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イパルが昨日突然友達を連れてきた。その子ソンホともう一人ピルグはイパルの今一番中いい友達。イパルのお誕生日に誰を呼びたいかと聞いたら、この二人の名前を挙げた。二人は男の子。イパルのクラス(5歳児クラス)には残念なことに女の子がイパルしかいない。だから友達は必然的に男の子だ。中でもピルグはイパルの大好きな男の子だ。クラスの中でも背の高いピルグはイパルのお兄ちゃんのようだ。イパルが友達が来て嬉しくて興奮しながら、きっと毎日話して聞かせているだろう同じ話を、またピルグに話して聞かせる。ピルグは「聞いたよ、それ」とぶっきらぼうに答えるが、それがまるでお兄ちゃんみたい。イパルと同じくらいの背のソンホは甘えっ子。お父さんはアメリカにいて、お母さんはいつも仕事で忙しいので、おばあちゃんが面倒をみている。そのせいかとても甘えん坊で、何だか子供っぽい。一度言い出したら聞かない、好き嫌いの多い、一人っ子タイプ(実際一人っ子)。イパルの誕生日(9月)以来遊びに来たいと言いながらも、なかなか来ることがなかった二人。いくら同じアパート内でも彼らの住む棟と家の棟は道路を挟んでいるため、子供たちで行ったり着たりも出来ないし、おばあちゃんたちも悪いと思うのだろう。ピルグとソンホは昔から行ったり来たりの仲のようで、ほとんど一緒にいるらしい。まるで兄弟のようだとおばあちゃんも言っていた。その二人が突然来た。数日前のことだ。その日ハルモ二の棟で降りたイパルは二人にバイバイしたんだけど、ちょっと後に警備室からインターフォンで、「イパルにナンジャチング(ボーイフレンド)が来たよ」と言われた。その二人を連れて、家まで行き、夕方まで楽しく遊んだ。ホパリも大喜び。そして昨日はソンホがイパルと一緒に幼稚園バスから降りてきた。遊びに来たという。ピルグが幼稚園に来なかったそうで、一人だけ遊びに来たのだ。そしておばあちゃんが後から迎えに来た。実はこの三人には別れが待っている。ソンホは4月6日にアメリカに行くことになっているそうだ。その数日後私たちは日本へ。ソンホはずっと離れて暮らしているお父さんのもとへお母さんと行き、これからはアメリカに住む予定(彼はアメリカで生まれた)。でも小さい時に韓国に来て、ずっとおばあちゃんのもとで生活し、しかも幼稚園も楽しく行っている。アメリカ行きはかなりの拒否反応をしているそうだ。本当は1月に行く予定だったのが3月になり、結局行かずに来月に持ち越しているそうだ。この来月に行くことも本人にはまだ言っていないらしい。ピルグも心の準備が必要だろう。日本へ行くことはイパルはみんなに言いふらしているから、みんな知っているけど、それがもう会えないという意味だとは誰も分かっていない。もちろんイパルも分かっていない。私は3人でいつまでも持っていられる何か記念になるものがあったら良いなと思っている。それを見たら会えない二人を思い出せるような。そして何年も後でもいつか再会できた時に、懐かしみながらまた友情が生まれるように。まだ手紙やメールを書くことも出来ない小さな友達たちが、その小さな友情を忘れないでいられるにはどうしたら良いだろうか。
Mar 26, 2005
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昨日、かよぬなさんから電話をもらった。彼女が何で私の電話番号を知っているかというと、以前彼女が留学しようかなといっていた時に、「何かあったら連絡を」と個人的に私の携帯の番号を教えていたからだ。彼女はその番号を持っていてくれて、今回韓国旅行をした際にわざわざ挨拶の電話をしてくれた。突然あまり鳴らない私の携帯が鳴り、見知らぬ番号(プラス顔文字つき^^)。きっと間違え電話だろうと思い、びっくりさせるつもりで「もしもし(日本語で)」と出た。そうしたら向こうからも「もしもし」しかも知らない声。私もびっくり。嬉しかったなぁ。私はネット上の人と連絡とか取ったり、オフ会に行ったりとかしないので、今回が初めて、ネット上で知り合った人との交流(というのは大げさね)であったわけだけど、何だか嬉しかった。韓国に来たからと言って、電話をくれたことが嬉しかった。私だったら、電話をかけるのが大の苦手なので、きっとしたくても出来なかったりしそうと思うからなお更だ。昨日無事韓国に着いてお友達といるそうだ。こんな時だけど、安全に楽しく旅行してください。
Mar 26, 2005
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私は今までどうしても忘れられないおばあちゃんがいる。それはかれこれ9年くらい前にたった数分だけ言葉を交わしたおばあちゃん。私はその頃、語学学校に行ってて、当時彼氏だったパパと何人かの韓国人の友達とコリアハウスと言ういかにもありふれた名前の韓国レストランに昼ごはんを食べに行っていた。そこはサンディエゴの中では結構有名だった。と言うのは大きくて、韓国らしい建物だったので目立ったのだ。そしてその頃は数少ない韓国レストランの中で結構おいしい方だった。(今は味がかな~り落ちました)そこで私たちは昼ごはんを食べ終わり、私はトイレに立った。女性用トイレはもう誰か入っていて、私はドアの前で待っていた。その時、後ろにおばあちゃんが来た。十何人の団体で来ている韓国人のグループの一人だった。私のすぐ後ろに来て、なにやら韓国語で話しかけてきた。その頃の私は韓国語なんて記号の世界だったから、おばあちゃんに「I’m sorry. I don’t speak Korean.」と言うと、「日本人ですか?」と突然日本語ではなしかける。お年寄りのおばあちゃんの口から突然日本語が出てくるのでびっくりしながら「ハイ」と答えると、おばあちゃんは目を細めて、「私も日本語少し話せますよ。ね?上手でしょう?」と私の手をとってなで始めた。それはまるで私の亡くなったおばあちゃんが昔私の手をとって撫でてくれていたように、優しくて暖かかった。それと同時におばあちゃんが何で日本語がそんなに上手に話せるのか考えたら涙が出そうになった。「ごめんなさい」とわけもなく言いたくなった。その時の私は初めて韓国人という人種に出会い、仲良くなるにつれて日本が過去にしてきたひどい仕打ちに対して、よく思い出すようになっていた。それは日本の教科書のほんの1ページかそこらだったけど、私には強烈な部分だったからだ。他国の人たちの名前を日本名に変えてしまい、日本語を強制する、自分たちの文化を捨ててしまえというのと同じ行為だ。それを想像しながら当時授業を受けていた私は、その部分の授業はほんとにあっという間に終わってしまったけどいつまでもそのページに戻って何度も読み返した覚えがある。韓国人と仲良くなってから、時々歴史的な話が持ち上がってくる。そうしているうちに、その昔に教科書で読んだ部分を思い出し、そのおばあちゃんの言葉が何だか胸にしみこんできたのだ。おばあちゃんは別に私に責めるように言ったわけじゃないし、むしろ懐かしげに私を見ていたんだけど、その分私の心は痛かった。私はただニコニコしながら何も言えず、おばあちゃんに撫でられたままだった。この事が今でも忘れられない。何でか分からないけど強烈に心に残ったままだ。多分パパに話したら「何で?」と不思議がられるだろう。そのおばあちゃんの顔も声も覚えてないんだけど、その時に私が感じた気持ち、そしてそのおばあちゃんの手の感触だけずっと残っている。
Mar 24, 2005
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つい先日、日本領事館へ行ってきた。先週のデモがかなり激しく、大使館だけでなく領事館までと言う話だったので、心配でつい領事館に電話して聞いてみたけど「今週はそれほどではないみたいですよ。大使館の近くは通らずに、裏門の方から入られたら全然心配ありません」と言う話だった。その日は、日本で新しく借りる公団の申し込みに必要な在留証明や印鑑証明、そして子供たちは日本のパスポートを持っていなかったので、その申請のために向かった。海外にいる時、みんなきちんとしてるんだろうか?私がズボラなんだろうけど、どうせ日本に住むこともないだろうし、なんてかなりいい加減だったので、在留届も出してなかったし、日本の住民票はそのまま、パスポートも旧姓のままだ。(私はパパの姓に変えたのだ。)領事館ではパスポートの申請、在留届をして証明書を発行、印鑑登録をして証明書を発行、ここまでしないといけなかった。さぁ一体どんな雰囲気なのかと少々緊張気味に安国駅を降りた。うん、いつもと変わらない様子。前2回は午前中だったけど、今回は午後なので、車の数が多かった。アックジョンより空気が悪い。何てことだ。いつも歩いた道は大使館の横を通り過ぎてたので、ちょっと遠回りして領事館のあるビルに向かう。そのせいかデモらしきものは一度も見ず、どこかでそんな騒ぎをやっている気配すらなかった。領事館は雑居ビルの中なので、本当にいつもの通り。7階(領事館)に行く私たちを変な目で見るわけでもなく、当たり前に着いた。領事館はビザ用(韓国人・外国人)と証明書等用(日本人)と両手に分かれている。今回初めて日本人用の方に向かったけど、窓口はビザの方と同じように韓国人がやっていた。最初はちょっと愛想のないおばさんが対応。事務的に山ほどの書類を渡された。パスポートの申請は?と聞くと目で横の方を指して、「あっちです」と言う。どこにあるのかとウロウロしてるとパスポート窓口のお姉さんが「ここですよ」と書類をくれた。パパにも手伝ってもらって何とか書き終えると、まずはパスポートからと思い、さっきのお姉さんの所に書類を持っていった。そこで訂正する所を訂正し、今度は名前のスペルで問題。ローマ字式を取る日本では特別なスペルの場合、その申請書を出さないといけない。そこでなぜか私のパスポートまで出てきて、旧姓から直さないといけないのと、スペルを申請するのとで、3人分の書類(2セットずつ!)が渡された。そして在留届はインターネットでやったけど、まだ届いてないから、とここでまた新たに申請書。結局そのお姉さんが全ての書類を預かってくれて全部まとめてやってくれたので、助かったけど、とにかく書類記入に1時間以上かかった。お姉さんはすごく親切で、私に書類を渡すたびに「済みませんが・・・」と笑いながら申し訳なさそうにする。いやいや、今まで全部やってこなかった私が悪いのに、いきなり面倒なケースをもたされたお姉さんに、私の方が申し訳ない。しかもパスポートは以前違う人に聞いた時は、「申請する時か受理する時のどっちかでいいので、必ずお子さんたちを連れてきてください」と言われたのだが、お姉さんは「本当は来ないといけないんですけど、今日大変だったし、いいですよ」といってくれた。子供たち二人を連れてアックジョン駅まで徒歩15分、電車で10分さらに駅から15分ほどの道のりを来ることを考えたら、本当にありがたいことだ。ちょっと無理やりの感はあったが、とにかく必要なことは全て終わり、何とか帰ってきた。地下鉄に乗ると、「次はアックジョン駅」と言うアナウンスとともに、あの漢江の橋を渡る。何となく都市から、私たちの住む町に帰ってきた気分だ。
Mar 24, 2005
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昨日あたり、楽天にも在韓日本人ママの日記に独島問題に触れている箇所を何箇所か見つけた。私は正直他の日本人と同じ独島が韓国領だろうか竹島と言う日本領だろうがどっちでもいい。だからパパが独島が韓国のものなのは事実だと言われれば、そうなのか、日本が勘違いしてるか、認めたくないんだな、なんて思ってる。でもこの問題のために韓国人がさまざまなデモをしながら自分の体を傷つけたり、ネット上で日本人を攻撃したり、Naverというブログでは「独島はウリタン(私たちの土地)」と言うアイコンを無料配布してほとんどのブロガーがそれを使っているのを見ると、腹立たしかったり、残念だったり、ちょっと苦笑いしてしまったりする。でも、まぁいいや。どれも良識ある大人たちがしてること。自分たちの考えがあり、自分の責任の下に動き、時には自分を傷つける。これに対しておかしいと思うのは、私が韓国人でないからであって、決してこれを間違っていると判断してはいけないのだから。韓国人を日本人のものさしで測ってはいけない。ただひとつ、どうしても納得のいかない事がある。これは国民性とかで何とかしてはいけないと思う。何人かの在韓日本人ママの日記で幼稚園や小学校に通う子供たちが、学校で「独島はウリタン~」と言う歌を歌ったそうだ。私はこれだけはどうしても嫌だ。もしこのまま自分の子供が韓国で育つとしたら一番嫌な部分の教育方法。これは今回の独島問題だけではない。イラクで韓国人の人質が殺害されたときは反米教育が直ちに行われた。そうやって教わった子供はどうだろうか。これはいわゆる「一時的」な大きな「感情」だ。時が過ぎれば、また友好だの同盟だの言って、両国が近くならざるを得ない場面が来る。本当に戦争でも起こさない限り、アメリカにしろ、日本にしろ、そして他のどの国にしても、ある意味仲良くやっていかないといけないのだ。ある部分はとっても嫌いでも、だからってその国の悪い部分を強調して子供に教えたとしたら・・・。子供はその国が悪い国、自分たちにとって「敵」と考える。でもちょっと後には、もしかしたらほとんど同時にその国は「同盟国」とかその国との「友好の年」とか言って、その国が実は「味方」でないといけない国の事情が出て来る。子供たちの頭の中ではどう整理すればいいんだろうか?敵であり味方である国。多分高校生や大学生にでもなれば、その辺の微妙な外交が理解できるだろう。だけど幼稚園生や小学生にはとてもそんなもの理解できない。悪いものは悪い、良いものは良い。これが小さな子供たちの考え方だ。いくら世論が燃え上がっているからといって、こんな小さな子供たちの教育の場に大人の感情を持ってきてはどうだろう?「独島はウリタン」と教えるのは良い。でもそのためには日本がうそつきで、韓国の領土を侵略する悪い国ということも教えないといけないだろう。(今の状況では)今でこそ、日本のアーティストが出てくる映像などは放送禁止になったが、ちょっと前までは文化開放のおかげで、色々日本の物が流れていたわけだし、もしかしたら少しおさまった頃、また流れ出すかも知れない。それを見て、韓国の子供たちは混乱しないだろうか。そして韓国にいる日本人とのハーフの子供たちは自分のアイデンティティーをどう位置づければいいのか。日本のYahoo!に行っても竹島については皆無といっていいほどニュースには現れてこない。そんな日本の態度、これまでのアジア諸国から言われている諸問題をのらりくらりと避けてきて、はっきりしない態度を日本は改めないといけない。いくら「謝った」といっても、その謝られた国々が納得していなければ謝ったことにならない。今回はこれまでにたまりに溜まった韓国の日本に対する怒りや不満が爆発した形なんだろうとも思う。だけど!その感情で子供を教育して欲しくない。良いと思うか悪いと思うか、許せると思うか許せないと思うか、これは教育を受けたあと子供が自分たちで決める、感じることだ。大人がその教育の間にこう感じなさい、こう思いなさい、と決め付けるものではない。幸いイパルの幼稚園ではその歌はやらなかったらしい。その代わり「愛国歌」は歌ったみたいだけど。そんな歌を歌ってきて、「イルボンナップダ」と言われたら、私はどう答えれば良いだろう。何人かが言ってたけど「いっそのこと北朝鮮が独島を爆発させちゃったら良いのに」、大賛成だ。でもパパに言ったら「そんなこと日本が言っちゃいけないんだよ」とちょっと真面目に怒る雰囲気になってしまった。私の手前、あまり感情的には怒りを見せないけど、この独島のことできっと苛立っている、そんな感じ。私みたいに笑って話せる問題じゃないんだ。その辺日本と日本人はもっと理解して欲しい。指を切る韓国人をバカみたいと笑わないで、少し深刻に受け止めて欲しい。韓国は今本当にすごいことになってるんです!!
Mar 18, 2005
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これは韓国語の表現で「1歳年を取った」の意味だ。そう、今日は私の誕生日。本当に30歳を過ぎると誕生日なんて嬉しいともなんとも思わなくなった。それと同時に、自分が今何歳かも分からなくなった。特に韓国にいると、数え年で答えるから、本当の年は何歳か計算しないと分からなくなる。そして1歳、時には2歳くらい若返った気分で本当の年を思い出す。おとといの夜、突然ハラボジがパパに電話してきて「もうすぐイパルエミ(私のこと)誕生日だろ。早く言わないとダメじゃないか」と言ってきたそうだ。別に特別なことをするわけじゃないんだけど、なぜかそんな電話をしてきた。そして今日はパパがハルモ二に電話をしたらすでに私のミヨック(わかめスープ)を準備していると言う。考えたらほとんど人生の半分を生きてきたことになるわけで、そんな事を考えると自分に「良くやったな」と言いたくなる。なんというか・・・子供の時から自分がこの先何十年もこうやって生きていくなんて想像できないと思っていたのだ。いつかは自分がお母さんになって今自分のお母さんがしていることをするようになるんだ、と重い将来に頭を抱えながら眠りについたこともある。それが小学生の時のわたし。その私が人生の半分までやってきた。やっぱりすごいことじゃないかなと思う。誰でもやっていることなんだけど、「良く飽きずにここまで続けて来れたね」と自分に言ってやりたい気分だ。今日はきっと母も病室から「お誕生日おめでとう」と言ってくれてるだろうな。
Mar 15, 2005
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いつか紹介してやろうと思っていた一家。ちょっと老けたお父さんとちょっと若いお母さんとその息子6年生。お父さんは昔有名なモデルだったそうだ。ハルモ二も知っているモデルだ。そして今は結構大きいモデルエージェンシーのCEOだそうだ。ここにはCEOと名乗る人が7割はいくんじゃないかというくらいいるけど、彼は本物だそうだ。モデルだったと言うだけあって、背は高いしスタイルもすらっとしている。お母さんはきっと私たちのあまり変わらない年代だと思う。あまり顔をあわせたことはないけど、一度血相を変えて、洗濯置き場の排水が流れないけどこっちはどうか、といきなりたずねてきた事がある。そして翌日は知らん振りだった。そして息子。お父さんの血を受け継いだのか、でかい。だけどすらっとではなくて全体的にでかい。だから声もでかい。隣のチョンダム小学校ではなくて、どこか私立の学校に通っているらしい。そしてその一家の運転手。きっと会社のだと思うけど、家族中使いまわしている。運転手は朝からベンツを磨き待機。子供を学校に送り、お母さんをどこかに送り、お父さんを会社に送る。その待機中には彼らのごみ捨て、車手入れなどなど雑用が結構ある。彼らはとにかくうるさい。ここに引っ越してきてすぐから感じてきたけど、うるさい。まず声が大きい。家族中、下にいる人に向かって叫ぶ。ここは11階。聞こえるためには思いっきり叫ばないといけない。それは朝でも夜でも構わず行われる。そして息子のサックス練習。絶対やる気がないんだと思わざるを得ない彼の練習は1年も2年も同じ曲の同じパートを延々と続いている。しかもドアは暗証番号で開くドアなので、番号を押す音、あく時の音、これも結構うるさい。この家族は出る度に忘れ物をするのか、絶対1回は帰ってくる。しかも夜中にもかなり出入りをする。そして大迷惑なのは、お父さんのタバコ。家の中では吸っちゃいけないのだろう。必ず廊下に出てくる。しかもなぜか私たちの家の目の前で。夏なんてたまらない。暑いから窓を開けてるとプワ~とタバコの臭い。かなりのヘビースモーカーなので、お父さんが家にいるときは毎時間といっていいほどタバコの臭いがやってくる。そのたびに窓をシャット。でも決して悪い人たちではない様なのだ。お父さんは子供たちとエレベーターで一緒になると必ず愛想良く話しかけてくれる。エレベーターから降りて階段を下りるとき、娘の手を引いてくれる。お母さんも挨拶したりしなかったりするんだけど、それは私が隣の人だって気づいていないからみたいだ。息子は警備アジョシ(おじさん)とかにはすっごく態度悪いんだけど、この前ちょっとエレベーターで助けてあげたら、にっこり笑って頭を下げていった。悪気はない様なので、隣でタバコをプカプカして吸殻を家の前で捨てられても、夜中の3時に廊下でうるさくされても、なかなか文句が言いづらい。いっそのこと嫌な奴らだったら喧嘩モードでも言ってやるのに。全然知らないモデルでもかつては有名だったと言うことで、一度くらい記念写真を撮っておくか。
Mar 13, 2005
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月曜日から3泊4日、私だけまた日本へ。今回で仕事も家も決めるぞという意気込みで。仕事は簡単に決った。なんせ10年前に働いていた病院だ。知ってる人は婦長さんになっていたり、懐かしい顔ぶれが何人かいた。家を借りる時に必要な書類など、わがままを言って無理やり出してもらったり、「やっぱり古巣に戻って良かったのかな」とちょっと嬉しかった。仕事が決れば次は家。行く前から目をつけていてある不動産屋とやり取りをしていた。実は行く前からあちこちの不動産に問い合わせをしている。返事の来ないところもあれば、事務的なところもあり、本当に親身になってくれる所もある。今回も行く前に何件か問い合わせて、それぞれ返事が着たけど、2回目のメールで実は今海外にいて夫が外国人だと伝えると、「じゃ、来た時にでも連絡ください」とあまり熱心ではない返事が来ることが多かった。その中で、ひとつの不動産会社だけ、相変わらず親身に対応してくれる所があった。ある家が気に入ってもっと写真が見たいが・・・と言ったら、わざわざ撮りに行ってくれた。実はなかなかそこまでやってくれない。返事も実に迅速に送ってくれた。インターネットがさほどメジャーな交流手段じゃない日本では、きっと実際に出向いたら親切と言う不動産屋も多いかも知れないけど、どうしてもメールでの連絡が多い私たちには、メールですぐ連絡が取れる不動産屋はとても貴重な存在だ。面接を終えて、その不動産屋に向かった。その前に内定証明書をもらうために時間がかかり、かなり遅くなってしまった。着くなり、彼は申し訳なさそうに言った。「実はあの物件決っちゃったんですよ。この週末に。」そこは位置的にはちょっと不便だったけど、家賃や費用も手ごろだし、彼に撮って貰った写真からかなりきれいな家なのは分かっていたので、結構ショックだった。でも仕方ない。それから物件探しが始まった。でも今回の引越シーズンは終わりらしく、いい物件はこの1週間でかなりなくなったとの事。いいと思う物件は予算ギリギリだった。でもパパから「少しくらい高くても居心地いいうちを選んで」と言われてたので、比較的新しい、広めの家を2件選んで見に行った。1件目は家賃がもうひとつのより高くて、その分広いし、パパの大好きな車庫も会った。2件目は家はとてもきれいだけど、駐車できるスペースがちょっと狭くて軽車じゃないと出入りできないんじゃない?と言う感じだった。駅からもバスだし・・・。でも1件目の扱っている会社は結構いろいろうるさいことを言うので、2件目の方が審査が通りやすいんじゃないかと言われた。色々考えて2件目に申し込んでみようかと言うことになった。ただ不動産屋が言うには、家賃が私の得る収入では高すぎて審査が難しいかもと言うので、韓国での夫名義のアパートから出る家賃と銀行の残高証明を出せると言う話をした。「要は家賃を責任持って払えれば良いんでしょ?」と思ったのだ。そして韓国に帰ってきてまもなく審査の返事が来た。「条件付」で入ってもらいたいと言ってきたというのだ。その条件にショック。礼金敷金手数料などはもちろんなのだけど、前月分の家賃だけではなくてなんと1年か2年分の家賃を前納して欲しいと言われたのだ。もちろん毎月払うんだから、同じこととハルモ二なんかは思ったらしいけど、それは違う。ファイナンスの言葉でタイムバリューと言うものがある。いや、そんなこと知らなくても、1年分の家賃を前払いしろなんて言うの、聞いたことない。それはパパの方の収入や銀行のお金をまるっきり考慮してくれなかったことになる。何だか弱みに付け込んだ感じだ。私たちは日本にこれから生活をしていく家族で、しかも外国人つき。貸す方はあまりかかわりたくないケースなのかもしれない。でもだったらいっその事断られた方が良かった。「○様(私のこと)に実際に会われてかなり好印象をもったそうで、出来れば借りて欲しい」と言う言葉と一緒につけられた条件としてはあまりにもひどい。私たちがありがたく一括払いすると思ったのだろうか。私たちの感覚がおかしいのだろうか。即答でお断りした。担当の彼は「出来ればこれからもお手伝いしたい」と言ってくれた。私としても、一度面識があって、色々すでに事情を知っている彼にこのまま助けてもらうのがありがたい。もう日本にはこれないと言う私に「そうしたら気に入った物件の写真を私が撮ってきますので、それで決めていただくしかないんですが」と言ってくれるので、ありがたかった。彼にしたって、こんな面倒くさいケースを担当したって、結局得るのは手数料だけ。他の簡単なケースを担当してたくさん契約した方が実績になるだろう。そういう人に担当してもらっただけでもラッキーだと思おう。家を借りると言う現実は思ったより厳しかった。今までアメリカや韓国で一度も苦労しなかった(契約するに当たって)家探し、まさか自分の国で苦労するとは。最近パパの口癖になっている言葉「誰が日本を『世界で住みやすい国4位』なんて言ったんだよ」を私もいつしか口にしてた。
Mar 12, 2005
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昨日3日は小学校の入学式、そして今日は幼稚園の入学式だったようだ。今年から幼稚園に通い始める子がぞろぞろアパートの下に集まる。今年はある幼稚園が人気だったようで、みんなそろって同じかばんをしょっていた。そこには去年違う幼稚園に通っていて今年からそこに通うという子もいれば、去年までそこに通っていて、今年から違う幼稚園に通う子もいた。とにかく韓国の幼稚園児たちはあちこち良く転園する。幼稚園に入れた後もお母さんたちの情報収集は絶えない。どこそこのプログラムがいい、英語レッスンが良い、などと聞くと次の月からそこのカバンに変わってる・・・なんてことはよくある事。ある英語幼稚園に通っていた子の場合、その幼稚園だけお迎えが乗用車だということで大不満だったお母さんが翌月には立派な園バスが来る英語幼稚園に変えてしまった。イパルの通っている幼稚園は、同じ棟から3人行くので結構目立っていた。そこで引っ越してきたばかりのお母さんや、他の園に行かせてるお母さんから絶対質問される。まず「何ていう幼稚園ですか?」次は「英語やってます?」学費はとか、園の雰囲気は、先生は、何ていう質問はいまだかつて聞いたことない。ここのお母さんの一番のチェックポイントは、英語をどのくらい教えてるか、ネイティブがいるか、などだ。そこで、ある英語幼稚園が最近人気だ。英語幼稚園も山ほどあるこのエリアで、お母さんの気持ちをひきつけるのはとっても大切なこと。そこでは、一日中ずっと英語だそうで、しかも名札を子供たちはつけてるんだけど、ハングルの韓国名の上には必ず英語名がある。きっと学校ではその英語名を使うんだろう。そんなのも人気の原因かも知れない。その人気の幼稚園から変えた子はその人気の英語幼稚園に行くそうだ。でも私は思う。幼稚園ってそういうものなの?イパルの通う幼稚園は園長先生が「うちでは専門の先生が体育、英語、コンピュータなどを教えますが、楽しく遊ぶことが第一なので、そんなに一生懸命お勉強をするというわけじゃありません。楽しくすることがモットーです」なんて江南のお母さんたちの前で言ってのける。私の欲しいのはまさにそのようなモットーなんだけど、この辺でこんなことを言ってたら、いつまでもあの幼稚園はなかなか「人気」にはならないだろうな。それはともかく・・・幼稚園っていったん入園したら2年でも3年でも通いとおすことが大事じゃないんだろうか?その自信がその後の小学校の6年に続くんじゃないかなと思うのだ。同じ幼稚園で一緒に遊んだ友達との思い出。ちょこちょこ幼稚園を変えてたらそんな思い出もできやしない。友達との友情も薄くなってしまうんじゃないかってそんな心配までしてしまう。かわいそうなことに、イパルは致し方なく幼稚園を転々とすることになる。アメリカで行き、韓国で行き、また今度日本で行くことになる。そのたびに仲良くなった友達とお別れしないといけない。イパルの幼稚園の思い出はどんな風になってしまうのか、友達との記憶は次第に薄れてしまうんじゃないか、などとパパと心配してる毎日だ。幼稚園で学ぶべきことは英語でもないし、ハングルでもない。そんなものは小学校に行ってからでも十分だ。幼児にしか感じられないものを伸ばして、幼児で経験しないといけないものを経験させてあげる、そこからだけでも学ぶものは数え切れないほどある。去年も1年の間にどれだけたくさんの幼稚園が出来たことか。今年もさらに新しい幼稚園&語学院がもっと出来ることだろう。うわさを聞くたびにお母さんたちは忙しくなり、子供たちはあっちこっち行かされるはずだ。かわいそうなのは子供たちだ。
Mar 4, 2005
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それは10数年前のこと。何を血迷ったか、看護婦になろうと決心して、看護学校に入学した。母親は娘が大学に行かずに専門学校へ行き、看護婦になることを猛烈に反対していた。反対されると、さらに燃え上がるのが10代。母親に援助してもらわなくても、自力で行ってやるとまで考えていた。結局他の学科を一切受けない私にあきれつつ怒っていたが、最終的には「仕方ない」と思ってくれた母。看護学校は記念受験(受けても受かりそうもないけど、とりあえず記念で受けた学校)も含めて10校くらいあったと思う。数校に合格したけど、結局母親のススメで、ある大学の医学部付属の看護学校に入った。看護学校は3年。もちろん、いろんなコースがあるんだけど、普通の高校を出て、正看護婦になりたい人はこのレギュラーコースと言うものに通う。1年目は基礎学科と専門学科の一部を勉強して、病院実習は3年生に連れられていく1週間の実習だけ。まだキャップももらっていなくて、かっこ悪い四角巾で作られた召使のような帽子をかぶる。2年生になるとようやく勉強の方も専門を増していく。ほとんどの専門科目を終えた頃、キャッピング(戴帽式)を行い、ナイチンゲール誓詞とキャンドルサービスを行う。これで一人前の学生になれた証拠。待ちに待ったナースキャップを頭につけ、喜んで写真を撮るのはこの日だけ。これから悪夢が始まる。そして悲話も始まるのだ。臨床実習と言われるこの悪夢の実習は2年生の始めから3年生の始めまである。月曜日から木曜日まで病棟実習に行き、金曜日と土曜日は学校で勉強だ。と言っても、授業ではなく、個々の実習で必要な勉強の時間となる。実習は内科から外科、産婦人科、小児科、精神科とほとんどの科を周るが、人によって循環器内科に行くか、消化器内科に行くか、天使病院に行くか悪魔病院に行くか異なる。天使病院が多かったり「簡単」と言われる病棟にばかり当たる人たちはシンデレラコースと呼ばれ、悪魔病院ばかりだったり、「怖い」と言われる病棟にばかり当たる人たちは・・・名前はない。ただただ哀れみの目で見られるだけだ。病棟実習は指導者で決まると言っても過言ではない。指導者と言うのは看護婦の中でも学生の指導をする人のこと。勉強になる指導者もいれば、ただやさしい指導者もいる。そしてこわぁい指導者もいれば、ただいじめるだけの指導者もいるのだ。学生は8時から始まる申し送りの少なくとも1時間前に病棟にいないといけない。グループ全員そろって病棟に向かい(エレベーター使用禁止)ステーションの入り口で「おはようございます」とバカデカイ声で挨拶。それから学生がいていい場所、たいていが1畳ほどの処置室に自分の荷物を置き、情報収集にかかる。自分の受け持ちの患者の夜間に変わったことや、今日の処置の確認などをする。椅子に座ってはダメ、ナースコールが鳴ったら誰よりも早く取らないとダメだ。万が一看護婦さんが先に取ってしまったら怒られるか、嫌味を言われる。看護婦のようにナースコールで「どうしましたかぁ」なんて聞いてはダメ。「伺います!」と言って、病室まで行って用件を聞かないといけない。看護婦さんのように走ってもダメ、常に早歩きだ。ある時、ナースコールが鳴って病室に行った。担当の看護婦じゃないと無理な用件だった。早速担当の看護婦を探しにまわる。この時も看護婦のように大声で「○○さぁん」なんて叫んではダメ。だからひたすら探しまわる。どこにもいない。ウロウロしている私を見て、やさしい看護婦さんが「誰探してるの?」と聞いてくれた。そこで看護婦さんの一声「○○~!!」ノコノコと休憩室から出てくる。用件を言ったら、その看護婦「そんなこと、もっと早く言ってよ!」「もっと私を探してっ!!」(あんたが休憩中でもないのにサボってるからわかんないんじゃないかっ)学生には「朝の突っ込み」と言う恐ろしい儀式が待っている。申し送りの後、学生たちが一人一人、全員の看護婦の前で、今日の目標、行動計画を発表し、「何かアドバイスをお願いいたします」と言わないといけない。これはいじめてくれと言う意味だ。私の記録用紙をチラチラと見ながら、「じゃあ~聞くけどぉ」と始まる。真面目にただ勉強してきてるか確認するだけの看護婦さんもいれば、朝からストレス発散にいじめちゃおうという意地悪な看護婦まで色々。ひどい時は答えられなくなるまで突っ込む。最後の方の質問は質問にもなっていない。そこで答えに詰ると、「じゃ、この処置は今日しないでね。ちゃんと勉強してきて」と言い放つ。一度皮下注射をするという処置計画があった。そこで「怖い」指導者さんから「そういえば、××さん、午後に注射するんだよね、じゃ目的と注意事項を言ってみて」と聞かれた。勉強したことをそのまま答える。クリア。「必要物品を言ってみて」もちろん、これもクリア。「じゃ、さっき21G(ゲージ、針のサイズ)を使うって言ったけど、何で?」・・・ここで詰った。何でってそんなこと書いてなかったぞ。「何で23Gや19Gじゃいけないの?」「あ・・・23は細すぎるし、19は太すぎるからです」「何でダメなの?理由は?」もうアドリブも無理。「調べてきます」「じゃ、お昼休みに調べてきてね。」昼休みって30分しかない。教科書には載ってないから、図書館に行くしかない、とご飯も食べず、図書館に向かった。でも一体どんな本を見ればそんなこと載ってるのか分からない。30分図書館にかじりついて粘ってみたけど、無理だった。「分かりませんでした」「じゃ、今日はしないでね。」もちろん、答えは教えてくれない。指導者なんてそんなもの。質問はするんだけど、教えてはくれないのだ。そして投薬の時間。この時は指導者ではなく、その受け持ちの患者がいる部屋を担当している看護婦に行き、「薬の確認をお願いします」と言って、薬のひとつひとつを取りながら、作用・副作用・禁忌を言う。これは、毎回看護婦が違うので、いろんな突込みがあったり、逆に全然聞いてない看護婦もいる。同じグループの一人が要注意看護婦に確認をしてもらうところだった。勉強家の彼女はスラスラと言っていく。副作用を一通り言ったとき、その要注意は「それからぁ?」と言った。彼女は明らかに戸惑っている。今までそれでずっとOKをもらってきたのに「足りない」と言われるとそれはそれはオロオロするものだ。散々考えた挙句、どの薬を調べても必ず最後の最後に出てくる、一番マイナーな副作用を恐る恐る口にした。「そうよ!ちゃんと覚えておいてよね。あたしも忙しいんだからさ。」と言った後、彼女は「禁忌」に方に移った。最後まで聞いた後、その要注意は手を忙しく動かしながら、「いいんだけどさぁ、なんていうの~、美しくないのよねぇ~。」何じゃ、そりゃ。(お前の言葉使いも美しくないよ、ちょっとはドクターに話すときみたいに美しく話してみなっ)悲話はもちろんこれの限りではない。でもそろそろ終わりにして、次回は患者編。
Mar 2, 2005
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