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2015年11月22日
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           第 二十四 回 目






  魚が水の中を自由自在に泳いでいる。が、水には涯てがない。つまり、どんなに泳いでも、魚は水から出ることが

ない。また、鳥は空を自在に飛んでいるが、どんなに飛んでも空に限界はない。その様な具合であり、魚は水を、そし

て鳥は空を離れたためしがない。ただ、魚鳥が大きく使えば、使い方はそれだけ大きくなる。使い方次第で小さくもな

る道理。この様な次第で、その場合その場合で、すべて絶対無辺際の事実として行っている。水中や空中を、水、空の

存在を考える事なく自在に動き回っている。が、魚が水を離れたりすれば、即座に死んでしまうし、鳥が空を離れれ

ば、立ちどころに死ぬ。この様にして見てくると、水が魚の命であり、空が鳥の命であった事を知るであろう。また逆

に、命が鳥として在った、命が魚として在ったとも言える。更に進んで言えば、命の在り方は無限である。その命の在

り方はすべて真実の修行としてあるのであり、真実の悟りとしてある。寿命があるということは、以上のような次第で




 であるのに、水を極め、空を極めてから、水や空を行こうと志向する鳥や魚がいたとしたなら、水にも空にも進むべ

き道を発見できないであろうし、居るべき場所を見つけ出せない筈。今現在、絶対の真実で生かされていることがはっ

きりすれば、日常生活の一切が真実の完全な現れとなる。同様に、現在の真実を生きる生き方が確立すれば、それこそ

が「現成公按(げんじやうこうあん)」なのである。この道、この所、即ち、この現在生きている真実は、大でもな

く、小でもない。自でもなく、他でもない。以前からあるのでもなく、今現在に出現したのでもないので、絶対の真実

として在るのである。同様に、人が佛道を修證するに際しては、一つの法を得るとは、法全体に通達する事であり、一

つの行に遭遇することは、唯一絶対の行を修行することである。この時、絶対の真実が実現しているので、道に通達

(つうだつ、物事を明らかに心得ていること)した為に、悟りによって悟られる限界がはっきりしないのは、この場合

の悟るということが、仏法を窮め尽くす事と全く同じになって、悟る、悟られるの関係が成り立たないからである。自

分の身に修得したところが、必ず知覚分別となって意識(慮知、りょち)で捉えることが出来ると考えていてはならな

い。悟りの究極は直ちに、完全に、実現するのではあるが、真実の存在は必ず現成(げんじやう)しているものでは無












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最終更新日  2015年11月22日 08時14分20秒
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