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女房を病院に・・・その足でパソコン講習会場に(昨日今日と午前中)・・・午後女房を迎えに・・・待合室で同じ病気の患者の連れ合い(旦那)との話、・・・病気の奥さんは、ほとんど寝たきり、自分も病気を持ち通院しながらの送り迎え、「生きていても何も楽しみがない」「妻も生きている価値がないと思っているだろう。」との事年齢も75歳、奥さん83歳奥さんは生涯透析を続けなければならない。その送迎を続ける自分も病気で通院しながら治療を続ける。悲しい事だ!私の何年か先の姿を見ているような話・・・・だが、私はなりたくない!ならない!”どんな状況におかれても、生きる限り「生きがい」を持ち続けたい!”
2009年12月09日
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「安心安全インターネット講座」を受講した。毎年受講しているのだが、今回の講師は初めてだった。講義について、とても分かり易くて、参考になった。講義内容について、私達のレベルに合ったもので、前述のように分かり易くて参考になったが、それ以外に講師に対して大きな「迫力」的な「力強さ」を感じた。その人の持っている知識、経験、人柄、等々能力的な全ての力が非凡ではない大きな何かを感じた。何かを「成す人」には、聞く人をこのように感じさせる力が備わっているのだろうか。2時間と云う時間を釘付けにしてしまい、瞬く間に終わらせてしまう。久し振りに出会った素晴らしい講師であった。
2009年12月06日
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現役を引退した後の生き方について、定年退職を前に色々と考えていたが、いざこの場に至って当初の思い通りにいかない現実を痛感させられる。仕事がしたくとも、体力も、また能力もない自分に、何が出来るかと云って、何もできず、ただ、ただ日を過ごしている。好きな事をして楽しんでいると思ってはいたものの、生きがいとしての認識が湧いてこない。自らの意思で良かれと入り込むボランティア活動では、本当に自分の行為を必要としていてくれているのか迷いも出てくる。現役時代から社会的に認められている者は、延長線上で役立っているとの認識を持ち、生きがいとしての余生を過ごす事が出来ようが、何もない者にとっては、存在さへ認識出来ず、生きがいなど持てない。生活に役立たせようと学び事に入り込み、教養を高めんと学んだとしても、それは生きがいにつながっていかない。最終的には誰かの役に立っているとの認識がなければ生きがいにはならないように思う。自分の行為に対して相手が喜んでくれる。そして相手のその喜びを喜びとして感じられる認識が持てる事が生きがいになるように思う。病気の女房の為に、ここでクタバル分けにはいかない。女房と云う人の役に立っている認識があるから・・・。そして”私がしなければ”と云った責任感があるから・・・。私は、辛うじてこの事で生き延びているような気がする。定年退職後の社会にも誰もが生きがいを感じるような制度作りを考えて行く時代に来ているのではないだろうか。
2009年12月02日
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