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大阪の自動車整備専門学校「ホンダ学園」に通っていた息子が我が家に帰ってきた。JAFの支部が地元に決まったためである。この支部での「整備部門」での採用は何と18年ぶりだという。直属の上司も「久々の新卒採用、待っていたよ!」と言ってくれたらしい。管区内での異動はあるにしろ、とりあえず地元でのスタートは、親としてとても安心である。東京での1か月の研修が終わり、5月からいよいよ現場での勤務が始まる。とにかく学び続けること、素直に感謝の気持ちを表すこと。「赤となる シグナル多き道程を 子よ急ぐなかれ 旅ははるけし」。私が母親に送られた歌を、改めて息子に贈りたい。
2017.05.06
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日々教育現場に発生する問題。子どもの不登校、問題行動の頻発、教育相談活動や生徒指導に追われる教員、背景にある保護者の虐待や貧困等々。これから教員の大量退職が始まる。すでに本校では約40人の教員のうち、20代が10名近くいるのと同様、50代もまた10名近く、いびつな年齢構成となっている。数年後には50代は極端に減少し、20代の教員が半数を占めることになるだろう。若返るだけではクリアできない諸問題を誰が受け止め、どう解決に導くのか。私は各地域に「教育問題研究所」といった独自の機関を立ち上げ、本音で諸問題に向き合う教員や保護者を支援すべきだと考える。行政の息のかかった機関では、教員も保護者も本音を語ることなく、むしろ多忙に拍車をかけるだけで終わる。私はそのような研究所を立ち上げたいと思う。一人からでもはじめようと思う。
2016.05.21
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マスコミ関係の皆さま「子どもと貧困」の問題は、教育現場の切実な課題です。学力との強い相関もあり、貧困は連鎖しています。それは「全国学力・学習状況調査」でも明らかにされましたが、学力の国際比較や各自治体間の競争の道具と化し、貧困の解消にむけた学力の向上、就労保障への具体的施策には至っていません。また、この問題は「特性」や「発達障がい」との関連もあり、授業以外にSCやLD等専門員、SSWや児相との連携など、現場の教員の仕事は増える一方ですが、人員配置はほとんど改善しておらず、毎日午後9時10時まで働き続けています。このような現場の過酷な実態を取り上げ、継続的に報道していただくことで、施策に反映されることを願っています。蛇足ではありますが、このような現状を東京都知事はどう考えているのか、聞きたいものです。政治資金の運用に関して、すべての政治家への厳しい眼差しが必要だと思います。
2016.05.20
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私は公立学校の教員です。1、仕事でしか使わない採点用のソフトペンや赤インク等、各種筆記用具を自費で購入しています。2、図画工作・美術指導のための教材研究に必要な画材も当然自費です。3、出張旅費も事前の仮支給ではエコノミークラスの通常運賃ですが、仮に「早期予約」で航空運賃が安くなれば、その分、清算し返金します。4、泊を伴う場合、ツアー会社を経由し、ホテルとパックにすることで、極力旅費が安くなるよう工夫しています。仮にビジネスクラスしか空席がない場合あるいは料 金の高いホテルしか予約できない場合、規定以上の部分は自腹です。5、宿泊費のうち、ホテル代が朝食込みの料金の場合、申告し、朝食分は差し引かれます。「旅費」では ないからです。 私は、地方の教員ですが、東京都の教員も、都の職員もほぼ同様だと思います。血税を使い、国民に奉仕する公務員であれば当然です。 しかも公務員へのまなざしが厳しくなるにつれ、監査も厳しくなり、公私の線引きが厳格になる一方です。経済情勢が好転せず、税収が伸びないからです。 それに私は、年に一度も出張のない職場で毎日額に汗して働き、年に一度も家族旅行ができないそれどころか給食費さえ支払えず、高校進学、大学進学をあきらめざるをえない教え子や保護者を大勢知っています。貧困は連鎖し、格差は広がっています。 舛添さん、公用車を使用しての毎週末の温泉、随伴者を大勢引き連れてのファーストクラスを利用したお殿様のような海外視察、国際交流と称した画材購入、会議と称した家族旅行・・・市民感覚とずれ過ぎではありませんか? 公私があいまいなものについてはすべて清算したうえで、今後は都民の立場に立ち切り、都知事としての職務を全うすると言っていただきたいのですが、いかがでしょうか。
2016.05.16
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この春から地元の大学に進学。日々講義で学んだことを話してくれる。県外だったらこんな時間は持てなかっただろう。自動車学校にも通い始めた。今日はバイトもある。サークルはまだ決まっていないようだが、「星空を見たい」と、天文同好会をのぞいてみたらしい。昔の私は、心底県外の大学に行きたかったが、経済的理由で断念。長女は一応納得しての地元進学だが、退職が近い私の懐具合を考えてくれたのだろう。
2016.05.03
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ホンダテクニカルカレッジに学ぶ長男も早や4回生。地元のホンダに就職するものと思い込んでいたものの、ある日「JAFに行きたい」とポロリ。困っている人を助けたいというのが動機らしい。確かに警察官になりたいと言っていた時期もあったと思い直す。すでに面接を終え、内定をもらう。ありがたいことだが、相変わらずマイペースで、自分の意思を最大限生かそうとするところが、何というか…。いずれにしても一級整備士の国家試験は相当難関らしいから、気を引き締めて学んでほしい。
2016.04.16
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「ホンダテクニカルカレッジ関西」という自動車整備士の専門学校に進学予定の長男が、自動車学校に通い始めました。大好きな車が運転できるというだけに、生き生きしています。「勉強」に関してはあまり前向きになれなかった長男も、「水を得た魚」のよう。「トラックの運転手になる。トラックの運転手になって、父ちゃんと母ちゃんを乗せてあげる。遠くに連れてってあげる」と3歳ころから言っていたことを思い出します。いわゆる4年制大学で哲学とか社会学とか学んでほしいと考えていた私ですが、即戦力、腕一本で「技術屋」として生きていこうというのならそれもいいか、と考え直しています。4年制の一級整備士養成課程です。早くも県立図書館で「シリンダーの構造」といった本を借りて予習していました。学生生活を楽しみながら、知識と技術を極めてほしいと思っています。
2013.01.29
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本当に久しぶりのアップです。1年ぶりです。今年長男は大阪の専門学校に進学することになりました。長女は高校入学予定です。受験生として日々努力しているようです。次男は小学校高学年の仲間入り。元旦はこの次男と一緒に年賀状を買いにぶらぶら歩いて行きました。コンビニ2件にふられ、3件目でようやく購入。ついでに神社に初詣。おみくじを引くと二人とも「末吉」。気を引き締めて過ごそうと思います。今年もよろしくお願いします。
2013.01.02
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9日の土曜日、おいの結婚式が大阪であり、家族みんなが招待されたため、ついでにUSJすぐ近くのホテルに泊まり、翌日朝一番で遊びに行きました。長男(高2)は3回目、長女(中2)は2回目でしたが、私たち夫婦と次男(小3)は初めてだったため、上の子どもたちに案内してもらいました。効率よく回ることができ、夕方まで思いっきり楽しみました。次男も大喜び。ぐったり疲れていましたが、巨大なクリスマスツリーがきらきら輝いて、気分は最高でした。帰宅を急ぐ人にもまれながらゲートを出る時、次男が「もう、旅行って、最高だね」と大きな声で言うものだから、周りの女性にも聞こえたらしく、「かわいいこと、言うねえ!」と言われてしまいました。結婚式のお祝いを含め、大変な出費だったため、これからは緊縮財政ですが、とっても楽しいひとときが過ごせました。
2011.12.17
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中学校の学級対抗合唱コンクールが終わった。学年1位を狙っていた娘のクラスは敗れた。「優秀賞」を受賞したのはほかのクラスだった。結果発表の後、学級に帰って担任ともども涙を流したと報告しながら娘は号泣。総練習の結果が1位だっただけに、相当悔しかったようだ。私自身、娘はがんばったと思うが、「伴奏賞」もほかのクラスの手に渡った。翌日「来年も出たいな」とつぶやいた。復活が早い。リベンジしたいと思うまで回復したようだ。とりあえず、長い長い闘いは終わった。
2011.11.01
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芸術の秋、というわけで、今日は中2の娘の中学校文化祭当日。実は例年学年・学級対抗の合唱コンクールがこの中学校のメイン。娘はそのコンクールで「ピアノ伴奏」という大役に抜擢された。といっても事情は複雑。娘よりかなりうまい生徒たちが「個人的なコンクールがある」「合唱曲の練習に時間は割けない」と言った理由で辞退した結果娘にまわってきたという・・。「これって、どうなん??」正直わたしはむっとしたが、娘には「せっかくのチャンス。きっちり演奏し、クラスを優勝に導くべし!!」と激励、2ヶ月以上練習を続けてきた。我が家にはピアノはなく、いただき物の電子ピアノがあるだけ。週一のピアノレッスンだけがプロによるアドバイスがもらえるチャンス。でも、精一杯がんばってきた、と思う。しかし努力だけではむなしい。結果が出せることを期待しつつ応援に行こうと思う。
2011.10.29
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この夏休み、免許更新講習を受講した。民主党政権にかわり、一時期廃止の動きもあったが、教師の指導力低下を憂う国民の声がその動きを封じ込めたのであろうか、10年に一度の更新講習義務付けが継続されている。この講習は、地元大学での受講が原則。合計30時間の履修が義務付けられている。内容としては、必修が12時間(2日間)と選択が18時間(3日間)となっており、1講座6時間の合計5講座受講する必要がある。悔しいのは、1講座につき6000円、合計3万円もの受講料を支払わなければならない点。やむをえず他県で受講となれば、旅費・宿泊費は自己負担となる。必修12時間は、本学では「教育最新事情」と銘打って、新指導要領の解説、特別支援教育の基礎、そして東北大震災を受けての危機管理といった内容であった。選択18時間、私の場合、「社会学」「論理学」「国語科教育」の3講座を希望した。夏休みにすべて受講したいということで、開催期日が最優先で、内容は2番目であった。正直、必修の中で「新指導要領」と「特別支援教育」はいらないなと思った。現場は大学の先生以上に切実感と必要感を持って研修を仕組んでおり、講義の内容はそれを超えるレベルではなかった。危機管理については受講者がグループになって学校の立地条件等を設定し、シミュレーションしながら教師はどう動くべきか演習形式で学んだ。これはかなり有意義であった。社会学では社会を構造的にとらえる視点を、論理学では形式と記号でものごとを分析し、人工言語で思考する視点を学んだ。国語科教育では、教材開発論に学んだ。選択講座は、必修以上に成果はあった。しかしどれもこれも中途半端。たった一日で学ぶには無理があった。この免許更新講習はこれからも継続されるのだろうか。教師は現場で育てられる。大学を否定しているわけではない。私自身、10年前、現場実践の壁にぶち当たり、自ら大学院の門をたたいた。その経験からも、大学における学びは個々の強いニーズがあってこそ生かされると考える。唯一実践的だったのは国語科教育論であるが、これは現場実践の中でも十分学べる。そのような機会はあふれている。大学で学ぶ意味はなんだったのか、免許更新講習を終えて、改めて考えている。
2011.08.28
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8月4日(木)東海放送「ぴーかんテレビ」で、岩手県産ひとめぼれ10kg当選者として「怪しいお米」「汚染されたお米」「セシウムさん」等のとんでもない表現が字幕テロップで流れた事件。実は原発事故以来、私は「風評被害に負けるな」という気持ちで、ネットを通じて、宮城県産のお米を購入していた。気にならなかったわけではないが、昨年度収穫のお米だし、適正に管理されているというし、ちゃんと放射性物質が含まれていないことを検証しているし・・と思い、あえて購入してきた。しかし妻は7月末くらいから「本当に大丈夫なんかなあ・・。政府もあまり信用できないし」と不安をもらしていた。何しろウランに換算して広島型原発20個分と聞けば、尋常じゃないと思う。被災地から何百キロも離れている地元大手のホームセンターから腐葉土が撤去された。汚染されていたというのである。牛の全頭検査も始まる。汚染されたわらが問題となったからだ。「じゃあ、とりあえず続けて購入するというのはやめようか」と話し合っていたとき、東海放送のテロップ問題が浮上、「やっぱりな」というのが初めの感想であった。むろん、今回問題となったテロップが担当する50代の男性スタッフにより「ふざけた気持ち」で作成され、放送前日をタイムキーパー(以下TK)が確認、その場で訂正を依頼したのに、「訂正の依頼」と認識せず、そのまま放置したことは許されがたい行為であり、認識と行動の浅はかさが悲しい。しかし、京都で用いられるはずだった東北県産の薪が安全基準をクリアしているにもかかわらず地元住民の反対によって中止されるといった報道に接すると、問題の深刻さが浮かび上がる。いまだかつて経験したことのない放射性物質による被害は、とどまることをしらず、無知が拍車をかける。「ぴーかんテレビ」は休止され、コンプライアンス意識と管理体制の再検証が進められるそうだが、問題の本質はそこにはない。なぜなら、担当者は多くの人が感じている不安を言葉にしてしまったということであり、「管理」することで押さえ込んでも問題は解決しないからである。検証番組を放送する予定だとのこと。「失った信頼を回復するため」には、あまりに不勉強で無知だった私たちでもわかる放射能被害の現実を伝えていただき、安全基準が将来にわたって、本当に安全と言いきれるのかという不安を解消していくということが必要だと思う。あわせて、日本のエネルギー問題について誰もが関心を持ち、現実的な選択をしていくということが求められているのだと思う。
2011.08.08
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いつもより早起きしてテレビに釘付け。前半なども襲いかかる強烈なシュート。そのたびに心臓が止まりそうになるが、何とか持ちこたえて後半。強烈なアメリカの先制点に、もはやこれまで、あと1点か2点追加されて終わりか・・と意気消沈しているときに神業とも言える右足のキックで同点!これは奇跡が起こるかもしれない、もしかしたらPKか・・。と思った瞬間、またまた突き刺さるようなアメリカの追加点。でも今度は追いつけるかもと声援を送り続けたその時、やはり神業とも思えるヘディングで再び同点に。もう泣きそうになった。そして迎えたPK。なぜか日本が勝利できるのではないかと感じていた。これまでの試合の流れと、世界一を守り続けなければならないアメリカ勢へのプレッシャー、挑戦者日本の驚異的な集中力。アメリカの1本目を右足でしのいだキーパー。反して日本の1本目は緩やかにゴールに吸い込まれる。この時点で勝利を確信した。(ずいぶん勝手だけど・・・)「あきらめない」この言葉が翌日の新聞に踊ったが、本当に、素直にそう思った。テレビの前で何度もあきらめそうになった自分自身。日常の中で自分はどう行動しているのか、振り返る機会を与えてくれた。3連休の間考え続けた研究推進計画。ゴーサインが出るかどうか今日の協議にかかっている。プレッシャーがかかるけど、新たな挑戦をしてみよう。「ダメだし」でもあきらめないぞ・・。
2011.07.19
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転勤して2ヶ月以上経過した。来年度の研究発表をふまえて、研究主任としての提案を何度かしてきたが、我ながら説得力に欠ける提案で、空しい。というのは、「本校の課題」が実感を伴って把握できていないからだと、最近強く思うようになった。前任校は、日々子どもや親と格闘していた。少し気を抜くと、一気に崩れる危険性をはらんでいた。全教職員が一丸となって向かい、さまざまな課題を克服してきた。現任校の第一印象は「おだやか」。すれ違いざまに会釈をしてくれる高学年、親しそうに、でも節度を持って声をかけてくる低学年。日々の実践に熱心な教師集団・・。確かに担任している2年生は「やんちゃ」が多く、最近ようやく落ち着いてきたが、出会った時点の「やんちゃ度」自体が前任校の比ではない。研究というのは、二つのアプローチがあると考えている。一つは自校の課題を明確にしつつ、解決に向けて理論と実践を結び付けていくこと、一つは、学習指導要領などに代表される教育会全体がめざしている方向性について自校の実態に照らし合わせながら検証していくこと。自校スタートの、現実的・実践的なアプローチと、文科省などの提案がスタートの、検証型アプローチと・・・。結局この二つのアプローチは行きつ戻りつしながら合流していくもので、何より「自校の課題」が明らかにされなければ意味を持たないものである。研究の構想を練るときの発想の仕方に少し違いがあるだけだと考えている。そんな中で、最近ようやく見えてきた本校の課題は「たくましさの欠如」と「顕著な格差」。大変素直で、体育館での全校朝会など、整然と並び、大きな声で校歌が歌える。しかし目に見えない「抑圧」を感じることがある。「評価されること」を意識している姿といってもいいかもしれない。「いい子」であることが正しくて、いつもそうであることを期待されていて、その期待に応えようといったふるまい。一方で、自ら動いて「獲得してくる」というような「たくましさ」が欠けていると感じる。今ある自分をもっと高めようとか、新たなことにチャレンジしようとか、そういった前向きで勢いのある空気。それが少し足りないのかも・・。そして学力や生活習慣などに見られる「格差」の問題。全体としては大変安定した家庭環境で、教育熱心な地域性がありながら、夕食を一人でとったり、崩壊しそうな家庭の中で不安な日々を過ごしている子どもがいる。しかし声は上げられない。ごく少数派に属するからか。これらの課題は「全国学力・学習状況調査」にも現れている。「質問紙」では大変良好な回答が大多数を占めており、肯定的回答が市や県、全国平均をかなり上回っている。地域行事に積極的に参加するなど「ふるさと」を大切にし、あいさつを積極的にし、勉強時間もしっかり確保。にもかかわらず国語・算数の正答率は全国並みで市や県を下回る。原因は「二極化」現象と上位の伸び悩みといったところ。来週研究主題について改めて提案し、本校の研究の方向性を確認する予定である。自主自立、たくましく未来を切り拓こうという意欲を持った子ども、家庭的に厳しい状況にあっても、乗り越えようとする子ども。そんな子どもを育てるための学級経営や教科指導のあり方を研究していこう。
2011.06.25
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母が亡くなって誰もいなくなった実家。まあ、1年以上前から入院生活を送っていた母だから、すでに空っぽ状態が続いていたわけだが、いよいよ本当に誰もいなくなった。きょうだい4人。でも地元にいるのは私と姉だけ。姉は実家から40Km以上離れた田舎に嫁ぎ、私はほんの近くに今の家を建てて別居していた。自然な流れで「管理」は私がしていこうと思うが、「相続」となると、きょうだいといえども「遺産」となるため、公平な分配をしなければならない。というわけで、まずは不動産業者に査定してもらい、現在の実質的な価値が価格となって知らされた。実家を売却して現金を分配するという案も出たが、やはり親戚一同が寄れる家を残したいという思いは共通。さて、どうするか。悩みの種はもう一つ、妻の実家がある。妻の姉である長女が母親と同居していたが、母親が亡くなり、自分も離婚という展開で徐々に生活が乱れ、10年前、とうとうゴミ屋敷にして住めなくした上、ぷいと出て行ってしまった。近所の刺すような視線を感じながら、今日まで少しずつ私たち夫婦で片づけしてきたが、何しろ我が家から40Kmも離れた田舎にあるこの実家、往復だけでかなり時間を要し、効率が悪い。同じ町内のアパートに住んでいる長女は何度連絡しても自分の出したゴミも始末しようとはせず、知らん顔・・今年、私は決意した。妻にとっては、母親が女で一つで苦労して建ててくれた実家だけに残したいという思いが強い。50代半ばで亡くなってしまった母親を誰よりも大切に思い、献身的に看病していた姿を、私は見ている。次女ではあるが、この実家を相続することにした。となれば、長女・三女と話し合おう・・。さすがに長女は「遺産放棄」を申し出てくれた。が、後々揉め事になることを避けたいと考えた私は、不動産業者を通して実勢価格をはじき出し、三分の一ずつ平等に相続することにした。ただし、ゴミ屋敷の修復をプロの業者に依頼し、全額長女に負担させることに。これは当然であろう。しかし実質的には自分の生活で手一杯の長女に支払い能力がないため、相続すべき遺産から差し引くということで交渉が成立。実際には長女の手元には何も渡らない結果となりそうである。しかし業者への支払いは私がしなければならず、先日半額を前金として支払ったが、あと半分も近々準備しなければならない。運動会の振替で休みの今日、金策に走る予定であるが、「お金がない」・・・。三女には現金で支払うことにより、土地家屋に関する相続権を放棄してもらうことになった。この現金をいつ、どのように準備しようか・・・。というわけで、私の実家と妻の実家両方を相続することになりそうな今、きょうだいに支払うべき「お金がない」というのが、現実的な悩みである。高2、中2、小3の子どもの学費もこれから膨らむ一方というのも現実。さて、どうしよう・・。
2011.06.06
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母が亡くなった。86歳だった。4人きょうだいの末っ子の私はやっぱり甘えん坊だった。わがまま言って父に怒られると、いつもかばってくれた。小学校1年生まで日曜日の朝だけ母の布団にもぐりこみ、おっぱいをねだった。病気がちの父、頑固な父。ワンマンな父。苦労続きの人生であった。しかし子育てがひと段落すると車好きの父に付き合ってあちこちドライブしていた。沖縄やら東京やら方々に旅行に出かけていた。趣味は短歌だった。地元の短歌会に所属しいつもペンを離さなかった。就職したての私に詠んでくれた歌、「赤となる シグナル多き道程を 子よ急ぐなかれ 旅は遥けし」事あるごとに私は口ずさんでいた。にもかかわらず私はいつも走り続けていたような気がする。色紙に短歌を書き、ちょこっと絵を添え始めた。だんだん夢中になっていつのまにか趣味の中心は水彩画になっていった。絵の先生のことを心から尊敬していた。友達づきあいが好きで大正琴も習い始めたが、こちらは長続きしなかった。晩年、認知症の進行によるものだろう。何に対しても興味を失っていった。あんなに好きだった短歌も絵も「ボケ予防に」と勧めても、「めんどくさい・・」と向かおうとしなくなった。特に父が亡くなってからというもの気力は失せ、食欲がひどく落ちた。認知症が進行し、疑心暗鬼に陥り、母を責め続けた父を文句一つ言わず介護し続けた母。その張りが一気になくなったからであろうか。あんなに苦労をさせられ続けた父であったのに、すべてをゆだねる昔ながらの母だった。子孫が認識できなくなる直前「ばあちゃんは幸せだった。父ちゃんはいろんなところに連れて行ってくれたし、4人の子どもは立派になったし、孫もこんなにできたし。ありがとうね・・」と言ってくれたこと。昨晩通夜、今日午前11時自宅出棺、午後1時30分から葬祭センターで葬儀、2時30分出棺、3時には「骨」になってしまう母。覚悟をしていたとはいえ、「その時」がくるのが辛い。さようなら、かあちゃん。
2011.05.13
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T君とは駅前広場で再会した。そのときに同席していたのは3人。「親友」のH君、同級生のA君、O君である。心配になったのは、T君ではなく、むしろこの3人であった。中学校時代の「荒れ」についてたびたび耳にしていたが、小学校の教師としての関わりは難しかった。この3人がN中学校の「ワースト3」だと生徒指導から聞かされていた。勉強がからっきしダメで学校は苦痛の場でしかなかった。学校の教師にも逆らったが、むしろ学校から逃げ出し、家にも帰らず、たまり場を求めて徘徊していた。3人ともいちおう受験はした。しかし県立高校も私立高校もすべてアウト。学力だけなら拾ってくれる高校もあったが、あまりの素行の悪さが受け入れ拒否の理由となった。H君はそれでも夜間にすべりこみ、昼間は左官をしている。A君は高校をあきらめ、鉄筋工をしている。問題はO君。働く気も何もなく、ぷー太朗を続けている。お母さんとは何度も話をしてきた。悩みの種だった。H君はまだ高校にひっかかったため、ちょっぴり「高校生らしい」格好をしていたが、A君とO君はぶっ飛んでいた。髪も服装も。でも・・・話をすると小学校時代のまま・・。敬語だってちゃんと使える。見た目で判断してしまう大人の一人が私自身だった。気がつくと、再会したT君より、むしろA君とC君に近況や将来の展望を聞く私がいた。なにしろT君は温かい家庭に引き取られ、全日制の普通科高校にまじめに通っているのだから。途中、朝から酒が離せない酔っ払いの中年二人に絡まれたが、私が間に入るまでもなく、少年たちはうまくあしらっていた。T君と話していたとき、C君が警官二人を連れて戻ってきた。駅前の交番に通報したらしい。「酔っ払いに絡まれて困っています」とかなんとか言ったらしく、確かに酔っ払っている中年は、警官に説教され、しょんぼりしていた。何度も警察のお世話になってきたというH君、そのたびにT君の居場所を尋ねていたという。心に何か満たされない空洞がある3人。T君よりも心配になった。私にできることは限られているが、T君とともに、連絡を取り合おうと思う。
2011.05.08
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ずっと以前、2009年の初め頃から数回に分けてアップした、教員30年の私にとって最も衝撃だった出会いと別れのレポート。3年、4年と2年間担任したその男の子T君と再会した。今高校1年生。彼の父親は、内縁の妻を殺害し、遺棄した罪で刑務所に収監され、数年後に亡くなった。酒の飲みすぎで、肝臓を患っていた。その後T君は、1年生の妹とともに県内の児童養護施設で過ごすことになり、転校していった。元担任の私にも所在は明かにされなかった。今回の出会いのきっかけを作ってくれたのは、彼の親友とも言うべきH君。彼は中学時代ずっと荒れていた。担任ではなかったが、何度か母親に相談され、話をしてきた。その中で彼の心の傷となっていたのがT君との突然の別れであった。荒れると母に叫んだという。T君に会わせろ!困った母は私にT君の居場所を教えてほしいと言った。しかし私には何の情報もない。確かに県内児童養護施設は数箇所しかなく、探せないこともなかったが、今会わせることはお互いにとって良くないとの判断もあった。そして今年転勤。ばたばたしている私のところへその母親から電話が入る。T君の居場所がわかり、今度息子に会いに帰ってくるというのだ。今いるところは県内ではあるが、100Kmほど離れていた。担任だった私にも会いたいという。そして昨日、わずかな時間であったがH君とともにT君と再会。ちょっぴり太っていたT君はすっと背が伸び、好青年になっていた。敬語だってちゃんと使える。あれからしばらくして、事情あって大阪に一時期いたが、自分を引き取ってくれる人が見つかり、地元に帰ることになる。それから猛勉強して希望する高校に入ったという。それは、県内でもまずまずの偏差値がなければ入れない高校だった。はにかみながら、優しくからるその口調は、引っ込み時間で、何にも自信がなさそうなその当時の面影そのままだった。彼とは連絡先を交換し合った。別れたあと、早速メールが入った。「今日は来てくださって、ありがとうございました。またメールします」。予想だにしなかった再会。私にまで会いたいといってくれたことが無性にうれしい。時期を考え、彼の心情を思いながら少しずつ父親のことを語ろうと思う。彼の父親はひどいやつだった。でも、いつでもT君のことを大切に思っていた。私に対するクレームは、目に入れても痛くないといった「バカ親」だからこそのものばかりだった。一人も身寄りのない彼にとって、犯罪者であっても父親は父親。記憶をたどり、編みなおし、未来に進むことがとても大切な時期に入ったと思う。
2011.05.04
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娘は今年中学2年生。中学1年のときは、4クラスとも荒れ、授業不成立の状態が続いていた。特に、1年生のときは同じ学級ではなかったA君、荒れの核となって意図的に教師に逆らい、嫌がらせを続けていた。配られたプリントを飛行機にして飛ばしたり、破って紙ふぶきにしたり、教師の質問に「わかりませーん」と叫んだり・・・。何度も親が呼び出されるが、一向に改善せず、保護者からは「学校を追放してほしい」という意見まで出始めていた。そして迎えた2年生、学級編成替え。我が娘と同じクラスになったと聞いて、正直一瞬ひるんだ。私が勤務していた小学校の出身であり、A君のために心が折れた6年担任の代わりに私が授業を受け持っていた。しかしその間、A君には何の問題も発生せず、無事卒業させたが、中学校ではまた荒れ始めていたのだ。仮担任をしながら、悪いやつではない、見てほしい、かまってほしいだけなのだ、と感じていた。人の気持ちがわかりにくい特性も感じていた。適切な対応が必要だった。人の話に割り込んでくることが多かったが、決して無視してはならない。後でというのもよくない。いったん話を引き受け、ゆるやかに後で聞いてやるからと諭す、そういった配慮が必要な生徒だった。しかしそれにしても、中学校での様子を聞くたびにこの子は通常の状態に戻ってこれるのだろうかと、娘はこの子のいる荒れた教室で耐えられるのだろうかと、心配になった。しかし学校は担任団を一新した。いわるゆ力量があると言われていた男性教師を担任とし、すべての担任を入れ替えた。中学校では3年間、編成替えしながら進級していくが、学年団のメ担任メンバーを総入れ替えすることはまずないことである。娘は新学期以来、毎日のようにその先生の言葉を私に伝えた。一言一言に心を動かされているのが、手にとるようにわかった。「お前らが1年生のころの様子、3年担任だったが、許せんと思っていた。殴ってやろうかと思ったこともあった」これが第一声。「しかし私は殴らない。担任として責任もってお前らを育てる」 この言葉に娘は痛く感動したようだ。言葉は荒い。しかしその真剣さがずんと心に響いたようだ。同時に娘はA君のことを語るようになった。「あのA君がまじめに聞いていたんだよ。何でだろう・・」その男性教師は、自分を語った。委員会や係り決定の話し合いは短時間で。学級長に誰も立候補しなかったとき言ったそうだ。「私が立候補を募ったとき、誰も手をあげなかった。しかし顔を上げていたものが何人かいた。名前を呼ぶから立ってくれ。さあ、お前たちの中で、この重要な役をやってやろうという人間はいないか?」しばしの沈黙の後、B君が「ぼくがやります」と言って決定。 それからは、先生の人生が語られたという。自分の責任において行動を決定し、結果についても責任を取ること、学級の揉め事は全員の力で解決していくこと、進路を切り開くことについて真剣に考えていくことなど、自らの人生と重ねながら熱く語ったというそしてあのA君も真剣に聞いていたというのだ。それだけではない。トイレ掃除など一度もしたことのないA君が率先して役を果たしていたらしい。それを担任は見逃さず、全員の前で「A、お前を見直したぞ」と一言。それをうれしそうに語る娘の姿がうれしかった。毎日の帰宅後や、夕食時、夕食後など学校でのこと、特に担任の語ったことについて私に伝え、意見を求めるようになってきた。中2になり、自らの人生のあり方も考え始めた娘が、真剣に全身で向き合ってくれる先生に出会った。「みんなまじめに、静かに授業を受けてるんだよ。信じられない!!」昨年度まで喧騒の中で一心にノートをとっていた娘。生徒の暴言に傷つけられる先生に、傷ついていた娘の悲しそうな顔。今の晴れやかな顔がうれしい。担任以外の先生の授業も成立し始めている。学級崩壊や授業不成立にはさまざまな要因がからみ、隠されているが、あらためて一人の教師の力量、というよりも「人間そのもの」に状況を変革していく力があるのだとあらためて思い知らされた。組織の問題もある。学校長が代わり、生徒手帳という「校則」が廃止され、かわりに「生活ノート」がつくられた。日々生徒と担任が交換する生活ノートには、以前の生徒手帳以上の「校則」というより約束事がきめ細かく記載されている。形骸化していた生徒手帳をなくす代わりに日常的に生徒自身の行動のありようを見ていくという作戦への変更だ。担任のきめ細かさや適切な対応が求められるようになった。あの大きなマスクをし、授業中にガムを食べたり、トイレでタバコを吸ったりする行為が見られなくなった。今学校全体が変わり始めていることに、何ともいえない感慨を覚えている。授業不成立にうんざりしていた参観日、保護者でありながら、関係者としてあまりの態度に、注意さえしたこともある参観日。今年はにこやかに参加できそうで、今から楽しみである。
2011.04.12
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4月1日朝、初出勤直後校長室に呼ばれ、「2年生担任と研究主任を頼む」と言われた。2年生にはやんちゃが多く、4クラスの大所帯、学年主任としてまとめてほしいということ、加えて研究主任として来年度の研究発表大会に向けた研究を推進してほしいということだった。本音のところ、新しい学校でも2年間の教務経験を生かしたかったがここは校内事情を勘案した上での校内人事、「がんばります」と答えて退室した。「快諾いただいて安心しました」と校長・・・。そうだろう。教頭二次試験を通過し、名簿に登載されて二年が過ぎた。本年度、同級生の何人かが教頭に昇格していった。来年度昇格しなければ「賞味期限切れ」である。また二次試験(面接のみだが)を受けなければならない。担任から教頭昇格はあまり前例がなく、そういった意味でも「教務」としての仕事は次の段階への布石となるものであった。それだけに、校内人事で教務を命じなかったことに対し、「申し訳ない」と言う気持ちが校長にはあったと思われる。しかし教務は私より年長者で3年目になるベテランだから、当然といえば当然の校内人事。年を重ね、経験を重ねるにつれ、自分の教育理念を基にした学校運営がしたくなるものだ。自分はいつまでも現役の担任、と考えていたが、少しずつ心境の変化が訪れていた。でも、2年生って何度担任しても愉快。学校に慣れ、ギャングエイジになっていく狭間で、何でも吸収してくれる。勉強のおもしろさがわかり、学習習慣を身につけるのにも大切な一年間だ。担任の力量が子どもの将来を分ける、ともいえる。やりがいという面で、第一希望にしていた学年だったこともあり、校長の配慮に感謝した。とはいえ、子どもたちとその保護者は未知数。同学年を組むことになった1年生のときの学年主任は「なかなか、大変な学年です。何と言いますか・・」といいにくそうなところをあれこれ、根掘り葉掘り聞き出し、大体の様子は把握できた。でもでも、前任校の1年生もたいへんだったから、あんな感じかな、という程度である。さっそく名簿を作成しながら子どもたちとの出会いをイメージトレーニングしている。研究主任としては「学級経営」に関する基本的な考え方と具体的な取り組みについて提案する予定。何だかそわそわして早起きし、仕事をし続けたため、もう眠くなった。いくつになっても、新しい学校、新しい出会いは緊張する。明日は金魚の水槽を持って学校に行こうと思う。「うるおいある環境作り」のスタートをきらなくちゃ・・・。
2011.04.02
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29日夜、送別会に招いていただいた。教員になって30年。最初の10年はバスケットの指導と専門である国語科の実践研究に燃えた。バリバリの20代であった。次の10年は「部落差別の現実」に出会い、同和教育の推進に燃えた。怒りに突き動かされた30代であった。そして40代に入ったあたりで現在の学校に転勤。希望通りの異動でありがたいと思った。動機は「同和教育で学んだことを同和地区を有していない学校で生かすこと」であった。連続13年間も「有地区校」に勤務していたから、意を決しての異動希望であった。当時から本校はさまざま教育課題を抱えていることを他校にいながら聞いていた。それは保護者の生活課題によるものであった。だからこそ、教育の建て直しに少しでも寄与したいという気概を持っての転勤であった。しかし自己の内部で大きな変化が起きていた。燃え尽き症候群とでもいえる状況であった。教職について20年間、夢中で走り続けた。少しペースダウンしなければ壊れてしまうという警告だったのか。理由はさまざまだった。同和教育から人権教育へという時代の流れに了解しながらも、「何もしなくても人権教育」という風潮に、そして部落問題をなかったことにしようとする勢力の台頭に苛立ちを覚えていた。いとこが自殺した。3人の幼い娘を残して。なぜ死を選んだのか、直前に会っていながら、なぜ気づけなかったのか。生きることにどんな意味があるのか・・。さまざまな出来事が内部で矛盾を起こし、やる気を喪失させていった。もう学校をやめなければ、生きていけない・・。そこまで追い込まれていた。しかしそんな私を9年間も、見守り育ててくれる地域があった。保護者や先生方があった。そして子どもたちとの出会いが私に元気をくれた。特別支援教育のありようが、私の中核になっていった。特別支援教育を特別ではない教育へ。これが命題であった。なぜなら、教師はプロだから。特性をしっかり理解し、適切な手立てを考える、これは当たり前のことで、特別のことではない。めまいや吐き気を覚えながらも、1日の欠勤もなく通い続けられたのは奇跡であった。終わりの2年間は教務という立場で学力向上、進路保障を核とした学校改革に直接携わることもできた。強烈なリーダーシップを発揮する校長が原動力となった。校長は「現実を見据えること、現実から学ぶこと、一歩も引かず、前向きに実践し続けること、すべての子どもの進路を保障すること、それが公立校の責務だ」と檄を飛ばした。私はその教育理念に共感し、教育実践として具体化していくつなぎ役に徹した。学校は目に見えて変わっていった。先生みんなが元気になり、子どもたちが明るくなり、成績が全国トップクラスまで伸びた。9年前の挫折感、無気力感を思い出すと今も胸が苦しくなるが、今日まで何とかやってこれた。明日から新しい学校に変わる。児童数は本校より多い580名と聞いている。この学校も希望したとおりである。ありがたい人事だと思うが、9年前の無気力感が悪夢のように思い出され少し怖い。自分の中の変化に気をつけながら新しい環境に溶け込んでいけたらと思う。まだ校内分掌は発表になっておらず、どきどきわくわくといった感じで明日を待っている。下町にあり、大規模で混沌とした状況は現任校と似ている。私を支え、見守り、育ててくれたことに感謝しつつ、新しい学校でも力を発揮したいと思う。
2011.03.30
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今月初め、自宅駐車場から左折で勢いよく出発したら、左側のコンクリートブロックに後方激突、後ろのドアからタイヤホール?のあたりまでがりがりとこすってしまった。右側にあったミニバイクをよけ、もう大丈夫だと思い込んだのが運の尽き。右ばかり気をつけていたので、左の内輪差を忘れていたのだ!かなり深い傷で、見積もりしてもらったら何と10万円。今年は夏タイヤを交換しようと考えていたので、予算が足りない。思案し続け、結局自分で修理する決意をした。車大好きの高1の息子の反対を押し切って。購入してもう5年経っているということも決意の裏にはある。新車ではないから・・・。でも息子はこの車を磨くのが大好きで、今日まで新車のようにピカピカに保ってくれていた。それで反対したのだ。「父さんにできるわけない」と・・。まず修理キットを1万円強で購入、特にスプレーはインターネットで特注し、色を合わせた。ここからは「修理マニュアル」に忠実に修理・塗装を行う。第1工程は「打ち出し」。金づちでタイヤホールのあたりのへこんだところを打ち出し、なるべくもとの形状に近づける。第2工程として、粗めのペーパーで地金が見えるまでこする。第3工程は「パテの厚塗」。へこんだり傷ついたりしたところを埋め、元の形状に近づける。第4工程は、完全に乾燥させたのち、こすること。この作業が大変だった。このパテのにおい、プラモデルに似てるなあ・・。子どもの頃夢中になったことを思い出す。そんなことを考えながら、ひたすら腕一本でこする。耐水ペーパーなので、水をつけながらこする。高1の息子と交代しながら、徐々に細め、極細とペーパーを変えていき、滑らかになるまでこする。ようやく、色こそ違うが、ぶつかる前とほぼ同じところまでたどり着く。第5工程は「うす塗りパテ」で、細かい気泡が発生したところを埋め、乾燥の後、極細のペーパーで、つるつるに仕上げる。第6工程は油成分を飛ばすスプレーで下準備。定着を確実にするためだ。第6工程は「プラサフ」といわれる、灰色下地の吹き付け。この前準備として、広めにマスキングすることが成功のコツ、とマニュアルに書いてあったので、忠実に。余計なところにスプレーの飛まつが飛んでいくのを防ぐためだ。第7工程は、液体状のコンパウンドでこすること。プラサフの乾燥を待ち、マスキングをはずして、つるっつるのすべすべになるまで、元のボディーとパテの境目が全くわからなくなるまで、ひたすらこする。形状が完璧になったらもう一度油成分を飛ばし、またまた広めにマスキングをしていよいよスプレー噴射。しかし「プロの技」として紹介されていた「ぼかし剤」スプレーを周りに噴射しておく。こうすることで、スプレーの細かい粉末が滑らかに定着するらしい。これが第8工程。ぬめっとした新車のような仕上がりが期待できるという。1分経ったらいよいよ第9工程の色塗りスプレー。約30センチ離し、1秒間に30センチ程度のスピードで移動させながら噴射する。ああ、またプラモデルに夢中になった子どもの頃を思い出した。マスキングされたところから噴射を初め、ボディーに入っていくのが、ムラなく仕上げるコツ、と書いてある。そういえばそうだったなあ・・。一度に厚塗りしないことも重要なポイント。塗ったところは10分程度乾燥させ、重ね塗りしていく。でもこの時間が待てない。ついつい塗ってしまう。子どもの頃と同じように・・そうこうするうちに、何層かの色塗りが終わり、元通りの色でプラサフが覆われる。乾燥しないうちに先ほどのぼかし剤を境目に。「スプレーダスト」といわれる、細かい飛まつ、粒を滑らかにしてくれるスプレーを噴射。これが第10工程。最初にも塗った例のスプレーだ。10分ほど乾燥させたら、第11工程の仕上げ、「クリアスプレー」噴射。色の表面をクリアの皮膜で覆うことで、光沢を取り戻そうというわけだ。まあ、ニス塗りみたいなものか。ここまでの工程を2週間かけて仕上げた。まあ、週末しかできないからだが、結構楽しんだ。完全に乾くまで1週間。最終的に、コンパウンドで磨き上げていく作業が残っているが、今日は雨。来週の週末完成をめざそう。10万円浮かせるために、がんばるぞ。
2011.03.21
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昨日は雪が降り続け、20センチは積もっただろうか。冷え込む体育館での最後の練習。被災者の寒さを想像しながら・・。2年生、3年生と担任した子どもたちがいよいよ卒業。私自身も転勤の内示があった。9年間もお世話になったこの学校ともお別れ。うまく司会進行できるだろうか。いろんな思いが複雑に入り混じり、説明できない感慨・・。とにかく泣き出して司会できなくなることなどないよう、気を引き締めていこう。でも自信ないなあ。何せ去年もやんちゃな6年生のりりしい姿を見て、思わず涙し、最後の最後、言葉に詰まってしまったからなあ・・。今日の予報はかろうじて晴れ。足元びちょびちょだから、見送りのルートも変更になるだろう。73名、みんな元気で出席できますように。
2011.03.17
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昨日、姉が病院訪問、その場で治療を依頼、介護病棟から治療病棟に今日午前11時に移動することになった。そんな説明を受けた後、母に会う。目も口も開いたまま、痰がのどに絡み、呼吸のたびに大きな音を立てる。しかし苦しそうな表情さえできない。目はうつろで、中空をただよう。ただただ、息をしている。やせ細った腕や足には、点滴による大きなあざのようなものができている。皮膚は筋肉から離れているような感触で、さすってもさすっても、体のぬくもりは伝えられないし、伝わってこない。姉の選択はやむを得なかっただろう。私もあきらめ切れないし、奇跡の回復が期待されるかもしれない。でも、本当に生きているってどういう状態をいうのだろう。直接血管にカテーテルをつなぎ、栄養剤を直接注入して生きるエネルギーを供給し続ける・・。子どもの私が言うのもなんだが、とっても美しかった母はこんな姿をみせること、望んでいただろうか。しっかり話し合っておくべきだった。私自身に関して、妻や子どもに話している。「いろうは必要なし。口から食べられなくなったら、死を覚悟する。点滴も治療上最小限。薬なら仕方ないけど、延命治療としての栄養剤の点滴はいらないし、長期治療のあと、もし呼吸停止しても、人工呼吸器はつけなくていい。心臓マッサージも必要ない。むろん、人工的な心臓はいらない。それが自分の寿命だと思うから。こんなこと、母のことがなければ具体的に話せなかっただろう。最近「遺書を書こう」と考えるようになった。子どもや妻で見解が統一できないとき、治療方針についても具体的に書いておいたほうがいいなと、真剣に思っている。海外に住んでいる兄は「お前に任せるが、急変に驚いている」とメールしてきた。急変じゃないんだけどなあ・・・。ゆるやかに、紙に向かっている母の状況をこまめに知らせなかったからなあ・・。県外に住んでいる兄からは返信なし。きっと仕事が忙しいんだろう。まあ、きょうだいといえども、その人生はさまざまで、考え方もばらばら、当然といえば当然。母のそばにいる姉と私で決めていこうと思う。特に身近で下の世話もしてきた姉の考えに従おうと思う。それが自分の寿命だと思うから」やむを得ないときだけで、母のように日常的に必要となれば、
2011.03.15
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もう1年以上入院し、介護病棟でお世話になっている実母。14日の月曜日、緊急に主治医に呼び出され、母の状況とこれからについて説明を受けた。口からの栄養補給ができなくなり、直接胃に管を通して栄養剤絵お注入していたのだが、多分尿を排出する管からばい菌が入ったためか、熱が上がり、肺炎になってしまった。その後熱が下がらず、体力も落ちてきているため、「いろう」による栄養剤さえ逆流しはじめ、気管に入り込むことによる「嚥下性肺炎」になる恐れあり。そのため今度は点滴をしようとするが、点滴の針が入らない。今はどうにかこうにか血管を見つけて細々と点滴しているが、継続は難しい状態。これ以上の医療行為をするには、3階に降りる医療病棟に行く必要があり、その場合は、皮膚を開いて、直接点滴の管を血管につなぐということになるそうだ。しかしこの場合も、そこから雑菌が入り込み、重篤な状態になるかもしれない。その場合は、体力が落ちているため、積極的な治療は、もうない、とのこと。端的に言えば、どこまでの治療、つまり延命治療を望むのか、何と、今日までに教えてという、あまりに唐突で無理な話・・・。看護師をしている姉に連絡。「このままあきらめたくない」と言い、今日姉が病院に電話することになった。海外と県外に住む兄にも連絡した。姉の気持ちは痛いほどわかる。でも、ほとんど意識もなく、やせ細っていく母を見てきた。「いろう」は母にとって厳しい選択だったようだ。点滴もできない。でも、血管に直接注入する延命治療、本当に必要があるのか。むしろ母がかわいそうな気もしている。自分で食べることもできず、点滴だけでつながれる命、「生きている」というのは、どういう状態をいうのか。やせ細って死んでいくまでの時間が伸びるだけ、そんな気もする。優しく、やんちゃな私をいつでも私を守ってくれた母を思うと、苦しくなる。私はどう考え、行動したらいいのだろう。
2011.03.14
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想像を絶する事態、時間の経過とともに増える死者、行方不明者、避難者・・。地震発生のメカニズムがわかっていても防ぎようのない自然災害、そして状況を最悪にする「人災」その一つが「福島原発」事故である。クリーンエネルギーの第一人者として全世界で見直され始め、スリーマイル島の原発事故以降、30年間も封印してきたアメリカも最近では開発に積極的だったという。ヨーロッパも同様だ。唯一の被爆国日本の中でもさまざまな反対意見がありながらも、資源がない国だけに、最も安価で効率のよいエネルギー源として認可されてきた。遅々としてすすまない、代替エネルギー開発。国民一人一人に呼びかけられた「節電」と計画的停電。しかし今、根本的にエネルギー問題に向き合わなければ、とんでもない事態に発展しそうで・・。いろんな小説で「原発事故」を想定した近未来を想像するとこわくなる。やはり人間は踏み込んではならない領域に踏み込んでしまったのではないかと考え込んでしまう。今日から本格的な卒業式練習。校長先生に、子どもたちの不安解消のメッセージをお願いしようと思う。そうでなければ、卒業式練習どころではないと、私自身が思う。そして6年生の「社会科論文」も出来上がったところで、今度のことについて語り合おうと思う。「私たちに何ができるか」これが今日のテーマになりそうである。私自身がしっかり考えておかなくては。
2011.03.13
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昨日、卒業式の役割分担のことで図書館司書と衝突してしまった。職員会で提案したときは、勤務時間外なのでその司書はいなかった。翌日自分が式当日「接待係」になっていることに気づき、「学校主事さん(現業の方)も入れてください。私は日ごろ接待に関わっていないので、わかりませんから」と、紋切り型で主張。いきなりのその言い方にかちんときた私は、「主事さんは、玄関周りの清掃とか雑用がたくさんあります。だから、事務の先生と二人で校長室に来られる来賓の接待、お願いしたのです。よろしくお願いします」ときっぱり。でも司書は食い下がる。「本来の業務と違います。主事さんとやらせてください。やらないとは言ってないです」ここで本当なら「わかりました。」というところだが、日ごろの不満もたまっていた私は大人気なく言い切った。「先ほど言いましたが、主事さんは当日雑務がいっぱいです。二人でできると思います。何とか提案どおりしてください」「以前の主事さんが男性だったから接待から抜けているだけじゃないですか?」今度は提案そのものを疑っているような言い方。頭にきた私は、「そのときは確かに駐車場係していただきました。ではあなたが、駐車場係されますか?」すると今度は「私は女ですから、駐車場係はできません」ときた。何言ってるんだか、わけがわからない。「だから、接待してください!」図書館司書の仕事ではないことは重々承知している。しかし卒業式当日は「手一杯」なのだ。まさに全職員体制で協力し合わなければできない。このようなトラブルを「業際トラブル」という。職務と職務の間の業務があった場合、特に校務分掌にのっていないような業務をいったい誰がするんだという話。みんなが自分の職務のみに専念したら、学校は運営できない。お互いが気を配り、支えあってこその学校。しかも勤務時間外のお願いではないのだから、ここは素直に受け入れるべきだし、わからなければ、事前に相談すればいいだけのこと。大体日ごろから「割り切りすぎ」のその司書、私は実は今年図書館にほとんど行っていない。「人柄」といっては何だが、行く気にならないのだ。教材研究の際、昨年度まではよく相談に行っていた。しかし今年は一度も相談していない。本来の業務でさえ、満足にしていないじゃないか!参観日のちょっとした子どもの世話もせず、さっさと帰っていくその司書。まあ、勤務時間外だから仕方ないけどね、お願いしますぐらい言って帰ったらどうだ!!それに来校者が出入りするドアの正面に座っていながら、対応もせず、顔も上げずに自分の仕事としてるじゃないか。失礼な態度だろう。なぜ一番遠くにいる事務や教頭や私が走っていって対応しなければならないんだ!!ふざけるな。心の中でそう叫びながら「では、卒業式の練習があるので、失礼!」と言って私は体育館に急いだ。何だか気分悪いし、職員室の雰囲気を悪くしてしまった。ああ、もうじき年度が終わると言うのに、大人気ない対応をしてしまった。主事さんを接待係に加えるだけで済んだ話なのに、日ごろの鬱憤をぶつけてしまった私・・・。情けない一日だった。
2011.03.10
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表彰式に参加した。おとなりは「最優秀賞」獲得の小学校長。副賞は10万円。本校は「優秀賞」なので半額の5万円。今度受賞論文が冊子になるので、じっくり検討してみよう。「最優秀賞」めざして来年度再挑戦するか・・・個人研究の部門もあるので、今から考えてみよう。予定通り近場の温泉でゆっくり過ごす。家に帰ったらぐったり。つい先ほどまでうとうとしていたので、この1週間の疲れが取れた気がする。
2011.03.05
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今日、50キロくらい離れた町で表彰式がある。3年間の教育改革についてまとめた教育論文が「優秀賞」を獲得したため。主催は教育公務員弘済会。校長に「応募してみない?」と薦められ、昨年夏休みに執筆し、応募した。残念ながら全国に進めなかった。県の代表論文に選考されれば、何と50万円もの現金がもらえる。ひそかにねらってたんだけど、やっぱりムリだったか・・。それでも今回5万円の賞金がもらえる。もちろん学校代表で執筆したので、私の懐に入ることはない。50万円なら学校備品などの整備に使おうと思っていたが、5万円なので、ちょっと中途半端。思案中である。まあ、その表彰式会場は県内でも大きな温泉街にある。せっかく遠出するので、温泉につかってゆっくりしてから家に帰ろうと思う。それにしても口内炎は痛かった。まだ痛みは続いているが、少しずつ痛みは和らいでいる。温泉で疲れがとれれば治るかも。
2011.03.05
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学年末を迎え、何かと忙しい。授業や生徒指導、成績処理というよりも、やはり報告文書の山にうんざり・・。確かに検証は必要だ。しかし文科省・県教委・市教委がそれぞれにそれぞれの課題について各学校の状況がどうであったかきめ細かく報告を求める。背景に「教育予算」があり「議会答弁」の資料集めという側面がある。公立校として当然ではあるが、報告のための報告と思える内容もあり、正直気持ちが向かない。「学校評価」もその一つ。教育関連法規の改正により、「開かれた学校」をめざし、義務付けられた。学校関係者評価に加え、第3者による評価も必要で、それぞれに評価委員会を作り、意見を募り、データにまとめ、公表していく義務が課せられている。繰り返すが、PDCAサイクルを否定するつもりはない。プランし、実行し、チェックし、新たなアクションを起こす、このサイクルは学校教育の質向上に欠かせない。しかし、である。評価の精度を上げるために、年々緻密になっていく。緻密になればなるほど、アンケート作成や集計、統計処理などの事務量が増大する。これが「評価のための評価」になる恐れがあるのである。それよりも今は、子どもに向き合いたい。次年度の進級を控え、放課後指導も含め、ていねいに接していきたい。報告文書は最低限にしてもらうことにより、そんな時間を生み出したい。そのために、市民・県民・国民学校への信頼を勝ち取ること、これが一番効き目がある。学校が何をしているか、不信感が強まれば強まるほど、市や県への直訴が増え、「どうなってるんだ」ということでさまざまな項目について、学校への報告義務が増大する。信頼を得るためには、実績を上げ、実績を上げたことを情報として発信することが必要、それはがんばっている。しかし県教委や市教委から「貴校はどのように情報発信に努めましたか」と問われ、詳細なデータをもとに報告しなければならないのである。ああ、隘路だ・・・今、私は口内炎に苦しんでいる。疲れがたまったのだろうか・・。痛みが強すぎて、食事がのどを通らない。ダイエットにはいいが、卒業式まで体が持つかどうか・・・
2011.03.02
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早いもので、6年生の卒業まで1ヶ月を切った。来週から卒業式練習が始まる。社会科を担当して、最後の提案は「社会科研究論文を書こう」。今まで学んだことを振り返り、これからの世界・日本のあり方を考える。レポートに挑戦したことはあるが、「論文」という形式への挑戦は初めてである。私自身、小学校から高校まで論文に挑戦した経験はない。しかし小学校であっても例えば筑波大附属小や玉川学園・成城学園など「中央の」子どもたちは何らかのテーマで卒業論文に取り組み、完成させて卒業している。片田舎にあるわが小学校の児童にも可能なはず・・。というわけで、まずは論文のテーマを考えていった。私の経験から・・・大学で国語を専攻し、児童文学にはまっていた私は、宮澤賢治論か新美南吉論に取り組もうと考えていた。しかし先行文献が多すぎて時間不足、そこで「戦争児童文学」というあまり知られていないジャンルに挑戦しようと考えた。研究室にはいくつかの先行論文があったが、人と違う視点をと考えたわたしは「戦争児童文学の可能性~加害者の視点~」というテーマで取り組むことにした。若かったなあ・・。それまでの戦争児童文学はヒロシマ・ナガサキ・東京大空襲・疎開など被害国ニッポンの視点で描かれたものが圧倒的多数を占めていた。当然だろう。相手は子ども、筆者の多くは戦争時代を子どもで過ごした人。自らの体験をもとにすれば、当然そうなるし、文学的価値も高まる。しかしそれだけで「戦争」は伝えられるのか??そう考えたわたしは「加害者としてのニッポン」の視点から切り込んだ児童文学を探した。なかなか見つからないが、ないわけではなかった。まあ、200冊に1冊あるかないか、それ以下だったと思う。それらを検討しつつ、加害の視点の可能性と限界について論じていった。青臭い論の展開には冷や汗が出るが、それでも原稿用紙300枚近く書いたか・・。結論的には「文学としての完成度は不十分、体験が未消化のままぶつけられたものが多い。ドキュメントとしての迫力はあるが、文学として昇華しておらず、普遍化しにくい」として、限界説を唱えた。さて、子どもたちにそんな話をしながらテーマを考えようと呼びかけた。ポイントはサブテーマにある、サブテーマで個性を出す、というものだった。昨日交流した。主だったものを挙げると・・「世界の平和を実現するために~自由と平等の視点から~」「戦争はなぜ起こるのか~戦争の火種・被害・その後~」「偉人の生き方に学ぶ~そこから未来を考える~」「世界と日本の関わり~領土問題を中心に~」「殺されていく生物たち~乱獲の被害~」「国民にできること~坂本龍馬とこれからの世界~」「考えて!日本の未来~わたしたちにできること~」「福祉を支える人々~高齢者の問題を中心に~」「なぜ若者は政治に無関心なのか~若者の政治参加を求めて~」「どうなる?これからの日本~環境の視点から~」「これからの世界を考える~ツバルから学ぶこと~」「核兵器を使う理由~被害から考える~」「戦争をする意味とは何か~イラク戦争とアメリカ~」保護者のアドバイスもあったか、その子その子の心に引っかかった学びと諸課題解決の視点が見えてくる。しかし何せ2週間で仕上げなければならない。社会科の時間はわずか6時間。家庭学習ももとより、私自身が今参考文献にあたっている。資料集めと読み込むことが論文の基本であり、最も大切なポイントだが、今回はそのあたりはかなり手伝って、自分の考えをまとめていく時間を確保したいと思う。もちろん、資料は教科書と資料集だけでもいいと言っている。これからの2週間が楽しみだ。
2011.02.26
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研究の成果を発表する機会をいただいた。少人数の研修会だったが、互いに悩みを出し合い、知恵を出し合うアットホームな雰囲気の中での有意義な研修会であった。どの学校の先生も、真摯に子どもたちの現実に向き合い、打開案を探り、実践していこうとする意欲に満ちていた。明日もがんばろう、そう思えた。
2011.02.14
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年度末を控え、なんだかあわただしくなってきた。学校評議員会や、保護者全体会のための1年を振り返るプレゼン作成、全国学力・学習状況調査の分析と課題整理、来年度に向けた具体的取り組みの報告、通信書や指導要録の準備などなど・・。なかなか計画通りに進まず、遅れ遅れで青息吐息の毎日である。
2011.02.14
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またまた寒波がやってきた。雪が積もりそうな気配だけど、しかたない。ゆったり落ち着いた時間を過ごし、英気を養う。雪をプラスに変えたい。
2011.02.12
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まさに忍耐の日々である。1年生Y君との日々。朝の登校が久々にスムーズに行ったと思っても、「体育館に行きたくない」「給食は校長室で食べる」「掃除はしたくない」こんな発言と行動が繰り返される。でも、学校なんだからと、その発言のすべてを受け入れるわけには行かず、昨日は「掃除したくない」の抵抗に対応した。担任が出張のため不在。しかし約束はしっかり引き継いでいた。廊下のぞうきん10往復、そのあとゴミを集めたら黒板消し、帰りの用意をして、縄跳び集会に参加・・・。ところが休憩が終わって教室に行くと、金魚の水槽を掃除する道具片手に「廊下掃除したくない。」と言い張る。「約束の廊下掃除、しなさい」「いやだ。誰がするもんか。いやだね!!」ここでムっとしてはいけない。「したくなくても、しなければならないことはある。しなさい。」「うるせえ、じじい。だれがするか!」「いったい、誰と話しているのかな?言い直しなさい。」「うるせえ。だまっとけ」ここで爆発しそうになるが、逆効果になることはわかっているので、きつい言葉がぐさぐさささるのを耐え、「君ならできる。廊下拭きが上手だって、担任の先生が言っておられたよ」そこからは、こんくらべ。10分くらい同じようなやりとり。ようやく観念したのか、もぞもぞ金魚掃除道具をつつきながら申し訳なさそうにし始める。「10回したら、大好きな黒板消しだぞ」「黒板消し、好きじゃないもん」と言いながら、少しずつ言葉が柔らかくなる。「さあ、できるぞ、ほら・・。」すると、ゆっくりゆっくり、廊下に向かって歩き始める。本当にゆっくり・・。もしかしたら、「縄跳び集会」に出たくないのかもしれない。練習はしてきたが、前とびが10回くらいしかできず、1分間連続は不可能。だから、わざと掃除をサボる体をしているのか???クラス全員による8の字連続とびもY君のところでひっかかる。そこからもこんくらべ。ゆっくりゆっくり廊下を往復するY君を応援する。10分もかけて10往復すると、嬉々としてゴミを集め、黒板消し。「さあ、帰る準備は?」「もうした」「じゃあ、体育館に行こう。もう始まっているぞ」ゆっくりゆっくり歩いて体育館に入ると、予想に反して1年生のかたまりに向かって歩き、合流する。そこからは、交流担任に任せる。それにしても、忍耐、忍耐。いい年した大人、しかも、教師。子どもに反発される経験の少なかった教職経験の中で、子どもとも思えない暴言にさらされるのは、きつい。ここ数年で出会い始めた現象で、今年は特に厳しい。今まで、「常識」という枠組みで、子どもたちをがんじがらめにしてきただけなのか、いやいや、さまざまな要因が絡まって子どもが変化してきたからなのか、いや、本人にも、どうしようもない「特性」の為せる技なのか・・。迷いながらの実践、プロとして、本当に申し訳ない・・・。
2011.02.10
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母親の精神的な不安定と父親の非協力的な態度が問題視され、一時児童養護施設に預けられていた1年生のA子とY男が自宅に戻った。A子は通常学級になじみ、まずまず安定した学校生活を送っているが、情緒学級に通うY男は毎朝母親と別れるときに大声で泣き叫ぶことが続いている。情緒障害児の診察や治療に評判の高い医師と連携し、薬の処方や対応策を検討しながらの指導をしているが、根底にある「不安」を取り除くことができず、苦慮している。朝泣き叫ぶのは、二度と母親が迎えに来てくれないのではないかという強い不安。これは、彼自身が幼いころから、母親の気分や都合で何度も私的、公的施設に預けられていたことによる。「言うこと聞かなかったら、また預けるよ!」という脅し文句で従わせてきたことが傷となっている。情緒が特に不安定になる寝起きに、すさまじいきょうだい喧嘩が始まり、母親が怒鳴り散らす、暴力をふるうといった状況が続いており、満足に朝食をとってきたことがない。お腹が空くと誰しもイライラするだろう、そう思った校長が、泣き叫ぶ彼を校長室に招き入れ、温かいミルクを与え始めた。担任初め、彼に関わる教員は医師の指導の下、「誤学習しないよう、適切に対応する」ことを決めていた。朝泣き叫んでも、しばらくそっとしておいて、落ち着くのを待つ、というのが当面の方針であった。しかし校長にはそれが耐えられなかった。「愛情が不足しているのだから、誰かが愛で包み込んでやらなければ・・」というのだ。確かにそうだが、その結果、彼の要求は変わっていった。「家に帰せ!!」が続いた後、「校長室に行かせろ!」「牛乳飲ませろ!」と言い始めたのだ。そして体育。寒い時期でもあり、体操服に着替えるのを嫌がった。しかし、「体育はしない」という要求をそのまま認めるわけにはいかない。着替えさせた上で、体育館に連れて行く。「離せや!」「死ね!」「殺すぞ!」どこで覚えたのか、1年生とは思えぬ悪口雑言を浴びながら、でもここで引いてはだめだろうと耐え、しばらくすると落ち着いてきて、縄跳びでも始めるということが繰り返されていた。しかしこのことについては教頭が異論。「あそこまで嫌がる子を無理やり着替えさせ、連れて行くというのはどうなんだろう・・」担任としては、長い付き合いの中で、彼がかなり賢く、周りの状況を見ながら自分に都合よく要求を通そうとしている、ととらえていた。だから、校長や教頭の方針の揺らぎが辛かった。給食当番を嫌がり、させようとすると「もう給食食べん!!」とつっぱったことがあった。見かねた校長が校長室に招き、当番をしないまま食べさせた。案の定、それ以来交流教室には行かなくなり、当番をするよう指示すると「うるせえっちゃ!校長室に行かせろや!」と泣き叫ぶ。算数がいやだということになると、「校長室に行かせろや!」と泣き叫ぶようになってしまった。担任は鬼ではない。しかし時に鬼となり、要求をはね除け、学校とは学ぶところであって、子守する場所ではない、ということをわからせようとしてきた。しかしここにきて、管理職の方針の揺らぎで、担任のいうことを聞かなくなってしまった。そもそも朝、登校班で歩いてくることができなくなってしまい、母親が一緒に歩いてきていたが、今は車で送ることになっている。これも彼の要求に負けたものである。そして放課後も、双子のA子は歩いて帰っているのに、彼だけは母親の車の迎えを待つことになった。要求が通らなければ何時間でも泣き叫ぶ。だから要求を呑む。しかし母親も仕事があるため、迎えの時間はまちまち。放課後といえども担任にはさまざまな仕事があり、研修もある。出張もある。そのまちまちの時間まで誰かが見守らなければならない。学校中が、彼の都合に振り回されているのだ。いったいわれわれはどう対応すべきなのか。一貫性はどう保てるのか。彼の要求はわがままによるものなのか、障害によるものなのか、受け入れることは本当に誤学習となるのか、それとも精一杯「愛」で受け止めればいいのか・・。今回のケースは母親の精神的不安定さも絡み、児童虐待のトラウマや、今後の実際の虐待の恐れもあり、「はれものにさわる」ような感覚で接しているのが現実である。ぜひどなたか、助言いただければと思う。
2011.02.05
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寒波襲来、大雪になりそうな気配である。今日の午後、学校に行って除雪しようと思う。明日の朝では、職員の車さえ入れない状況になってしまうから・・。さて、本年度のまとめの時期になり、あらゆる分野で「成果と課題」の報告書作成が始まっている。本校は今年一年間、道徳教育を核に、研究を推進してきた。担任の先生方と考えてきたこと、話し合ってきたことをもとに、研究集録の原稿をまとめてみた・・。1 潜在的カリキュラムと道徳教育 本校は文科省人権教育の指定校として研究に取り組んできたが、文科省はその第三次取りまとめの中で「潜在的カリキュラム(HC:ヒドゥン・カリキュラム=隠されたカリキュラム)」について言及していた。ここでは、この視点に立って本年度まで研究を振り返りたい。2 授業不成立と潜在的カリキュラム この潜在的カリキュラムは、教育課程や年間指導計画など、顕在化しているカリキュラムと表裏の関係にあるが、むしろ人間形成(社会化)に関しては顕在的カリキュラム以上に強力な作用を及ぼすと考えられている。HC研究の第一発見者といわれるジャクソンは、生徒が学級という生活世界を生き抜くために必要なものを3R’S(スリーアールズ)だと考えた。規則(Rules)・規制(Reguiations)・慣例(Routines)の3つがHCの主成分である。 子どもたちは学級生活を円滑に反復する過程で落ち着いた学習態度をとるように求められる。順番を守ること、集中して課題に専念することなど。その基礎があって、初めて将来の社会生活に必要な「知恵」や「要領」といった社会技能と対人交渉力を獲得する。「規範」「規律」「マナー」「ルール」といった領域の低下が現代的課題として頻繁に取り上げられるが、 これらはまさに3R’Sと見事に重なっているのである。児童・生徒は「社会化」の過程で教師のみならず、児童・生徒同士でもよりよく評価され、失敗から自分を守る戦略を身につけるわけであるが、評価権を持つ教師から否定されたり、制裁を受けたりしないために「役割期待」に応えているかのように装いながら、他方で自分たちの意思と利害を最大限に実現すべく「教師と折り合い」をつける交渉技法まで習得しているのが、現実の教室という空間なのである。 学級崩壊、授業不成立は「潜在的カリキュラム」の未習得あるいは不成立によって生じる現象とみることができる。3年前までの本校に見られた「荒れた」実態の根底にこの問題が潜んでいる、と私は考えてきた。「空気が読めず」「評価を気にしない」児童によってかき乱される授業はつらい。これが学級全体に波及した時、学級は崩壊する。本校においてはそれらの核にいる児童は「特性」や「家庭環境」「学力」との関連で語られることが多かった。教師と生徒との間で「暗黙の了解」がなければ一斉指導や集団指導はうまく展開しないが、彼らにとって「暗黙の了解」こそ最も克服が難しい課題なのである。 4 意図して仕組む これら潜在的カリキュラムは、教師が意図しなかった学習の結果だと考えられてきた。だから「潜在的」だとか「隠された」とか形容されるわけであるが、本校の教職員は以前からこれらを「顕在化」させ、意図的に指導を重ねてきた。その成果が本年度の成功の大きな要因だと考える。昨年度までの国語科の研究が生かされ、教師と児童、児童相互にコミュニケーションが円滑に行われたとの評価は、「潜在的カリキュラム」を顕在化させ、指導を蓄積させてきた結果なのである。そして本年度、「善の心地よさをシャワーのように浴びる体験は、人に対する信頼を深めていく有効な手法である」という助言を受け、学級という一つの社会の中にある混沌とした実態を分析し、教材選定や授業構想に生かしてきた。5 教室の空気と教師教室の空気に大きな影響力を持つのが教師である。その立ち居振る舞いすべてが「潜在的カリ キュラム」であることを自覚する教師の教室は、学びの空気で満たされる。役割期待に応えようとする姿、つまり学ぼうとする姿は、「教師への信頼」が根底にある。教師を信頼したいという思いがあるからこそ、本校では「荒れ」という形で役割期待を意図的に裏切ろうとする姿が顕在化してきた。「荒れの姿は、教師や学校に対する子どもの叫びなのだ」という教師のとらえこそが、「荒れ」を克服する重要なポイントであった。6 組織的活動と道徳研究 本校は学級経営との関連を重視した。生活との関連を重視した。それはHCがまさに学級経営や生活といった具体的場面で顕在化していくことを意味している。同時に、担任が意図する・しないの別なく日々子どもは影響を受け、教育されている視点に立って、学校環境・教室環境を重視してきた。「うるおいのある学校や教室」「子どもの今を伝える掲示」「道徳コーナー」の充実である。 また、「ことば」によって他者と関わるしかない現実世界の中で「思いを伝える」出発点となったのが「ペア対話」である。「だからね、ぼくは・・」「あのね、ほんとうはね・・・」という文脈依存のたどたどしい発言を受け入れる、温かい空気を醸成した。7 今後に向けて 今後は発達段階をふまえ、根拠を示しながら相手を納得させる語りができる子どもを育てるための取り組みが一層必要だと考えている。多くの学級では、高い価値に向けての話し合いが活発になされるようになってきている。それは「安心して発言できる学級の雰囲気」に合わせ、子ども自身が自分の生き方を見つめ、それを言語化でき始めているからである。 この成果を大切にしながら、今後はさらに他者の意見との共通点と相違点を明らかにしつつ、自らの意見を再構成していく力をつけたい。未来を切り拓くためにも、論理的に思考し、理路整然と語る力、コミュニケーション力を身につけなければならない。学級固有の文脈に頼らず、広い社会に出ても通用する二次的言語を重視する理由はここにある。 外部の方にも認められた成果、そして質の高い今後の課題は、研究指定を契機とし、全職員が一丸となって取り組んできた賜物である。子どもの未来を保障する教育は、とりわけ公立学校が担わなければならないが、漫然とした、そして個人的な取り組みでは遅々として進まないものである。 教師力を高めることこそが研修の基本であるが、学校という組織全体で「学びのうねり」を作ることによって高まっていくものであり、外部の評価や助言を受けつつ組織として内面化することで、その内実が豊かになっていくのだと思う。この原稿〆切は明日。今週水曜日には来年度の研究の方向性について話し合う予定にしている。
2011.01.30
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現在6年生の社会科を担当。今の6年生は2年生、3年生と持ち上がりで担任した関係で、「もうすぐ卒業なのだ」という思いが強い。先日から社会科は「歴史」を終え、中高で言えば「現代史」「公民」といった分野に入った。大抵指導時間が不足し、「読んでおけ」で終わりがちなこの分野、実は奥が深い。敗戦を契機とし成立した日本国憲法は三つの柱からなる。「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」。まあ、これくらいの知識は小学生といえども必須だろう。問題は中身。「公民的資質」を養うためには、自分との関わりを実感しながら自分なりの価値判断を言葉にしていく作業が必要だと考えた。そこで先日の社会科の討論会のテーマは「平和を考える」。平和を築くために「軍事力(武器)は必要である」「必要ない」まず、どちらの考えを支持するか決定した上でわかれ、討論会。平和主義を学んだばかりだから、「必要ない」派が多数を占めるだろうと予想していたが、何と「必要である:17人」「必要ではない:18人」で半々に分かれた。まずはリーダーが1分間程度で「主張」し合う。
2011.01.22
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ADHDの1年生Y君の、児相一時預かりが決定した。直接のきっかけは、お母さんのY君への暴言・暴力だった。いつもこの一家のことを気に書け、親身になって相談にのっていた「親と子の相談員」Kさんに対してY君が「死んでしまえ、殺してやる」と暴言を吐き、パンチやキックをしたことが母親に知られ、「こんなに世話になっているのに、お前にはわからないのか!!」とたたき続けたのである。しかも、迎えにこられた学校の職員室という場で・・。お母さんには、何度もこの子の不な気持ちがそうさせていること、この子の使っている言葉が日ごろお母さん自身が使っている言葉であることを伝えてきた。Y君が不安定になるのは「母子分離不安」によるもの。いつお母さんに捨てられてしまうか、不安でたまらず、迎えに来てもらえないとか、天候が悪くて暗いとか、そんなときに暴走してしまう。相手がどんな人で普段どんなにお世話になっているか、なんてことは関係なくなってしまうのだ。一時預かりの期間はわずか1週間。この間にY君への診断や母親・父親への聞き取り、今後の方針が決定される。伊達直人、タイガーマスクの善意が次々届けられている児童養護施設・・。児童養護施設には、こんな事情で過ごしている子どもも多い。施設側の人々は「寄付金ということもあるし、相談してもらえば、もっと有効活用できるものが購入できる」と呼びかけているが、それはあまりに都合がよすぎる考えだろう。ブームとなっているだけだ。何を送るかは、送る側にゆだねるべきだろうし、それが役に立っているか立っていないかなんて、言わなくていいと思う。人々の関心が向いているだけ、ありがたいこと。
2011.01.16
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降り続く雪の中、2011年が始まった。家族5人がどこに出かけるでもなく、ごろごろしている。お正月番組を見て笑ったり、引っ張りだした盤ゲームを楽しんだり・・・。早起きの習慣が抜けない私は、ビデオにとっておいた映画を鑑賞する。ハーバード大学のなんとか教授の「白熱教室」もおもしろい。「正義」とは何か。人の命に値段はつけられるのか。5人救うためなら1人殺しても許されるのか。戦争の責任は、子孫の世代も負うべきか。「政治哲学」という学問分野だそうだが、カントから始まり、ベンサムの「最大多数の最大幸福」といった理念について、現代的課題を学生にぶつけ、討論することでその内実に迫っていく。彼は言う。哲学的に探究し続けることには二つのリスクが伴う。一つは個人としてのリスク、もう一つは社会的なリスク。なぜなら、個人としてそれまで当たり前だと考えてきたことが根底から揺らぎ、不安を覚えるからだ。社会についても同様。現代社会をそのまま受け入れるのではなく、変革すべきことがあることに気づき、苦しむからだ。しかし容易に社会は変わらない。ここに「懐疑主義」という立場が誕生する。それは、「社会はいくら探究し続けた所で、何も変える事はできない、ということに気づくだけで、考えること自体、無駄だ」と考える立場だ。しかし、人は考え続け、行動することで社会を変革できる。いや、変革できないとしても、考え続けること自体に価値がある。なぜなら人は、大昔から同じような命題を考え続けているからだ。そんなフレーズが印象に残っている。そういえば同じようなことを言っていた人がいたなあ・・そう考えるうちに思い出した。「ミシェル・フーコー」という現代哲学者である。やはり同じようなことを語っていた。マルクス主義も、資本主義も人々に幸福を与えることはできなかった。しかし、今の社会が息苦しいなら、どうしたらいいか、考え続けること、そして、少しでも行動すること、そのことしか、変革の可能性はない、と。1926年、フランスに生まれたフーコーは人間の存在について深く思索し、言語との関連においてのみ人間は存在しうるのであり、言語という枠組みにおいて知が再編されるといった。彼は人間中心主義、近代合理主義を根底的に否定する。人間はその各時代において、「言語」という枠組みの中において思考するに過ぎず、そこには進歩し続ける人間というものは存在せず、ただ変形するのみだと考えた。特にさまざまな言説は「排除」によって生成され、組織化されると考えた。一つに、それは「政治」と「性」の場面で現れる。ある特定の対象についての禁止やタブーによる排除。そして「正気」と「狂気」。「狂気」とされた者は「正気」とされる側から排除される。最後に「真偽」。偽りとされたものは、「真」「正義」の世界から排除される。んん、なるほど・・。まさに「人間は考える葦である」。考えるから存在する。しかし、考えてるかどうかは、言語化されなければ、誰にも伝わらない。だから「言語」によって存在そのものが規定される。確かにそうだ。政治の場面でしばしば起こる「戦争」。考えてみれば、それは特定のものの「排除」の連続である。特定のもの、それは人種であったり、国籍であったり、時に思想であったりする。ハーバード大学の教授がいったリスクがここにある。「言論の自由」が保障されない社会ではある言説にこだわり、公言することで「命」や「自由」を奪われるというリスクを伴う。あの戦争で言えば、獄死した小林多喜二がそうであり、軟禁が長年続き、今も自由に発言できないスーチーさんもそうである。ノーベル平和賞を受賞した中国の思想家も軟禁されている。「狂気」と「正気」もそうである。フーコーは「監獄の誕生」という中で、いかに「狂気」とされる状況が恣意的で、社会的なものなのかを明らかにする。これは「発達障害」という現代的な枠組みについてもいえる。少し前までは、教育現場でさえ気づけず、しつけとか、環境とかのせいにして、苦しむ子どもに目を向けようとしなかった。ある「常識」が教育現場を支配していたからだ。しかし少数の「当事者」の訴えによって学問の俎上に上がり、脳科学という分野で解析され、医学的・教育的な対応がなされるようになった。しかしそれでも、国により、地域により、学校により、政治的・社会的な枠組みが少し違うだけで、でずいぶん扱いが異なる。「精神異常」についてもしかり。枠組みはその社会を支配する「知」によって決定される。「うつ病」もようやく社会的に認知されたが、偏見は根強く、命を絶つ人は減らない。フーコーは、その思想が高揚を迎えたとき、「ホモ・セクシュアル」という自らの状況を、世界に向けて公にする。その上で、その社会的発生と存在について古代までさかのぼって、説明しようとする。彼はその瞬間から大きな「リスク」を背負った。彼の思想の根底に「自己存在への懐疑」があったことは容易に想像できる。思索に思索を重ね、その思想が世界に認められ始めたとき、カミングアウトした。そして、社会変革のために積極的に、前向きにその性を受け入れ、発信していくことを選んだ。晩年、「エイズ」であることもカムアウトし、死んでいった。「正常」と「異常」、「正気」と「狂気」の線引きは、一体誰が、どのような権力を持って行い得るか。恐ろしく難しい命題ではあるが、実は、教育現場では日常的にその判断と対応を迫られている。今の「社会」を維持する最大の「装置」が「教育」という現場だろう。そこは「社会の常識」を疑いなく伝えられる人間が楽に生きられる最前線でもある。しかし国家権力の維持装置の中にいるからこそ、本当にそれでいいのか、と問い続け、少数の意見に耳を傾け、誠実に対応することが求められるのだろうと思う。児童虐待をする母親への怒りが私にはあった。児相の不誠実さに対する怒りがあった。しかし、それを「異常」「怠慢」として排除するだけで問題は解決するのか。社会・政治・言語という枠組みの中で生かされているちっぽけな自分。しかし思索することで世界のみならず、宇宙までも自らの中に取り込める大きな自分。「考え続ける葦でありたい」。これが新年の抱負ということになるかな・・。ブログという現代的な言説空間の中で、奇跡的な出会いができた皆さま、今年もよろしくお願いします。
2011.01.03
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寒さが身にしみる大晦日はうっすら雪景色。母の入院騒動で幕開けした2010年、今母は肺炎のため、肺に膿がたまり、微熱が続いている。主治医からは「老人の死亡原因のトップは肺炎だから、何があってもおかしくない」と告げられている。父の看病に明け暮れ、父が亡くなって間もなく長期入院を余儀なくされた母。自宅で倒れるまで、何かしてやれることがあったのではないかと、悔いは尽きない。そして小学校講師として働き始めた妻。教師の経験は新卒で勤めたわずか1年のみで、未経験に等しい。毎日学校の様子を語る妻に「現状を何とかしたい」という思いを感じ、うれしかった。今勤めている小学校も荒れており、授業が成立しにくい状況の中、精一杯教材研究をし、自分を奮い立たせている。長男は紆余曲折あったが、私立高校一本に絞り、高校生活がスタートした。張り切って始めたように見えた陸上であったが、日々忙しくすることで空虚な自分を埋めようとしていた。結局陸上をやめ、現在は生徒会の一員として文化祭の下働きをしたり、お年寄りの施設を訪問したりしている。長女は中学校生活スタート。同じ中学校区にある小学校に私が勤めていることもあり、やりにくさを感じているようだ。同級生の間で、私のことがしばしば話題にのぼるらしい。友達の視線が気になるらしく、服装や持ち物にこだわる。少しでも友だちと異なっていることがいやで、「透明な存在」になりたいらしい。小2の末っ子は相変わらずマイペース。絵や工作が大好きで、先日は柿の木に登っている自分を描いた作品がJA何とか賞に入選、家族そろって表彰式に臨んだ。地産地消促進のためのバイキング昼食もセットされており、「おかげで、豪華な昼食をいただいたよ」と言うと、誇らしげだった。サンタクロースにメッセージをお願いしたら「DAISUKI」と返事をもらって大喜びしていた。そして本校9年が過ぎようとしている私。本来ならば8年過ぎた昨年が転勤対象で、9年同一校勤続は本当にめずらしい。今年退職の校長には、本当にお世話になった。そもそも本校に赴任したころ、精神的に非常に不安定になり、職を辞さなければならないところまで追い込まれていた。私を追い込んだものは教育現場であったが、私を復活させてくれたのも、やはり教育現場であった。全国的にも精神的においこまれ、休職あるいは退職せざるを得なくなった同業者は増える一方である。確かに職場は年々厳しさを増しているように見える。しかし私たち教員自身が変わらなければならないのも事実。困難な状況に柔軟に対応できる能力が必要とされる。教育現場の「権威」は失墜している。自己の、教師としての存在をバックアップしてくれる状況はもはや皆無といっていい。となれば誠実に子どもや保護者に向き合い、等身大の自分自身で挑むしかない。冬休みにはたくさん本を読んで、自分の内面を磨こうと思う。知識の切り売りではなく、人格そのものでぶつかっていくことが求められている現場では、人格そのものを高める努力を怠っていてはたちまち挫折することになる。いつの時代の教師もそうであったとは思うが、今は特に困難な時代に突入してると感じている。「ブログ」を通して共通の世界を持ち得た皆様、よいお年をお迎えください・
2010.12.31
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12月24日、クリスマスイブだというのに、支援学級の1年生Y君が大荒れ。登校してから何と4時間も回りのものを蹴ったり、たたいたり、作品を引きちぎったり、先生に暴言を吐いたり・・要求は「家に帰せ」ということ。落ち着いてからよくよく聞いてみると、夕方母親と兄、双子の妹が病院に連れて行ってもらえるのに、自分だけが3歳の弟と留守番しなければならないことが納得できず、家でぐずっていたのに、母親に無理やり学校に連れてこられたからだとのこと。そもそもなぜ病院かというと・・。前日の23日、天皇誕生日で学校が休みの朝、いつものように激しいきょうだい喧嘩が始まる。特にY君と、小学校5年生の兄との間で延々と続く。きっかけは本当に些細なこと、大体兄がちょっかいを出すことから始まるらしい。でもY君は特性もあり、そのちょっかいが我慢できずに「やめてよ」「いやだ」「あっちいけ!」と何時間でも叫ぶ。堪忍袋の緒が切れた母親、ちょっかいを出す兄と取っ組み合い、耳のところを思いきりげんこつでたたく。そして「いつものように」パンきり包丁を持ち出し、「静かにしないと、しょうちせんぞ!!」と脅す。それでようやく静かになる。しかし「わざと」ほうりっぱなしにしていたその包丁を3歳の弟が振り回し、一人おとなしくしていたY君と双子のA子のぼっぺたを切る。兄が「耳が痛い」というが休診のため翌日に医者に連れて行くことになる。ほっぺたをけがしたA子も応急処置をしていたものの、7センチも切れていたため、病院につれていくことにした。そのことを聞いたY君、もともと母子分離不安があり、虐待による精神的不安定さもあり、3歳の弟と二人きりになるという恐怖もあり、「家に帰せ」「自分も連れて行け」と4時間も泣き叫んでいたというわけである。学校は「急を要する」と判断、昨日夕方、父親も同席の上、児童相談所から2名、家庭教育支援室から1名、校長、教頭、私、支援教育主任、支援学級担任、支援員の大人数での対策会議を開くことにする。「言葉による脅迫」「布団蒸し」「体罰」など、虐待行為は今に始まったことではない。その事実を児相も支援室も把握している。しかし有効な手立てが打てず、今日まで来た。そもそも父親が子育てに関与していない。市場勤務で早朝から夜遅くまで働き通しという事情もある。協議の中で、そもそも父親がY君の発達障害を受け入れていないことがわかった。ADHDの子どもに多く見られる特徴の一つ、「父性」に対する従順さのため、父親の言うことは絶対で、父親の前ではおとなしくしているためである。父親は、きょうだいげんかも「よくあること」という認識。経済的に苦しいこともあり、母親が精神的に追い込まれていることを訴えても、父親の反応はにぶい・・。やりくりができないはずはないと言うのみ。以前私も個人的に父親と話をしたが「母親だけが悲劇のヒロインか!」という反応。子育ての仕方が悪い、と母親に暴力をふるうこともあった。母親も黙っていないため、取っ組み合いの夫婦喧嘩になる。それを見なければならない子どもたちも不幸である。しかし母親は父親の逆襲も覚悟で、児相、支援室の同席を自ら求め、この会にこぎつけた。母親自ら「このままでは何が起こるかわからない」「感情を抑えきれない」と訴えている。精神的な症状も出ているため、医者に通い、処方されてもいるが、継続して服用しないため、効果がない。しかし結論としては、むなしい会に終わった。父親が全くぴんときていない。(ふりをしているだけか?)児相の助言も届かない。支援室の助言も母親をかばっているとしか受け止められない。冬休み、母親はさまざまな方法で子どもを預けようとしている。長時間一緒にいると気が変になりそうだから。それがますますY君を不安にさせる。「母親に捨てられはしないか」という恐怖である。冬休みがあけ、再び学校が始まってからY君はどんな様子になるだろうか。この2ヶ月、Y君は毎朝調子が悪いが、薬を変えたことも要因の一つだと医者はみている。学校より家での安定をとったためだと説明を受けている。家で荒れると母親が逆上するからだ。結論も方向性も出ないまま会は終わった。学校としては、児相の判断で母親を引き離し、精神的な治療を本格的に始めること、その間、父親が養育できないとしたら、そのための支援を具体的にとること。しかし実現はかなり難しそうだ。児相が動くのは、もっと恐ろしいことが起こったときなのだろう。前回もそうだったから・・・。
2010.12.28
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娘は中1。私が勤めるH小学校の隣のN小学校を卒業し、N中学校へ進学。このN中学校には、私のH小学校と2校の小学校だけが進学する。今、この中学校の1年生がかなり不安定。4月、5月は、進学の緊張感もあったのか、比較的落ち着いて学習していた。しかし6月頃から学習中の私語が目立ち始め、4クラスのうち1つのクラスがかなり騒然とし始める。そして夏休み終わるころには学年全体に広がり、教師への暴言、授業妨害、生徒間のいじめ、服装の乱れ、怠学傾向、不登校、幼いいたずらなどが頻発している。学年の学力も平均点で見る限り低下し続け、個人差が拡大している。数学などは50点満点の10点以下が20名以上という惨憺たる結果。二極化も見られるが、全体に厳しい状況に入ってきた。まあ、当然といえば当然だろう。授業が成立していないからだ。先日人権教育参観日があった。私は父親として、そして卒業生を送り出した側の小学校教員としても重たい気分で参加した。聞いていた通りの状況が目の前にあった。いつも大声で泣いていたH男は授業についていけず、突っ伏したまま。やんちゃだったO男とちょっぴりひねくれものだったY男は先生の授業を無視し、横を向いてしゃべり続けていた。全体もざわざわしており、とてもではないが「人権」を考える雰囲気ではなかった。先生はきちんと授業準備し、班別学習を中心に構成し、何とか進めていた。思いつきで不規則発言するN男は、自分の発言が先生に取り上げられないとおもむろにワークシートをひっくりかえし、でかい「ドラえもん」を描き始めた。これらの状況を私は容認できない。娘のこの教室での立場も気になるし、注意せず淡々と進める担任の苦しさもわからないわけではなかった。しかしわたしは許さない。教室の中を少しずつ移動し、そのやんちゃな連中の視野に入り込み、にらみつけ、バツ印を出し、授業に集中するようサインを出す。それまで私の存在に気づかなかった教室の空気がかわった。横向いていたO男とY男は、そうっと姿勢を戻し、担任の方を向き、もぞもぞワークシートに黒板の文字を写し始めた。N男は私と視線が合うと、あわててドラえもんの絵をひっくりかえし、姿勢をただした。その様子の変化に教室全体の視線が私に集中、H小出身者はちらりと娘の方を向き、授業にもどる。N小出身者は「あの人、誰??」といった表情でH小出身の生徒に耳打ちし、軽くうなずいて授業に戻る。こうして授業後半は、まっとうな授業が展開された。まだ、小学校時代の「コワイ先生」の威力は発揮される。まじめにしないことへの気まずさを感じている。最もまじめな部類に属している娘へのいじめやいやがらせは今のところないと聞いている。万が一そんなことがあって黙っているはずのない親父のこわさがH小出身の生徒たちに浸透しているのか??それにしても、授業をかき乱す中核にいるのはすべてH小出身。重く、辛い気持ちのまま自宅に戻った。それからいろいろ考え、ある会合で、この状況を取り上げることを決意した。
2010.12.12
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4年生のS君、最近とても調子が悪い。S君の学級はとてもにぎやかである。別にムダ話が多いわけではない。先生の質問に積極的に答えようとする子どもが多く、活発なのだ。まあ、少しけじめがないかもしれない。S君はそれが気に入らない。「静かにしてください!」と注意する。しかし聞いてもらえない。自分の注意は正しいと信じているから、我慢できない。「静かにしてください!」大きな声になっていくが、やはり聞いてもらえず、怒りで涙が出そうになる。それをぐっとこらえるが、こらえきれなくなると、教室を飛び出す。このとき追いかけたり、声をかけたりするとうまくいかない。好きな動物小屋のあたりまで、時々後ろを振り返りながら上靴のまま歩いていく。校庭の片隅で遠くを眺めていることもある。1時間くらいもそうしていると、次第に落ち着いてきて自分から教室に入ってくる。でも、今度は机に突っ伏したまま、時間が過ぎていく。3校時も4校時もそのままで過ごす。声をかけると、出て行ってしまうからだ。給食時間になる。気分が悪いから、当番活動はしない。今度は友だちから注意される。また落ち込んで、給食が食べられなくなる。それでも何とか友達と昼休憩遊ぶ。しかしここでも小さな行き違いが原因でいやになってしまう。そうなると、鉛筆も持てない。「この漢字、書けるかな?」担任がスキルアップタイムに漢字ミニテストをする。学習に参加していないから、書けない。書けない自分がいやになる。机に突っ伏して、そのまま放課後を迎える・・。こんな状態が2週間くらい続いているのだ。その間、父母とも相談してきた。カウンセリングも3年生のころから受けている。専門家にも学級に入ってもらい、長時間観察していただいている。12月には医療との連携が始まる予定である。しかし担任は「この子の苦しみを何とかしてやりたい。自分の学級経営が悪いのだろうか。学力もつけてやりたいが、今のままでは、ただの子守状態だ。これでいいのだろうか・・」そんな思いを強く訴え、昨日の「支援会議」が開かれた。あれこれ対策が練られたが、効果が上がるだろうか。今学校は「学習発表会」に向けてばたばたしている。スケジュールがめまぐるしく変更していく。そんなことも関係しているのだろう。さて、S君と、どう向き合うか。
2010.11.23
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高1の息子が陸上部を辞めた。かなり長い期間悩んでいたが、先日、顧問と担任に伝えた。できれば続けてほしかった。一つのことをやり続ける過程ではいろんなことがある。自分の思うようにならないこともたびたび経験しながら成長してくれることを願っていた。けれど、原点に戻ってやり直すことがあってもいいか、そう考え直した。辞めてから生徒会執行部の仕事に打ち込むようになった。何かよりどころがほしいいのだろう。土日に時間的余裕ができ、補習に出かけるようになった。家族で近場の公園に行ったり買い物に行ったりするようになった。高1としては自立していない姿なのかもしれないが、精神的には安定しているように思う。本当は、弓道場に行きたいらしいが、なかなか言い出せないでいる。陸上を辞めてすぐ弓道というのはどうかな、という感覚があり、今度始めるのなら、もう途中で投げ出せない、そんな思いもあるのだろう。もう少し見守ろうと思う。
2010.11.08
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2泊3日の日程で修学旅行に行ってきた。2年、3年のとき担任させてもらった子どもたちももう6年生。ずいぶん大人になったなあ・・。などと感傷に浸れるくらい、平和で、ゆったりとした旅行になった。この学年は、本校にめずらしく、しっとりとした雰囲気があり、子供同士がいがみ合うことがとても少ない。自分より友だちを優先させたり、困っていたら声を掛け合ったりと、担任ではない私に、ほとんど仕事はなく、安全面への配慮だけだった。初日の大阪市立科学館では、体験コーナーが充実しており、目を輝かせてわいわいやっていた。よく工夫されているなあと感心させられた。巨大なプラネタリウムもとても久しぶりで癒された。子どもたちの大部分はすっかり寝入っていたようだが・・。造幣局はつまらなかった。解説が長い。内容はあまりないのに、とにかく話が長かった。施設内も暑かった。しかも工場内はオートメーション化され、ラインを見学しても何も伝わってこない。夕方バスで奈良入り。初日は奈良市内の若草山のふもとにある老舗旅館に宿泊。ここのご主人の人柄がとてもよかった。優しさと教養あふれるご挨拶に感銘。二日目はあいにくの雨天。鹿と戯れながら大仏殿へ。感想は二つに分かれた。「思っていたより大きかった」「思っていたほど、大きくなかった」まあ、そんなもんかな。例の「大仏の鼻の穴」と同じ大きさだという柱にある穴くぐりが大渋滞。ほぼ1時間を費やしたが、まあ、楽しそうではあった。ここで大幅に時間がかかってしまったので予定変更して「平城京遷都1300年祭」会場へ。ここも大変な人で、ところてんを押し出すような動きではあったが、壮大なスケールに感嘆、朱雀門までの広大な地域は今で言う官庁街、そこからは庶民の街。天皇の権力を象徴する巨大な建造物が再建されていたが、魅力は古代から伝わる技法を伝承していること。しかし子どもには不評。広大すぎて何キロも歩き続けることに若干辟易していた。まあ、例のきもかわいい「遷都くん」に出会えたのがよかったかな。その後昼食、春日大社、二月堂、三月堂経由して三十三間堂へ。1001対の千手観音に圧倒され、国宝風塵雷神に感嘆。子どもにも意外と人気があった。江戸時代に流行した「通し矢」はすごい。110mもの距離を飛ばそうと思えば、角度は45度くらいまで上げなくてはならないが、それでは天井に刺さってしまう。事実今も天井に突き刺さっている矢がある。「座射」で、かなり強い弓を使い、腕自慢が競いあったこの「通し矢」、1昼夜かけて1万本以上射続け、8000本ほど通した大記録があるとか・・。弓道をかじった者にとっては、まあ、信じられない大記録だ。そして天下の清水寺へ。ここも相当な込み具合。「清水の舞台」よりも人気は「音羽の滝」の3つの水を飲もうというもの。賢くなるとか、イケメンになるとか、意外と盛り上がっていた。京都市内の宿に入る直前、バスの非常ベルがなるハプニング。いたずらした男の子が担任に叱られていた。宿では養殖スタイルで、ナイフとフォークの扱いに四苦八苦していた。最終日の昨日は天候に恵まれ、銀閣と金閣へ。子どもの人気は半々といったところ。やはり年をとると、銀閣の庭園の方に魅力を感じるが、きらびやかな金閣は不動の人気。ここで重度の障害のある子どもたちと出会う。車椅子だけでなく、ベッド式のものもあり、わたしはすれ違いながらイメージを膨らませていた。というのは、今の5年生に二分脊椎のため車椅子で生活するY子がいるからだ。移動手段をどうするか、どこを見学地とするか、その夜は職員で話し合った。かなりバリアフリーが進んでるとはいえ、移動が困難なところも多い。早めに計画を進めることでよりよい修学旅行にしようということになった。午後は「太秦映画村」。今はもうほとんど撮影には使われていないが、それなりに施設は更新され、子どもたちが楽しめるようにはなっている。大人気だったのが「おばけ屋敷」。怖すぎて泣き出す子がいるくらいだった。帰りのバスはビンゴ大会で盛り上がる。まあ、どんな企画にも文句言わず、とりあえず乗ってくれるところも今の6年生のいいところ。「いやだあ」「そんなの、つまらない」と、思っていても口にはしない配慮ができる。だから全体の雰囲気がやわらかくなる。後ろの方でケンカして、男の子が鼻血を出したが、こんなことは、たいした問題にはならないくらい、周りがうまく納めてくれる。とにかく教師の出番が極端に少ない学年である。「自治的」なのだ。卒業まであと半年。いろんな事情で11月から校区外に引っ越すS子も、「一緒に卒業したい」とバスで本校に通うことを選択している。つい先日転校してきたK男も昨日が誕生日だったらしく、子ども自身の企画で朝食時に全員で「ハッピーバースデー」を歌うことに。まずまずすんなり溶け込んでいるように見えた。校長いわく「自慢の6年生」。市内でも評判の悪いこの子どもたちが入学していくN中学校。果たして学校改革のキーパーソンとなれるか、中学校側との連携が鍵を握っていると、校長と話しながら、保護者の待つ学校に向かった。
2010.10.22
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先日、学習参観日だった。私はカメラ片手に教室を回り、先生と子どもの生き生きとした表情を納めようとしていた。しかし1年生の教室前に来てびっくり。参加率は高いのだが、ほぼ半数の保護者が教室に入らず廊下に・・。何をしているかというと、「おしゃべり」である。授業の初めだけかと思いきや、ぐるりと教室を回って戻ってみてもまだまだおしゃべりに夢中。1年生だよなあ・・・まあ6年生くらいになるとそんなこともあるかもしれないけど、わが子の成長や教室の雰囲気、先生や友達のこと、気にならないのかなあ・・・。実は全校朝会や児童集会でいつまでもおしゃべりをやめないのが今年の1年生。大体6月くらいには、静かに聞けるようになるものだったのに・・・。「先生の話は聞かなければならない」という大前提が揺らいでるのかもしれない。1年生だけではない。高学年による陸上大会のこと。先日市の大会が終わり、優秀な成績で県大会に出場権を得た子どもたち。特に6年生男女のリレーが選抜されたことはとてもうれしい事だった。しかし県大会に向けた放課後の練習でメンバーがそろわない。理由を聞けば「塾がある」「サッカークラブの練習に行きたい」などなど・・。一人抜け、二人抜けしてリレー練習にならない。市の大会は学校代表、今回は市の代表。これはなかなか手に入れられない価値ある機会、だと思うのだが・・・。ここはひとつ、全力を傾けてもいいのではないか、そう思った。長年の教員生活の中であまり経験しなかったこと。いつも保護者が熱心にバックアップしてくれた。「選ばれたんだから、がんばりなさいよ」というふうに。そして5年生。本中学校区では「学力向上」にむけた共通実践として共通テストや交流学習などを行っているが、「グッズ」として学習のポイントなどをプリントした共通の下敷きを無償配布している。まあ、そんなに効果的ではないとは思いながら、ムードを高めるためにいいだろうと。ところがある保護者から「なぜこんな下敷きを使わなければならないのか。強制なのか」と、担任にクレーム。驚いた。趣旨は文書で配布していた。強制とまではいわないけれど、使ってもらいたいと伝えていた。実は配布してから1年近く経ち、担任を通して「再配布」のための実態調査を依頼していた。担任もたいして強制していなかったから、数名の児童が紛失していた。担任に噛み付いた保護者の場合も子どもがなくしていた。それならそれで「すみません、せっかく頂いていたのに、紛失したようで・・」と担任に言うのが、まあ、一般的ではなかろうか。別になくしたことを責めたてているわけではないのだ。児童に「一度家を探してみよう」「なければ、あらためて配るから」と言っただけなのだ。何だか最近、「学校的価値」が揺らいでいると感じる。以前であれば当たり前だったことが通用しなくなっている。担任は保護者と向き合うことに疲れている。一つ一つのことに「説明責任」が生じているからだ。「学校の先生がされることだから」という信頼というか、前提条件が揺らいでいる。私は先日の研修会で前述の1年、5年、6年の例を出しながら職員に伝えた。「多忙化と多忙感は違う。本当に忙しくなっているのか、忙しいと強く感じはじめているだけなのか、一度見つめ直してみよう。今までスムーズにいっていたことがうまくいかなくなっているとしたら、その原因はどこにあるのか、究明してみよう。自分は一生懸命がんばっているのに、保護者も子どもも分かってくれない、という思い込みは、徒労感を増す。大きな社会の変化といううねりの中で、「学校」という価値が相対的に低下しているのかもしれない。信頼を取り戻すために今何が変化し始めているのか、一人一人が冷静にとらえ、対応していくことが求められているのではないか。授業の質を高めていくこと、プロとしての自覚と誇りを持ち続けることが今の時代だからこそ、大切なのだと思う。」家庭のせいにするつもりはない。しかし明らかに社会情勢は変化している。「学校文化」の再構築が求められているのかもしれない。
2010.10.09
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今年高校に入った息子の様子がおかしい。毎日毎日陸上の練習に励み、帰宅は午後7時~8時、土日もなし。中学校までの体験もない中で、よくがんばるなあと、不思議に思ってさえいた。執行部にも入り、生徒会活動もしている。ただ、肝心の勉強はしてない。「試験期間くらい、気合を入れて勉強しろ!」と叱ることもしばしばだった。しかし昨日、部活から帰ってきてもふさぎこんでおり、弟や妹にもつらく当たり、私たち夫婦とも満足に話をしようとしない。みんなが夕食を済ましたあと、二人だけで話をした。「お前は自分の気持ちをうまく伝えられないことがある。自分だけで考えて、行動を決めてしまうことも多い。何か学校でいやなことでもあったか?自分ではいいと思っていても、友だちにわかってもらえないとか、悩んでいることとか、何かあると思うんだけど」そう切り出すと、しばらくの沈黙のあと、ぽつりぽつり話し始めた。「ぼくはS高校に入りたくなかった。H高校に入れないのが悲しかった。」そうか・・・まあ、第一志望のH高校は私の母校でもあり、弓道部に入りたいとも言っていた。しかしそれは、先生の進路指導もあり、「推薦」という配慮の中、S高校の中でも「志学科」という17名のトップクラスに入れてもらい、ていねいな学習指導をしてきてもらっていた。まあ、息子の学力からして、最善だと思える進路だったし、当時息子も納得していたようだった。「本当はH高校に入って、好きな弓道を続けたかった。陸上部に入りたかったわけじゃない。でもH高校に入っていたらしていただろう、部活、というものを体験してみたかった」「でもあの時話し合っただろ?弓道続ける道もあった。市の弓道教室に入れば、公式戦にも出られる道があった」「ぼくは高校の中にある部に入りたかった。同じ学校の人と活動したかったんだ」そうか、S高校は志望校ではなかったが、友だちや先輩と何か一つのことを続けてやってみたかったんだ・・「執行部に入ったのは、中学3年のときの経験で、みんなのために何かしてみたい、みんなをまとめたり引っ張ったりしたいという気持ちがあったから。これからもがんばりたいと思っている。」「そうか、なるほどね。でもどうなんだ。陸上が続けられないという気持ちは、なぜ生まれてきたのか、S高校に入ったこと自体を後悔しているのか、最初からやり直したいというところまで考えているのか・・」長い沈黙・・・。考えあぐね、迷い続けてきたようだ。「じゃあ、まずいろんな人の意見を聞いてみたらいいと思う。家族だけじゃなくて、中学校の先生とか、今の高校の先生、部活の先輩、同級生・・。一人で悩まずに、いっぱい話を聞いて、考えを整理したらいい。父さんなりの考えはあるけど、もっとたくさんの人から教えてもらうのがいいと思う。お前は父さんと違って、いろんな人との関わり、大事にしてきたし。父さんはどっちかと言えば、自分ひとりで決めてしまって、自分ひとりで責任を取るっている感じだった。それはそれで悪くないけど、案外つまらない。ここは一つ、人に頼るっていうのもいいと思う。最終的にどうするか、そのあと、また一緒に相談しよう。まだ前期も終わってない。ゆっくり考えてみな。」息子はうつむいて涙を流していた。でも、小さくうなずいたので、私はその場を離れることにした。私の高1のときは能天気だったなあ。悩みと言えば、好意を抱いた女の子にどうしたら告白できるか、付き合ってもらえるだろうかなんていうちゃらちゃらしたものだった。それも第一志望校に滑り込めた余裕からか?高校のランクは明確である。地方都市のここでは、S高校のような「私学」は「滑り止め」とされてきた。しかしここ数十年の努力で大学進学率が上がり、保護者の要望をうけて「志学科」という、国公立大学受験特別コースを設け、実績を上げることで、世間の評価も上がりつつある。このシビアな世界で、息子は苦しんでいる。その一端に私はいる。ぎりぎりまで「私学」進学には反対していた。もう少し努力すればS高校に入れる。弓道したかったら、もう少し努力しろともいい続けてきた。それが息子の「挫折感」の大きな要因になっている。胸を張ってS高校の制服を着、S高校の刺繍入り陸上ユニフォームを誇らしげに着て見せた息子の内面は親が思う以上に複雑だった。しばらくは考える時間として見守ろうと思う。
2010.09.29
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先日じっくり話し合った母親Oさんが、特別支援学級の担任に話があるということで来校、その足で事務職員のところに行き、「4月からの学級費、3人分は、9月末までに払う。あとの給食費やPTA会費は10月初旬には払う。」と伝えてくれた。実はあの話し合いのあと、具体的な滞納額について、担任を通して伝えていた。特に学級費は、学期末に保護者への報告があるため、悩みの種だった。(二期制のため、10月初旬が前期末)お金のことは絶対に話題にできないぐらい危機的な状況にあったのだが、通常学級1年生のA子の表情も明るくなってきており、Oさんの心にもゆとりが出てきたのだろう。相談員のKさんにも、「あの話し合いで見通しが持てた。またいつか、話が聞いてほしい」という声が届いていた。夫との関係、経済的な問題、実の妹の家庭内暴力、自身の精神的な問題など、悩みは山積しており、簡単に解決できるはずはないが、少しずつ前進しているようで本当にうれしい。
2010.09.23
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