京都の街路は、明治時代になっても、江戸時代そのままの狭い道路であったが、経済活動の伸長で、都市計画の必要性が叫ばれ始め、第二代京都市長の西郷菊次郎は、道路拡築とその道路への市営電気鉄道敷設事業、上水道整備事業、第二疏水事業を京都市の三大事業とし、明治39年に市会に提出し、同年11月、市会で第二疏水と上水道建設の予算が可決された。そして、明治40年3月、市会は、「道路拡築並電気軌道建設費」を可決した。西郷はそれら活動の陣頭指揮に当たった。なお西郷菊次郎は、西郷隆盛の奄美大島潜居時代の妻・愛加那(あやな・あいかな)との間にできた長男である。
右図が市電開業当初の市電路線図である。碁盤の目の京都の街なので、市電路線も南北、東西に真っすぐ路線が敷設されて当然のように思うが、斜めに走る部分が3ヶ所ある。道路拡幅の際、それぞれ事情があってこうなったのである。


次に最上図③であるが、まさしく45度の斜めの路線である。この京都での完全斜めの道路の経緯については話題になることも多い。全く新しく造られた道路であり、通りの名は「後院(こういん)通」という。

京電を買収した市電は旧京電部分の路線の整理、広軌化を進めた。最終的に狭軌で残ったのは、北野堀川線のみであった。大正中期から昭和初期が、市電黄金時代であった。
【N電】



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