草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2020年12月04日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
我々が感じている 不安 について考えてみます。

 我々は常に不安を感じながら生きています。それにはそれなりの理由があります。

 我々は誰でもこの世にたった一人で、しかも裸一貫で生まれて来ます。そして死ぬときも、何も持たず

に、無一物でフェイドアウトする、それもやはりたった一人で。

 その上に、生きている時でさえ、家族や友人やその他の人々と一緒にいる時でさえ、本当のところは、

ただ身近にいるでけで、魂は別個、離れ離れでいることは、実際の人々の生き方を見ればすぐに分かるこ

とですね。

 われわれ人間がどの様な知恵を働かせ、様々な道具を駆使して身辺を飾り立てて見たところで、このよ

うな根本のあり方は変わりません。つまり、我々は本質的に孤独であり、孤独のままあの世に旅立つ運命



 その上に、我々は男女ともに不完全であり、未完成でもありますよ。男も、女も生まれながらにして異

性のパートナーを必然的に必要としています。魂は別々でも、せめて肉体だけは密接に結びつく瞬間を迎

える為に。

 無論、この性交行為は子孫を後代に伝えるという、生殖の意味合いが付与されてある。しかし、子孫た

ちにも孤独に生まれ、孤独に死ぬ運命は永遠に引き継がれ、本質的な孤独は進歩改善される折とてない。

 この様な存在として人間を創造された神の意図は奈辺にあるのか? これからその深い意味合いの幾つ

かを探ってみたいと思う。

 人間を創造された際に、神は「産めよ、殖えよ、地に満てよ」と、われわれを祝福されたという。さ

て、この神の言葉通りに人間が地球上に溢れかえる程に繁栄を遂げた現在、地球は一体どうなっているで

しょうか。皆さんがご承知の如くであります。

 孤独を各々の胸に抱えながら、営々と生物としての活動を続けた結果は、大気汚染であり、海洋汚染で



言葉を知らないが如くに、性懲りもなく続けて倦まないかのよう。

 これが、一体、全能の、公平無比な絶対者が望まれた事なのでしょうか? 考えるまでもなく、否であ

りましょう。人間は、全人類は、余りにも善良で、太っ腹な神の好意を良いことに、勝手気ままを垂れ流

しにし過ぎてはいないでしょうかね。

 のみならず、人間はこのままで行くと、同胞達の大量虐殺に赴き兼ねない。いや、その瀬戸際まで来て



と言った顔をして、ケロリとして、善人ズラを崩そうとはしません。神ならぬ、私などは呆れ返って、言

葉も出ないのですが。

 いやいや、絶望などしてはいられませんよ、神が示した未曾有の善意に対して、申し訳が立たないでは

ありませんか、人類というこの「稀代の殺人鬼」の末席に連なる身としては。人間である限りは、同類が

犯した罪は我が罪、逃れる術はありませんから。一隅を照らすこと、これだけが、孤独で常に不安という

宿痾に苛まれている、二足歩行の哀れな獣の成れの果ての、非力な片割れたる私に、かろうじて出来る

事。

 人生意気に感ず、とは古代中国人の言葉ですが、私もその尻馬に乗って、結果がどうであろうとも、小

志が立った時点でよし、とする考えに両手を挙げて賛成する者であります。シェークスピアの「終わりよ

ければ、すべてよし」をもじって、「始め善ければすべてよし」とここでは言っておきましょうか。

 神ならぬ身で、ロングスパンの結果を見てからの判定では、責任の取りようがないからでありますが、

このブログで何度も言っている通り、全ての事に関して、トータルには良いも悪いもないのでありまし

て、強いて判定すれば、一部はよく、一部は悪い、と言う事にどうしてもなってしまう。微小部分には全

体を俯瞰して正しい全体像を把握することなぞ、及びも付かないことでありまして、「人生万事が、塞翁

が馬」にいみじくも表現されている如く、善悪はあざなえる縄のように、延々と切れ目なく連続している

わけであります。結論は、強いて言えば神のみぞ知るという所に、落ち着かざるを得ないのであります。

 さて、いつものごとくに私事ですが、不安を抱えた悦子が、別の不安を抱えた私と、ふとしたことで出

会い、不安同士が謂わば放電現象を起こして、運命の結びつきが始まった。プラスとマイナスの電気が相

会すれば必ず電流が流れる物理法則が厳然として存在するけれども、人間の場合には、絶縁体部分が大半

を占めているせいか、どういう加減かはよく判かりませんが、女と男が出会ったからと言って、滅多なこ

とでは通電いたしません。一種の、奇跡が発生しなければ。

 私達の場合は、他人の目からすれば、世間にざらに見られる、陳腐この上ない男女の結びつき、と見え

たで有りましょうし、事実そうでありました。

 運命の、などと、御大層な形容詞をつけて飾り立てた所で、内容は劇的要素など欠片(かけら)もなく、

偶々、何かの拍子に跳ね飛ばされた小石同士が正面衝突して、微弱な火花が生じた。客観的な現象として

は、一点の非の打ちどころもない完璧な表現でありますね。

 所が、当事者たる私ども二人にとっては、この大宇宙の生成に匹敵する、大事件が出来(しゅったい)し

たも同様だった。まさに事件が起こってしまった。それも、後になって事の重大さに、当事者同士も気づ

くことになったのでした。神の御技は飽くまでも微妙にして絶妙、ごく普通に、なんの前触れもなく、事

もなげに、奇跡中の奇跡を作り出してしまう。

 この、ごく平凡な、ありふれた男女の成婚が如何に奇跡中の奇跡であったか、それを身をもって体験さ

せられたこの私ですら、ごく最近に到るまで気づかずにいた程の、不可思議さなのであります。

 この間の経緯を、納得できるようにまでとはいかないにしても、朧げながらに理解して頂くには、大長

編が、それも源氏物語に匹敵する様な長編小説が必要となるでしょうが、私は、悦子も同感だと思います

が、人様に私達夫婦に起きた不思議をくどくどと述べて、大感動を与える興味は全くありません。

 何か、勿体ぶって、針ほどの事柄を太陽の如き大きさに見せようと、見栄坊の私が謀(はかりごと)を企

(たくら)んでいると邪推する向きも多かろうと、考えますが、それは飛んだ誤解であります。

 ただ、一言、普通には有り得ない奇跡が、ごく当たり前に起った。そう言えば済むことでありました。

 これも毎度、私が口癖のように言うセリフですが、この私達の様な奇跡に類するマターは、仔細に検討

し、丹念に検証を施すのなら、誰にでも起こっている「奇跡」なのでして、ただ、私が、変わり者の偏屈

なボケ老人が、殊更らしく自分事を大袈裟に吹聴して見せているだけなのであります。

 つまり、私ごときにもこの様な感激が与えられている以上は、公平無比を特徴とする神が、手抜かりを

なさるとは、とても思えないのであります。

 自分は神から見捨てられた、神も仏もあるものか、などと、捨鉢な、荒んだ気持ちで毎日を送っていら

っしゃる自称「不幸な人」、どうか、お願いでありますから、お気持ちを強くお持ちなされて、今一度だ

け、ご自分の事を省みてやって下さい。天は自ら助ける者を助ける、と申しますよ。自分で、自分に見切

りをつけてしまったお人に、どうして有難い神の恩寵が見えるでしょうか。

 どうか、冷静さを取り戻し、御自分に備えれれたエネルギーの全部を振り絞って、一歩でも、四半歩で

も前進する勇気を、取り戻して下さい。

 ここで、不安を抱えた孤独で、不完全で、それ故に未熟な存在には、悪いところだけではないことを、

次に指摘しておきたいと思います。

 我々は不安であるからこそ、その不安を何とかして解消しようとする。少しばかりの努力では、不安は

益々その度合いを強めるばかりで、少しも減少したり、解消されることことはない。だからこそ、本来然

るべき相手を必要としている自分自身を強く自覚する。と同時に、赤い糸で結ばれた運命のパートナーを

模索する事にもなる。自分から積極的に動き出す原動力として、身に備わった不安衝動は重要な働きをし

てくれる。つまり、生まれ落ちたままの自分であっていけないのだと知る。自分を叱咤激励して、成長さ

せ発展させなければいけない。その為には努力が必須である。努力のためには忍耐が要請され、といった

具合にプラスのスパイラルが自ずから発動してくる。

 同時に、不完全で未熟な状態を強く自覚することから、他者との絆、結びつき、協力・協調などの大切

さを自然に教えられて、他動的にではなく、自ら進んで人間関係のより良い構築に向けて、より一層注意

を払う事になる。

 さびしさに たえたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里 ― 西行法師のこの歌は、誠に平

易で遅滞なく自然に詠まれておりますが、人間存在の深部に触れた大傑作であります。

 私の下手な解釈を施す必要もないのですが、下世話に砕いて、例によって私流に言い換えてみようと思

います。世の中には孤独だ、寂しくてたまらない、淋しさで気が狂いそうだ、そんな戯(たわけ)た世迷い

ごとを臆面もなく口にする手合いが大勢いるが、私程の心の孤独に耐えに耐え、しかも表面上は平然と世

を渡っている者は、恐らく私の他に誰ひとりとしていないであろう。しかし、実に寂しいことだ、生きる

と言うことは…、この真の生きる寂しさに堪えて平然と、毅然として生きている人がただひとりでもいて

くれたら……、いやいや、無い物ねだりはよそう、そして深々と雪が降り積もる山深いこの里での生活

を、このまま一人で死ぬまで続けよう、それが拙僧らしい生の消化法なのだから。

 最後に、不安をいつも抱えた存在と知っているからこそ、私達は他人に対しても優しくなれる。人は常

に自分を基準にして他人を思いやるものだから、優しさ、労わり、思いやり、等などの神の一番の属性を

無理なく発揮して、人間が美しく輝く瞬間である。

 そして、世の中の誰よりもいの一番に優しさや、思いやりや、いたわりの精神を発揮しなければならな

い対象者は、ほかならぬ自分自身なのでありました。あなたの肉体や、精神、魂の管理を一任されている

あなた自身がその大切な任務を放棄しては、誰が面倒を見てくれると言うのでしょう。分かりきった話で

あります。一人ひとりが自分のなすべき事をなす。これが、始めであり、終わりでもありますね。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年12月04日 16時31分45秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: