PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
フリーページ
「愛は愛より生ず。愛より憎しみは生ず。憎しみより愛は生ず。憎しみより憎しみは生ず」と原始仏教の経典にあり、愛と憎しみが背中合わせであることを教えています。
人を好きになると、その人から目が離せなくなって、何時もその人を見守っています。今日は顔色が良いとか悪いとか、今日は楽しそうだ機嫌が悪そうだ、今日は洋服や持ち物を変えたな・・・などと絶えず相手の言動に関心を払っています。
嫌いな人に対しても同様で、「顔を見るのも嫌だ」と言いながら、「いい歳をしてあんな派手なものを着て」などと着ているものから些細な行為までよく観察しています。
このように、愛も憎しみも相手への強い関心を引き起こします。
愛情も憎悪もなければ、相手の存在自体に無関心だから、どんな変化にも気がつかないはずです。
人間の行為や性格など、長所は短所、短所は長所で、どちらから見るかだけのことです。
たとえば、「行動が遅い人」も、好意を持って見れば「慎重な人」になり、嫌悪感を持っていれば「のろまな人」になります。
だから、何かのはずみで愛が憎しみに、憎しみが愛にひっくり返ることがよくあります。
元々は好き合って結婚したのに、いつの間にか憎しみ合うことがあります。欠点が目について別れたのに、別れて初めて相手の良さを自覚することもあります。いつまでも愛し合ったり、憎しみあったりすることの方が少なく、愛と憎しみは常に流動的です。
だから、嫌いな人にも決定的な一言だけは言わない心がけが大切です。
京都の人は、嫌いな人でも、「嫌い」とは言わず、「嫌いやあらしません。好きになれへんだけどす」と言う。だから他県の人には「京都の人は分からん」と言われるのだが、狭い地域の中で、つまらない喧嘩や摩擦を起こさない生活の知恵ともいえます。
「嫌い」で片づけてしまえば、関係は修復できません。
道元禅師ですら、時の権力者から貢ぎ物をもらって帰った弟子を怒って破門にしたばかりか、その弟子が座禅を組んでいたところの土を何尺も掘って捨てさせたといいます。
「嫌い」という感情は、あの道元禅師にすらそこまでさせてしまうように、相手を傷つけるだけでなく、自分の心をも傷つけてしまい、良いことは何一つありません。
嫌いな人を無理に好きになれとは言わないが、「嫌い」と切り捨ててしまうのではなく、京都人のように「いまは好きになれないだけ」と思ってみませんか?
終わりに 2018.04.21
番外編 終わり良ければ総て良し 2018.04.20
番外編 終わり良ければ総て良し 2018.04.19