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2012年03月06日
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倹約とは、辞書によれば「浪費は罪悪だという見地に立って、無駄使いを



しないようにして、費用を切り詰める事」「地味で奢らぬ事」とあります。


また、中庸は「どちらにも偏らず、中正なこと(様子)」「中正(偏らず、正しい事)


の道。ほどほど、良い加減」と言う事になりますので、いたって簡明なように


思われますが、これを文字通りに実行するとなると、全く簡単ではない。


それどころか、非常に困難であり、優れて難しい。第一に「無駄」とは何か?


偏らないとは一体全体、どう言う事か、また正しいか正しくないかは



どの様な基準に基づいて判断するのか、などなど極めて厄介な問題を


孕んでいて、凡人には分かり辛い。ですから、日常生活の場面では





行動している。それしか実際のところは対処のし様が無い―。


しかし、本当にそうなのかどうかを、ほんの少し考えてみたい。今回は


そういった趣旨のテーマです。何が正しくて、また何が不正なのか?


法律や、それに基づいた裁判などの判断では、証拠、それも客観的な


動かぬ物証が決め手となり「有罪」か「無罪」かが確定され、


「疑わしき」は罰せず、と言う方針が採用されていますし、実際の


法の運用と言う点からは、止むを得ない処置でありますね。しかし


これは「おかしい」。間違っている、神や天などと言った視点から


見た場合には……。絶対におかしいのであります。真実は一つであり


正か不正か、どちらかであり、灰色等と言うことはない筈。で、現実には


灰色は無罪と言う判断が下されているし、それより方法が無い。ベスト






これは社会と言う人間の集団の場での謂わば便宜的な対処の仕方でありますね。


個人の心の問題、或いは良心の問題という点になると非常に厳密に


それ故に極限まで突き詰めた判断が求められて然るべきですよ。しかし


どうしたらよいか?私は人間の、個人として、また集団・社会の全体が


幸せ・幸福・生甲斐などの点でどれだけ満足が得られるか、質と量の





何が間違っているかや、何が無駄で何が必要不可欠なのかの判断の



基準はそこにこそ求めれるべきであると思うのでありますが、如何でしょう?


生甲斐にとって最小にして不可欠なのは何かを、トコトン突き詰めてゆく。



個人や社会にとって正しい事はぎりぎりどの線まで許容されるか。


そういった観点から厳しく追求される無駄や正しい事、或いは極端とか


行き過ぎを排する態度。それが中庸や倹約の中心に据えられるべき点と


強く主張したい。常に、いつでも、何処ででも、如何なる場合でも


考慮する第一の重要なもの。中庸も倹約も極限まで考えを展開していくと


一つところに収斂される、人間にとってとても大切な徳目であろうかと


愚考する次第。これは、このような雑駁な論の立て方ではなく



もっと丁寧に、本質的な哲学的命題の一つとして常住坐臥、日々探求


追求するに値する一大テーマでありますので、機会があれば皆さん方と


ご一緒に研究、探求致してみたいとも思っておりますので、反対論・異見を


含め多方面の方々のご意見やご感想をお聞かせ下さい、是非とも



お願い申し上げます。首を長くしてお待ち申し上げております。











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最終更新日  2012年03月06日 10時44分36秒
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