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2006年の「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」と2008年の「大決戦! 超ウルトラ8兄弟」を見て、ウルトラマンシリーズの奥深さを見たような気がした。特撮の世界において、ウルトラマンはなぜか別格扱いされている感じがしていたのだけど、今回その理由の一端が理解できたような感じがする。ウルトラマンシリーズはNHKでも夢特集を組まれたりしているけど、今までどうしてウルトラマンだけなんだろうと思っていた。戦隊だって、仮面ライダーだって、それなりに特撮での地位を気づいていると思うのだけど……。とはいえ、先日、石ノ森章太郎の特集で、仮面ライダーのことをやっていたけど。ウルトラマンシリーズが別格なのは、特撮ヒーローとして第1号というのではなく、そこにこめられている人の思いなんだと思う。今回痛感したのは、昭和のウルトラマンたちをやって人たちの格好のいいこと。年を経るごとに、渋みのあるヒーローとなっていること。ヒーローをやった俳優さんたちもたぶんウルトラマン役をやったためにいろいろと苦労したのではないかと思う。でもそれを乗り越えて今こうして再びヒーローとして現れることができるのが、ウルトラマンなのだと、映画版の二作をみて痛感した。たぶん物語の性質上、仮面ライダーが、ウルトラマンのように何十年後もその年齢を経た姿で仮面ライダーをやることは不可能だと思う。それはもちろん戦隊にしても同じ。お祭り的に、過去の戦士とチームを組むことはあるけど、ウルトラマンのように、それぞれの人生を歩んだ上でヒーローでいることはできないのではないかな?そういう意味でもウルトラマンは特別な存在なのかも。
2008.09.17
TBSのドラマ「あんどーなつ」を見ていて、その登場人物にあれ? となってしまった。うなぎ屋の修行中の若いお弟子さんの顔が、ゲキレッドに見えたから。よくよく見たら間違いなくゲキレッドの鈴木裕樹さん。ゲキレンジャー後半の悩めるジャンの姿と「あんどーなつ」での彼の姿がダブって見えたけど。早々に、ゲストとして活躍できるのはとてもすばらしいと思う。なかなか特撮ヒーローで活躍した役者さんが普通のドラマでもすぐに活躍できる機会はそう多くはない。そう思ってほかのチャンネルを回していたら、裏番組のクイズ番組でデカレッドらしき人が。一瞬だったので、正確ではないけど。今回の彼はいろいろな意味でけっこうよかった。ゲキレンジャーでのゲキレッドは、キャラクターが意識的に作られていて、普通の人ではなかったから、普通の役はやれるのだろうかとも考えたときがあったけど、かえって普通の人物とは違う役をやることは彼にとってよかったのかも。これからも彼の活躍と、今までヒーローとしてがんばってきた人たちの活躍を応援していきたい。
2008.07.28
ゴーオンジャーがお休みなので、楽天ブログは更新していない日々が続いてしまう。そこでもう一つのブログの「FC2版HER讃歌」のお知らせ。FC2版のHERO讃歌は、以前ここで書いていた「電磁戦隊メガレンジャー」のあらすじと感想を、新しい作品を見る間にアップしていることもあって、今月はなんとか毎日更新中。楽天では以前、カテゴリーをそんなに増やすことができなくて、メガレンジャーの記事は「特撮・感想」のカテゴリーの中で、ほかの記事の中に埋もれてしまっている状態。FC2ブログでは、メガレンジャーのカテゴリーをつくって最初から分類しているので、ここよりは見やすいかと思う。今は第41話までアップ終了。改めてあらすじを読んでみて、もう一度見たくなってしまった。もしよろしければ遊びに来てください。FC2版「HERO讃歌」はここです。
2008.06.29
前から楽しみにしていた「レスキューフォース」が始まったらしい。それを知ったのも他の方のブログからで、地方に住んでいるとネットで自分から調べようとしない限り、いつ始まるのかさえ、わからなかった。ずっといつ始まるのだろうと思っていたのだけど……。それもそのはず、わたしの住んでいるところには、テレビ東京系列のテレビ局がない。だからテレビ東京系列の番組は、数週間遅れか、まったく放映されない。「魔弾戦記リュウケンドー」も三週間ぐらい遅れだった。し4/18から始まるという佐伯泰英原作の「密命」は原作が好きなのでとても見たいのだけど、放映される予定はないみたい。「レスキューフォース」もとりあえず三週間遅れで、放映されることになっているので、放映されるだけマシかと思う。ただ朝が早い。日曜の朝で、ゴーオンジャーよりも早い時間に放映することになっているようで、これは確実に録画しないと見ることができない。でも三週間遅れで見られるだけいいと思おう。他の方のブログを読むと、最近ようやくゲキレンジャーが終わったという人もいるし。それにしても地方はつらいねぇ。
2008.04.08
先日のニュースで、お年寄りの女性にわざとぶつかり、謝りながら財布などを盗んだ男の子とが出ていた。そのときのコメンテーターの言葉で「こういうことが起こると、声をかけただけで人が警戒するようになる」といっていた。その言葉を聞いて、思わず百獣戦隊ガオレンジャーの最終回を思い出してしまった。強大な敵にぼろぼろになりながらもかろうじて勝利したガオレンジャーたちは、ガオレンジャーの力をテトムに返して、それぞれの道を歩いていくのだけど、ガオシルバーこと大神月麿が、交差点で大きな荷物を持った老女の手伝いをしようとして、警戒され上に気味悪がられていた。千年前の世界からいきなり現代で暮らしていくことになった彼の戸惑いがわかるシーンだったけど、今回のニュース見て、まさにこのシーンの通りになるような世界になったのかなと考えてしまった。ガオレンジャーを見ていたときは、ちょっと極端じゃないかなと思っていたんだけどね。もう一度、ガオレンジャーが見たくなってしまった。ヤフー動画で、やっているのだけど、購入したDVDには、キャストたちのインタビューがのっているんだよね。爆竜戦隊アバレンジャーで特撮ヒーローの世界に引っ張り込まれ、百獣戦隊ガオレンジャーでどっぷりと首までつかってしまってもう脱出することは不可能みたい。わたしにとってガオレンジャーはそういう意味でも記念すべき一作。
2008.03.13
2/25のyuri☆5993さん のコメントの「確かに「仮面ライダー」の枠を取り払ったらどうかなあとは、私も思うんですよねー。その方が、もっと自由に色んな形のヒーローものに挑戦できそうなのになあ…って」を読んで、私も大いに同感だった。確かに仮面ライダーというタイトルがつくばかりに、特撮ヒーローとしての自由度をかなり失っている。いま、DVDで「幻星神ジャスティライザー」を視聴していることもあり、特に仮面ライダーでなければ、そのもととなった素材を使って、もっと自由に物語が作れたのではないかと思う。仮面ライダーと言うタイトルがつくのと、つかないのとでは、商品の売れ行きに影響がある、と巷間に聞くのだけど、それは果たして本当だろうか。確かに仮面ライダーと言うタイトルがつくと、すでにイメージとしてできあがっているから、最小限の宣伝ですむかもしれない。仮面ライダーというタイトルを外したら、無名の番組にしかならない。それをある程度のものにするためには、宣伝にも力を入れなければならない。でもそれはほかの番組ではどこも行っていることだと思う。たとえば、先日新聞で発表された「トミカヒーロー レイキューフォース」などは、ボクシングの内藤選手を起用したり必死に話題作りをしている。視聴者としての私は、放送日時もはっきりとわからないのに、期待している。それは新しい番組だからだと思う。少なくとも第1話は見るだろうし、作り手も第1話には力を入れているはず。ここで視聴者にそっぽを向かれてしまっては元も子もないしね。そういう面を考えると、仮面ライダーはどうだろう。当然、第1話は力を入れているのだけど、全く新しいところから作り出す作品とはなんかちょっと違う気がする。仮面ライダーには固定ファンがいるから、仮面ライダーとタイトルがつくだけで、少なくとも第1話は見ようとするだろうし、また仮面ライダーというタイトルがついているからこそ、そこに期待してしまうものがある。それが作品の自由度をかなり制限している源のような気がする。もちろん、作品のおもしろさを形作っているのは、作品自体の自由度だけではなく、スタッフたちの考え方もかなり大きいとは思うのだけど。もし仮面ライダーというタイトルがついていなかったらどうなっていただろうと思う作品がある。それは奇しくも「幻星神ジャスティライザー」が放映されていたときに放映された「仮面ライダー響鬼」のこと。以前にも書いたけど、響鬼は第1話のあまりの奇抜さにほとんどまともに見ていないというか、時折斜め見をしていた作品。でも借りてきた映画が以外おもしろかったことで、いろいろ資料を見て、あらすじと設定をみて、せっかくの素材を無駄にしていると感じていた。これが仮面ライダーでなければ、そして特撮ヒーロー作品を作るという心意気があったのなら、おもしろい作品になったと思うのに、本当に残念。響鬼のことに関しては、後日、DVDを見て上で、感想を書きたいと思っている。響鬼はちゃんと見ていないせいか、なぜか気になってしょうがない。これからの仮面ライダーは、劇場版の「THE FIRST」や「THE NEXT」のように、本当の原点に返るか、それとも仮面ライダーというタイトルを全くの有名無実なものにして、仮面ライダーという呪縛を解きはなって、新しい特撮ヒーローを作っていくかしかないのではないだろうか。……関連ブログ…… 2/25のブログ 「トミカヒーロー レイキューフォース」 仮面ライダーという名前と距離感(1) 仮面ライダーという名前と距離感(2) 仮面ライダーという名前と距離感(3) 仮面ライダーという名前と距離感(4) 仮面ライダーという名前と距離感(5)
2008.02.26
18日の朝、新聞を見てびっくり。産経新聞の経済面に白黒の写真だけど、なんかコスチュームを着た人たちが勢揃いしている写真があって、「これは何?」と驚いて、中を読んでみると、春に新しい特撮ヒーロー番組が始まるとのこと。いったいどこの局でなんだろうと思って、読み進んではみたけど、局はわからなかった。まだはっきりとは決まっていないのかな?松竹とかCGの白組が関係しているということは、なんか「魔弾戦士リュウケンドー」を思い起こす。今、旬な内藤大助選手も出演するようで、そこのところは少し心配なのだが……次の対戦相手も決まった選手だし、いくら今が旬といっても、レギュラーをやれるほど時間があるとは思えないし、なにより人柄は悪くないと思うのだけど、演技ができるのだろうか、と少々心配。レギュラーではなくゲストかもしれないけど私の住んでいるところでは、特撮ヒーロー番組は、「電王」と「ゲキレンジャー」のみ。テレビ東京で何かをやっていたとしても、運がよくてリュウケンドーのように遅れての放映だし、運が悪ければ、何もみることができない。テレビ朝日系のヒーローたちはみることができるのだけど、同じ局でやっている「あたしんち」はこちらでは放送されていない。だから「レスキューフォース」もみることができるかどうか、とても心配、内容はほとんどわからないけど、仮面ライダーや戦隊以外の特撮ヒーロー番組は、それらの二つにはないものがあると思うので楽しみ。仮面ライダーも戦隊も出来不出来があって、絶対におもしろいとは言い難いといいたくなるときもあるけど、かといってなくなると寂しくなる。でも必ず巨大ロボ戦をしたりとか、いろいろと初期の頃にはなかった制約が出てきて、それが物語自体を縛っているので、新しいヒーロー番組は大歓迎。タカラトミーがおもちゃを売るために作る番組であるのは確かだけど、作り手の人たちには、そういう制約の中でも新しいものを作ってほしいな。ちなみにヒーローたちの写真が載っているその紙面は、下半分に株価の欄、右側とヒーローたちの写真の上の方には、トヨタ記事などの堅そうな記事が載っていて、ヒーローたちの写真は違和感、大あり。しかもどう見ても彼らの写真は紙面のど真ん中にある。新しいヒーローたちは、経済も救うのかな?
2008.01.19
第25話「まぼろしの勇者」本来なら、あらすじを描いてから感想を書くのだけど、この回だけはどうしてもそんな気になれない。最初のシーンとBパートの後半からはとてもいいのに、その間が余りにも作品をぶちこわしているから。澪と真也が互いに好意を持っているシーンをなにも画面にハートを散らしたり、ピンク色に染めたりして表現することはないと思う。これらの一連の流れがこの話をぶちこわしている。内容的には、新しい展開になるところだし、盛り上がっていくところなのにすごく残念。こういう子供だましのようなやり方で子供が喜ぶと思っているのかと言いたくなる。この回と次の回の脚本は「浦沢義雄」氏が担当している。彼はコメディが得意な脚本家のようでNHKのアニメ「忍たま乱太郎」など担当している。その調子でやったようで、作品のカラーというものをまったく理解していないというのが、明らかだ。アバレンジャーでも何本か描いているけど、何かの資料で、よく彼を起用したとプロデューサーをたたえていたけど、その文章からは、その無謀さに対するものもにじみ出ていた。最後のほうは音楽も盛り上がり方もとてもよかったのに、本当に前半のくだらなさが惜しまれる。おそらく大切な情報もあったのだろうけど、見るに堪えなくてすっ飛ばしてしまったよ。ちなみに彼は次の回を担当したっきりだった。
2007.11.22
東映の特撮ではメインライターとプロデューサーがシリーズ構成を担っていると聞く。ゲキレンジャーの場合は、横手美智子氏がメインライターと言うことなので、シリーズ構成を担当していると言うことなのだと思う。なぜこういうことを書くかというと、最近のゲキレンジャーについて、ちょっと考えることがあるから。きっかけは第35話。それまでにも何かいろいろと違和感があったのだけど、35話でそれが一つのかたちになったという感じ。第35話は、次の展開に進むためにマクとラゲクが退場する重要なシーンだったのだけど、それが構成のまずさからか、薄れた感じになっている。それは先日書いた感想の通り。(確かにまあまあ面白かったのは事実だけど)その最大の原因は、ジャンと理央の対決にあると思う。30分もない時間内に、詰め込みすぎ。だからどれもが中途半端になってしまう。この理央とジャンのシーンを見ていて、メインライターが本当に書きたかったのはこの二人の対決ではないかと思う。そう思うと、理央に対して向かっていくのは、いつもジャンのような気がするし、ほかの人間は完全なる背景と化してしまうときもある。せっかくゴウやケンが登場しても、意味はないように思えてしまう。メインライターはジャンと理央の対決を書きたいのだけど、諸事情がそれだけに集中することが許さないので、30分もない枠で、ジャンと理央と、マクとそのほかのゲキレンジャーが戦うという構図になっているような気がする。もちろん、あとでジャンも合流する。とはいえ、それまで4人で苦戦していたマクに対してのジャンの攻撃は強すぎ。彼だけが突出して力を発揮できているのはなぜなのか、その描写もないし。またメインライターはたぶんかなり強い思い入れをジャンと理央の二人にしているのではないだろうか。とはいえ、その割には、彼らの背景の書き方が甘いのだけどね。これはただの印象なんだけど、二次制作の同人誌の印象を受ける。二次制作の同人誌は、背景を借りているので、細かい説明はしないし、作者が気に入っている人物にのみ焦点を当てるから、その他はただの背景となってしまう。なんとなくそんな感じを受けるな。そう考えると、ジャンがメインとなった回は、ほかの人間が背景化してしまう理由が理解できるというか……。まだ最後まで見ていないからラストで作品の印象が変わるかも知れないのだけど、今まで見た感想から見ると、ボウケンジャーとゲキレンジャーを比べると、作品の構成はボウケンジャーの方が上のような気がする。ボウケンジャーにもかなり問題があったのだけど、それを考えてもそれが今のわたしの評価かな。ほかにも書きたいことはいろいろとあるのだけど、それは後日と言うことで。
2007.10.29
9/16の電王を見て、新しい登場人物コハナが出てきたので、あれ? と思って、検索してみたら、どうもハナ役の人が、休養中ということで、一時的に降板状態にあるらしい。最近ハナを見ていないから、何かおかしいなと思っていたのだけど、本筋とは関係なさそうだったので、気にしていなかった。ただ他の人のブログで、コハナの登場が予定外だったらしいニュアンスで、また一時的な降板が永久的なものになってほしくないとあったので、これは何かあったのかと、本人のブログを見つけたので、読んでみた。映画とテレビ、そしてグラビアなどの仕事が一時的にどっと入ってきて、とても大変で、その結果、イベントを途中退席したり、欠席したりとあったらしい。またそれが原因でブログのコメントに誹謗中傷などが殺到したりとかなり大変だったもよう。今は落ち着いているようだけど、それでも写真のみのアップとかに変わってきているようだから、内心はかなりきついのかもと思ってしまう。ハナの役割としては、そんなに出番があるようには思えないのだけど、だからほかの仕事も入れていたのかな? 映画とテレビシリーズを同時並行する時期はスタッフから死ぬよといわれていたらしい。ただまだハナだから、一時的の降板しても何とかなったのだろうけど、これが主人公だったらとんでもないことになってしまう。だからスケジュール管理は主人公のほうがしっかりしているのかな?カブトのときも、ヒロイン的な役割のひよりが、ほとんど出てこない時期があって、結局最後までよくわからない状態だったし、あれももしかしたら、ハナのような状態だったのかな? カブトが終了したあと、ひより役の人は芸能界から引退してしまったようだしね。DVDなどのメイキングや出演者のコメントを見ると、撮影がかなり大変なのは言葉の端々でわかるけどね。ただ制作者側も過酷な状態なのはわかっているはずだし、オーディションの段階でそのこともふまえて人選していたのかな? と考えてしまう。とにかく役者の都合で話が迷走するようなことにだけはなってほしくないな。
2007.09.17
ゲキレンジャーと風林火山。同じ日曜日に放映されると言うだけで、時間帯も違うし、放送局も違う。でもふと風林火山を見ていて、脚本というか演出というか、ゲキレンジャーと引き比べてしまった。風林火山は大人向け、ゲキレンジャーの方はメインターゲットは子どもなんだけど、でもなぜ風林火山のような手法が使えないのかと思ってしまったんだよね。特にそう感じたのは、甘利虎泰という信玄にとっては忠臣中の忠臣であるの彼の動き。負けを知らない信玄のために、裏切り者の汚名をきて敵に寝返るというのが今回の彼の役所なんだけど、そんなことまったく台詞では出ていない。ただ山本勘助に諭すように告げる言葉で、彼の思いの深さがそこはかとなく伝わってくる。こういうような演出はゲキレンジャーではできないのだろうか。子どもだからこの程度でいいという限界を定めているように見える。メインターゲットが子どもとはいえ、理解できると思うのだけど。なんか最近のヒーローものって、自ら限界を決めているような感じがする。子ども向けの番組だからこの程度という感じ。昔は、もっと自由だったような感じがする。もちろん様々な制約はあったに違いないけど、でも演出的には子どもも大人も関係がなかったような感じがする。子どもが楽しめるものは大人も楽しめるし、大人が本当に楽しめるものは子どもだって楽しめるはずなんだけど。
2007.07.09
昨日(5/21)に何気なく新聞を見ていると、深層真相と言うコーナーでヒーロー番組のことが書かれていた。俎上に載っていたのは「仮面ライダー電王」と「獣拳戦隊ゲキレンジャー」、NHK教育の「ぜんまいざむらい」など。これらの共通点は強いばかりではなく、弱さを持ったヒーローであること。ヒーローものは「世相の鏡」と言われていて、これらのヒーローは今の時代の何を映しているのだろうか、というのが新聞の側の問いかけ。電王の主人公である良太郎は弱々しいけど、他人の不幸に敏感に反応する優しさがあると書かれていた。しかも視聴率も前作を0.3ポイント上回る8.0パーセントに達していると書かれていた。確かに世相を反映していると言えばその通りかもと、記事に納得。前回のカブトが上から見るような作風であったから余計にそう思えるのかも。良太郎は、肉体的にはすごく弱いのだけど、芯が強い。基本的には、強い人なのではないかと思う。梶プロデューサーの「自分が弱いから人の痛みがわかる。その優しさは今の世の中の最大の強さともいえる」と言う言葉には思わずうなずいてしまった。まさに良太郎だ。その次の項では、ゲキレンジャーのことが書かれていて八木プロデューサーによると、「主人公は歴代でもっとも欠陥があるキャラクターにした。欠点を克服しようと思うから仲間と話し合う。それは、コミュニケーション能力が足りないと言われる今の時代に必要な要素だ」とのこと。言いたいことはわかるのだけど、今それが表現されているかと言えば、ちょっとそう感じられない。というのも、ジャンは誰とも話をしていないし、話をしていることはしているんだけど、彼の心情に大きな変化を起こすような会話がなされているとは思えないし、そう言う変化も見えない。ただこの項でこういう欠点を抱えながら成長していくパターンの代表としてガンダムのアムロ・レイのことが出ていたけど、ジャンもいつかアムロのように成長した姿を見せてくれるのだろうか?記事の冒頭にあったヒーロー番組は世相を映すというのは、確かにその通りだと思う。テレビには多くのドラマがあるけど、恋愛、刑事物、探偵もの、時代劇、家族もの。それらのいずれもその時々の時代を映しているとは思うのだけど、ヒーロー番組のほうがよりはっきりとしたかたちで鏡としての役割をはたしているのではないだろうか。
2007.05.22
今日は寝坊した上に、なぜか録画予約もしていなかったために、今日の「ゲキレンジャー」を見損ねてしまった。(電王は途中からだったけど、見ることができた)多いにショックだったのだけど、それは毎週欠かさず見ていたのに、今日はそれができなかったことのショックであって、冷静に考えると話の内容を見逃してしまったことへのショックではないことにちょっと愕然。そのかわり、いつもなら斜め見をしているプリキュア5をしっかりと見ることができた。今まで見てきて、明らかに、女の子向けのアニメ版戦隊という作りなんだけど、特に、今日は初期の戦隊によくあった作り方をしていた感じがする。女の子5人組は、その性格もストーリーの中での役割も戦隊と重なり合うし、それぞれ変身して敵と戦うの同じ。その上、学園物である。(なんかメガレンジャーを見ている感じ)で、ストーリーの作り方なんだけど、まず学園の部活の予算不足というテーマがあって、それを解決していくのがメインで、戦闘は二の次だった。とはいえ敵のからみ方もそのわりにはうまい感じだった。敵も予算不足で悩んでいると言うところが笑えたのだけどね。初期の戦隊では、まずメインのストーリーがあって、それを主人公たちが解決していく中で、敵が絡むという作りが多かったように思う。そう言う意味で、プリキュア5はそんな作り方をしていた。最近の戦隊は、どうも敵とのからみ方のバランスがうまくいっていないというか、特にゲキレンジャーは、ゲキレンジャーたちのドラマが乏しいように感じる。彼らのドラマに、敵が絡んでくるという話がいいと思うのだけど、なんかみんなばらばら。敵は敵で勝手にやっているし、ゲキレンジャーたちもなんか勝手に修行していて、時々ジャンが敵の気配を感じて、ゲキレンジャーの登場という感じ。なんかうまい方法はないものだろうか。プリキュア5は、私が子供のころにもこういう女の子向けのかっこいい戦隊のような話が見たかったな。子供のころのヒロインは、ヒーローの脇役だったしね。ヒーローを越えて活躍したヒロインはいなかった。そう言う時代だったのよね(/_;)
2007.05.06
仮面ライダーという名前と距離感(1)仮面ライダーという名前と距離感(2)仮面ライダーという名前と距離感(3)仮面ライダーという名前と距離感(4)5)終わりに仮面ライダーという名前はとてつもなく大きなものだと思う。それはファンの人たちや作り手の中に漠然と存在するものだから、どれほどのものかはとても想像がつかない。だから、作り手もまた観客も仮面ライダーにそれぞれの思いを寄せると思う。だから不満も出るし、こんなはずじゃないという意見もそれぞれに出てくる。それは当然のことだと思う。その大きな名前だからこそ、作り手は仮面ライダーという作品からほどよい距離をとってくることができないのではないかということ。名前を意識するあまりか、奇をてらいすぎたり、自分よがりな作品を作ってしまったり。カブトも決して素材は悪くないのだから、もっと観客のことを考えて作るべきだったのではないだろうか。謎を解き明かすことを作品のエンジンとしているのなら、最後にすっきりとした形ですべての謎を解き明かして欲しかった。その謎を知っているのは間違いなく作り手なのだから、彼らだけがわかっても意味がない。テレビの番組はエンターティメントなのだから、見ている人が理解しなければ、意味がないのではないだろうか。そのためには作り手が思い入れを込めつつ、同時に冷静に作品を見渡す距離感が必要だと思う。
2007.02.06
仮面ライダーという名前と距離感(1)仮面ライダーという名前と距離感(2)仮面ライダーという名前と距離感(3)4)作品と制作者の距離感仮面ライダーカブトを見ていて、つくづく感じたのは、見ている方が置いてきぼりをくらっているという思いだった。主人公天道のキャラクター設定はなかなか共感できなかったのを初めとして、ストーリーでも見ている方はまったく考えていない構成が目立っていた感じがする。特にカブトのHPと重ねてみたりすると、そこに作る側と作品との距離感を感じてしまう。距離感といえば、距離があるという意味になるけど、それとは違い、距離が近いという意味の距離感。たとえば、カブトの初期の頃、「仮面ライダー The First」の本郷猛を演じた黄川田さんがちらりと出演されていたことがあったけど、あのシーンは、正直カブトにはなんの意味もないシーンで、彼を出すためにわざわざ作ったという感じがした。一話の中に意味のないシーンをまったく入れる必要はないといっているのではなく、緊張するシーンの連続の中で、ほっと息をつける遊びのシーンを入れるのは必要なことだと思っている。物語は緩急のバランスが大切なのだけど、あのシーンはあまりにも無意味で、わざわざ彼が本郷猛であることを観客が思い起こすような感じで登場させることもないのではないかと思った。先ほどいったように、遊びのシーンを否定する気はまったくないし、何らかの形で、関係のある俳優さんが小さなシーンで出演するということも当然あっていいと思っているのだけど。ただHPで事前に意味ありげに告知されていたこともあって、拍子抜けしてしまって、むしろ作品に対してはよくない感じがした。せっかくやるのなら作品に対していい影響を与えるか、もしくはさりげなく見ている側で、「あれ?」って思わせる方がいいと思う。カブトの場合、料理対決も意味のないものだったし、カブトは料理番組ではないんだけど……。神代剣の存在も最後のシーンがなければ、いったい何のためにそこにいるのかわからない存在だったし、矢車さんたちの存在もいったいどういうことなのかさっぱりだった。たぶん、作っている側は充分にその存在が作品には必要と思っていたから存在されていたと思うのだけど……。そういうのを見ていると作り手のすごい思い入れを感じてしまう。そういうのはヒビキでも感じていたことなんだけど、ヒビキの第1話。あまりの展開に唖然としてしまった。なにせミュージカル仕立てになっていて、中身は……というとあまり思い出せない。そこにもたぶん作り手のある強い思い入れがあったのだと思う。ヒビキの件でネットとか見ていくと、真偽は別にしてもいろいろと作り手が強烈な思い入れを持っているのかなと思わせるような情報があったりしているし、実際仮面ライダーという話なのに、この話の作りは少しおかしくないだろうかという部分が、多々あった。それらを見ていくと、作り手が作品への思い入れというか思いこみというか、それがあまりにも強くて、作品との距離がとれていないというように見える。もちろん作品を作る上では、思い入れはとても重要なことだし、必要なことだと思う。でも同時に作品との距離を保って冷静に見ることも必要なのではないだろうか。その冷静さが欠けているから、見ている側としては作り手たちが内輪だけでわかる話を作っている感じがするのではないかと思う。カブトの作品全体やヒビキのミュージカル仕立ての第1話も、見ている側に向かって作っているという感じではなかった。作品を作り上げていく上で、思い入れがなければいいものを作っていくことは不可能だとは思う。でも同時にその思い入れが、観客にどう伝わるのか、冷静に見る目も必要だと思う。
2007.02.03
仮面ライダーという名前と距離感(1)仮面ライダーという名前と距離感(2)3)物語の永続性かなり前のことだけど、今でも忘れられない言葉がある。それは「SFマガジン」という雑誌に書かれてあった言葉か、それとも栗本薫の「グイン・サーガ」の後書きで書かれていた言葉かはっきりしないのだけど、しかもどのような言葉で書かれてあったのか正確なところも忘れてしまったけど、「終わらない物語」という話だった。それは今回のタイトルにもあるように「物語の永続性」についての内容だったことははっきりと覚えている。栗本薫の「グイン・サーガ」という物語は、彼女が全100巻の予定で書いていたはずの主人公グインという異形の戦士を中心とした一大叙事詩だったはずなのだけど、今はすでに111巻まで出ているという物語。最初の頃は夢中で読んでいたけど、今はあらすじも目にしていない。その彼女が、物語の永続性に語っていた。それは終わりなき物語で、物語が完結してもなお続いていくのか物語だという話だった。それは永遠に書き続けていくという意味で使われていたはずではないのだけど、グイン・サーガはどうもその傾向のよう。そのときは余りよくわからなかった言葉だったけど、ディヴィッド・エディングスが書いた「ベルガリアード物語」「マロリオン物語」「エレニア記」「タムール記」を読んで、物語の永続性とはこういうことを言うのかと実感した。物語自体は最終巻で完全に終わっているものにもかかわらず、余韻がある。終わりなき物語というのは、この余韻のことをいうのだと思った瞬間だった。そしてこの本はぽろぽろになるまで読み返すことのできる本で、しかも一度読み出すと最後まで読んでしまう物語で、途中で休みたくないと思ってしまう。何度も何度も読んでいるから、この人物はここでこういうことを言う、この先はこういう風に動いていく。内容はすべて知っているのに、それでも読みでしまう。それが「永続性のある物語」ということだと思う。これは決して書籍に限らない。戦隊だって仮面ライダーだって、結末がわかっても繰り返しみたいと思う作品がある。私はまだ「鳥人戦隊ジェットマン」を最後まで見ていないのだけど、あの作品は、他の作品よりも早くに全話ビデオになり、そしてDVDになりレンタルされるのも早かったと聞いた。最後の結末はわかっているのに、それだけみたいと思う人が多いということだと思う。戦隊にしろ仮面ライダーにしろ、結末はわかっているのに、何度でも見たいと思う作品であれば、それは永続性のある物語と言える。その基準は人それぞれ当然違うけど。物語が永続性を得るためには、最近の仮面ライダーのように、謎を解き明かすことだけに終始するのでは無理がある。なぜなら、謎は一度解き明かされてしまえば、もう謎とはいえなくなってしまうから。でも謎を絡めながらもそこに人間のドラマがあったら、どうだろう。登場人物たちが、悩んだり、成長していったりしていく。そのドラマをしっかりと書き込めば、何度でも見ることのできる作品になるのではないだろうか。戦隊シリーズの利点は、主人公が複数いるということで、敵ともからみながら、ヒーローたち内部でのからみができるということ。そしてそこで生まれる葛藤が作品に奥行きを与えているということだと思う。物語を読むにしても見るにしても、そこに登場する人物たちが、物語の初めと終わりでは何かが違っている必要があると思う。その変化を追っていくことがドラマなのではないかな。変化を見ること、それがなければ物語の意味をなさないと思う。たとえばカブトの主人公天道は、物語の初めと終わりで、彼の内部で何か変化したのだろうか。最初も完璧人間で、最後も完璧人間。もちろん共感できる余地はあまりなかったし、彼だけがすべてのことを知っていて、見ている方はその謎すら完全に解明されてはいなかったし、その点を見ると、もう一度見たいとは思えない作品。もっと別の視点から見ると、少子化でいくら一人の子供のためにお財布が6個あるとはいえ、特撮ヒーロー番組の大スポンサーである玩具会社の製品の市場が大きく広がる可能性は少ない。だからこそ子供の頃に特撮ヒーローを見て大人になり、そして再びはまっている人たちをも満足させる作品作りが必要になると思う。子供が見るものだからといって小手先で細工したりするのではなく、また大人にこびようとするのでもない作品を作って欲しい。最初の仮面ライダーは紛れもなく子供番組なのに、そこに込められているテーマはかなり重かったりする。だからこそ、ファンたちの思い入れがあるとはいえ、いまも仮面ライダーは存在しているのだと思う。戦隊にしてもゴレンジャーなんか特撮の技術は古いし、話の内容も古い。でも再び見たいと思うのは、ファンの思い入れだけではなく、そこに物語の永続性があるからだと思う。一度見終わってもまた、見たいと思う作品が、私にとって一番最高の作品だと思う。
2007.02.02
先ほどブログをいろいろと見ていると、ボウケンブルー・最上蒼太役の三上真史さんが、1/31を持って事務所を移られ、それに伴いブログも休止とあって、あわてて三上さんのブログ「三上真史 Start Up!」をのぞきに行った。1/31のブログには、「旅立ち」というタイトルで、彼の心境が書かれていた。ボウケンジャーの終了に合わせていたようで、ちょっとショック。悲しいとか残念だとかそういう意味でのショックではないのだけど。ボウケンジャーは、意識して戦隊シリーズを見始めて、初めてリアルで一話欠かさずに見ていた作品で、作品の善し悪しとは別のところで、ちょっと特別な感じがしている。そして新しいスタートを切った三上さんのこれからの活躍を応援したい。さて今テレビドラマで、1年という長い時間、同じ人物を演じることができるのは、戦隊シリーズ、仮面ライダーやウルトラマンシリーズの特撮ヒーローものか、NHKの大河ドラマぐらい。だから登場する俳優さんたちは、他のドラマの俳優さんたちよりも、その後の活躍がちょっと気になる。特に気になるのは戦隊のヒーローをやった人たち。1年間、主役をやった人たちだけど、一般のドラマでは、端役が多い。それでも目にできるだけましかという状態。そして彼らが戦隊ヒーローだったことが、人々の意識から消えた頃、そのうちの何人かは、準主役級の役をもらったりして目立ち始める。それでも全員が全員、俳優として生き残る感じではないし、消息がつかめなくなってしまう人も。しかもヒーローの面影をかすかに残してはいるものの、ふつうの俳優さんになっている。それが当たり前なんだけどね。自分でも戦隊をヒーローをやった俳優さんのその後に何を期待しているのか、はっきりとはわからないのだけど。ただそういう彼らの活躍をうれしく思いながら見てはいても、一方で寂しさも感じるのは事実。もうあのヒーローたちは記憶とDVDの映像の中にしかいない。そしてその作品に続編はない。同じキャストの新しい活躍を見ることはできないという寂しさ。戦隊も仮面ライダーも、1年たてば終わってしまう。二度と彼らに会うことはない。そう思うと、「一期一会」という言葉を実感してしまう。特に放送と同時に作品を見るとその言葉がとても重たい。ボウケンジャーもあと二話で終わり。キャストたちはそれぞれの道を歩いていってしまう。見ていたこちら側は取り残されてしまうというか。そんな感じがして、ちょっとたまらない。改めて、今の彼らには会えるのは、今だけ。その一瞬一瞬を大切にしたい。と思う。
2007.02.01
仮面ライダーという名前と距離感(1)から続く2)縛り――戦隊シリーズと仮面ライダー縛り……要するに様々な制約のこと。それは営業上のこともあるだろうし、作品上のこともある。作品上のことはテーマとかコンセプトとかとそう呼ぶ変えてもいいかも。自分のお金で番組を作るのでない以上、制約はあるのは当然のこと。30分の特撮番組にかかるお金はたぶんふつうのドラマよりもかかっているのではないかな。ゴールデンタイムのドラマよりもお金がかかっていると思う。統計を出して調べたわけじゃないから、本当のところはわからないけど。すくなくともゴールデンタイムのドラマに、あんなにダイナマイトや特殊技術を使う番組はない。ヒーローものになると、一人のヒーローに最低でも俳優は二人必要だし。昔の戦隊に出ていた俳優の中には、俳優として変身前のヒーローをやった上で、変身後のヒーローもやった人がいたが、さすがに昨今は無理なようで、変身前のヒーローたちのアクションが少ないのはそれが一因ではないかと、思っている。「ロード・オブ・ザ・リング」のように何ヶ月も前から、アクションの特訓をみっちりやるということは日本の現状では不可能だしね。ヒーロー番組ともなれば、敵役は必要だし、壊すための町が必要になる(しかも次の週にはまた新しい町ができている。リサイクルされてはいるのだろうけど)それらを作る人の経費を考えても、結構かかっているのではないかと推測するのだが。会社の一室や、マンションの部屋で、ドラマが延々と進行することは滅多にない。だからこそ、玩具メーカーがスポンサーにつく必要があるのかも。ヒーロー番組が玩具の販促番組と揶揄されるのもそういう意味では仕方がないといえば仕方がないのかも。今回のボウケンジャーのように、次々とロボットを作り出していかなければならないのは、そういう面があったからなのだろうと思う。実際の売れ行きはどうだったのか知らないけど、子供はせっせと玩具菓子についているボウケンジャーのロボットのセットを集めていた。玩具メーカーから出ているのを買いそろえると、1万円以上するらしい。そういう意味で言うなら、戦隊シリーズの方が作品を作る上でかなりの制約があると思う。何しろ、ロボットは出さなければならないし、それも1号ロボ、2号ロボ、3号ロボ。ロボットを次から次へと出すにはスポンサーとのかねあいがあるからなんだろうけど、営業上の制約が作品にも影響しているし、その上、最近は定番になってきている追加戦士の投入。仮面ライダーより低年齢層向けというのはあると思うのだけど、戦隊シリーズは制約が多い。その点、仮面ライダーはそれぞれの作品を作る上での制約はあまり感じられない。平成仮面ライダーの決める技はライダーキックである必要はないようだし、ライダーといいながら、バイクに乗れない仮面ライダーもいた。(ヒビキのことだけどね。初めの頃、イブキのバイクに乗ったはいいが、ブレーキをかけられなくて……あのときのイブキのリアクションはおもしろかったけど)龍騎は仲間同士で殺し合いをしてしまうし。敵という存在が、初期の仮面ライダーや戦隊のように明確ではないから、終わってもちょっと爽快な感じにはなれない。戦隊シリーズは、制約が多いが故に、いろいろなヴァリエーションを作り出していると思う。かっちり決められた枠からはみ出たところで工夫をしようとしているのが感じられる。逆に、戦隊よりも規制がないように見える仮面ライダーが、「謎」というもので作品を最後まで持って行こうとしている感じがしてならない。それぞれの作品は、クウガにしろアギトにしろ龍騎にしろ、カブトに至るまで、一見いくつものヴァリエーションで作られているように見えるのだけど、それぞれの作品は「謎」というところに集約されている感じがする。しかもその謎の究明がそれぞれに中途半端だったりしているし。戦隊シリーズはヒーローたちが複数であることもあって、それぞれのキャラの立て方によっては幾通りものドラマとしてのパターンが生まれるし、敵の存在か明確でヒーローたちの目的もはっきりしている。いろいろな制約がおおいにもかかわらず、それぞれの作品はヴァリエーションにとんでいて、戦隊シリーズ全体を見渡したとき、秘密戦隊ゴレンジャーから、ここまで育ったなという感じがあるけど、仮面ライダーの方は、新しい仮面ライダーを作ろうとして規制を取り払ったのはいいけど、そのせいでむしろ仮面ライダー全体を見ると、広がりがなくなっている感じがする。作品において、いろいろな縛りは、煩わしいものなんだろうけど、それがあるから発想を広げることができるのかも。そして作品自体にも広がりが出てくると思う。要は、制約と自由の駆け引きなのかもしれない。作品はそこの狭間で作られていくのかも。仮面ライダーという名前と距離感(3)へ
2007.01.31
1)仮面ライダーという名前。新しい仮面ライダーが始まった。おもしろそうなので、これから日曜の朝の楽しみが増えそうな感じでまずはよし。前回の仮面ライダーカブトが、ストレスだらけの内容で終わりもすっきりしなかったし。救いは最後の最後のシーンで加賀美たちがみんなそれぞれの道を歩いていることがわかったことぐらい。で、いつもおじゃましている大阪歩さんのブログをのぞいていて、そこに電王のことと同時に仮面ライダーという冠についても書かれていた(ブログの4番目の項目「仮面ライダーという名の東映特撮」)ので私もちょっと自分の考えをまとめてみることに。まず私がある程度視聴した平成仮面ライダーはクウガアギト龍騎この三つはレンタルビデオでほぼ結末まで視聴済。ファイズブレイドこの二つはHPなどであらすじのみ読了。ヒビキ第1話から3話程度、そして最終回を視聴済。残りはあらすじのみ読了。カブト全話視聴済。まず「仮面ライダーのコンセプトって……」と意識したのが、ヒビキだったと思う。TV版は期待していただけに第1話があまりにも物語になっていなかったので、愕然としてしまって、その後その印象があまりにも強すぎて、最終話しか見ることがなかった。でも映画版はすごくおもしろかったんだよね。ヒビキ役の人のアテレコはひどかったけどね。でもあれは仮面ライダーではない気がする。と思っていたところに、元々のタイトルは「音撃戦士」だったと聞いてやっぱりという印象だった。そちらの方がヒビキにはふさわしい。なぜそこで仮面ライダーにしたのか。たぶん仮面ライダーというタイトルでなければ、スポンサーなど営業的にOKが出ないからなんだろうけど。あえて仮面ライダーとつける必要のないものが仮面ライダーとなっているのはどうも無理があるのではないかな。最近特にその無理が出てきているような感じがする。こうしてみると、仮面ライダーってどんなコンセプトで作られているのかなと思う。昭和の仮面ライダーを継承しているのなら、悪の組織の手で人ではなくなった改造人間が正義の味方になるという話なんだけど。たぶん時代的にそういう作りは難しいのだろうけど、仮面ライダーは基本的に一人で戦うんだよね。そこに人の悲哀みたいのがあったりして、楽しいおもしろいだけの作品ではないと思うのだけど。だからといって、カブトのように謎だらけの作品は……作品としては評価できないような気がする。仮面ライダーとあれば、それぞれの人のそれぞれのイメージがあるし、最近は何でも有りという感じなんだけど、だから「仮面ライダー」とタイトルをつけるなら、「仮面ライダー」でなければならないテーマがあるはずなんだけど、ただ営業的な面から仮面ライダーとつけてしまうから、作品がおかしなことになっている感じがする。仮面ライダーが始まる前は仮面ライダーは存在していなかったんだよね。あれは画期的な作品だったんだと思う。今はその遺産をコピーしているだけという感じ。コピーは劣化するんだよ。新しく線を書き足したとしてもね。なぜ仮面ライダーではなく新しいヒーロー番組を作ろうとしないのだろう。ヒビキは仮面ライダーと言うには作品的に毛色が違っていたしね。仮面ライダーというタイトルを外せば、もっと自由にいい作品ができたと思うのだけど。電王はおもしろそうだけど、あれも仮面かライダーと言えるのかどうか、ちょっと疑問だし。仮面ライダーが仮面ライダーたるテーマって、いったい何だろう? 作っている人にはちゃんとわかっているのだろうか?仮面ライダーという名前と距離感(2)へ続く。
2007.01.30
超星神グランセイザーのDVD第7巻の特典映像に特技監督の川北氏と伝通院洸役の芹沢秀明と松坂直人役の高原知秀のインタビューが収録されていた。そこで語られたのが、伝通院洸という役。あの支離滅裂な感じは、どうもスタッフの思い入れによって生じたものらしい。スタッフが伝通院洸にそれぞれのイメージを投影した結果が、ああいう感じになったよう。伝通院洸を演じていない芹沢秀明を見ていると、あの人の別の作品を見たら、どう演じるのだろうと、ちょっと気になった。伝通院洸は彼の血肉とは完全になりきっていないところがあるから、ちょっと違和感があったのかな。そういう点では、高原知秀の場合は、インタビューを受けている途中で、松坂直人になってしまった感じがある。彼は、直人役に決まったときにいろいろと自分で直人のバックボーンを考えていたようで、それもかなり重たいものを背負った設定にしていて、それが脚本でその通りだったときには彼自身が驚いたというかこれでよかったんだと言うことをいっていた。なんか役に取り組む役者の姿勢を見た感じがする。
2007.01.11
ウィキペディアでスーパー戦隊の歴史を読んでいて、バトルフィバーJの項目の一番最後の項目で、その時間帯に放映された前番組と後番組が書かれていた。それを見て、今までの疑問が解決されてとてもすっきりした気分。というのも、ウィキペディアでスーパー戦隊の歴史をたどっていくと、わたしの記憶とずれが生じていることに気がついたんだけど、子供だからと思ってそのままにしてはいたものの、やっぱり心の隅に引っかかっていたらしい。子供の頃ゴレンジャーを見ていたことは確かだった。でもジャッカー電撃隊の記憶はなくて、たぶん特撮を卒業したんだろうと思っていたのだけど、どういう訳か、バトルフィバーJの記憶はしっかり残っている。余りいい意味で残っていた訳ではないのだけど。踊りをメインにした戦闘方式が子供心にかっこがいいとは思えなかったから。それだけはしっかりと覚えているんだけど。で、ウィキペディアをたどっていくと、ジャッカー電撃隊のすぐ後にバトルフィバーが始まっていたわけではないのに、なぜわたしの記憶にそれが残っているのかが不思議だった。いったいどういうきっかけでバトルフィバーを見たのか? きっかけはバトルフィバーJの前番組にあったようだ。それが今回はっきりしたわけ。バトルフィバーJが始まる前その時間帯は、「闘将ダイモス」をやっていた。わたしは今でもはっきりと覚えているほど、闘将ダイモスにはまっていた。そしてその終了後が、バトルフィバー。なら見る機会もある。そして挫折したんだと思う。結局、それが特撮ヒーローの卒業時期とも重なっていたんだろうね。いまは再びはまってしまったけど、大人になってからはまると、卒業はできないんだよね、たぶん……。
2007.01.05
(前回の続き)・轟轟戦隊ボウケンジャーについて(1)・轟轟戦隊ボウケンジャーについて(2)ここまで書いて、気がついたけど、ボウケンジャーって敵が複数いるんだよね。それもあんまり共闘しないし。それが今ひとつ盛り上がらない原因かも。わたしが見てきた戦隊はみんな敵がはっきりしていたんだよね。一話完結に近い、デカレンジャーも最終的にはエージェント・アブレラとの対決になるし、メガレンジャーはDr.ヒネラーがいる。ガオレンジャーにはオルグのセンキが強敵だし。作品における敵の存在ってとても大事だと思う。もしかしたらヒーローたちよりもちゃんと作り込まないといけないんじゃないだろうか。ボウケンジャーでは、最近は滅多に姿を見せないゴードムの神官ガジャ。リュウオーンにクエスター、そしてダークシャドウ。敵と戦って盛り上がるためには少なくとも順番に減らしていかないといけないのではないだろうか。それともほかの方法で盛り上げるのかな? どちらにしても、10話ちょっとでボウケンジャーは終わるけど、話自体ではなく、どうやって盛り上げてけりをつけるのか、それとも永遠に宝探しをしたままこの平坦な流れで終わらせるのか、気にはなる。これからも見ていくとは思うけどね。そしてブログにも「今回はそれなりにおもしろかった」と書くと思う。確かに1話1話だけを取り上げると、それなりにおもしろいといえるからね。それにしても「終わりよければすべてよし」という使い古された言葉を実感したのは、アバレンジャーだったかそれともガオレンジャーだったか?アバレンジャーは今までブログに書いていたけど、実はガオレンジャーにも書きたいことがある。まとめるには少し時間がかかるんだけどね。これらの作品を見て感じたこと、「メガレンジャー」ってもしかしたら、戦隊として一番バランスがとれていた作品ではないかということ。ボウケンジャーについて書くつもりだったのに、なんかいろいろとほかのことまで書いた上に、余りよくまとまっていないような……。ボウケンジャーの総まとめを書くときの思いは違っているかもしれないけど。(「轟轟戦隊ボウケンジャーについて」のブログ・了)
2006.11.25
(前回の続き)・轟轟戦隊ボウケンジャーについて(1)わたしの戦隊の視聴状況で、どうこう言うのも気が引けるのだけど、でもボウケンジャーが盛り上がりが足りないように感じるのは、1年間を通してボウケンジャーを見た場合、ストーリーに太い柱がないからではないかと思う。ボウケンジャーの目的は、プレシャスを探して保護すること。だから、1話完結でも十分なんだけど、同じ1話完結方式をとっていたデカレンジャーの方がおもしろかった。デカレンジャーの5人+1人とボウケンジャーの5人+1人。比べるとデカレンジャーの方がドラマ的だった。デカレンジャーはストーリーの大きな流れとしてデカレッドが成長していく物語だったし、ほかのみんなもそれぞれに始まった当初の位置から最終回には別の位置に立っていたし。特に最終回近くの回はすごかった。アバレンジャーのストーリーの大きな柱はアバレブラックの存在だし。メガレンジャーは高校生活を送りながら、しかも受験もあったりする中、Dr.ヒネラーとの戦いだった。ガオレンジャーはというと、ガオシルバーの登場がなければ、たぶん一話完結の地味な作品になっていたと思う。でもガオシルバーの登場で、作品に深みが出たことは確かだと思う。平安時代の戦いを背負うシルバー。そしてガオゴット。そして千年前のときと同じ、究極のオルグのセンキ。それに対して命がけで戦うガオレンジャーたち。で、ボウケンジャーはというと、まだ最後までいっていないから、言い切ることはできないけど、このままではなんか地味な作品で終わってしまう気がする。それというのも、メンバーに変化がないからかな。ボウケンレッドの暁は知的なリーダー格なんだけど、それはそれで完成されているし、どこにも傷がないと言うか……。最初の頃、不滅の牙時代のトラウマらしきものが出ていたけど、最初の頃に少し出てきただけで、最近は完成された人間になっている。蒼太もそう。さくらもまたなぜ財閥のお嬢様が自衛隊に入ったのかというのはさらりと書かれていただけで、終わっているし。真墨は、闇のヤイバとの対決があるのかどうか……。菜月の過去の話はあれで終わってしまいそうだし。映士は、クエスターとの対決に前ほど感情をあらわにすることはないというし。なんか今のところ、みんなその場で立ち止まったままなんだよね。(次回に続く)
2006.11.25
N郎さんのブログをみて、ボウケンジャーについてちょっと考えてみた。というより、最近感じていたことをまとめてみる気になったと言うべきだけど。ボウケンジャーって、宝物―プレシャスを探して保護する組織に属している5人の話なんだよね。でも最近のプレシャスは彼らがわざわざ探し出さなくてもそこら辺に転がっているようだし、前回の38話でのプレシャス〈虹の反物〉はなぜか風のシズカが持っていたし。最近彼らは冒険していない。まあ、時間の制約もあるし、新しいロボットは次々出していかなければならないし。大変なんだろうなと、テレビのこちら側では思う。でもね……と思ってしまう。何か物足りない感じ。盛り上がっていかないというか……。わたし自身、そうたくさんの戦隊を見ているわけではないけど。わたしの視聴状況は下記の通り。最終回まで見たもの(内容は忘れていても見たと確信できるもの)◆デカレンジャー◆アバレンジャー◆ガオレンジャー◆メガレンジャー途中まで見たもの◆ゴーゴーファイブ(終わるのがいやで最終巻を見ていない。DVDは全巻もっているんだけど。しかも途中の回は何度も見返している)◆タイムレンジャー(同時期に見ていたガオレンジャーにはまったせいで、レンタルDVDの一巻のみ視聴。いつかまとめてみる予定)◆ジェットマン(なかなか借りることができなくて、現在、第4巻まで。細かな内容は忘れてしまった)◆ギンガマン(これも続きが借りることができなくて、第1巻のみ)◆ゴレンジャー(現在視聴中)ほとんど見ていないもの◆マジレンジャー(DVDで第1巻を見て、最終話はテレビで視聴。途中はほとんど見ていない)◆ハリケンジャー(子供が見ているついでに見ていた。特撮には再度はまる前だったので、ほとんど記憶にない。でもはまったあとに見た映画はおもしろかった)現在視聴中のボウケンジャー以外で名前が出ていないのは、全く見ていない。見たいんだけど、レンタルになっていないのもあるし。(次回に続く)
2006.11.25
轟轟戦隊ボウケンジャーも次の回で36話目になる。そろそろラストに向けて、盛り上がっていく時期かな。菜月の謎も解明されたし、後は映士とクエスター、真墨と闇のヤイバとの関係にもけりがつく頃ではないかと思うのだけど、ほかの人たちはどうなるのだろう?ボウケンジャーの場合は、全体のストーリーとしての大きな流れがあまり見えてこないから、どういう形で終わるのか想像はつかない。これがゴーゴーファイブやメガレンジャーだったら、最後は敵との存亡を賭けた戦いになるのだけど。ボウケンジャーの場合は、敵が複数いるし、時には共同戦線をくむことはあっても、それぞれが勝手にやっているからね。さて、先日、オークション関係でメールをやりとりしていた人の情報から、次の戦隊の名前が「獣拳戦隊ゲキレンジャー」であるらしいというのがわかった。もっともこの情報は一次情報ではなく、二次三次の情報で、わたし自身確認のしようがないのだけど。でもこの名前で商標出願がされているようなので、わたしはほぼ決まりではないかと思っている。どんな内容になるのか今からとても楽しみ。
2006.11.03
先日 電磁戦隊メガレンジャーの第1話と第2話の台本を手に入れることができた。実際に使われていたようで、嬉しくてさっそくぱらぱらとめくってみて、びっくり!タイトルが放送時と違うのは、台本に(仮)と書かれていたからわかるんだけど、登場人物の名前がまるで違っていた。メガブラックの遠藤耕一郎の名前が第1話と第2話では『遠藤玄之助』になっている。思わず、えっと声を出してしまった。確かに『玄』という時は黒という意味でも使うけど……玄之助って何? あまりにも時代錯誤じゃない? 一瞬、おじいちゃんをイメージしてしまった。(本当に若い玄之助さんがいたらごめんなさい)ほかにも伊達健太は『若松雄太』、並樹 瞬は『林堂 透』、城ヶ崎千里は『滝沢理佳』、今村みくは『友里あずさ』。ちなみに変身後の呼び名も違っていた。メガレッドは『レッドメガ』でメガブラックは『ブラックメガ』ほかもみんな順番が反対。メガレッドという言い方に慣れたせいなのか、『レッドメガ』はちょっと言いづらい。変身前の名前も、初めの名前だとちょっとそぐわない感じがする。今の名前も当初の名前も普通っぽいんだけど……やっぱり一年間見てきてなれたせいでそう思うのかな? でも玄之助はねぇ……。台本の最後に「登場人物等の名称は変更する場合があります」って書いてあったから、確かに名前の変更は念頭にあったようなんだけど。ほかの台本、ガオレンジャーの第1話の台本をたまたま持っているけど、名前は台本どおりだったし、メガレンジャーのような注意事項はなかった。メガレンジャーの場合は彼ら5人の名前で『DENJI』になるようになっているんだけど、一体いつの段階でそういう風に変更したんだろう?ちなみに第2話に出てくるギャラクシーメガはこの台本が出来上がった段階では『メガディアス』だったらしい。
2006.08.02
昨日に続き、今日も「爆竜戦隊アバレンジャー」について。今回は最終回について、ちょっと考えてみた。初めよければ半ば良し、終わりよければすべて良し。どこで聞いたのかもう忘れてしまったけど、特に後半の、終り良ければすべて良しという言葉はあちこちでよく聞く言葉だと思う。何かをし終えるときなどに使われているのかな。小説などを読んでも、何となく読んでいたのが、最後がとても印象強くて、前半の何となく読んでいた部分がすべてプラスになってしまうことがある。おそらく、映像作品も同じだと思う。一年間通して、大きなストーリーの流れといったものがなかった「特捜戦隊デカレンジャー」も最後のシーンで、きちんとしまった感じがしている。デカレンジャーの場合は一年間を通してのテーマというのは、おそらくバンの成長を描くということにあったと思うのだけど、最後の方で彼は成長していた。それまではそれこそ犯罪者を捕まえることの繰り返し、といっては悪いけど、話の作りとしてははそう言うこと。あえてそういう風にしたんだと、何かに書いてあった。うろ覚えではあるけど。それはそれで成功していると思う。で、「爆竜戦隊アバレンジャー」の場合の最終回は、というと、申し訳ないけどこれもあまり評価できない。戦いを終えた後の彼らのその後を描いている部分は評価できるのだけど。アスカと爆竜たちと、凌駕たちとの別れのシーンも、その前段階になるシーンがあっさりしていたためか、あまり感動できなかった。敵を倒した直後のシーンが少し問題があったように思う。敵を倒して、凌駕や幸人がすぐに現れなかったのは、まあいいとしても。全員そろったときの喜びがほんのわずかだったように感じられた。せめて全員がそろった時に少し時間をかけてこちら側に印象強く残るようにすればいいのに、と見ているときに思った。そうすれば、彼らの別れの時もいかされると思ったのだけど。また、それぞれ自分のしたいことをかなえている凌駕たちが、久し振りに再会するところは、あんな形でアスカたち(の、そっくりさん)やアバレキラー(の、そっくりさん)を出す必要はないのではないだろうか。しかも性格違っているし。でも最後に三人が、ブレスはないけど変身ポーズをしたのは良かった。ラストを変えることができるのなら、ダイノアースに帰ったアスカが空を見ながらダイノハープを吹いていて、一年間戦ってきた記憶をたどり、そのところどころに戦い終えた凌駕たちの今の姿を見せて、締めには、最終決戦直後に全員がそろった映像をスチールのようにして流す。というのがいいかも。もっともありきたりといえばありきたりだけどね。
2006.04.15
爆竜戦隊アバレンジャーはわたしを特撮の世界に引き戻したきっかけの作品。特に竜人族のアスカの設定にころりと転んでしまった。彼の存在は「百獣戦隊ガオレンジャー」のガオシルバーと同じくらい心にドーンと来た。特に暗黒の鎧に支配されていたときの顔がよかったし、その後で呪いを解除されたときの表情もとってもよかった。特にそのギャップが。でも残念ながら作品自体にあまり強い印象はない。一応、全話見ているのでとりあえず全体の印象を書いてみたいと思う。なんかまとまりの悪い話というのが後に残った印象。アスカの設定も爆竜の設定もいいと思うのだけど。特にアスカは生れ故郷であるダイノアースでの恋人のマホロが、アスカに立ちはだかる敵として存在していて、ドラマ的にもなんか盛り上がりそうな設定なのに、何故か生かされていない。アスカがその彼女を暗黒の鎧の呪いから救うためにかわりに呪いを受けたシーンなどはとてもいいんだけど……。なんかのめり込めない。「ガオレンジャー」でも六番目の戦士であるガオシルバーが同じような立場で戦っていたけど、その時は狼鬼=ガオシルバーの戦いにかなりのめり込んでいたんだけど。これは思うに、アバレンジャーたち(アスカもその一人ではあるけど)凌駕や幸人、らんるとあまりかかわらずに話が進んでいたからではないかと思う。全体を見てドラマとしての骨格はアスカが中心のように見える。そうであるべき流れなんだけど。凌駕たちは完全に巻き込まれた人たちだし、彼らの成長を書いたというわけでもないし、彼らの存在っていったい何だろうと考えてしまうのだが。それなりに戦ってはいるし、個々の話はそれぞれの性格も現されておもしろいものもあるんだけど。ただもう少しアスカと絡ませて三人を見せるべきだったと思う。それにアスカはよく戦線からいなくなってしまう。初めの頃は変身できなかったし、そのあともダイノガッツの使いすぎて、戦線離脱。ようやく復帰したと思ったら(それもなんか唐突すぎ?)、今度は爆竜の卵を探しに、三人とは別れてしまう。そのうえ、暗黒の呪いをマホロのかわりに受けて、また長い間、戦線離脱。しかもたった30分しかないのに、ふたつのストーリーが流れていた。思わず、どっちか一つに絞ってよ。とDVDで見ていたときに叫びたかった。アスカとマホロのストーリーに入りこんだと思ったとたん、ほかのアバレンジャーの話になってしまうから、入りこむことができなかった。その話もアスカたちに絡むならまだしも、全く別の話だから、なぜ一つの話のなかに、ふたつのストーリーいれる必要があるんだろう。これらのことを考えると、大きなドラマの流れであるアスカたちにほかの三人がうまく関われなかったことが、この話からおもしろみをなくてしまった大きな原因だと思う。とりあえず、今日のところはここまでかな。最終回にも文句は言いたいのだけど。でもきらいではないんだよね、設定は。
2006.04.14
星獣戦隊ギンガマンのエンディングテーマ「はだしの心」とその英語ヴァージョン「Naked Mind」。両方とも同じ歌手が歌って、意味もほとんど同じ、だと思う(英語は苦手なので、単語の意味からそう受け取ったのだけど……)。当然、曲も同じだけど、なぜか受ける印象はちょっと違う。「スーパー戦隊 主題歌・挿入歌大全集」には星獣戦隊ギンガマンのオープニングテーマ、救急戦隊ゴーゴーファイブのオープニングテーマ、未来戦隊タイムレンジャーのオープニングテーマの英語ヴァージョンがある。でも日本語ヴァージョンと違う印象だったのは、「はだしの心」とその英語ヴァージョン。これだけがエンディングテーマだからかな。ほかはみんなオープニングテーマで、英語ヴァージョンもこのまま使っても決して悪くないって感じ。リアルで見ていないので、使われたことがあったかも知れなかったけど。ゴーゴーファイブではたしか総集編に使われていたと思う。「はだしの心」はまず言葉が先に来る感じ。頭の中で、言葉が作り出す光景が浮かぶという感じで、英語ヴァージョンの方は英語がわからないのが幸いして、曲の雰囲気を楽しんでいる。英語ヴァージョンの方を聞いていると西部劇のエンディングが思い浮かんでくる。両方ともお気に入りで、仕事をするときに欠かせない。特に「Naked Mind」は心がほっとする。
2006.03.26
最終話はまだずっと先だけど、涙が出そうになっちゃった。見たらどうなるのだろう。鳥人戦隊ジェットマンはまだ一巻しか借りていないのだけど、(レンタルなので見ることができたのは5話まで)ブラックコンドルを演じた若松俊秀の最近の出演作を探して、本人のHPをのぞいたついでに、彼がジェットマンの思い出を書いてあるコーナーを読んだ。DVDを借りる前から読んでいたページだけど、今日はなぜか涙が出てしまいそうになった。ちょうど最終のシーンが書かれているところで、しかもいつも聞いている特撮ソングのBGMはグッドなタイミングで、ジェットマンのオープニング。それが終わるとエンディングになる曲順。感極まってしまった。最終回って、寂しくなるから見たいんだけど、見たくない。そう言う理由もあって、『救急戦隊ゴーゴーファイブ』はDVD全巻購入しているのに、まだ最終巻は封を開けていない。哀しい結末ではないとわかってはいるんだけど。でもジェットマンの場合は、ブラックコンドルの凱がどういう死に方をするかもわかっているのに、なぜかとても見たくてたまらない。もちろん、最終巻を先に見るのではなく、1話1話、順を追ったあとに来る最終話を見たい。1年間の重みはすごいと思う。これはガオレンジャーの最終回を見て思ったことなのだけど。1クールでは出せない重みがあるような感じがする。早く全巻借りたいな。(本当は買いたいのだけど)
2006.03.25
戦隊シリーズのオープニングソングって、なぜか、元気が出る。だからデジタルオーディオプレーヤーを買ったときに一番最初に入れたのが、「爆竜戦隊アバレンジャー」の主題歌と挿入歌。その後で「スーパー戦隊シリーズ全主題歌集」をレンタルしてパソコンにダビング。でも結局それだけじゃ足りなくて、「スーパー戦隊 主題歌・挿入が大全集1~7」まですべてを購入してしまった。いたい出費だったけど、後悔はなし。聞いていると、なかなか心を打つ曲が多いんだよね。オープニングやエンディングの曲だけじゃなく、挿入歌にもいい曲がある。挿入歌って、常時かかるような物ではないけど、だからこそ余計に新鮮に聞こえる気がする。特に挿入歌でわたしが一番気に入ってるのは『百獣戦隊ガオレンジャー』のガオシルバーをテーマにした「a lone woif ~銀の戦士~」と「響の調べ」「大空への階段」そして『爆竜戦隊アバレンジャー』の「ハモニカの詩」「a lone woif ~銀の戦士~」は、1000年の時を越えてここに現れたガオシルバーの心情が良く出ていて、とっても良い。歌詞の中の「街に浮かぶ 三日月 1000年前も 見ていた 時代をすり抜けて さまよう 銀の戦士」というところが、何ともせつない。「響の調べ」はガオディアスに向かって歌っているんだけど、この歌詞ってよく聞けば、テトムがガオレンジャーたちに向かって歌っているように聞こえる。戦いが終われば、テトムと別れることになる彼らに対して。「大空への階段」はこれは最終回のエンディングで使われた歌でとっても効果的で良かったと思う。彼らが出会って、そして戦って、それぞれの道に分かれていく。そういう感じの曲。この曲を聴いていると、テトムと6人のガオレンジャーたちが戦い終えた後で笑いながら、互いに何かを語りながら、並んでこっちに歩いてくるような、そんな映像が浮かんでくる。そしてアバレンジャーの「ハモニカの詩」アスカの曲だけど、記憶ではもう一つの挿入歌「Fight! for the earth!」の方が作品では使われていたと思う。これも好きな曲の一つ。これがかかると、アスカは無敵になる。「ハモニカの詩」はアバレブラックになるアスカではなく、ただの人としての(彼は竜人だけど)アスカがそこにいる情景が思い浮かぶのが良い。挿入歌って大好きです。
2006.03.19
2時間もののサスペンスドラマにはよく首つり死体が見つかる。これが事件の始まりだったり、いっそう謎が深まったりするきっかけだったり、けっこう重要だったりする。でもこれも、ヒーロー番組などには絶対に欠かせない特撮スタッフのお仕事だったとは……。確かに役者さんが本当に首をつるわけがないのだから、なんらかの仕掛けがあって当然だとは思っていたけど。それにしても首つりってその準備がけっこう大変だということを、根岸 泉 著の『誰にも言えない特撮映画の舞台裏』という本で知った。ほかにも、ウルトラマンの撮影の苦労とかが書いてあっておもしろい。ハリウッドの特撮と日本のヒーロー物の特撮についてのページは少ししかないけど、ウルトラマンの存在が日本のその手の技術を向上させたという話は、ちょっと自尊心をくすぐる。
2006.03.12
長谷川裕一の『すごい科学で守ります!』『もっとすごい科学で守ります!』『さらにすごい科学で守ります!』の三冊を続けて読みました。スーパー戦隊シリーズ・仮面ライターシリーズ(ただし平成仮面ライダーではありません)、そしてメタルヒーローシリーズなどの考証本です。といっていいのかどうか……。特徴としては、ボウケンジャーで30作目となるスーパー戦隊シリーズ(この本ではデカレンジャーまでしか書いていませんが)を一つの時間軸において、語っているところです。ですから超力戦隊オーレンジャーの活躍した年が1999年、また救急戦隊ゴーゴーファイブが活躍したのも1999年。この間に激走戦隊カーレンジャーと電磁戦隊メガレンジャーがそれぞれ一年ずつ地球を守っていて、そして再び1999年に活躍するゴーゴーファイブの登場という矛盾を見事に解いています。またロボットの合体形態などから、地球にもたらされた宇宙文明の主なものが明らかになるというのもおもしろいです。正式な設定では決して書かれないことですが、何となくつじつまがあって、思わず信じてしまいたくなる本です。
2006.03.09
彼の名前を知ったのは、映画館での『逆境ナイン』の予告。目と口のあるボールが必死の形相でこちらに向かってくる予告です(あのボールはとってもかわいかった)。そしてひときわ人目を引く主人公。(目鼻立ちがはっきりしていて、とても引きつけらた)名前もインパクトがあったけど。そしてどこかで見たような印象。それもそのはず、洗剤のCMで毎日、目にしている人でした。いつもあのCMを見ながら、かっこいいなぁと思って見ていたけど、名前がわからなかった。そして映画館で、名前を知ったわけ。アバレンジャーから特撮に戻りはじめていたわたしは、オークションでガオレンジャーの台本を手に入れることができ、その紹介欄にはたいてい金子昇か玉山鉄二の名前が載っていて(その当時、ガオレンジャーが彼らのブレイクのきっかけだとは知らなかった)、とりあえず第一話の台本も手に入ったし、見てみようかな、ということでDVDを借りて、そして見ていったわけです。シュテンを倒しウラの回に入って、狼鬼=ガオシルバーが現れた瞬間、ガオレンジャーは一番のお気に入りになりました。ガオシルバーの設定が自分好みというほかない。彼は本当においしい人物です。悪を倒すために自ら悪になり、しかしながら基本が善人であるがゆえに苦しみ、そして一匹狼。玉山鉄二の雰囲気ともあっていて、役の設定と俳優の相乗効果でガオシルバーが生まれたっていう感じです。ガオシルバーは戦隊ヒーローたちの中でもとても気に入っています。玉山鉄二がガオシルバーをやったから、ガオシルバーが気に入ったのか、ガオシルバーをやったのが玉山鉄二だから、彼のほかの作品を見てみたいと思うのか……。とにかく、『逆境ナイン』を借りることができたので、見てみたいと思います。あれも一応、特撮だよね?
2006.02.27
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