この時代の市電のエピソードをいくつか紹介する。市電のうちN電はオープンデッキだったので、混雑時、車外乗車(ぶら下がり乗車)する乗客も多かった。危険なので、昭和21年8年7日、府警察本部は車外乗車の一斉取り締まりをした。早朝1時間で54人が拘束されたという記録が残っている。

市電を通すための道路拡幅工事で最後まで残ったのが、今出川線千本今出川~北野白梅町であった(右図の赤丸)。北野天満宮の前を走る線である。私鉄路線との競合もあり、複雑な経緯を経て開通に至った。








昭和35年はマイカー元年と呼ばれた。京都府下の自動車台数は、年率3割のペースで増え、この年8万6,600台に。市電のダンゴ運転が目立ち始めた。これに加え人口のドーナツ化、人件費高騰もあり、廃線による合理化へと進んでいった。まず、昭和36年8月、狭軌で定員が少なく採算性の悪いN電堀川北野線が廃止された。ラッシュ時の急行電車、ワンマン電車など色々手を打つも、打開策にはならず、一方で自動車はどんどん増え、昭和40年12月には、ついに軌道敷を自動車に全面開放するに至った。ますます輸送効率は悪くなり、もはやなすすべなく、
昭和45年3月の伏見線・稲荷線の廃止を皮切りに廃線は進み、ついに昭和53年9月30日、最後まで残った外郭線が廃止され、京電時代も含めて80余年にわたる京都の路面電車の歴史に幕が下ろされた。

答えは、四条通は南側から、河原町通は東側から架線を架け、山鉾は架線を避けて四条通は北側、河原町通は西側を巡行したのである。今は市電が廃止されて、巡行は道路の中央寄りを通り、「辻回し」も交差点中央付近で行われるが、当時は道路の端の方を巡行し、「辻回し」も交差点の角近くで行われた。「辻回し」は今でも高度な技術・経験が必要だが、当時はもっと大変だったであろう。また、道路の端を巡行すると、傾きによって、山鉾は自然に歩道側に近づいていく。今以上に、進路微修正も大変であったろう。



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