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今回の急遽決まったスペイン出張から 今日1/30(日)16時間以上かけて帰国した。今回の出張も 案件の性格上、観光や息抜きの時間は1/28の『パエリア』レストランを除いて皆無だったが、それでもパリでのトランジット含めて様々な印象的な写真を撮ることができた。楽天ブログの規定上、画像ファイルの上限が50[kB]であるため、元の写真の解像度が大きく下がってしまうのが残念だが、まずは以下の写真でお楽しみ下さい。尚、それぞれの日のダイアリは以下の通り。少し落ち着いてから、また詳細を追加していく予定です。。。■ 1/25(火)のダイアリ■ 1/26(水)のダイアリ■ 1/27(木)のダイアリ■ 1/28(金)のダイアリ■ 1/29(土)のダイアリ 【上段左】今回、出張中泊まっていたホテル『MAJADAHONDA』。HONDAとはいっても日本資本は一切関係ないようです。(^_^;)【上段中】出張中、イギリス人、フランス人、我々日本人の4~5名で動いていた頃に毎朝迎えてに来てくれていたメルセデスの2世代前のEクラス・ストレッチ・リムジン。おそらく裕に15年選手です。詳細は1/26(水)のダイアリにて。【上段右】『MAJADAHONDA』の私の泊まっていた部屋。少々古いのですが、なかなか清潔でした。10ユーロ支払うとInternetのADSLが使い放題でした。 かつて通信事情が悪かったヨーロッパにしては素晴らしい特典です。【中段左】1/26(水)の昼に出かけたFingertipの軽食レストラン。壁にかかっているのが生ハム用の豚やその他の脚です。。。ちょっとグロテスクなので、ほどほどの写真にしました。【中段中】フランスはパリの『シャルル・ド・ゴール空港』。JALの搭乗カウンタ付近から見た無数の湾曲したフレームが大変に美しく、神戸のかつての『フィッシュ・ダンス・ホール』に非常によく似た建築美を感じます。【中段右】1/28(木)最終日の昼に、仕事の方向性の決着を祝って入った『パエリア』の専門レストラン。何せ、ここまでの数日間のタフな仕事内容で、こうした遊び心を初めて実感した瞬間です。2種類のパエリアは日本で食したことがないほど美味しく、30%のアルコール度数の食後酒は強烈でした(でも、これでも弱い方とのこと)。【下段左】スペインのマドリッドは『BARAJAS(バラハス)空港』のエグゼクティブ用ラウンジ。 エール・フランスやルフトハンザといったヨーロッパの名門航空会社の共同ラウンジとなっています。今回はパリでトランジットする迄の2時間はエール・フランスを使用しました。【下段中】最終日、我々日本人のみになった出張者をホテルから『BARAJAS空港』まで送ってくれるために用意された1世代前のメルセデスのEクラス。確かにヨーロッパではハイヤーによく使われているのが日本人の感覚的には信じがたいところ。確かにかつてのドイツ出張でもEクラスのハイヤーが送迎をしてくれました。【下段右】『BARAJAS(バラハス)空港』のエグゼクティブ用ラウンジに並べてかけてあったどこかの銀行のものと思われるポスタ。センスが良くて つい撮ってしまいました。
2005/01/30
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いよいよ 今回のスペイン出張から帰国となる。。。急遽決まった短期滞在の出張ゆえに、観光など全くしていないが、何せ一旦仕事の方向性がついたのが何よりである。技術面・ビジネス面で逼迫した難局だったため、無我夢中で取り組んだだけだったのだが、今振り返ると 今回の出張で得たものは極めて大きかったと思う。。。出張中のスペインの様子は、これまでのもの(1/25、1/26、1/27、1/28)とあわせて、後日またアップする予定である。(1/30) 帰りの飛行機はフライトも長いこともあるし、少しゆっくりしよう。。。【以下、後日追記してみました。】――――――――――――――――――――――――――■ ホテルのチェックアウトまで―――――――――――――――― 最終日のこの日、前日少し多く寝たこともあって 早起きをしてパッキングをすることができた。 その後、いつものように1階のオープン・スペース(写真【上段左】)で 同行のIさんと朝食を摂り、チェックアウトの手続きをした。チェックアウトの手続きにフロントに向かう際、ホテルのエントランス前に この日の迎えの車が着いたのが見えた。遠目に見ると 色は同じものの、前日まで(写真【上段中央】)と比べて車の丈が随分と短くなったように見えたので、興味をもって外に出てみると、2世代前のメルセデスのEクラス・ストレッチリムジンではなく、私の好きな1世代前のメルセデスのEクラスが停まっていたのが嬉しい驚きだった。(写真【下段中央】)■ マドリッド『BARAJAS空港』にて――――――――――――――――――間もなくホテルを出て、約40分程度かけて高速を南下し、マドリッドの『BARAJAS(バラハス)空港』へと到着した。私のフライトは『BARAJAS空港』からパリの『シャルル・ド・ゴール空港』空港までエール・フランスで向かい、それからトランジットした後、JALで成田まで向かうのに対し、今回ずっと一緒に行動して頂いたIさんのフライトは ブリティッシュ・エアラインで駐在先のロンドンへと向かうというものだった。職場への土産を幾つか購入して、「せっかくのビジネス・チケットなのだから。。。」というIさんの強い薦めに応じて エール・フランスへのエグゼクティブ・ラウンジへと向かった。(当初、私は慣れない海外のラウンジを使用するよりも、その国の特色がはっきりと出る空港内を色々と見て回ることに興味をもっていた。。。)このラウンジは エール・フランスやルフトハンザ、ブリティッシュ・エアライン等の共同ラウンジなのだが、そのシックな雰囲気と広大なスペースに驚かされた。(写真【下段左】【下段右】)これまでも 出国時にJALの『サクララウンジ』を何回か使わせてもらったことがあるが、ソファやフロアの雰囲気は悪くないものの、タバコの煙がかかったスペース(勿論、禁煙と喫煙スペースは分かれているのだが。。)に 会社役員クラスとおぼしきおじさん達が 多数 出発前からアルコールに体をほてらせ、ちょっと勘違いした態度でくだを巻いては「この若造?!的な目」でギロっとこちらを一瞥するような雰囲気とは随分違う。。。(へ、偏見でしょうか。。。(^_^;))照明を全て間接照明として、照度を落とし、ソファ類を広大なスペースに贅沢に配しているからか、なんせシックに落ち着いて見えるのである。なんとか その雰囲気にミスマッチを起こさないよう(^_^;) 気をつけている自分がいた。。。パリまでは B737型機(140~150名程度の定員)に乗って約2時間、フライトアテンダントがキッチン・ワークに一生懸命になっているのがよく見えるビジネス席の最前列席に座ることとなった。(もっともビジネス席とは言っても、コミュータクラスの飛行機のそれだから、単に席を2つ一緒に使える、といっただけ。)何回かフライトアテンダントと話す機会があったが、最初とても英語とは思えない発音にたじろいでしまった。あのイントネーションは フランス語にしか聞こえないのではないだろうか。。。(ちなみに私はフランス語は全く分かりません。。。(^_^;)) ■ パリ『シャルル・ド・ゴール空港』にて―――――――――――――――――――――『シャルル・ド・ゴール』に着くと、2時間強の待ち時間があったため、湾曲した建築様式が面白い空港内をあちこち眺めて回ったり(写真【中段中央】)、DutyFreeで自分の買い物をして、今度はJALをはじめとする複数航空会社のエグゼクティブ・ラウンジへと向かった。こちらは先のマドリッドの『BARAJAS空港』のそれと比べると、遥かに日本のそれに近く、非常に限られたスペースに ごくごく小ぶりなソファが ところ狭しと多数並べられており、これまた ところ狭しと薄型TVやPC向けスペース等が配してあった。。。ここでも他社のラウンジ同様、飲み物やちょっとしたスィート類はFreeであったが、オレンジジュースだけを手にして、ラップトップPCを使って出張報告をまとめることにした。これからも分かるように、このラウンジにはそうしたビジネス・ライクな雰囲気と 旅の疲れによる倦怠感が交錯していた。この後、JAL便に乗って帰国となったが、座席は またもビジネス席の最前列となった。今度は機内中央列3人掛け席だったが、真中の席はいずれも空けてあるため、両端の2人でその空間を使うことになり、広さは申し分なかった。前方の壁面との距離は 機内販売パンフレットや機内雑誌を前面の壁面から取るには不便と感じてしまう程広い。このスペースは例のシェル型シートのフルフラットとあいまって、出張の帰りの睡眠を確保するには最高のファシリティとなった。。。離陸後、フランス人の初老のおばさんが 勝手に私の横の席に移動してきて、もう片側のおばさんと散々うるさく談笑し続けたり、行きの機内で購入した機内販売の商品に手違いがある等の問題は発生したものの、それらが解決すると またも、すっかり泥のような眠りに落ちた。。。 実は この帰国後、2週間以上の連勤となることなど 知る由もなく、本当に短くもタフな出張に 疲労感とある種の満足感を覚えて眠りつづけた。。。
2005/01/29
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この日1/28(金)は 本来なら帰国予定日だったが、日本のBackOfficeとのテレコン(電話会議)によって、もう1日だけスペインに滞在することとなった。■ 仕事の終わり――――――――――朝、マドリッドのブランチOfficeに到着すると、午前中から昼食までの多く時間を日本のBackOfficeとのテレコンと、今回の出張に関するレポート・メールの作成に費やした。この間に ブランチOfficeのスタッフは重要顧客との会議に出かけたが、この日の我々のタスクは彼らの後方支援にあった。正午過ぎになって彼らが戻ってくると、今回の案件の取り纏め役のブランチOfficeスタッフが、案件がうまく進みだした旨を我々に伝えてくれ、実質的な出張最終日ということに配慮して、スペインらしい昼食をご馳走しましょう、ということになった。彼の言葉によって 今回の技術的およびビジネス的にタフだった出張内容に関して 一気に肩の荷が降りて精神的に楽になった。。。(正直言えば、思わず腰が砕けそうになった。。。(^_^;))■ 『パエリア』専門店でのランチへ――――――――――――――――――彼は ここまでの数日間、長旅だったことと ストレスフルな仕事一色だった労をねぎらってくれると共に大変感謝してくれ、我々のリクエストを聞いてOfficeから数ブロック離れた『パエリア』の専門店へと連れて行ってくれた。このパエリアの専門店は 大変寒い外気の中、やわらかなパステル・イエローに包まれた 周囲をふと明るくしてくれるような大変可愛らしい店だった。(こちらの写真の【中段右】を見て下さい。)店に入ってオードブルと食前酒としてのワインを頼んでから、全く分からないスペイン語のメニューを早々に放棄して、味付けの異なる2種類の『パエリア』をオーダーした。かくして、黄色いパエリアと、ムール貝を伴ったオレンジ色のパエリアが1つの皿に取り分けられて出てきた。。。むむっ、何も具がなくて、ライス・オンリーである!正直なところ、これまで日本国内で 本当においしいパエリアに出会ったことはなかったため、「本場とは言え、今回も日本で食べるパエリアと似たり寄ったりだろう。。。」とたかをくくっていたところ、嬉しい誤算で 大変美味しい内容だった。。。具は殆ど皆無なものの、何せおいしいのである! 日本国内で私が出会ってきた(実は おそらく私が単においしい店を知らないだけの可能性が高いのであるが。。。(^_^;))ともすると べちゃべちゃした食感に陥りがちだったり、火がうまく通りきっていないのではないか?と疑いたくなるパエリアとは 全く違うのだった。。。おそらく、使っている米の種類が全く異なるようであるし、火の通し方も大変上手なのだと思われる。。。また、コクのある味付けもも何とも絶妙だった。。。食事が終わると、これまたスペイン名物と言われる『(英語名で)フライド・ミルク』と呼ばれる表面に焦げ目をつけた柔らかなミルク・ベースのデザートと、食後酒にトライすることとなった。。。『フライド・ミルク』の方は 表面こそ違えど、何となくティラミスに似た食感があった。。。一方、食後酒の方は オーダーしたものは それほど強い種類ではない というものの、レモン色の爽やかな見た目とは異なり、アルコール度数は30%にも及ぶお酒。。。 美味しく飲めたものの これ以上強い酒を食後に飲むことがある、とは驚きであった。。。遅いランチを終えて17時をまわってOfficeに帰ると、この日は 金曜日ということもあって、ブランチOfficeのスタッフは殆ど帰宅していた。金曜日の退勤が極端に早い という習慣は、どうもこれまでの経験からアメリカでも、少なくともドイツやスペインといったヨーロッパの国々では共通するものらしい。。。16~17時間もかけて日本から応援出張してきている人間が 毎日ひぃひぃ言って悪戦苦闘しているのにまったく大した神経である。。。(^_^;)(^_^;)(T_T)この日は結局 それからしばらくして、食事に誘ってくれた彼の車(日本では目にしたことのないプジョーのワンボックス!)でマドリッドの裏道をあちこち曲がりくねりながら、夕陽の反射が眩しい丘陵地帯の新興住宅地をいくつも抜けて ホテルへと帰り着いた。。。これまでとは違う早いホテル着に、時差ぼけと疲労と安心感が一気に吹き出たため、2時間ほど仮眠をとってから、最終の出張報告をメールして、深い眠りにおちた。
2005/01/28
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現地での仕事2日目となるこの日は、初日にして最大の山場となった昨日1/26(水)とは ホテル出発時から 少々様子が異なっていた。。。■ 朝の車談義―――――――――朝食を摂って ホテルから氷点下を指す外に出ようとしたとき、ホテルのエントランス前に停まっていたのは このカジュアル極まりないホテルの雰囲気には およそ似つかわしくない濃紺のメルセデスベンツのEクラス ストレッチ・リムジンであった。。。もっとも、Eクラスと言っても2代前の型 つまり まだ丸目になっていないころのEクラス(車好きの方ならよく知っている所謂往年の『W124型』のEクラス)だから、本当の初期型ならば 1984年頃のデビューとなる。かなり息の長いモデルだったから、後期モデルなら そこまで古くはないにしても、もうかれこれ15年選手と思われる旧車である。。。また、ストレッチ・リムジンとは言っても、別にVIP送迎用の4名乗車といったようなモデルではなく、ストレッチした空間に3列のシートを配した、要は複数人お迎え用のハイヤーのような構成である。ただ、Eクラスのストレッチなど これまでに日本や米国、ドイツでも見たことがなく、喜んで乗ってみると やはり古さは否めなかった。。。この頃のメルセデスに共通する室内のオイル臭さ(油圧システムの多用によると思われる)と、オートマチックの大きな変則インパクトで、マドリッドOfficeまでの1時間強のドライビングは少々つらいものがあった。ただ、さすがにボディ剛性は定評通りで、ミシッともいわない作りに 最近の流麗なメルセデスの外観からは感じにくくなったドイツの質実剛健な魂を感じる無骨な往年のモデルであった。Officeに到着すると、昨日の嵐の技術ミーティングで発生した諸々の課題に関して、早速日本のBackOfficeと連絡をとり、追加のプレゼン資料を入手し、その内容についての意識合せをテレコン(電話会議)にて行った。その後、その内容を現地ブランチOfficeの技術スタッフに伝え、諸々の技術的アシストを即席のプレゼンにて展開した。■ 昼食へ―――――――――正午もまわって午後2時頃になって、やっと現地Officeスタッフが昼食に行こう、と誘ってくれた。。。この時点までは 何故一向に昼食に行こうとしないのか疑問に思っていたが、後の昼食のとき『スペインでは昼食は午後2時頃が最も一般的』という驚くべき習慣を聞く。。。出かけた店は 所謂Fingertipのおつまみ的なメニューを主とするお店で、文字通り おつまみよろしく数種の『生ハム』やら『チーズ』やら『ブラック・プディング』や『パン』等が出てきた。壁には南部アンダルシア辺りを発祥とする美しい青い模様の入ったタイルが帯状に配列されていて、明るい木目を基調とする店内に鮮やかな色彩を与えていた。その一方でいくつかの壁面には生ハム用の豚の脚部分がいくつもぶらさげられたいた。。。ラテンだなぁ、と思った瞬間である。「本当にこれがご飯?」と言いたくなるようなおつまみメニュー構成だが、彼らは一向に気にすることなく、しばしスペイン文化について話が広がった(ちなみに、このときの言語は勿論スペイン語ではなく 英語である)。―――――――――――――――――――――――――――・ここマドリッドは海抜700メートルもあるということ・1年を通じて今の1月が一番寒く、日々の氷点下の朝はごく普通であること・スペイン人は概してバルセロナ等を中心にシーフードが好きなこと・スペイン人だからといって、フラメンコなど滅多に踊れるものではないこと(爆笑)・スペイン人だからといって、誰でも彼でも闘牛を見るわけではないこと(また爆笑)※すかさず、日本人だからといって、もはや ちょん曲などしないし、まして切腹などしないことを話すと彼らも爆笑していた。。。・シエスタ(午後の長い昼寝)の習慣など、ごく限られた富裕層を除いて もはや存在しないこと・一方、一般的な昼食時間の概念は14時であり、夕食は21時や22時頃が多いこと 昼の12時頃の入店では遅い朝食として扱われる傾向すらあること 概して、高級店ほど夕食時間が遅くなる傾向があること―――――――――――――――――――――――――――等、しばし今の厳しい仕事の局面から離れて 短くも楽しい時間を過ごし、最後に『ホワイトCoffee』(エスプレッソに倍以上の量のホット・ミルクを注いだもの)を飲んで店を出た。。。■ そして、また仕事へ―――――――――――――昼食後、また すぐに厳しい局面の続く仕事へと戻った。つい先ほどまで談笑していた現地ブランチOfficeスタッフと技術面・ビジネス面で厳しいやりとりが再開し、さすがに精神的に疲れを感じたし、風邪の具合もよくなかった。。。この日もやはりOfficeには21時過ぎまで残り、映画の『TAXI』よろしくPEUGEOT(プジョー)のおんぼろTAXIに分乗して、40分程度かけて郊外のホテルへと戻った。。。周囲に何もない郊外のホテルに着くと、ホテル内のスパニッシュ・レストランで3名による食事となった(というか、それしか選択肢がなかった)。しかし、私とイギリスから来られている駐在の日本人の方は、今回の仕事にあまりに逃げ腰なフランスから来た取り纏めのOfficeスタッフに さすがに強いクレームを述べた。。。しかし、このフランス人、まるで温度と方向性が ずれまくった人で、子供じみた自己弁護に終始し、なんら建設的な意見を述べようともしないため、食事の場のムードは完全に悪化し、気分が悪くなってしまった。。。あまりの無しのつぶてに、日本のBackOfficeに向けてレポートを送った後、またも僅かとなってしまった睡眠時間を これまた泥のように眠った。。。
2005/01/27
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さて、夜が明けて スペイン滞在の実質初日の朝、ホテルで朝食をとって外に出ると、辺りには雪がうっすらと積もり、曇天の中 小雪が降っている状況だった。。。どうも ゆうべマドリッドに到着した際には雨すら降っていなかったのに、夜のうちにかなりの雪が降ったと見え、外気は極端に下がっている。。。出張前から騙し騙しきた風邪気味の体調不良と、これから相手にしなければならない仕事の内容と この憂鬱な曇天があいまって、気持ちも減退しがちである。。。(^_^;)(T_T)(T_T)とりあえず、滞在している郊外のホテルからマドリッドの中心地にタクシーで向かったが、間もなく高速を含めてひどい渋滞に巻き込まれた。。。どうもマドリッドへ向かうビジネスマンの多くはマイカーを使うらしく、その交通渋滞たるやひどい状況である。。。なんと、マドリッドの中心地にあるOfficeに着くのに1時間半もかかってしまった。普通の海外出張では 当然Officeまたは顧客先の近くに宿泊するのが普通だが、今回は例外中の例外。こんなにOfficeまで時間がかかるのでは話にならない。。。後で聞いた話によると、今マドリッドでは 国際的なツーリズムに関するカンファレンスが開かれていて、マドリッド中のホテルが このカンファレンスへの参加者であふれかえっているとのことだった。。。この日は結局9時半にブランチOfficeに到着し、それからすぐにブランチOfficeのスタッフを相手に技術ミーティングが開催された。今回の膨大なプレゼンテーション資料は結局ほとんど自分で作ることになったが、それを発表するのも これまた自分自身。結局、資料作成に莫大な時間がかかり、プレゼンの練習など全くできなかったが、技術的な内容は資料を作る過程で十分頭に入っていたことから、特に困ることもなく 思い切り内容を伝えることに注力して、あっという間に持ち時間の2時間を使いきった。。。その後、休みなく議論と戦略立案の場が続き、今回のシステム構築の対象となっている顧客を招き入れて議論が始まった。プレゼンタはイギリス人ゆえ 英語でプレゼンテーションが行われたが、お客さんには一度スペイン語に通訳され、誤解がないよう内容伝達された。ブランチOfficeのスタッフはスペイン人が中心であるため、議論の場はスペイン語で行われたが、専門的な内容になると我々に対して英語でコミュニケーションがとられる、といった形がとられた。。。一方、お客さんがいない場でのコミュニケーション言語は やはり英語であった。かくして、この日は事後ミーティングも含めて22時頃まで 本当にぶっ通しで様々な議論をし続けた。。。純粋な技術的議論とビジネス的な観点でのタフな議論が交差する中、時差ぼけと体調不良は確かにつらかったが、自分のスキルを上げていく過程としては、非常に有意義な経験を圧縮された時間の中ですることができたと思う。。。ホテルに帰るとぐったりだったが、BackOfficeの日本にむけて報告書をまとめて、風邪っぴきの体調の中、5時間弱の時間を泥のように眠った。。。
2005/01/26
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恒例となりましたが、今、このダイアリを成田空港のYahoo!Cafeから書いています。これからパリ経由のスペインへの突発的な出張に出かけてきます。本当に今回は急で、土日は勿論のこと、前日の夜中まで使用する資料の作りこみに追われ、帰宅すると午前1時すぎ。その後、大急ぎで出張準備をして、なんとあまりの急な出張にチケットの発券を待つことができないため、チケットは空港のInformationにて 自社の関連旅行会社の社員の方から受け取る、というどたばたぶり。。。そうしてヨーロッパ行き特有の午前便に飛び乗るといった状況です。あ~、どうしてドラマに出てくる海外出張のようにスマートにいかないのでしょうねぇ。。。旅なれてきたのはいいけれど、相変わらずのばたばたぶりです。 まぁ、現実の海外出張なんて そんなものでしょう。今回は 突発対応のため正規往復ビジネスとなったのが せめてもの救いです。行きの機内でせめても睡眠を確保しようと思います。サザンビーチ、行きま~す!==============================以下、詳細。。。■ 1/25(火) 出国まで――――――――――――――――――――― 成田エクスプレス経由で成田空港に1/25(火)の午前9時過ぎに着き、出発ロビーの一角で自社の系列会社の担当者からパリ経由スペイン行きのチケットを受け取った。何はともあれ、このばたばた続きの出張を前に、当日ではあるものの チケットを無事手にすることができてほっとする。。。続けて、JALの『SEASONSカウンタ(ビジネス用カウンタ)』でチェックインを済ませてから、両替カウンタに行き 約3万円ほどをユーロに交換した。スペインのかつての通貨はリラだったが、今はユーロが使われている。続けて出国手続きを終えて、恒例のYahoo!Cafeへと向かい、出発間際の状況を自分のHPのダイアリへと書きこんだ。その後、せっかくビジネス・チケットをもっているということもあって、JALの『さくらラウンジ』へと向かって、フレッシュジュースを飲んでしばしほっと息を着いた。しかし、この間も職場とは携帯で連絡を取り続けており、国外から自社のメールサーバにアクセスするための新しいシステムに関する手続きを進めていた。。。OZWさん、ご協力ありがとうございます!■ 1/25(火) パリでのトランジットまで――――――――――――――――――――― 日本を午前11時過ぎに出発するJAL便に乗って、およそ12時間経過してからパリのシャルル・ド・ゴール空港にトランジットのために降り立った。機内では初めて新型のシェル型シートのビジネス席を使うチャンスに恵まれた。これまでもビジネス席は何回となく使わせてもらっているが、このシェル型シートは確かに多種多彩な機能が使いやすく設計されていて感心させられた。特にSleepingポジションは ほぼ完全なフル・フラットにまで倒れるため、疲れない。また、全席の背面にセットされた個人用TV画面も10inchを超えて見やすくなっていて、こうした技術もずいぶんと進化しているのだな、と思った次第。。。ただし、上の速報にも書いているように、出発前の土日の休日出勤に加えて、前日はこれまた徹夜同然の状態だったため、食事は少々楽しんだものの、映画を見るでもなく、風邪をひく直前の体調でひたすら ひたすら睡眠におちていた。。。パリまで無事到着し、トランジット先のイベリア航空へのチェック・インもスムーズに済ませることができたのは何よりではあるが、何せ精神的に疲れる気の重い出張である。。。さて、本当に無事乗り切れるのだろうか。。。以上、パリ シャルル・ド・ゴール空港 イベリア航空待合スペースにて寒さに耐えつつ記す。■ 1/25(火) マドリッド到着まで―――――――――――――――――――――1/25(火)は結局パリでのトランジットの時間も含めると、トータル17時間程度をかけてマドリッドに着いたことになる。到着すると、マドリッドは既に現地時刻で夜の20時半頃になっていた。空港への着陸直前の空から見たマドリッドの街並みは、視界一面がオレンジの光に覆われた夜景で、その光が思いのほか どこまでも広がっていて なかなか美しいものであった。。。パリからマドリッドへは『イベリア航空』のA319(エアバス319)型というコミュータサイズの飛行機が使われた。おそらく乗員は150名程度の小ぶりな飛行機である。今回のチケットは 全行程ビジネス・クラスであるため、こうした小さな飛行機に対してもビジネス席が適用されるが、それは名ばかりのごくごく控えめなものであった。ただし、私の周囲に座っている人たちは いずれも仕立てのよいスーツを上手く着こなした まるで映画に出てきそうなハンサムな紳士やエグゼクティブばかりで、そんな点から文字通りビジネス・クラスを意識させられると共に、アメリカ西海岸便などのカジュアル一辺倒なそれとの違いを強く感じさせられた。空港に着くと、まもなく 今回の出張のためにイギリスからやってきた2人のブランチ・スタッフと落ち合うことができ、早速 空港の外で待つワンボックスのタクシーに乗って郊外のホテルへと高速を飛ばすことになった。ところで、今回非常に不思議に思ったことに、マドリッドに着いた際に入国手続きが一切なかったことが挙げられる。。。それが本当に本当に全くないのである。。。!飛行機を降りて移動用のバスに乗って、空港の建物の中に入ると もうそのまま空港を出ることができるのである!イギリスから合流した日本人の駐在スタッフによればヨーロッパのラテン系の国によくある話とのことで、ラフであると共に、トランジットであれ、一旦ヨーロッパに入ってしまえば個々の国でのチェックはかなり緩いということである。。。本当なのだろうか?こんなにラフでよいのだろうか?とにもかくにもホテルに向かうことになったが、これが思いのほか遠く、おまけにタクシーの運転手がホテルを見つけられず、高速を含めて散々道を行き来した結果、空港から何と裕に1時間以上も車に乗っている羽目になった。ホテルに着くと、既に夜の11時を回っていた。。。さて、さて、本当にいよいよ不安になってきた到着の日であった。。。
2005/01/25
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先日いきなり『あさってから!』なんて超特急で決定したヨーロッパはスペインへの海外出張だったが、諸々の準備で19日の予定だった出発日が1日延びて20日になり、その後、先方の急な予定変更で最終的にはキャンセルとなった。。。 (^_^;)(^_^;)(^_^;)しかし、その後も案件のくすぶりは何ら変わることなく続き、少し結果がまとまる1/25(火)に、大方の予想通り再トライアルということになった。。。この出張準備のために土日が買い物や諸々の準備のために使えると嬉しいのだが、実際はとんでもなく、こうした急場対応の際によくあるように、出張向けの資料作成等で むしろ普段の休日出勤時よりも遥かに忙しくなり、忙殺されたまま飛行機に乗り、ぐったりして機内熟睡というのが、現実のビジネスマンのノリである。。。(T_T)(T_T)今回は特にパリで1回のトランジットを挟むヨーロッパ行き、ということで本当に長いフライトとなり、超急場の案件対応ということもあり、部長さんからは『ビジネスのチケットでもいいから、案件対応して!』というお墨付きはもらっているのが 唯一の救いかもしれない。いずれにせよ、少なくとも案件の内容的に『オープン・エコノミー・チケット(往復の日程は一応決まっているものの 日程変更は自由/ここがPEXとの違い)』となるので、ビジネスへのアップグレードは狙えるかもしれない。。。それでは、次こそ成田からの書き込みとなるか? (^_^;)
2005/01/23
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少々きな臭い雰囲気を察してはいたものの、いきなり明後日からヨーロッパはスペインへの海外出張が決まった。当初は 出張が決まった翌々日に出発という超特急スケジュールだったが、諸々の事情から1日だけ出発が延びたが、急であることには変わりなく、対応におおわらわである。。。しかも、スペインはバルセロナやマドリッド等 大都市にも関わらず、JALやANAといった日本の航空会社を使った場合 成田からの直通便がないため、最短時間のパリを経由して、トランジットで入ることとなった。。。さてさて、またまた どうなることやら。。。(^_^;)どうも、最近 この時期になると にぎやかな海外出張(その1/その2/その3)に当るらしい。。。次の更新は 成田空港のInternet Cafeからかな。。。
2005/01/18
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『一昨日(1/15)のダイアリ』と『昨日(1/16)のダイアリ』に書いたような体験をする中で2日程度が経ち 各方面から様々な情報が入ってくるようになる一方で、それでも連絡がとれない人達がいた。。。勿論、激震や火災の中心におられた神戸の皆さんのことを考えれば、大阪の被害はまだまだ小さい方ではあったが、それでも私の住むあたりは震度6強を記録し、後の報道では震度7の声を聞くこともあり、大切な知人の皆さんの安否が気が気ではなかった。。。そうした1人に後輩や当時の彼女(今の妻ですが)も含まれていた。。。後輩の方はその後、すぐに無事が確認されたが、彼女の方は ニュースなどで さんざん報道されていたあの潰れた駅舎のある街に住んでいたため、被害の甚大さから益々心配が募っていた。。。この時点で まだ電話は不通のところが多かったのである。。。また同時に、その頃 彼女が住む街と隣接する街で やはりガス漏れがひどく、市中への立ち入り禁止が伝えられるなど、不安要素ばかりを聞く状況だった。しかし3日目だったろうか、ついに電話が通じ、彼女の無事を確認することができた。家の中は私の部屋よりもはるかにひどい状況になっていたようだが、ご家族が全員無事だったことに安堵したのを覚えている。。。しかし、実際には私の想像をはるかに超えて状況はひどいものだった。彼女の自宅のまさに目の前に高架の新幹線が通っているが、その高架が 彼女の家からわずか30m程度のところで落下しているというのだった。。。寝ていたからよく分からなかったものの、「何か爆撃でも受けたのだと思った。。。」というほど凄まじい衝撃があったという。。。いずれにせよ 無事助かったことに 数日前の深夜の電話での喧嘩など無かったようにほっとしたのを覚えている。一方、1週間が経つ頃、全く音沙汰がないのが、当時の研究室の技官さんのKさんであった。体は大きいが あまり丈夫ではなく、それでいて何でも機器まわりを直してくれ、いつも物事をちょっと斜めから見たニヒルなコメントで 最後には我々を助けてくれていた大のコンピュータ好きのKさんが 神戸在住なのは誰もが知っていた。。。当時、我々の学部の教授に悲報があったことからも、誰も口にしないものの、彼の悲報を考えてしまう雰囲気が 研究室にも漂っていたかもしれない。。。あのニヒルなスタンスの後に、決まって くったくのない笑顔でヘルプしてくれるKさんがいなくなるとは考えたくもなかったが、時間は容赦なく流れていった。ところが、ある日のこと教授のPCに妙な電子メールが届いた。。。1995年と言えば、今とはPCの通信事情は全く異なり、低速の構内LANはあったものの、一般の人が利用する回線は 光ファイバもADSLも存在しない、アナログ回線でのアクセスと相場が決まっていた。。。。そんな事情の中、届いたメールは 正確なところは もう記憶していないが、概ね以下のような内容だった。。。「K desu. Goshinpai wo okakeshimashitaga, bokuha nanntoka bujini ikiteimasu. jimotono hitotachi to chikara wo awasete gannbatte imasunode, shinpaishinai de kudasai. Shibaraku oyasumi wo itadaitekara daigaku ni ikimasu...」『Kです。ご心配をお掛けしましたが、 僕はなんとか無事に生きています。 地元の人達と力をあわせて 頑張っていますので、心配しないで下さい。 しばらくお休みを頂いてから、大学に 行きます。』このローマ字だけのたどたどしいメールを、震災からほぼ1週間が経ち、半分諦めかけていた日に研究室の教授やメンバと見た時の感動は今も決して忘れることができない。。。皆、最初はいぶかしんで読んでいたものの、その内容が彼の無事を伝えるものだと分かると、口々に「やったぁ!」と叫びながら、思わず涙を浮かべていたのが印象的である。。。後日、Kさん曰く、公衆電話の回線を使い、日本語フォントは どこで欠落・化けてるとも限らない、との危惧から 全てローマ字で送った、との彼らしいエピソードを聞いた。これで私の神戸大震災の体験談はおしまいです。神戸大震災のごくごく端っこを 少し体験した者として、こうしたお話が少しでも皆さんの防災意識に役立てば、と思い、10年経過を機に書いてみることにしました。。。大学院を修了して、私は関東に移りましたが、神戸復興の証しとして『ルミナリエ』を初めて見た日には、やはり涙が浮かびました。大変おこがましいのですが、震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りすると共に、震災を乗り切った皆様の神戸が今後 益々発展していくことをお祈りしています。
2005/01/17
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前回のダイアリにあるように、地震の直後に実家に無事な旨を連絡をしたまではよかったが、その尋常でない揺れに私の頭には次々と心配ごとが頭をよぎっていた。。。※ 私が体験した地震の規模やそのときの様子をお知りになりたい方は 1日前のダイアリへどうぞ。■ 周囲の状況確認――――――――――――――まずは、当面の電気や電話といったライフライン復旧のこと、食材確保のこと、多くの友人や知人の安否、近くのマンションの地下駐車場に置いてある車のこと、そして大学研究室 特に実験棟にある高真空装置や薬品室の被災による二次災害の心配などが次々に頭に浮かんでいた。。。そこで、めちゃくちゃになったワンルームマンションの部屋の中を歩けるように最低限 片付けてから 近くのマンション地下駐車場に停めてある車を見に行った。周囲のブロック等に若干の損傷はあるものの、幸いにして被害はゼロだったため 当面の移動手段は確保できたことになるが、周囲を見て壁面がごっそり剥がれ落ちてしまっている家などがあり、驚きを新たにした。。。1人暮らしの学生のため、食材の備蓄など多いはずもなく、徒歩で近くのコンビニに出かけたが、早朝にも関わらず、本当に多くの人達が寝巻き半分の姿で店内にあふれ返っていた。停電のため、当然ながら電池で稼動する電卓のみで会計が行われていたが、それでも あまりに多くの人による混乱に耐えられず、ついには販売休止に陥り、食材を調達することができなくなっていた。そのコンビニのすぐ前の幹線道路の信号は止まっていたものの、交通量が殆どないことを確認して、取り急ぎ自宅に戻り、どうにもこうにも心配な大学へと出かけることにした。(もっとも1人暮らしの私には、そのくらいしかすることがなかったのであるが。。。)理工系の修士学生の2年ともなると、大学は講義を受ける場ではなく、自分の実験・研究をする職場であり 家である感覚が強くなり、自分が長い時間をかけて組み上げ、メンテナンスしてきた実験装置類や研究室がどうにもこうにも気になるのだった。気になるというのは、単にそれらの無事だけではなく、それらが二次災害を起こしていないか? または起こすポテンシャルをもってはいないか?という意味を含んでいた。■ 大学での被害。。。――――――――――――――車を運転して大学へと向かう中、高架となっている幹線道路が継ぎ目と継ぎ目の間、丸ごと落下していたり、諸々の被害で渋滞する等はあったが、なんとか大学に到着することができた。しかし、所属する研究所の6Fに着いて唖然とする。。。廊下に沿って置かれていたスチールの重い本棚類はことごとく倒れ尽くし、薬品室からはあやしい煙が静かにシューシューと音を立てて流れ続けていた。。。倒れたスチール製の本棚の間をくぐったり、よじ登ったりして、なんとか教授室に着くと、見慣れた仲間が既に何人か集まっていた。その後 薬品室での化学反応を仲間うちで止めてから、研究所の屋上に上ると、救急車のサイレンや防災アナウンスがあちこちで流れているのが聞こえ、妙に胸がざわついたのを覚えている。。。そして、ふと西南の方向を見ると、まるで戦争映画の1シーンかのように、神戸方面に灰色とも黄色ともつかない異常な煙がいくつも立ち上っているのが見えた。。。この時点では 神戸があれほどまで悲惨な状況に直面しているとは知る由もなかったが、阪神高速の高架が信じられないことに倒壊してしまっているとか、大学のすぐそばの街が ガスの充満で市中立ち入り禁止になっていること等を 耳にしはじめていた。。。(勿論、10年前といえば、携帯電話など全く普及していない時代であり、こうした情報の伝達にもある程度タイムラグがあることを強調しておきたい。)続けて、研究所の裏手にある実験棟に向かったが、これがまた目を疑いたくなるような状況だった。実験棟はさらに裏手に位置するキャンパス内の沼沿いに建っていたせいか、地盤がゆるいと見えて 実験棟脇にあった小高い丘は、丸ごと沼側にスライドして落ち込んでしまっていた。後日、この実験棟の真下に、断層が走っていたことを知った。。。実験棟の重いスチール製の扉を開けると、いきなり そこには やはりスチール製の重い本棚が重なりあって倒れている光景があった。。。そしてもっと驚いたのは、他の学科・専攻が使う フライス盤やボール盤といったコンクリートの床に太い脚ごと埋め込まれた工作機械群が のきなみコンクリートの床をめくれ上がらせて、もげていたことである。。。その方向が不気味なことに、一様にそろっていることで地震の横揺れの方向性を知ることができた。この時点で、更に奥に位置する自分の実験スペースの様子を考えるのが一層不安になったが、意を決して進んでいった。私の使っていたMBE(分子線エピタキシ)装置は、高真空のチャンバーの中で 分子レベルで薄膜を生成する装置だったが、その高真空を実現するには 予めチャンバーの中を高圧の窒素で満たすことが必要であった。このため、常に装置周辺には高圧の窒素ガス充填用のボンベが並んでいた。私としては、その高圧ガス環境がどうなっているかが心配だったのである。実験室に入るなり、想像以上に驚くべき光景が広がっていた。。。果たして、その窒素が入った小型ボンベは ことごとく床に倒れており、ボンベとMBEの真空チャンバーを結ぶステンレス製の細い吸気・排気用の配管は いずれも飴のように ぐにゃぐにゃに曲がっていた。。。一体、どういう方向にどういう力が働くと、こうした状態になるのかは知る由もなかったが、ボンベの栓は常に開いた状態で、一定の圧力が配管にはかかっているため、身の危険を感じながらも、脂汗を浮かべながら元栓を閉めに回ったのだった。。。この続きは次のダイアリ(阪神大震災回顧録は次回で最終回)にて。。。
2005/01/16
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この1/17で神戸大震災から10年が経つ。当時 私は某国立大学の大学院生として大阪で1人暮らしをしていた。あの明け方の大地震は決して忘れることのできない印象として今も強く記憶に焼きついている。10年の経過を機に、そのときの様子を書いてみようと思う。災害に対する意識の高揚に少しでも役立てて頂ければ 幸いである。■ 地震発生直前の予兆。。。?―――――――――――――――――――1月も半ばとなると、M2学生(博士課程前期=修士学生の最後の年)にとっては、修士論文や検証実験の追い込み時期であり、私にとっても それは例外でなく、日々帰宅が真夜中に至る状況だった。その日、大震災が起こったのが明け方の5:46だが、帰宅したのは その何時間か前の夜中0時過ぎ。その後、当時の彼女(今の嫁さんだが)と 何故こんなに連絡がとれないのか、とか就職後の付き合いはどう考えているのか、といったことを巡ってしばし 1時半頃まで電話で喧嘩をしていたのを覚えている。その後、少々辟易してやっと睡眠。。。一度眠ると目覚まし時計が鳴るまで決して起きることのない私だが、この日はなぜか明け方の地震が起きる1~2分前に、ふと目を覚ました。自分でも「何故だろう?」と思い、西側の窓を見ると、カーテンの隙間からまだ真っ暗な空がふわっと青白く淡く発光していた。。。日が昇る方向とは丁度逆なので、不思議に思ったことをよく記憶している。しかし、これが震災後に神戸の皆さんが口にしていた「震災前の発光」なのか否かは確かめるすべもない。今考えれば、大規模地震の直前に発生する地中のエネルギーの放出がプラズマ発光化することの例なのかもしれないが、今の科学ではこの真偽も定かではない。■ 巨大な揺れの恐怖―――――――――――――――――――この1~2分後、カタカタッと突然 小物がいくつも振動し始め、「おやっ?」と思うや否や、ド・ド・ドンッ!とひどく突き上げる大きな縦揺れがやってきた。(大阪は 東京や神奈川などと違って地震の少ない場所であり、震度2~3の地震があった翌日など大学でもかなり話題となるほどである。)瞬時に「まさか、これは大地震?」と思ったが、その直後、今度は極端に大きな横揺れが襲ってきた。べッドに横になっていたが、この横揺れで鉄筋のワンルームマンションの天井が 対角方向に大きくメシッ!!と嫌な音を立ててきしんだのが分かった。同時に ワインのボトルや花瓶、調味料類が次々にガシャン、ガシャン音を立てて落下しては割れ、冷蔵庫の中身までが次々に飛び出し、置いてあるTVまでもが落下し、瞬時に部屋はめちゃくちゃになった。。。一方 ベッドは横揺れで大きく振られ、ベッドと平行した壁から瞬時に40~50cmも離れてしまったのを記憶している。あまりの大きな横揺れの中、今にも落下しそうなTVを押さえようとしたが、上体を起こして立ち上がろうとしたところ、まるでスフィンクスのような姿勢でベッド上で倒れこみ、ベッドごと床を大きくスライドしたときには、さすがに『生き埋め』か『死』を覚悟した。長い横揺れに なすがままになりつつも、火災や停電を恐れていたところ、思った通り、揺れの最中 暗い中でも停電に陥ったのを悟った。停電による漠然とした恐怖を感じつつ、散々、部屋がめちゃくちゃになった後、やっと揺れがおさまった。。。なんとか怪我をすることもなかったのは良かったが、しばし呆然としてしまった。周囲の部屋も あまりの恐怖からか、シ~ンと静まりかえったままであり、カーテンをおそるおそる開けてみると停電のため、真っ暗な街並みがどこまでも広がっていた。■ とりあえず、無事を伝える。。。―――――――――――――――――――その直後に思ったのは、こんなことだった。。。『普段、地震のない大阪でこんな巨大が地震が起こるということは考えにくい。ひょっとして震源は東京や神奈川といった関東だろうか、それとも この揺れの大きさからして比較的近い名古屋だろうか。。。。。。とすると、日本はとんでもないことになっているのかもしれない。神奈川の家族は大丈夫だろうか。。。?』これが紛れも無い最初の漠然とした印象だった。電気とは別のライフラインである電話は使えるのではないか?と思い、電話をとったところ、この時点で電話は まだ通じていた。。。すかさず、神奈川に住む家族に電話をしたところ、眠そうな母親が電話に出て ほっとする。。。【私】:「無事なんだね?? よかったぁ。こちらはとんでもないことが起こっているようなんだ。TVのニュースでも見てもらえない? すごい地震が起こっていると思うんだけど?」(NHKかどこかで、地震の第1報が簡単に字幕で報じられた模様で)【母】:「あら、大きな地震があったのかしら。。。?」【私】:「そうなんだ。。。とにかく僕は無事だからね。。。生きているから。。。」【母】:「あなた 朝から何を言っているの。。。?」【私】:「とにかく僕は無事だから。。。後で分かるよ。」【母】:「あら、そう。。。 とにかく生きているのね、分かったわ。。。」これで電話を切った。。。実は、この簡単な無事だけを伝える電話が 親をはじめ家族や親戚を安心させることになったのだそうだ。この後、同じ1人暮らしの大学の有人のことが心配になり、、電話をした後、電話は何日にも渡って不通となったのは皆さんご存知の通り。。。この続きは次のダイアリにて。。。
2005/01/15
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年始の嵐のような日が まだ続いている。。。(^_^;) 先週の金曜日、つまり1/7に大幅に体調を崩して ひどい熱と腹痛に見舞われたが、早めに大事にしたところ、1/8(土)の午後までに かなり回復したため、気になる開発プロジェクトの推進状況をチェックするため、いつも通り土曜日に休日出勤したのが悪かった。。。海外で長引いていた某案件の状況が いよいよまずいとのことで、火消しのために体調不良の私に容赦なくお鉢が回ってきたのだった。案件にどっぷり浸かって本腰で取り組まなければならない状況によって、病み上がりにも至らない体調で、夜3時までOfficeに詰めることとなってしまった。長丁場になることは必至だったため、翌日のシフトを組んで、部長を含めた関係者を1/9(日)に召集した。。。この日も、休日にも関わらず帰宅は20時を超える。。。そして3連休の最終日1/10(月)も、この案件に関する週明けの海外との電話会議に向け、資料を急ピッチで作成するため、あっさり3連続の休日出勤が必要となってしまった。。。(T_T)(T_T)ここで さすがに気分的には滅入ったが、最終的には なんとか案件処理を形にすることができて、しばし充実感を覚える。。。こうした陰で 申し訳なく、同時に感謝すべきは 3連休の出勤に関して何一つ文句を言わず、十分理解を示しながらサポートに徹してくれた妻の存在である。 素直にありがとう、とお礼を言いたい。正直なところ、年末年始の度重なる休日出勤に加えて 今回の3連休を全チャラしてしまったことをさすがに済まなく思っている。。。。というのも、妻はこの3連休のうち(最低1日は出勤するだろうことは見越していたものの)1日から2日は一緒に過ごしてから、もしくは せめて外食くらいはしてから、元々予定した長期帰省をするつもりだったためである。。。これでは全くのすれ違いだなぁ。。。(^_^;)それでも不在中の準備を万端にしていってくれているのに素直に敬服する。ありがとう。妻よ、戻ってきたら、必ず埋め合わせはするから許してね。(^_^;) m(__)m
2005/01/10
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大変遅ればせながら、新年初めてのダイアリとなります。そこで、皆さんあけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。実は 昨年暮れから今年の正月にかけて、実家を含めて我が家は大変なことに見舞われていた。妹が昨年の暮れに体調を崩し、新年早々入院と手術を経験することになったのを始め(妹よ頑張れ!)、非常に近い身内が暮れも押し迫った日に交通事故に遭うなど(こちらも頑張って!)、実家に帰省する前に散々な状況を聞かされていた。。。■ それでは 我が家は。。。―――――――――――――――我が家自体には こうした事態は発生していないものの、1/2に自宅マンションに帰ってみると、なんと和室の部屋の押入れの中 壁面に、(米国の悪夢よろしく)水が滲み出ているのを発見する! (>___
2005/01/08
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