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これ今より百余年前、橘南谿が「東遊記」に記せる所なり。継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳せ参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経京都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和になりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も京都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲嘆の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙をさめてほゝ笑みたりとぞ。佐藤基冶・乙和夫妻の墓の隣に樹齢数百年の椿の古木があり、子を失った母の悲しみによりつぼみのまま落ちてしまって開かないため「乙和椿」と名づけられている(石碑の文字読めますか?)ちょうど椿は開花の時期で、境内にも多く咲いていたが、ここだけは花が咲いていないのでなんだか薄暗い。左下アップの写真、また石碑のところにも落ちているつぼみが見えている。不思議な現象だ。女性としての感性を多少とも模倣してくることができたのか、この「母心」も以前よりは痛切に感じられる。一方、「花を開かず日陰に終わる」という姿にカミングアウト(正体を明かすこと)できない女装子としての自分を重ね合わせて、感慨はひとしおであった。
2008.05.10
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「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれた。平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(おい)をとどめて什物(寺の宝物)とす。笈も太刀も五月に飾れ帋幟 五月朔日の事也。(端午も間近、男子の節句にふさわしい義経の太刀や弁慶の笈を飾り立派な丈夫に育つように祝うがよい) なんだ、一文字しか変えてないぞ、とお思いでしょうが、漢字交じりで書くと お芋達も五月に齧れかみのぼり(噛み砕き、としてはやりすぎと思いまして・・・)ということになっていまして、焼き芋を齧っている写真を撮りたかったのですが、近所のスーパーでは売っていなかったのと、ポテチやポテロングというのもどうかな、と思いましたし、お寺の境内で食べ物を持ち出すのもなんとなく気が引けて、こういうことになりました・・・・・芭蕉の感動の世界からあまりにも離れてしまったようですが、俳諧の基本にはそういう滑稽・おちょくりも含まれていたと言うことでお許し願いましょう。石像のほうは中央が義経公、向かって右が兄の継信公、左が忠信公です。皆さん凛々しいですよね。宝物殿には芭蕉も見た「弁慶の笈」「義経の太刀」が陳列されており、感動もひとしおでしたが、そこでの撮影は禁止。それにしても、たとえば真田十勇士といえば立川文庫の創作であるように、源義経は歴史上の人物でも、武蔵坊弁慶とか伊勢三郎義盛とかって猿飛佐助や霧隠才蔵と同類に思っちゃったりするんだけど、「この笈背負って安宅の関で勧進帳読んだんかなぁ・・」とか感慨がありました。
2008.05.06
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あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、しのぶのさとに行。・・・・ 早苗とる手もとや昔しのぶ摺「しのぶもぢ摺り」は、当て字を使用し、古来「信夫文知(文字)摺」などと表されている。 この石の存在を伝える文献としては「おくのほそ道」が最も早いとされており、その中で書かれた巨石・文知摺石が、文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。この石は、芭蕉がここを訪れたとき半分ほど土に埋まっていたそうで、付近の子どもがその経緯を次のように語ったという。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、・・・ (その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから) この文知摺石には、次のような伝説があり「鏡石」とも呼ばれる。嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣こと中納言源融(みなもとのとおる)が按察使(あぜち)として陸奥国に出向いていたが、ある日、文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の内に次の歌を残した。みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)(あなた以外のだれのために、みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように心を乱す、わたしでありましょうか。)「伊勢物語」や「百人一首」では、下の句が「乱れ初めにし我ならなくに」と改められている。 当然、芭蕉は「歌枕」としてこの伝説を念頭においての訪問だったわけだが、恋の歌を下敷きにしつつ、やや視点を変えて「早苗取る」乙女の手つきと「しのぶ摺り」の手つきとをあわせて詠んでいる。320年を経て訪ねたその日も近隣の田では「田植え」の真っ最中、ほとんどが機械化された中、昔ながらの手作業の姿も見受けられた。実はこのスカート、以前ペンキ塗りたての柵に寄りかかってしまい、茶色のペンキがどうしても落ちないので、紅茶で染めて「白」から現在の色にしたもので、さらに「草染め」してみるのもいいかな?という句にしてみた。実際は日陰なので「苔」では色もつかなかったのだが・・・・・GWとはいえ、訪れるひともちらほらで、ゆっくり散策ができ、資料館ではお茶もご馳走になった。「どちらから来られました?」からいろいろお話させてもらったが「秋の紅葉がまたすばらしいんですよ」と言っていただいたので、また来て見ようかと思う。
2008.05.06
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