歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年10月27日
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カテゴリ: 安土桃山時代





この時の戦闘の激しさを、真壁氏幹の郎従・稲川石見守という18歳の若武者が目撃している。「武者ぼこりの一面に立つ中に、打ち合わせる太刀の光が電光のように煌めくだけであって、戦い終わってからも戦場に黒い霧が立ち込めたように、おぼろおぼろに見えた」と後に語っている。


小田方の先鋒・菅谷政貞は大いに戦功を上げたが、嫡子・ 彦次郎政頼 は弓弦絶え、矢種尽きて苦戦しているので、左右の者はひとまず退くことを勧めたが、命を捨てて忠節を尽くすのはこの時ぞと叫び、群がる敵中に切り込んで討ち死にした。


申の刻(16時)まで激戦は続き、小田勢は地の利を生かして奮戦したものの敗色は濃くなる一方であった。氏治は朝方渡った筑輪川に馬を乗り入れ引き返そうとしたが、あまりに馬が疲れているので馬首を川上に引き向けて水を飲ませているところへ、上杉勢が6,7騎追いかけて来て矢を放った。


札よき鎧なので裏まで貫通せず、氏治は川岸を駆け上り敗れた兵をまとめて小田城に帰還し防御に手筈をして上杉勢の攻撃に備えた。



小田城の戦い


謙信に出兵を要請した佐竹義昭・真壁氏幹は山王堂の戦いが終わった頃にようやく到着し、敗走する小田勢を追撃して小田城に殺到した。氏治は篭城したが、小田城は平城で防御がさほど強固でなく、大軍に包囲され攻め立てられては持ち堪え切れなかった。北条の後詰もなく、氏治は夜ひそかに数十騎とともに 藤沢城 へ逃れた。氏治に代わって戦い指揮を執った老臣・信太治房は最後まで城内で戦い自害。小田城は落城した。



Ø 同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。


Ø 結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した( 唐沢山城の戦い )。


第五次川中島の戦い


永禄7年( 1564 )4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ 蘆名盛氏 軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の 野尻城 を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した( 第五次川中島の戦い )。


しかし信玄が本陣を 塩崎城 に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。


Ø これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、 村上氏 高梨氏 らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。



12「関東の上杉方諸将の離反


Ø 永禄8年( 1565 )3月、関東の中原をおさえる要衝・ 関宿城 が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は 岩付城 江戸城 を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・ 簗田晴助 を救援するため下総国へ侵攻、 常陸 佐竹義重 (佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。


6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の 倉賀野尚行 が守る 倉賀野城 を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に 越前 守護・ 朝倉義景 が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。


さらに5月には、将軍・足利義輝が 三好三人衆 の謀反により殺害された( 永禄の変 )。


永禄9年( 1566 )、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ 安房国 里見氏 が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。


3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・ 臼井城 に攻め寄せた。上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。


撃退された要因は籠城方の健闘であったとされる、また 足利義昭 の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されている [18] 臼井城の戦い )。






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最終更新日  2023年10月27日 13時36分39秒
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