草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2016年06月25日
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 義清だけが、妻もあり、院の御所に仕える十八歳の、北面の武者へと成長している。

場所は定かではないが、義清がかつて見たこともない豪華絢爛たる御殿の内の、麗しい

一室であった。植木や草花が見事に配置された庭には、大きな池があって、その向こうは

どうやら小暗い森に続いているらしい―― さっきから義清は、この部屋で誰かを待っていた、いや

誰かに、待たされているらしいのだが、内心では、あの乙女が姿を現せば良いと、願っていた。

随分、時間が経って、義清は次第に不安になってきた。いつの間にか庭には、濃い霧がたち罩め、

池の上一面が乳白色に覆われ始めている。と、その霧の帷(とばり)の中から、眩いばかりに

燦めく金色の小舟が一艘、姿を現した。舟には薄紅の衣を纏った少女、唯一人が乗っている。



部屋の縁側の上に、音もなく下り立っていた。義清が眼を向けると、乙女の美しい瞳が怒気を

含んで、妖しく、燃え立っている…、嬉しさと、懐かしさで、義清は思わず涙ぐんでいた。その時、

 「そなたは何故、妾の招きに応じて、参ろうとはせぬのじゃ。既に、六年の年月が、巡り

去ったというに。そなたの身には、男子(おのこ)の血が通ってはおらぬのか。大空を翔る日輪をも

掴み取る、武士(もののふ)の勇気と気概とが、備わっておらぬと申すのか」

 義清の心の臓を射抜くかと思われる、その劇しい声音は、哀しみと寂しさの、不思議な色彩を

帯びて、響き渡った。―― 儂(わし)は意気地のない、腰抜けだ。強者の前に頭と尻尾を垂れ、

ただ力なく差うつむくことしか出来ない、哀れな 負け犬 なのだ。賤しく貧しい生を、唯

与えられた儘に貪っている、惨めな蛆虫だ。時に天を抜き、地を覆う人の子の気概などというもの、

更には又、神仏さえも恐れぬ、自由奔放な生き方を支える、誇りある勇気。時には、何物にも替え難い

己の尊い生命と引換えてでも、守り通す久遠の理想といったもの。そのような諸々の、人間らしさとは



 何故に、斯も女々しく、異常な程に自虐的な気分に、陥っているのだろうか? ―― 義清は

夢の中で、そう思ったのを、目が醒めてからも判然と覚えていた。また、己の不甲斐なさに対する

何故とは知れぬ怒りの感情だけが、長く尾を引いていた…。

 文字のない、藤原得子からの謎めいた便りは、義清の心に不可思議な作用を、及ぼし続けた。義清は

昼も夜も、その文のことが忘れられずに、寝入っては悪夢とも吉夢ともつかぬ、碧い色の瞳を持った



 ある日、義清は急に思い立って、妻にも家の者にも行き先を告げずに、その頃東山辺に粗末な庵を

営んでいた、ひとりの聖を訪れた。既に梅雨に入り、毎日じとじととした霖雨が、降り続いていた。

樹々の緑も漸く色濃く黒ずみ始めている。雨よけの笠もかぶらず、全身びっしょりの濡れ鼠になった

義清が、柴の戸を押して裏庭に足を踏み入れると、その狭い庭の中央に、壮年を過ぎたばかりと思われる

一人の修行僧が、降りしきる雨の中で、座禅を組んでいる。両目はかっとばかりに見開かれ、瞬き一つ

しない。額を滴り落ちる雨滴が、頻りにその左右の眼の中に流れ込んでいるのだが、聖は一向に意に

介さない様子である。と、雨水に霑った鋭い眸が微かに動いたように思われたが、聖は依然として

その儘の姿勢を崩さずにいる。義清もその場に竦んだように、立ち尽くした。しばらくして、雨が

小降りになり、樹々の間から薄陽が射し始めた時、聖は静かに腰をあげ、庵の中につかつかと姿を消した。

義清は無言で、聖の後について暗く狭い小屋の内部に、足を運んだ。さっきの聖が、板張りの上に

乾し藁を敷いただけの部屋に、あぐらをかいて座っている。顔や肩、手の先からまだ雨の雫が滴り落ちている。

そして、土間に立っている義清に対して、前に座れと言うように、手で合図した。やはり黙ったまま

義清は聖に対面し、板の上に腰を下ろした。聖は、今度は眼を半眼に開いて、義清の面を厳しく

見守っている。

 「何用で、参られた…」

 低く、凄みのある声がした。義清は初めて丁寧に一礼すると、自分の姓名を名乗り、自分のような者にも

果たして悟りを得ることができるものかどうか、御教授を願いたく、訪ねて参ったのだと答えた。すると

聖は徐に傍らを見遣ってから、一綴りの手垢にまみれた書物を取り上げると、

 「お手前に、これを進呈いたそう。まず、己に打ち勝つこと。その時、自ずから道はひらけて参ろう…」

 ゆっくりと、そう語る聖の眼の表情は、さっきまでとは打って変わった、佛の如き慈愛に満ちた光が

浮かんでいいるようであった。

 義清はこの聖の姿を、以前に二度、見かけていた。一度は昨年の秋であり、もう一度は、今年のまだ

寒さの厳しい二月頃であった。その時、義清はこの奇妙な、乞食のような聖から、強い印象を受けていたのである。

別に、これと言った事があったわけでもないし、二人は言葉すら交わしてはいない。

 粗末な身なりの托鉢僧や修行僧には、何度も出会っていたし、珍しいとも思わなかった…、何が若い

義清の心を強く惹きつけ、虜にしたのか?聖は何をしたわけでもない、ただ、ぶらぶらと当てもなく

逍遥しているように見えた。黄昏の空に現れた中秋の月と、萩や薄が生い茂った山裾の野原と、この聖の

姿が、実に見事に調和して見えたのだ。また、汀に氷が張っている鴨川の畔では、眩い旭が反射する、清冽な

水の流れにじっと視線を、凝らしていた。何年も、その場に立っている冬枯れの木立の如くに。連れ立って

馬を走らせていた公能に、「あの僧を知っているか?」と聞くと、詳しくは知らぬが、確か真言の破戒僧だ

とか、天台の若い僧侶から聞いたことがあると、答えた。ただ、それだけの事である。







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最終更新日  2016年06月26日 02時56分39秒 コメントを書く


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