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2016年09月19日
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第 八十八 回 目


 眞木の従来の恋愛観によれば、恋愛感情の根底には、必ず本能的な性欲とそれに付随する

支配欲とがあった。人が普通に プラトニック・ラブ と呼び習わしている、純粋に

精神的な故に「崇高」な所の、あの恋愛に於いても、事情は全く同じであると、考えていた。

 唯、当事者の男女が、自分たちの本能的な欲望に関して、盲目であるか、或いは、充分に

自覚的であるかの、極めて表面的な相違だけが、そこに見られるだけで。その様に信じて

疑わなかった。その上に、極めて自意識過剰であった青年時代の彼には、異性とは性欲の

対象以外の何物でも無いと思われ、それ以外の要素は、視野に入らなかった。彼が「女に

惚れる」事が出来なかったのは、要するに、そういう意味であり、そういう事だった。



たり得た。気立てが良いとか、躾がしっかりしているとか、そういった点などは、彼には

余り重要でなかった。むしろ、娘が育った家庭が金銭的に、裕福か否かの方が、問題で

あった。自分の伴侶として適当な相手を決めることは、半分以上、偶然に支配されると

踏んでいたし、獲得可能な範囲で、一番割に合う相手を選択すれば、済むことであった。

第一、男として図抜けた魅力を持っている自信も、自惚れも皆無だったから、相手の方でも

何人かの若者達の中から、選り分けるであろうし、そうなれば自然、自分の伴侶となる

女性の候補者は、一人か、せいぜい二人に限定されるであろう。後は自分の気持ちに踏ん切りを

つければよかった。そういう点では彼は、それ程欲深かでなかった。

 要するに、眞木にとって恋愛や結婚は、少しも神秘的でなかった。所謂恋愛は、結婚という

取引の前段階であり、相手を相互に値踏みする行為と、時期とを指し、従って結婚とは、

世間でごく普通に行われている、打算の産物であると断定して、憚らなかった。



 それが、どうした事であろうか、不惑の年齢を過ぎてから、こんなにも奇妙奇天烈、

一種「神秘的」と言ってよい、感情の虜になってしまうとは…。

 少女に対して、無意識にもせよ性的な欲求が萌しているとは、どうしても合点がいかない。

仮に、百歩譲って、背後に意識されない性衝動が働いているとして、それだけでは彼のこの

気持ちを、充分に説明し尽くせない。僅かに彼に解ることは、少女に対する淡い憧れと、微か



彼は夜明けの丘の上に立って、途方に暮れるばかりであった―――



 ―――― 予てより覚悟していた事ではあったが、鳥羽法皇の崩御が現実のものとなった時、

西行の胸には、拭い去りようもない、鎮痛な想いが立ち罩めていた。取る物も取り敢えず、熊野から

参りあって、ご遺骸を安楽寺の院に移す御供を仕った。

 美しく照り映える初夏の月が、深い悲しみの感情を、益々煽り立てる。

 落飾された、麗しい美福門院のお姿を、遥か遠くから拝するにつけ、出家してから閲して来た、

長い年月を思わずには居られない…。自分は今、都に帰り、美福門院様と同じ月を、眺めている。

この限りなく美しい上弦の月は、亡くなられた鳥羽院のお姿を、代表しているのであろうか、それとも

又、いつの世も変わらず衆生を導く、尊い御仏の教え、そのものなのであろうか…。美福門院

の心の中を、窺うことは出来ない。西行に推察できるのは、少なくとも鳥羽法皇に寄せる、限り

ない愛惜と思慕の情とは、彼女と自分の心に共通して流れている事のみ。それが清浄な光を

放っている西側の半分に相当するならば、東側の暗い影の部分は、二人のどの様な感情を

暗示しているのであろう…。そもそも、その部分で両者に共通な何物かが、存在するのか?

亡き法皇に対する西行の、衷心からの哀悼の気持ちに、偽りはなかった。そして、その最中に

以前の 心の恋人 として、法皇の最愛の皇后・美福門院の心中を忖度するのは、不敬の

譏りを免れぬ所であろうか…。が、西行は何故か、法皇は自分の真情を、罪のない、無邪気な

感傷として、素直にお許し下さる様な気が、するのだった。

 仮の仏事が進行し、夜が更けるとともに風が出て、慌ただしく流れる一筋の黒雲が、月の影を

遮って、流れて行った…。それにつけても心に懸かるのは、鳥羽法皇亡き後の騒然とした世相の

帰趨であった。

 前年の後白河天皇の即位及び、その皇子・守仁親王の立太子を強く不満とする、崇徳上皇の

天下に公然たる、不穏の動きであった。

 丁度一年前の久寿二年七月に、近衛天皇が十七歳の若さで病死した時、崇徳上皇は御自分の重祚、

或いは、所生の第一皇子重仁親王の即位を、半ば当然の事と考えられた。が、鳥羽院の阻止に

遭い、恨みの涙を飲まれた経緯がある。

 鳥羽院の陰にあって、院の御意志を左右する美福門院は、崇徳にとっては母・待賢門院の、

憎んでも余りある仇敵であるばかりではなく、嘗て院を説いて、ご自分を天皇の位から追いやった

張本人である。

 一方で美福門院の方では、病弱な我が子・近衛天皇が没したのは、彼女を蛇蝎の如くに憎悪する

崇徳上皇と、その一派・左大臣藤原頼長等の卑劣極まりない呪詛に因るものと、瞋恚の焔(ほむら)

を燃やしている。

 一触即発の危機は、誰の目にも火を見るよりも、明らかであった。死を前にした重態の鳥羽院が、

その事のみをお心に掛けられていたと、伝えられるのも、当然のことであった。

 今日のこの深い悲しみの中にあっても、両陣営の裏面での動きは遅滞なく、着々と進行している

模様なのだ。この期の到来を、謂わば一日千秋の想いで、待ち焦がれておられた不運の崇徳上皇

方にせよ、その兄上皇の動きを抜かりなく警戒している弟の後白河天皇にせよ、西行にとっては

共に、深い恩愛を忝くした亡き待賢門院の忘れ形見であることに、変わりはないのだ。どちらの

肩を持ち、どちらを贔屓にする事も、叶わない。

 増して崇徳上皇には、一人の人間としての、個人的な深い同情心が、そして後白河天皇の後ろ盾を

勤める美福門院には、生涯忘れ難い感情の絆が、介在して、西行の立場を、身動きの出来ない

苦しげなものにしていた。世を捨てた身には当然の事とは言え、かかる天下の重大事を眼前にして、

しかもひと方ならぬ恩情を通わせた人々の、不幸を知りながら、唯座して傍観する以外に、術を

持たぬ己の無力さを悔やんだ。

  しかし、仮に西行が出家せず、鳥羽院の北面の武士として、留まっていたとした場合に、その

佐藤義清にどの様な力があり、この難局に当たり、如何なる働きが可能であったか…。そう考える

時に、実に暗澹たる絶望感だけが、激しく西行を打ちのめすのだ。

 保元元年七月十一日の未明、実に平安京始まって以来の、大椿事が勃発した…。





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最終更新日  2016年09月20日 09時49分49秒
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