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30オトコの財布事情掲示板風呂を掃除しながら、唐突に思い出した。♪まっかぁなおっはんなんの~~ とーなかーいさあんーわ~~そうですね、26日から急に聞こえなくなったアノ唄。何を思い出したかと言うと、勘違い。♪くっっらっっいーよみっっちっっわ~~~ 「暗い夜道は」⇒「暗いよ、道は」と思っていたのだよね、幼少の頃。「暗いよ、道は。ピカピカのお前の鼻が役に立つのさ」意味は通るんだけど、メロディー的に聞くと、「道は」のところで終わらないでそのまま「ピカピカの」と行くのが何だかヘンで、子供の頃はここんとこだけスッキリしなかった。もう1つ。♪こよーぉいこっそーわっっと~~ぉ「今宵こそは」⇒「小良いこそは」もちろん「小良い」なんて日本語はナイ。だけどそれ以上に、「今宵」というコトバは想像もつかない、まるで知識の外だったのだよね。だから、まだ想像のつく方で勘違いしてしまい、きっと僕が「小良い」というコトバを知らないだけで、しかもオトナが口にしてるのも聞いたことないけど、多分詩的な表現かなんかで、日常は口にしないんだろうね、「小良いこそは」と勝手にナットクした挙句に、「鼻が赤いのも、まぁ、たまにはちょっとヨイじゃないの」とトナカイさんが喜ぶものだと信じていた。そして、風呂掃除なんかしながらなぜか唐突にこの勘違いに気づいたことより、はたまたこんな勘違いをしていたことより、何よりも、いつ、この勘違いに気づいて「え~~!?」と赤面したか、さっぱり憶えてないのだよねぇ、その瞬間を。それが一番オドロキ。何でもイイけど、赤い鼻で夜道が照らされるものなんだろうか?というのも、この唄のナゾね。地面は雪で真っ白、という前提かな? だったら何となく解る気もしないでもないけど…。さりげなく、風呂まで掃除したよん♪というのをアピールしてみました(笑)。
2003年12月26日
30オトコの財布事情掲示板「今年の僕はちょっと違いますよ!」(予告編)いやぁ、年末ですね。去年の今頃はと言うと、んもう、それはそれは目くじらを立てて年内に上げるべき仕事に勤しんだ挙句に、それが終わったら半ば放心状態になり何もやる気が起こらなくて、枚数だけは準備した白紙の年賀状をほっぽったままダラダラと年が暮れて、ダラダラと年が明けて、ダラダラと新年がスタートしたわけで(北の国から風)。その証拠に、近所の神社で新しいのと取り替えるべきだった午(ウマ)歳の破魔矢が未だに飾ってあったりするわけで。キッチンや部屋の大掃除をしたのは、それからだいぶ時間も経った4月だったりしたわけで。しかぁし!今年はちげーぞ。宝くじなんか買っちゃったあたりからしてかなり違うのだけど、別にどうしても年内にあげなくても全然どうにかなる仕事もバッチリ上げて、年賀状もほぼあとは自筆でサインするだけで、今日来たダスキンから、お気に入り風呂掃除グッズもきっちり入手したし。肝心の掃除する日もきちんと予定を取って空けてあって、だからって忘年会のお誘いを断っているわけでもなく、それでもまだ日数に若干余裕があるのね、うふふ。だから昨日のクリスマスイブには、ひろしくんにせがまれてスパークリングワインなど購入し、だけど、せがむわりには彼は1杯くらいしか飲めないので、開けたからには残りを消費しなければもったいない都合上、「今日は使い物にならなくてもイイや」と休みを決め込みクリスマス気分につきあってあげたりなんかして。嗚呼、一昨年の年末もテンパってたのだよね、かなり。だからすんごい久々の年末気分なのだよね。あとは、今日するべき最後の仕事の詰めをしたら、本当に掃除+忘年会+年賀状を残すのみ。すばらしい。これぞ師走。今年は、別な意味でダラダラするぞ。精神衛生上、清く正しい寝正月を過ごすぞ。2年越しの破魔矢も替えるぞ。
2003年12月25日
30オトコの財布事情掲示板夕刻、仕事の野暮用で山の手へと出掛けた。年の瀬も押し迫りと云ふには少しばかり早過ぎる師走の十五日、辺りは未だ気忙しさも中途半端で、それが却つて気だるさを誘ふやうだ。私自身、年内に仕上げておくべき仕事はあれやこれやと色々有り、やれクリスマスだ年末だと騒ぐのはラヂオばかりと、少々うんざりして居た。国電の改札を抜け、山の手を降りていく側の出口へ向かう。宵っ張りの私には、この時刻がほぼ一日の始まりであるのに対し、周りの人々は一日を終えた充実感と倦怠感に身を委ねて居るかのやうで、それでも、バスを待つ長蛇の列を為す人々は帰路を急ぐのかどこかしらそわそわして立つて居る。駅構内から眺め遣ると狭い歩道に人が溢れ、バスに用の無い私には邪魔なばかりである。さうは云つても、其処を通り過ぎないことには目的地へ向かうことも儘ならず、幾重にも成る列と塵紙配りの若者の間を擦り抜けようと私は覚悟を決め正面を見据えた。すると、列の隙間から小屋とも謂えないまるで箱のやうな四角い屋台風の物が垣間見えた。何度も目にした事のある其れは光景として別段珍しい訳でも無いが、其の日に限り、はて一体此れは何の小屋だつただらうかと気になつて、バスを待つ厚い列を分け入って近付いてみた。その小屋には小さな窓が有り、何やら文字と数字の書かれた紙切れがべたべたと貼つてある。嗚呼、さうだ。此れは宝籤を売る小屋だつたと思い出した。さう云へば、今年は年末宝籤を買つて見やうと思つて居たのだつけ。最近、躯も妙に腹が出て来たり、疲れ易くなつたり、我が身を訪れる年波を自覚するに連れ、精神の面でも若さ故の下らぬ拘りから一つずつ解放されて行くと感じる事が多い。私は私なりの潔癖な精神を貫いて来た訳だが、その一つが宝籤を買わない事であつた。馬鹿馬鹿しいと云へば其れ迄であるが、元来、瓢箪から駒のやうに元手の増す博打全般への私の嫌悪は相当な物で、その一環として、宝籤を買うなど考へた事も無かつた。しかし、二年前より二回りも大きなズボンを平気で履けるやうになつた今、気が付くと宝籤への否定的な拘りも無残に霧散してしまつたらしい。私は、バスを待つ列を更に垂直に深く分け入り遂に目指す小屋の前へ立つた。取り敢えず二十枚ほど買う事にする。用件を告げて金額を払うと、「俺も大人になつた物だ」と謂ふ、此れ又馬鹿げた満足感がむくむくと込み上げる。そんな状況に恍惚として居ると、小屋の中の小母さんが二十枚の紙切れを手渡しながら私に声を掛けた。「大きいの当てて下さいね。」想像だにして居なかった言葉に俄かには返答できず、頭の中で同じ台詞を反芻する。「大きいの当てて下さいね。」其の小屋は、正直只のみすぼらしい箱で、其処に限らず、往来に有る宝籤売場と謂ふ物は、多かれ少なかれ何処と無く荒んだ雰囲気を漂わせて居るものだ。そこに座る見ず知らずの小母さんにこんな気の利いた温かい言葉を掛けられるとは思いも寄らなかつた。其れは決まり文句であるのだらうけど、あの小母さんは、其の小屋で宝籤を買って行く全ての人に当てて下さいねと思って居るに違い無い。何だかそんな風に思える口調だつたのだ。漸く、有難うと私は答へ、紙切れを受取つた。嗚呼、もう此れは当たらなくてもいいやと思つた。たつた二十枚の紙切れを買うだけで、今まで素通りしていた人の気持に触れる事が出来た、其れがこの二十枚の紙切れの対価、いや其れ以上の物だと思つた。特別大きな感動を覚えた訳では無いけれども、知らなかつた事に出会えた、其れは確かに又一つ大人に成つたと謂う事だと思つた。踵を返すと、再び厚い列を先程とは逆に分け入り、狭い歩道に沿って交差点の方へ向かつた。駅に着いた時に抱いて居た気だるさは消え、道行く人が、宝籤を買った人も買わない人も、皆が良い年を迎えればいいなと、さう思った。
2003年12月19日
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