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題名「あなたが、羽富さん? 会いたかったです」 先日、あるご夫婦様(60歳代)と偶然にも、出会いました。「もしかして、羽富さんですよね~。」から始まります。 「実は、私は、平成10年に、つくば市洞峰公園の体育館の受付パート勤務で、 働いていました。 当時、平均月に忘れモノの問い合わせが10件以上は、ありました。 約10年間勤務したので、相当の忘れ物の問い合わせを受付で対応していました。 でも、羽富さんのことだけは、忘れていなかったです。 それは、忘れ物をして、受付にいた私に話しかけてきたんですよ。 何を忘れたか? 記憶はないのですが、調べて見つかってその態度が 素晴らしかったのです。 何度も、何度も、お礼を言って下さって、ニコニコしながら感謝の気持ちを伝えてくださった。あまりの感じの良さで記憶が残っていました」 すると、この私も、記憶を想い出して、「わかった~、ロッカーキィーに車のカギを忘れたことですね~」と。その奥様が、当時のことをすぐにご主人様にお話しをしたそうです。「パパ、今日ね~忘れ物されたお客様がいたのよ。 わざわざ、名刺を差し出して、本当に困った様子で、 私に話しかけてきたのよ。約30分? 40分?して、 見つかるとね~、親切に探して下ってありがとうね。 何度も、何度も、頭を下げたのよ。」晩御飯時に話しをしたそうです。あれから、26年が過ぎても、羽富さんのことを覚えていました。なぜか?NHKニュースや、新聞や、インスタや、この情報紙から、拝見して「街おこしをしながら、商売をしている姿に感動して」ノートに記録していなくて、頭の中で記憶していたのです。 その羽富さんが、目の前に私たち夫婦の前に、偶然にももう、涙が出てきます。ハンカチで目をあてながら、握手を求めてきました。私も、涙が出そうになってきました。「また、愛(あい)ましょう~ね」と言って、お別れしました。一期一会の心ですね。
2024.11.22
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#伎芸型おもてなし商売道#羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度#ロコレディ
2024.11.21
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人にフォーカスすることを日々実践していきます。
2024.11.17
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65歳になって、気づきもより沢山になってきました。私は、数多くの失敗を繰り返して、来ました。その都度、どうしてこんなことになったのか?寝る前に、反省をします。平成19年の秋に、当時の茨城県知事から、表彰状を頂いたことがあります。全く、予期もしないことでした。オーダー・メイド型雇用人事制度(商法登録申請中)の件で、直接県知事から、表彰時に、声を掛けられました。びっくりしました。悩んで、悩んで、どうしたら良いか?創業者とも、この人事制度では、意見の違いもありました。何度も、何度も、創業者に説明をしました。「わかった。おまえが、そこまで言うなら、やってみろ」と言われました。勤続年数が少しづつ伸びてきました。勤続年数給と年齢給制度も設けました。そして、今年の秋に、後継者を含めて、再度微調整しました。変更するところと、継続するところの微調整です。引き続きよろしくお願いいたします。
2024.11.11
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今、衆議院選挙の期間中ですね。私は、期日前投票に市役所まで、出向きました。選挙の時だけ、お願いされても良い気持ちはしませんね。常日頃からの活動が必要ですね。国政選挙ですので、商人としては経済活動や街の活性化について重点的に行なって欲しいですね。県会議員とか、市会議員とは違い国の安全や、国家として教育問題についても、興味をもっています。商いと同じですね。ありがとうをお互いに言える関係づくりだと思います。
2024.10.18
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10月の3連休は、つくば市沼田のわんわんランドさんにて、クレープとコロッケのキッチンカーで出向きました。物凄いご来場のお客様でした。館長さんの話しを伺くとこの3日間は、天候も良く過去最高の人出だったと。3日間の間にも、ドラマのような出来事が、またまたありました。1つ目は、推定40歳前後のママさんとお嬢様(小学2年生)です。母子家庭だと言われました。「ママ~、おじさんと記念写真を撮りたいのよ~。」と言われました。「ママも、一緒にね~。」と。私みたいな年配のおじさんと3人では、誤解を受けるかもしれないので、丁重にお断りすると、ママさんが、察知したようで「では、OOちゃん、おじさん2人で写真ね~」とパシャッ~と。離婚して、子どもに寂しい思いをさせたくないようで、車でココに来たそうです。「おじさんのような陽気な男性と知り合って愉しかったです。」と言われました。お嬢様が言います。「おじさん、いつまでも元気でいてね。」と笑顔で答えてくれました。(またまた、涙)また、2つ目はある70歳代のご夫婦様とその家族で6人でご来場された方より、「あなたの呼び込みで、3回も来ちゃったよ。コロッケを2回、3回目はクレープを孫たちが欲しい。」と言うから。「素晴らしい~、トークだね」と言われて、家族全員と私も加わって記念社員をパシャッ~と。そして、3回目は、40歳代半ばの男性と息子さんの2人で。「昨年、妻と離婚した。仕事疲れもあるが、アパートでは、犬が飼えないので、半年に1回ぐらい ココに来ています。」と。 そして、「息子が亡くなったじぃちゃんの性格に似ているあなたを観て、写真を撮りたがっています。一緒に写真に入ってください。」と言われて、パシャッ~と。そして3つ目は若い女性2人(推定30歳代前半)が、「おじさん~、チーズコロッケをこぼして、ワンピースを汚してしまったので、ティッシュをください」と。ネコ舌の方は、熱々のコロッケですから、気を付けて下さいませ。・・・と言ったにも、関わらずこぼしてしまった。「私の本業は、アパレル小売業です。だから、済抜きのお手伝いさせてくださいね。」と言うと、「えっ~、アパレルのお仕事が本業」と大笑いされました。そしてこの2人からも、またまた写真をぜひぜひと懇願されました。「お客様から、ありがとう」と言われる商いを今後とも、継続していきます。#ロコレディ扇屋グループ#キッチンカーでの出来事#伎芸型おもてなし商い道
2024.10.16
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つくばわんわんランドさんにてキッチンカーでお世話になっています。クレープとコロッケでお世話になっています。ご存じの方も、多いかと思いますが、わんわんランドさんのオーナーさんが、宝来館、つくば山水亭、日本語学校などを経営されています。先代からのお付き合いです。もう60年になるでしょうか?私は、婿養子の2代目です。従業員の立場で入社しました。東郷社長の親時代からのお付き合い。東郷まさ会長さんが存命時にこの私に言いました。「羽富さん、あなたのお父様、お母さまとは、終戦後から商売の道で、一緒だった。 戦友みたいですね。商いという道での友人であります。」と言われたことがあります。そのことは、故 羽富 正三からも、聞いていました。「羽富さん、わんわんランドで、お店出さないか? 力を貸して下さい。」と言われたことがあります。キッチンカーでのテストマーケットでは、わんわんランドさんで、練習をさせて頂きました。数多くの失敗体験を積んで時には、怒られて注意を何度も、何度も、受けました。懐かしい想い出です。感謝しても、感謝しきれない。だから、入場者数のアンケートも私から、提案させて頂きました。もう、何回も、何回も、アンケートでお客様からのご要望などをお聴きして、館長さんや、営業本部長にも、報告していています。まとめお世話になっている。それを独自のアイデアで恩返しをする。感謝して、おたがい様、おたがい様の心を大切にしたいですね。
2024.10.13
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中学1年生時の記憶です。 お昼ごはんの時間が、一番大好きな時間でした。 男3人兄弟で、母親は、毎日一升ごはんを焚いていました。 もう、育ち盛りでしたので、毎日の食事は、愉しみでした。 クラスメイトの「なほこちゃんのお弁当が気になっていました。」 隣に座った「なほこちゃんのお弁当」の思い出です。 「なほこちゃんのお弁当はいつも、美味しそうでした。彩り野菜がいっぱい。」 いつも、隣りにいるお弁当が気になっていました。 「トシ坊、私のお弁当食べる?」「うん、うん、食べるよ~。」「今日は、ママにお弁当を2つ作ってもらったの。トシ坊が、ママが作るお弁当をほめてくれるので ママ、トシ坊の分もお願いね~」と言ったら、「喜んで~」と。約2週間ぐらいその光景が続きました。 なぜ、2週間で終わったのか? それは、父兄会の席で、母親が偶然にも、「なほこちゃんのママの隣に座ったのです。」すると、ママさんが「トシちゃんが、なほこのお弁当を観て、綺麗だね~。美味しそうだね~。・・・と褒めてくれるので、毎日、2個お弁当を持って行くんですよ~」と。 母親が自宅に戻ってくると、「としあき。座りなさい。」と言われて「他人様の大事なお弁当を食べるとは、何事だ。何を考えているのだ。」 と怒られました。 それ以来、お弁当は、母親だけのお弁当になりました。 他の母親が作るお弁当がなぜ美味しく感じるのか? それは、謎でした。 今振り返ると、「愛情たっぷりのお弁当に感じていたと思います。」 「亡くなった母親のお弁当をまた食べたくなってきました。」 「秋野菜 妻の手料理で 孫に食べさせたい。 作としあき」
2024.10.07
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長い間、私のことを近所の子ども達にも、「宇宙人~」とか、「妖怪」とか、言われていましたが、「ぎげいにん」を名乗ることにしました。ある意味では、「やぶき物」「ごじゃっぺ物」とも言われています。伎芸の「伎」は、にんべんの「伎」を使います、テクニックの「技」ではありません。AIを使って調べました。伎芸人(ぎげいにん)とは、人を笑わせる芸人やコメディアンは、まさに技芸人の一種といえます。伎芸人とは笑いを提供するための技術や芸を持っており、そのスキルを日々磨き上げています。彼らのパフォーマンスは観客を楽しませ、時には社会や文化について考えさせる力を持っています。 #ロコレディ伎芸人#常総ごじぇっぺ短期大学校#伎芸型おもてなし商売道
2024.10.05
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「亀の甲より年の功の時代???」 先代羽富正三(義父)と車に乗って市場をリサーチした時の話です。もう20年以上前になりましょうか?「いいか、最低20回は、攻める市場(出店場所)に出かけよ。よく観察せよ」と教えてくれました。ある日、昼時にあるレストランで食事をしました。注文したのはエビチリ炒飯です。程なく、注文したエビチリ炒飯が出てきました。それを見た正三会長が、ウェイトレスさんに向かってこのように言いました。「この炒飯、エビが少ないですね。サンプルには、4匹エビが乗っているよ」と。丁重に言います。それを聞いたウェイトレスさんが「これはサンプルですから」するとさらに正三会長は「ダメだよ。それでは『ウソ』になってしまうよ。ならば『これはサンプルです』と記載するべきだよ」と、とても優しい言い方で対応されました。この言い方が、またすごい。感情的ではなく、人を諭すようなゆっくりとした口調でその女性に言いました。その後、エビが4匹入りのエビチリ炒飯が出てきました。会長が大きな目で、キラリと光る眼差しで言いました。「いいか、としあき。自分が考えていることと違った局面になった場合、普通は怒ったような顔になるが、逆なんだよ。優しい顔で、言うのだよ。物静かな言い方をするんだ。自分が勘違いということもあるからな。そのように対応しながら、自分を鍛えるのだヨ」と子供を諭すような言い方をしました。「静かな言い方で話せば話すほど相手に効く。興奮したり、感情で話せば自分の負け。なぜ84歳の年寄りがわかるのか?それはな~、自分でもそうやって失敗したからだよ」血のつながりのない親子関係であっても、愛情を注ぎながら、心の経営を教えてくれる。亡くなった会長である羽富 正三(義父)には感謝の気持ちで一杯です。
2024.09.29
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過去に描いたエッセイを再度、再度、書き直しました。駄菓子屋さんには、夢があった。昭和40年代の前半の出来事。 申し訳ない気持ちが、今蘇ります。想い出しながら、書きたいと思います。 私は、男三人兄弟の次男坊です。 私が、小学生時代の話しです。 兄とは、1つ違い。 弟とは、4つ違います。確か、小学二年生ごろだったか? 3年生だったか? 想い出せませんが、そんな頃 だったと記憶しています。近くに、近くに、 駄菓子屋さんがありました。「榊原-さかきばら」さんというおばちゃんが、 お店を経営していました。お好み焼きと、駄菓子屋さんの2つを経営していました。 坪数は、3坪ぐらいでしょうか? 6坪ぐらいでしょうか? 子どもの頃の記憶ですので、 もう記憶にないぐらいです。いつも、いつも、クジを引いたり、 アイスクリームも買って、 兄と、弟と週に1,2回出かけていました。 歩いて、歩いて、 子どもの足ですから、3分ぐらいかかるでしょうか?いや、5分かかるでしょうか? 歩いて、あるいて、通っていました。いつも、いつも、 「ホームランバー」というアイスを買っていました。 確か~、10円だったと記憶しています。 棒に、「ヒット」とか、「ホームラン」と刻印されていたかと 思います。何回、買っても、何回かっても、 「はずれ」 という刻印が、してあります。、セミが、ミン~、ミン~と大合唱しているお昼過ぎの2時ごろだったと思います。そんな暑い日に。子どもの浅知恵でしょうか? そうか、 自分で、「ホームラン」と描けば、当たりになる。・・・・・・・と考えたのです。 ズボンに、ペンを隠して、 ペンで。そして、持っていたペンを取り出して、 草むらに隠れて、「ホームラン」と描いたのです。そして、お店のおばちゃんに 「おばちゃん、当たったよ~」と叫んで「としちゃん、おめでとう~」と言ってくれました。「ハイ、どうぞ」とニッコリ笑ってくれました。 慌てて、慌てて、お店を飛び出して、 アイスを食べました。美味しかった。 美味しかった。 ほんとうに、美味しかった。1日に2個アイス 食べることは、母親からは、怒られるので、 その棒は、草むらに捨てました。すると、どうしたことでしょうか?????? 腹が、急に痛くなったのです。 そうです。腹が冷えて、おなかを壊してしまったのです。 昭和の時代です。 昭和40年代前半の話しです。 悪いことをした。 申し訳なかった。 そんなことを反省しながらも、10年の月日が、過ぎていきました。 心の優しいおばちゃん(当時60歳ぐらい)でした。今でも、涙が出てきます。 こうやって、書きながらも、涙が出てきます。 私が、成人した後にそのおばちゃんが、亡くなったことを 母親から、聞かされた。、「としあき~、駄菓子屋のおばちゃんが亡くなった」と。帰省した時に、すぐに榊原の駄菓子屋さんに出向きました。仏壇に向かって、「おばちゃん、ゴメンネ。おばちゃんゴメンネ。」と 謝りながら、手を合わせました。すると、 家族の方から、 「あのね、うちのばーちゃんは、としちゃんのことが、好きだったようですよ。 としちゃんが、将来、喫茶店を経営するから おばちゃん、その時は、ご馳走するね。 それまで、長生きしてね。 そんな優しいことを言うとしちゃんが、好きだよ。」と 教えてくれました。 もう、涙でした。 そして、 「あの子は、将来、社長になるよ。きっと将来社長になるよ。」とも 言っていました。とお聴きして、号泣しました。お店は、亡くなった49日後に閉店したそうです。そして、13回忌ときには、「おばちゃん、社長になったよ」と仏壇に報告しました。合掌。#駄菓子屋#ロコレディ#羽富 都史彰#私の想い出#伎芸型おもてなし商売道もう、ごめんなさい。 文章が、書けません。 街のこどもが、はやく大人になりたい。 ・・・・・・という社会にしたいです。そんな想いがあるからこそ、「将来は、子ども達が早く大人なりたい環境をととのえたい」と考えて、地域の子ども達と意識的に接するようになりました。子供お神輿の手伝いや、ボランティア活動をもう15年以上行っています。今は、小さな会社を経営する身となりました。商売は、笑倍(しょうばい)として小さくても、キラリと光るお店を目指しています。
2024.09.28
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10回、無事に懐かシネマ終了をしました。皆さん、おかげで無事に終了しました。最終回は、涙、涙、涙でした。心から、感謝申し上げます。2024年9月吉日#懐かシネマ実行委員会#常総市野外上映会
2024.09.26
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おはようございます♪ 今回集英社文庫本アパレル興亡が5月に発売されました。 2016年5月17日 経済小説作家 黒木 亮氏から・・・。突然メールを差し上げますご無礼をお許し下さい。私は主に経済小説を書いている黒木亮と申します。主な作品に「巨大投資銀行」「ザ・原発所長」 「排出権商人」「トリプルA」「鉄のあけぼの」「法服の王国」「冬の喝采」等がございます。取材の過程で東京スタイルの磯貝常務のお名前を聞き、インターネットで探していましたら、羽富社長のブログに行き当たりました。取材のご検討宜しくお願いします。黒木亮 そしてアパレル興亡の本が出来上がった。 (内容紹介)徹底取材で業界の最前線を作品化してきた経済小説の旗手が、大手婦人服メーカーを舞台に、戦後のサクセス・ストーリーとバブル後の衰退を描く。会社とは何かを社会に問うた村上ファンドとの攻防、社長の死後継指名、競合他社との経営統合まで、アパレル業界、百貨店から映し出される戦後日本経済の栄枯盛衰の物語。2020年2月20日発売。 価格 2.090円(税込)出版社 岩波書店 単行本 496ページ発売された。ベストセラーになった。 オリエントレディ堀川ほりかわ 利幸 としゆきという名前で 私が登場します。(東京スタイルの社名も個人名も変えています。)フィックションではありますが、事実に基づきアレンジして書かれています。昭和57年4月~62年8月迄 勤務しておりました 当時の役員に百貨店の売り場にて、「バカ野郎~」ビンタで叩かれました。軍隊のような会社でした。平気で殴る。 テレビ番組「兵隊やくざ」とか、「どてらい男」のシーンのように ビンタで、叩かれます。 「何で、目標達成出来ないのか?」と朝礼では、詰問されます。 月曜日の朝礼は、お昼過ぎまで、 続くことも、しばしばありました。 上下関係は、すべて入社順(高卒、大卒関係なく)で、OOさん付けとなります。 自分自身が、経験したことが、本で、紹介される。 不思議な気分です。 そして今回集英社文庫本から21日に出版される。内容も改訂されています。上下巻の2冊になります。
2024.09.20
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第10回懐かシネマ上映会無事に終わりました。ボランティアスタッフさんたちに,この10年間お世話になりました。本当にお世話になりました。有難うございます。こんな寂れた街に街おこしは無駄だと言われました。オレは水海道生まれの75才になるが、おまえらは補助金目当てだろう!ーと第7回懐かシネマの開催される1時間前に言われた。しゃべるだけ、しゃべって,立ち去った。悔しかった。残念だと思った。近くにいた協賛してくださった年配者さんから羽富さんよく耐えたねー。素晴らしいオレも悔しいけど、やろうよ。映画上映会やろう!ーと励ましてくださった。若い世代の時代だ!私は全面に出ないようにします。花火大会のボランティア活動は来年で引き下がります。政治の世界と街おこしは似ています。潮時をそろそろ迎えます。キャンディーズさん山口百恵さんのようにバランス良くバランス良く。若い世代のフォロー役として。第10回懐かシネマ上映会の報告書をまとめて,商工会市役所に提出していきます。引き続きよろしくお願い致します。懐かシネマ実行委員会会長東郷治久絵師井桁豊担当羽富 都史彰
2024.09.17
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第10回懐かシネマ上映会は今日9月7日千秋楽を迎えます。
2024.09.07
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私は、昭和57年にアパレル業界に入った。その時は、イトーヨーカ堂さんや、ユニーさん、ジャスコさん、三愛、三峰、鈴丹、テイメン、タカキューなどなどが、大人気でした。デパートは、伊勢丹、三越、西武、そごう、高島屋さんなどなど。時代の流れでしょうか?やはり、在庫を持つことが、怖いです。在庫を持たない。すなわち、アパレルメーカーに委託販売をお願いする。デパートが、不動産屋さんになって、場所貸しのお店になってします。お客様が徐々に減って来る。それが、怖い。
2024.08.29
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オリジナルです。ロコレディオリジナルのビジネスモデルです。ありがとうございます。
2024.08.19
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「はとみさんは、なぜ、一部上場の会社を辞めて、中小零細の小売店に転職したのですか?」...という質問を先日、受けました。自己資本比率75%の会社でした。超優良企業の東京スタイルさんに勤めていました。(現在は、TSIホーリディングスになりました。)大学生時代から、まったく、まったくアパレル業界には、興味は、ありませんでした。洋服のことを友人たちと話したことは、まったくありませんでした。就職課で、勧められるままに企業訪問をしました。東京スタイルさんに、入社してまる3年ごろから、転職を意識しました。転職に関して、2年以上悩みました。(昭和60年~62年春ごろ)当時、故羽富 正三(しょうぞう)との面接は、20回以上だったと記憶しております。では、どうして、「転職」・・・そう思ったのか?それは、私が、仙台の藤崎百貨店を担当していた時です。(昭和59年ごろです)親子連れ、今度、短大を卒業する一人の女性とお母さんが、東京スタイルの売り場(仙台の藤崎百貨店の2階)に来て、会社面接のセット・アップ(スーツ)を探していました。私が、まだ髪の毛がふさふさ時代ですから、感じがよく感じたのでしょう。お買い上げ頂くことになりました。その時に、そのお母さんが、衝撃的なことを私に言ったのです。「東京と仙台のキャベツの値段が、違うのに、どうして、同じメーカー、同じ品番の商品の洋服が、全国共通の同じ値段なの?」と聞かれました。わたしは、「えっ~、」と思わず、言ってしまい、答えることが出来ませんでした。出張が終わり、課長にその時のことを報告すると、「おまえは、バカか?何故、洋服と食べ物を一緒に考えるのだ。一緒にするのではない。」と言われました。私は、どうしても、納得できませんでした。コピー機も、電話料金も、保険料も、何故日本全国、同じ価格で、販売になるのでしょうか?物価は、仙台と、東京・・・全然違います。ガソリンの値段、ネギの値段、その地域によって、違うのに、どうして、洋服の値段は、同じなのだろうか?もう、卸しの仕事に、矛盾を感じてきました。辞めよう、もう辞めよう、大企業の営業マンは、歯車のほんの1つのパーツだ。私でなくても、他の人でも、良いのだ。紙切れ1枚で、人事異動。いろいろな人に相談しました。先に東京スタイルを辞めた同期の営業マンにも、相談しました。反対も、多かったのも事実です。親戚は、ほぼ、全員反対。「茨城みたいな田舎に行って、小売業?メーカーにいなさい。死んだオヤジさんも、嘆くぞ。せっかく、一部上場会社に、入って、なぜ、茨城だ?名古屋へ帰って来い。」と言われました。当時の故羽富 正三との面接で、「なぜ、メーカーを辞めたいと思う?」と聴かれ、いろいろなことも、言いましたが、今でも、覚えているのが、「仙台に出張に行った時、なぜ、キャベツの値段が、日本全国値段が違うのに、同じメーカー、同じ品番の洋服の値段が、全国同じ値段か?このことについて、お客様に聴かれ答えられなかった自分が、情けないと思いましたが、羽富 正三さんは、どう思われますか?」と聴いたのです。それは、昭和60年の秋か?昭和61年の春だったと記憶していますが、何せ、28年以上前の話しです。時期は、定かでは、ありません。でも、今でも、その光景は、覚えています。「そうですか~、凄い体験をされたのですね。あなたのような真剣に考える人が、是非わが社で欲しい。実は、わが社は、将来、あなたが悩んでいることを解決したい店の品揃えを強化していきたい。私も、あなたと同じ考えです。洋服の値段が、何故、全国共通の値段が不思議だ。メーカーで決めた価格ではなく、本当に、本当に、本当に同業他社とは、価値が違う満足価格を推進する店作りを将来考えている。オリジナル商品の開発も、考えている。でも、わが社には、まだそのノウハウが無い。是非、力を貸して欲しい。」と言われたのを覚えています。私は、悩みました。悩みました。悩みました。この社長故正三が、将来の私に義父になるとは、夢にも、思いませんでした。今、転職を考えている人たちに言いたいです。今勤めている会社の悪口を言うような人は、転職しても、成功の確率は、低いと思います。でも、長く同じ会社にいれば、良いという意味ではありません。もう、会社に、ぶら下がる考えや、現状維持や、休まず、遅れず、・・・このような考えは、通用はしないと思います。もし、自分(あなた)が、社長としたら、今の自分(あなた)を採用しますか?自分で、採点してみろ。・・と東京スタイルの磯貝常務取締役(当時)によく、言われました。いつまでも、会社にぶら下がるな。定年まで、いようと思うな。自分をもっと、高く売れ。故高野義雄社長にも、新入社員時代に、よく言われた言葉です。また、東京スタイルの入社式に、「いいですか?みなさんは、一部上場の会社に入社された。でも、最初は、この会社も、小さかった。この会社を、無借金経営の会社にした。・・・と故高野 義雄社長様から聞きました。私は、先代の社長の住本さんとは、姻戚関係ではない。お前達も、社長を狙(ねら)え。」とも言われました。当時、まだ一人も、東京スタイルには、定年退職者は、いませんでした。それぐらい、厳しい会社でした。給料日を忘れるくらい働きました。私だけではありません。ほとんどの同期の営業マンが、給料日の明細をもらって「あっ~、今日 給料日だ。」と言って、みんなで、笑ったものでした。営業マン(大学卒)が、72名入社。1年間に、同期の新入社員が、3分の1辞めました。3年間で、半分以上辞めました。そして、お世話になって、5年半。東京スタイルを退職しました。昭和62年8月末に、有給休暇(40日)と振休残も、要らない。・・・・と思って、円満退職しました。10月2日に亡父親の法事を終えて、10月3日に、軽自動車に乗って、名古屋を朝4時ごろに出て、茨城県の水海道に、引越ししてきました。ロコレディという会社に入門することになり、商売の基本を故羽富 正三から教わることになったのです。小売業の世界に飛び込んだのです。もちろん、毎日が、失敗の連続。悩みました。苦しみました。でも、自分で決断したので、後悔は、しませんでした。でも、3回も退職届(ロコレディ)を書いて、涙を流しながら、当時の社長故羽富 正三の前で、破りました。もちろん、独身時代の出来事です。悩みました。親戚も知人もいない。仕事が、うまくいかない。独身の私です。昔付き合っていた彼女からも、電話がありました。でも、「また、会いたい。」と言われましたが、丁重に、丁重に、断りました。なぜか?今の自分自身に、自信が、持てなかったからです。でも、創業者故羽富 正三は、いつも、いつも、親切に丁寧に応対してくれました。決死、甘い言葉は、ありません。親切でしたが、商売には、厳しい人でした。この私が、後継者になるとは、夢にも思っていませんでした。姻戚関係でもないのに、本当に、本当に、本当に、わたしのことを氣にかけてくれました。そして、ある日「商売が、好きか?」と聞かれて、「好きです。」と答えたら、「後継者として、やってくれないか?」と言われました。
2024.08.14
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私は、仕事で悩んだんだら、上司に聴くのではなく、女性に聴くべきだと確信しています。上司の男性より、部下であっても、母親であっても、女性に聴くべきだと考えています。まず、人間関係に悩んだら、宇宙人(かぶき者)に。近くに、宇宙人(かぶき者)がいなければ、女性です、女性に聴くのです。年代を変えたり、異業種の女性に何度も質問します。数年前に。あるショッピング・センターに出店している化粧品屋さんのオーナーの奥さんに声をかけました。もちろん、ビュティーレディー(化粧品アドバイザー)さんにも声をかけます。わたしが言います。「すいません、教えて頂きたいのですが、今、ディスカウトショップが、この同じショッピング・センターにもありますが、同じ化粧品が、値段が違って、クレームになりませんか?」と聴いたら、その奥さんが、ニッコリ笑いながら、「はとみさん、それは、よくありますよ。あちらは、20%引き。こちらは、定価のまま。どうぞ、あちらで、お買い上げください。・・・とお客様に言います。こちらは、専門のアドバイザーの女性もいますし、アフターフォローは、オーナーである私が、責任をもって行いますからね。・・・と言います。」と教えてくれました。その女性オーナーは、さらに「無理に値段をライバル店に合わせようとするから、問題がおきる。私は、従業員にも、自分の扱っている商品に自信をもて。同じ商品でも、こちらの方が、売れるハズだ。値段ではない、モノを売ろうとするから、値段の競争になる。お客様の立場で、お客様の言葉でしゃべる。そろそろ、基礎化粧品がなくなる時に、お手紙を書いたり、お電話をする。しかもね~、これだけは、はとみさんでも言いたくないけど、言っちゃうね。いいですか、はとみさん。お客さまひとり、ひとりにあった接待をするし、アプローチをします。どうやって、みつけたか?はとみさん、いつも嫌な質問しますね~。でも、答えちゃうね~。できるだけ、お客さまの肌にさわるのですよ。スキンシップして、そのお客様の生活様式を知るのですよ。後は、カンですよ。このカンが良く働くのですよ。」とツバを飛ばしながら、教えてくれました。「肌に触る」この行為が、人間関係を良くする行為とは、・・・参考になります。「肌に触って、カンを磨く」これこれ、コレなんですよ。男性である私は、出来るだけ、出会った人とは、握手します。死んだオヤジも、よく握手していました。少し、目が熱くなってきました。オヤジが、やっていたさりげないしぐさが、今、この私が、知ろうとは、・・・・・・。すいません、涙が出てきました。人との出会いは、まず握手から始まる。・・・そんな言葉を死んだオヤジから、よく聴きました。お礼を言って、その奥さんとの快輪(かいわ)は、終わりました。どうですか?それとね~、異業種のある社長様が教えてくれました。「同業者とは、ボクは、あまりしゃべらないね~。グチが出やすい。お陰様で、経常利益で、12%以上利益がでています。」と50歳代半ばの男性が教えてくれます。「どうして、そんなに利益が出るのですか???」と質問をします。すると、「はとみさん~、ボクは、コインランドリーと、洗車場を経営している。 掃除は、もちろん綺麗にする。それとね~、本当は教えたくないんだよ~。でも、はとみさんだから教えてあげるね~。ノートを1冊用意して、そのノートを情報誌代わりになっているんです。犬の欲しい方いませんか???とか、ピアノを教えます。とか、リフォームしますよ。とか、このコインランドリーを使う人たちの共通の話題を作っています。」と教えてくれました。 コミニティーを作っているんです。この男性は、ご来店された方に、家庭で作っている野菜をプレゼントしたり、子育てに悩んでいる若い女性に、子育てのアドバイスをしたり、交通事故で、悩んでいる人には、弁護士を紹介したり、会社経営で悩んでいる人には、税理士を紹介したり、コインランドリーと、洗車場が、コミニテイーの場となっているのです。早速、現場へ見に行きます。すると、空手道場のポスターが貼ってありました。胴衣を洗いに来る人たちが、2,3人のお母さんたちが、遠征の打ち合せをしていました。「はとみさん~、女性の意見に耳を傾ける。その意見の場を男性であるオレたちが作るべきだよ。」と教えてくれます。すると、ある女性が、この経営者の男性に声をかけます。「冷蔵庫が壊れてしまった~。すぐ修理にくる電気屋さんを紹介して~???」と耳にすると、その男性が、携帯電話で、連絡をとって、「2,3時間後に、お宅へ訪問するって、言われました。」と頭を下げながら、お礼を言っていました。もちろん、その男性は、手数料をとりません。どうやら、コミニテイーの基礎は、男性が作り、運用は、女性。・・・・・これが、良いみたいですね。
2024.08.03
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心の迷いを吹っ切るために参禅にいった飛雄馬。しかし、そこでも何度も打ち据えられ、恥をかかされる。その時、どうにでもしろと開き直ったのだ。「ほほう! どうしたかげんかのお若い人。全然、打たれんようになんなすった・・・いい姿勢になられた・・・怪我の功名らしいがの」「ひどく短気と見え、禅坊主の言葉に腹を立て、打つなら打てと五体の力を抜いたとき、いい姿勢ができとった・・・」 「打たれまい、打たれまいと凝り固まった姿勢ほどもろいものはない。打たれて結構、いやもう一歩進んで打ってもらおう。この心境を得たとき難しく禅などといわんでも、悩み苦しむ人生の森の迷路に自ずと道も開けると思うのじゃが、いかがかのう」私は、この漫画から、気づきを頂く。星 飛雄馬は、体重が軽い。よって、球が、軽いという欠点を持っていた。「球質が軽い。ならば、それを活かすには、????????」商いにも、通じる部分があります。
2024.07.27
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夢を観ました。子どもの頃の夢です。駄菓子屋さんには、夢があった。 申し訳ない気持ちが、今蘇ります。・・・・・・・・・・・・・・ 以前にも、書きましたが 再度、落ち着いて、落ち着いて、 想い出しながら、書きたいと思います。 私の生まれは、名古屋市内です。 私は、男三人兄弟の次男坊です。 私が、小学生時代の話しです。 兄とは、1つ違い。 弟とは、4つ違います。 確か、小学二年生ごろだったか? 三年生だったか? 想い出せませんが、そんな頃 だったと記憶しています。 近くに、近くに、 駄菓子屋さんがありました。「榊原-さかきばら」さんというおばちゃんが、 お店を経営していました。 お好み焼きと、駄菓子屋さんの2つを経営していました。 坪数は、6坪ぐらいでしょうか? 3坪ぐらいでしょうか? 子どもの頃の記憶ですので、 もう記憶にないぐらいです。 いつも、いつも、クジを引いたり、 アイスクリームも買って、 兄と、弟と良く出かけていました。 歩いて、歩いて、 子どもの足ですから、3分ぐらいかかるでしょうか? いや、5分かかるでしょうか? 歩いて、あるいて、通っていました。いつも、いつも、 「ホームランバー」というアイスを買っていました。 確か~、10円だったと記憶しています。 棒に、「ヒット」とか、「ホームラン」と刻印されていたかと 思います。 何回、買っても、何回かっても、 「はずれ」 という刻印が、してあります。 ある暑い日、 子どもの浅知恵でしょうか? そうか、 自分で、「ホームラン」と描けば、当たりになる。 ・・・・・・・と考えたのです。 ズボンに、ペンを隠して、 ペンで。そして、持っていたペンを取り出して、 草むらに隠れて、「ホームラン」と描いたのです。 そして、お店のおばちゃんに 「おばちゃん、当たったよ~」と叫んで 「としちゃん、おめでとう~」と言ってくれました。 「ハイ、どうぞ」とニッコリ笑ってくれました。 慌てて、慌てて、お店を飛び出して、 アイスを食べました。 美味しかった。 美味しかった。 1日に2個アイス 食べることは、母親からは、怒られるので、 その棒は、草むらに捨てました。 すると、どうでしたことでしょうか?????? 腹が、急に痛くなったのです。 そうです。 腹が冷えて、おなかを壊してしまったのです。 昭和の時代です。 昭和40年代前半の話しです。 悪いことをした。 申し訳なかった。 そんなことを反省しながらも、 月日が、過ぎていきました。 心の優しいおばちゃんでした。 今でも、涙が出てきます。 こうやって、書きながらも、涙が出てきます。 そのおばちゃんが、亡くなったことを 母親から、聞かされた。 私が、成人した後に、亡くなった。 仏壇に、「おばちゃん、ゴメンネ。おばちゃんゴメンネ。」と 謝りながら、手を合わせました。 すると、 家族の方から、 「あのね、うちのばーちゃんは、としちゃんのことが、好きだったようですよ。 としちゃんが、将来、喫茶店を経営するから おばちゃん、その時は、ご馳走するね。 長生きしてね。 そんな優しいことを言うとしちゃんが、好きだよ。」と 教えてくれました。 もう、涙でした。 そして、 「あの子は、将来、社長になるよ。きっと将来社長になるよ。」とも 言っていました。 もう、ごめんなさい。 文章が、書けません。 街のこどもが、はやく大人になりたい。 ・・・・・・という社会にしたいです。
2024.07.26
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昭和57年から昭和62年まで、アパレルメーカーにいました。百貨店業界のことも、当時からおかしな、おかしな、理不尽なことだらけでした。アパレル興亡(作家 黒木亮氏)にも、書かれています。外商値引きをどうして、メーカー負担なのか?セールのチラシを勝手に、写真撮りする。チラシ協賛金を勝手に請求する。もう、これだけではありません。数々の理不尽なことが、ありました。「メーカーをバカにする大手百貨店」こんなの商売ではない。そして、小売業に転職して理不尽なことを止めて、直接お客様のニーズにこたえる商いをしたいと考えるようになりました。羽富 正三との出会いが私の人生を変えました。「茨城県に来ないか? 君を採用したい。」と何度も、何度も、言われました。約1年半悩んだ結果、お世話になることを決意しました。商いの基本を徹底的に教わりました。厳しい創業者故羽富 正三でした。1つ1つ、教ええくれました。まず、褒められることは、なかった。まだまだ、商売人ではない。ある日、土浦市大和町にあるウララ(イトーヨカード)の施設内のトイレで、「オシッコから、血が出てきました。」と電話で報告すると「そうか、としあき。 これで、オマエも商売人になったなぁ~。 すぐ、病院へ行け」と言われました。約2週間 入院しました。過労で、点滴を3日間打つ状態でした。復帰すると、すぐに、関西方面に出張に行くことになりました。百貨店とアパレル業界が疲弊しているのは、共通項があります。それは、それは、「業界の意味不明な常識ばかり」華やかな業界の裏側は、ドロドロ状態が、日常茶飯事でした。今は、だいぶ改善されたかと思います。支払いは、悪い百貨店が多かった。松坂屋、西武、そごうは、特に支払いが悪かった。バイヤーの高飛車の態度。でも、東北関係の百貨店や、量販系のチェーン店舗のバイヤーさんは、人として接してくれました。特に、西友グル^プ、先代藤崎百貨店、山形の大沼百貨店、平塚の梅屋十字屋グループさんなどなど。感謝の気持ちで一杯です。懐かしい想い出ばかりです。
2024.07.16
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アパレル興亡の作家 黒木亮氏が 「誠実さが無ければ、会社は、生き残れない。」・・・と語っております。 約60人に取材。 其のうちの1人が、この私です。羽富 都史彰です。 本の中では、 堀川利幸という名前で、登場しております。 この人物には、4,5人のエピソードを一人の人物にまとめている。・・・と解説しております。私の体験や情報が投影されています。 村上ファンド事件では、「東京スタイル株事件」として、マスコミに数多く取り上げられた。この時は、もうロコレディに入社していた。いたたまれない気持ちで、 東京スタイル東京・四谷の本社にFAXを 高野義雄社長に送った。 もちろん、返事なんか期待は、していない。なぜか、なぜか、手紙を書こうと思った。 自然に手が動いた。もちろん、創業者羽富 正三にも、報告した。「そうか、としあき。感謝の気持ちを持つことは、素晴らしいことだよ。」と言われた。 東京スタイルで、数々の学びを得た。 感謝の気持ちでいっぱいです。 営業マンとして、色々な体験をしました。 色々な気づきを頂きました。東京スタイルの社風は、軍隊のような 上下関係が、厳しい社風でした。ドンドン、人は退職していく。退職を見込んで、採用人数を拡大していたようです。私が、入社した時は、酒井取締役人事部長さんでした。それは、それでよかったが、 やはり、やはり、やさしさも大切かと思いました。 嘘をついて、「名古屋に帰って、名古屋の会社に勤める。」と言って 退職した。ロコレディに入社して、 12月30日に、当時の上司木村係長から、 電話をもらった。 涙を流し、涙を流し、 「ウソをついて申し訳ない。」と謝りました。 「もう、終わったことだ。何とも、思っていないよ。 飯でも、一緒に食べよう。」と言われて涙があふれて、あふれて・・・・・。 そして、東京スタイルがTSIホールディングスになった。 そして、東京スタイルは、休眠会社になった。自己資本比率75%。経常利益率10%以上あったが、サンエーインターナショナルに全て持って行かれてしまった。 まとめ 心の経営の時代が、到来です。#東京スタイル#ロコレディ#磯貝勝#羽富 都史彰
2024.06.18
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やはり、年配者は、色々な経験をしています。その経験が、マイナスだと思いません。経験から、身に付けた気づきや、技法も沢山あります。創業者からの教えを参考に描きますね。「創業者の話しは、よく聴け?????」 会長故正三(しょうぞう)と車に、乗って市場をリサーチした時の話しです。もう、15年以上?20年になりますかね~。 「いいか、最低20回は、攻める市場(出店場所)に出かけよ。 よく観察しろ。」と、教えてくれた。 そして、昼時にあるレストランで、食事をした。 「会長、ナニにしますか?」 「エビチリ焼飯にする」と会長が言います。 そして、配膳されると、ウェイトレスさんに向かって 「エビが、サンプルより少ないですね」「サンプルには、4匹エビが、乗っているよ。」と。丁重に言います。 と会長が、言うと「サンプルですから。」と女性スタッフさんが。 「ウソはダメだよー。だったら,サンプルです。」と記載するべきだよー。 優しい言い方で対応された。 義父であったが、 いつも鋭い解説をして商いの道を教えてくださった。 感謝の気持ちでいっぱいです。 そうか、ココでも勉強になる。 会長が、大きな目で、キラリと光る眼差しで、 「いいか、としあき。自分が考えていること と違った場合 普通、怒ったような顔になる。 逆なんだよ。 優しい顔で、言うのだよ。 物静かな言い方するんだ。 じぶんが勘違いということもあるからな。 そのように、対応しながら、自分を鍛えるのだヨ。」 と子供を諭すような 言い方をする。 血のつながりのない親子関係であっても、愛情を注ぎながら、 心の経営を教えてくれる。 先日も、私ごとでありますが、興奮して、顔色を変えたつもりでは、なかったが ある人を誤解させてしまいました。 「静かな言い方で、しゃべれば、 しゃべるほど、相手に効く。 興奮したり、感情でしゃべれば、 自分の負け」 「大手企業は、看板があるから、殿様商売すれば良い。 中小零細企業は、相手を優しく包む感じで、打ち合わせするのだぞ。」 「電話で、商談はするな。誤解の原因になる。」 本当に、勉強になった。 そして、すぐに、実践するよう努力する。 「いいか、としあき~。 心の経営が、あってはじめて、テクニック論が通用する。 いきなり、効率とか、テクニックで 商売をしようとすると、 一時的に成功したように見えるが 長くて3年であろう。 なぜこの年寄りのオレ、84歳が わかるか? それはな~、自分でもそうやって 失敗したからだよ。」 私は、黙って運転するのみでした。 「いいか、もう一度、言うぞ。としあきの目的は、何だ? それはな~、会社を安定させることでは、ないか~。 全社員が、後1分、後1枚、後1コ、後1つ。 経理は、後1枚仕分け伝票を書く。 どうしたら、後1円経費が浮くか?社員が、後1分(ぷん)。 会社がどうしたら、よくなるか? 考える。営業担当は、後1人に声をかけよう。後1枚お勧めしよう。 その考えを付けさせる環境は、社長自らの仕事である。」 眼に涙が溜まり、運転しづらくなりましたが、黙ってうなづく私でした。 「心の経営にマニュアルはない。すべて、素直に勉強。そして、経験のみである。」と故会長正三は言って、 また一言付け加えて、 「常に、どうしたら、出来るか? これを考えろ。何故失敗したか これも大切だが、 どうしたら、もっとよかったか? モット、良い方法は なかったか? この方が、もっと大切である。」 と指導してくれました。
2024.06.14
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異業種さまの経営者様から、アドバイスを頂きました。反省から、気づきを頂く。失敗や、過ちから、数多くのヒントを頂く。9勝6敗の経営。6敗の負けから、次の勝ち(価値)のヒントがあります。深く、考える。創業者故羽富 正三から「いいか、としあき。 考え、考え、考え抜くことだ。」「そして、悩んだら、他人の頭脳を使え。」まだまだ修行の身だと感じました。会社経営は、先輩社長さまより、9勝6敗の考えが、大切だよ。失敗を1つ1つつぶしていくことだよ。
2024.06.12
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私は、大学生時代に就職先に、アパレル業界は 全く考えていなかった。将来、新聞記者になろうと思った。 だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。でも、新聞配達をして、新聞業界の裏を知った。丁度その時に、読売巨人ジャイアンツ江川選手の空白の一日事件があった。各社の新聞記事は、江川選手を大げさに記事にした。新聞も良く売れた。ペンの怖さを学んだ。母方のじぃさんからは「新聞記者になったら、出入り禁止だ。」と脅された。明治生まれのじぃさんには、頭が上がらない。(父親が、ガンで亡くなった。経済的な応援が、少しは、あったからです。)話しを戻します。毎朝、3時半起床。 配達所から、大学まで、1時間15分。30分早くおきなければ、ならいない。夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。昭和53年の10月末に ばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に 夜7時ごろだったと記憶している。 「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。 手術が成功しても、3年か生きられない。あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、もう手遅れのなのよ。」と言われた。 11月頭に手術。 その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。新聞配達の所長に 嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。 そんな労働条件の当時でした。 「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省を言うと 甘い。」と言われながらも、懇願しました。 次の日の15時ごろには、もう 配達所にいました。(川崎市多摩区 JR稲田堤駅付近) そして、昭和58年からは、 東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。 3年間、頂きました。 大学3年生の時です。 父親を昭和55年10月に亡くしました。就職の件では、悩みました。 担当ゼミの先生にも、相談しました。 そして、 東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。 「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、 アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い? そんなことは無い。アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。 東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、 お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、 名古屋支店のある会社が、第一希望でした。 就職の件で、 名古屋に帰省しました。 長男である兄貴に、 「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟3人で、お母さんを助けよう~」と言われました。 次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。 そして、戻って 就職課に出向きました。 「長岡さん、私は、父親を大学3年生で亡くしています。名古屋支店のある会社 三陽商会が第一希望です。」と伝えました。 昭和56年8月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。 「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。 本面接の為に、就職解禁日の10月1日を迎えることになりました。 晴天でした。朝5時に起床。 小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。 日経新聞をもって、並びました。 そして、昭和56年10月1日の朝7時に、到着。 東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。 もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、8月末には、会社訪問をしていました。 結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。 電報が、届かなかったのです。( 当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。) あとから、判明しました。(もう、頭にきました。) 合格の自信はあった。 なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。 就職課の長岡さんが、三陽商会人事部に電話すると 「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。 営業マン希望300人から、100人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。 電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。電電公社に言ってください。」と。 涙を流しました。 薄電球のアパートに帰りました。 泣き崩れました。 亡き父親の遺影を観ると 「笑っている父親になっていたのです。」 そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。) 頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。 「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。 その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、1人だけで、受けました。 気持ちの無い第二次面接でした。 「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」 ライバルは、三陽商会だ。 今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。東京スタイルに絶対受かってみせる。 三陽商会の第2次面接(電報で、指定されていた10月5日)の日程では、 東京スタイルの第2次面接を受けていました。 会社説明会は、約1,500人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者) 第2次面接を終えて、第3次面接では 営業部門だけで、350人でした。 役員面接でした。 高野社長から、質問をうけました。 「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」 「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」 この3つを聞かれました。 「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。 入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。 嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、 父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。 勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。 ファッションについては、一切言いませんでした。 わかるはずは無い。興味が無いアパレル業界ですからね~(苦笑い) ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。 見事に、私は採用が決まりました。(営業マン71人の採用です。) 昭和56年年末に 名古屋に帰省すると 長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、 殴りかかってきました。 「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして 第一次面接合格していたんだよ。 合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。 母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。 亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。 そして、昭和57年4月1日に 東京スタイル本社勤務になりました。 寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、 軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。 月末の2日間は、会社で、寝泊りが当たり前。 売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。 月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。 「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。 「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても 「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。 ラルフローレン事件は、 3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ) 3階は、百貨店第2部のフロアーでした。 「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」 と高野社長から発言がありました。昭和60年の3月から、小売業の転職を考えていました。 「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。 すると、 セゾングループのバイヤーさんから 「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と 言われました。 「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。 つくば万博の時です。 約20回の面接・面談を繰り返しました。 昭和62年10月に入社しました。 そして、平成元年5月に 結婚しました。 養子縁組です。 人生は、塞翁が馬ですね。
2024.06.10
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ロコレディは、2024年4がつから、婦人服ブティックチェーンと名乗っていません。地代の流れで、専門店向けアパレルブランドの統廃合が進んでいます。主要取引先さまとこの3年間試行錯誤しながら、打ち合わせを何度も、何度も、繰り返してきました。よって、ビューティーアパレルエステ事業と名乗るようにしました。トータル的な美を提案することが、本当の美ではないか?それと、他人と比べるのではなく、昨日の自分自身を返信することを目的とします。美と健康と食の文化を育むロコレディを一歩、一歩前に進んでいきます。現在は、アパレル店舗は、2店舗キッチンカー、ケフェイベントを主体とした事業は、3つ。そして、温熱療法を含んだエステ事業にも、取り組んでいます。#ロコレディ新事業#トータルビューティーの世界#伎芸(ぎげい)の世界#新事業の立ち上げオーダー・メイド型雇用人事制度を開発し、茨城県内に9店舗を展開しています。この制度は、女性スタッフの心理や働く環境を研究し、失敗を重ねながら練り上げたもので、女性が長く勤めてもらえる仕組みとなっていますまた、高齢者を活用し、会社の経営を安定させることにも力を入れており74歳の最高齢者も社内にいます
2024.06.09
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大学の無返済奨学金制度を受けようとしました。もちろん、不合格でした。奨学金の説明会には、2,000人???全く、記憶がありませんが、最終書類提出は、700人を超えていたかと思います。45年も前の話しです。記憶が定かではありません。不合格。父親の命が、3年持たない。ガンで、あと3年弱の命。授業料が払えなくなる。1年契約の新聞配達勤労奨学金を延長するか?・・・とも、考えました。すると、何と補欠合格になったのです。「君の熱心さには、負けたよ~」「これからは、しっかり勉強するだよ。」と学生課の職員さんに言われました。30人の採用で、一人が辞退したので繰り上げ合格になったようです。毎月、2万円3年間 大学から、奨学金を頂きました。新聞配達の経験が、今でも、生きています。
2024.06.04
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あら〜、はとみさん。とかお久しぶり。とか私のこと覚えていますか?などなどのお声かけが多くなってきました。ありがとうございます。常に考えている。これを繰り返して下さい。ーと75才の社長様からご指導を頂いています。接する時にこの人と親戚なような間柄になりたい。ーと考えて接しています。
2024.05.26
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百貨店業界が、疲弊している。なぜか?それは、百貨店に勤務している人より出入りしている業者の営業マンさんや、配達人さんに聞くとよくわかるかと思います。100%ではありませんが、特に大手の百貨店の仕入れ担当者(バイヤー)は、横柄な人が多かった。お中元、お歳暮などなど。付け届けが頻繁だったです。三越のバイヤーを3年やると、蔵が建つ。・・・と当時言われていました。当時は、三越の社長は、岡田さんだったと記憶しています。アパレル興亡では、力のある百貨店と地方の百貨店の力の違いが、載っています。堀川利幸さんという人は、都内伊勢丹本店(新宿)担当。でも、場面を変えると地方百貨店にも、受け止められる場面が出てきます。「おい、トシ坊。 商品を抜け。 売れ筋の商品だ。 スグ、、抜いて商品を担当百貨店に納品する。」この場面は、私も今でも、鮮明に画面で頭の中に残っています。ぜひ、ぜひご一読してください。色々な人になった気分で、読み返すと商いのヒントが見えてくるかと思います。堀川利幸(アパレル興亡)登場人物にフォーカスしてきてください。
2024.05.25
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5月21日に集英社文庫本アパレル興亡上下の2冊が発売される。
2024.05.21
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私は、昭和57年4月~昭和62年8月末まで、東証一部上場「東京スタイル」で、お世話になりました、とても、厳しい会社でした。平気で、ビンタで殴る。そんな会社でした。今は、アウトですね。パワハラもありました。当時の社長高野義雄氏には、大変お世話になりました。私の直接の上司は、常務取締役磯貝 勝氏でした。退職する時に「オマエは、乳酸菌でもあり、ばい菌でもある。」「いいか、乳酸菌になるように、働けよ。 そして、転職して 上場したら、俺をパーティーに招待してくれ。」と退職日の最後の日。8月31日に言われました。退職理由は、生まれ故郷である名古屋に帰省して、名古屋の会社に勤める。出来れば、一宮市にあった東京テキスタイルと言う子会社に転籍を希望していましたが、それが、通らず、転職する。そんなストリーでした。でも、本当は、昭和60年の秋ごろに茨城県にあるロコレディという会社から、お声がかかったのです。約20回面接、面談が故羽富 正三(ロコレディ創業者)から声掛けがありました。私の将来の義父になるとは、夢にも思いませんでした。月日が流れ、その後東京スタイル事件がありました。マスコミも、騒ぎました。村上ファンドから、猛烈に叩かれたのです。当時は、もうすでに私は、妻と結婚して、婿養子になっていました。東京スタイルの本社に手紙を書いてFAXを流しました。その前には磯貝勝常務取締役にハガキも書きました。もちろん、返事など期待していませんでした。言いたいことも、たくさんありましたが、封印していました。するとある日突然企業作家黒木亮氏から、メールが届いたのです。会いたいです。ぜひ、取材に・・・・・・・。ここから、先は、本をお読みくださいませ。伊勢丹本店担当の同期も、紹介しました。私の投影が、ビンタで殴られた。売れ筋の商品を地方のデパートに納品。ラルフローレン事件の部分などなどです。東京スタイルの創業者住本保吉氏がごはんに味噌汁をかける部分は、私の先輩から聞いた話しを情報として提供しました。時代背景や、登場人物に成り代わってぜひぜひ、お読みくださいませ。堀川利幸は、4人の情報を基に、登場しているようです。https://www.ibaraki-gyosei.or.jp/kouhou/pdf/250/09sinkijuku.pdf
2024.05.20
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技芸ではない。伎芸(ぎげい)なのです。にんべんです。人の心を大切にする芸能の技術です。あえて、にんべんの方を使用します。妓芸もかんがえましたが、「人の心:を大切にする日本の伝統歴史を大切にしながら、守破離の考えを基礎にしています。チャットGPTより伎芸(ぎげい)は、歌舞や音曲などの芸能に関する技術や、それに関連する技のことを指します。具体的には、舞台芸術や演劇、音楽などのパフォーマンスにおける技巧や表現方法を意味する言葉です。また、「伎芸」は美術や工芸などの技術を含む広い意味で使われることもありますが、一般的には芸能の技術を指すことが多いです。日本の伝統文化においては、能や歌舞伎、日本舞踊などの伝統的な芸能における技術や表現を「伎芸」と呼ぶことがあります。この言葉は、技術や芸術性を高め、観客を魅了するための熟練した技や表現を重視する日本の文化の精神を反映しています。伎芸は、単に技術的な能力だけでなく、芸術作品としての美しさや感動を伝えるための芸術家の創造性や感性も含んでいると言えるでしょう。接遇は、ふるまいを基礎してアレンジして伎芸とし、芸術と考えました。この接遇や、おもてなしの基礎を踏まえたのが、伎芸(ぎげい)型パフォーマンスと考えました。
2024.05.17
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ご縁を大切にしています。数多くの失敗や、気づきで自分の行動を見直しています。何事も、前向きにプラス発想、肯定的に考えるようにしています。一期一会の心です。胡散臭い人をすぐに見分けるコツも見えてきました。60歳も半ばです。経験も成功体験より失敗した出来事にフォーカスしています。成功体験は、時間とともに、賞味期限が切れてきます。感じよく、感じよく年齢を重ねていきます。
2024.05.16
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過去の経験が、邪魔する???実は、成功体験が、邪魔して、失敗体験が、活かされる。・・・と考えています。特に、50才を越えてくると、30才代とか、40才代で失敗したことが、活かされるようになってきました。がむしゃらに、がむしゃらに働いて、失敗したことが、後から活きてくる。本当に、50才代を越えて気づくことが、たくさん出てきました。そして、60才代半ばにして「そうか、そうだったのか~」とわかることが、多くなってきました。亀の甲より年の劫。年齢を重ねるごとに、物事を深く判断することが、出来るようになってきました。65歳にもうすぐなります。70才代に向けて、この失敗体験を語る時期が来た。・・・・・・と感じるようになってきました。
2024.05.12
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数字を意識することで、ワクワクします。仮説を立てることで、どんな数字になるのか?予想します。私は、競輪、競馬は、やりませんが、競馬新聞を読んで、分析する感じでしょうか? 創業者 羽富 正三から、商売のイロハを教えて頂きました。私の義父です。昭和60年(1985年) つくば万博の年に、出愛(であい)がありました。その時は、私は、東京スタイルの営業マンとして、セゾングループを担当していました。 まったく、赤の他人でした。 ロコレディに入社して、 数字の読み方を教えて頂きました。販売枚数を意識するのか? それとも、販売金額で、判断するのか? それとも、もっと、もっと、奥の奥まで分析するクセを教えて頂きました。アパレル業界の方も、数多く私のブログ、FBを読んでおられます。 ある年の冬のコートの商戦の結果を報告したいと思います。 昨年の9月にいろいろなことが、ありましたが コートは、昨年より、販売点数は、増えました。 「えっ~、この暖冬でも、売れた?????」 詳しく描きますので、分析してください。 販売点数は、昨年の103%でした。 ただし、ウールコートは、昨年の60%以下です。 ダウンコートや、ベストコート、1枚仕立てにコートが、人気でした。 単価の安い商品が売れた????? いいえ、非ウール系が売れたのです。 ウールは、110センチ丈が、完売しましたが、クロ以外は、アウトでした。 ベストコートは、もう追加、追加、追加の状態でした。 冬物コート在庫コントロールも、早めに手を打ちました。 単価は、もちろんウールコートの方が、高額なので、一品単価は、下がりました。 でもね~、昨年コート販売高以上に販売したお店が2店舗ありました。 カシミヤーのロングニットコートも、人気があり、年内にすべて完売をしました。 もし、創業者 羽富 正三が生きていたら、このように言うでしょう~。 「いいか、としあき。よく聞けよ。 数字だけで、判断はするな。細かく分析をすることだよ。 世間では、コートが売れていないと言うが、本当にそうか? コートにも、たくさん種類がある。お客様が、お持ちでない、軽めの素材や、他のお店で、展開していないコートであれば、お客様が集まってくるんではないか? いいか、としあき。あまり 世間の売れ筋情報や、デマに騙されるな? 細かく、よく観ろ~」と言うと思います。 実は、小さいいサイズのコートは、ほぼ年内に完売していました。 他のお店で、展開していないサイズが売れたのです。 他は、他。 弊社は、弊社。 いよいよ、春から、夏物への切り替えです。 お客様、ありがとうございます。 参考になりますか?????
2024.05.07
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近頃、女性の活躍する場面がますます増えてきていることが、テレビなどで、紹介されています。 コレは、歓迎することでは、ありますが大事な部分をマスコミは、報道しません。先日も、夜、女性社長や、女性幹部の方が紹介されていましたが、 一方的な報道でありました。 放送時間内での決められた時間内では、仕方が無いかもしれません。いいですか?女性は、素晴らしくて、男性がダメというわけではないと思います。 女性の素晴らしい感性を活かしながら男性が、得意な場面を活かす。 あくまでも、あくまでもバランス良く。それが、基本です。そうなんですよ。適材適所では、ないでしょうか? ご質問のメールがきました。女性からです、「わたしは、はとみさんの逆で、男性が90%で、女性が、 少ない職場です。どうしたら、男性が女性であるわたしたちにもっと、もっと、仕事を与えてくれても、良いかと思いますが、いかがでしょうか?」なるほど~、そうですか?男性中心の会社ですか?どうでしょうか?あなたが、男性タイプになるのです。女性の特性を少し、抑えて、男性気質になったら、どうでしょうか?感情的に話すのではなく、理論的に、考え行動する。 女性の特性を少し、抑えて、男性気質になったら、どうでしょうか?感情的に話すのではなく、理論的に、考え行動する。 または、徹底的に、女性としての特技を活かし、本来の感性を前面に出して、行動したら、どうでしょうか?職場の女性は、比較的根回しが苦手です。 根回しというより、段取りでは、ないでしょうか? 会議の前に、段取りをして、事前に自分の意見を調整します。 段取りという言葉は、硬いです。わたしは、必要なことだと思います。事前の準備。すなわち、コンディシニングすなわち、準備体操なような感じです。表現を変えるなら、下準備ではないでしょうか?料理でいう「仕込み」ではないでしょうか?この仕込みを知るのに、結構時間が、かかりました。 会長故正三が言います。「いいか、としあき。下準備は、女性は、苦手真人が多い。でもなぁ~、このことを女性自身が気付いていない女性が多い。女性は、時々、横着をする。常識的なことにも、かかわらず、手を抜く。うちもばぁーさんも、そうだ。いいか、忘れるな。女性は、セクショナリズム(縄張り)を出す。その点を注意しないと、ドンドン自己中心で、仕事をしていく。防ぐ方法は、男性であるおまえが、常に状況を把握すること。」と以前教えてくれました。女性は、スグ偏ります。仕事熱心な女性ほど、バランスを崩します。では、男性はどうか?男性は、女性より、体裁(ていさい)を気にします。「格好」を気にします。わたしは、会社、会社によって、男性と、女性の比率は、違うと思いますが、本来男性がする仕事を女性に任せてみる。任せて、どうもうまくいかないなぁ~・・・と感じたら、男性に回す。女性がする仕事を男性がやってみる。・・・状況をみる。すべて、実践して、対策を立てる。わたしなんか、しょっちゅう、この繰り返しですよ。失敗も多い。でも、反省する。 「女性幹部が、言ってきても、改善する場合と、改善しない場合と両方あります。」女性である、あなたそう女社長であるあなたですよ。そして、女性幹部であるあなたですよ(幹部にならなければよかったとメールくれたあなたですよ)。なかなか、女性を幹部にしない会社で、幹部になるまで育ててくれた会社の社長様に感謝ではないでしょうか?やりましょう、そして、この会社に入ってよかった。また、この会社を作ってよかったといわれる時がくるまで、顔晴(がんば)れしましょう。職場の女性に私は、役職を付けるべきだと想います。 後継者の方や、現役の女性社長様は、是非、一緒になって、自分の目標に向かって、いきましょう。 参考になりますか???あくまでも、あくまでも、私が体験したことを描いていますので、他の人との見解と違う場合があります。あくまでも、あくまでも、参考程度に。
2024.05.04
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悩んでいる女性スタッフを源氣(げんき)にさせる方法とは???・・・・・このブログを書き始めたころから、女性相手の仕事をしてきた数多くの失敗を書き続けてきました。 その失敗から数多くの学びがありました。 どうも、女性とパートナーを組むとうまくいかない。 悩み、苦しみながら、どうしたら???・・・・・と毎日考えていました。 でも、ある日、突然見えてきたのです。 女性と接する時のポイントが。 もう、ビックリです。ゴルフのパットラインが、見えるように。自然に、日本語を覚えたように。 コツが見えるようになったのです。 じわっと~、じわっと~、心に感じてくると思います。 私は、男3人兄弟の次男坊。体育会系の家庭に育ち。 大学時代までは、女性とは、無縁。 就職先が、レデイースアパレルメーカー株式会社東京スタイル・・・ここが、また、体育会系の会社であった。 底から、私の苦悩が、はじまりました。 話しを戻します。 実は、先日、ある女性スタッフから、相談を受けました。「社長、少し、体の調子が良くないのです。以前は、仕事のストレスは、仕事で解決できたのですが、 どうも、人間関係や、売上げのことで、悩みが多くて?????」と相談を受けました。 私は、このように、アドバイスをしました。「なるほど~、そうか。あまり自分を痛めつけるな~。今の状態では、何をやっても、うまくいかないかもしれないなぁ~。まぁ、ゆっくりやれよ~、焦るなよ~。社長の私も、応援sるからね~。 心配するな! 病院へ行って、よ~く看て貰え。 時には、温泉でも、行って、気分転換してきなぁ~。誰でも、そういう時期はあるよ。 この私だって、あるよ。 でもね~、この時期を通り過ぎると、急に、また、成長がはじまるんだよ。・・・と先輩社長様に教えて頂きました。 顔晴(がんば)れしようよ。」と言うと、目の奥から、キラリと光る宝石が見えました。 私も、涙ぐみながら、アドバイスをしました。 ポイントは、プライベートな部分と仕事の部分を分けて、アドバイスするのではなく、うまく、ミックスしながら、相手に威圧感を与えずに、話しをもっていくと、女性は、落ち着くようです。 そして、もう一つアドバイスをしました。 「もし、気分を変えたかったら、今書いている字を変えてごらん。 いつも、何気なく書いている自分の字を変えることによってきっと、新しい自分に氣がつくよ。 晴れやかになるよ。」ともアドバイスしました。 参考になりますか???
2024.05.02
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アンテナを高くすることで、情報が入ってきます。俯瞰して、観るクセをつけます。「はとみさんは、風を起こそうとしていますね。」とよく言われます。常に、意識をするようにしていると、自然に身についてきます。赤ちゃんが、自然と言葉を覚えた感覚でしょうか?自然と、自然と、意識しなくても、情報が集まってくる仕組みが身についてきました。どうも、どうも、うまくいかない。どうも、どうも、うまくいかない。そういう場合が、どうするか?捨てる勇気です。この私も、なかなか捨てることが、できない場合が多いです。どうやって対応したら、良いか????????悩みことが、多いです。捨てる勇気です。考えて、考えて、考えまくる。そして、次の手を打つ。自然とアイデアが、浮かんでくる。自然と、知り合いたい人と会える。道順を変えて、訪問先を訪れる。思考を変えて、価値創造を考え直す。経営デザインシートに、何度も、何度も、描き直すことで、新たな気づきを得る。「系」にフォーカスする。そんな時代に備えるべき、対応を考える。アパレルとは、「美」であると考える。「美」から、健康につなげる。右脳で、ひらめきを意識するようにしています。
2024.04.26
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美磨女(びまじょ)のファッションショーを行ったことがあります・美を磨く女性のことです。 綺麗なお客様が、モデル?????? いいえ、気持ちが、美しくする時代になったのです。 異業種とのコラボで、実現しました。 スタッフたちのアイデアです。 何事も、トライアンドエラーです。 失敗ではなく、気づきを頂く。 お客様主体のファッションショーでした。すべて、手作りです。 反省もたくさんあります。お叱りのお言葉も頂戴しました。 オシャレを愉しむイベントも、そろそろ解禁ですね。 ありがとうございます、お客様。あくまでも、戸籍年齢は、参考程度ですね。
2024.04.23
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会社を経営していると、悩むことが、よくあります。どうしたら、良いか?夢の中でも、仕事をしていることがあります。常に、経営者は、非難されることもあります。でも、これは、素直を認めて、反省して次の対策を立てる。何度も、何度も、繰り返して対策を考える。悩むことを受け入れることが、まず、大切だと気づきを頂きました。問題を解決すること。それは、素直に受け入れることと気づかせてもらう。ありがとうございます。
2024.04.15
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4月8日は、お釈迦様の誕生日です。高校は、私立愛知高校の卒業生です。曹洞宗の高校でした。高校3年生の時に受験前に、「おい、トシ坊~。駒沢大学へ行け~。高校の先生になれ。 仏教の先生になれ~」と当時の佐藤先生に言われました。この先生のことは、大好きでした。応援団のメンバーになれ。高校2年生時に、言われました。サッカー部の監督からも、言われました。苦手な物理の先生でも、ありました。声は、当時から大きかったです。「サッカー部が、全国大会に出場時に~ 声が、かかりました。」今は、アウトですが、「物理のテスト10点+するぞ~」とサッカー部の監督が言っている。「トシ坊、応援団に。 そして、大学は、推薦で、駒沢大学へ」なぜなら、同じ曹洞宗の学校だからです。自分は、新聞記者になりたい夢が当時ありました。新聞配達をしながら、新聞業界の裏を知りたかった。毎朝3時30分起床です。そんな道を歩きたかったのです。もし、駒沢大学へ行っていたら、茨城県には、来ていません。名古屋市内の高校の教師をしていたかと思います。運命のわかれ道でした。高校受験は県立不合格でした。そして、大学も志望校ではなく、東海大学政治経済学部へ。そして、就職試験も不合格。株式会社東京スタイル。全く興味の無いアパレル業界へ。でも、真剣に仕事をしていると、面白くなってきました。特に週末の販売応援は、大好きでした。デパートに出向くと役員さん、幹部の部長クラスから「君~、こんどは、いつうちのデパートに来るのか?」と言われていました。販売応援は、大好きでした。呼び込みも、接客も独特の話術で販売応援していました。女性服(20才代~40歳代向け)の販売でした。同期の営業マンから「トシ坊は、小売店向きだぞ~」この言葉が、1つのきっかけでした。そして、昭和60年ごろから、転職を意識しはじめました。故羽富 正三との出会いがありました。すべて、お釈迦様のお導きだと感じるようになりました。
2024.04.08
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ロコレディは、昭和60年3月につくば市クレオ(筑波西武百貨店の専門店街)に出店をしました。昭和60年の秋ごろから、故羽富 正三とはじめて会って、土浦市西友と、つくば市西武百貨店で、何度も、何度も、会いました。20回位会ったでしょうか?猫背姿でした。故羽富 正三さんは、大正13年10月23日生まれです。何度も、丁重に入社しません。そんな 羽富 正三さんが、言うような男ではありません。出来の悪い男です。でも、熱心に、熱心に、茨城県に来いよ~。・・・と誘われていました。悩んで、悩んで見ず知らずの茨城県の小売業に転身しました。小売業の面白さを教えて頂きました。しかし、チェーンオペレーションの時代が、終焉することが、徐々に見えてきました。2004年3月には、そのクレオ専門街から退店をしてつくばララガーデンに、引越しして、オープンしました。また、そのお店を退店をして、イーアスつくばの商業施設(大和ハウス工業)に新規出店をしました。もう危険だ。危険だ。365日休み無し。21時、22時閉店の商業施設店舗は、危険だ。労務倒産になる可能性が大であると感じるようになりました。「もう、ダメだ。もう、ダメだ。 このまま行くと、会社はおかしくなる。」と判断していました。路面店に切りかえて10時15分~18時15分の営業時間にしました。3.11の震災に遭ってもう、限界を感じました。2004年3月つくば市にララガーデン(三井不動産)に出店した時も、悩んでいました。でも、悩みの深さは、まだ浅かった。でも、イーアスつくばに新規出店した時も、「このままでは、先行きが・・・・・・。と思いました。グランドオープン前のレセプションの席に参加していましたが、もう、不安で、不安で溜まりませんでした。「危険だ。危険だ。会社がおかしくなる。」と思うようになってきました。創業者 羽富正三とも、意見が合わなくなってきました。もう、これでは、スタッフたちに、限界も出てくる。でも、創業者との衝突が毎日のように続くようになりました。約4年間続きました。税理士の先生や、社労士の先生にも、中小企業診断士の先生にも何度も、何度も、相談しました。毎日が苦痛の連続でした。平成23年2月11日に創業者は亡くなりました。亡くなる数日前に「としあき~、後は頼むな~」と。「心配しないで下さいませ。商売を継続します。」と。そして、3月11日に震災の被害を受けました。そして、ショッピングセンターにあるお店全店を退店する。・・・・・・と決断をしました。4年半かかりました。災難にその後にも逢いました。常総市水海道宝町鬼怒川氾濫水害被害では、もう、頭が真っ白状態になりました。水海道本店、土浦店も、雨による被害。そして、次には2021年3月20日に、雨漏り水害被害の為、つくば店を閉店をしました。でも、当時の天皇皇后陛下様より、ご丁寧なお言葉を頂きました。そのパワーは、すごい力です。
2024.04.05
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お客様の声をかけるときに、どうもうまくいかない。・・・というわが社の女性スタッフがいました。その女性にアドバイスしたことを書きますね。書きながら、私にも、言えることなので、勉強のつもりで、書きます。時の話題、季節の話題をネタに、お客様と話しをするのです。 例として"時の話題"というものは、すでにお客様に注目されていますので、そこに便乗することで注目率をアップさせることも、話しの1つです。 「"毎年恒例"の何か」を話題にするというのも定番でしょうか??? 春ならば「お花見」だったり、ちょっとイヤですが「花粉症」などが"季節の話題"になるでしょうか。 夏は、花火とか、祇園祭とか、プールとか、秋は、紅葉とか、ダイエットとか、読書とか、 冬は、札幌雪祭りとか、風邪とか??? このように"季節の話題"というものは、春夏秋冬ごとにあります。 歌も、そうです、童謡をわが社では、使うこともあります。梅雨時であれば、「雨、アメ、降れ、降れ、かあさんが、蛇の目で、お迎えうれしいなぁ~、ピチ、ピチ、チャプ、チャプ、 ラン、ラン、ラン。・・・・・子供のころ、母親に、水溜りで、長クツをはいて、遊んでいたら、転んで、洋服が、ベチャ、ベチャになって怒られました。あなたも、こんな経験ありませんか?今、雨の日が、楽しくなる傘や、レイン・コートをご用意しております。」 そのような話題をあなたが言葉の中にも取り入れていくと、ひらめいてきます。 自分の子供のころの経験は、お客様も、経験しているのが、多いのです。 ここで気をつけなくていただきたいのは、『季節の話題を、"あいさつ"の中だけで完結させてしまわない』ということです。 文章でも、会話でも、同じことが言えます。----------------------------------------こんにちは。季節はもう梅雨に入りましたね。洗濯物が干せないこの時期、皆さんはどうしていらっしゃいますか?私はお風呂場の乾燥機を使っているのですが、イマイチ乾きが悪いんですよね。 そこで、新発売の乾燥機・・・部屋の中が、臭くならない。干さなくても、OK。こんな乾燥機が、今揃いましたよ。 小阪先生流に言うと「マスターになる。お客様に、新しい世界を紹介すること。」であります。 アパレル業界的に言えば、 冷房、冷房、朝から、冷房。夏こそ、体を冷やさない。・・・これが、健康の基ですね。こんな時に、もっていて便利な、涼しげな天然素材のジャケット。体感温度の調整に便利な肌に優しいのが、魅力です。---------------------------------------- 時の話題、季節の話題を取り上げる時には、必ず「本編にいかにつなげるか?」を考えての話し方や、DMの内容にしていきます。 どうしても、接客力の弱いスタッフは、話しで、終わってしまいます。 つなげるのです、つなげるのです。 ココが、ポイントなのです。
2024.04.02
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私は、昭和53年4月~昭和54年3月まで、川崎市多摩区の新聞配達所で 朝刊、夕刊、集金、新規開拓担当の勤労学生でした。 毎朝、3時30分起床 朝刊を配り終わるのが、6時30分 朝食を新聞配達所で、済ませてから、 自転車で、小田急線向ヶ丘遊園まで行き、 東海大学まで、通っていました。 夕刊も、配っていました。 翌朝のチラシの準備をし、夕飯も、販売所で 済ませて、銭湯へ行っていました。 唯一の楽しみが、お風呂上りのかき氷でした。 日曜日は、夕刊がなかったので、 夜新宿まで、出向いて 食べ放題の焼肉屋さんに、行ったものです。 仕事と学校の両立は、きつく、 学校の授業中は、寝ていたことも、多かったです。 父親が、ガンだと知らされたのが、昭和53年10月の末だったと記憶しています。 11月上旬に手術でした。 名古屋まで、新幹線で戻りました。 「なんだ~、としあき 帰ってきたのか? 胃潰瘍だよ。心配するなよ~」と父親に言われました。 当時は、ガンは、本人に言わないのが、当たり前だったです。 1日だけの休みで、スグに新聞配達所に 戻りました。 もう、父親は、生きられない。 大学の授業料も、・・・・・・・・・。 昭和55年10月2日に、父親は、亡くなりました。 本当に、新聞配達は、私の人生で 大きな大きな想い出のウエイトを占めています。 配達先では、いつも、果物や、お駄賃や、 野菜、お菓子などを頂きました。 新規開拓の 月別学生チャンピオンになったことも、あります。 2年生からは、デパートの清掃のアルバイトや、 都議会議員さんが、経営しているテニスクラブの清掃や、 事務所でのアルバイトを掛け持ちしながら、働いていました。 大学3年生からは、ゼミもあり、 荒木教授に、大変お世話になりました。 成績は、もちろん、ビリに近い状態でしたが、 大学には、真面目に行っていました。 だって、自分で稼いだお金。 そして、大学からは、3年間 無返済の奨学金を頂いていました。 本当に、勉強したいなら、いろいろな制度がある。 ・・・・・・と自分から、情報を探していました。 大学4年生の秋には、 就職探しで、いろいろな会社を訪問しました。 新聞記者になろうと思い、 産経新聞社をうけようと考えましたが、 就職課で、「こんな成績では、ダメだ。やめとけ」と言われました。 総合商社も、2,3社訪問しましたが、 すべて、書類選考で、不可でした。 アパレル業界を就職課で、勧められました。 「えっ~、このオレが、アパレル業界??????????」 「冗談でしょう~、真面目に言ってくださいよ。」と就職課の職員さんに、言いました。 名前を今でも、憶えています。 ながおかさんという男性職員さんです。 もう、頭がクラクラして就職課を出ました。 証券会社も紹介されましたが、 「株屋みたいなところに、勤めるなよ。 新聞記者 止めとけ。もっと、真面目な会社を選べ。」と亡くなったじぃ~さんに言われました。 昭和57年4月当初は、 アパレル業界には、 まったく興味が、無かった。 でも、やりながら、ドンドン面白くなってきた。 東証一部上場会社 「東京スタイル」 この会社で、営業のイロハを教えて頂いた。 新聞配達で、営業の面白さを知りました。 人が、寝ている時に、働いて、働いて、 生活費、授業料を稼ぐ。 働いて、働いて、働く。 サラリーマンになって、 休みたいとか、遊びたいとか 思わなかった。必死に働く。 怒鳴られ、ビンタで叩かれ、 これでもか、これでもかと働いた。 5年半、東京スタイルさんで、お世話になりました。 昭和62年の8月まで、お世話になりました。 心から、感謝しています。 人生ドラマのような故羽富 正三との出会いが、 昭和60年の秋にありました。 転職を意識はじめたのは、東京スタイル勤務3年後でした。 スーパーからも、アパレルメーカーからも、病院の事務局からも、 お声をかけて頂いた。 「転職するなよ。転職するなよ。」と親戚からは、言われていました。 でも、もう、次のステップに行きたかった。 昭和60年つくば万博の年に、 ロコレディさんという会社を知った。 羽富 正三・・・・私の義父になるとは、夢にも思わなかった。 商売とは? 小売業とは? 人間関係とは? 1つ、1つ丁寧に教えて下さりました。 平成元年5月に妻と結婚と同時に、 婿養子になる。 仕事の対する想いは、 すべて、新聞配達から学びました。 今でも、時々、新聞配達している 夢を観ます。 父親が ガンで 余命3年。 授業料を 稼ぐ為に, 新聞拡張の 営業活動もしていました。 「あなたから、新聞をとりたいのよ。 銘柄なんか、関係ない。 あなたが、配達する新聞を読みたいのよ。 がんばって、卒業するんだよ。 中退するんじゃないよ。」と読者の方々から、応援メッセージも頂きました。 子供たちから、「新聞配達のお兄ちゃん~、ジュース飲んで~」と。 これからも、お客様の心を大切にする商売をしていきます。
2024.03.31
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「店舗の空いたスペースでできるビジネスを探しに来ました」「付加価値をつける」お次は、茨城県でアパレル系の企業を経営するこちらの男性。フランチャイズ・ショーには数えきれないほど足を運んでいるということですが、どんなビジネスが気になっているのでしょうか。「レディースのブティックを運営しているのですが、ブティックの空いているスペースを利用して何かビジネスができないかと考えてフランチャイズ・ショーに来ました。どうせ家賃は払っているわけなので、そういったスペースにたとえばエステや脱毛などを併設することで付加価値をつけられたらいいですよね」ノウハウがなくてもスタートできるのがフランチャイズのメリットのひとつです。既存の事業に付加価値をつけるのはもちろん、それをフックに集客につなげたい人には参考になる考え方だと感じました。
2024.03.29
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当時の茨城新聞一面記事より。2014年4月13日(日) 常総・水海道の「宝来館」跡 40年ぶり蘇る銀幕 一夜限り上映会盛況 「懐かしい」市民ら釘付け 【写真説明】映画館跡地で開かれた一夜限りの上映会=常総市水海道宝町 かつて水海道市(現常総市)の中心市街地で栄えた映画館「宝来館」跡地で12日、一夜限りの上映会が行われた。昭和20〜40年代、大勢の家族連れや恋人たちが訪れた街のにぎわいの象徴。当時を知る市民は「懐かしい」「涙が出る」と話し、閉館から約40年ぶりに蘇っ( よみがえ )た銀幕に釘(くぎ)付けとなった。 「昭和浪漫 懐かシネマ」と銘打ち、昭和の大スター、美空ひばりさん主演の「千姫と秀頼」(1962年公開)を上映した。 会場となった駅前通り商店街の宝来館跡地駐車場は、市内外から訪れた観客で埋め尽くされ、道路に立ち見客が出る盛況ぶり。 午後6時半、上映が始まると、「待ってました」の声と拍手が起こり、観客はスクリーンに見入った。 同時上映は「伸びゆく水海道」。昭和30年代後半の水海道を記録した約20分のモノクロ映像だ。 旧市役所や買い物客でにぎわうスーパーマーケット、喧騒(けんそう)のパチンコ店、家族が笑顔でテーブルを囲む大衆食堂…。華やかなりしころの水海道の街の様子が映し出されると、懐かしむ声が漏れた。 宝来館は、ホテル事業などを手掛けるサンスイグループ代表の東郷治久さん(65)の父通行さん(故人)、母まささん(89)が1946年に開業した。 1953年の「君の名は」公開時には水海道駅まで長い列ができた。しかし、テレビの普及や娯楽の多様化で観客は減少し、73年に閉館。その後、建物も取り壊された。 今回、元同館の看板絵師、井桁豊さん(79)や市民有志、市などが協力し、「千姫まつり」の前夜祭として復活が実現した。 同市の吉田和雄さん(78)は「20代のころ通った。宝来館に育てられたようなもんだ」と最前列で笑顔。切符売りだった金長しげさん(81)は「ひばりちゃんの映画は、売り上げを計算するのが疲れるほど満員になった」と懐かしんだ。同市の落合勉さん(86)は「新婚当時、妻とよく来た。その妻も昨年11月に亡くなった。もう一度、一緒に見たかった」と目を潤ませた。 東郷まささんは「こんなに大勢の人が来てくれて、涙が出るほどうれしい。少しでもにぎわいが戻ってほしい」と話した。(松田拓朗)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回で、最終回となります。2024年9月7日土曜日開催となります。#懐かシネマ上映会#宝来館跡地#ロコレディ
2024.03.23
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厳しい義父でした。1つ、1つの行動を細かく指導を受けました。愛情のある指導を受けてきました。創業者義父 故羽富 正三より数々の学びを頂きました。「いいか、としあき。 すべて、バラスよく、バランスよくだぞ。」とよく言われました。どうしても、合意できなかった部分もありましたが、3年間は、すべて、頭をタテに振れ。頭を横に振るな!オレが、言ったことはすべてやれ。・・・・・と言われていました。近所にいる先輩社長さまが言います。「正三さんは、本当に厳しい人だったね。 この私が、としあきさんのことをほめると、 そんなことは無い。褒める段階では無い。 ・・・よく言っていましたね。」と社長さまに言われました。創業者より、オレの前に出るな~。全ての会議は、オレが、出る。・・・と言わない限り、ダメだ。そんな創業者でした。商売の基本を1から学びました。食事をしていても、常に、商売、商売、商売のことでした。相手の話しを聞きながら、微調整する方法も、教わりました。亡くなる前まで、「売上げは、どうか? 在庫は、膨らんでいないか?」細かく、細かく、数字を観ることを言われていました。数字を毎日見るクセを私に伝授してくれました。心の掟(おきて)は、いつも、いつも、考えるクセを付けろ。なぜ、なぜ、上手くいかなかったのか?考えて、考えて、考え抜くのだ。変化を読み取る。相手の声の大きさや、相手の態度から本根を見抜け!今でも、今でも、心の中では、創業者故羽富 正三は、生きています。
2024.03.18
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昨日3月17日日曜日15時ごろでした。茨城県県央地区から4人で道の駅常総に。私の独特なパフォーマンス型応対で,おもてなしの心で会話を愉しんでいました。笑う☺️笑う😀家族全員で笑う。しばらくすると,コロッケもクレープも美味しく頂きました。わざわざ一言御礼が言いたくて!もう元気100倍です。「美味しかったです・」「ありがとうございます。」と言われました。逆に元気を頂きました。有難うございます。また千葉県船橋市から娘さん2人推定20才代半ば?お父様お母様と4人でまたまたコロッケとクレープをお買い上げ頂きました。綺麗な娘さんたちでした。品のよい女性です。その娘さんたち2人が私に近寄ってきました。おじさんの漫談が面白くて、近くの椅子に座って聞いていたら、面白くて笑ってしまいましたよ~~。引越しして来て茨城県に!市県民税が減っているので,ふるさと納税もよろしくねー♪とかうちの孫たちと結婚したら親戚になるねー♪などなど。ぽんぽんと笑える😛キィーワードが!すると,スマホを取り出して娘さんたちから写真を撮りたいからおじさんも入って〜。もう一瞬にして家族になった感じでした。16時30分ごろからお持ち帰り用として5個10個15個のお客様が増えてきました。並んでいたお客様10人以上の方々にご迷惑をおかけしました。急の完売は昨年のオープン時期以来の出来事でしたー。ごめんなさい🙏。心❤️からお詫び申し上げます。引き続きよろしくお願い致します。
2024.03.18
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厳しい義父でした。1つ、1つの行動を細かく指導を受けました。愛情のある指導を受けてきました。創業者義父 故羽富 正三より数々の学びを頂きました。「いいか、としあき。 すべて、バラスよく、バランスよくだぞ。」とよく言われました。どうしても、合意できなかった部分もありましたが、3年間は、すべて、頭をタテに振れ。頭を横に振るな!オレが、言ったことはすべてやれ。・・・・・と言われていました。近所にいる先輩社長さまが言います。「正三さんは、本当に厳しい人だったね。 この私が、としあきさんのことをほめると、 そんなことは無い。褒める段階では無い。 ・・・よく言っていましたね。」と社長さまに言われました。創業者より、オレの前に出るな~。全ての会議は、オレが、出る。・・・と言わない限り、ダメだ。そんな創業者でした。商売の基本を1から学びました。食事をしていても、常に、商売、商売、商売のことでした。相手の話しを聞きながら、微調整する方法も、教わりました。亡くなる前まで、「売上げは、どうか? 在庫は、膨らんでいないか?」細かく、細かく、数字を観ることを言われていました。数字を毎日見るクセを私に伝授してくれました。心の掟(おきて)は、いつも、いつも、考えるクセを付けろ。なぜ、なぜ、上手くいかなかったのか?考えて、考えて、考え抜くのだ。変化を読み取る。相手の声の大きさや、相手の態度から本根を見抜け!今でも、今でも、心の中では、創業者故羽富 正三は、生きています。
2024.03.13
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