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人生の目的が見つかる魔法の杖 IRAが「なりたい自分」を実現する。 IRAとは、「本能反射領域」のこと。 大脳皮質(右脳・左脳)の下にある原始的な脳であり、 1.生命維持やストレス反応(自律神経・ホルモン分泌) をコントロールしている「脳幹」 と、 2.本能や感情が生まれ、潜在的な記憶が蓄えられる場である 「大脳辺縁系」という、 2つを合わせた無意識領域を指している。 この領域の重要な特徴は、 ・IRAは無意識の領域だから、意識的な意志の力では自由にならない。 ・理屈の「論理」が通用しない。 ・過去のデータが蓄えられている。 ・IRAにインプットされる情報は、扁桃核で「快」「不快」に判別され、 「快」はリラックスとプラス感情の記憶となり、 「不快」はストレスとマイナス感情の記憶となる。 ・IRAがアウトプットする情報には、必ず感情が伴っている。 ・そうしたIRAの記憶データに基づいて、理屈脳は物事を判断する。 ・IRAはイメージ力の右脳と強く結びついており、 マイナス感情がIRAに発生すると、右脳にマイナスイメージが生まれ、 左脳でのプラス思考も不可能になる。 ・反対に、プラス感情が発生すると、らくらくプラス思考になれる。 だから、 「人間は、無意識の脳がつくる人生脚本のままに生きている」 「自己中心的な脳では、どん底の困難は乗り越えられない」 「何度もいうように、 「人生の目的」は考えるものではなく、感じるものだ。 感謝し、感動し、感激できる脳が、 素晴らしい「人生の目的」を見つける。」 西田文郎「人生の目的が見つかる魔法の杖」
2008.10.03
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最近、羽田空港を利用して気になっていること・・ こだわりの自動販売機が増えていること。 その一つが、国内線第2ターミナルにある 「日本全国のレトルトカレー」なるもの。 15種類のレトルトカレーが売っています。1.よこすか海軍カレー(神奈川県) 470円2.岩国海軍飛行艇カレー(山口県) 520円3.道産牛のブラックカレー(北海道) 430円4.江田島海軍カレー(広島県) 540円5.呉海軍亭肉じゃがカレー(広島県) 440円6.道産鶏のホワイトカレー(北海道) 430円7.にしきや牛タンカレー(宮城県) 810円8.はろうきてぃ横須賀海軍カレー(神奈川県) 520円9.山形県産黒毛和牛・極旨カレー(山形県) 650円10.築地マグロカレー(東京都) 760円11.Keema Curry(兵庫県) 540円12.京都肉カレー(京都府) 760円13.徳島阿波ポークカレー(徳島県) 650円14.博多明太子カレー(福岡県) 540円15.泡盛カレー(沖縄県) 540円 出発ロビーなので、なかなか自宅用には買いづらいのですが、 来月まだ売っていたら、帰宅時に3種類ほど買おうと思います(^^♪
2016.09.04
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ちょっと以前読んだ本の棚卸し・・ ハーバーマスの「順応気構え」について、佐藤優さんが要約した一節のメモ残しておきます。 フランクフルト学派であるアドルノ&ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」「啓蒙によって国民に知識がグンと増えたにもかかわらず、 なぜナチスの犯罪のような野蛮なことが起きたのか。 知識や情報が増えて科学技術が発展することにより、 人類は幸せになりそうなものなのに、 まったく逆の方向へ向かってしまうのはなぜなのか?」 ハーバーマス「晩期資本主義における正統化の諸問題」「《順応気構えの<究極の>動機は、 疑わしい場合は自分が論議によって納得されるであろうという確信である。》 ・・ 我々は基本的な教育や訓練を受けているため、 発せられる一つひとつの情報が深くなり、伝達スピードが速くなっても、 丹念に検証すれば理解できるはずだ。 ただし、多くの情報を理解するためには膨大なエネルギーがかかる。 そんなことをやっていてはクタクタになってしまう。 そのための「順応の気構え」が出てきてしまう。 何か理解できないことがあれば、誰かが説明して自分を説得してくれるだろう。 何か引っかかることがあっても、誰かが検証してくれるだろう。 そんな「順応の気構え」が出ることで、積極的に自分で物事を検証するという 発想が出なくなる。 正しくて質が高く、深い情報が大量に出れば出る世の中ほど、 その傾向は強まる - おおむねこんなことです。」 「情報力―情報戦を勝ち抜く“知の技法”」佐藤優&鈴木琢磨情報力
2008.10.04
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原作は、東野圭吾さん。 犯罪者の家族を視点に描いた映画。 犯罪の罪は、犯罪者自身のみにあらず・・・その家族までも・・。 キャストは、 弟の学費を手に入れようと空き巣に入った屋敷で老女を殺人した兄・剛志役に、玉山鉄二さん。 犯罪者の肉親というレッテルのため、進学・就職・結婚の壁に苦しむ弟・直貴役に、山田孝之さん。 直貴を陰日向に支える薄幸の少女・由美子役に沢尻エリカさん。 山田孝之さんは「白夜行」、沢尻エリカさんは「1リットルの涙」のイメージをダブらせながら 見ていました。 ・・・玉山鉄二さんは、名作?!迷作「逆境ナイン」とはうって変わった演技でしたが、 良かったです。 兄弟らしく、玉山鉄二さんと山田孝之さんのルックスが似ていました。 杉浦直樹さん扮する勤め先の会長さんの直貴に対する言葉が、印象に残ります。 君は差別されて不当だと思っているかもしれない・・・ 差別されるのは当然なんだ・・ でも、差別のない場所を探すんじゃない 君はここから始めるんだ 沢尻エリカさんの不思議な関西弁が、妙に耳に残りました・・・別にそんなにいややあらへんけどな?! 桜が、目にまぶしい映画でした。
2007.03.20
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(株)トリドールさんの株主優待券を使って、 牛皿とぶっかけうどんをいただきました。 ・・お腹一杯です(^^♪3397 (株)トリドール権利確定月 9月末日 株主優待の内容100円割引券 100株以上 20枚綴り(2,000円分) 500株以上 60枚綴り(6,000円分) 1,000株以上 100枚綴り(10,000円分)
2016.07.07
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サンタクロースっているんでしょうか?中村 妙子 訳東 逸子 イラスト偕成社 「サンタクロースって、いるんでしょうか?」 100年前のニューヨークに住む、8歳の女の子の素朴な質問・・ この質問に、真面目に向き合った、新聞社の記者、立派だと思います。 大切なものは、目に見えないことを、再認識させられます。 ところで、 この質問をしたバージニアちゃんが、のちに小学校の先生として47年間勤めあげた、というのは、とてもよい話だと思います。
2017.12.24
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神保町のさぼうるさんにて。ブックフェスティバル、雨だとちょっと寂しい。でも、ビニールかけて頑張っていました。
2012.10.28
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小林秀雄の恵み (新潮文庫)橋本治「小林秀雄の恵み」新潮社2007年刊 橋本治さんによる、小林秀雄『本居宣長』論。 とっても面白くて、読了後も、ページを何度も読み返しています(^o^)/≪読み手である私が「小林秀雄を読む」とは、私にとって必要なところ、分かるところだけを拾って 読むのにすぎない。「私の読んだ小林秀雄」は、「小林秀雄の語ったこと」の一部に過ぎない。≫≪小林秀雄は、私とは違う時代に生きていた。だから、私が小林秀雄を読んで「分からない」と思う部分は、 彼の生きた時代のもたらした部分である - そう思うからこそ、「分からない」ということが 気にならない。・・ ・・私が知るべきことは、「小林秀雄が語った、私の分からない部分」なのである。≫橋本さんが、『本居宣長』を読んで思ったこと・・≪必死になってその悪路の揺れに堪えてはいるが、私には、小林秀雄がなにを言いたいのか、 さっぱり分からない。言っていることは分かるが、そのことによって彼が何を語ろうとしているのかが さっぱり分からない。≫≪『源氏物語』や『古事記』を論ずる本居宣長 - その宣長の言葉を引用して語る小林秀雄の言うことが、 私には、なにを語ろうとしているのかよく分からない。≫ そこで、≪「宣長の歌から始まる補助線を設定しなければ、この本の全貌は分からないな」と思い、 「『歌』とはなにか」以降のことを考えた。≫≪本居宣長にとって「歌」というものがなんであったかという問題はさておいて、 『源氏物語』に於ける「歌」がなんなのかは、簡単に分かる。 『源氏物語』に登場する作中人物の詠む和歌は、作中人物達の「会話」であり「生の声」である。≫≪・・『源氏物語』の作中歌には、登場人物達の「生の声」がある。 そして、登場人物達の「生の声」は、作中歌にしか聞かれない。 なぜかと言えば、『源氏物語』は、作中人物に対して作者が敬語を使う物語だからである。≫一方、≪和歌は、敬語とは無縁の世界に存在する。 であればこその「生の声」である。 和歌の遣り取りをする二人の間に、身分の上下はない。 あっても、それを無効にすることが、和歌の遣り取りである。≫ 『万葉集』の大家の賀茂真淵に対して、宣長さんは『新古今』を下手にしたような歌を送り続け、 真淵に激怒されます。≪なぜ本居宣長は、賀茂真淵に和歌を送ったのか? 考えられることは一つしかない。 彼は賀茂真淵と、率直に話したかったのである。≫ そして、『源氏物語』の研究した宣長にとっては、≪「自分は”生の声を発せられる”という点に於いて、稀有なる『源氏物語』の作中人物達と同じで あるはずなのに、なぜ自分には、生きるべき『源氏物語』がないのか?」と。≫ ・・後半へ続く。<目次> 第1章 『本居宣長』の難解第2章 『本居宣長』再々読第3章 「語る小林秀雄」と「語られる本居宣長」第4章 近世という時代―あるいは「ないもの」に関する考察第5章 じいちゃんと私第6章 危機の時第7章 自己回復のプロセス第8章 日本人の神第9章 「近世」という現実第10章 神と仏のいる国終章 海の見える墓
2014.10.04
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女は何を欲望するか?内田樹「女は何を欲望するか?」 内田樹さんにとって、フェミニズムは「宿敵」・・ でも、これって好敵手でもあるのであって、 本書は、フェミニズムへの追悼をうたいながらも、 その歴史的成果の中で最良のものを残そう・・という愛情も感じられます ・・なんて書いたものの、リュス・イリガライ、ショシャーナ・フェルマンの 言説(の要約)・・ちょっと極端な言い方だと思いますが こういう言い方で頑張っていた時代を感じました 冒頭、フェミニズムが歴史的宿命を終えて社会的な影響力を失いつつあるのは、 その理説に誤謬があったからではなく、「「あらゆることをその理論で説明できる」という全能感をもたらし」 その結果、「過剰適用」をしすぎたために思想としての「死期」を早めたのだ、と。 思想の全能感・・「ほんとうはその理論をもって説明すべきではないことまで、 それで説明できてしまう」こと。 でも、これはフェミニズムに限らず、マルクスの理論も、フロイトの理論も、 レヴィ=ストロースの理論も、フーコーの理論も同様であった。 本来の正しい態度は、「自分の理論がうまく適用できる事例には理論を適用し、 うまく適用できない事例にはむりに適用しない」ことである。○ボーヴォワールのアポリア・・「女性エリートの社会進出が実現することは、女性が男性に伍す能力があることを示す以上、よいことだとボーヴォワールは考えている。 だが、女性エリートの社会進出が首尾よく果たされるということは、現在の社会システムがある程度合理的に機能しているということのアリバイとして利用されてしまうのではないかと危惧するフェミニストもいる。」 私たちの社会が男性中心主義的な社会であるという前提に立つ場合、 その社会で女性が成功し、高い地位や権力を手に入れることは不可能なはず。 でも、それが可能であった場合、2つの説明がある。 一つは、その社会がそれほどには男性中心主義的な社会ではないことを示しており、前提に矛盾する。 (・・矛盾といいますが、これって、程度の問題では) もう一つは、「女性が既存の男性中心主義的な原理を内面化し、進んで「男性化」したということである。だが、そうだとすると、要するに・・ 女性が「男性化」し、パワーエリートとして社会的リソースを独占することを勧奨していることになってしまう。リアルではあるが、夢のない理説だ。」 この逡巡・・共感できます。○女性と言語・・ショシャーナ・フェルマン ショシャーナ・フェルマンによると、「女性はテクストを読むときに「男性として」読んでおり、 テクストを書くときは「男性として」書いている。」「女性読者は「それと知らずに」すでに「男として読む」ように 訓育されている。」 でも、「男性として」・・というのを捨象して読む、 「非人称」で読むなんてことはできるのか? レヴィナスによると、「読み手は「人生に、都市に、街路に、他の人々にも、等しく開かれている」」「読み手は、「都市、街路、他の人々」によって「あらかじめ」ユニークなものとして形成されたリアルな人間であるのではない。 読み手はテクストと人生に「等しく開かれている」。 テスクトの意味は人生経験によって照射され、人生の意味はテクストが開示される。 人生と読みはインタラクティブな関係にある。 テクストを読むことで人間の生き方は変わり、 生き方によってテクストから読み出される意味が変わる。・・」さらに、「私たちは、そのつどある特定の言語体系、親族システム、神話体系、イデオロギー、 美意識・・などの「臆断」のうちに投げ込まれている。」 世界内存在としての人間は、世界の外から「客観的視点」で自分自身を見下ろすことは できない。「しかし、それでもなお、人間は、想像的におのれの身体を離脱して、 わが身を振り返る可能性を持っている。 それは「私は<他者の目>からはどのうように見えているのか?」 という問いを発することによってである」と。 問題は、・・性差では捉えられない世界の話ということだと思います。 これまで男たちが追い求めてきた 社会的リソース(権力、地位、名誉、金銭、情報・・)に対して、 公平な分配を求めることと、 「あんな「空しい」もののために命がけになるの?」 と疑問を呈すること の二つの選択肢がありうるが、 多様性が強さの源である社会システムとしては 一方に偏らず、バランスが取れていることが大切なんだと思います。 <目次>1 フェミニズム言語論(「女として語る」ことは可能か? フェミニズム言語論の基本構制 女性と言語?ショシャナ・フェルマン 「女として書く」こと)2 フェミニズム映画論(エイリアン・フェミニズム?欲望の表象 ジェンダー・ハイブリッド・モンスター)女は何を欲望するか?
2008.11.08
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プラトン「国家 正義について」上巻 訳は、藤沢令夫。 本論の前に、 ソクラテスが、ケパロスという長老との会話が、 老人論として面白い。 アテナイから離れた田舎に住むケパロスがソクラテスに対して、 もっと頻繁に会いに来てくれるように要望する。「・・この私には、一般に肉体のほうの楽しみが少なくなっていくにつれ、 それだけ談論の欲望と歓びとが、ますます大きくなってきているのだ。・・」「私には、高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。 なぜなら、そういう方たちは、言ってみれば、やがてはおそらくわれわれも 通らなければならない道を先に通られた方々なのですから、 その道がどのようなものか、 - 平坦でない険しい道なのか、 それともらくに行ける楽しい道なのかということを、 うかがっておかなかればと思っておりますのでね。・・」とソクラテス。 ケパロスは、同じくらいの年齢のものと集まった際、 大部分の老人たちは悲嘆にくれるのだ、という。「若いころの快楽がいまはないことを嘆き、女と交わったり、 酒を飲んだり、陽気にさわいだり、その他それに類することをあれこれやったのを 思い出しながらね。 そして彼らは、何か重大なものが奪い去られてしまったかのように、 かつては幸福に生きていたが、今は生きてさえいないかのように、なげき悲しむ。・・」 ケパロス自身は、この姿を見ながら、「そういう人たちは、ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだ」 なぜなら、同じ経験を味わったはずの自分や、 作家のソポクレスは違う、のだ。 かつてソポクレスが、愛欲の楽しみを問われて、 「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。 たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」 と、名言で答えたこと。 つまり、ポイントは、老年にあるのではなく、人間の性格に起因するのだ。「端正で自足することを知る人間でありさえすれば、 老年もまたそれほど苦になるものではない。 もしその逆であれば、そういう人間にとっては、・・老年であろうが青春であろうが、 いずれにしろ、つらいものとなるのだ」と。 ・・・なんだか、若い頃、不平不満児だった人が、年をとって、みながみな丸くなるわけ なかろう、と思うと当然のこと。 これに対し、ソクラテスは、ちょっといじわるな質問をする。 ケパロスがそういうのは、性格が原因なのではなく、お金持ちだからなのではないか? 金持ちには慰みごとも多い、と言うのだから。 ケパロス自身、ソクラテスの指摘はもっともで、周りの人々も、自分の言葉通りに 受け取ってくれない、という。 でもその上で、 「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまり楽ではないし、 また、人物が立派でなければ、金持ちになったからとて、 安心自足することは決してないだろう」 最後の質問として、 「財産をたくさんもっていてよかったと思うことで、いちばん大きなことは何ですか?」 とソクラテスが問うと、 「人は、やがて自分が死ななければならぬと思うようになると、 以前は何でもなかったような事柄について、 恐れや気づかいが心に忍びこんでくる。 たとえばハデス(冥界)のことについて言われている物語、 - この世で不正をおかした者は、あの世で罰を受けなければならない といった物語なども、それまでは笑ってすませていたのに、 いまや、もしかしてほんとうではないかと彼の魂をさいなむのだ。・・」 お金の所有が最大の価値を持つのは、 正しく敬虔に生涯を送るためにこそある。 「不本意ながらにせよ、誰かを欺いたり嘘を言ったりしないとか、 神に対してお供えすべきものをしないままで、 あるいは人に対して金を借りたままで、びくびくしながらあの世に去る といったことのないようにすること、 このことのために、お金の所有は大いに役に立つのである。」と。 ソクラテスとプラトンの他の作品にご興味あれば・・・「プラトン全集」
2007.05.13
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】18歳から考える国家と「私」の行方 〈西巻〉 [ 松岡正剛 ]松岡正剛「18歳から考える国家と「私」の行方 西巻:セイゴオ先生が語る歴史的現在」春秋社2015年刊 サン・シモン・・≪フランスが王政復古した時期、社会を有機体としてとらえるべきだと考えるようになり、 『産業』や『産業体制論』という本のなかで、 「最も安価で支配が少ない社会体制」を編み出そうとします。≫ 「最も貧しい者から社会を考える」という思想およびう運動として、後々まで継承された。 進化論を唱えたダーウィンは、 進化生物学はあくまで生物の進化にのみあてはまるもので、 社会にあてはまるなどとは一言も言わなかった。 しかし、「社会は進化する」という思想は、 サン・シモンやダーウィンの思惑と離れて、 進化論は、人間の明日に向かっての希望としっかり結びついてしまった。 中井久夫『分裂病と人類』の中で、≪人類がギリシア以来の精神病にかかってきたことを証しました。≫ そんな昔から苦しんだ人類は、 まず宗教や信仰をつくり、 ついで社会の制度とか国家のしくみや自由市場の拡張を行った。 近代では、民主主義や自由資本主義に広がった。 ハンナ・アーレントやエルンスト・ノルテなどは、社会ダーウィニズムが 行き過ぎればファシズムになると指摘した。 19世紀末、列強がアフリカ分割やアジア侵略をへて、 次々に「帝国主義」に突入する。 その結果、列強は20世紀初頭に、全世界の84%を支配するまでになった。 第一次世界大戦で、帝国主義列強による世界分割以来の世界地図は一変する。 旧帝国がことごとく崩壊する。 古い政治組織では、20世紀型の総力戦は戦えなかった。 イギリスの中東での三枚舌・・ フサイン・マクマホン協定・・大戦後にアラブ人の国家の建設をイギリスが支援する バルフォア宣言・・パレスチナにユダヤ人のための民族的郷土をつくる サイクス・ピコ協定・・イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定 イギリスは、インドでも二枚舌を使っていた。 朝鮮戦争・・ 1950年6月、ソ連に後押しされた北朝鮮軍11万人が38度線を越境し、 わずか3日でソウルが陥落する。 その後、国連軍が、仁川に上陸しソウルを奪還。 この状態に中国が危機感を持ち、100万の軍隊をもって参戦。 マッカーサーは戦域を一挙に拡大して、「反共アジア」をつくりだそうと考え、 ウラジオストックから北京まで、なんど26都市に原爆を落とすことを計画した。 さすがに、トルーマンは、この計画を停止させ、マッカーサーを解任した。 ちなみに、 湾岸戦争は、たった一週間で、広島の原爆の5倍もの爆弾を落とし、 二週間後には、その15倍の爆撃でイラクを壊滅させた「正義の戦争」なるものだった。 ところで、日本はどうなのか? 第二次大戦後の日本は、アメリカ軍に統治されていた新植民地だった。 赤坂真理『東京プリズン』・・「日本国は、開国させられた屈辱とショックと危機感から戦争の世紀に打って出て、 奇跡の快進撃を遂げた末、 深入りしすぎて大負けし、国を焦土として無条件降伏するまでになった。 その間、変わらなかったのは天皇の実在、 もうひとつは日本が一貫して他者のルールの中で戦わざるをえなかったことだった」 日本人の勘違い・・ 日本人は現在の日本に「かつての日本」があると思いすぎている。 ドナルド・キーンさんは、「純粋な日本」はほとんどなくなっており、 そのへんのスーパーや寂れた商店街にあらわれている、という。 20世紀を理解するための本・・・ ジョヴァンニ・アリギ『長い二〇世紀』(作品社) ウルリヒ・ペック『危険社会』(法政大学出版会) スラヴォイ・ジジェック『厄介なる主体』(青土社) ・・各々20世紀を「資本で語る」「リスクで語る」「厄介なる主体で語る」 石牟礼道子『はにかみの国』(石風社) ・・昭和に生きてきた時代社会のすべてを『はにかみ』という言葉に託した。 ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』(中公文庫) 『敗北を抱きしめて』(岩波書店) ジョン・ダワーは、「敗北を抱きしめた国」と見立てた。 佐野真一『昭和虚人伝』(ちくま文庫) 『巨怪伝』(文春文庫)<目次>第8講はたして社会は進化しているのか第9講二〇世紀の哲学と文学が暗示したこと第10講「イギリスのまちがい」と「日本の失敗」第11講アメリカの資本主義と大衆の力第12講インターネットとイスラム主義の問題第13講歴史認識問題と日本の語り方第14講編集的世界観を求めて
2016.03.21
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信州の善光寺での「戒壇めぐり」・・・ の興奮冷めやらぬまま・・ 信州善光寺・お戒壇巡り・・・遠くとも一度は詣れ善光寺 いまちょっと調べたら、 全国いたるところに、「戒壇めぐり」や地下霊場のような場所がありますね~大光寺(宮城県柴田町)岩槻大師(埼玉県岩槻市)玉川大師(東京都二子玉川園) 井口院(いこういん)(東京都三鷹市) 安養院(東京都目黒区) ・・ウスサマ明王威光寺(東京都稲城市)穴澤天神社(東京都稲城市)済広寺(静岡県南伊豆稲取) 妙法寺(静岡県富士市) 甲斐善光寺(山梨県甲府市) 元善光寺(長野県飯田市) 善光寺東海別院(愛知県祖父江町) 無量寺(愛知県蒲郡市)大聖寺大秘殿(愛知県蒲郡市)華厳寺(岐阜県谷汲村) ・・たぶん同じお寺さん・・谷汲寺(岐阜県揖斐郡谷汲村徳積)宗休寺・関善光寺(岐阜県関市) 千一会不動院(岐阜県各務原市)迫間不動(岐阜県関市)清水寺の塔頭・随求堂(京都)信貴山朝護孫子寺 虎の胎内くぐり(奈良県生駒郡)善通寺(香川県善通寺市)大聖院(広島県宮島) 耕三寺・千仏洞(広島県瀬戸田町・因島) 摩尼寺(鳥取県鳥取市) 摩尼寺(まにじ)(鳥取県鳥取市)福岡大仏(福岡県福岡市) 「全国善光寺会」によると、443の善光寺如来分身仏があり、 「善光寺」を正式な寺名とする寺院が119ヵ寺以上存在するとのことですので、 「戒壇めぐり」できるところも、もっとあるかもしれません。 京都を初め関西にはもっと沢山あるはず・・ 岐阜や広島、充実してますね。 行く前に、もう一度チェックしようと思いますが、 まずは近場から攻めたい?!と思います。
2008.06.29
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先日封切られた映画「借りぐらしのアリエッティ」 まだ見ていないのですが、一足お先に、東京都現代美術館でやっていた 「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」に行ってきました。 借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展 東京都現代美術館 地下鉄の清澄白河駅の構内では、展覧会と連動して、スタジオジブリレイアウト展を していました。 展示のメインは、等身大のアリエッティの自宅を再現したセットでした。 残念ながら、アリエッティは不在・・ 「アリエッティに会えなかったあ~!!」と叫ぶ子供の声・・ に思わず微笑みました。 ところで、 借りぐらし・・という言葉は何度聞いても耳慣れませんが、 最近読んだところだと、 石川啄木は、その日暮らしの借りぐらし・・だったことを連想します。 【啄木日記】かの蒼空に 『坊っちゃん』の時代 (第三部) 帰りは、木場公園を通って・・ 入道雲は、なかなか立派でした。
2010.07.24
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浅田次郎「天切り松 闇がたり」ドラマ・・・贅沢なキャストと原作 2004年7月にフジテレビ系で放映されたドラマのDVD。 久しぶりに、ウェアハウスに立ち寄ったら、目に留まったので借りました。 浅田次郎さんの原作「天切り松 闇がたり」が素晴らしいので、 期待と不安、半分半分で見始めましたが、 なんともキャストが素晴らしかったです。 映画「アンフェア」を見たばっかりだったこともありますが、 ダンディな黄不動の栄治役、 椎名桔平さん、いいですね! その上手を行く、安吉親分役が、渡辺謙さん。 人情味溢れる説教寅こと寅弥役の六平直政さん。 寅弥が昔世話になった上官の娘役の篠原涼子さん、 松蔵の姉・さよ、白縫華魁役の井川遥さん、も良いです。 もちろん、闇語りで狂言回しする天切り松役の中村勘九郎さんも。 そして、取り上げた原作も、どれも選りすぐり。 「黄不動見参」・・・血よりも濃い水もあること 「昭和侠盗伝」・・・赤紙一枚で人の命をかっぱらう国に対して、へのつっぱりにもならないことを承知で、天下のお宝をうばう 「白縫華魁」~「衣紋坂」・・人間を売り買いする女衒が人間ではないこと・・。 一話30分とは、とっても贅沢です。 おこん姐さんの「ゲンノマエ(帯留めにさんだ財布を真正面から抜き取る芸当)」や、書生常こと百面相の常次郎の芸術的な詐欺等も、見てみたい。 2年半経ちますが、続編かシリーズ化を期待します。 <キャスト> 村田松蔵(天切り松) : 中村勘九郎 黄不動の栄治 : 椎名桔平 志乃 : 篠原涼子 さよ : 井川 遥 逆井重美 : 中村獅童 村田松蔵(少年時代) : 久野雅弘 並木康太郎 : 井前隆一朗 寅弥 : 六平直政 永井荷風 : 岸部一徳 東郷平八郎 : 丹波哲郎 抜け弁天の安吉(杉本安吉) : 渡辺 謙 浅田次郎「天切り松 闇がたり 闇の花道」浅田次郎「残侠―天切り松 闇がたり」・・それが男の心意気 浅田次郎「初湯千両―天切り松 闇がたり」第三巻・・・無理させて無理をするなと無理を言う 浅田次郎「昭和侠盗伝―天切り松 闇がたり」第四巻
2007.03.20
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ほめ言葉ハンドブックほめ言葉ハンドブック 本間正人&祐川京子2006年刊 先日読んだハック本の中で、お薦めされていたもの・・ その方の目的は、自分のモチベーションを上げるためだ、と。 と書きつつ、どの本か忘れてしまいました(-_-;) 「九割の人は、ほめられて育つ」○相手をほめることができない理由 ・ほめ方を知らない ・ほめられ下手 ほめられて居心地がよくなかった ・自分のことで精一杯 「余裕のないプレイング・マネージャは、プレイヤーであるだけで精一杯。 部下に対して細かく目配りすることなどできなくなってしまうものです。」 ・ほめると相手がつけあがると思っている ・相手より優位に立ちたいと思っている 部下をほめると自分が劣っていると思っている ・被害者意識を持っている 他の人にプラスのエネルギーをお裾分けできるほどチャージできていない ・個人的な好き嫌いに影響されている 公正に、適切にほめるよう心がける○ほめ上手になると得する理由 ・理解されている実感を相手に与えられる ・相手の自己信頼、自身がアップする ・組織の雰囲気が明るくなる ・モチベーションが上がる ・ミスが減る 相手を萎縮させない ・ほめる側のエネルギーが上がる ほめてる人は、 まろやかないい顔になる よいアイディアが生まれる 視野が広がる よい言葉は、伝える本人が一番最初に聞いている ○正しいほめ言葉の六原則[原則1]事実を、細かく具体的にほめる[原則2]相手にあわせてほめる[原則3]タイミングよくほめる[原則4]先手をとってほめる[原則5]心をこめてほめる[原則6]おだてず媚びずにほめる 口だけでほめることはできない。 耳と目、心でほめる。 ほめ上手は、観察上手。○ほめ上手になるための四つの心がけ[心がけ1]ほめる要素を探す[心がけ2]ほめ方のレパートリーを増やす[心がけ3]力加減をコントロールする[心がけ4]あきらめずに実践する 「ほめる要素は能力だけではありません。 外見、内面や性格、勤務態度、仕事への取り組み方、 言葉づかい、後輩指導、あいさつの仕方、 特技など」 結果だけでなく、プロセスも・・ いろいろあることを忘れずに!○成績がトップの人にもほめる 「次はどんな伝説をつくろうか」 <目次>第1章 上手にほめられないという人へ(ほめないほうがよい? なぜ相手をほめることができないのか ほか)第2章 効果的にほめるための基本原則(効果的なほめ方の秘訣 正しいほめ言葉の六原則 ほか)第3章 ほめ言葉の実践スキル(相手にあわせてほめ方を変える 成績が悪い部下をほめる ほか)第4章 覚えておきたい「ほめ言葉」1 外見・行動編(相手の言動や行動パターンをほめる 見た目や外見をほめる)第5章 覚えておきたい「ほめ言葉」2 能力・人間関係編(知的能力の高さをほめる 優れた人間性、人間関係能力をほめる ほか)
2010.02.26
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義務について価格:903円(税込、送料別)キケロー「義務について」(岩波文庫)泉井久之助 訳 キケロー、最後の著作・・ 「義務」だけでなく、生き方そのものについて語ったもの。≪多くの人は軍事を、都府における平時の事業(文治)よりも大きいものと考え勝ちである。 しかしこの考えは訂正しなくてはならない。・・ 事実をよく見定めるならば、戦いにおいてよりも平時における事業に、より偉大、 より著しいものがいくつもあったのである。≫≪われわれが高邁偉大な精神から期待する道徳的な高貴さが実現されるのは、 身体の力によってでなく精神の力によることは、いうまでもない。 といってもわれわれは身体を鍛錬して、身体が、事業の遂行と苦難の克服に際して、 われわれの状況判断と理性に服し得るようにしておかなくてはならない。≫≪一般に肉体よりも精神でなされる仕事の方がずっと大きいように、 才能や理性に基づいてわれわれが遂行する事業は力によるものより、 ずっと人々の感謝に値することが大きい。≫ 戦時よりも、平時 肉体よりも、精神 才能や理性よりも、感謝が大事。≪哲学は全体として、ゆたかにみのりの多いもので、 どの部分をとっても磨きと洗練のかからないところはないのだが、 そのうちでもとりわけて滋味がゆたかな豊沃なのは、義務についての 部分である。≫ あらゆる徳の第一位は、ソピア、英知であり、 「神事と人事に関する知識であって、この知識によって神々と人間の協同、 人間と人間との社会的な結びつきが成立する」もの。 明知は、プロネーシスと呼び、何を求め何を避くべきかについての知識である。
2010.09.11
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ニーチェ全集〈5〉人間的、あまりに人間的 1 その2 前へ ニーチェ・・詩そのものよりも、 箴言の一節が、より詩的かもしれません。292 前へ。 それでは智恵の道を進め、確かな足どりで、確かな信頼をもって! 君がどのようであろうと、経験の源泉としての君自身に仕えよ! 君の本質に関する不満を投げ捨てよ、 君自身の自我を咎めだてるな、 なぜならとにかく君は、認識へと登っていける百段もある様子を もっているのだから。 こんな時代に投げ込まれたのは遺憾だと君の感じているその時代が、 この幸福ゆえに君をしあわせだとたたえている、 おそらく後世の人々がなしですまさなくてはならないような経験も、 今はまだ君に与えられるようにと、時代は君に呼びかけている。 ・・ 人生は老年にその頂点をもつのであるが、 この同じ人生がまた智恵の中に、変わらぬ精神的よろこびのあの柔らかい 日の輝きの中に、その頂点をもっている、 この二つのもの、老年と智恵とに、君は人生の同じ一つの山の背で出会う、 そう自然が欲したのである。 それから死の霧が近づいてくるのは、時が来たのであって、怒るいわれはない。 光にむかって - 君の最後の身じろぎ、認識の或る歓呼 - 君の最後の声音。
2008.12.27
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ツァラトゥストラはこう言った(下)ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 下」訳は、氷上英広。 「ツァラトゥストラ」・・ようやく読みました。 自分自身を発見し、乗り越えること。 そのための勇気、意志。 自分を取り巻く世界が、たとえ自分にとって汚物にまみれているように見えようとも、 それは知恵の宝庫であること。 その中でこそ、踊り続けること、そして大いに笑うこと。 「超人」「力への意志」「永劫回帰」・・等のタームよりも、 「!」が連続の力強い言葉、感動します。勇気・・「勇気にまさる殺し屋はない。 すすんで攻める勇気、それは死をも打ち殺す。 なぜなら勇気はこう言うからだ。 「これが生きるということであったのか? よしもう一度!」」人生は担うに難いものか・・「いや、人間が自分で自分を重くしているだけのことだ! それは、かれがあまりにも多くの他人のものを、自分の肩にのせて行くからだ。 駱駝のように、かれは膝を折って、荷物をたっぷり積んでもらう。」自分自身を発見する・・「人間は容易に発見されない。 ことに自分自身を発見するのは、最も困難だ。 「精神」が「心」について嘘をつくことがしばしばある。・・ だが、つぎのように言う者は、自分自身を発見した者といえる。 - 「これはわたしの善だ。これはわたしの悪だ」と。 かれはこう言うことによって、 「万人に共通する善、万人に共通する悪」などと言うもぐらと小びとを沈黙させた。」「超人」・・ 「また人間は克服されなければならない或るものだということ、 - 人間は橋であって、目的ではないということ、 その正午と夕べが新しい曙光への道であることを思えば、よろこびにみちること」高貴な魂のありかた・・ 「高貴な魂のありかたはこうである。 かれらはどんなものでも、無償で手に入れようとはしない。 まして人生を。」 「今後、あなたがたに栄誉を与えるのは、 「どこから来たか」ではなくて、「どこへ行くか」なのだ! あなたがた自身を超えて行こうとするあなたがたの意志と足、 - これこそ、あなたがたの新しい栄誉であらねばならぬ!」「世界にはたくさんの汚物がある。 そこまでは事実だ! しかし、だからといって、世界そのものが巨大な汚物にすぎぬとは言えない! ・・ (悪臭の中に) 知恵がひそむ。 嘔吐感そのものが、翼を生み、泉をさがしだす力を創造する!」Let’s dance.「踊りを一度も踊らなかった日を、われわれは空しかった日と考えよう! また哄笑を伴わなかった真理を、われわれはすべてにせものと呼ぶことにしよう!」意志・・「おお、意志よ、 おまえはあらゆる困難を転回するものだ! おまえこそ、わたしの必然だ! ひとつの大いなる勝利のために、わたしを備えさせておくれ!」「・・およそ地上に生じるもので、高く強い意志にまさるうれしいものはない。 それは地上の最もみごとな植物だ。 そうした木が一本あれば、風景ぜんたいが生きてくる。」「高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ! 高いところへは、他人によって運ばれてはならない。 ひとの背中や頭に乗ってはならない!」「あなたがた、「ましな人間」たちよ、 あなたがたのいちばんまずかったのは、踊るべき踊りを踊ることを学ばなかったことだ、 - あなたがた自身を超えて踊ることを! あなたがたが失敗しても、それがなんだろう! なんと多くのことが、まだまだ可能であることか! だから、あなたがた自身を超えて笑うことを学びなさい! あなたがたの心を高らかにあげよ、 あなたがた、良き舞踏者よ、高く! もっと高く! そして良き笑いをも忘れるな!」
2008.12.20
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黄金の扉を開ける賢者の海外投資術橘玲「黄金の扉を開ける賢者の海外投資術」 冒頭「日の名残り」に登場する執事になぞらえたプライベート・バンカーの姿から始まり、 マンガ「美味しんぼ」ならぬ、既に大富豪の人と手持ち資金300万の貧乏投資家 との投資対決をシミュレートする「投資んぼ」、 FXの世界へ果敢に投資する日本の主婦トレーダーたち・・ミセス・ワタナベの姿を描く。 読み進むと、スワップ、オプション、フューチャーに、コルレス等外為の基本の 解説まで載っています。 最後は、橘さん持論の永遠の旅行者・・PTの話で締められていました・・ なのですが、このてんこ盛り状態なのはなぜ? と思って「あとがき」を読んで納得。 本書、「海外投資を楽しむ会」の10周年企画としての総集編の位置づけでした。○「究極の投資」を考えるにあたって・・ ジェームズ・トービン曰く、 「ポートフォリオの銘柄を入れ替える必要などない。 投資家にとって最適な株式ポートフォリオ(効率的ポートフォリオ)はひとつしかなく、 あとはそれを債券と組み合わせてポートフォリオ全体のリスクを調整すればいいだけだ」 でも、そもそものポートフォリオとは何か? ウィリアム・シャープ曰く、 「アクティブな投資家は平均的には市場平均を上回ることができない」 ・経済学的に正しい投資法 「人的資本を使って金融資産にレバレッジをかけ、世界株ポートフォリオに投資する」こと ・世界株ポートフォリオ MSCIコクサイ株価指数に連動するインデックスファンド を買うだけ ○資本主義が貧困を救済する「1946年にインド南部の古都マイソールに生まれたナラヤナ・ムルティは、 インド工科大学で修士号を取得した後、フランスのソフトウェア会社に職を得て渡仏する。 故国の社会問題に深い関心を持つ熱心な左翼活動家だったムルティは、そこでフランス共産党幹部や 社会主義者たちと知己を結び、第三世界をいかに解決すべきか議論した。 若き日のムルティがたどり着いた結論は、きわめてシンプルなものであった。 「イズム(主義)だけでは世界は変わらない。レトリックは富を生まない。 富を創れず、それを分配できない者が、世界を救うことなどできはしない。」」 1981年に、6人の仲間とインフォシス・テクノロジーズを創業し、IT革命の波に乗り、 年間売上高30億ドルにまで成長させた。 「資本主義のみが貧困を救済できる。 われわれのただひとつの希望が、そこにある」 ○期待資産額・・トマス・スタンリーの方程式 期待資産額 = 年齢 × 年収 / 10 期待資産額を上回っていれば、蓄財優等生、 下回っていれば、蓄財劣等性 <目次>序章 さよなら、プライベートバンカー第1章 究極の投資VS至高の投資第2章 誰もがジム・ロジャーズになれる日第3章 ミセス・ワタナベの冒険第4章 革命としてのヘッジファンド第5章 タックスヘイヴンの神話と現実第6章 人生設計としての海外投資終章 億万長者になるなんて簡単だ
2008.12.14
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白い旗水木しげる「白い旗」(講談社文庫) 毎年、夏が来ると、戦記物の本や映画を目にすることが多くなりますが、 今年は、水木しげるさんの作品でした。 表題の「白い旗」は、ちくま文庫の「幽霊艦長」にも 収められている作品。 「白い旗」の主人公は、水木さんの兄の親友だった、西大条(にしおおえだ)という 海軍大尉。 硫黄島の戦いにおける玉砕命令の突撃後、負傷して生き残った兵たちに対して、 やるべきことをやったとする西大尉と、再度の玉砕命令を出す上官や同僚たち。 日本人のメンタリティー、いまだに再度玉砕を命ずる方に流れる気がしています。 圧倒的不利な中、ルンガ沖夜戦などで勝ち続けた田中頼三少将・・水木さんは いたるところで高く評価されていますが、 この不敗神話を持つ海将を、陸の守備隊につける旧軍の人事には、唖然とします。≪死んだ人間は再び生きて返れない 過ぎ去ったあやまちは二どとくりかえしてはならない≫<目次>白旗ブーゲンビル上空涙あり田中頼三特攻
2010.08.08
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ヴェイユの言葉シモーヌ・ヴェイユ「ヴェイユの言葉」(大人の本棚)訳は、冨原眞弓2 神と必然「この世界における一見いかにも明白な神の不在こそが神の実在である。 万事においてそうなのだ。 見かけで実在するものすべては非存在である。」(C3) ・・って「おのれの行為と結果のあいだ、 努力と業績のあいだに、 おのれの意志とは異質な意志が介入するとき、 人間は奴隷となる。」(C1)「おのれの虜囚にうすうす気づいている精神は、 できれば自己にもそれを隠していたいと思う。」(EL) 気づくと苦しく、気づかずに通そうとしてもことは自分自身に対してなのだから 隠し通せるはずもなく・・
2009.01.24
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8月12日、事故のあった日にケーブルテレビで再放映していました。 1985年の御巣鷹山の日航機墜落事故の全権デスクとなった地元の新聞社の記者の悪戦苦闘ぶりを描きます。 ・・って、もともと一匹狼の主人公の位置づけですが、孤立し過ぎでした。 主人公の目からみると、上司も同僚も部下も、他の部署も、自分の仕事に理解なく無能にうつるのだと思いますが、そんなときこそ、「自分が危ない」と思うべきかもしれません。 最後のスクープのところで、「チェック・ダブル・チェック」という言葉の元に、 決断しきらない弱さに歯がみしました。 リスクマネジメントが、何もしないための口実に使われる悪い例でした。 辞めてしまうなら、勇み足上等だと思います。 ところで、仕事を離れた主人公が挑戦したのが、谷川岳の衝立岩でした。 一ノ倉沢の景色・・
2011.08.14
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池上彰・津田大介「メディアの仕組み」夜間飛行2013年刊メディア・リテラシーとは・・≪「これが正しい情報だ」なんて最初からすぐに分かる人なんていないんです。 「正しい情報」と「間違った情報」を瞬時に切り分ける能力ではなくて、 「実は分かっていじゃないか」という恐れを持つこと。≫≪「真実」は分からない。 でも、世の中にはさまざまな「事実」がある。≫≪子どもの視点には、 「遠慮がない」んです。 だから、 「王様ははだかだ!」 と言える。 その視点を持つことも非常に大事だと思います。≫NHKでは、圧力をかけられるようなことはなかった。 ただし、「裏付けが取れないものは絶対に世に出すな」と言われていた。≪民法では報道されているのに、NHKが情報を出さない場合というのは、 ほとんどファクトチェックでひっかかっているのだろうと思います。≫<目次>第1章 テレビの仕組み―テレビにタブーはあるのか?(NHKは「強い」「NHKスペシャル」と「クローズアップ現代」の裏側 ほか)第2章 新聞の仕組み―新聞は生き残れるのか(読んでも頭に入ってこないマスコミが「政局」報道ばかりする理由 ほか)第3章 ネットの仕組み―ネットは世界を変えるのか?(ツイッターやフェイスブックは革命のきっかけに過ぎなかったSNSの普及で上がる情報統制コスト ほか)第4章 情報で世の中を動かす方法―事実とは何か?真実とは何か?(自分の意見を言うな!?ジャーナリストに期待されていること ほか)第5章 「伝える」力の育て方―世の中はそんなに単純ではない?(知識と情報をストックする方法本の豊かさをツイッターが増幅させてくれる ほか)
2013.12.16
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本居宣長「うひ山ぶみ」 (講談社学術文庫) 白石 良夫(全訳注)2009年刊 宣長さんのライフワークであった『古事記伝』が完成したのは、寛政10年(1798)、 数え69歳のときだった。 9月13日、門人たちによって完成祝賀会の宴がひらかれた。 その席で、数人の弟子たちから、初学者向けの古学の入門書の執筆を、改めてお願いされる。 長年『古事記伝』執筆の多忙を理由に断り続けていたが、ついに取り掛かり、 翌月10月21日夜には書き終えてしまった。 それは、学究生活40年で得た学問の要諦をまとめたものだった。 タイトルは、『うひ山ぶみ』・・・「はじめての山登り」のこと。 まず、何を学べばよいのか?≪いかに初心なればとても、学問にもこころざすほどのものは、 むげに小児の心のようにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは必ずあるものなり。 又、面々好む方と好まぬ方とも有り。又、生れつきて得たる事と得ぬ事ども有る物なるを、 好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功(いさをし)を得ることすくなし。≫≪いかに初学者とはいえ、学問を志すほどの人なら、まったく無垢の子供ではないのだから、 自分はこれをやりたいというものがあるはずである。 また、人それぞれに好き嫌いがあり、向き不向きもある。 好きでもないことや不向きなことをやるのでは、どんなに努力しても、その成果は少ない。≫ つまり、 好きなことを学んでよい。 では、どう学べばよいのか?≪詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、 はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、 さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功(いさをし)はなし。 又、晩学の人も、つとめてはげめば、思いの外、功をなすことあり。 又、暇(いとま)のなき人も、思いの外、いとま多き人よりも功をなすもの也。 されば、才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて 止むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば出来るものと心得べし。 すべて思ひくづをるるは、学問に大きにきらふ事ぞかし。≫≪ようするに、学問は、ただ年月長く倦まず怠らず、励みつとめることが肝要なのだ。 学び方はどのようであってもよく、さほどこだわることはない。 どんなに学び方がよくても、怠けてしまってはその成果はおぼつかない。 また、人の才能のあるなしによって、学問の成果は異なるのだが、才・不才のない人でも、 怠けずに励みつとめさすれば、それだけの成果はあがるものである。 晩学の人でも、つとめ励めば、意外な成果を出すことがある。 勉強する時間がないと言っている人も、案外、時間のある人よりも成果をあげることがある。 であるから、才能がないとか、出発が晩かっただとか、時間がないとか、そういうことでもって、 途中でやめてしまってはいけない。 とにもかくにも、努力さえすれば出来るものと心得るべきである。 諦め挫折することが、学問にはいちばんいけないのだ。≫≪さて、まづ上の件(くだり)のごとくなれば、まなびのしなも、しひてはいひがたく、 学びやうの法(のり)も、かならず云々(しかじか)してよろしとは定めがたく、 又、定めざれども実(まこと)はくるしからぬことなれば、 ただ心にまかすべきわざなれども、・・≫≪右のようなことなので、どういった学問がいいとかは言いがたく、 学び方も、絶対こうしたらいいとは決めがたいものである。 また、そのようなことは決めなくてもいいことであって、 ただ本人の考えるがままにすればいいのである。≫≪そは、まづかのしなじなある学びのすぢすぢ、いづれもいづれも、 やむことなきすぢどもにて、明らめしらではかなはざることなれば、 いづれをものこさず学ばまほしきわざなれども、一人の生涯の力を以ては、 ことごとくは其奧までは究めがたきわざなれば、 其中に主(むね)としてよるところを定めて、かならずその奧をきはめつくさんと、 はじめより志を高く大きにたててつとめ学ぶべき也。 然して、其余(あまり)のしなじなをも、力の及ばんかぎり学び明らむべし。≫≪学問にはさまざまな分野がある。 それらのどれも大事なもので、明らかにしなくてはならないものであるから、 すべての分野を学んで精進したいと思うのはわからないではない。 しかし、一人の一生涯の力をもってしてすべての奥義を究めるなどというのは、 無理なことである。 そのなかで、自分の専門とすべきものを決めて、それだけは究めねばやまずと、 はじめから高い志をたてて勉学に励むべきである。 しかるのち、ほかの分野にも、できるかぎり手を伸ばしてゆけばいい。≫ 本の読み方へのアドバイス・・≪又、いづれの書をよむとても、<ヨ>初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず。 まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、 又さきによみたる書へ立かへりつつ、幾遍もよむうちには、始(はじめ)に聞えざりし事もそろそろと 聞ゆるやうになりゆくもの也。 さて、件の書どもを数遍よむ間には、其外のよむべき書どものことも学びやうの法(のり)なども、 段々に自分の料簡の出来るものなれば、其末の事は一々さとし教ふるに及ばず。 心にまかせて力の及ばむかぎり、古きをも後の書をも広くも見るべく、 又、簡約(つまびらか)にしてさのみ広くはわたらずしても有りぬべし。 ≫≪また、どんな書物を読むのにも、初心のうちは、はじめから文義を理解しようとしてはいけない。 まずおおまかにさらっと見て、ほかの文献にうつり、これやかれやと読んで、 さらに前に読んだものにかえればいい。 それを繰り返せば、最初に理解できなかったことも徐々にわかるようになるものだ。 さて、それらの書物を何回も読むうちには、そのほかの読書についても、 また学問の方法などについても、次第に自分の料簡ができるものである。 したがって、それ以上のことはいちいち諭し教えるにおよばない。 心にまかせて力の及ぶかぎり、古い文献も後世のものも広く見渡してもいいし、 場合によっては簡単にして広くしなくてもいい。≫≪初心のほどは、かたはしより文義を云々。 文義の心得がたきところを、 はじめより一々に解せんとしては、 とどこほりてすすまぬことあれば、 聞えぬところは、まづそのままにて過すぞよき。 殊に世に難き事にしたるふしぶしをまづしらんとするは、いといとわろし。 ただよく聞えたる所に心をつけて、深く味ふべき也。 こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、 すべてこまかなる意味もしられず、又おほく心得たがひの有りて、 いつまでも其誤リをえさとらざる事有る也。≫≪文意の解しがたいところを、はじめからひとつひとつ解き明かそうとすると、 滞って先に進まないことがある。 そんなときは、不明なところはそのままにしておいて、先にすすめばいい。 難解なことをまず知ろうとするのは、たいへんよくない。 平易なところにこそ心をけて、ふかく味わうことをしなくはならない。 わかりきったことだと思って加減に見過ごせば、微妙な意味が感得できず、 さらに間違って解釈していても、その誤りにいつまでも気がつかないものである。≫ 宣長さん自身の読書経験として、『玉勝間』巻二の「おのが物まなびの有りしやう」にこうあります。 のちに先生となる賀茂真淵の『冠辞考』が江戸で出版され、知人から見せてもらい、はじめて名前を知る。 この本を初めてひととおり読んだときは、 まったく思いもかけぬことばかりで、あまりに意想外で、奇妙な感じがした。 なかなか納得できなかったけれども、もう一度読み返してみると、 なるほどと思われる箇所もでてきた。 さらに、また読み返すと、いよいよ納得できるところが多くなり、 読み返すたびに、納得する気持ちが増して、ついには、それが真実だと思うにいたる。≪すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、 その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、 此志よわくては、学問すすみがたく、倦(うみ)怠るもの也、≫≪すべての学問は、はじめからその志を高く大きくして、 その奥義を究めつくさずばやまじと、かたく心しなければならない。 そうでなくては、学問はすすまず、怠り心が出るのである。≫<目次> 『うひ山ぶみ』解説(『うひ山ぶみ』の成立とその概要古道論としての古学古典研究としての古学 ほか)『うひ山ぶみ』総論(物まなびのすぢみづから思ひよれる方怠りてつとめざれば功はなし ほか)『うひ山ぶみ』各論(物まなびのすぢ、しなじな有りてしなじなある学び志を高く大きにたてて ほか)
2014.08.31
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富永仲基論・・内藤湖南「先哲の学問」 加藤周一「富永仲基異聞―消えた版木」を読んで、 にわかに興味の湧いた富永仲基! 内藤湖南「先哲の学問」に、 大正14年4月5日に行われた、 「大阪の町人学者富永仲基」と題した講演記録があったので読みました。 当講演は、当時の大阪毎日新聞社が1万5千号の発行記念として企画したもの。 富永仲基の著作には、 「出定後語」と「翁の文」と「説蔽」の3つがあるといわれていますが、 「説蔽」は失われており、 「翁の文」も、大正13年に発見され、内藤湖南の手により出版された、といいます。 したがって、江戸時代の中期であれば、本居宣長が絶賛した「出定後語」しか流布して いなかったようです。 内藤湖南によると、富永仲基は、大阪出身の第一流の天才、 そして、日本における第一流の天才である、とべた褒めでした。 その理由は、仏教研究として一流であるだけでなく、 歴史研究の方法論として一流であった点にある、と。「学者の中で非常な新しい思いつきがあって、そうして新しいことを何か研究して 生み出す人は相当にありますが、しかし自分で論理的研究法の基礎を形作って、 その基礎がきわめて正確であって、それによってその研究の方式を立てるということは、 いたって日本人は乏しいのであります。 それは仁斎でも徂徠でもみな相当えらい人でありますが、 日本人が学問を研究するに、 論理的基礎の上に、研究の方法を組み立てるということをしたのは、 富永仲基一人といってもよろしいくらいであります。 その点に、われわれ非常に敬服するのであります。」 特別な方法・・ 「加上」という原則を立てた。 加上の原則とは、 「元何か一つ初めがある、 そうしてそれから次に出た人がその上のことを考える。 またその次に出た者がその上のことを考える。 だんだん前の説がつまらないとして、後の説、自分の考えたことを良い とするために、だんだん上に、上の方へ方へと考えていく。 それでつまらなかった最初の説が元にあって、それからだんだんそのえらい話は 後から発展していったのであると、こういうことを考えた。」 この加上の原則によって、大乗・小乗の多岐にわたる仏教の経典批判を行った。 「異部名字難必和会」の原則。 「根本のことがらは一つであっても、いろいろな学問の派ができますると、 その派その派の伝えるところで、ひとつの話がみんな違って伝えられてくると、 それを元の一つにかえすということはよほど困難である」ということを指摘した。 ある説をもととして、複数の説が派生した場合、 後の歴史家や思想家は、複数の説のうち、どれか一つを正しく、残りは誤りだとして 考えようとするが、そんなことは見極めは困難である。 「三物五類立言之紀」の論理。 文献研究において心得るべきこととして、 「言有三物」・・「言有人」「言有世」「言有類」 さらに、「類有り」を5類・・「(さんずい編+)乏」「磯」「反」「張」「転」に分けて、 研究をする方法を編み出した。 「言に人有り」・・同じことでも、人によって言い方、解釈が異なる 「言に世有り」・・時代によって言葉の意味も発音も用例も異なる 「言に類有り」・・ 「(さんずい編+)乏」・・固有名詞が、後になると普通名詞となる 「磯」・・言葉を激しく言う、強めて言う、そのため意味に変化が生じる 「反」・・前からの説と反対に解釈する 「張」・・誇張すること、大げさにいうこと 「転」・・意味が転ずる、意味が転化すること このように、学問を科学的に組織だった方法で考えた。 それが、富永仲基のえらさである。内藤湖南全集(第2巻)内藤湖南全集(第4巻)内藤湖南全集(第5巻)内藤湖南全集(第6巻)内藤湖南全集(第7巻)
2008.12.22
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これがニーチェだ永井均「これがニーチェだ」 ちょっと偏っている・・でも、それゆえに思い入れたっぷりの永井均さんのニーチェ入門書。 ニーチェは、「文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。 他の誰からも決して聞けない真実の声がそこには確実にある。 もしニーチェという人がいなかったら、 人類史において誰も気づかなかった - いや誰もがうすうす気づいてはいても 誰もはっきりと語ることができなかった - 特別な真理が、そこにはっきりと語られている。 だが、その真理は恐ろしい。・・ 私が感じる不満は、・・・ 多くの書物がニーチェから、問いではなく、 答えを受け取ってしまっている、という点である。 ニーチェは巨大な問題提起者で、他の誰一人として問うことがなかった問いを 独力で抉り出した人である。」・・ただし、その答えは成功していない。「哲学は主張ではない。 それは、徹頭徹尾、問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探求である。」 本書では、ニーチェの立てた3つの問いの空間について論じています。「子供の教育のおいて第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、 人生が楽しいということを、つまり、自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、 体に覚えこませてやることなのである。 生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい、 この優先順位を逆転させることはできない。」 「哲学に必要なのは、知性ではなく、勇気と強さだ。」「ニーチェは、世の中をよくしようとしたのではない。 むしろ、世の中がよくなることがよいことではないということを教えようとしたのである。」 超人思想は、左翼的でも右翼的でもない。いずれにも敵対する。 超人は、文字通り超える(uber)人(mensch)である。「彼は、肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、 もはや何も目指さないことを目指す、矛盾した形象であらざるをえないのである。」
2009.01.13
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ニーチェ入門竹田青嗣「ニーチェ入門」 わかりやすいと定評のある竹田青嗣さんのニーチェ入門書。 ニーチェ復権・・「ニーチェの思想が20世紀の後半になって再び蘇ったのは、なにより彼のキリスト教批判が、 ある特定の「信念」、「主義」、「イデオロギー」などに対する普遍的な批判思想として 読み直されたからにほかならない。」 ドゥルーズがニーチェから受けついたもの。 1つは、「系譜学」の概念に由来し、「近代哲学をその問題の内容を問わないで、 その「起源」、つまり「なぜそのような問題が設定されたか」という天を問題にする、 という考え方をとる」こと。 もう1つは、「伝統的に近代哲学が問題にしてきた「認識」や「真理」については 問わないで、つねに事象の「意味」や「価値」を問題にする、という考え方である。」 ニーチェの思想の柱は3つ。 1.ルサンチマン批判 2.これまでの一切の価値の顛倒 3.ニヒリズムの克服、価値の創造 ・・ポストモダニズムの思想家に復権されたニーチェですが、前2つについては復権に 成功したようですが、3つ目はいまだ成立せず。 ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」によると、 「個々の人間存在の意志(意欲、欲望)は、あおの「根源的なもの」としての「意志」 の個別的な現われである。つまり「意志」とは人間の「意識」、「悟性」、「理性」と いった現象の根拠をなす根本的で根源的な「意志」を意味する。」 それは、「生きんとする意志」「生へのあくなき意欲(欲望)」であり、 「人間は理性によってこの世界の矛盾(生の苦悩)を解決することはできない」という 厭世哲学だった。 「悲劇の誕生」・・ 「ギリシャ悲劇における「悲劇」という概念のエッセンスは、人間のさまざまな努力にも かかわらずそれを超えた大きな力がこの世には存在する、という認識にあるのではない。 むしろ、人間はその欲望する本性によってさまざまな矛盾を生み出してしまう存在だが、 それにもかかわらずこの矛盾を引き受けつつなお生きようと欲する。 まさしくここに人間の本質がある。」 「より高い人間」の創出・・ これがニーチェが設定した人間の文化の目標であった。 1つは、ルサンチマン思想によって人間を平均化、凡庸化することへの対抗。 当時の文化の主流をなしていた、キリスト教・ナショナリズム・民主主義・近代哲学・・ これらはすべて人間の精神を「高く」するのではなく、「低く」(凡庸化する)もの。 2つは、「歴史」の目標を「人間」以外のものに設定することへの対抗。 「これまでヨーロッパにおいて考えられてきた人間的な価値」とは何か? それは、「キリスト教」、「道徳」、「真理という観念=真理への意志」である。 これらへの徹底した批判。 キリスト教の人間観の本質は「ニヒリズム」にほかならない。 「・・新しい無神論者たち(哲学者、科学者、合理主義者、懐疑論者等々)は キリスト教とその神の国に反対した。しかしじつは彼らもまた「新しい信仰」を もっている。」・・近代哲学や近代科学は、「真理への意志」=正しい認識への あくなき追求、である。「伝統的な考え方では、「真理」とは、プラトンやキリスト教に示されるように 世界における「究極のもの」を指す。また近代ではそれは、世界の「真理」、「客観性」、 そして、認識における「厳密性」と「正確性」を意味する。」「近代哲学の「道徳」観念は、キリスト教における「禁欲主義的理想」の変奏形態 にすぎない。」 「真理への意志」は、どこに行きつくか? 「・・ついに世界それ自体には何の意味もないということを証明するところまで ゆきつくのである。そして、この土台の上に、現代の無神論、懐疑論、デカダン、 ニヒリズムが咲き狂うことになる。」 ニーチェ曰く、「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」「「客観」とか「物自体」とか「世界そのもの」とかいったものはまったく存在しない、 ということである。」「「徹底的ニヒリズム」とは、この世を超えたところに何か「神秘なもの」あるいは 「神聖なもの」などはいっさい存在しない、という確信である。」 「苦悩」→「ルサンチマン」→「3つの推論(目的・統一・真理)」→「ニヒリズム」 という道筋・・、この次は、ニヒリズムの克服、「超人」「永遠回帰」へつながる。「わたしの考えでは、「永遠回帰」のイデーがまず押し出すのは、 「人間が何のために苦しんで生きるのか」 について、何者も答えを与えられずにどこにもその超越的な答えがないということに耐えよ、 ということである。」 その結果として、キリスト教や真理が作り出されたが、これらは人間の生を否定する「虚言」 だった・・・これに対して、生を肯定する「虚言」が必要とされる。「「永遠回帰」のイデーは、生の一回性を利用して世界と生そのものへ復讐しようとする ルサンチマンの欲望を“無効”にするのである。 ニーチェが「力」という概念によってなしとげた視線変更の核心は、 「知覚」「認知」「認識」「客観」「真理」といった認識論的・機械論的概念の序列を、 「肉体」「欲望」「快苦」「力の感情」「自我感情」といった欲望論的、エロス的概念へと “還元”することであった。 生の「価値」の根拠はどこにあるか?「それは彼岸にも、絶対者にも、世界や歴史の全体にもない。 ただ個々の身体(=肉体)の「性欲」「陶酔」「生命感情」「支配欲」「恍惚」 といったもののうちにある。したがって人間の世界は矛盾に満ち、苦悩に覆われ、 危険きわまりないものである。・・ それにもかかわらず、この世界の「あるがまま」を否認し打ち消そうとし反動へと 向かうより、それを是認しそのようなものとして世界に立ち向かうことの方が いつでも必ず「生」にとってよい結果を生むのだ、と」
2009.01.12
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ニーチェ全集〈5〉人間的、あまりに人間的 1 その1訳は、池尾健一。 道徳論やルサンチマンや永劫回帰・・などと離れても、 どの言葉も、素晴らしいですね~ 大いなる解放の歴史・・・ 「解放とは同時に人間を破壊するかもしれぬ一つの病気である」「・・あらゆるものは生成してきたものである。 絶対的真理がないように、永遠の事実もない。 - したがって今後は歴史的に哲学することが必要であり、 それとともにひかえ目の徳が必要である。」9 形而上学的世界。 形而上学的世界がありうるかもしれぬ、というのは本当である。 そのことの絶対的な可能性には論争の余地がない。 われわれはあらゆる事物を人間の頭を通してながめるのであり、 この頭を切り落とすことはできない。・・39 叡智的自由の寓話。 ・・人間が後悔や良心の呵責を感じるのは、 彼が自由だからではなく、自己を自由だと思っているからである。・・49 好意。 ・・世界には濁った眼にみえるよりもはるかに多くの幸福がみられる。 つまり人が正しく計算して、どの人生にも、もっとも窮迫した人生の中にもまた、 それぞれの目が豊かにもっている心地よいあらゆるあの瞬間を忘れなければであるが。133 ・・一般に他人のためになにかをなしうるには、 自分のためにきわめて多くのことをなさなくてはならないのであるから。 163 手職のまじめさ。 天分だ、生まれながらの才能だ、というようなことを口にすべきではない! すこししか天分のなかったあらゆる種類の偉大な人々の名をあげることができる。 しかし彼らが偉大さを獲得して「天才」(いわゆる)になったのは、 もろもろの特質によってであり、・・ 彼らはすべて、一つの大きい全体をあえて組み立てる前に、まず部分を完全に造ることを 学ぶあの熟練した手職人のまじめさをもっていた。230 強い精神。 因習を自分の味方にしておいて自分の行為になんの根拠も要しない者と比較すると、 自由精神はいつも弱い、 とくに行為においてそうである。・・251 学問の将来。 学問は、そこで苦労し探求している者には多くの満足を与え、 その成果を学ぶものにはきわめてすこしの満足しか与えない。・・254 興味深いものの増加。 さらに高く教養のすすむにつれて人間にはあらゆるものが興味深くなる、 彼は或る事柄の教訓的な面をすばやくみてとったり、 自分の思考の隙間がそれで充たされうる点または 或る思想がそれによって裏書きされうる点を挙げたりすることを心得ている。<目次>第1章 最初の事物と最後の事物について第2章 道徳的感覚の歴史のために第3章 宗教的生活第4章 芸術家や著作家の魂から第5章 高級文化と低級文化の徴候第6章 交わりの中の人間第7章 女と子ども第8章 国家への一瞥第9章 ひとりでいる人友らの間で 終曲
2008.12.27
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プラトン「パイドロス 美について」 訳は、藤沢令夫。 「饗宴」でのエロスについてのお話の続きにぴったりの話です。 パイドロスという凛々しい青年と、ソクラテスの二人が、 市内の喧騒から離れ、城外に出て、 イリソス川のほとり、 背の高いプラタナスの樹の陰で、 はだしを川面につけながら、談論します。 日差しはきついですが、時折り吹く風が心地よい季節です。 情景描写も素晴らしいのですが、 そこで話される二人のテーマは、 愛・・・から始まって、 魂のお話。 これまで・・・といっても、まだプラトンさんは10編ほどしか読んでいませんが、 その中で、一番美しい作品だと思います。 数編の愛についての物語の後、 イデアの話が登場します。 いよいよプラトンさんの中期の作品なんだな~、と感慨も新た。「この天のかなたの領域に位置を占めるもの、 それは、真の意味においてあるところの存在 - 色なく、形なく、触れることもできず、 ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、 かの《実有》である。 真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。 されば、もともとの神の精神は - そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりの すべての魂においてもこのことは同じであるが - けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、 いま久方ぶりに真実在を目にしてよろこびに満ち、 天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれるその間、 もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、 幸福を感じる。 一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、 《正義》そもののであり、《節制》であり、《知識》である。 この《知識》とは、生々流転するような性格をもつ知識ではなく、 また、いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、 その事物があれこれと異なるにつれて異なった知識となるごとき知識でもない。 まさにこれこそほんとうの意味であるものだという。 そういう真実在の中にある知識なのである。」 引用が長くなってしまいますが、 イデア論の肝と思われるので、もう少しおつきあいを!「・・人間の魂は、どの魂でも、 生まれながらにして、真実在を観てきている。 もし観たことがなければ、この人間という生物の中には、 やって来なかったであろう。(人間以外のものに生まれていた、たぶん) しかしながら、この世のものを手がかりとして、 かの世界なる真実在を想起するということは、 かならずしも、すべての魂にとって容易なわけではない。」 魂によって、この真実在を一瞬しか目にしなかったために、 地上に降りてからなかなか思い出せないものも多く、 実際のところ、かの世界で見たことを覚えている魂は少ないのだ・・そうです。 この真実在のことを語るにあたって、 当時のギリシャを席巻していた弁論家と彼らの駆使する弁論術を避けて通ることはできない。「弁論家」とは、ゴルギアスやテイシアス等 真実らしきものが、真実そのものよりも尊重されるべきであることを見抜いた人々のことそして、「弁論術の技法」には、 序論-陳述・証拠-証明-蓋然性-保証、続・保証 反駁、続・反駁 ほのめかし法 婉曲称賛法 あてこすり法 重言法 格言的話法 譬喩的話法 正語法 概括 簡潔話法 感傷的話法 誇張法等のテクニックがある・・・すごいな~当時のゴルギアスやプロタゴラス等の超一流の弁論家の一回の講演料が、軍艦を買えるほどの値段だったこと、逆にいうと、それだけの受講料を出しても、立身出世に役立つものだった、というのもすごい話です。 でも、ソクラテス曰く、 こんな小手先のテクニックをいくら知ってても、ダメ!「弁論術とは、 魂に言論と、法にかなった訓育とをあたえて、 相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事」であるとしたら、 説得の対象である「魂」の本性を理解しなければならないのだ。 そして、「それを学ぶ人の魂の中に知識として書きこまれる言葉、 自分をまもるだけの力をもち、 他方、語るべき人々には語り、 黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉」を持つべきだ、と。あくまで直球勝負のソクラテス・・・立派ですね~。
2007.05.04
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仁恒河濱花園(Yanlong Riverside Garden)・・ 「天山河畔花園」のちょうど向かい側のブロックにあるので、 地下鉄2号線威寧路駅から10分のところになります。 「天山河畔花園」の方は、通り抜けできますが、 「仁恒河濱花園」は通り抜け不可。子供用の遊具などが新しいといった違いがありますが、 その結果、3000元ほど高くなっています。 でも、人気なんだとか・・((+_+)) 長寧区芙蓉江路388弄×天山路
2017.05.20
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