戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年07月01日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
法然は、自分の言う「念仏」とは中国や日本の学徳の高い僧たちが
あれこれと議論している観想のことではなく、
また仏典を学び理解した上で唱えるものでもないと言う。
どころか、観想はするなとまで言っている。

なぜというに、すでに末法の世に入っているのだから
観想したところでどうせロクなビジョンは得られない。
こういう時代に生まれ、無智であることをきちんと自覚した上で
間違いなく往生できると確信してただひたすら念仏を唱えること、
この確信さえあれば往生の切符はもう手に入っている。


誓願は必ず果たされる。
悪人も、善人も。
男女の別や身分の上下で選別されることもない。
ただ、悪人の場合は心を改めて善人になった方がよりベター。

世に様々ある修行のどれも悟りに至るステップではあるけれど、
今は末法の世だからどう頑張っても修行者の力は及ばない。
ゆえに、この末法の世では念仏がベスト。

道綽は修行の方法を「聖道門」と「浄土門」とに分類した。
聖道門(しょうどうもん)は自力の修行によって悟りに至るという伝統的なスタイル。
一方の浄土門はほとけの力(他力)を頼みとする。
自己の厳しい修行による聖道門は「難行道」とも呼ばれ、


難行道は険しい道を徒歩で行くようなもので、
易行道は海路を船に乗って滑るように進んでいくようなもの。
この末法の世では聖道門はすべて望みを絶つべき。

念仏は時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない。
ゆえに易しい行による往生という。


善導の『往生礼賛』では「念仏を続けたまま命を終えることができた人は、
十人いればそのまま十人が往生し、百人いればそのまま百人が往生する」としている。
念仏すればすべての人が往生できるのにその他の修行ではまれにしか往生できないのは、
弥陀および弥陀の教えを説くために世に現れた釈尊の御心に随わないからである。

経典には、人間には1日に8億4千もの思いが湧き起こり、
その思いの中でなすことはすべて地獄・餓鬼・畜生道へ堕ちる悪業だとある。
そういう1日をこのあとどれほど積み重ねていくのだろうか。

そうして人が死ねば、遺骸はあるいは広野に捨てられ、あるいは遠くの山に埋葬される。
どれほど財産や家族があろうとも、遺骸が苔の下に埋もれる頃、
死者はたった一人で死出の旅に出る。
旅を共にするのはただ後悔の涙だけで、閻魔大王の前に行けば

「お前は仏法が流布する世に生まれながら、
なぜ何もせずここへやって来たのか」


と問われる。
その時、一体何と言って答えればいいのだろうか。

釈尊の在世中に生まれなかったことは悲しむべきことではあるけど、
その教えが伝わっている世に生まれたことは
盲目の亀が大海に浮かぶ木の穴に偶然首を突っ込むようなもので、
この上ない喜びである。
だから、正しい念仏を修めて皆で往生しようぜい・・・


法然の教えをまとめると、こんな感じでしょうか。

『往生要集』と比べると、実にすっきりとしている。
ただ、所々『往生要集』を踏襲した記述にもなっていて、
たとえば「盲目の亀がうんたら」ってたとえなんかも
源信がすでに『往生要集』に書いている。
それでも法然の要点は実にシンプルで、しかも文章は平易。

例の「畑シリーズ」だと、源信や慶滋保胤がまいた種が芽吹いたところへ
「末法」という名の強力な肥料が加わり、永観・良忍・覚鑁らが水をやって育て
100年かかって実を付けるところまで来た。
でもその実はまだ小さくて味もイマイチだった。
それを、法然が大胆に間引きして余計な葉っぱなども思い切りよくちょんちょん落として
大きく味も良い、ハズレのない実を付けるまでになった。
そんなカンジ。

善導の教えに感銘を受けた法然は叡山を下りて現在の知恩院あたりに庵を結ぶ。
あちこち出歩いて積極的な布教をした訳ではなく、静かに念仏の生活を送り、
教えを請う者が来れば拒まず教えてやるというスタンスだったらしいが、
口コミで評判が評判を呼び、法然の庵に通う者も次第に増えていった。

決定往生への確実にして唯一の武器はただの称名念仏。
難しい修行も勉強も何もいらない。
源信が説いていた智恵も持戒も菩提心も慈悲も念仏の助けにはならないとして、
法然は念仏を独立させた。

二十五三昧会に結縁した僧の幾人かの足跡は西方へ向かっていた けど、
果たして結縁した全員が往生できたのかどうか・・・

源信の死後、源信の行き先を知りたくてずっと祈っていた弟子のことを
「(177)」 に少し書いてますが、実は2人のやりとりは結構長い。
その中で弟子は

「わ、私、往生できますかね?」

と源信に聞いたところ、

「そりゃムリだよ」

という答えが返ってきた。

「えっ、即答?
なんでですか?
私にどんな過ちがあるっていうんですか!?」


「だってお前、怠慢なんだもん」

「ええ~~~・・・・
どうしてもムリなんですかね?」


「まあ、お前は怠慢だけど、成仏したいという
切なる願いは持っている。
これはすごくいいことだ。
生死に縛られていても、抜け出すことはできるだろ」


「なら、成仏の願いさえ持ってたら
往生できますかね?」


「そりゃさ、願いだけあっても行が伴わなきゃ・・・」

「じゃあじゃあ、過去の過ちを悔い改めて
浄土の行に励んだら行けますかね?」


「う~~~~~ん・・・・・
やっぱムリかな~。
だってお前、極楽に往生するってのはホントに大変なんだよ。
だから私だって極楽で聖衆の一番外側にいるんだし。」



こうですよ。
これが源信当時の往生観。

慶滋保胤の 『日本往生極楽記』 はもちろん源信以前に死んだ人の
往生譚をまとめたものですが、本格的に往生を目指した行が始まったのは
『往生要集』以降の話で、その頃は浄土門でありながらその実
難行道とあまり変わるところがないんじゃないかってぐらいハードルが高い。
しかも、どれだけ頑張っても生きてるうちは往生の確約は得られない。

棒高跳びの棒を使っても越えられるかどうかってレベルの高さを
子供でも跳べるようなゴム跳びレベルに引き下げたのが法然だと申せましょう。


基本的に法然の提唱したものはただの称名念仏だけど、
それなりに求められるものはある。

特に大事なのが「心」で、念仏者に必要不可欠な「三心」というのは、

 ・往生を願う心にウソ偽りがなく、取り繕うことのない点(至誠心)
 ・臨終の際には弥陀が迎えてくださると信じて疑わない心(深心)
 ・浄土へ生まれることを願い、善行の功徳は往生のために振り向けること(廻向心)

本気で往生したいと思えば、この三心は自然と具わると言っている。
ここらへんは『往生要集』と同じ。
その他にも、常の念仏とは別に、時には別時の念仏を行うとよいなどという
『往生要集』と同じ内容もあるにはあるけど、それは必ずしも必要な要件ではない。

が、『往生要集』と比べれば求められるものは格段には少ないしわかりやすいのに、
それでもレベルの低い民衆には細かい疑問がわき起こる。
たとえば、

念仏を片時もやめなければ往生できるという解釈は時に「1回じゃ不確かだ」
  という思いを起こさせるが、そういう思いが信心を妨げる。
  念仏とは「一念で往生できる」と信じて生涯続けて励むべきものである。


なんて解説もしている。

ある人が「念仏の数が多いのは自力の修行だ」と批判していることに対しては、
そんな批判は心得違いもいいとこで、数ではなく心構えが問題になる。
数が少なくても自力の心構えの場合は自力の念仏となる。
三心を起こした人がいかに多く唱えようとも、他力を頼みとして唱えるのだから
それは自力の念仏ではない、とも言っている。

結局これも「心構え」が問題とされている訳だけど、
もっともいけないのが「慢心」。
自分が数多くの念仏を唱えるようになると、自分は優れているという勘違いを起こしがちで、
ほかの信者を見下すようにもなったりするが、単に優れた他の人を知らないだけだし、
思い上がりの心が起こっただけで心も行も必ず道を外れてしまうから
くれぐれもそういった誤った思いは起こさないようにと戒めている。


さて、そうして法然の教えは二十五三昧会のメンバーでさえ跳び越えることに苦労した
「往生」という名のハードルを、名も学もない民衆が次から次へとひょいひょい跳び越えて
やすやすと往生していく、往生者の大量生産を可能にした。

『絵伝』に描かれる往生のシーンは妙なる雲だけで、ご来迎の聖衆は表わされてないけど、
もうこの雲が何度出てくることか。
ホントにすごいですよ。
前時代の往生の厳しさを知れば、このすごさが本当にわかります。
なんたって、戦場にまで現れるんだからね。

武蔵国の御家人・甘糟太郎忠綱は法然に深く帰依していたが、
ある時叡山の僧兵が日吉神社ににわか城を造って悪行を企てるという事件が起こり、
忠綱も鎮圧に向かうことになった。

忠綱は悩んだ。
武門の家に生まれた以上、出陣の命には従わなければならないが、
自分は念仏の徒でもある。
往生を優先させて出陣しなければ臆病者と罵られて由緒ある家名を落とす。
さりとて戦場に出れば罪を増やすだけ・・・
これに対する法然の答えは、

 「弥陀の本願は、きっかけの善悪、行の多少、身の浄・不浄、時と場所を選ばない。
  弓矢の家に生まれる者、戦場に命を失うとも、念仏を申せばかならず来迎に
  あずかるべし」
  (『法然上人絵伝 中』中央公論社より)


そして法然は忠綱に袈裟を与え、甲冑の下にそれを着込んで忠綱は出陣した。
乱戦の中、背に矢を受けた忠綱は覚悟を決めて膝を折り、兜を脱いで念仏を唱えた。
忠綱の首が胴から離れる瞬間、一筋の光明が忠綱に射し込み、戦場に異香が漂った。

忠綱の頭上にある紫雲は京の町からも見え、
叡山のあたりに紫雲が漂っておりますと法然に知らせた者がいた。
それを聞いて法然は、

 「ああ、それは忠綱の往生を知らせるものだ」

と言ったという。

エリート集団の二十五三昧会でさえ、 臨終にはあれだけの準備をした んですよ。
それを、矢の降りしきる戦場で心静かに念仏を唱えて往生するなんて
ちょっと考えられないでしょう。

シンプルであるがゆえの往生への確信が、戦場でまでも結果を出すことになった。
ここが、法然の教えのすごいところです。


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最終更新日  2015年07月01日 23時03分59秒


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