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2015年11月10日
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           第 二十二 回 目






  本来の面目が、その在り方通りに在るときには、それを覚知(知覚・分別)の上で意識する必要は無い。が、諸仏

の在り方通りに在ることが、即ち仏を実証する事で、一つ一つが仏を実証する事になる。


 全身心を以て、視覚の対象となる色(しき)を見守り、また、全身心を以てして、聴覚の対象たる聲(しゃう)を聴

き尽くす場合でも、自己と一体のものとして会得したように思われるかも知れないが、そうではないのだ。鏡が有っ

て、それに影像を写すように、二者が対立して起こる現象ではないし、水に映る月の影に於ける、水と月の関係のよう

でもない。対立する二つの事が存在するのではなく、唯一つの事実のみが存在するのである。


 仏道修行とは、「自己を習う」、つまり自己本来の在り方に習熟する事である。自己を習うには、「自己を忘れ

る」、つまり、自己の本来の在り方とは意識以前の事実であって、自己意識は全く問題にされないので、忘れるのであ



法と全くひとつに成って、万法そのものとして生かされて、生きる事である。この状態が「身心の脱落(トツラク」と

言う。従って、万法に證せらるると言うのは、自己及び他己(たこ)の身心を脱落させる事を言うのである。


 悟りの跡が全く残らないケースがあるし、悟りの痕跡が無いのが真実の姿であるから、永遠に悟りの跡が残らないの

が本当である。


 人が初めて仏法を求める場合には、(法は元来、自己そのものが万法に証されているので、求める対象とはなり得な

い。もし強いて法を求める時には)その求められる対象となるものは、全く法とは無関係なものとなっている。そし

て、法が既に自分に正傳(しょうでん)した状態であれば、直ちに本分人(ほんぶんにん、悟りを身につけた人)と言



える。


 舟に乗っている場合を考えてみよう。舟の中から岸の方を見ると、岸が動いている様に錯覚する。視線を転じてしっ

かりと舟を観察すれば、乗っている舟が進んでいることが分かる。かくの如くに、身心を乱想(正しく考えることがで

きないこと)して、万法を理解する時には、自心自性(じしんじしゃう)は常住(じゃうぢゅう)なのだと誤りを犯し



法が自分の身と一体化していないことは明白であろう。


 薪(たきぎ)は燃えて灰となるが、灰は決して元の薪には戻らない。この現象を見て、灰が後で、薪が先だと考えて

はならない。心にしっかりと銘記しなければならない― 「薪は薪の法位(ほうゐ)に住し(全てのものが 在るべ

き 絶対の真実として在る)」、薪としての前後がある。前後はあるけれども、その時その時が絶対の真実で、目的と

手段の関係には無い。




い。そういう事実であるのに対して、生(しやう)の死に成ると表現しないのは、仏法に於ける不動の習慣である。こ

のような理由から、「生」を称して「不生(ふしやう、絶対の生であって、不は否定の意味ではない)」と言う。同様

に、死が生にならないのは、法輪(ほふりん、仏法)として確立している佛轉(ぶつてん、仏の転ずる法輪。仏の説

法)である。であるから、「不滅(絶対の滅、全体が滅ばかりで、生に対するものがないこと)」と言うのだ。生は一

時(この一時は全時と同じで、掛け替えのない絶対の真実)の位(くらゐ、居場所)であるし、死もまた一時の位で絶

対の真実なのだ。喩えれば、季節の冬と春の様な関係にある。つまり、冬の時は冬ばかりで、冬の中に春があって次第

に姿を現すとは考えないし、また、春が夏になるとは言わない。









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最終更新日  2015年11月10日 20時41分31秒
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