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山形も米どころですが。。。負けました。。。道の駅ではなく、普通にスーパーに置いてあるお菓子です。柿の種も、亀田製菓の柿の種がボリューム陳列されておりました。わが山形県の誇る、でん六の柿の種は。。。ちゃんとありました。ま~め~は、でんろく。炊きたてごはんの美味しさ100%絵が美しいです。豆知識コーナー袋スナックといえばカルビーカルビーの名前の由来を知っていますか?カルシウムの”カル”とビタミンの”ビ”をとってカルビーなのでした。
2008.07.31
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松下電器産業、ソニー、東芝、大手電機3社の4―6月期連結業績は。。。明暗を分けた。松下電器の利益は730億円、前年比85・7%増。ソニーの利益は350億円、昨年の半減。東芝は116億円の赤字。テレビでは、こう伝えていた。東芝はフラッシュメモリーの需給バランスの悪化で営業赤字に転落した。。。ソニーは携帯電話端末などが不振。。。松下電器はヨーロッパで薄型テレビが好調。。。しかし、こういうデータがあります。日経で調査した、企業の”アフターサービス”満足度ランキング。薄型テレビ部門 満足度指数%第一位 松下電器産業 55.2%第二位 シャープ 43.5%第三位 日立製作所 43.3%第四位 ソニー 40.8%第五位 東芝 38.9%お客様から見た、アフターサービス満足度ランキングと会社の利益はぴたりと一致する。松下幸之助の言葉。”松下電器は人をつくる会社です。 あわせて家電もつくっております。”松下電器は、新製品の宣伝よりも、売った後のことを大事に考える会社です。
2008.07.30
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ファスナーの世界で、トップを独走する会社。”YKK”この会社は、昭和9年の創業当時、吉田忠雄と二人の従業員がいるだけの小さな会社だった。現在、YKKの従業員数は、36.000名を超える。彼は、小学校と高等小学校を学年トップの成績で卒業するほど頭が良かった。しかし、吉田の家計は貧しく、大学へ行くことは叶わなかった。見かねた、吉田の二人の兄が、”学費は俺たちがなんとかするから大学へ行け”と言ってくれた。吉田は、”学校なんか行きたくない。僕は商売をやって、うんと儲けるんだ。”と言って、トイレに駆け込んで声を殺して泣いた。彼には一つの哲学があった。”善の循環”という考え方だった。小学生だった吉田が、読んだ本の中で、ある人物が語った言葉から来ている。”他人の利益を図らずして、自ら繁栄することはできない。”アメリカの鉄鋼王、アンドリューカーネギーの言葉だ。吉田は、カーネギーの言葉を自分のものとした。吉田は言う。”商品を安く買って高く売れば儲かるが、それではお客様の利益にはならない。 高く買って安く売ったら、自分が滅びることになってしまう。 だが、発明と工夫、貯蓄と投資を繰り返してゆけば、 お客様も自分も繁栄することができるだろう。”昭和48年、日本を”オイルショック”が襲う。物不足、物価の高騰が深刻な状況の中、吉田は決断する。激しいインフレが続くなかで、取引先を集めて吉田は話をする。”わが社は、これから100億円の損失をかぶります。 だから、皆さんは出し惜しみや値上げをしないでいただきたい。”と宣言したのだった。吉田は、いまこそ社会へ貢献をするときだと思った。そして、オイルショックが日本を通り過ぎた後、YKKは、当時の金額で40億円の損失を被った。しかし、かわりに、”お金で買えない大事な信用”を得たのだった。吉田の、あるエピソードをひとつ紹介したい。海外へ派遣される社員に、吉田が語った励ましだ。”どこの馬の骨だかわからない奴が売りに行って、 そんなに簡単に商品が売れるわけがないんだ。 朝、早く行って会社の前で待っておれ。 そうすれば、うるさいやつだといって、ボスが出てくる。 その時がチャンスだ。” 相手をつかまえたら、”YKKはこのような能力を持っています。”といって、 ”御社の発展のために我々を利用してほしい。”とお願いするんだ。 お客様の利益をまず第一に考えろ。 国が違っても、同じ人間だ。 それぞれの繁栄につながるということは、国内だって、海外だってかわりはないんだ! 売ろう、売ろうとするからダメなんだ。
2008.07.29
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来年の戦いは始まっております。今日は、さくらんぼの夏季剪定講習会でした。楽天さんのキャンペーンもあり、なかなかヘビーな一日でした。もうすぐ日付が変わる。まだ帰れん。。。今年の夏を制するものは、来年のさくらんぼを制する。おいしいさくらんぼを作るためには、今からきちんとさくらんぼの木と向き合って剪定をして行かなければなりません。うちの文助、31歳になりました。来年も日本一の産地を維持してゆくための作戦会議。さくらんぼ農家の方々伸びすぎて役に立たない枝を剪定し、木の栄養を集中させ、効率を上げ、大玉さくらんぼを作るようにしてゆきます。どんどんカットしてゆきます。カットされた残骸カットを終えた、さくらんぼの木は、半分ぐらいのサイズになります。目が点になるほど、バサバサ切ってゆきます。プロの仕事ですね~明日は、新潟に行ってまいります。
2008.07.28
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わたしが社会人になり、はじめて添乗業務(旅行会社でしたので)でヨーロッパへ行ったとき、耳の不自由なお客様が二名、ツアーに参加されておりました。観光中は、現地のガイドさんが色々と説明してくださるので、添乗員はじつは現地に着くとあんがいヒマだったりします。そこで、わたしは耳の不自由なお客様に筆談でガイドをさせていただきました。フィレンツェでは、筆談に夢中で、おじいちゃんの迷子を出してしまったりと、なかなか歯ごたえのある旅となりました。日本に帰ってきたときには4キロ痩せてました。後日、耳の不自由なお客様から心のこもったお手紙を頂戴いたしました。私は単純ですので、その時、旅行会社は天職だと思いました。その後、法人の営業をすることになり、たまに旅行に行くときも、視察、接待などというドラマのまったくない旅ばかりとなりました。とにかく当時は、一番を目指して働いておりました。そして年末、念願のMVPを取ることができました。しかし、その時、分かったことがありました。MVPを取ることより、お客様から頂いた手紙の方が何倍もうれしかったということを。MVPをもらったら、もっとうれしいものだと思っていたので意外でした。手話を一つ紹介します。”あなたは誰” という手話があります。手の甲を顔に持ってきて、相手に向かって2~3回さすります。なぜ、手のひらではなくて、手の甲なのかわかりますか。それは、昔、耳の不自由な人と、目の不自由な人がコミュニケーションを行なった際に、目の不自由な方は、いろいろさわるので手が汚れてしまいます。その汚れた手で、相手の顔をさわって、よごしてしまってはいけないという相手を思いやる優しい気持ちの中から生まれた動作が、そのまま手話となったからです。なぜ、こんなことを書いたかと言うと。。。いま、ホームページのリニューアル構想中だからです。。。
2008.07.27
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L.L. ビーンとは、 (L)レオン・(L)レオン ウッド・ビーン、つまり創業者の名前です。LLビーンの商品を買うとタグが付いていることに気付きます。タグには、こう書かれています。”すべてのL.L.Beanの商品はお客様に100%ご満足いただけますよう、保証されています。 もし ”お買い上げの商品にご満足いただけない場合” には、 いつでもご返品ください。お客様のご希望に応じて交換、 または代金の払い戻しもいたします。”1912年、靴を発売したときに出来た、”LLビーン100%満足保証制度”。 あえて、リスクを覚悟して、”欠陥品に関して返品に応じる”という表現を使わずに”満足いただけない場合には”という言葉を使うところがこの会社のすばらしいところだ。つまり、買った靴になんの問題がなくても、”気に入らなかった”という理由だけで返品が出来ることになってしまう。LLビーンの格言お客様とは?お客様は会社にとって一番重要な存在です。直接、来店されても、郵便やインターネットなど間接的な方法においてもです。それは、お客様が我々に依存して(頼って)いるのではありません。我々がお客様に依存しているのです。お客様の存在は仕事を中断するのではなく、我々の仕事の目的そのものです。我々がお客様のお役に立っているのではなく、お客様が我々に接する機会を与えてくれているのです。お客様は対立する相手ではありません。お客様と議論しても勝ち目はありません。お客様はご自身のご要望を我々に伝えます。我々はその要望をお客様の利益になるように、そしてまた我々の利益にもなるように対応します。LLビーンはアメリカで90年以上の歴史のあるアウトドア商品を扱う会社です。”誠実”は”偽装”に勝つ。ということを体現されている会社でもあります。
2008.07.26
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以前、ブログの”歩道橋を寄付した社長”の中で登場した100年カレンダーがとうとう私の手元に来ました。先日、伊那食品さんと打ち合わせをした際に頂きました。カレンダーの日付は、2001年からはじまり。。。2100年まであります。。。長い年月、保管するために、昨日巨大戦ジャスコに行って額を買ってきました。一番大きいサイズの額だったので、けっこうな金額でした。とりあえず、76年周期のハレー彗星の来る年に印をつけました。100年間の日付を目で見ると。。。”重み”を感じます。私の死後の日付があるカレンダーですから。2100年までは、むりだなあ...実は、伊那食品さんと、IKEA(イケア)の話をしておりました。寒天の会社とお米の会社の人間が家具屋さんの話をしているのだから。。。お客様に、よりよい商品を提供するべく、家具屋さんの話をしておりました。”帷幄の内に謀をめぐらし、千里の外に勝を決す。”張良さんのようにはいかないなあ。。。巨大な100年カレンダー スウェーデンカラーのイケアの本。ヤー へーテ サトウ オー エー フロム ヤーパン。
2008.07.26
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豊田自動織機製作所の創業者、豊田佐吉に待望の赤ちゃんが生まれた。名前を、豊田喜一郎といった。豊田佐吉はゼロから作り上げた、自動織機のヨーロッパにおける特許をイギリスの会社に売却することを決めた。そして特許を売却して得た大金を、彼は。。。”日本製の自動車をつくろう。”と考えたのだった。佐吉は、売却した特許料100万円(現在の貨幣価値でおよそ6億円)すべてを、息子の豊田喜一郎に渡し、国産自動車の研究、開発を命じた。佐吉は言った。”わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車を作って、お国のためにつくせ!”豊田自動織機製作所の片隅に、自動車部(後のトヨタ)がさっそくつくられた。しかし、自動車を作るということは大変なことだった。製造には、おどろくほど多用な技術を必要とし、大財閥であった、三井や三菱ですらあきらめたほどの金食い虫だった。喜一郎は言った。”無理だから、 困難だから、 うちがやるんだ。 これで会社を潰しても親父は怒るまいよ。”その後、喜一郎は数々の問題にぶつかる。エンジンのシリンダーブロック一つ作るのにも、失敗して捨てた試作品の数は500以上だった。周囲からは。。。”道楽のバカ息子””無駄な投資だ!”などと厳しい言葉を投げつけられた。しかし、昭和9年 9月25日、とうとう 6気筒直列エンジン 65馬力のA型エンジン第1号を完成させた。そして昭和11年 9月14日、トヨタAA型乗用車が完成したのだった。そして不幸な戦争による中断を経て、これからと言う時昭和27年 3月27日、走り続けた豊田喜一郎は、 設計図を広げたまま倒れ、意識が戻ることはなかった。 享年 57歳だった。喜一郎の死後3年。意志を受け継いだスタッフたちの努力が実を結び後にトヨタの看板商品となる、トヨペットクラウンが生まれるのだった。おわりに豊田喜一郎の言葉を紹介したい。”一本のピンも、その働きは国家につながる。”トヨタが世界一の会社になったのは、その一本のピンの大切さを知っていたからである。トヨタは生まれながらにして、トヨタではなかった。コツコツと地道に努力を積み上げて、トヨタになったのだった。
2008.07.24
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”人間のやったことは、 人間がまだやれることの 100分の1にすぎない。” トヨタ自動車の源流。 豊田佐吉は、静岡県の農家の長男として生まれた。 しかし、佐吉の家は貧しく農業だけでは食べていくことは出来なかった。 父は農業のほかに大工をし、母は機織り(はたおり)をして飢えをしのいでいた。 おさない佐吉少年は、母親が朝から晩まで機織りを続けている姿を見て、 ”なんとか母を楽にしてあげたい。”と思った。 佐吉少年は、手織機の改良を考えたのだった。 彼は、知識を得るため、博覧会に行き、外国製のはた織機を見に行く。 それをヒントに”豊田式木製人力はた織機”を考案する。 佐吉の作った、はた織機は、木材が多用されていたために、 金属でできた外国製はた織機と比較すると、 価格は10分の1だった。 その安さが評判になり、佐吉のはた織機は爆発的に売れた。 佐吉は、得た利益を開発資金にまわし、数年後に”自動はた織り機”を作り上げ 特許を取得する。 こうして、佐吉の開発した機械のおかげもあり、日本は繊維大国として 海外へ輸出できる国となった。 そして貴重な外貨獲得の道を開いたのだった。 豊田佐吉が40年間に取得した特許の数は、 国内で100以上。 海外でも50以上。 江戸時代から、たいして時間がたっていない頃、 海外で特許を取得した男。 それが、トヨタ自動車の源流、豊田佐吉である。
2008.07.23
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サントリーは日本最大の酒造メーカー。アサヒの”スーパードライ”やキリンの”のどごし生”がすごいといってもそれは、一部分の話でしかない。ウイスキーでは無敵。ビールでは、業界三位のサッポロビールを抜いた。お茶系ドリンクでは、伊右衛門。炭酸系では、CCレモン。コーヒーは、BOSSそして、最近では、コンビニで爆発的に売れた、スターバックスのカフェラテがある。サントリーは巨大企業だが、非上場企業であり、同族経営の会社でもある。わたしは、この会社があることが、外資系企業の経営手法より日本型経営手法がすぐれていると確信できる理由でもある。サントリーが株式を公開しない理由。”酒の醸造には時間がかかり、短期的な利益を要求される株式公開に馴染まない””株主に商品の味を左右されたくない。””直接的な利益に結びつかない文化事業のリストラを要求されたくない。”株式を公開していたら、サントリーホールは出来なかったし、ビール部門からも撤退していたことだろう。もともとサントリーは、寿屋という名前の会社だった。太陽の”SUN”と創業者の”鳥居”をあわせたつくられた。”SUN鳥居”からきている。二代目社長の佐治敬三さんの時に急速に大きくなった。彼の言葉。”いつかは、誰かがやらねばならないことがある。だからうちがやる。”彼は、ウイスキー業界で、もはや敵がいなくなると、”ぬるま湯にただ浸っているだけでは会社はやがて傾く”といって、一度、撤退したビール業界に1967年に再進出する。そして2004年に、”はじめて”ビール部門で黒字をつくることが出来た!翌年には、プレミアムモルツがモンドセレクション金賞を受賞し、高級ビールの流れを作った。佐治がサントリーを引き継いだとき、サントリーは、従業員300名ほどの中小企業だったということはあまり知られていない。
2008.07.23
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休日は、グリーンの下で読書。BGMが夏休みに入り、ちびっこの笑い声と、セミの大合唱に変わっていました。今日の心に残った言葉。メアリー・ケイ・アッシュの言葉。彼女は、アメリカで一般の販売員から、独立し大きな化粧品会社を作った人。”やれると思えばやれる。やれないと思うのなら、あなたが正しい。” すべてにあきらめなかった彼女らしい言葉だ。もう一つ。”アイディアはタダ、実行力はプライスレス。”メアリーの会社は、今から10数年前、日本に進出してきました。数年間、営業活動を行ないましたが、日本からは完全撤退してしまいます。メアリーの話では、日本市場での売り上げは、海外事業部の売り上げ全体のわずか”0.85%”だったそうです。日本で商売をすることは、とても難しいそうです。だから日本で働いている方々は、もっと自信をもっていいそうですよ。
2008.07.22
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一時間のしあわせが欲しかったら、昼寝をしなさい。一日のしあわせが欲しかったら、釣りに行きなさい。一ヶ月のしあわせが欲しかったら、結婚しなさい。一年のしあわせが欲しかったら、遺産を継ぎなさい。一生のしあわせが欲しかったら、人を助けなさい。
2008.07.22
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東京の三宿という街にハンコ屋がある。”山本印店”という普通の名前のハンコ屋さん。ものすごい行列が出来るハンコ屋さんだった。”だった。”というのは、現在、完全予約制のハンコ屋さんになってしまったからだ。しかし予約制にしたら。。。今度は、予約の電話が殺到しつながらない。なぜ、このハンコ屋さんは、そんなにも人気があるのか。それは、山本印店のハンコを得ることが出来ると”しあわせ”になれるからだという。山本印店のご主人の山本桃仙さんはいう。”わたしのハンコを持ったら幸せになった。運が開けた。という人は 大勢いらっしゃいますが、そんなことはありません。 もし、運が開けたという人がいたら。。。 その人が運勢が変わってきたときに、ちょうど僕のハンコをつくりに来るようになって いるのだとおもいます。”人生の流れの中で、自然に僕のハンコを持つタイミングが訪れるということはあるでしょう。ハンコをつくったから運勢が変わるのではなく、先に運勢の流れがそういうふうに変わってきたから僕の店にやってくるということです。ハンコが先か、運営が先か、”運勢の方が先なんですよ。”ハンコを作ってもらいたくて、なんど電話をしても通じない人もいる。たった一度で、スムーズに電話が通じる人もいる。山本さんから、ハンコの注文を断られる人もいる。山本さんは、子供の頃、死にかけて臨死体験をしたそうだ。不思議な力はそのときにそなわったものだという。そして、山本さんからハンコをもらった人々は、口々にいう。”かわいいハンコ”そう、山本さんのつくるハンコの印相(いんそう)は、笑っているのだ。
2008.07.21
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今日の午後、メルマガで牛丼の吉野家さんのことを書いていた時だった。くろねこヤマトの宅急便さんが集荷に来た。気になることがあったので聞いてみた。私”ヤマトさんは、吉野家は行ったことありますか?”ヤマトさん”そりゃありますよ!、昔はけっこう行きましたね。”私今は?ヤマトさん”いつ行ったかなあ。。。”私”一ヶ月に一回ぐらい?”ヤマトさん”いや、二ヶ月に一回ぐらいですかね~”くろねこヤマトの方は、おそらく平均的な日本人だと思う。そして、吉野家は飲食業では成功している会社で、日本には1000店舗もある。にもかかわらず、年間6回ぐらいしか、吉野家を利用しない。。。さらに質問した。コンビニの弁当は買います?ヤマトさん”ほかほか弁当の方が多いですね~”私”なんでコンビ二じゃないの、コンビ二の方が品揃えも充実しているじゃん””雑誌もあるし、待たずに、すぐに弁当も買えるし”ヤマトさん”色々あると迷うし、余計なお金を使っちゃうじゃないですか~”その時、謎が解けた。現在、百貨店、量販店では衣料品が売れなくて困っている。逆に、ユニクロ、しまむらは好調。ファミリーレストランが厳しいなか、寿司屋、焼肉屋、蕎麦屋などの専門店は好調。普通に考えたら、ファミレスは、パスタ、カレーライス、うどんなど幅広い顧客ニーズに答えることが出来る柔軟な業態のはず。しかし、実際には、お寿司しか売っていない店に負けていたりする。間違いなく、お客様のニーズは”広さ”から、”深さ”に変わってしまった。私の町の、巨大戦艦ジャスコが、8月末から24時間営業をやめる。赤湯という町のジャスコは撤退するそうだ。理由は分からないが、売れていたらやめることはないだろう。大昔の無敵の恐竜と、巨大戦艦ジャスコ。無敵で負けるはずがないのに。。。つまり、これからは”大は小をかねない”時代に入ってきた。誰にでも平等にチャンスのある時代だと言うことだ。
2008.07.20
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第一次世界大戦。冬の12月。ドイツ軍とフランス軍が100メートルぐらいの距離で殺しあう最前線。いつまで続くか、果てしのない戦い。塹壕は、けが人で一杯。その最前線の塹壕に、とびきり寒い冬の日、一人の男がやってきた。彼の名は、ヴァルダー・キルヒホフ。世界で最もチケットをとる事が困難といわれる、バイロイト音楽祭に、4年連続出演するほどの世界的ドイツのテノール歌手。ドイツ軍の塹壕から、キルヒホフの美しい歌声が、凄惨な戦場に響きわたった。それは、100メートル先の敵国フランス軍の塹壕にまでとどいた。すると、フランス軍の中から。。。”この歌声は、パリのオペラ座で聞いた、ヴァルダー・キルヒホフのものだ。”と叫ぶものがいた。その歌声に聞き覚えがあることに気付いたフランス将校は、ドイツ軍の塹壕に向かって大きな拍手をおくった。すろと、その拍手を聞いた、ヴァルダー・キルヒホフは、殺しあって憎むべき敵でありながら、自分の歌声に拍手を送ってくれた人がいることに感動する。彼は、相手の気持ちにこたえるために、戦闘中の塹壕から飛び出して、笑顔でゆっくりと敵に向かって歩き出した。そして両軍の中間地帯(ノーマンズ・ランド)を横断し、拍手を送ってくれた、敵の将校に、深々と優雅に挨拶をしたのだった。その瞬間、戦場は、戦場でなくなってしまった。この様子を見ていた両軍の兵士たちが、塹壕から出て来て敵兵と交流してしまったからだ。兵士達は、思い出したのだった。キルヒホフの歌を聞いたとき、今日が、”大切な日、クリスマス”だということを。人々は、のちにこの日の出来事を、”クリスマス休戦”とよんだ。歌が、憎しみをこえた瞬間の出来事だった。これは実話です。
2008.07.20
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沖縄県の南部、南城市玉城字玉城。集落から1キロ近く離れた岬に、”浜辺の茶屋”はある。地元の人たちは、そのカフェを”さちばる”と呼ぶ。このカフェに訪れる人たちは、必ずといっていいほどはじめて訪れた場所にもかかわらず。。。”わぁ 懐かしい...”と心から声をあげてしまう。浜から700メートルほど先まで続く、浅瀬のイノー。外洋からやってきた大波は、イノーの縁でしろい潮花となって砕け散る。このカフェに来ると、普段思わないことを思う。”月の引力””地球の自転””そして宇宙”このカフェが生まれたのは、1994年の暮れだった。材木店から廃材をもらってきて、オーナーの信吉さんがトンカチ片手にコツコツとつくっていたために、夏にオープンさせるつもりだったが、店が出来たのは冬になってからだった。12月の11日だった。オーナーの信吉さんが、”俺、人生をチェンジしてみようか。。。”と思ったのが34歳のときだった。カフェがオープンして半年、お客はほとんど来なかった。沖縄にくる観光客の大半は、カフェとは逆方向の西海岸へ向かった。周囲の人たちも”こんな田舎に客は来ない”と、口々に行った。そして、現在、この”浜茶”には1日200人のお客様がいらっしゃる。全国から、宇宙をもとめて客席は砂浜
2008.07.19
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カルロス・ゴーンが、日産自動車にやってきたとき真っ先に気づいたことがあった。それは、汗だくで不振の理由を説明するスタッフの姿ばかりで、ビジョンを説明する者は皆無だった。その時、彼はおもった。”いつも失敗の口実を探す。 これが、日産のいちばんの敵だ。”そして、彼はのちに流行語にもなった、”コミットメント”という意志責任を日産のスタッフ全員に求めた。そして、彼自身も大勢のメディアの前で、日産リバイバルプランを発表し、”計画が達成できなければ、自分は責任を取って辞める。”と言い切った。彼が日産自動車のCEOに就任して、わずか4ヵ月後の話だ。その時、だれもが、彼の改革への本気度を理解した。
2008.07.18
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中性子爆弾とは、建物を壊さずに、人間のみを殺すことの出来る爆弾のこと。そんな最悪なあだ名で呼ばれた経営者がいた。アメリカのGEという会社のトップであるジャック・ウェルチだ。GEは発明王、エジソンの作った歴史と伝統のある会社。しかし、巨大化しすぎて、霞ヶ関のようになってしまっていた。つまり、一流企業なので、高学歴の人材が集まってはいたが、生産性はきわめて低かった。彼は、リストラをすすめ競争力のない分野はどんどん切り捨てていった。聖域なき構造改革といったところだ。そして、41万人以上いた従業員を30万人以下にまで減らした。うちの町の全人口が約4万7千人くらいだから。。。すさまじいリストラだった。ジャックは会社を守り、人材を守らなかったことから、中性子爆弾と呼ばれた。しかし、彼は傾いた会社の売り上げを5倍に伸ばし、利益を8倍にし、そしてGEを、株式の時価総額世界一にまで押し上げた。ジャックウエルチの言葉。”経営者にとって人を切ることほどつらい決断はない。だが 人を切るのを楽しむ”人間や、”人を切れない”人間は、 会社を経営すべきではない”といっている。そして、ジャックとは逆の経営手法を採った日本の横河電機の元社長、美川英二のことを彼こそが経営の神様だと評価している。美川英二の経営手法は、終身雇用を基本とし、企業の適正規模は今のコンピューター社会でも2000人までが限度と説き、総務課までをも”分社化”するという徹底したものだった。今、魚をとる漁師は、油が高くて海に行けないという。そんな時に、ヤミ専従という言葉が同時に存在している。。。少し前には、居酒屋タクシーというのもあった。たぶん大勢の日本人の思っていることは同じだと思う。
2008.07.17
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コクヨという会社がある。明治時代からの歴史ある会社だ。誰でも知っている、オフィス用品を扱っている。この会社は、現在グループ全体で5000人を超える。”コクヨ”とは、本来、”国誉”(こくよ)と書く。創業者の黒田善太郎が、国の誉れ(ほまれ)になるような会社に、との思いを込めて名づけた会社名だ。彼は、老舗のマッチ製造会社の長男として生まれた。会社は繁栄し、何不自由なく子ども時代を送った。ところが父親が早くに亡くなってしまう。会社は人手に渡り、黒田少年は奉公に出される。その奉公先の一つに、小林表紙店という会社があった。彼はここで、ノート作りのノウハウを学び、27歳で”黒田表紙店”を創業した。当時のノートと言うのは、”中身100枚”となっていても、印刷ミスなどの分も差し引かれていて、実際には96枚~98枚しかないのが”ふつう”だった。しかも、使用されていた紙は、いまだに毛筆を使うことを前提にした、薄いものだった。黒田は、この二つの点に疑問を持っていた。”これでは、世の中や、お客さまをだましているのと同じじゃないか!”そして、彼は、これからはペンの時代が来る。ペンで書きやすい厚い紙を使うべきだ。”黒田は、厚い紙を100枚きっちり使ってノートを作り始めた。当然、そのノートは他社製品より高い値段をつけざるを得なかった。周りからは、”そんな高い値段じゃ売れないよ””薄くして同じ値段にしたほうがいい”とアドバイスをもらうが、黒田は頑として聞かず、ノートを売り出した。ノートは。。。売れなかった。ところが、一度でもそのノートを使った人は、黒田のノートのよさを理解してくれリピーターとなり、じわじわと売り上げは伸びていった。そして、不正が当たり前の業界の常識を覆した。顧客は、だまされて安物を買うより、高くても価値のある黒田のノートを選んだのだった。黒田善太郎の言葉。”商売の利益と言うものは、追求するものではない。 利益は、その事業が社会に貢献することによって、社会から与えられる報酬である。”
2008.07.16
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休みの日は、ふつう隣町のドトールに行く。。。、理由はゴキゲンなテラス席があって、レタスドックとコーヒーを飲むため。ところが、今日行くと、テラス席がなくなっていた。。。いつ行ってもテラス席には、私しかいない。いやな予感はしていたが。。。やっぱりだった。わたしはなぜかテラス席が好きです。表参道のアニヴェルセル、その近くにあって今は、無くなってしまったオーバカナル。いいお店でした。ということで、気を取り直して、テラス席を探す旅へ。堂の前公園にしました。今日のカフェは。山から吹きおろしてくる風がきもちよく、BGMは鳥の鳴き声、風が葉や木々をゆらすおと。コーヒーはネスレのブラック、120円。今日の本に登場してきた、いい言葉。伊藤忠商事の越後正一さん。”名を成すのは、常に困窮の時であり、事を破るるの多くは得意の時である。”伊藤忠には、ピンチになると常にいい経営者が現れるおもしろいところがある。今日は、お金を使わない、安上がりな一日だった。ブルーとグリーンぐるぐる公園の入り口ゴミは持ち帰りましょう
2008.07.15
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アリの世界を観察すると面白い。アリの集団をよく観察すると。。。集団の中で、よく働くアリは全体の二割。六割の大部分は、そこそこ働いている。そして、残りの二割はほとんど働かずに歩き回っているだけ。アリの世界も”2:8の原則”が働いていることが分かる。 そこで、よく働くアリだけを捕まえて集団を作ってみる。すると、そのドリームチームはどうなるか。。。やはり、2割の働かないアリが出てきて普通の集団になってしまう。逆に、働かないアリだけを捕まえて集団を作ってみても、その中の二割のアリは、生まれ変わったように働きアリに変身してしまう。プロ野球ならジャイアンツ、サッカーならブラジル代表、一流選手ばかりを揃えたチームが必ずしも勝てない現実と、どこか似ている。貢献度の低い人がいなくなると、じつは貢献度は上がらずに、低下するのだ。体が弱くてよく休むけれど、他の社員の励みになっている社員。仕事はダメでも、何か不思議とみんなの心をなごませる社員。この人々の役割の大きさを測るのは難しい。しかし、歴史を正直だ。能力の低いものを次々に切り捨てて、抜擢人事を行なった織田信長。優秀な人材で固めた彼は、最期、その優秀な人材の一人に殺されてしまう。残った優秀な人材も、最後は、徳川家康に主役の座を譲ることになる。徳川家康は。。。部下が、敵の侵入を防ぐために橋を落としておいた方がいいです、と進言すると。家康は、”橋がなくなってしまったら、村人が生活するのに困るだろう。 私(徳川家康)なら心配ない。 お前達が守ってくれるから。”と話した。
2008.07.15
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それは、マイクロソフト社を創業した、ビル・ゲイツのことだ。彼がコンピュータビジネスに入るきっかけとなったのは、世界初の個人向けコンピュータ、アルテア8800が発表されたことだった。メモリーは、わずか256バイト。それでも、当時としては画期的で、発売と同時に注文が殺到し、1~2週間で4000台を販売した。当時、アルテア8800には、その性能を100%発揮させることが出来るソフトウエアは存在していなかった。まだ、学生だったビル・ゲイツは、そこに目をつけた。ビル・ゲイツは、さっそくアルテア8800を開発したMITS社に電話をかける。”BASICというソフトウエアの開発に成功したから、買ってくれないか?”と売り込んだのだった。しかし、ビル・ゲイツが、売り込みの電話をしたとき、BASICなどというソフトウエアは、影も、形もなかった。あるのは、ビル・ゲイツの頭の中にある”構想”だけだった。しかも、アルテア8800は発表されたばかりで、当時、大学生だったビル・ゲイツには手に入る術などなかった。MITS社は、ビル・ゲイツに向かって、”ぜひ、みせてほしい”といった。ビル・ゲイツのアクションは早く、高校時代の友人のポール・アレンとともに大学にあるコンピュータをアルテア8800に見立てて、わずか8週間で、実際にBASICを開発する。そして、MITS社の幹部の前で、見事動かすことに成功した。そして、この成功がきっかけとなり、在学中にマイクロソフト社を設立したのだった。そして先月末、マイクロソフト社を引退する。彼の個人資産は、およそ5兆円を超える。世界標準をつくった、ビル・ゲイツの言葉が面白い。”自分で出したアイデアを、少なくとも、 一回は、人に笑われるようでなければ、独創的な発想とはいえない。”案外、”常識”を唱える人は、一般社会において、”変わっている人”と言われるケースが往々にしてある。
2008.07.14
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”アイデアを思いつく人は、世の中にたくさんいる、 しかし よいと思ったアイデアを、実行する勇気のある人は....すくない。”
2008.07.13
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米国のアマゾンドットコムで、一番売れた本。クリスティンの自伝の本。彼女は、この本の原稿を出版社に持ち込むが、相手にされなかった。(後にアマゾンで一番売れる本になるのに!)断られること、39回。いよいよ自費出版しかない。と思った矢先、40回目にして、彼女の出版が現実となる。その本の出版に至るプロセスは、はからずも彼女がいままで、歩いてきた来た人生と同じだった。この本の副題が、”常識はずれの成功ルール。”そして、本のタイトルは、”マイクロソフトを飛び出して億万長者になった、私”。彼女の発想はすごいというより。。。むかしのマイクロソフト社は、男社会で、ほとんどが大卒者だったそうだ。彼女は、女で、高校中退。なのに、彼女はマイクロソフト社へ面接希望の電話をする。女だとわかると、門前払いになる恐れがあったため、男として電話をする。クリスティンではなく、クリスと名乗る。当然履歴書も、男の欄に○をつけておくった。そして、無事にマイクロソフト社、初の高校中退契約スタッフの地位を勝ち取る。その後、マイクロソフト社が、税務署から指導を受け、契約スタッフを、正社員化するか、人材派遣会社に登録するかの選択を迫られる。そして、人事部が契約スタッフ全員を集めて、選択の検討を指示した。すると、クリスティンは、頭の中で、今回の件で、人材派遣会社へ入るお金を計算します。彼女は、これは”おいしい”と思います。彼女は、おもむろに手を上げて話し始めます。”実は、私は今まで話していませんでしたが、人材派遣会社を経営しております。 私の会社なら、マイクロソフト社の紹介する人材派遣会社より、5%も低い契約料で 皆さんと契約することが出来ます。”といった。 そして、その場で興味がありそうな人たちに、自分のメールアドレスを教えたのだった。彼女は、この会議が終わると、すぐに空いているオフィスに駆け込み、電話帳を引っ張り出し電話をした。10分後、100ドルを払い、デラウエア州に自分の会社を登記した。そして、そのあと、レンタルオフィスサービスに電話をして、とりあえず事務所を確保したのだった。段取りが、一通り終わったあと、彼女は思った。”もし、だれもこなかったらどうしよう...”クリスティンはいう。”人は悩みを消すためなら、お金を出す。””会社をつくってから、”悩みのタネ”をあわてて探すやり方。 これは、けっこう苦労する。 楽なのは、”悩みのタネ”が舞い込んできたときに、すかさず会社を作るやり方だ” もし、躊躇して、会社を作るタイミングが一日でも遅かったならば、 マイクロソフト社のスタッフとの契約は永遠に出来なかっただろう。 会議の行われた、次の日の朝。クリスティンは眠い目をこすりながら、パソコンを立ち上げてメールを開いた。そこには、35人からの、契約希望メールが届いていたのだった。彼女のビジネスはその後、加速してゆく。
2008.07.13
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南米のゴルフ選手ではじめてメジャー大会を制覇した選手がいる。アルゼンチンのプロゴルファー、ロベルト・デ・ビセンゾ。彼が、あるトーナメントで優勝した時のこと。家に帰ろうと駐車場に向かうと、ビセンゾ選手に一人の若い女性が近づいてきた。彼女は、ビセンゾの優勝をたたえたあと、自分のおさない子供が重い病気にかかっており、お金がなくて満足な治療を受けさせることが出来ないということをビセンゾに話した。子を思う親の気持ちがよく伝わる内容の話だった。ビセンゾは、彼女の話に心を動かさた。そしてペンを取り出すと、さきほど優勝して得た賞金小切手に、ペンを取り出すと、その女性が払いだせるように裏書をして彼女の手にそっと渡したのだった。”これで赤ちゃんがよくなるといいんだが...”翌週、クラブハウスでビセンゾが食事をしているところに、プロゴルフ協会の職員がやってきました。そして、駐車場であった女性は詐欺師で、病気の子供がいるどころか、その女は結婚すらしていないということを知らされる。ビセンゾ”本当に病気の赤ちゃんはいないのかい?”協会職員は、残念そうにうなずく。すると、ビセンゾは。。。逆に、にっこりと微笑み、こう言ったそうです。”よかった。 それは今週一番のよい知らせだよ”
2008.07.12
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夏のジャガリコ、涼しい水色でございます。
2008.07.12
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北海道は、じつに不思議なところがある。日本の有名なパティシエ達は、だいたい東京周辺でお店を開いている。そして、その世界的に有名な日本のパティシエたちの店の売り上げは、じつは北海道のお菓子屋の売り上げに遠く及ばない。六花亭、ロイズ、ルタオ、など北海道には超一流のお菓子屋がたくさんある。今日紹介するお菓子屋は、帯広市にある柳月。このお菓子屋の名前を知っている日本人は少ないと思う。北海道、帯広市の人口は17万人。柳月の従業員数は600名。売り上げは、75億円。さらに驚くことに、この会社、毎年大卒者を40名ほど採用しているのだが、応募してくる学生数は、ざっと4000名を超える。つまり倍率は100倍以上になる。柳月の創業者は、田村英也という。農家の四男に生まれ、日本が戦争中は中国へ渡っていた。やがて敗戦となり、大陸から戻ってくる途中、ある出来事に遭遇した。汽車は、貨物列車といったほうがいいようなひどい状況。通路やデッキは人であふれかえり、引揚者でごった返していた。異臭が漂い、殺伐とした空気が流れていた。その中に、一人の若いお母さんが、小さな子どもを抱きかかえて席に座っていたそうです。ご主人は戦死してしまったのかもしれません。”この子だけは”という感じで、強く抱きしめていたそうです。田村さんが汽車に乗った時から、その子どもは、ずっと泣いていたそうです。命からがら、中国から逃げてきたので食うや食わず。しかも貨物列車のような車内は蒸し風呂状態。子どもは少し寝ると、また大声でなく、その繰り返しだった。夜になってもそれは変わりません。それどころか、子どもの泣き声はますます大きくなります。そういう状況が続くと、みんないらいらしてきます。汽車に乗っているのは、兵隊だった人も多く、ささくれだった雰囲気が漂います。田村さんはそんななか、この親子がどやしつけられなければいいが、という思いで、かばうようにその親子の近く、斜め後ろに立っていたそうです。しかし、そうは思っていても、立ちっぱなしで眠ることも出来ないし、蒸し暑いし、子どもの泣き声は大きいしで、自分自身も限界に近い感じだったという。すると、その時、田村さんの隣にいた、ボロボロの服を着た痩せ細った男性がポケットから包み紙を出し、”お母さん、これっぽっちしかないけど、食べさせてあげなさい。”と言ってキャンディを差し出してくれたそうだ。どこで手に入れたか分からないような小さな小さなキャンディでしたが、その最後のひと粒をお母さんに渡すのです。お母さんは深々と何度もお礼をして、子どもに食べさせてあげたところ、子どもが泣き止み、それどころかニコッと笑ったそうです。”あの子どもが、いちばん好きであろうお母さんが朝から晩まであやしても 泣きやまなかった子どもが、たったあれっぽっちのお菓子を食べた瞬間、 泣きやんで笑った。いったいこれはどうしたことだろう””お菓子はお母さんの愛と同じではないか。 お菓子には、そんなに人の気持ちを安らげる、人の心を魅了するような力があるんだ”田村はその時、そう思った。そして、”お菓子屋になろう!”と決めた。田村の口癖は二つある。一つは、”会社の目的は地域の人々を幸せにすること。”一つは、”自分の会社がなかったら、お客様が困るような会社をめざしたい。”北海道に行くと、柳月のお菓子が取り持つ縁で結婚された方の話などうそのようなほんとの話を聞くことがある。柳月がなぜ北海道から出ようとしないのか、聞いたことがある。田村は言う。”わが社はお菓子だけを売っているわけではありません。 お菓子といっしょに、”北海道”も包んで売っているのです。 本州では北海道を包めませんから。 わが社は、この北海道を離れる気はありません。”テレビに出演しコンテスト狙いのケーキ職人と、田村の目指す、お菓子の”意味”は違う。
2008.07.11
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モノが売れない時代だという。しかし、 IPodの売れ行きを見ると、”売れない時代”ではなく、”工夫の時代”なのだと教えてくれる。アップルコンピュータを共同設立した人の一人。スティーブ・ジョブズ。彼が生まれたとき、彼の母親はまだ若く学生だった。そして未婚だった。彼は、生まれるとすぐに養子に出されることになる。彼の母親は、彼を養子に出す条件として、”大学を卒業させること。”を強く望んだ。しかし、彼を引き取ることになったのは、大学をでていない労働者階級の夫婦だった。彼の母親は、不安になり養子縁組のサインを断ります。しかし、彼の育ての親となる夫婦が”絶対にこの子を大学に行かせる”との約束をしてくれたため、最後には認めることになった。17年後、約束どおり彼は大学に進学する。しかし、彼の育ての両親にとって、大学の学費は膨大なもので、こつこつ貯めていたお金はすべて消えてしまいました。彼は、大学を半年も通うと、そこで学ぶことになんの価値も見出せなくなっていた。だからといって、自分のやりたいこともまだ見つからずにいた。。。彼は、大学を辞める決意をした。しかし、すぐには辞めなかった。興味のない必修科目は無視した。面白そうだと思う科目だけを履修しようと考えたのだった。そのなかに、文字を美しく見せる手法、ジオグラフィがあった。彼は、素晴らしい書体を作り上げるための技術を見につけてから大学を辞めたのだった。その技術は、10年後、マックのフォント技術に取り込まれ、コンピュータの世界を大きく飛躍させた。彼は、その後、アップルコンピュータを去る。そして、1997年、赤字続きで精彩を欠く、アップルコンピュータに返り咲く。そして、彼は自分の給与を年間、わずか1ドルで仕事をすることに決めた。その1ドルも州法により、社会保障を受けるために給与証明書が必要なためだったからだ。そして、彼はいまだに自社株を1度も、そして1株も売却していないらしい。その数、550万株。IPodを創った男とは、そういう男だった。最後に彼の印象深い言葉を。。。彼は、日本のソニーを高く評価している。”ソニーのHDVカメラはとても優秀だ、値段は高いが、これは一家に一台必要なものだ。”しかし、日本人の印象について彼は。。。”海岸を埋めつくす死んだ魚のようだ”と表現している。だけれど、日本蕎麦や刺身が大好きらしい。山形県は、蕎麦の産地だから一度来てもらいたいものだ。”死んだ魚の印象”もずいぶんと変わると思う。余談だが、先日6月27日に引退したマイクロソフトのビル・ゲイツのエピソード。彼と一緒に食事をした人の話。彼は、牛肉と豚肉を食べないそうだ。不思議に思い、なぜだか、聞いた。すると、ビルゲイツは、”そう、好きなものを我慢するのは、”意思”を強くする訓練になるからね”と笑顔で答えたそうだ。日本では最近、会社を急成長させて、捕まってしまったあんちゃん達が多い、歳は同じぐらいだが、彼らとは、中身において随分と次元が違うようだ。
2008.07.11
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松下経営学企業理念:消費者とは”見えない契約”を結んでいる。 *”お客様”と書かずに”消費者”と書くところが深い。 つまり、パナソニックの商品を一度も買ったことのない人々にまで この契約は広く履行されるということだ。経営姿勢:成功するまで続けること。人材育成:ものを作る前に、人をつくれ。危機管理:厳しいお客様ほどありがたい。人間、思想:100年先の青写真を持て。この言葉を残した、松下幸之助は、家が貧しくて、小学校を中退し、よその家に奉公に行かされて満足に勉強することも出来なかった。結局のところ事業は、人にはじまり、人に終わる。運(チャンス)は時ではなく、人だといわれる所以だろう。
2008.07.10
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男女平等と言う言葉がある。男性でも行かないような過酷な場所でタフな仕事をしている女性がいる。裏切られ、だまされても、また立ち上がる女性がいる。ある日、彼女はパソコンで、”アジア最貧国”と入力してキーワード検索したら出てきた文字が”バングラディッシュ”だったという。先進国のいい加減な援助では、この国はしゃんとすることはできない。先進国と五分五分の関係を作らなければだめだ。そう思った彼女は、いま、発展途上国発のブランドを立ち上げている。先進国ブランドのコピーが氾濫する国で、先進国へ真正面から勝負をいどむ、ブランドをつくっている。久しぶりに”本物”を見た気がした。男女平等社会なのだから、お前ら男ども彼女と同じ仕事をしろ。といわれたら、平等じゃなくていいです。といって、後ずさりする男は少なくないだろう。おそらく、彼女は一生”男女平等”という単語は口にしないのではないだろうか。昔も、今も、出来るやつは、”口”より先に”行動”している。”山口絵理子”さすがだ。先日、うちに届いたマザーハウスのバックです。
2008.07.09
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ある日、自動車事故を起こしてしまったとする。すると、こう思う。”もっと慎重に運転していればよかった。”この考え方は、正しい。そして、この考え方のことを後知恵という。この後知恵を、先知恵にすることが出来ると随分と得をする。例えば、私はゴールド免許。保険料がかなり安くてお徳。免許証の書き換えの時もラク。そして誰にも迷惑をかけていない。もっと大きな例でいうと。私の住む、山形県は、46都道府県の中で、一番、1年間でカサの購入金額が少ない。そしてもう一つ日本一がある。山形県は、一日のうちに天気予報を確認する回数が全国で一番高い。たしか1日、平均3回ぐらい見るようだ。私が山形に来て思った事がある。それは、やたらと大きい家が目に付くのだ。そして家に入ると、たいてい大きなテレビがど~んと置かれている。たぶん、よけいな傘を何本も買わないで、大きな家にお金をかけてるのだろう。お金の使い方のうまい県である。でも、個人的には、大きなテレビより、スターバックスがほしい。
2008.07.09
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”非理法権天”(ひりほうけんてん)という文字が書かれた旗を持って戦場で戦った武将がいた。名前を楠木正成(くすのきまさしげ)と言った。”非理法権天”意味は、非(無理)は、理(理論)に勝てない。理は、法(法律)には勝てない。法は、権(権力)には勝てない。権は、天(天の声、民の声)に勝つことは出来ない。という意味の旗。”理” ”義” ”仁” に生きた彼らしい旗。彼ほど時代をさわやかに生ききった武将はいない。味方からも、敵からも、民衆からも、愛された武将だった。武田信玄が風林火山の旗をつくる、はるか200年も前の話。そういう男がいた。
2008.07.08
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いま、日本でサミットが開かれている。日本の福田首相は、世界のトップと次々と会談を行なった。しかし、一国だけ、日本からの会談依頼を断った国がある。”フランス”だ。フランスの国旗を、トリコロールと呼ぶ。三つの色を使った、シンプルな旗。この三つの色の意味は、”自由” ”平等” ”博愛”。フランスと言う国は、この三つの価値を血を流しながらつかみ取った国だ。だから、先のチベット問題でも、真っ先にフランスのサルコジ大統領が口火を切った。”オリンピック開会式をボイコットする用意がある。””ダライ・ラマと対話する用意がある。”その度に、中国は怒る。フランスの中国進出企業はガラスを割られる。フランスには古くから言われている、ことわざがある。”ノブレス・オブリージュ”高い地位にある人には、その身分にともなう道徳上の義務がある。という。今回、フランスの会談ボイコットの原因は、日本のチベット問題への対応へ抗議するものだったのかな、とも思った。私が新社会人として最初にお世話になった会社がある。小林一三さんの興された会社だ。そして、清水雅さんという名経営者を生み出した会社でもある。今でも、私の指針でもある。小林一三の言葉”清く 正しく 美しく ”清水雅の言葉”悪いことができない人より、 悪いことができても 悪いことをしない人が成功する。 実業界というのはこうしたものです。”まんじゅう、料亭、にく、うなぎ。。。
2008.07.08
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”あなたの席をあけてまっていますから”中学生のときに、事故に巻き込まれ片足を失ってしまった女の子がいました。その女の子は、足を失くしてしまい、さらに義足だと言うことで、いじめられっ子になってしまった。小さい子供は、時に残酷で、弱者に容赦しないところがある。その女の子は、自暴自棄になり、以来、心を閉ざしてしまう。高校に進学しても、一人も友達が出来ない。その女の子は、”考えました。””私のような人間は、これからももっと出てくるでしょう。 そんな人たちの手助けが出来る仕事をしたい。”そこで、女の子は、自分の義足を作ってくれた中村ブレイスに行き、”私を就職させてください。高校にはもう行きたくありません。”と中村社長の前で言った。中村社長は言った。”それは、ダメです。”そして、”最低でも高校は卒業してください。できれば大学も行った方がいいでしょう”中村社長は、その女の子に、たくさんの経験をしなさい。いろいろな人と出会いなさいと言っていたのだった。”そして、あなたが、そのときになっても、まだ中村ブレイスで働きたいという 思いがあれば、私たちは待っていますよ。””あなたの席を開けて待っていますから.....”6年後、その女の子は、中村ブレイスに入社した。坂本教授は、中村ブレイスの工場を見渡して思った。多くの若者が、大企業や外資系など、いわゆるブランド企業に就職する中で、あえて山のなかにある会社を選ぶ。周辺には店はなく、遊べるようなところはなにもない。仕事をするためだけにあるような環境の会社を彼らはあえて選んで全国からやって来ている。そういう熱い志をもった若者たちが誠意を持って働いているからこそ中村ブレイスには、遠くからお客様は来るのだと思ったそうだ。会社の中では、若い社員が、指を作ったり、脚を作ったりしている。ここの義肢装具は、すべて手づくり。指のかたちや、足の太さは、100人いれば100人すべて違う。一人一人のお客様に対応したものをつくらなければならない。それらの装具の一つ一つに”静岡県の○○様””愛知県の○○様”などと書かれた紙がはってある。みんな、名前の書かれた方々の顔を思い浮かべながら、仕事をしている。中村ブレイスの休日は、土曜日と日曜日になっている。しかし、社員の多くは、土日も出て来て仕事をしているという。中村社長が”休みなさい、出社してはいけません。”といっているのに、こっそりと出社してしまうのだ。この仕事は、非常に時間がかかりますが、一日でも早く仕上げることが出来るとそれだけ、困っている人は、一日早く助かることになる。彼らは、その事を知っているのです。だから”休みなさい”といっても仕事をせずにはいられないのです。その思いは、お客様にも必ず伝わります。ですから、中村ブレイスには、非常に難しい仕事もたくさんくる。大きな義肢装具会社がたくさんあるにもかかわらず。中村ブレイスのつくる義肢には、たとえば手の甲だったら、きちんと血管が浮いており指には、ちゃんと指紋がついていて、うぶ毛も生えている。まるで本物の皮膚と見分けがつかないくらい精巧に出来ている。”人の助けになりたい”という思いをもつ若者達の作る義肢は、とても高度な専門性と技術を持ったものなのだ。最後に法政大学の坂本教授の言葉が印象的だったので書き留めておきます。”なぜ多くの企業が、こういう商品を作らないのだろう。 自動車部品や電気製品をつくることも必要ですが、多くの企業がそれらに群がるため 競争見積もりで値段がどんどん下がってゆきます。 それで、”安い”だの”儲からない”だのと文句ばかりいっている。” ”中村ブレイスの業績がいいのは、なんでだと思いますか?” ”なんで、好況も不況も関係ないのですか?” ”それは、世の中に本当に必要なものを作っている会社だからです。” ”自動車とか、テレビが見られる携帯電話などは、お金がなければ我慢します。 しかし、中村ブレイスでつくっているものは、 そういう次元のものではないのです。” 坂本教授は、中村社長を見ていて思ったそうです。 ”リーダーとは、人への思いが強い人”だと。
2008.07.06
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いま、アメリカで星空の下のナイトハイキングが、静かな話題になっている。ネバダ州ブルーダイアモンドのスプリング・マウンテン州立公園で夏場に行われている。夜の良いところは、気温が低く、日中うだるような暑さのなか、木陰に隠れてしまう動物たちも、ナイトハイキングの時なら、森の哲学者フクロウ、シカ、コヨーテ、ムササビ、ボブキャット(山猫)などが姿を見せて、こんにちわをしてくれる!入場料は5ドル。ハイキングは夜の8時にスタートして10時に終わる。ガイドさんは、おまけに星の説明もしてくれる。暗闇と言うだけで、子供たちはわくわくし、学習している意識なく、学習が出来る。きのう、私も山形版ナイトハイキング(かってに言っているだけです!)に行ってきました。”蛍”と”星”をみに。。。すごい渋滞。蛍池の2キロ手前から、ブレーキランプが、天の川のように連なっておりました。ブレーキランプ以外の光はまったくない暗闇の森へ向かってゆきます。手前の青白い光がホタルの光です。ブレーキの色とは違います。蛍の青白い、ゆったりと舞う、あかりは、ことばにするには。。。むずかしい。一度は見ておくべきです。空を見上げると、ひしゃくのかたちをした北斗七星も輝いておりました。蒼いホタル
2008.07.06
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山形は、さくらんぼだけではありません。ラフランスの生産量も日本一です!パチ、パチ、パチ。朝もいで、その日のうちに出荷、東京には次の日の午前中には到着します。収穫4ヶ月前のラフランスの姿を知っている人はほとんどいないと思います。ラフランス畑。ラフランスの木。ラフランスの赤ちゃん、まだ3センチくらいです。
2008.07.05
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今週のニューズウイークに、ひさしぶりにカルロ・スゴーンの記事がのった。身動き取れなくなった、日本の巨大企業、日産自動車を立て直した男。1998年には約2兆円あった有利子負債を、2003年6月には全額返済し、12%前後まで落ちた国内シェアを20%近くまで回復させた。日本に来た当初の彼は、”コストキラー” ”コストカッター”と呼ばれ恐れられていた。いま、彼はフランスと日本の会社のトップを二つかけ持ちしている。インタビューが始まる。”2社のトップを兼務するあなたから学べることはなんだろう”ゴーン”企業のグローバル化が進み、チームが世界各地に分散しつつある。 経営者はますます”異文化への対応”を迫られている。 文化を超えて仕事をしなければならない。 考え方も感受性も違う人々を”やる気にさせるコツ”を心得ておく必要がある。 だから最も重要なのは”対応”である。インタビュアー”あなたは、当初、日産で歓迎されていなかった。まず何からはじめたのか”ゴーン”まったく未知の世界で、それでいて緊急の対応が必要だった。 まず当然、”話を聞くことだった。”独断で分析して診断を下すのではなく、データに目を通し、さまざまな職種の社員たちと面談したうえで分析する。多くの人の話を聞き、意見を交換し、きちんと優先順位を決めてから、診断結果と今後の計画を全社員に説明した。インタビュアー”日本人なら、あなたのようにはいかなかったという声も多いが”ゴーン”日本人かどうかはともかく、社内の人間には無理だっただろう。 会社の過去を断ち切らなければならないケースが数多くあったから。 豊富な経験と強い意志を持つ社外の人間だったら日本人でも可能だったはずだ。インタビュアー”あなたは若くして成功したが、日産に来た当初と比べて、変わったことがあるか”ゴーン”変わった。大人になり、経験もつんだ。浮き沈みを経験し、ある意味、自信が増した。 非常にいい時期があったかと思えば、ときには葛藤もあった。 自分が期待するほど早く結果が出なかったこともある。経験を積んだし、たぶん以前より 気が楽になった。インタビュアー”ヒーローになった感想は”ゴーン”悪役の経験なくしてヒーローにはなれない。 そして、ヒーロー扱いされた翌日には悪役になる可能性も十分ある。”カルロスゴーンが日産自動車にやってきて、社員の、半分以上が入れ替わったと聞く。皇室の方が、見学にこられた由緒ある工場も、容赦なく閉鎖し、リストラを断行した。日産OB達が天下っていた関連会社であっても、競争力がなければ部品調達は中止した。多くの社員から恨みをかった。しかし、会社は2兆円の借金を5年で全額返済し、今も存在感を維持している。そういえば、宮崎県の知事(元芸能人)も、大阪府の知事(元弁護士)も、政治家でも官僚出身でもない。政治の素人のはず。なにかを、変えるということは、そういうことなのかもれない。ずっと同じところにある水は。。。にごる。
2008.07.05
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スピード社の水着、”レーザーレーサー”この会社と水着の名前を知らない日本人はほとんどいないだろう。だけれど、この会社が、実は小さい会社だと言うことを知っている人は少ないと思う。日本のミズノと言う会社の社員は、およそ1800名。イギリスのスピード社の社員は、およそ200名。スピード社の昨年の売り上げが147億円。利益は、じつに8億4千万円。なぜ、レーザーレーサーという名前が付いているか、ご存知だろうか。それは、水の抵抗を極限まで減らすために、水着のパーツはたった3つ、そして、その3つの生地を、レーザーで裁断した後、縫い合わせるのではなく、超音波で素材の端を溶かして、継ぎ合わせているからだ。この水着には、縫い目がまったくない。水着の生地も、超極細合成繊維にポリウレタン製パネルを張り、撥水加工が施されている。この水着が、今年2月に発表されてから、この水着を着用した選手が打ち立てた世界記録は、わずか5ヶ月で36にものぼる。この会社のすごいところは、以前、アメリカの大学のシャープ教授がスピード社の水着の性能を疑問視する論文を発表した。すると、スピード社は、シャープ教授の論文に反発するどころか、”彼が投げかけた批判は、すべて的を得たものだった。”といってすぐにシャープ教授に電話し、よりよい水着を作るため社外顧問になってほしいと打診し、取り込んでしまった。このレーザーレーサーは、NASAの100時間にもおよぶ風洞実験。ニュージーランドの回流水槽で、じつに1000時間にも及ぶテストを行ってきている。日本の大メーカーが慌ててまねをしても、マネの出来るものではなかった。今、イタリアの水着メーカーが国際水泳連盟に”この水着は規定違反だ”とクレームをつけている。では、一方のスピード社のほうはどうかというと。。。4年後のロンドンオリンピックに向けて、新作水着の開発にとっくに入っているそうだ。スピード社の社長の言葉。”われわれは水泳はやらない。ただのオタクだ。”
2008.07.04
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やまがた、きょうはひさしぶりにあめがふりました。そのため、ぶんしょうもひらがなです。霧がはれると、そこはグリーンな朝がありました。アメリカの食料自給率・・・128%にっぽん・・・・・・・・・・40%北海道の食料自給率・・・・195%秋田・・・・・・・・・・・174%山形・・・・・・・・・・・132%京都・・・・・・・・・・・・13%神奈川県・・・・・・・・・・3%大阪・・・・・・・・・・・・・2%東京・・・・・・・・・・・・・1%北海道。。。ありがとう。
2008.07.04
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中村さんが一人で始めた会社、中村ブレイスも、ようやく仕事が軌道にのりつつあり、新入社員を入れることになった。すると、知人から”どこにも就職させてくれない子がいるから、力になってくれないか”という依頼があった。その子のお父さん、お母さんはとても真面目な人で、子供の将来を案じている。なんとか中村さんに面倒を見てもらいたいんだ。”と頼んできたそうだ。中村社長は彼に会った。顔は青白く、見るからにひ弱そうな感じだった。最初は断ろうと思った。しかし、”人を支えるという目的で設立した会社であり、また、世のため、人のために貢献したいと思ってつくった会社ではないか。。。であるなら、こういう若者の面倒を見るべきではないか。”と思い至った。そして、彼を最初の社員として採用したのだった。しかし、彼は、体力がないのか、集中力がないのか、一時間も働いたら、”疲れた”と言って帰ってしまった。次の日も、その次の日も。。。まわりの人は心配して言った。”おまえ(中村社長)だって食うや食わずで働いているのだから、 辞めてもらったらどうか”でも、中村は自分の使命(ブレイス=支える)を果たすために、その子を雇い続けます。その子が、通常の勤務時間である午前8時から午後5時まで働けるようになるまで、ずいぶんと長い時間がかかった。”七年半かかりました。”と中村は言った。さすがに、聞いていた坂本先生もおどろき、普通だったら、”もう辞めてくれ”と言うでしょう。”なぜ七年半も待つことが出来たのですか?”と聞いた。中村さんは、”あの子は、あの子なりに精一杯、努力していたんです。私は、けっしてそれを見逃さなかった。””この子は、あるときは朝8時に来て、たしか二時間ぐらいでうちに帰るとか、 救急車で運ばれるとかしました。それから一週間、出てこないこともありました。 しかし、一週間後に、体力がついてくるとまた出てくるんです。 その時は、朝8時から、10時半までいました。残念ながら次の日はまた休んで、 出てきたときは9時に帰りましたが、その次の日には、11時まで仕事が出来ました。 その繰り返しで、就業時間の8時から5時までの勤務ができるまでに、 七年半かかったのです。”中村はいう。”その子を自立させたことが、今日のわが社の原点です。”実は、その若者は、自分の状態をなんとかしようと、家で寝ているときなど、医療とか福祉、介護に関する専門書をすごく読んでいたらしいのです。結果的に、中村さんもかなわないくらい、その分野の深い専門知識を身につけていたそうです。働けるようになった彼は、医療や福祉、介護の見本市が広島で開かれたときなどは、オートバイで出かけていって、”こういうものがあった、ああいうものがあった。でもこの商品はダメだからこうしたらいいだろう”と中村さんに報告したそうです。中村ブレイスの、今の主力になっている商品には、彼のアイデアによるものがたくさんあるそうです。
2008.07.03
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ベートヴェンは、かつて言った。私は、運命が扉を叩くように、曲を創っている。と運命は時として不思議なことをする。中村ブレイスの社長は、なぜ様々な会社がある中で、義肢の会社を興したのか。。。中村社長は、5人兄弟の末っ子で、お父さんは小さい町の公務員でした。生活は決して楽なほうではなかった。地元の高校を卒業した中村さんは、進学を断念して就職することにします。その時のささいなきっかけが、中村社長の後の人生を”運命”づけることになる。なかなかいい就職先が見つからなかった中村少年は、ある日お姉さんに就職の相談に行きました。お姉さんは、国立病院の事務職をやっていました。お姉さんに将来のことについて相談していたところに、その病院の副院長先生が”偶然”通りかかります。(まさに運命!)二人の会話をじっと聞いていました。するとその偉い先生は、二人の会話に割って入ってきました。”病院に出入りしている京都の業者がいる。義手とか、義肢をつくっている会社で、とても大切な仕事だ。君もそういう技術を身につけたらどうだろう”と言ってくれたそうです。その先生の口利きで、中村少年は、なんとかその会社に就職させてもらうことが出来ました。仕事の関係で、中村少年は、よく病院に納品に来るそうです。その時、様々な医師と交流が生まれます。そして、ほとんどの先生が、”来月はアメリカで発表する”とか”ドイツの学会で最先端の医療技術が紹介された。”などと、若い中村さんに、いろいろな話をしてくれたそうです。その中の一人の先生が、”中村君も、もっと勉強するといいよ。それに若いうちに海外に行って最先端のものに 触れて、見聞を広げるというのは、すばらしいことだよ”といって、励ましてくれた先生もいたそうです。中村さんも、だんだんとその気になってゆきます。しかし、仕事を持つ身だったので、会社に迷惑がかからないようにと、近畿大学の通信教育課程に入学します。しかし実際には、実習や実技があり登校しなければならない日も多かったそうです。終業と同時に会社を飛び出し、夕食もとらず片道2時間30分かけて大学へ通ったそうだ。講義を終えて、下宿先へ帰ってくるのは、夜中の12時過ぎだった。通信教育を終えて、三ヵ月後、中村さんは一つの決断をします。貯めたお金で、アメリカに行くことにしたのでした。中村さんのがんばりを見ていた、勤め先の社長さんは、中村さんに一ヶ月もの休みを認めてくれたうえに、餞別までくれたそうです。中村さんが、アメリカで最初に訪れたのは、ホズマー社という世界的な義肢装具の会社だった。中村さんは、そこでも、またいい出会いに恵まれます。ホズマーの副社長が同じく義肢装具を営んでいる日系人の方を紹介してくれたのだった。しかも、その日系人社長の奥様のご両親は、中村さんと同じ島根県の出身だった。中村さんの、とても真面目で熱心に勉強している姿を見て、日系人の社長さんは、中村さんをとてもかわいがってくれたそうです。さらには、”アメリカには大きな病院もたくさんあるし、とても勉強になるだろう。もし、よければうちで働かないか”と誘ってくれたのです。帰国後、中村さんは京都の会社にわけを説明し、会社を辞めることにしました。6年間働いた退職金を手に、今度は本格的にアメリカへ渡りました。中村社長、24歳の時でした。中村さんは、アメリカで昼間は仕事をして、夜は英会話スクールに通い、ものすごい勢いで、技術を吸収していった。 そして2年半後、再び日本に帰ってくる。当時の日本は、まだ義肢など扱うところはほとんどありませんでした。その頃の日本では、”手がなくなったら、あきらめるしかない。”という感覚だった。知り合いも、ニーズのない仕事をするのだから、ぜめて東京や大阪などの大都市で開業した方がいいよ”とアドバイスしてくれた。しかし、あえて中村さんは、故郷の島根県にこだわりました。生まれ故郷に戻り、たった一人で創業しました。当然、仕事はまったくありませんでした。はじめの一ヶ月は、雪かきばかりしていたそうです。やがて、はじめての仕事が来ます。”腰が痛い”という親戚の注文でつくったコルセットでした。それからは、中村の確かな技術に、口コミで徐々にお客様が増えていきました。そして、この会社がさらに大きく飛躍をするきっかけとなる一人目の社員が入社してくるのでした。しかし、その一人目の社員は、いきなり出社拒否をしてしまうのだった。
2008.07.02
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今日は、休みだったので映画を見てました。”ブレイブ ハート”です。メル・ギブソンがウイリアム・ウォレスというスコットランドの英雄を演じたものです。実際の歴史の話です。13世紀のスコットランドは、イングランドの圧制に苦しめられていました。不利な状況下のスコットランドを、ウイリアム・ウォレスが民衆を一つにまとめあげイングランドと互角以上に戦う話です。バラバラだったスコットランドの民衆たちへ向かってウォレスの放った言葉。”スコットランドの兄弟たち””自由がほしくないのか”すると民衆の一人が。。。”敵は3倍。戦えば死ぬかもしれない。でも逃げれば生き延びることが出来るだろう。”ウォレス”戦えば死ぬかもしれない。逃げれば生きながらえる。。。少しのあいだだけな。””天寿をまっとうして死ねるかもしれない........"”だか、この先のきみらの寿命を、今日の、この日にかけてみる気はないか。””たった一度だ! たった一度のチャンスだ。””戦場にもどり、敵に、こう言ってやれ””われらの、命は奪えても、 奪えないものがある ””それは、自由だ!””スコットランド万歳”ウォレスは、最期、味方の裏切りで捕らえられ、イングランドに送られ、拷問され死にます。しかし、彼はどんなに拷問されても、イングランドに従うことはなかった。彼は言った。”私が忠誠を誓うのは、祖国だけだ。”思わず、泣きながら見てたら、宅急便が来ました!”やばい”頼んでいた、マザーハウスのバックだ!”どうしよう”あきらめて...ドアを開けて...荷物を受け取りました宅急便のおじさんが、怪しそうに私の顔を見ます。わたしは、クールあんどドライを装い、なんとかその場を切り抜けることが出来ました。今年、最大のピンチでした。
2008.07.01
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2005年4月25日、JR福知山線で脱線事故が起こった。乗客106名が亡くなるという未曾有の大惨事だった。このとき、JR西日本の職員は、事故車両に乗っていたにもかかわらず、救助活動を行なわなかった。また懇親会などというイベントをのん気に行なっていた部署もあった。東日本側にいると、JR西日本の落ち度ばかりが報道されていた。そんななかで、一つの会社が人命救助に必死で取り組んでいたという事を、私は後から知った。その会社の名前は、”日本スピンドル製造株式会社”という。この会社は、事故現場から50メートル近くの場所にあった。大きな衝突音に気づいた社員がすぐに現場に走り、事故を確認し救出作業を開始した。知らせを受けた、斉藤社長は、直ちに工場の全ての操業を停止するよう命令した。そして全社員(約270名)を食堂に集め、全力を挙げて救助作業に当たるように指示する。社員達は、手に、救急箱、はしご、消火器、カッターやバールなどの工具をもって現場に急いだ。そして、助けを求め、うめき声を上げる人たちを励ましながら救出していった。思い出すとテレビ映像の中に薄い水色の作業着の人たちが移っていたが、あの方たちが、消防でも、警察でもなく、日本スピンドルの社員たちだったのだ。負傷者は次々と助け出され、電車の座席などに横たえられ応急手当を受けた。当初、電車が折り重なっていて事故現場と目されたマンション反対側が注目されていたため、負傷者が集中したマンション西側にはなかなか救急車が到着しなかった。そこで、日本スピンドルの社員達は、助け出した負傷者に応急手当をした後、自分たちのマイカーや、工場のトラックなどで病院にピストン輸送した。その間、病院・警察・消防などに「事故発生、負傷者多数」を告げ、負傷者には”がんばれ!きっと助かる、大丈夫”などと励まし、声をかけ続けたのだった。そして、130人以上もの尊い命を救った。その後、消防、警察、レスキュー隊などが駆けつけた後は、防災関係者の足手まといになるとの判断で斉藤社長は社員を引き上げさせた。見事な危機管理、見事な出処進退だった。大惨事の中で彼らの活躍だけが、少し救われた。わたしだったら、はたして工場の全操業をストップする判断を瞬時にすることが出来ただろうか。。。
2008.07.01
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