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「何をしているのですか?」 どこか楽しげな男の声に、睦月ははた、とした。ゆるゆると周囲を見回してみると、自分の手元に硝子の破片が散乱いしてる。白いテーブルクロスには琥珀色の沁みがじわじわと侵蝕し、睦月のほうへ勢力を伸ばしてきていた。(……わ、たしが、コップを落とした?) ぼんやりとした頭で睦月は正解を導き出したが、呆然と座ったままだ。躰が、うまく動かない。視線などは動くが、手や足などは完全に制御不能であった。 ようやく躰が動きだしたのは、熱い液体であったはずなのに、いつの間にかぬるくなった紅茶が睦月の太腿のあたりにこぼれ落ちてからであった。「あっ……そ、その、ご、ごめんなさい」「構いませんよ。その程度」 慌てて謝り、拭くものを探しだす睦月に対し、男は平然としたものだった。男は指を一つ鳴らす。すると砕けた硝子も、飲まれることがなくなった紅茶も、テーブルクロスや睦月の服の沁みさえも掻き消えていた。思わず、きょとりと睦月は眼を丸くする。「……凄い」「これぐらいできて当然です」 夢だから、何でもありなのだろう。だが、睦月にはできないことだ。こっそりと新しい紅茶が欲しいな、と願ってみても、何一つ変わらない。男がもう一つ指を鳴らせば、簡単に出てくると言うのに。「何で、お兄さんができて、私ができないんだろう……私の夢なのに」「当然でしょう。君と僕とでは格が違うんです。この空間の主導権が僕にあるに決まってます」 きっぱりと言い切られると、そうかもしれない、と睦月は思えてきてしまうのが、不思議で仕方がない。だいたい、格が違う、とは日常聞き慣れない言葉、と言うより誰も使おうとしな言葉だ。呆気に取られるしかない。 男は睦月の困惑を無視し、話を進める。「で、どうかしたのですか? 話の途中で、麁相をして」「えっと……わか、んない。なんか、急に躰に力が入らなくなって」「違うでしょう?」 え、と睦月は眉を軽く顰めた。何故、男に否定をされるのだろう。睦月自身わからない感覚だと言うのに、断言の口調で、間違いを犯した生徒を指摘をするように言われてしまうのだろうか。 睦月の困惑を軽く笑い飛ばし、男は人差し指をすっ、とテーブルと平行にした。指された先は、睦月の小さな手だ。「震えていますよ、あなた」 楽しげに笑いながら指摘されたことに、睦月は困惑した。確認しようと恐る恐る視線を下げると、確かに指先は震えていた。だが、手だけではない。真冬の外に夏服の格好で放り込まれたかのように、全身が小刻みに震えいる。「な……んで?」「やはり消えてませんか。『傷』は。まあ、そうでしょうね」「え?」「………………藍閃」 藍閃、という名前を慈しむように、楽しげに男が口の中で転がした。その瞬間、睦月の背にぞくりと悪寒が走り、一度大きく身が痙攣する。 恐怖であり、恐怖でない感情が胸の奥で爆発する。睦月の身を震わせたのは間違いなく恐怖だが、だが妙に実感がないのだ。どこか他人事のようなのである。恐怖を感じたのは間違いないのだが、どうも『睦月が体験した恐怖』という感じがしない。酷く曖昧な感じなのだ。 睦月の困惑を面白げに眺めていた男が、ふと、 おや、と呟く。どうしたのか、と思い、何処か縋るように睦月は見つめた。この困惑の原因を男なら、教えてくれるのではないか、と思ったからだ。「どうか、した?」「ええ。席を外します。どうも『招かれざる客』が来てしまったようで」「? ……わかりました」 弱々しい眼差しと声を、無慈悲にもあっさりと男は振り払った。席を外す、と言う言葉を放つと同時に席を立ち、睦月の了承を聞いているかいないかわからないほど、さっさといなくなってしまった。 置いてけぼりをくらった睦月はしばらく、自問自答することとなる。何故、何が、何で、と自分が感じた不可思議な感覚を確かなものとしようと足掻くが、埒が明かない。手がかりがなにもないのだ。 考えているうちに、いつの間にか震えが止まった。震えが止まってしまえば、更にさきほどの困惑が薄れ、あのわけのわからない恐怖の姿の輪郭がぼやいく。 睦月は一度大きく息を吐き、温かい紅茶を飲み干した。喉を通っていく温もりに、少し心が落ち着き、余裕が生まれる。(相変わらず勝手気ままな人だなぁ) ふと、さきほど姿を消した男のことを思いだした。勝手気まま、というより気まぐれに近いのかもしれない。きっと男の本質が勝手気ままなのではなく、睦月への対応が気まぐれなのだろう。ふとしたきっかけで手元に転がり込んできた珍獣を、気まぐれに相手をしている、といった感じだ。そう思い、睦月は少し困ったように笑った。悲しい、とはどうも思えず、むしろあの人らしい、と思い笑ってしまう自分に対して、肩を竦めるしかない。 さて、と睦月は気を取り直し、首を傾げ、また悩みこみ始めるのであった。
2007年04月12日
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洒落た模様が描かれたカップを、ソーサーの上から取り上げた。ゆっくりと口元に近づけると、淡い芳香が鼻を擽るのに、思わず睦月は笑み零れる。 ようやく一息つけた。 夢の中でようやく、とはおかしな話である。だが、言葉に表すならばこれしかない。 叔父から逃げるように墓地を去った後、今日何をしたかをよく睦月は覚えていなかった。笑えていた、とは思う。いつもと変わらない行動を取れたとも。無意識にでも取り繕えた自身に、自嘲するしかない。「大人しいですね。まぁ、静かでいいですが」 唐突に話を切り出した男に、睦月は眼を瞬かせた。そのまま首を少々右に傾ける。一体何のことだろう。 睦月は基本的におっとりした性格と言えた。男と対面して茶を啜るのも、もう幾度となる。男が喋り、睦月は聞きながら相づちをうったり、疑問を投げかける、というのが常の茶会だ。(何をお兄さんは言いたいんだろう?)「言ったでしょう? 『文句なら、また今度聞いてあげますよ』と。早速色々騒いでくれるかと思ってましたから。‘あれ’について、耳障りなほど、ね」 --あの血まみれの夢。 睦月は思いだし、自然と顔が強張るのを感じた。思い起こすだけで、血の固まりを叩きつけられたようだ。喉の奥に絡みつくような匂いが蘇ってくる。「……気になることは、ありますけど……………所詮夢ですし」(何より……思い出したくない) --あれは、思い出してはいけないものだ。 直感だが、躰が、頭がそう叫んでいる。思い出した瞬間、何かが壊れてしまう。そう思えてきてしかたがないのだ。ならば、忘れてしまったほうがいい。何を失ってしまうか、わからないのなら。 男はきっと、睦月の本音などわかっているのだろう。どこか呆れたような嘲笑を浮かべている。睦月自身も同感なので、文句はまったくないが。(……それにしても…………何でお兄さんはわかるのかな?) 気が緩んでいるのだろうか。 睦月はこの空間では、この空間だけでは素でいられる。天城の家の中では言うまでもないが、友人の前でも近頃取り繕っている感があり、申し訳ないような気がしていた。心許せる幾人かの友人に、心配をかけたくない。その思いからであるはずだ。だが、どこかで知られたくないと言う思いもあるのも確かである。心の奥底では、不満などの負の感情で渦巻いている、と知られてしまうのが、恐い。それを受け止めてくれるとわかっていても、どうしても言えない。 だが、夢の中だけが素でいられると言うのもおかしな話だ。 男と初めて出会ったのは、中学校に上がってしばらくしてだ。夢にいきなり、当然のように出てきて、夢の主導権を全て奪っていった。今まではぼんやりと様々な夢をみてきたが、男が現れてからは彼ばかりの夢を見るようになってしまったのだ。『おやおや。まさか君と対面するとは……まぁいい。暇つぶしぐらいにはなるでしょう』 その妙な言葉が、初対面の言葉だった。 男は会うたび、違う名を名乗った。楽しげに、しかも困惑している睦月を見て嗤っていたので、意図的であろう。『………どれが本当の名前なの?』『どれも本当です。嘘はついてませんよ。どれも過去、僕が名乗ってきた名前です』 にこやか-どこか作り物めいていたが-に笑って言うのものだから、睦月は勝手に『お兄さん』と呼ぶことにしたのである。(………あれ以来の付き合いだからわかるのかな?) だが、そもそもそれがおかしい、とはたと睦月は気が付く。 『お兄さん』は夢の中でしか現れない存在だ。つまり、夢の中の住人にすぎない。睦月が創りだした存在、と言い換えてもいいのかもしれない。ということは、睦月が考えていることなどお見通しだとしても、なんら不思議はないのだ。 だが、それにしては、どうだろう。自身が生み出した存在だというのに、彼は好き勝手ばかりしている。以前、ぽつりと文句を言ったら、可笑しいと言わんばかりに嘲い、断言された。『………お兄さんは何で私が創った、夢の住人なのに…私より偉そうで、強いかなぁ』『何を言っているのですか。僕が君‘何か’の創造物なわけないでしょう。君と僕の魂は別物ですよ。そもそも僕と君が同等なわけ、ないでしょうが。僕から見れば、君は赤子同然。一緒にされては困りますね』 思い出してしまい、思わず顔を顰める。うんうん呻りがなら悩みだした睦月に呆れたような視線を向けながら、男は紅茶を飲み干した。「まあ、そういうことにしておいてあげましょう。今日、あなたは珍しく褒めるに値することをしたので」「…………?」「今日はよく即答しましたね。あなたにしてはよくできましたよ」 いつもと変わらない表情で、実に素っ気ない声音で言われたので、まったく褒められている感じはなかった。いつものことなので、睦月は特に不快には思わない。むしろ、何のことを指して言っているんだろう、と首を傾げていた。「えっと………何のこと?」「海外への、あの馬鹿から逃れられるチャンスを、よく棒に振りました」 馬鹿、とは正義のことだ。何故男が正義のことをそう言うのか知らないが、何度訂正しても効果はなかったので、もう好きに言わせている。睦月さえ口を噤んでいれば本人や他者に知られることはないからだ。考えたくないことだが、男と正義が対面することになれば、本人を目の前でも平然と言い放つだろうが。「君が何をしようが、私には一切関係ありませんが……ですが、縋ろうとしたのを振り切って『この地』に留まろうとしたことは褒めてあげましょう。貴方にしては、珍しく僕にとって都合のよいことをしてくれましたから」 褒められているようには、一切聞こえない。むしろ、聞く人によっては馬鹿にされているような気さえする声音だ。睦月はだが怒りという感情は一切湧かず、むしろ首を傾げていた。(あれ?……どうしたのかな、お兄さん) おかしな話なのだ。 男が微かに微笑んだり、機嫌がいいときことは、はっきり言って男が『唯一の人』と称する人物の話を聞かせてくれる時だけである。それ以外にももちろん、微笑をするが、どうも心から笑っているようには到底見えないのである。(………いや、確か……私が天城家のみんなに気を遣っていることを知ったときとか、お兄さんは面白そうに笑ったっけ。『おかしな子ですね』と) 珍獣を見るような眼ではあったが。笑うと言っても、楽しい、というより可笑しい、と言った感じだが。面白いというツボが、若干一般人と違う気もするが。 笑う、は例外はあるにしろ、だが男が睦月を褒めることはなかった。睦月が男曰く『褒めるに値する』ことを、単に行わなかっただけかもしれないが。(どうして、かな?) そう思い、改めて睦月は男を眺めた。男ははっきり言って、睦月からすれば捉えどころのない存在である。男はポーカーフェイスはお手の物であり、話術に長け、決して睦月に本心を探らせない。海千山千の存在だ。 だが、何だかんだ言っても、睦月はもう4年ほど毎日男と顔を合わせ、会話をしている。具体的な理由は特に上げられないが、直感めいた閃きがあった。「………ねぇ?お兄さん」「何ですか?」「今日、何か…機嫌いい? ひょっとして」「ええ。機嫌はいいですよ。とてもね」 男の口の端が緩く上がり、眼が細められる。珍しい、純粋で綺麗な微笑みだ。睦月は思わず眼を瞬かせた。それだけお目にかかる機会がない微笑なのだ。「藍閃【ランセン】にもうすぐ会えるんです……機嫌が悪くなるはず、ないでしょう?」 --藍閃 その言葉が耳に届いた瞬間、同時に硝子を床に叩きつけたような音がした。その音に睦月は思わず身を強張らせ、眼を強く瞑った。--------------字数制限に負けました分割します
2007年04月12日
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