草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2021年01月05日
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新年おめでとうございます。今年が良い年であることを心より念願致します。

 さて、「 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして 」―― 月は、あの時

の月ではないのだ、この春も、あの春ではない、ああ、ああ、何としたことだ、虚しくて、悲しくて、実

に遣る瀬無いことだ、ただ一つ、こんなにも熱い血潮を滾らせて、あの女性(ひと)を想い続けている我が

身だけは、あの嘗ての昔に恋焦がれて気も狂わんばかりだった、若き自分自身と少しも変わっていないと

言うのに……。思えばあの恋は、自分にとって人生で初めて、そして最後の命懸けの恋愛だった。ああ、

あの人は今どこにいて、何をしているのだろうか、私の事など疾うの昔に忘れて、どこかの誰かと幸せな

人生を送っているのだろうか、それなら、それならそれでよいが、もしや、ひょっとして、今幸せでなか

ったなら…、いやいや、そんな事は、あの女性(ひと)に限ってそんなことはない筈だ、せめて今は、あの



 今回は「伊勢物語」を読み、私の和歌に関する姿勢などを書いてみようと思います。

 私は和歌の専門家でも、学術的な研究者でもありませんで、ただ一人のディレッタントとして、日本文

学に魅惑されて、愛好しているだけの者であります。

 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)、

繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む

蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目

に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をもな慰むるは、歌なり。

 有名な古今和歌集の仮名序の書き出しであります。人間だけが歌を詠むのではない。生きとし生きるも

の全てが歌を詠んでいるのだ、そう仮名序を書いた紀貫之は喝破しております。

 私も日本の和歌をそう言うものとして捉えて、親しんでいる一人であります。

 今更申すまでもなく、和歌には長い長い伝統があります。記録に残らずに打ち捨てられた名歌が、それ



ラバラに存在するのではありませんで、それぞれが互いに密接に叫び声を、喜怒哀楽の心を、呼応させ、

響き合わせている。そうです、一固まりの巨大な森を想像して見て下さい。世に持て囃される所謂名歌・

名吟とは一際高く聳え立つ巨樹でありましょう。

 で、ありますから、一つの歌を読むときには、巨大な森の一木だということを強く意識して、読み、解

釈し、鑑賞しなくてはいけないと思うのです。



桜月夜 こよひ逢う人 みな美しき 」とも、石川啄木の「 死にたくは ないかと言えば こを見よと

 咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女よ 」とも、響き合い、呼び合い、声を掛け合っている。

 こんな暴論を吐くと、専門家の間から、きっと激しい反対の声が上がる。それでも、私は、鑑賞者も創

作活動の一翼を担っているし、(現に、そうなのですが)、そうである以上は、敢えてする誤読や、和歌の

作者が想像だにしなかった拡大解釈こそ鑑賞の極意なのだから、進んで大胆な鑑賞態度を取るべし、そう

主張したい。

 連歌という形式があります。日本古来に普及した伝統的な詩形の一種。5・7・5の発句と7・7の脇

句の長短句を交互に複数人で連ねて詠んで、一つの歌にして行く。和歌の強い影響のもとに成立し、後に

俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。

 従って、芭蕉の名文「奥の細道」とも密接に関係を持ちながら、響き合っている現実があるのです。芭

蕉は杜甫や李白などの中国の名詩人や、西行・宗祇などの先人をも強く意識して、諧謔を最大の特色とす

る俳諧へと飛躍的な発展を遂げさせた、天才俳諧師であった。彼は発句・俳句よりも連歌を得意とし、同

時代との連携だけなく、時空を超越した連帯を自らの実作で我々に示してくれている。「 荒海や 佐渡

に横たふ 天の川 」が見せる短詩での最大級のスケール感は、思わず息を飲まずにはおれない。

 響き・移り 映り・調べ・匂い・撓り(しをり、たわみ具合を意味する)・侘び 寂び・細み(ほそ

み)などなど、対象に対する作者の繊細な感情が、余情となって滲み出た姿が創作の上で大切とされる

が、それは鑑賞する場合にも同様で、鑑賞者の全人的な参画を得て、複雑にして微妙なる膨らみや厚み、

陰影を獲得する。我々の現実の生活がそうである以上に、和歌や詩の世界では同伴者や共鳴者の存在は必

要にして不可欠な存在となっている。

 さて、「伊勢物語」に戻ろう。 ―― つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わ

ざりしを (― 最後には辿って行くことになるのだと、以前から聞いてはいたのではあるが、昨日や今

日といった、差し迫り、切迫した事柄とはついぞ思ってもみない事であった、不覚である、残念至極であ

る…、まだし残してやってみたいと思うことは山のようにあると言うのに。ああ、神よ、天よ、御仏よ。

ああやんぬるかな、やんぬるかな、やんぬるかな、悲しいかな、悲しいかな…。若者よ、美人たちよ、こ

の死という恐ろしいものを自覚せよ、私の今の無念の思いを肝に銘じて同情してほしいのだ、恋せよ、そ

して遊べ、舞い踊れ、叫べ、死をも恐れぬ若さを謳歌せよ、我々生きとし生きる者には有限の死というも

のがあらかじめ予定されてあり、その中に閉じ込められた生の輝きを嫌が上にも美しく浮き立たせてくれ

ているのだ、人生に万歳を叫ぼうではないか、人生に、恋に、涙に、喜びに、悲しみに、怒りに、歓喜の

盃を高々と挙げようではないか、これが、恋に生き、恋に狂った大バカ者が青春にある若者と、美しさゆ

えに身を持て余している佳人達に贈る、最後のはなむけの言葉なのだが、実を申せば私は後悔など断じて

致してはおりませぬ。ある種とことん一事をやり遂げた者のみが知る、完全な満足感を、充足の気持ち

を、安らかな達成者の気持ちを、じっと味わい、噛みしめている次第であります。自分の最期、死期を忘

れるほどに無我夢中で生き切った者のみが知る、人生の真実。これは遊び惚けに呆けた、一代の放蕩者の

最期の 勝利宣言 なのだわいな ――

 現在ただ今の私が、ざっと稚拙に拡大解釈した一例を、上に示してみました。稚拙ではあっても、私に

とっては大切な作業でありました。小林秀雄はこの絶唱を讃えて「悟りの境地」と表現していますが、成

程、そう言ったものかも知れないと思うだけで、この和歌の世界から厳しく拒絶されてしまっている自分

を感じて、後は呆然とするだけなのですが、自分流にたどたどしく、そして又、くだくだしく砕いて解釈

を施してみると、名歌の名歌たる所以のものが、腑に落ちるの形容通りに納得する。そして、この悟りの

実相がおぼろげながらにイメージ出来る。傍から専門家達が何と言ってケチをつけようと、私はこの絶唱

と個人的で、近しい好誼を結ぶことには成功したのですから、満足なわけであります。

 私は、公式な場で、例えば教室や公開の場では、こうした私的拡大解釈を推奨は致しません。権威を持

った立場では、当たり障りのない範囲でお茶を濁すに若くはないのですから。しかし、古典に親しむだけ

が目的のディレッタントの身であれば、私的な場での、ごく内輪のサークルなどでは大いに推奨したいと

考える者であります。T P O を弁えて使い分ける事で、古典などのオーソドックスな道は正しく守られる

し、プライベイトな散歩道的な楽しみの幅も広がる。一石二鳥とはこの事だと自画自賛したい気持ちで一

杯でありますよ。

 再び、「伊勢物語」に戻りましょう。 思ひつつ 寝(ぬ)ればやひとの 見えつらん 夢と知りせ

ば さめざらましを(― 恋しいと、逢いたいと、四六時中思っている、この私、言い寄って来る男の数

は数えきれないほどにいる。でも、私が心の底からお慕いして、切ないほどに恋焦がれている御人は、あ

の御方だけですの、ですから、どんなに大金を積まれても、金銀財宝を山の如く差し出されても、見向き

も致しませんわ、ああ、ああ、ひたすらに恋しい、恋しい、あのお方様、私の恋心に気づいて下さいま

せ、私はもう狂い死にしそうで、発狂する寸前のように思われます、ああどうか、一言、いえ、いえ、

一目だけでよいのです、決して求愛者の多さに心昂ぶって、数え切れない数の求愛者の多さに目が眩ん

で、横道に逸れることなど思いもよりませんわ、私の心はあなた様の事で一杯ですので、その他の事など

入れる余地もないのです、本当に、恋しい、切ない、ああ、ああ、出るのはもう切ない吐息だけです、そ

んな時でした、ふと転寝(うたたね)をしていたのです、するとどうでしょうか、懐かしいあのお方の御

姿が、目の前に見えたのですわ、あら、いつの間に、どのようにしていらっしゃったのかしら、そう思う

と、嬉しさでもう涙が溢れ出して、止まらなくなってしまいました、いや、いや、泣いていたりしてはい

けない、せっかく思いもしなかった千載一遇のチャンスが来たのですもの、あのお方の胸に飛び込まなく

ては、そう必死に自分自身に言い聞かせたのですが、どうしたことでしょうか、まるで金縛りにでも遇っ

た如くに、体が少しも動きません。どうしたことでしょうか、焦れば焦るほどに、棒のように固まってし

まった身体は、指一本さえ動こうとはしないのです。どうしよう。どうしたらよいのかしら、駄目な駄目

な私、いつだってそうなのだわ、肝心な時、ここぞという時に限ってベストな行動が取れない、この儘だ

とあの御方、恋しい恋しい心の恋人、私が拒絶のポーズを取っていると勘違いして、この場を去って行

てしまうかもしれない。なのに神様、私の神様、どうか体を、指だけでも動かせるようして下さいませ。

ああ、どうしよう…、ふっと我に返って、直ぐに夢だったと悟った、悲しさが全身を包んだと同時に、嬉

しさが雷(いかずち)の如くにわが身に降り注いで来た。ああ、私はあのお方に御逢い出来たのだ、とう

とう、懐かしくて、恋しくって堪らなかった恋人に御逢い出来たのです、私の神様、本当に有難うござい

ます。夢でお会いできたのは本当にお優しい神様の御導きで御座います。これまで、夢なんかって、軽く

見ていたけれども、今度のこの体験で、夢が頼りになるものだとしみじみと分かりました )

 以上、「伊勢物語」の一部の和歌を取り上げて、私的な交流を試みる御手本と言っては語弊があります

が、実例を提示してみました。読者の皆様方も是非、原文を鑑賞なさって、御自分流の楽しいお遊びを開

拓なさって下さいませ。





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最終更新日  2021年01月06日 17時42分27秒
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