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月日が経つのは早いもので、やがて、さっちゃんの一周忌を迎えます。彼岸の日の先日、さっちゃんの墓参りに徳島に行ってきました。その際、さっちゃんのブログにしばしば登場する「ドイツ橋」や「ドイツ館」を見てみたいと思い行ってきました。鳴門市の板東には「板東俘虜収容所」があり、ドイツ兵捕虜が約千人ほど居たようですが、ここで捕虜達作った楽団が日本で初めてベートウベンの第九を演奏したそうです。「ドイツ館」では、演奏に至るまでの物語や、再現演奏を見ることができ本当に感激しました。 * syun~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~2011年1月10日のブログ記事より「ドイツ館」ドイツ館は第一次世界大戦の後ドイツ兵士の捕虜が生活したところです。新しく建て替えられて当時の生活の様子などの写真や道具など記念の品々が展示されています。 『ドイツ館は1917年から1920年までの3年間、 「板東俘虜収容所」で暮らしたドイツ兵捕虜たちと、板 東の人々の交流の様子を後生に伝えるために建てられま した。当時の貴重な資料等が数多く展示されています 』2011年1月11日のブログ記事より「ドイツ橋」ドイツ兵士の捕虜たちが作った橋です。この地域の人たちと捕虜たちは親密にお付き合いをするようになって、お互いに助け合い教えあってきました。この橋はその一つの証拠として残されているのです。 『ドイツ橋は大麻比古神社の敷地を流れている 板東谷川に架かる石橋で、第一次世界大戦の捕虜 として収監されたドイツ兵は、大麻比古神社のす ぐ南にあった板東俘虜収容所に収監されており、 母国に帰国する際に記念として造られたものです』放美展出展作品
2017年03月25日
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(我が家に飾られたお気に入りのさっちゃんの絵のひとつです)「姉の思い出」姉と私は年齢が23歳離れていて、彼女が徳島市内で暮らしていた頃の話は、書かれた作品等で断片的に知ることは出来たが、私の記憶にある姉は、疎開先の山間の町で一緒に過ごした高校卒業までの19年間だ。私が大阪の大学に行ってからは、正月やお盆、春休みに帰るくらいで、顔を合わす機会は少なくなった。大学を卒業し仕事についてからも、結婚してからも同じようなものだった。姉は教師として働いてはいたが、家計に余裕はなく、私を大学に行かそうと奨学金の申請をしてくれたが、収入が多いと受理してもらえなかった。我が家より裕福に思える人が奨学金を貰っている事に不満はあったが、それでも大阪の大学まで行かせてくれ、色んなアドバイスをしてくれた。かなり無理もしたのではと今も姉にとても感謝している。姉は県西部の風土には中々馴染めなかったようで、いつか徳島に戻りたいと言う思いが強くあったようで、退職を機に先祖の地に念願の新しい家を建てることにした。病弱だった母と一緒に住めると楽しみにしていたが、母の死でその願いは叶うことはなかった。新しい家に移り住んでから、姉の第二の人生が始った。苦労の多かった現役時代だったが、第二の人生では何に煩わされることなくやりたいことを好きなだけやることが出来た。更に晩年になって、世間からも大いに注目され、新しい知人も沢山出来、生甲斐や幸せを感じれる日々だったと思われる。姉は生来好奇心旺盛な女性で、NHKのラジオやテレビの講座に没頭たり、新聞にエッセイなどをよく投稿したり、俳句や短歌にのめり込み、児童文学では賞も受賞した。そして2011年、昔から書き綴った多くの作品の中から選んで、念願のエッセイと短歌の本「藍の風」を自費出版することになった。昔から興味のあった絵画を本格的に始めたのは70歳からだった。スケッチブックやハガキに毎日水彩画を描くだけでなく、絵画教室に通って油絵にも熱心に挑戦した。描いた作品が家の中に溢れ、保管場所を確保する為家を増築するほどだった。県展でも何度も入選し、精力的に個展を4回も開いている。80歳になってパソコンというツールを手にした姉は、84歳になって今までやってきたことの集大成となるブログに挑戦した。毎日、絵を描きエッセイや童話、漫画など彼女の作品と思いをブログにして、多くの人達に知っていただくことが出来るようになった。世間に注目されるようになったのは、ブログを始めて6年後のことで、「90歳のおばあちゃんブロガー」として、新聞やテレビ、雑誌、ネットニュース等、多くのマスメディアに頻繁に取り上げられるようになってからだ。そして2012年、毎日のブログ記事のなかから選んだ40編をまとめた「また、あした。」が扶桑社から出版されることになった。又、その年から「さっちゃんのお気楽ブログ原画展」を開催し、その後毎年、5回に渡ってこの原画展を開催することになった。人付き合いの苦手な姉にとっては、こうした活動を通じて、多くの新しい友人が出来たことはとても嬉しいことだった。その後も童話「青蛙のペキ」や、漫画「ペキとポコ&メー子」等の出版や、二集の「ポストカード」も作るなど、休むことなく挑戦し続けた。姉の口癖は「百歳までは頑張る!」だったが、残念ながら突然94歳で逝くことになった。全力で描いた50号の油彩画が放美展で見事「優秀賞」を受賞することできたが、結果的には彼女の遺作となった。長い道のりだったようにも思えるが、全て一歩一歩、粘り強く着実に挑戦していった結果だった。人付き合いの苦手で、世渡り下手だった姉が、自由にやりたいことに挑戦できたのは、本人の頑張りも勿論だが、多くの優しい人達に支えられ、励まされたお陰だと感謝しています。最期の1年半は老人介護施設でお世話になることになった。ここで身体が思うように動けなくなった独り暮らしの不安から解放されて、安心して作品作りに打ち込めたことは、本当に幸せなことだっただろう。ここ何年かは毎日のように姉から電話がかかってきた。長い時には1時間以上も話すこともあったので、未だにふと電話がかかってくるのではと錯覚しそうになる。今も向こうの世界で好きな絵を描き、短歌をつくり、エッセイや童話や漫画を書いていることだろう。ひょっとしたら、姉のことだから新しいものに挑戦しているのかもしれない。「ぶんげい麻植」のさっちゃんの特集に投稿させて頂いた拙文です。
2017年03月15日
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「雛祭り」について書かれたブログ記事です。2011年03月03日今日はお雛祭りだそうです昔空襲で焼かれたわたしのお雛様を思い出して供養してあげますおひなさまの段飾りのようにアネモネとパンジーをならべて見ました 2015年03月03日 今日はお雛祭りでした。お昼にご馳走をいただきました。そしてお雛様らしきお人形はどこかにあるかしらと考えて見ましたが、あるはずがありません。よく考えて見るとわたしのお雛様は空襲の夜押し入れの中で焼かれたのでした。お内裏様や官女には愛着がありませんが、赤ちゃんくらいの大きさのお人形がお気に入りで忘れられません。 2016年03月05日お雛祭りの想い出3月になって虹の橋の正面玄関に大きくて立派なお内裏様が飾られました。戦争から70年さっちゃんのお雛様は、すっかり忘れられています。幼い時のお雛様を思い出してあげたいと思いつきました。立派な御殿も五人囃子もなかったけれど、先ず、右近の橘、左近の桜。つぎにお内裏様、三人官女など・・・庭の桃の木にきれいなお花が咲いていました。お母さんの手作りのご馳走やういろうを遊山箱にいろどりよくつめてもらって友達誘いあって近くの公園へ行って食べます。2~3度帰って新しくつめかえてもらったり・・楽しい思い出です。時々思い出してあげないと、みんな忘れてしまったら、もう思い出しようがなくなります。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「吉野川市文化協会」から定期刊行物「ぶんげい麻植」第12号が、このほど発刊されました。この12号にはさっちゃんの追悼特集をして頂いております。ご希望の方は「吉野川市文化協会」で、お求めできるようですので、読んで頂ければ幸いです。 *1.連絡先(申込先) FAX 0883-22-00162.代 価 本代 500円 送料 180円/1冊
2017年03月03日
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