草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年01月17日
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私、草加の爺の場合の 人事を尽くして、天命を俟(ま)つ 意味とは?


              第 三百九十五 回 目


 前回の続きです。私は前回「舞台の上から主役が、劇の真の主役が、平土間の客席に移る事で、

あらゆる事が違ってくる」と書きました。

 そして、プロでなくとも役者・俳優役が素人でも、直ちに「治癒者」としての役割を十全に果た

すことが出来ると、主張致しました。視覚優位の時代のゆがみを矯正する、イマジネーション・想

像力に専ら訴える劇・ドラマ・芝居の本道に立ち帰る、オーソドックスなあり方をセリフ劇は確立

するのだとも、説明した心算です。

 始めに 言葉 があった。言葉は「光」として闇を照らし明るくする ―― 新約聖書の一節



 セリフ劇はそうした意味合いでの「言葉」本来の持つ偉大な力を、何物にも増して大切にする

精神から始まり、その健全な力を、有難い恵みを、最大限に享受して私達の人生に役立てよう

と努力する営みの最良のもの、なのです。

 神と共にある言葉を健全に活用すれば、一つの企業・産業を創設する事など、いともたやすく

実現出来る道理であります。ここで念の為に申し添えますが、私は読者を説得しようとして「虎

の威」を借りているわけではありませんで、単に事実を述べて参考に供そうとしているに過ぎませ

ん。なにしろ今のところは私は野辺地の町の大多数の方々にとっては、単なる一人の不審人物に

しか過ぎないわけでありますので。先人・賢人の虎の威をお借りし、今また町役場のお役人の方々

の「虎の威」をお借りしなくては、全く身動きさえ取れないでいる現状であります、故に。どうぞ

見苦しく映りましたなら、暫らく御容赦をお願い致します、平に。

 さて、私は60歳を過ぎた以降の十五年間を専ら教師の真似ごとをして過ごしました。真似事



遥かに多くの事柄を生徒達から教えられた。その最大の物は何かと自問自答してみると、理解しよ

うと目指している対象なり相手なりと、まさしく正対する事の大切さ。それは、別言すれば基本中

の基本である 姿勢を正しくして相手と真正面から向き合う 事をまさに意味するのですが、それ

が出来た時には、目指している目標の半ば以上は既に達成されたも同然だ、と言うことでした。

 言葉にすればいとも簡単そうに感じられるが、言うは易く、行うに難い、難事中の難事なので



 そして、この事を私は生徒達にも解り易い表現を選んで、次の様に伝えた。高い建物を建てる場

合に建築する人が最初にすることは、土台を、基礎を固める事である。建物にばかり気を取られて

いる人にはなかなか気づかない事だが、建築物その物よりこの基礎工事が一番大事だと、勝れた

建築士は知っているので、ここに一番力を注ぐのだ。高いビルを建築する場合程、基礎の杭は地中

深く、しかも何本も打ち込んでゆるぎないものにすることが大切だと、経験上熟知しているから。

 恐らく、この知恵を人々は自然界から学んだのだと思う。鬱蒼と繁る樹木に注目してみると、

空高く背を伸ばしている樹程その根を、地中深く、深く、用心深く張り巡らしているから。

 この、言葉で表現してしまえば簡単な事柄が実は、実際に行動を始めてみるとなかなか簡単には

いかない。頭ではその通りだと理解出来る。しかし自分で実行することは殆ど至難と変ずる。何故

か? これも答えは簡単です。誰もが功を急ぎ、その為に焦って心が急いてしまうから。

 何事にしても何か大事な事を成し遂げようとするならば、その足元を固める作業、基礎工事・基

本の工作が非常に重要だという教えの尊さを、肝に銘じて忘れまい。更に言えば、対象と真正面か

ら向き合ってまさしく 正対 することの大切さを常に念頭に置くことは、もっと重要なポイント

なのだ。これが私の拙い半生から学び取った人生に臨む心構えの結論なのです。

 古代人を現代人は正当な理由も無く「野蛮だ」とか「知性に欠ける未開人」などと、とかく気安

く軽蔑する傾向が強いのですが、愚見では「野蛮で、知性に欠ける存在」なのは、むしろ我々現代

人の方なのだと感じる度合いが強い。その正否はここでは置いておくとして、古代人は判断に迷う

重大な決断に迫られた場合に、人知を超えた神的な存在者にその判断を仰いだ。これは洋の東西を

問わない普遍的な事実であったようです。彼等は果たして幼稚であり迷妄の世界に低迷していた

のでありましょうか。現代ではこの様なケースで一体如何なる態度を採っているか。勿論、多数決

によって決する。数の多いのが何時いかなる場合にも正しいと言えるのか? 一事が万事でありま

すよ。

 古代人は例えば、木や石が時に物を言う声を聴いた。そして、それが正しいと信じたなら敢然と

して命を賭ける事すら辞さなかった。幼稚でありましょうか、叡智に満ちているでしょうか?

 もうお判りでしょう、少なくとも決断の成否は信じり切るその信念の強さに懸っている。その結

果が仮に最初に望んだ当の物でなかったとしても、少なくともはっきりとした達成感は得られる筈

であります、失敗するにせよ、成功するにせよ、であります。そこからまた新たな気持ちでの再ス

タートが可能なのでありまして、最悪失敗しても、もう失敗とは言えない事態が、新たな展望が

拓けているに相違ないから。

ここまで書き進めて来て気付いた事がありますので、少し遠回りになるようですが述べてみま

す。それは劇・ドラマ・芝居の本質に係わること事柄なのですが、「遊び」ということ。英語で

play すること。つまり、一義的な生活の為、生存の為に必須な場から一時的に逃れて、生命それ

自体を「浪費・乱費・無駄に使う」行為そのものを意味する。褻・け の平生に対する 晴れ の

原始の状態、もしくは行動、と受け止めて下さい。

 遊びは、昨今では子供達の生活からも締め出されて、ごく限られた片隅の方に追いやられてし

まった感があります。プレイヤーと言えば選手、特別に選ばれた各種スポーツのエリートを普通に

意味するようになって久しい。

 しかし、遊びや遊ぶ事は人生を生きるその中心部に位置を占めるべきもの。生きる事だけで汲々

(きゅうきゅう)としている野生動物が実はその齷齪とした日常行為の最中に「遊んでいる」ので

あります。ですから、遊びは生きる営みの中核に本来はあるべき筈のもの。そしてもう一つ大事な

ことがあります。仲間と共に、一緒に遊ぶ事の大切さです。一人遊びとは言葉の矛盾で、そう見え

るけれども「神」と共に遊んでいる。或いは神によって遊ばされている。そう考えるのがどうも

正しい認識のようであります。

 であれば、遊びとは純粋に生命の有難さを実感する行為だと、定義することもできる。そして、

その遊びの中心に「神遊び」である劇・ドラマ・芝居が据えられるのは極めて自然な事でありま

す。日常という場を一時的に離れて、フィクションという次元に我と人とが共に身を置き遊ぶ

事によって、生命そのものの根源に還り心身の健康を奪還する。いや、生命のエネルギーを完全燃

焼させることで人間であることの幸福を余すところなく自分たちの所有にする。自覚する、覚醒

する、酩酊する、陶酔する、豊饒にして限りない平安を齎す、そうした最高に嬉しい場・次元・時

間空間こそ劇なのですよ、実に。

 私が今申し上げたい事は、辛く、苦しい作業を野辺地の方々に押し付けようとしているのでは断

じてない。それどころか、御一緒に楽しみ且つ幸福になりながら、ついでに町興しの商売にもし、

おまけには地球村に蔓延している悪い傾向を根本から正す、実際のお手本を示そうという善い事

尽くめの「遊びへの勧め」なのであります、はい、それだけのこと。

 私は決して巫山戯ているのではありません。それどころか、大真面目であります。日本神話にあ

る天の岩戸のエピソードを想い出してください。太陽神の天照大御神が姿を隠して世界中が真っ暗

になった絶望状態の際に、天の鈿女の命がストリップまがいの踊りを踊って見せ、八百万の神々が

大笑いした。それがきっかけとなって天照大御神が再び姿を現した。この神事という託宣が既に

私達の前に示されている。また、明治の初めの大動乱期に福沢諭吉は「一身にして二世に生きる

僥倖」と時代の大きな悲劇を、見事に喝破しているではありませんか。大ピンチは実は「大なる

チャンス・絶好の好機」と受け止める事が可能なのであります。事態がピンチかチャンスかは本当

は私達の気持ち次第なのでありますから。

 誰にも可能な事でも最初に行うのは難しい、ということの譬えです。ゆで卵を机の上に立てるこ

とは不可能と思われますが、ポンとばかり殻を割れば簡単に立てられます。先例があれば後に続く

者は容易に難事をこなすことが出来る。原理はまさしくこれと同様なのですが、セリフ劇の場合に

は肝腎のこの先例が稀少である。現代に在っては、皆無であるので、説明や解説に窮してしまう。

兎に角、実地に取り掛かってみれば直ぐに実感できる、体感可能である。しかも楽しくて為にな

る。余りに良い事ずくめなので、無関心な者にはとりわけ疑わしい思いが湧く。ただ、それだけの

事にしか過ぎないのです。

 但し、言い出しっぺの私は当事者ではない。飽くまでもコーチ役を務める「お節介焼き」にしか

過ぎません。町の人々と膝を突き合わせての相互理解が、どうしても欠かせない先決条件として

私の内部でクローズアップされて来た所以です。その為に、どうしたらよいかは自ずから答えが出

て参ります。そしてその前提条件として、私は自分の気持ちを整理して十分の用意を固めなければ

ならないわけであります。

 そして何にもまして言えることは、今度の野辺地での試みに限らず、何時いかなる場所での、ど

の様なケースであっても天からの命は既に下されているのであります。後に残されるのは地上の

人間である我々がそれを正しく受け止めて、人事を尽くすこと。この一事に全てが懸っている。

自己評価はこの一点、ベストを尽くして悔いは残らないか、なのでありますね、実際の話が。

  如何でしょうか?





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最終更新日  2019年01月30日 12時59分17秒
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