草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2011年11月03日
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人々は口を開けば「自由、自由!」と口々に叫ぶ。


人間は自由・平等に造られているとも。福沢諭吉は



西洋の知識を借りて「天は人の上に、人を作らず。人の下に人を作らず」



と言った。福沢が「天は」と念を押すように言っている所に御注目とだけ



此処では言うに止めましょう。人間は一体、本当に自由なのでしょうか?



そして現実生活で私たちは確かに平等でありましょうか?



自由の辞書的な意味は「思い・(心)のままの様子。邪魔されたり



制限を受けたりしない・こと(行動)」となりますが、人間は



今だ嘗て「自由」であったためしがありません。歴史的には








その過酷なくび木からの開放を意味するでしょう。人間は自分自身から



さえ自由にはなれない「本質的に制約を受けている」存在です。



ある人は「真の意味における自由とは、全体の中にあって、適切な位置を



占める能力のことだ」と言っている。一個の人間・人格が完全な



自立体であるのは、全体との関連を自ら調整出来るということに過ぎず



それは部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、自ら意志して



全体の部分になり得ると言うこと。つまりは自他に対する揺ぎ無い



信頼が何よりも大切なのです。そして現代は社会の基本的な紐帯としての



信頼感が跡形も無く崩れ去ってしまっている「末世」のどん底。



私たちが人生に求めているものは、一時的な快楽の充足ではなくて



安定した、静謐さに満ちた幸福。自分が本来居るべき場所に居るという







出来るし、しても良いのだ。誰からも文句は付けさせない。また



文句を付けられる筋合いのものではない、などと利いた風な口をきく。



しかし、野暮を承知で理屈を言えば、私たちの物などと呼べるものが



一体この世に存在するのでしょうかね。私たちの生命にしたところが




親からの授かり物。その親はそのまた親から授かっている。大本を辿れば







住むところに、歩く所と、どれ一つ取ってみても私たちの物などと



呼べるものは皆無ですね。根本のところに立ち返って、ゼロからスタート



するとしたら、それが最良の選択でしょうよ、恐らくは。何時だって



そういう意味ではやり直すことが出来る。古人も「過ちを改めるに



憚る事なし」と教えていますし。無い物ねだりの「自由、自由」の連呼



ではなく、幸せを呼び込む信頼の輪・和をすこしずつ、ほんの少しずつ



大きくして行こうでは有りませんか、皆さん。どうでしょう……。






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最終更新日  2011年11月03日 22時07分28秒
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