戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年03月04日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
では、今回は御台所(みだいどころ)について。

御台所とは正室の呼称で、将軍家、特に徳川将軍家の正室を指すというのが
一般的な認識かもしれない。

14代将軍・家茂(いえもち)の正室は激動の時代での降嫁ということもあって
「皇女和宮」として有名な方ですが、内親王というプライドからか
徳川家の嫁となっても武家風を嫌い、依怙地に御所風を通したという話もこれまた有名で、
一連の「武家風」の中には、「御台様」と呼ばれることを嫌がって
「宮様」と呼ばせたというものも含まれる。

ところが、歴史的には御台所という呼称はなにも武家の専売特許ではなく、

ウィキペディアによると、平安中期までは三位以上の公家の正室は「北政所」と
呼ばれていたのが、のちに「北政所」が摂政か関白の正室に対して贈られる称号となったため、
摂政・関白以外の三位以上の正室に対する呼び名が必要とされるようになり、
それで「御台所」や「御台盤所」(みだいばんどころ:御台所と同じ)という呼称が
生まれたんだそうな。

徳川将軍家の場合、将軍世嗣に嫁いでも「御台所」とは呼ばれない。
夫が晴れて将軍になったあかつきに、初めてその正室は「御台所」と呼ばれる。
夫が将軍となるまでの間は、「御簾中(ごれんじゅう)様」と呼ばれた。

が、6代将軍・家宣がまだ将軍宣下を受ける前、家宣は正室の煕子を「御台所」と呼ばせた。
先例のない出来事に老中は狼狽し、側用人の間部詮房を大奥へやって
なぜ将軍宣下前に御台所と呼ぶのかその理由を聞いてこさせた。


「あら?
将軍家は室町御所の例にならうと京で聞いてたんで
御台所と呼んでましたのよ~。
でも、貴方のお話によるとどうも違う先例をお持ちのようですわね。
ふ~~~ん・・・・
ならついでに伺っておきますけど、今後は当将軍家を
室町将軍家より一段低いものとしてよろしいかしらん?」


とケロリとして言った。
間部詮房がそれを老中に報告すると、

「ナニソレ?
室町幕府の先例!?
ちょっと、どーゆーこと!!??」


とあわててみんなで各種資料を探したが、わからない。
幕府の学者に聞いても局の言葉の意味がわからない。

家宣の妻・煕子は公家の近衛家の出身で、よくドラマなどにも登場して有名な

近衛元煕が幕府にあてた公文書の中で「御台所」と書いてあるのを見つけたので
京の元煕にお伺いを立てたところ、室町3代将軍・義満の時代より
将軍世嗣の正室に対しても「御台所」と呼んでいたという回答が、
証拠書類と共に戻ってきたという。

だから、御台所という称号は長い歴史の中ではなにも徳川将軍家だけのものではなく、
さらに各時代においては将軍家の正室以外にも御台所と呼ばれた女性もいたし、
武家の中だけで使われた呼び名という訳でもなかった。


15人の徳川将軍は1人を除きみな正室を持っていた。
正室を持たなかったのは7代将軍の家継で、これは当の家継が夭折したため、
八十宮(やそのみや) 吉子内親王 とは婚約止まりだったことによる。
もし家継がもう少し長生きしていたら、史上初の皇女の降嫁は和宮ではなく
八十宮になっていた。

その他の将軍には正室がいたけど、14人の将軍だから正室も14人という訳でもなく、
継室を迎えた将軍もいたので、正室の実数は将軍の数より多い。

将軍家の正室は宮家か摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)から迎えるルールだったが、
イエアス・秀忠のごく初期の将軍は江戸幕府の開府以前までに最後の継室を迎えているので、
この2人の正室は上記ルールにはあてはまらない。

生まれながらの将軍である3代・家光の代になって初めて鷹司家から正室を迎えたので、
ここから正室ルールが始まることになるが、家光以降の将軍の正室にも例外がいた。
それが11代・家斉の正室・茂姫と13代・家定の正室・篤姫で、
この2人はともに島津家の出だった。
ただし、2人とも近衛家の養女となっているので、形式上は原則から外れてはいない。


「武家の棟梁」たる将軍家は武家中の武家、ともいえるだろうけど、
だからといってしきたりの何もかもが公家と違うということもなく、
ことに学問好きで温厚な6代・家宣は公家風にハマって
積極的に公家の作法を取り入れたりもしたそうな。

家宣は 「上野第二編(4)」 で少し経歴を紹介してますが、
近衛煕子を正室に迎えたのはまだ父の綱重(家光の子)が生きてる時で、
綱豊と名乗り、将軍世嗣どころか日陰の身からようやく次期甲府藩主として
認められたばかりの頃だった。

煕子との夫婦仲はまあまあ良かったらしく、また上にも書いたように
煕子の父・元煕が有職故実に詳しく公家第一の学匠と言われるほどの人だったため、
父譲りの学識と公家のプライドを持つ煕子の影響を受けて
綱豊も公家風を好むようになっていったらしい。

して、綱豊が家宣と改名し、ついで6代将軍になると、
煕子も当然大奥へ入り、大奥も公家風に染まるようになっていった。
大奥には沢山の年中行事があるものの、正月三が日などの重要な儀式がある日には
御台所は衣裳・髪型・化粧などすべて公家式にならった装いをし、
それが正装だった。

まあそれでも、家宣の後には武家の気風を重んじる吉宗のような将軍も出たし、
当初より公家風を取り入れたとはいっても公家そのものじゃないから、
そういう本場の公家風とのギャップに和宮は抵抗を覚えたのかもしれない。


さてと、ここからは御台様の1日を追ってみましょう。
生活臭い話が大好きなわたくしにとっては、
女同士が競い合う泥沼のスキャンダリ~な話よりも
記録にも残らないような大奥での平凡な1日の過ごし方の方がよっぽど面白いんだけどね。

ただし、200年を越える大奥の歴史の中では色々と変遷もあっただろうし、
すべての御台所が寸分違わぬ1日を過ごした訳でもないと思うし、
ものの本でも説明に多少の違いがある箇所もあるので、
6代・家宣以降の御台所はだいたいこんな感じで生活してたのかな~
ぐらいな感じで読んでください。


まずは、朝のお目覚め。
御台様は朝7時頃お起きになる。
平時のスケジュールは規則正しく進められるものなので、
早く目が覚めたとしても

「お目覚めになってもよろしゅうございます」

とお付きに言われるまでは布団から出たりはしない。
それに、布団から出るまでにやることがある。
それが髪を梳くことで、これは寝所で寝たまんまお付きに髪を梳いてもらう。

髪が梳き終わると、起きて口をすすぐ。
自ら洗面所に立って

「ガラガラガラ~、ペッ!!」

なんてお下品にすすぐ訳じゃなく、うがいセットが部屋に用意されて
お付きが水の入ったコップを差し出してくれるので、それを持って
ガラガラしてから「たらい」に吐き出す。
たらいっつってももちろん「汚物入れ」的な粗末なものじゃなく、
御台ちゃまにふさわしい豪華なたらいだけどね。

それから手を洗う。
手を差し出すとお付きがその手を洗ってくれて、拭いてもくれる。

トイレにも行く。
トイレは1人では入らず、大事な御用が済むとお付きがお尻を拭いてくれる。
パンピーじゃないから当然トイレも広々としており、
一説には御台ちゃま専用のトイレは深くふかあ~く掘ってあって
一生汲み出すことはなく、代が変わるとまた新しい「穴」を掘ったという。
ま、なんにせよ御台ちゃまは「出す」だけで後始末は自分ではしない。

と、同じニンゲンなので朝起きてまずすることは現代人と変わらなくても、
そのやり方はずいぶんと違っている。

ここまでの間に朝食が用意されている。
お朝食は午前8時頃。
朝食は1人でお召し上がりになる。
もちろん、食べるのが1人という意味で、周りには介添えのお女中たちがいる。

一の膳にはご飯と汁物、刺身・酢の物などに煮物が付く。
二の膳には豆腐や卵の汁物、プラス焼き魚。
汁物は季節によっても違うらしいが、春にはシジミが多く、
意外なことに「鯉こく」もよく出されたらしい。
うっぷ、朝から胃がもたれそう・・・

ついでにここでお食事全般のことを紹介しておくと、
将軍と御台所のための食事を受け持つ役人は江戸城内に100人以上いたそうで、
メニューは食材を用意する役人や調理担当の役人(御家人)が
個人の嗜好を勘案したりしながら決めた。

食材や食器類、下駄や家具などの日用品の買い付けは賄方(まかないかた)が行い、
それぞれの役人が品物別に担当を持っていた。
賄方の役人を統括するのが賄頭(まかないがしら)で、
城内で使われるすべての食材は賄頭が一括して買い付けをした。

魚は日本橋、野菜は神田多町(たちょう)で買い入れたというが、
時価ではなく常に安値と決まっていたらしい。
そして、買い付ける量は実際に使用される量よりはるかに多く、
買った食材の多くは料理人が

「これ、使えね~。
あ、これもダメ」


とダメ食材としてはじいておき、自分ちに持ち帰ってしまったという。
あこぎな商売するのう・・・

「香の物」のたくあんは城内でもかなり消費されたようで、
高野山の企画展シリーズで コエビ (肥ビジネス)のことを紹介してますが、
江戸城でも自分達のウンコと引き換えにたくあんをゲットしていたらしい。
江戸城のウンコ争奪戦は相当激しかっただろうな。

それ以外にも、食材は諸大名からも献上されたので
材料自体はなかなか豪華なものだったが、素材も重要だけど
料理のいい悪いを左右するのは何といっても料理のウデと調理法。

将軍夫妻に出す料理だから、当然神経は使われる。
ご飯の場合、まず御春屋(おつきや)で精米される。
その後、御春屋の役人が米を黒塗りのお盆の上にざあっと広げて
石やねずみのフンなどの異物が混入していないか、
欠けた米粒はないか1粒1粒吟味をした上で米を研ぐ。

米は白ければ白いほどよいとされたのでこれでもかってぐらい研ぎこまれ、
そのため脚気になる人が多かった。
炊き方もちょっと変わっていて、「炊く」んじゃなくて
沸騰する湯の中に入れて「煮た」んだそうな。
煮た上でそれを釜に移して蒸したというから一体どんなご飯に仕上がったのだろうかと
ちと興味は湧くけど、試してみる気にはならない。

城内で実際に炊かれる米はわずかなもので、あとはこれまた役人が持ち帰った。
献上された食材なども同じで、まさに「役得」な訳だけど、
中にはそうして得た食材で弁当を作って他の役人に売る者までいたそうな。

タダで手に入れた食材で小遣い稼ぎをする輩については、
初期の頃はまだ大目に見られていたのが、
のちには厳しく罰せられることになったんだと。
そりゃそうだよな



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最終更新日  2016年03月04日 23時49分36秒


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