尼子義久は、これ以上戦うことはできないと判断し毛利氏に降伏する。 同月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名・尼子氏は一時的に滅びることとなる。 居城であった月山富田城、及び尼子氏の所領は毛利氏の支配下に置かれることとなり、義久とその兄弟3人は一部の従者と共に円明寺(現在の広島県安芸高田市向原町長田)へ連行され幽閉の身となった。その他の尼子家臣らは出雲から追放され牢人となる。 毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻 尼子氏を滅ぼし、中国地方をほぼ手中に収めた毛利氏が次なる目標に定めたのは、北九州を治める大友氏の討伐であった。 永禄11年6月(1568年7月)、元就は伊予国に出兵していた吉川元春・小早川隆景の両軍を本国である安芸国に帰還させると(毛利氏の伊予出兵)、同年8月に両将を北九州へ派遣し大友氏の討伐を開始する。 永禄12年4月(1569年5月)には、元就も居城である吉田郡山城を発ち長門国へ向けて出陣する。そして同年5月に長府に入ると、ここに本陣を構えて大友氏討伐の拠点とした(多々良浜の戦い)。 このとき、元就の出陣にあわせ山陰地方の多くの国人達にも九州への出兵が命じられており、山陰地方の毛利領の警備は手薄となっていった。 一方、滅亡した尼子氏であったが、尼子諸牢人の中には一族の再興を目指す者がいた。その中心となった人物が山中幸盛である。 永禄11年(1568年)、幸盛は各地を放浪した後に京へ上ると、京の東福寺[注釈 4]で僧となっていた尼子氏一門の尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。 そして各地の尼子遺臣らを集結させると、密かに尼子家再興の戦いを企てていた。 永禄12年6月23日(1569年8月6日)、毛利氏が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機会をうかがっていた幸盛ら尼子再興軍は出雲国へ侵攻を開始する。 尼子再興軍は但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。 勝久ら尼子再興軍がここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し5日の内に3,000余りの軍勢になったという。 そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略する。続いて宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築いてここを拠点(末次城)とすると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。
2023年09月30日
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大内氏再興の機会を得た大内輝弘は、豊後国から若林鎮興率いる大友水軍[4]に護衛されて軍勢2000を率いて周防国へ渡航した。 この記録は当時豊後国にいた宣教師の書状にも見える。 永禄12年(1569年)11月10日、先だって7月と8月に威力偵察を行っていた吉敷郡南岸、秋穂浦・白松の海岸への上陸。 大内一族の復帰を知った秋穂・岐波・白松・藤曲等の大内遺臣が大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増した。翌日の山口侵入時には6,000にまで膨らんだとされる。 山口での攻防 10月12日、大内輝弘は陶峠から山口に侵入。毛利方は、平野口を山口町奉行の井上善兵衛尉就貞が、小郡口を信常元実が守っていたが、数に勝る輝弘勢が糸根峠で激戦の末に井上隊を打ち破り、就貞は戦死した。 続いて、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などを斬り、輝弘軍は龍福寺と築山館を本営として毛利勢の籠もる高嶺城攻略を開始。 高嶺城主の市川経好は九州へ出陣中であったため、内藤就藤や山県元重、国清寺の住持・竺雲恵心らがわずかな城兵でその留守を守っていたが、在郷の士である有馬善兵衛、津守輔直、寺戸対馬守らが乗福寺の代僧と共に急遽登城して籠城に加わり、経好の妻・市川局も鎧を身にまとって城兵を鼓舞したため、この日は高嶺城は落ちなかった。 輝弘は翌日も高嶺城への攻撃を再開したが、高嶺城の出城も落とすこともできず戦線は膠着した。なお、この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け[6]、宝物が失われている。 大内氏の後継を自認する輝弘であったが、実は大友宗麟の影響を受け、キリシタンであったといわれる。そのため大内縁故の寺院を焼いたとされ、これは後の大友宗麟の「耳川の戦い」でも見られたことである]。 長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、13日に急報を受け取ると九州からの撤退を指示。15日から九州撤退を開始し[8]、18日に長府に到着、21日に吉川元春と福原貞俊が10,000の兵を率いて山口に急行する。 元春は大内方に組した者たちを徹底的に討伐しながら進軍した[4]。この時、大友宗麟は退却する毛利軍を追撃しておらず、毛利軍を追い払うことのみを目的として輝弘らを捨て駒にしたと考えられている。 山口への救援としては石見国津和野の吉見正頼の家臣である上領頼規も嫡男・頼武や伊藤実信、吉賀頼貞らを率いて駆けつけ、山口の宮野口で城井小次郎率いる輝弘軍1,000と交戦。 この戦いで上領頼武や伊藤実信らが戦死している。 高嶺城が落ちない一方で輝弘軍への包囲が始まりつつある状況を知った大内遺臣は、次第に輝弘軍から離散し始めた。 大内輝弘の最期 10月25日、輝弘の手勢は800となり、上陸地である秋穂浦へと撤退する。しかし、すでに軍船はなく(毛利軍による襲撃、もしくは大友水軍の帰国)、輝弘は東へと向かった。その途中で、南方就正率いる防府の右田ヶ岳城の城兵にも攻撃されて敗走。三田尻でも船はなく、浮野峠を越えて佐波郡富海まで逃げてきた。 しかし、この先の椿峠には杉元相や由宇正覚寺別当の周音らの手勢が集まってきており、従う兵が100人に過ぎなかった輝弘はこの方面への撤退を諦めて浮野峠の茶臼山に引き返した。後方からは吉川元春率いる毛利軍主力が迫ったため、最期の一戦を試みるが衆寡敵せず壊滅。輝弘の自刃で乱は終結した。 自刃した輝弘らの首級は福間元明によって挙げられて長府まで送られ、元就の本陣で首実検が行われた後に埋められたと言われている(豊後塚)。 なお、騒乱が鎮圧された直後、旧大内家臣の吉田興種・武種父子は輝弘への内通を疑われて討たれている。 13「毛利軍、九州から引き返し大内再興軍鎮圧」Ø ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日(11月23日)、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐等わずかな兵を残して撤退を開始し、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。Ø 11月21日(12月28日)には城に残っていた宗勝らも退却し、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退した。Ø 永禄12年10月18日(1569年11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると、10月25日(12月3日)頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。Ø 反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日(1570年1月29日)に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還した。Ø 永禄13年1月6日(1570年2月10日)、本国に帰還した毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。
2023年09月30日
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山中幸盛の作戦 尼子再興軍は、海を渡り隠岐為清の本陣を奇襲することを決めたものの、少数の船しか確保できず寡兵で戦うことになる。山中幸盛は美保関へ渡る船の上で、戦いに際して次のことを守るよう諸兵に厳命している。 お互いに小利を考えず、大功を立てることのみを心がけること(互に小利を存ぜ不、大功之立つべき事を存ず可き之事)。 不必要な戦いはしない(実にあらざる働き仕まじき事)。 自他の戦いぶりについては、ありのままに報告すること(自他働之虚実有やうに申す可き事)。 軍の進退については、鹿助の命令に従うこと(進退之義、鹿助方下知次第為る可き事)。 雑兵の首は取るな。組長の首は取ること(雑人原之首取まじく候。組頭之首は取べき事)。 12「毛利軍、尼子と交戦中に大内軍反乱」Ø しかしながら、引き続き月山富田城を包囲して圧力を強め続けていたため、城内では兵糧が欠乏し、また、馬来、河本、湯原氏らが尼子再興軍へ投降するなど[40]、優位な情勢で月山富田城攻略を進めていた。Ø 一方、毛利軍は大友軍との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため軍を動かすことができないでいた。10月11日(11月19日)には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り、その翌日には周防国の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した(大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。 大内輝弘の乱(おおうちてるひろのらん)は、戦国時代後期の永禄12年(1569年)に周防・長門国で起きた騒乱。 旧大内家の動向 弘治元年(1555年)から始まった毛利元就の防長経略によって大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。 大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない弘治3年(1557年)11月には、旧大内氏の重臣格であった杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵、山口近郊の障子岳に籠もった。 この反乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵した大規模なものであったが、毛利家臣となっていた内藤隆春・杉重良らが鎮定。その後も、小規模の反乱が山口周辺で発生するも、山口支配責任者として高嶺城に入っていた市川経好がよく平定して毛利氏の支配を強化していた。 一方、豊後国の戦国大名・大友氏の客将に、大内義興の弟である大内高弘の子大内輝弘がいた。 高弘は大友親治(大友宗麟の曽祖父)の誘いに乗り、大内重臣杉武明と謀って義興に謀反を起こしていたが、失敗して豊後国に亡命していた。 輝弘は山口に帰国して大内家を再興しようとしていたが、頼ろうとした大内家残党(陶・内藤旧臣)が永禄8年(1565年)6月に周防屋代島に集まったところで毛利麾下の来島通康勢に討ち取られてしまっていた。 毛利氏の九州進出 永禄9年(1566年)に出雲国の尼子氏を滅ぼした毛利元就は、永禄11年(1568年)には伊予国へと出兵、河野氏を支援して後方の憂いを断った(毛利氏の伊予出兵)。 そして、永禄12年(1569年)に大内氏の後継を自認して博多の権益を狙い、大友領であった豊前国・筑前国への侵攻を開始した。 同年5月、博多を守る要衝であった立花山城を攻略、大友宗麟と全面対決へと至った。九州へ侵攻した毛利氏は、筑前国の国人らを味方に引き入れた。 騒乱の経緯 輝弘の周防上陸 立花山城付近で毛利軍と大友軍の対立(多々良浜の戦い)が続く中、大友家臣の吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるべく毛利軍の後方撹乱を狙った。少なくとも同年3月に大友氏から備前国浦上宗景に送られた書状で、輝弘の派兵を示唆する内容が見受けられる。 そして、6月に尼子残党の尼子勝久・山中幸盛の出雲国侵入(尼子再興軍の雲州侵攻)に呼応して、山口へ大内輝弘を送り込むことを画策した。 毛利氏は大内一族を山口に乱入させる策を大友氏が企んでいることを数年前から知っていたが、戦線を拡大していた毛利軍は手薄であり、対応が遅れることになった。
2023年09月30日
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美保関の合戦(みほのせきのがっせん)は、1569年10月(永禄12年9月)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、尼子再興軍に叛旗を翻した隠岐為清ら率いる軍との間に起こった戦いである。戦いの場所が美保関(現在の現在の島根県松江市美保関町)で行われたことから、美保関の合戦と呼ばれる。 合戦までの経緯 1569年(永禄12年)、尼子再興を目指す尼子勝久ら尼子再興軍は、隠岐為清の協力を得て隠岐から出雲へ上陸、出雲の諸城を次々と攻略し、ほぼ出雲のすべてを手中に収めんとするまでに勢力を伸張した(尼子再興軍の雲州侵攻)。 その後、出雲の拠点である月山富田城の攻略に手間取るも、それを阻止しようとする石見の毛利軍、服部左兵衛らの軍勢を原手郡で撃破する(原手合戦)。 同年10月(永禄12年9月)、尼子再興軍の出雲上陸にも協力し、また原手合戦においても味方した隠岐為清が、突如叛旗を翻す。為清が謀叛を起こした理由は定かではないが、山中幸盛、立原久綱ら尼子再興軍は、これを鎮圧するため兵を率い美保関へと進軍した。 美保関の合戦 隠岐為清は兵を2手に分け、真野が嶽から聖返しの辺りへ第1陣を、美保神社辺りへ本陣を配置していた。 為清は、尼子再興軍が島根半島の陸地から攻めてくると予想しており、第1陣の兵の配置は、これに対応するものであった。 対する山中幸盛ら尼子再興軍は、為清の作戦の裏をかいて海を渡り、直接本陣へ奇襲する作戦であった。尼子再興軍は港で船を集めると、その船に乗って伯州米子(現在の鳥取県米子市)から海を渡り、為清の本陣へ攻撃を仕掛けた。 戦いは当初、数に勝る隠岐為清軍が尼子再興軍を圧倒する。尼子再興軍は窮地に追い込まれ、一時は全滅の危機に陥るが、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、松田誠保らの援軍が到着すると戦況は一転する。 援軍の参戦により、隠岐為清軍は大崩れとなり壊滅、[10]為清は自国の隠岐国へ逃げ帰った。 また、為清が配置していた第1陣の兵は、本陣の参戦に間に合わなかった。第1陣の兵は、本陣が壊滅したこともあって尼子再興軍に生け捕られ、捕虜となる。捕虜となった人数は、本陣の兵も合わせて約400人とされ、大根島へ送られることとなった。 大根島へ送られた捕虜は、為清が捕虜の助命を条件として切腹したため、その後解放されることとなる。 合戦後の影響 この戦いで、隠岐を支配していた為清は死亡したため、隠岐国は弟の清実が支配することとなった。 後を継いだ清実は、尼子再興軍に協力することを誓ったため、これにより隠岐軍の叛乱は収束する。 しかし、尼子再興軍にとっては、叛乱の鎮圧には成功したものの、仲間同士の争いで兵力が減少するという痛手となった。 またこの頃、九州に遠征していた毛利軍の主力が筑前の立花山城を退去し、周防の大内再興軍や出雲の尼子再興軍を鎮圧するため帰還を始める。 月山富田城に籠もる天野隆重ほか出雲における毛利軍にとっては、主力部隊がつくまでの良い時間稼ぎとなった。 その後、出雲の毛利軍が日登地域(現在の島根県雲南市木次町)において抵抗したこともあり(日登合戦)、尼子再興軍は出雲の拠点の月山富田城を攻略できないまま、帰参した毛利軍の主力と戦うことになる(布部山の戦い)。 隠岐為清の反乱の謎 隠岐為清が尼子再興軍に叛した理由については、確かな資料が残っていないためその真相は定かでない。『雲陽軍実記』や『太閤記』には叛乱の理由が記載されているが、その内容には相違がある。 『雲陽郡実記』によれば、先ほどの原手合戦において、弟の清実の恩賞が自分より勝っていたことを不平にもち、月山富田城主の天野隆重と内通し反乱を起こしたとされる。また、『陰徳太平記』にも「毛利家へ忠勤の験とし、此程尼子に組みせし罪科を謝せんと思い・・・」と記載されるように、為清が毛利軍として戦った記載がある。 『太閤記』によれば、出雲の国内の大部分が平定したというので、丹後海賊衆(奈佐日本助ら)は先に引き上げていったため、残った為清は心細くなって反乱を起こしたとされる。 また上記とは別に、まったく違う見解を示す研究もある。それは、為清は当初から毛利氏に味方しており、丹後海賊衆を隠岐で撃破後、美保関に渡来して攻め込んできたという説である。 出雲渡航や原手合戦に協力したのは弟の清実であり、為清ではなかったとしている。
2023年09月30日
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