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皆さん、こんにちわ☆先ほど・・・「久々の日記がやっと仕上がった~!」と思ったとたん・・・うちのパソコン君・・・何を血迷ったのか、今まで苦労して書き上げた日記を全部消してしまいました・・・。・・・非常にショックで・・・しばらく立ち上がれませんでしたが、そこは根が単純なぷーたろ!晩御飯を食べたら、元気になりました!もう一回、気を取り直して、書きます!*********************************この間の土曜日、「中馬のおひなさん」で取り上げました足助に、また、再び行ってまいりました~!どこがそんなにいいのかって~?そりゃあ、おひなさんはもちろんのこと、足助は、食べ物がめっちゃ美味しいんです♪足助の百年草という老人福祉施設にあるZIZI工房、バーバラはうすでは、とっても元気で素敵なおじいさん、おばあさんたちが、フランクフルトなどの肉製品や、焼きたてのパンを、心をこめながら、一つ一つ手作りで作っているんですけど、それが、もう、めちゃくちゃ美味しいんです。紅葉の時期には、行列が出来るほどなんですよ!これ食べたさに、足助に通っているといっても、過言ではないかもしれませんね!(おじいちゃんがやってるからZIZI工房で、おばあちゃんのパン屋がバーバラはうすなんて、ネーミングもかわいいよね!)その他にも、お肉屋さんのししコロッケや、橋本屋のお豆腐も美味しいかったですね~。それに、足助は明治時代まで、中馬街道の宿場町として栄えたと先ほどの日記でも書きましたが、昭和以降は、鉄道の路線から遠く離れてしまった為か、近代化が遅れてしまいました・・・。足助の地図(Yahoo!より)でも、逆にそれが、江戸時代の古い蔵の立つ家並みと、昭和のレトロさを残す、何ともいえない風情をかもし出すことになったのかもしれませんね・・・。 (ブロマイドの人・・・もしかして、アグネス・ラム?) (この看板のロープって・・・もしかしたら、馬で荷物を運んでいた頃の名残かも? それにしても・・・御茶屋さんにロープとは・・・) (ポスター・・・レトロマニアには、たまらんやろ?しかも、この看板、右から書いてあるし・・・)そして、足助は、南北朝の戦いで、後醍醐天皇側について楠木正成らと共に活躍した、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)の出身地としても知られています。 (山の上に建つ、風雲!足助城!!)もともと、足助氏は清和源氏浦野氏の一族で、平安時代末期に山田重直の子・重長が、この足助の地に住んで足助氏を名乗ったのが始まりと言われています。 また、重範は、南朝の後醍醐天皇の挙兵に応じ、笠置山に最初に駆けつけて宮方の一角を担って六波羅軍(北条氏側)と奮戦したそうですが、残念ながら敗れ、1332年、京都の六条河原で斬首されたとか・・・!南北朝の争い・・・っていうのが、これまた複雑でして・・・鎌倉時代後期、1318年即位した後醍醐天皇が、もう一度、幕府の手から実権を取り戻そうとして倒幕計画を立てるのですが、それが幕府側の北条氏にバレて、島根県の隠岐に流されてしまいます・・・。でも、後醍醐天皇の息子の護良(もりなが)親王が、楠木正成らと共に兵を立ち上げ、倒幕へと立ち向かいます。苦戦して戦う中で、足助次郎重範も亡くなっていきますが、その後、後醍醐天皇も隠岐から戻り、足利尊氏らも討幕派に加わって、北条氏ら幕府側を倒しました。こうして、足利氏らのお陰で、後醍醐天皇が実権を握り、教科書でも出てきた『建武の新政』と言われる、奈良時代の律令国家のような国づくりを目指しますが、しかし・・・あれだけ尽くした武士の立場をないがしろにされたとして、今度は、足利尊氏が朝廷側に反旗を翻し、室町幕府を立ち上げるんですね~。(このとき、後醍醐天皇側を南朝、足利氏側が北朝となって1358年まで戦いが続いた時代が南北朝と言われています。)まあ、ちょっと説明が長くなってしまいましたが、こんな感じで・・・足助の人々は、後醍醐天皇側に貢献した足助次郎重範を、とても誇りに思っているのですね・・・。古くからの歴史を重んじるという文化度の高さと、人情あふれる土地柄が魅力の足助町・・・4月からは豊田市に合併されてしまいますが、この足助らしい魅力だけは、そのままに保ってもらいたいものです・・・。*****************************************************よかったら、ここをクリックしてみてね~!人気blogランキング
2005年02月24日
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皆さん、こんにちわ★昨日、常滑焼(とこなめやき)で有名な愛知県常滑市に、中部国際空港、通称セントレアが開港いたしました~!わ~い(^O^)/ パチパチ~!私も行って見たいけど、昨日は見物客を含めて9万人の人出があったそうで・・・レストランもエビフライで有名な「まるは食堂」が3時間待ちの状態だとか・・・?これじゃあ、肝心の利用者に迷惑がかかっちゃうよね~。週末は、更なる人出が予想されるとのことで、もしかしたらディズニーランドのように入場制限されるかもしれません・・・!(ホントにすごいですね・・・!)人ごみ嫌いな私としては・・・少し空いてきた頃にでも、行ってみようかと思います。ところで、今日の本題です。先日、くまくま15さんの日記で、聖徳太子の十七条憲法(あの、「和を以って貴しと為す」で有名なヤツよ!)が、採り上げられておりまして・・・「和」って言葉について、改めてしみじみと考えさせられた訳なのでありました。「和」っていうと、調和、和気藹々(わきあいあい)、和解など、人との関係を和ませる言葉と、あと・・・和風旅館とか、和菓子に和歌など、日本そのものを表す表現がありますけど、昔から、人との和を重んじてきた日本人を、「和」という表現で表すなんて、ホント、鋭いというか・・・面白いですよね~。それにしても・・・「和、ワ、わ、輪、環・・・!?・・・倭?」もしかして・・・日本を表す「和」という言葉は、あの卑弥呼が載っているという、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)でおなじみの「倭(日本の昔の呼び名)」から来ているんじゃないか?これが本当だったら、えらいこっちゃ!ろ、論文の準備しなきゃ!これは、日本の歴史的発見じゃあ~!歴史学会に殴りこみをかけるぞ~!・・・なんてことにはならない訳で・・・もう、既に、『逆説の日本史』でおなじみの井沢元彦さんを始め、いろんな学者さんが書かれていましたわ・・・。(どうせ、私が思いつくことなんて、そんな程度のもんだよ・・・)話は横道に逸れてしまいましたが、日本が倭と呼ばれだしたのは、中国の後漢の時代(紀元25年~220年)に書かれた『漢書』に「楽浪(現・北朝鮮の平壌付近)海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見す」と、つまり・・・日本が100カ国以上に分かれていて、中国にお土産を持って挨拶に来ていた・・・と書かれているのが最初であります。この頃の日本は、ちょうど弥生時代にあたるんですけど、弥生時代といえば、集落同士での争いが始まった時期で、人々は、環濠集落という、いわば、堀を丸い輪のように廻らして、そこに柵を作るという・・・要塞の中に住んでいたんですね。う~ん・・・ここでも、「環」と「輪」が出てきますねえ~。縄文時代はどうでしょう・・・ここでは、広場を中心にして、その周りを丸く取り囲むように家を作って住むという、環状集落を形成していたそうです・・・。やっぱり、ここでも「環」か・・・。もちろん、環状集落とか環濠集落なんて言葉は、最近になってつけられた物ですけど・・・でも、もしかしたら、「ワ」という言葉自体は、縄文時代頃からあったのかもしれません・・・。北畠親房の「神皇正統記」によると、「ワ」は「我」ではないだろうかという説があるそうです。中国の人に、おまえ達はなんだ?と聞かれた日本人が、私達(の国)という意味で「我」と云ったのを、国名だと勘違いされて、日本は「ワ」となったという事らしいのですが・・・しかし、私が思うに・・・彼らが言った「ワ」とは、集落の意味を指す「輪」もしくは「環」だったのではないかと・・・。きっと、当時の日本人には、国という概念そのものが何だか分からなかったのかもしれません・・・。彼らの集落の仲間の世界しか知らないのですから・・・。集落で住む「ワ」の世界は、今でいう近所づきあいのコミュニティーがすべてですから、人との調和を重んじて暮らすという意味も、「ワ」の中には含まれていたかもしれませんね!中国から「倭」というバカにされたような当て字を付けられようが、文字の文化をもたない日本人には、漢字から来るイメージも何もなく、ただ単に音声のみの感覚で、「ワ」=集落のコミュニティー・・・ついては日本人そのものを表すものになっていったのでしょう。それは、「ワ=倭」が、大化の改新後「日本」という国号に改められてからも、一般庶民の間では、「ワ=日本」という概念は消えることなく、保ち続けられていたのかもしれません。(後の時代に出没する日本の海賊「倭寇」も、「倭」ですからね・・・。)そして、卑しい民族を意味する「倭」に、イメージを一新させる新たなる概念を与えてくれたのが「和」だったのではないでしょうか?これこそ、人との調和を重んじる日本人にぴったりの漢字ですよね!(そういえば、日本を意味する「大和(ヤマト)」も、「大きい和」と書きますからね~。)私達が、「和」という言葉を使うとき・・・もしかしたら、DNAにきざまれた私達の祖先の「ワ」のコミュニティーを、脳裏のどこかに思い描いているのかもしれません・・・。豪族同士の争いや、天皇暗殺などのいざこざがたえなかった頃に、「和を以って貴しと為せ!」と一喝してくれた聖徳太子・・・。「和」が「我」「吾」になりつつあり、日本人の和の美徳が失われつつある現代にも、大きな一喝を与えてもらいたいものです。人気blogランキングよかったら、クリックして下さいね~!
2005年02月18日
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皆さん、こんばんわ☆三連休はいかがお過ごしでしたか?もしかしたら、連休中もお仕事という人も多かったかもしれませんね・・・。私は、2月11日から始まった、愛知県足助町の『中馬(ちゅうま)のおひなさん』を見に行きました~♪ 足助町は、あの世界のトヨタ自動車本社がある豊田市と隣接する場所にあるんですけど、長野や岐阜の県境も近いからでしょうか・・・そんなことが想像できないほど自然豊かで・・・山間に流れる足助川沿いに、江戸時代からの古い家が立ち並ぶ、それはそれは、歴史豊かな風情のある町なんです。 そんな足助町で2月11日から3月6日まで開かれている『中馬のおひなさん』という、町をあげてのお祭りに行ってきた訳ですが、ここで疑問に思ったのが、「中馬って何だ?」って事です。そこで、足助観光協会から出版されている『新・三州足助』というガイドブックを見てみると・・・もともと、足助町は、古くから太平洋側と信州とを結ぶ交通の拠点として栄えた町だったそうです。名古屋から足助経由で、長野県の塩尻(諏訪湖畔)を結ぶ「伊那(伊奈)街道」は、縄文時代から諏訪湖周辺に出土する黒曜石を運んだり、戦国時代には、武田信玄を始めとする各地の戦国武将たちが通ったりして、中山道に次ぐ街道として重要な役割を果たしていたんですね。また、古くから、愛知県の吉良町周辺作られた塩を、この伊奈街道を通じて信州へ、信州からは年貢米・たばこ・山の産物などを馬などに積んで運んでいたのですが、足助は、これら運搬物資を積み替える、中継地点の場所でもありました。そして、一般的に、この街道で物資の運搬に関わる人たちを「中馬(ちゅうま)」と呼んだそうですが、その語源は、「賃馬」「中継馬」とも言われています。明治時代には、年間約2万俵を越える塩が、足助の塩問屋に入り、信州に運ばれていったそうで、これらの大量の塩を運ぶ馬の数も、年間、延べ5千頭だったということですから、いかに、この足助が物資を運ぶ宿場町として栄えていたかがわかりますよね~。(だから、中馬街道と言われていたんだね・・・)そのせいでしょうか・・・山間の田舎町であるにもかかわらず、足助には、非常に裕福な家が多いような気がするのは・・・。 (明治、昭和初期のおひなさん) (京都式のおひなさん、雄雛と雌雛の並び方が逆になっています。)こういった段飾りのお雛様は、元々、公家や武家の家にだけ飾られていたそうで、一般の庶民は、お人形さんから集めていったらしいんですね。 (今が旬の、牛若丸と弁慶です!)そして、明治以降は、一般の家庭でも、第一子が生まれると、男の子でも女の子でも、母親の実家から豪勢な雛人形が贈られてきたそうです。 しかし・・・現代では、雛人形を飾る家も少なくなり、これだけ大量の人形は家の中を圧迫する存在としてしか見られなくなりました・・・。そこで、平成8年ごろから、足助町の商店・一般家庭が一斉に、これらのお雛様を飾って、観光客の皆さんに見ていただこうというイベントが始められ、年々、その知名度は上がり、去年は100軒以上もの御宅で雛人形が飾られ、観光客も7万人を越えるまでになったとか? (賑わいを見せる、中馬のおひなさん) (花もちの手作り体験をする子供さん)また、足助をこよなく愛するアーティストの「からさわてるふみ」さんの手作りのおひなさんも、このお祭りに一層彩りを添えています。 (もう、めちゃくちゃ可愛いんです!) (からさわてるふみさんによる、お人形の制作実演!)あんまりにも可愛らしかったので、早速、からさわさんのおひなさんを購入させていただきました!「お写真、撮らせて頂いてもいいですか?」とお伺いすると、照れくさそうに、「どうぞ!」と言いながら色づけをしておられました・・・帰り際も、「帰り道はお気をつけてくださいね~!」との一言が!めっちゃ嬉しかったですね~。この方は、銀座の三越などでも個展を開かれたこともあるそうで、もしかしたら、そのうち偉大な「画伯」ってことになって、気軽にお声をかけることも出来なくなってしまうかもしれません・・・。******************************そんなこんなで、楽しんでまいりました~!あまりにも楽しかったので、また来週あたりにでも行って来ようと思ってます!(次回は、足助のグルメでも、書こうかしら?)人気blogランキングよかったら、クリックして下さいね~!
2005年02月13日
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皆さん、こんにちわ☆やっと、寒さも和らいできましたね~。このまま、この暖かさが続いて、春になってくれないかな・・・なんて思ったりして・・・。ところで、前回の「栃木の鬼ころし」について、ぶんさださんから、「鬼退治にまつわる話があるのかと思った・・・」というコメントと頂きました。・・・そうなんです。実は、あるんですよ。こわ~いお話が!その由来とは、なんでも・・・平安時代中頃、都では鬼による誘拐,略奪の被害が大きかったそうで・・・当代随一の陰陽師・安部清明の占いによると、丹波の国大江山(現在の京都府)にすむ酒呑童子を頭とする鬼一族のしわざとわかるんですね・・・。 そこで、天皇から源頼光(みなもとのらいこう)に鬼退治の命が下り、頼光は配下の四天王と呼ばれる渡辺綱・坂田金時(金太郎の童話のモデルになった人だね!)・碓井貞光・卜部季武、および友人の藤原保昌、彼らの家来数名を連れ、大江山に向かいました。途中、一行は三人の老翁に出会い、老人たちは頼光らに隠れ蓑と神酒を授けられたそうです。それは、人が飲めば力がつくが、鬼が飲むと神通力を失う不思議なお酒だったとか?(これが、鬼ころしの由来となるお酒なんだね!)頼光たちは、鬼の住処を訪れ、道に迷ったので一晩泊めて欲しいと頼みます。(いきなり「泊めて!」って、頼むなんて・・・まるで『田舎に泊まろう』みたいやね・・・)ここで頼光は泊めてくれるお礼にと酒を差しだし、鬼たちもそれを喜んで酒盛りが始まります。 やがて酒がまわり鬼たちが寝てしまったところを、頼光らは隠れ蓑をつけて酒呑童子のそばに近寄り、一気に首をはねました。 酒呑童子の首ははねられたまま頼光に飛びかかり、その兜にかみついたまま動かなくなったそうな・・・。せっかく好意で泊めてあげたのに・・・恩を仇で返されたみたいで、鬼たちがちょっとかわいそうな気がしなくもないですが、ここで疑問なのが、酒呑童子とは、そもそも何ぞや?ということです。他の鬼たちとどう違うのか?そして、鬼など存在したのか・・・?いろいろな疑問が浮かんできます。一説によると、酒呑童子とは「捨て童子」つまり、捨て子だったという解釈もあります。その出生にまつわる伝説として、平安初期、恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となって越後国に来た時、その従者の一人、石瀬俊網とその妻に子供がいなかったため、信濃にある戸隠山に参拝に行きました。そして、3年かかって、やっと子供が生まれることになります・・・。しかし、その子供があまりにも手のつけられない暴れん坊だったため、国上寺に稚児に出されてしまいました・・・。稚児というのは、皆さんご存知の方も多いと思いますが、お寺のお坊さんは、女性と関係を持ってはいけないため、その代わりに、可愛らしい少年たちを相手に性欲を満たしていたんです・・・。あんなに切望していた子供が授かったというのに・・・稚児に出してしまうなんて、ひっどい親だな~って思いますよね。また、二つ目の伝説として、奈良絵本に書かれているものですが、嵯峨天皇(809-823)のとき比叡山延暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいたそうです。人々が怪しんで素性をしらべたところ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫と、伊吹山の山の神=伊吹大明神という異類同士の結婚によって生まれた子供だったとか・・・?(ホントかどうか分からんけど、何か訳ありの子だったんだろうね・・・それだけでも悲劇!)それで、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名づけ、10才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りしたとか?両方の話ともお稚児さんで、親から見捨てられ、寺の坊主の慰み者という惨めで可哀想な子供時代を送ってきたのでしょう・・・。「しかし、そんな状況にめげるような彼らではなかったんですね~!第一の伝説にある酒呑童子は、あまりの美貌に、女性にモテてモテてどうしょうもなかったそうな・・・。でも、彼に関わった女性たちが皆、次から次へと死んでしまうという噂が立ったので、酒呑童子は女性にもらった恋文を全部焼き払ってしまったのです。ですが、その煙で気を失い、気がついたときには世にも恐ろしい鬼の形相に変わっていたとか?(女の怨念は恐いなぁ~”)第二の伝説の彼も、京都のお祭りで、自分で彫った鬼のお面を被って鬼踊りをしようと、すごいはりきっていて、お祭りでもすごいウケて人気者になったらしいけど・・・。でも、祭りの後、その鬼の面が顔から剥がれなくなって・・・比叡山の坊さんたちからも追い出されて、京都の大江山に移り住んだとか・・・。それで、京都の町で、強盗・略奪の限りを尽くしていたんだろうけど、当時、彼のほかにも、そういった連中すべてを「鬼」と呼んでいたフシがあるよね・・・。それにしても・・・こういう話を聞くと、酒呑童子にちょっと同情しちゃうかも・・・。源頼光に不意打ちを喰らい、最期に「鬼に横道なきものを・・・」と言い残して息絶えたといいう酒呑童子。鬼は約定を違える事は無い・・・鬼さんは約束は破らない・・・そんな酒呑童子と、鬼退治をしようとして、酒呑童子に付き合って人肉まで食べたという源頼光らと・・どちらが鬼だったのか・・・ホント、分からないよね・・・。人気blogランキングよかったら、クリックお願いします!
2005年02月10日
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皆さん、こんばんわ★節分を過ぎて、寒さも一段落した感がありますね~!でも、まだまだ油断は出来ませんが、こうやって、三寒四温を繰り返しながら、春になってゆくんでしょうね・・・。・・・なんて、そんな悠長なこと言ってる場合じゃなかったわ・・・。昨日、お昼御飯にうどんを作っていたら、家のバカ猫・チビ太がガスレンジの側をかすめ通ってきて・・・その瞬間!「ヒイィィィっ~!火があぁぁぁ~!バカバカバカ!!」もう、卒倒するくらい驚いてしまいました・・・。下手すりゃ、あわや大やけど・・・?ってトコだったけど、毛先が少し焦げた程度で済んで、ホント、ホッとしたよ~!(まったく人騒がせっていうか・・・普段から、台所に登っちゃダメだ!って言ってるんだけどね・・・猫に躾けをするのは難しいね・・・)話は変わって、この間スーパーで見つけた、栃木の北関酒造の「鬼ころし」・・・あれ、一升瓶(1.8リットル)で1,550円と、めっちゃくちゃ安い割には、れっきとした純米酒だし・・・キリッと辛口で、ホント、美味しかったわ~!「鬼ころし」っていうと、今は、値段の安い辛口のお酒の代名詞みたいになっちゃっているから、純米と米麹だけで作られているのなんて、ほんとに珍しいみたいね・・・。私、お酒はあんまり詳しくないし、そんなに飲む方でもないんだけど、でも、なんとなく醸造アルコールの混じったお酒だけは飲む気がしないのよ・・・。それに、今や、純米酒は、大吟醸でもない限り、2,000円前後で売っている物も多いし、全国各地の小規模な酒造でも、たくさん作られているからね~。水のキレイな場所で作られているような・・・知るひとぞ知る隠れたブランドを探すっていう楽しみもあるよね~。ところで、「鬼ころし」って、鬼が飲めないくらい辛口っていう意味と、鬼も飲まないくらい粗悪な酒っていう意味もあるんだって・・・。粗悪・・・って言っても、別に材料が悪いんじゃなくて、昔は、どちらかというと甘口で、とろっとした飲みあたりのお酒がもてはやされていたから、辛口のお酒は、不味いっていう評価しか受けてなかったんだろうね・・・。(お酒に、醸造アルコールが混じるようになったのは、太平洋戦争中に、米不足でもお酒が作れるように。。。ってことで始まったらしいから・・・。それが、戦後になっても、低価格で手間がかからないことに味をしめてしまった酒造メーカーが、醸造アルコール入りのお酒作りを止められなくなってしまったのね・・・)「鬼ころし」は、江戸時代頃から、全国各地で作られていたけど、辛口のお酒が人気がない為に、どんどん作られなくなっていって・・・とうとう、飛騨高山の蔵元・老田酒造店だけしか残らなくなっちゃったとか?それでも、その蔵元は頑張って「鬼ころし」を作り続けていって・・・ここ20~30年じゃないのかな?地酒ブームとか端麗辛口のお酒が評価されてきて、再び、日本各地で次々と「鬼ころし」が復活していったのは・・・。でも、そのお陰で、「鬼ころし」は、本当に粗悪で安価な「鬼も飲まないくらい不味い」ものまで沢山出回るようになってしまいましたから・・・(残念!!)人気blogランキング今日のネタ・・・ぷーたろです。「冷してお飲みください」と書いてあるけど・・・一升瓶はうちの冷蔵庫に入らないとです・・・。
2005年02月07日
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皆さん、こんにちわ★ 今日は立春ですが、寒波の影響でまだまだ寒い日が続きますね・・・。思えば、今くらいの時期が、一年で一番寒い時期だと思うんですけど、どうして立春なんて言うんでしょうね~?やっぱり、旧暦の方が、季節感がしっくりと来るような・・・そんな気がします。ところで、最近は、あのトロイ遺跡を発掘した事で有名になったシュリーマン(1822~1890)の書いた本を読んでいます。彼は、確かに歴史的大発見に貢献したらしいですが、でも、遺跡にあった目ぼしい遺物を、シュリーマンがほとんど持ち帰っちゃったらしくて・・・その挙句に、遺物のほとんどが、第二次世界大戦の爆撃で壊されちゃったと言うではないですか~!(あ~、まったく・・・余計な事してくれちゃって~!もうちょっと後の時代に発掘されていれば、こんなことにはならなかったのにさ~!)まあヤツは・・・もともと考古学者でも何でもなくて、ただの歴史オタクだったらしくて・・・なんと!40歳で商社の仕事を辞めて、悠悠自適にも・・・世界一周旅行を楽しんでいたらしいよ~。それで、日本や中国にも観光旅行に来ていたみたいで、そのときの書いたというのが、今、私が読んでいる『シュリーマン旅行記 清国・日本』という本なんだね・・・。ま~ね・・・確かに、西洋人から見た1800年代の中国や日本の生活の様子が、客観的に、事細かに書かれていて、当時の文化を知るには、とても貴重な本だと思うんだけど・・・どうして、当時の中国に外国の総督府があったのか・・・もちろんそれは、イギリスが勝手に戦争を仕掛けて(アヘン戦争のこと)、むりやり中国に貿易港を開かせたからなんだけど・・・その辺の事は、別に疑問に思ってなかったんだろうね・・・まぁ、奴ら、西洋の上流階級の人間にとっちゃ、西洋がアジアを支配することなんて、当たり前の感覚でしかなかったんだろうし・・・。シュリーマンは、日本の事は、清潔で美しい街並みと、気さくで礼儀正しい国民性に敬意をはらっていて、非常に褒めちぎっているけれど、中国の事はというと・・・「街行く人は皆、ゴミを道に捨てていくので、あちこちにゴミが山のように積もり悪臭が漂う不潔で不衛生な街並みに、おまけに、まともなホテルすらなく、仕方ないので、お寺さんに泊まらせてもらったところ、土間みたいな地面が剥き出しになっている部屋に通されて・・・地面が湿っていて、耐えられないくらい汚かった」とか・・・?これじゃ、中国の後に寄ったという日本が、あまりにも美しく見えるはずだわね・・・。中でも、彼が驚いたのは、女性の『纏足(てんそく)』らしいね・・・。纏足については、いろんな小説でも書かれているから、ご存知の方も多いと思うんだけど、これは、ホント・・・恐いよね・・・。2~3歳くらいの女の子の足の指(人差し指から小指まで)を、足の内側に折り曲げて、足の形を、まるでティアドロップ・・・先が尖って、踵が丸い・・・涙型の状態に作るんだって!しかも、それだけじゃ終わりじゃなくて、その後、足の甲の骨をくるぶしの部分を中心に、バキッと折り曲げて、そのまま包帯で固定させるらしいんだよ・・・。足の甲が直角に反り返って、縦のコの字変形するから、それはそれは・・・痛いなんてもんじゃなかったらしいよ~!包帯で固定された足は、赤く腫れ上がって、化膿したりして・・・女の子達は、悲鳴をあげて、気絶することもあったとか?纏足を作るのは母親の仕事だったけど、あまりにも痛がる娘が可哀想で・・・途中でやめちゃったりする人もいたみたいだね。それで、10年くらいかけて12センチ以下のサイズを作るそうだけど、昔の中国では、『三寸金蓮』とか言って、三寸(9.9センチ)くらいの足の女性は、地面に触れることもない為に、まるで赤ちゃんの足のようにふわふわとしていたそうで・・・それはそれは、何物にも換え難いくらい美しい、美の象徴だったんだね・・・。当時の男性達は、小さな足で、よろよろとよろめくように歩く纏足の女性に、なんとも言えない色気を感じたそうだし・・・これさえしていれば、上流階級の御曹司に目を留められて、玉の輿にも乗れたというから、まさに、セレブに憧れる、今の日本女性と同じような感じもしなくはないよね~。(娘が可哀想だからといって、纏足を止めたりすると、後で、娘に「何で、纏足してくれなかったのよ~!」と泣き付かれる羽目になるというから、どちらが娘思いになるのか・・・分かったもんじゃないよね~!)纏足の歴史は、長い中国の歴史からすると、それほど古いというものではないらしいんだ・・・。纏足が始まったのは、だいたい南宋時代・・・日本で言うと鎌倉時代くらいかな?宋(960~1279)の張邦基の随筆集『墨荘漫録』に、「南唐の宮廷で、(踊りを踊る)舞姫が帝の求めに応じて足を布で縛って小さくし、新月の形に曲げて黄金の蓮の花型の舞台で舞って見せた」 という記述があって、そうすると、真っ白な靴下をはいた足は雲の中を舞っている様で、体を旋回させる様はさながら雲を凌いで天に昇るように、それはそれは美しかったそうな・・・。(だから、『金蓮三寸』って言うのね~!納得!!) それ以前の、唐の時代に、玄宗皇帝のお后だった楊貴妃が自らの命を絶ったとき、残されていた靴がたったの三寸しかなかった・・・っていうネタがあるけど、そんなこと『トリビアの泉』に送ったら、ガセビアの沼に放り込まれますから~!(多分、楊貴妃は小さな足であってほしかったという願望が盛り込まれた、後の時代の作り話でしょう・・・)それ以降、宮中の女官の間で、足を小さく見せる為に白い布で縛ることが流行したみたいで、それが上流階級の子女の証しと言う風になっていくんだろうね・・・。そして、どんどん時代が過ぎるに従って、一般の階級にまで普及していって、纏足は、もはや中国の女性の間で、当たり前のようになった訳だけど、纏足の習慣があるのは、実は、中国の中でも、漢民族に限られた話なんだって!清王朝(1644年~1912年)を仕切っていた満州族(女真族)は、一切やらなかったというから、あの悪名高き西太后も、もちろん、纏足はしていなかったということになるね・・・。その纏足の習慣も、1912年、清朝が崩壊し、中華民国の建国と共に廃れていく訳だけど、1950年代頃まで雲南省の女性達に行われていたとのこと・・・。(恐らく、纏足をしたお婆ちゃんの姿を、今でも見ることが出来るでしょう・・・)海外の人からは、忌々しい悪習だの、女性の人権を無視した拷問と罵られていた纏足だけど、でも、当の中国女性からしてみたら、何も施さない、でっかい足をした女性の方が、ダサくてカッコ悪かったのかも・・・?まあ、今の女性達だって、爪先の尖ったピンヒールを履いている訳だし・・・ほっそりとした形の良い小さな足に魅力を感じる男性も多いはず!外部から、とやかく言われることなんて、中国の人からすれば、余計なお世話だったのかもしれないね・・・。人気blogランキング
2005年02月04日
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