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昔、ある村に評判の孝行息子がいました。そこで、隣村の孝行者が、一体どんな孝行ぶりなのだろうかと訪ねてみた。
待つほどもなく、孝行息子が薪を背負って山仕事から帰ってくると、老母が飛んでいって息子の薪をおろしてやり、ワラ草履の紐をほどいてやって、汲んできた水で息子の足を洗ってやっている。
彼は、黙って老婆にすべてをやらせている。
さらに驚いたことには、座敷に上がった息子がゴロリと横になり、老婆に自分の腰をもませている。
それに対して、「私は孝行とはどんなものか知らないが、ただ母親がしたいように、喜ぶようにしているだけだ」と答えた。
それを聞いて、「なるほど、そうか。それが本当の親孝行かもしれない。わしは、単なる形式だけの親孝行だったわい」と隣村の孝行息子は言ったという。
この昔話は、形式や他人の目を気にして、親に何もさせずに働きがいを奪い、痴呆化を
助長している現在の私たちへの痛烈なパンチであるようにも思います。
私たちは、「皆で渡れば怖くない」と形式や標準など「世間並み」にこだわりすぎる傾向があります。
では、世間の標準とは何でしょうか?
アンケートや統計などで、「何%の人が・・・」と数字に還元されて処理されるともっともらしく思えてきます。
そして、多数派の方が正しい、望ましいと思ってしまいます。
だが、人間の価値観などというものは、科学の法則と違って絶対的に正しいものなどはなく、必ずしも多数意見が正しいとは限りません。
むしろ、少数意見の方が正しいことの方が多いのではないでしょうか?
例えば、「毛虫が嫌いか」と聞けば、大抵の人は「嫌い」と答えるはずです。
そして、「好き」と答えた少数派の人は変人にされてしまいます。
時には、そんなものは退治してしまえとなります。
学校でのいじめなども同じで、集団いじめに加わらないと、自分が危険だということで多数の方に加担して、小数の人を「同じでない」と言っていじめたりします。
皆と一緒なら「何が良くて、何が悪いことか」などを考えなくてもよく、うまくいかなくても他人のせいにできて楽です。
だが、それでは人間としての価値はないと思います。
終わりに 2018.04.21
番外編 終わり良ければ総て良し 2018.04.20
番外編 終わり良ければ総て良し 2018.04.19