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麗蘭は裾が翻ることも厭わず、廊下を駆ける。淑女としてあるまじき行動だが、かまっている余裕はなかった。胸の奥から溢れ、喉の辺りまでを埋め尽くすような不安を振り払うかのように、ただ真っ直ぐに目的地に向かい足を動かす。「胡姫様!どちらへ」 常にない麗蘭の慌てように、困惑したように男は尋ねる。「桜玉の間に!」 間、というが胡家に座敷はない。胡家の建造物は皓国ではない国の造りとなっている。数十年前の大改築の際に、畳ではなく木を敷き詰め、足の低い卓を足の高い机に変えたのだ。他にも障子ではなく木の扉にしたり、座布団の変わりに椅子を用意をするよう なったり、と大変貌を遂げたのであった。桜の間、と言うのは十数年前まで使っていた部屋の名称をそのまま現在も使用してのこと、つまり便宜上のことである。 胡家は異人だ。昔は白い目を恐れ、少しでも緩和させようと皓国の仕来りに全て合わせてきた。作法も宗教も、何もかもだ。だが、結局は変わらなかった。言葉の内容が変わるだけで、裏にある悪意は減ることを知らず膨らむばかりであった。 それでも胡家は歯を食いしばり、我慢を続けた。他に行く場所などなかった。 だがこの事態にいい加減怒り心頭したのが、麗蘭の祖父と父であった。 流通の掌握し、胡家は名と地位を手に入れた。それを国に還元し、王を支え、皓国の民を守ってきた。なのに、どうだ。非力で、保護を受けるだけの立場ではもうない。だがそれでも凝り固まり、腐りかけていた貴族達は胡家を認めようとはしなかった。 そんな阿呆どもに気を遣い、下手にでる必要などない。 祖父達はそう考えた上での、大改装であった。「な、何故?!」 部下の問いに、麗蘭は鋭い声で答えた。「この襲撃の狙いは胡家ではないわっ」「なっ…………」 何故、と聞き返すほど部下は愚かではなかった。桜玉の間、その単語と襲撃を組み合わせれば簡単に答はでるのだ。信じがたい答えではあるが。 胡家を狙っての襲撃ではない。この襲撃は、桜玉の間に預かっている子供を狙ってのものだ。その子供を奪取するためだけに、胡家に襲撃をかけたのである。「…………信じられません」「私もよ。だけどあの男はするわ。あの愚かものはっ」 これは、確信だ。 この襲撃の首謀者であろう男とは直接あったことはないが、麗蘭は間違いない、と踏んでいる。櫻妃達に聞き及んだ話が事実なら、疑う余地がないのだ。 廊下を駆け、突き当たりを右に曲がりようやく目的地を視界に入れた。いつもは固く閉ざされている扉が、大きく開いている。扉の前の絨毯にこびり付いた泥が侵入者の存在を示していた。(遅かったと言うのっ) 扉を掴み、忙しなく動いていた足を強制的に止めることに成功した麗蘭は、目の前に飛び込んできた光景に思わず目を瞠った。 細身の男と少女が対峙していた。 それだけであれば、何ら不可思議な光景ではない。だが、麗蘭の眼に映る光景は、異様であった。それは雰囲気と、男と少女の表情が光景に不気味さを生み出している。 客観的に見て、整っている顔立ちをしている男には堪えられないような喜色が溢れ、一方少女には恐怖と絶望を人の顔で表せば、こういった表情になるのでは、と思ってしまう顔だ。「朔夜」 男が名前を紡ぐ声はいかにも優しげで、親しげで、嬉しそうだ。 だが、それがおかしい。 呼ばれた張本人は声もなく青ざめ、身体は小刻みに震え、瞳が焦点がなく彷徨い、足に力が入らなくなったのか座り込んでいる。こんなにも酷い他者への拒否反応は、麗蘭は今までにない。「朔夜………やっと“見つけた”」「…………………………………………っ……」 この男は、それが目に入っていないのであろうか。哀れなほど脅え、今にも消えてしまいそうなほど小さく縮こまってしまった、儚い存在が。男ではない誰かに救いを求めているか細い声が。 男が一歩近寄ろうとする度、無意識だろう、朔夜は後ずさる。「困ったやつだな、朔夜は。見つけるのに苦労した」「…………………っ…………」「帰ろう、朔夜……すまなかった。 ずっと待たせて」 男は、こちらには気が付いていない。 それだけ朔夜しか視界に入ってはいないのであろう。 麗蘭は侵入者から目を離さず、両手首の腕輪に手を這わせた。指先に金属の他に、柔らかな布の感触を感じる。腕輪に絡みつく布を素早く外した。布は右手首から二の腕、そして背中を通り、また左腕を這うように左手首へと通っている。右手首にまとわりつく布を左手で思い切り引いた。はらりと布が宙を舞う。重力に惹かれるように地へ向かう布の端を右手でパシリ、と掴み取り左右の腕を斜めに伸ばして張った。身体を侵入者に対し斜めになるように構え、腕を上半身に平行になるように布を配置した。 胡家の血筋、特に当主を継ぐ者は代々『布術』の使い手である。それは敵の多い境遇から自身の身を守るためであった。なにも敵を全滅することを目的としているわけではない。時間を稼ぎ、命を繋ぎ止めることを一番の目的としているのだ。武器とも盾ともなる布術は、力が弱い女性の身でも扱える点も含めて利点が多いのである。 鋼鉄線を数本潜ませた布を握りしめつつ、麗蘭は凛とした声で首謀者らしき男に一喝した。「離れなさい。その子にそれ以上近寄ることは許しません」 特に荒げた声ではなかった。だが、異様な静寂が支配していた部屋には高らかに響き渡る。 男は眉を顰めつつ、麗蘭を見やる。燃える火のような、鮮やかに咲く華のような赤い髪に目をやり、胡家の者とだいたいわかったのであろう。それでも横柄な態度は崩さず、麗蘭を睨み付けた。「何を言っている?」「聞こえなかった?私は‘その子から離れなさい’と言ったのよ」「………」 言葉を重ねる麗蘭を無視し、男は朔夜に触れるように手を伸ばし、歩み寄る。「警告は、したわよ?」 麗蘭の手首が翻り、腕が大きく弧を描くように振られた。布は空気が流れる合間を縫うように素早く宙を切り、朔夜にあと少しで触れるはずだった腕に絡みついた。麗蘭と男の間にピン、と布が張りつめられる。「このまま腕を、しばらく使用できないようにしてさしあげましょうか?」 艶やかに笑う麗蘭に、男は不快そうに眉を寄せた。「お前が誰だかわからないが、離せ。 胡家は羅家と事を構えるつもりか?」「あら、私は胡家の者として、胡家に従する者達を守る義務があるわ。その義務を守るまでのこと。侵入者さんを追っ払ったとて、それが問題かしら? 幾らあなた方が羅家と通じていようと、羅家がここまで事を起こした者達を庇うかしらね?」「何を言っている? 羅家と通じているんではない。羅家は俺だ」「なんですって…」 聞き捨てならない言葉だ。 平然としている横柄な男を、麗蘭は改めて冷静に観察した。 背に流れる髪は、財に余裕がある証。身なりも綺麗だ。装飾が華美な鞘も、ただの侵入者としての出で立ちとしてはおかしい。 鞘の先から柄に眼を走らせ、麗蘭は絶句した。柄に近い部分にある、翡翠に龍を彫った装飾が意味することはただ一つしかない。その装飾が許され、この態度に、『羅家は俺だ』と言う言葉を繋げると弾き出される答えは、推理した麗蘭でさえ信じがたいものだった。「あなた……羅家の第一子、趙劾[チョウガイ]?」 探るように吐き出された麗蘭の問いに、男はあっさりと頷いた。(愚かだとは聞いていたがっ、これほどまでとはね)「わかったら、離せ」 だから、この態度なのだろう。ここまで横柄な、そして惨事を起こして起きながら、罪の意識も、いや自分が犯した罪もわかっていない。本気でこれが許されることだと、思っている。自分の欲望のため、胡家を踏みにじることを何とも思っていない。 視界が一瞬、赤く染まる。躰の奥底から苛烈な炎が生まれ、内臓を焼き、うちから食い破っていく感覚を必死に麗蘭は押し殺した。炎の名は、激怒と憤怒だ。だが今はそれに翻弄されるわけにはいかない。 麗蘭は無理矢理微笑を湛え、余裕を作った。「わかってないわね。お坊ちゃん」「何?」「仮に私が貴方に害したとしても、羅家当主はこれを表沙汰にはしないわ。決してね」 何を言っているのか、理解できない。そういう表情をする趙劾に麗蘭は嘲笑するように笑う。「胡家の領地、しかも私の家への侵入。及び胡家に属する者への狼藉数々」「それが何だ?」「わからないの? どうしようもないわね。そうね、確かに胡家は羅家には勢力的には到底及ばないわ。でもね、だからといってそれだけが全てじゃないのよ?」「?」「羅家がいくら力を持っていても、それを覆す方法はある、と言う事よ。あまり自分のお家の力を過信しないことね」「何を世迷い言を」「普段ならお情けで父君に助けて貰えたでしょうが、今は無理ね。時期が悪かったのよ。父君はもみ消すわ、貴方が此処にいたことを。全てを。だから私が貴方を多少痛めつけても、羅家は何も言えないの。だって、貴方はここにいなかったことになるのだから」 布を引く力を、少しずつ増やしていく。肌を、間接をきつく締められていく感覚に趙劾が眉を顰める。振り払おうとしているようだが、させるものか。「何故なら羅家は現在、ただでさえ籐家に差をつけられてきている。民衆の支持、という強い後押しが羅家にはないからよ。民衆の支持は、少数の声ならば力を持たぬけれども、多数の声ならば、それは力となるの。そして民衆は今、羅家よりも籐家の味方。この状態が長く続くと羅家は多数の不都合が出てくるの。それを挽回しようと父君は今、必死よ? ねぇ? もし、貴方がここで起こした惨事を民衆が知ったら、どうなるかしらね?」 民は羅家に猜疑心を抱くであろう。一応貴である胡家ですら、自分の為ならば簡単に踏みつぶす。ならば民などもっと簡単に踏みにじると考えてしまう。それが人で、人が集団となれば不安は更にかき立てられ、恐怖と姿を変え、一気に膨れあがる。 そんな愚を羅家現当主は踏まない。羅家現当主とは一度会っただけだが、麗蘭は断言できる。あの『海千山千』の男に、まだ小娘であるとも言える麗蘭が正答できる問題がわからないわけがない。 だが、次期当主は理解できないようだ。訝しげに眉を顰めているのではなく、麗蘭を哀れむような眼で見つめている。麗蘭の言葉が何一つ理解できておらず、莫迦にしくさっているのだ。(………………なめられたものね) 麗蘭が思わず手に力をいれてしまったときだ。「更月っ【コウゲツ】」 骨が軋む感覚に耐えきれなくなったのか、男が切羽詰まった声で何かを呼んだ。 声と同時に、影が動く。辛うじて追えるほど素早い影は、麗蘭と男を駈けた。その瞬間、二人の間で張りつめていた布が弾けるように千切れた。(何ですって?!) 特殊な布は丈夫で、尚かつその中には鋼鉄線を仕込んである。それがいとも簡単に千切られるとは、何事だろう。 麗蘭は影の方向へ咄嗟に視線を向けた。 そこには少年が立っている。まだ幼さが抜けきってはいない少年は、無表情に麗蘭を見ていた。 蝋の炎に照らされる少年は、金色の髪に、薄氷色の瞳を持っていた。(守人?!) この少年は、形勢が逆転してしまうほどの切り札となりうる。 麗蘭は短くなった布を構え直しながらも、思考を必死に駆けめぐらせた。打開策を生み出すために。
2007年03月30日
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右手から左手へ、左手から右手へ。流れるような軌跡を残しながら、白い包帯がくるくると円を描きながら宙を舞っていた。曲芸のようなノリで扱うわりには、しっかりと緋深の腕に包帯は巻かれていく。 器用なものだ。とても緋深よりも一回り大きく、太い指が行っているようには思えない。「よし、これでいいだろう」 蝋燭の火明かりでほんのりと色づく包帯の上を、刺桐は手の平で音が鳴るように叩いた。力加減をしたのだろうが、痛いものは痛い。呻く緋深に対し、呵々と刺桐は笑っている。普段ならば緋深は怒っただろうが、刺桐には何故か憎めない愛嬌のようなものがあった。裏表が一見なさそうな態度が、豪快さがそう思わせるのだ。名前を間違えてしまったせいで、妙に気まずくて振り払えない、と言うのもあるが。「………どうも」 仏頂面を絵に描いたような声で礼を言いつつ、緋深は視線を泳がす。正面きって礼を言うことは、どうも気恥ずかしくていけない。 かわいげのない態度だと言うのに、楽しげに笑いそして頭を撫で始めた刺桐にどう対応すべきか、緋深は困惑するしかない。 振り払うように逃げようとする緋深を、撫でていた手がぐわりと掴んだ。「いいか、安静にするんだぞ」 緋深は合わせられようと視線から逃げるしかない。凍傷だというのに無茶をした自覚はある。意地を張り涼達の-決して獅吼は違うが-支援の手を振り払った。それで念を押すように、威圧感のある声で忠告をされているのだろう。「お前達は、守人の血が混じっている。だから死ななかったし、腕や足を落とさずにすんだ……だが、これからきちんと手当をし安静にしなければ、これ以上悪化させせれば、切り落とさざる得なくなる。病を、怪我を侮るんじゃない」「…………わかった」「取りあえずこれだけ、渡しておく。きちんとしたのは、後日渡す」 手渡されたのは、貝合わせなどに使われている、綺麗に色を付けれた二枚貝だ。合わせられた貝を開いてみると、中にたっぷりと粘着質の液体が入っている。なるほど、この貝は容器として使われているものらしい。 だが、中身の正体が分からない。(………これは、何だ?) 首を傾げる緋深に、刺桐はぐっ、と頭を掴んでいる手に力をいれながら告げた。「この薬をきちんと数時間後とに塗れ。そしたら、すぐに治る。なんてったって雪花の処方した薬だ。よく効くぞ?」「あの人が?」 緋深の向けた視線の先では、雪花が朔夜の手当をしていた。意識がなくぐったりとした細い腕を、それに負けないほど青白く細い指が這う。指先が微かに滑っていることから、おそらく凍傷の部分に薬を塗っているのだろう。薬がどんどんと塗り込まれていく白い腕は、低温火傷で赤くなっている部分もあれば、血が通ってないように青く色づいている部分もある。痛々しいことこの上ない。(………本当に、治るのだろうか?) 緋深の胸に一瞬、不安が過ぎた。 腕や足を切り落とさずにすんだと刺桐は言う。だが、それだけではないか。麻痺症状や、神経障害などが残らないだろうか、と一度考えてしまえば後は簡単だった。思考は簡単に坂を転がり落ちるように、悪い方へと進んでいく。 思わず顔をしかめそうになる緋深の頭を、強い力で掴んでいた指が優しく撫でた。まるで緋深のちょっとした不安を察し、慰めるような手つきである。 驚きに緋深が瞬いていると、手の持ち主の刺桐はにかっ、と笑った。「あいつに肩を並べる薬師はそうはいない。あの子も助かる。安心しろ」 不安を消し飛ばすような力強い言葉は嬉しいが、思考を読みとられたのは悔しい。緋深は気が付けば憎まれ口を叩いていた。「………これ、どうにかならねぇのかよ」 緋深は貝の上蓋を開けたり閉めたり、と手遊びをしながら尋ねる。 貝は鮮やかな淡い紅花染に彩られていた。つまり桃色だ。外面などを気にする緋深ではないが、男が持つにはどうも可愛らしすぎる。獅吼にからかわれる種は全て排除したい、と言うのが正直なところだ。今こそ緋深の影にあるので気がつかれていないようだが、いつ目聡く発見されるか、考えるだけでうんざりする。「あははは。すまんな。貝の色で、薬の種類を分けているのでな。酷い凍傷用の薬は冬にしか、しかも滅多に使わんし、携帯させることが多いので雪の中で目立つ色、そして常日頃使わん色にしたら自然と桃色になっんだ。薬など携帯するのは殆ど兵の訓練や狩りなどで、持つのは男だからな。青系統や緑系統、黄・茶系統の色は、傷薬や塗り薬で全て使ってしまたんだ。すまん、すまん」「………桃色じゃなくても…濃い赤とか、他にもあるだろ」「駄目だな」 緋深の溜息混じりの反論を、刺桐はにやりと笑ってあっさりと一蹴した。どことなくその笑みに凄みがあるのは勘違いだろうか。「血の色に近いからな、鮮やかな赤は。血の中では、埋没してしまう」 刺桐の言葉に、緋深は小さく息を呑んだ。底のない深みのある声は、やはり目の前の男がただの浮屠ではないことが窺える。こんな深みのある凄みが出せる、思わず緋深が息を呑む戦いに餓えた目をする男が、ただの宗教家なはずがない。「……血がかかったら、何色の貝だろうと真っ赤になって、わかんなくなる。変わらないだろ」「まあな。心情的なものが多いのも確かだ。真っ赤な貝殻の中の薬など、中身は毒のようだからな」 最初にあったときと同じように呵々と笑っているが、最初に見た闊達な印象が緋深の中から消えた。刺桐の中で飼われている獣の唸り声が、もう聞こえてしまったのだ。(どいつもこいつもっ……何でこうっ、喰えない奴らばっかりなんだ!?) 緋深は内心呻く。頭痛がするのは、きっと怪我が原因ではない。 話が逸れたな、と刺桐は肩を竦め、緋深に向き直った。「兎に角、お前も、あの子もきちんと治療と養生をすれば助かる。治療の終わったお前は、あとは栄養をしっかりとって、安静にすることだ。病人食はすでに用意できている。そうだろう? 千波」「即席の、だけどね」 細い音の声が背後から聞こえ、緋深は慌てて振り返り目を瞠った。緋深より余程病人に見える、細長い体躯の男だ。青白い頬を動かし、緋深に優しげな笑みを向けた男は手に持っていた碗を差し出す。「はい。弱った身体でも食べやすいと思うよ」 緋深は差し出された碗から漂う芳香に、喉がなった。空腹を訴え、胃袋が収縮する。唾液が口のいたるところから溢れ出し、身体全体が食事を望んでいることを訴えている。ここで、食事をすれば胃は満たされ、栄養が身体に周り身体は健康になるべく活動を始める、とはわかっている。栄養が今の自分には必要で、大人しく受け取るべきだとも。 わかってはいるが、緋深は緩く首を左右に振った。千波が困惑した表情を浮かべ、刺桐が目を細める。「何か食べれないものがあった?」「そうじゃない」「なら、きちんと食べろ。今のお前には、食事が必要だ」 刺桐が真面目な顔で、緋深を見つめる。真剣な光を宿した瞳は、医師の顔だ。忠告、というよりは命令に近い声音は、説得力がある。「…………朔夜が目を覚ますまで、食う気になれない。だから、悪いけどいらない」「馬鹿げたことを言うな。さっき言ったばかりだろう。血を、身体を過信をするな。守人でも死ぬときは、死ぬ。身体は壊れるんだ。」(わかってる。自己満足だ、ただの……………わかってるさ) 緋深が食を断ったところで、朔夜の様態が改善されるわけではない。むしろ食を断つことで自身を弱らせ、いざというときに朔夜を守ることさえできない可能性さえある。賢明な判断を下すのであれば、大人しく食事を口にすべきなのだ。 だが、それでもできないのだ。 青白い顔で、死体のような様相で眠っているの朔夜の顔を見てしまったのだ。のうのうと自分だけ食事をし、回復に向かう気には到底なれはしない。自分でも愚かだとは思う。だがもし緋深が朔夜絡みのことで冷静かつ賢明な判断が下せるならば、あの莫迦から逃げていた際もっと良い行動や方法が取れていただろう。朔夜をここまで弱らせるような結果にならなかったかもしれない。そう思うだけで、食欲など減退の一途しか辿らない。「白湯だけは、飲む。……………譲歩して、薬もだ。けど、食事はしない」 ただの自己満足で、愚かな行為だとしても、だ。ただの意地だとしても、譲る気はない。「意地でも食わせてみろ。白湯や薬だって、俺は断る」 呆れたような表情のわりにどこか剣呑な光を瞳に込める刺桐を睨み付け、どうやって言いくるめるか緋深は必死に考えた。
2007年03月13日
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