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2023年10月27日
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カテゴリ: 安土桃山時代




綸旨 にて任じられた事がある経緯から、関東管領職が朝廷の官職と同一とみなされて 上杉顕定 以降の関東管領は朝廷から任官を受けたり官途名を名乗る事は無く仮名を名乗り続け、関東管領前に任官を受けたり官途名を名乗っていた者は以降の官位を受けずに就任前の名乗りを続けていた(公式には官職名や官途名が優先されるため)。


Ø 謙信が関東管領就任以降に官位を受けずに「弾正少弼」のままでいたのはその慣例に従ったとみられている(先例として顕定の前任者で管領就任後も兵部少輔を称し続けた 上杉房顕 がいる) [16]



10「第四次川中島の戦いと北条の反撃


Ø このころ武田勢は北信へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄 4 年( 1561 )8月、政虎は1万8,000の兵を率いて 川中島 へ出陣する( 第四次川中島の戦い )。



第四次合戦


『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。


勝沼氏は武田信虎の弟である 勝沼信友 がおり、信友は天文4年( 1535 )に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には 府中今井氏 今井信甫 が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には 信良 がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。


川中島の戦いの第四次合戦は、 永禄 4年( 1561 )に行われ、 八幡原の戦い とも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。


一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『 甲陽軍鑑 』などの 軍記物語 のみである。


そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『 勝山記 』や上杉氏の 感状 近衛前久 宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。


現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。


合戦の背景


天文21年( 1552 )、 北条氏康 に敗れた 関東管領 上杉憲政 は越後国へ逃れ、景虎に 上杉氏 の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年( 1559 )、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は 将軍 足利義輝 に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。


永禄3年( 1560 )、大義名分を得た景虎は 関東 へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて 小田原城 (神奈川県小田原市)に籠城した。


永禄4年( 1561 )3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた( 小田原城の戦い )。北条氏康は、同盟者の 武田信玄 (武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。


川中島に 海津城 (長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、 相模国 鎌倉 鶴岡八幡宮 で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を 上杉政虎 と改めて越後国へ引き揚げた。


関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。


同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、 塩崎城 山布施城 等諸説がある)に対陣する。


『甲陽軍鑑』等における合戦の経過


上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。


自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の 妻女山 に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある 海津城 と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・ 高坂昌信 から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。






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最終更新日  2023年10月27日 12時44分39秒
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