ワルディーの京都案内

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2026/06/13
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テーマ: 鉄道(27154)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その7~


8.電車の時代(続き)
12)市電の復興と安定時代

 戦中戦後、市電は老朽化した車両や軌道も多くあったが、京都は大規模空襲を受けることがなかったので、継続して運行することができた。昭和24年頃から経済がようやく安定し、まず車両の改良に全力を傾注し、旧型車両を廃車して、大型車両を新造した。ビューゲル集電装置を付けた車両も登場し、軌道改良工事も全線にわたって行われた。その後の復興は目覚ましく、それに対応すべく戦争で止まっていた路線延長が次々と行われ、昭和33年9月の今出川線の白梅町までの延伸をもって、大正14年の都市計画による市電路線が完成し、総延長は76.83kmとなった。乗車人数では昭和38年が最高であるが、営業距離では、昭和32年頃が、市電の全盛期といえよう。
 この時代の市電のエピソードをいくつか紹介する。市電のうちN電はオープンデッキだったので、混雑時、車外乗車(ぶら下がり乗車)する乗客も多かった。危険なので、昭和21年8年7日、府警察本部は車外乗車の一斉取り締まりをした。早朝1時間で54人が拘束されたという記録が残っている。
 昭和24年~昭和33年まで宝ヶ池公園には市営競輪場が存在した。うち昭和24年12月~昭和30年8月には、競輪開催日に市電の京福電鉄叡山線(元田中~山端[現・宝ヶ池])への乗り入れが行われた。市電と京福電鉄では、乗降口の高さが違うので、山端駅には市電専用のプラットホームが設けられ、今も宝ヶ池駅でその名残を見ることができる。


 市電を通すための道路拡幅工事で最後まで残ったのが、今出川線千本今出川~北野白梅町であった(右図の赤丸)。北野天満宮の前を走る線である。私鉄路線との競合もあり、複雑な経緯を経て開通に至った。












 地図Aは、明治22年の地形図。線路は全くない。赤丸は北野天満宮の一の鳥居である。


 地図Bは明治42年の地形図。明治33年5月、京電堀川北野線が下ノ森まで延伸(水色の線)。その北に新道(茶色の線)が敷設される。


 地図Cは大正11年の地形図。明治45年5月、新道を使って、京電堀川北野線が北野天満宮前まで延伸された。


 地図Dは昭和3年の地形図。大正14年、京都電燈が北野駅/高雄口駅(現・宇多野駅)間(大部分が現・京福電鉄北野線の路線)を開業した。





 地図Fは昭和26年の地形図。西大路通の北野白梅町以南も敷設され、昭和18年10月、市電西大路線、北野白梅町/円町間営業開始。これで市電西大路線が全通。京都電燈の鉄道部門はは昭和17年に京福電気鉄道に譲渡され、京都電燈北野線は、京福電鉄北野線となり、昭和18年10月に北野白梅町駅が営業を開始した。


 地図Gは昭和36年の地形図。昭和32年市電堀川北野線(旧・京電堀川北野線)の北野駅を今出川通南に移設。同年4月、市電今出川線の千本/紙屋川町駅間営業開始。


 地図Hは地図Gのその後を示している。昭和33年9月、京福電鉄北野/北野白梅町間が廃止され、そこに同月、市電紙屋川町/白梅町間が敷設され、市電今出川線が全通する。ここに、大正14年に立てられた都市計画路線が漸く完成することとなった。




13)自動車車時代の市電、そして廃止へ
 昭和35年はマイカー元年と呼ばれた。京都府下の自動車台数は、年率3割のペースで増え、この年8万6,600台に。市電のダンゴ運転が目立ち始めた。これに加え人口のドーナツ化、人件費高騰もあり、廃線による合理化へと進んでいった。まず、昭和36年8月、狭軌で定員が少なく採算性の悪いN電堀川北野線が廃止された。ラッシュ時の急行電車、ワンマン電車など色々手を打つも、打開策にはならず、一方で自動車はどんどん増え、昭和40年12月には、ついに軌道敷を自動車に全面開放するに至った。ますます輸送効率は悪くなり、もはやなすすべなく、昭和45年3月の伏見線・稲荷線の廃止を皮切りに廃線は進み、ついに昭和53年9月30日、最後まで残った外郭線が廃止され、京電時代も含めて80余年にわたる京都の路面電車の歴史に幕が下ろされた。








14)祇園祭と京都市電
 京都三大祭の一つ祇園祭の山鉾巡行のルートは時代とともに変化している。昭和41年以降、前祭(さきまつり)、後祭(あとまつり)が同日開催となり、四条烏丸を出発して四条河原町へ、河原町通を北進し河原町御池へ、御池通を西進し新町御池で解散、この半時計回りのルートとなった。巡行日には、このルートのうち、四条通は昭和47年1月まで、河原町通は昭和52年9月まで市電が走っていた。巡行当日は、巡行区間の市電は運休となったが、市電の架線より高さの高い山鉾は、どうやって架線を張る線を避けて巡行していたのだろう。
 答えは、四条通は南側から、河原町通は東側から架線を架け、山鉾は架線を避けて四条通は北側、河原町通は西側を巡行したのである。今は市電が廃止されて、巡行は道路の中央寄りを通り、「辻回し」も交差点中央付近で行われるが、当時は道路の端の方を巡行し、「辻回し」も交差点の角近くで行われた。「辻回し」は今でも高度な技術・経験が必要だが、当時はもっと大変だったであろう。また、道路の端を巡行すると、傾きによって、山鉾は自然に歩道側に近づいていく。今以上に、進路微修正も大変であったろう。
 山鉾のうち長刀鉾以外は、四条烏丸交差点を西から東に横断しなければならない。そこには市電烏丸線が通っていた。山鉾はどうやって烏丸線の架線を避けて横断していたのだろう。答えは、山鉾を通すために市電烏丸線の架線の一部を切断(正確には特殊な金具で接続してある架線を取り外した)したのである。
 では巡行の当日、架線の一部が切られてしまった烏丸線は運休したのであろうか。いや営業したのである。しかも、四条通の南北で折り返し運転をするのでなく、架線切りをした部分も含め、通常通りの運行をしたのである。いったいどのようにしたのか。巡行の切れ目を見計らって架線のない部分を惰性で運転するという「離れ業」をやったのである。走ってきた電車が架線のない区間に入る直前に、車掌がビューゲル(屋根の上の集電装置)のひもを引っ張って下ろし、電車の惰性で四条通を横断させていたのである。
 ところが、例えば歩行者が急に飛び出してきたりしてブレーキをかけて止まったところが架線のない場所だったら電車は起動できない。そこで写真のように交通局の職員や警備の警官が乗客が乗ったままの電車を押して、無電区間から電車を「脱出」させたこともあった。今は昔の話である。

15) 京阪伏見稲荷駅から伏見稲荷に向かう道路上の無駄に幅広い橋

 「C図」が在りし日の市電稲荷駅である。実は赤丸の部分の線路と、南側(写真の右側)のプラットホームは今もそのまま「D図」のように残っている。
 そしてこの稲荷線は、稲荷駅の西側(図の左側)で京阪本線と平面交差をしていた(E図)。時々、衝突事故が起こったようである。






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最終更新日  2026/06/21 04:22:24 PM
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