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統一教会じゃないとだめだと思ったのは、この人がメシアだと思わされたからです。ある教団の教主という次元ではなく、再臨のメシアだと思ったから、この人が語る言葉が真理であり、天法になり得ると思い込んでしまったのです。クリスチャンでもない私が、メシアだと思ったのは、神の心情、親の心情というものをわかりやすく、感動的に話していたからです。ここまで目に見えない神様について、その悲しみについて語るこの人こそ神の息子といううにふさわしいと。キリスト教でいうイエスの十字架の贖罪の話よりわかりやすかったからです。それも、愛の世界、親子関係、実になるほどと思う内容が多かったのです。ここに落とし穴がありました。人間的な目でみるとなるほどと思うところはありますが、神様が願っていたのは、人格をつくるのではなく、神に似たもの、霊においての再創造でした。人格を作るための本は、最近は、何処の本屋さんでもたくさんでています。人に愛されるためにはとか、リーダーになるためとか、いいお母さんになるためにとか。そして、たくさんの人が努力しています。そんな類の本とは違って、聖書はわたしの霊を成長させるための本であると思いました。聖書に親しみ、それがキリスト、イエスに対する信仰によって救いにいたる知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感をうけてかかれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して、十分な準備ができて、完全に整えられたものになるのである。テモテ第2章15から霊の言葉を、神の言葉イコール御言葉というのです。そこには私の考えや推測や見解はなく聖書の言葉そのままです。とても大切にしているのです。聖書を読む人は、その聖句を暗記します。彼らは、まるで聖書の最初から最後まで暗記しようとしているようです。私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書き付けよう。こうして私は、彼らの神となり彼らは私の民となるであろう。ヘブル第8章10節私の律法は聖書のことでしょう。これを読むと、私の思いの中に御言葉がなければ、神様とは関係のないものです。神の民というには、聖書を信じる人が対象ではないですか。こんな聖句がたくさんあります。こんなのはどうでしょう。耳をそむけて律法を聞かないものは、その祈りでさえにくまれる。箴言28章9節聖書を読まないで神様について語ることが、おおきな間違いであったことがわかります。再臨のときについても、新約にかかれています。神様の心情についてよく知っているからといってメシアなのかどうか。聖書に照らし合わせて確かめてみたいと思いました。この世にはわたしがメシアだという人がどんどん増えていますから。どの人も、もっともらしいことをいいながら信じきっていますから。2000年も前からこんなことを予言した聖書を物差しにしてみたほうがいいと思うのです。
June 29, 2007
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日本に帰ることになった。恥ずかしい話だが20年ぶりの帰国になる。こんなことは誰にもいえない。私が韓国に来るときに約束させられたのだ。絶対、親兄弟を頼ってくれるなと。おこずかいもあげたいけどどうせ献金するのはわかっているからあげらないわと、世間様の前に顔向けできないと、何十年かたって原理が間違いだとわかったら、家の敷居をまたいでもいいけど、その時は自分の生活費のことも考えて帰ってきなさいと。私のせいで兄弟にしんせきに迷惑がかからないかとそればかり気にしていた。当時は仕方がないとあきらめた。あの母が、だまってわたしのすることに反対することをあきらめてくれたことがありがたかった。いずれ時がくればわかってくれると。統一原理のすばらしさが認められる時がくると信じて疑わなかったのだから。信じきってたのだから、ここまできてしまったのだ。時が流れて、私は白旗を振って母に会おうと思う。この日本行きも、そら先生、日本にちょっとついてきていろいろ案内してほしいんですがと航空代、宿泊代、会社もちで、断るにはもったいない、いい機会に恵まれてしまった。会いたいくせに、恐れている。家族対して言いようのない申しわけのなさに時間の重さがもたれかかって、このまま断絶したままで静かに消え去って生きるのがお互いにとっていいのではないかと。旦那も私の味方ではない。日本に行くことも、仕事をすることも反対している。自分の囲いの中だけで、自己満足のためだけの愛のためだ。いつ気がつくだろうか。いつ目覚めるのだろうか。いつまで待たなければならないのだろうか。帰ろうと思えば帰れるのに、いろいろなことが重なって、帰れなかった月日。あきらめていたから、帰れると思わなかったから、恋しいとか懐かしいとかそんな言葉もこころの奥底に封じ込めて、前ばかり見て走ってきた。ただただ、神様とみことばをを恋い慕いながら、頼りながら、無慈悲に流れていった月日。
June 26, 2007
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とうとういってしまった。この世の美しさ、喜び、暖かさ、そんなことなあんにもわからないうちに、心臓が止まってしまった。ただ泣くばかりで、なにもしてあげる事も、言葉もかけることも出来ないででてきた。生まれた時から、心臓が壊れて、どうすることもできなかった。5年も生きたのが不思議なぐらいだ。でもこのごろは、ずいぶん体力もついて、この調子だと手術を受けれるかもしれないと喜んでいたのに。胸が痛くてたまらない。幸せを描いて祝福を受けても、受ける人生の痛みは、結婚した人と同じだ。福祉が遅れているこの国で、健康じゃなかったら、かなり覚悟をするべきです。日本の医療はとか、日本の病院だったらと比較して、あきらめなければならないこともたくさんあるから。人間、自分の思い道理にはいかないのだ。生きることも死ぬことも自分勝手に出来ないことを思い知らされる。生かされている、と思う。だから生かしてもらっているわたしを精一杯輝かせて、誰かを喜ばし、役に立つことが私の喜びになるのだと思う。生かされている今日を大切にするために、もう一度神様にたずねもとめようと聖書を開き始めました。統一協でもうこりごりで、かかわりたくない宗教ですが、神がいないと、霊界がないと否定できないのです。そしてここで神様の手をはなしたら、サタンの思う壺だと思ったのです。サタンも神も目に見えない霊ですが、この霊について確実に語っているのが聖書です。私が考えているサタンと聖書で語っているサタンは違っていました。このサタンの目的は、神様、聖書のかみさまからとおざけることでした。
June 22, 2007
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この映画のもう一つの軸は、いとこに犯されたヒロインだ。わずか15さいで、いとこによって犯され、自殺未遂を繰り返すが、彼女が憎んでいるのは、いとこではなく、犯された娘を恥ずかしく思い、その原因を被害者である彼女に求め否定する母親だった。その母親を彼女が死刑囚に会い許されて変わっていく姿をみながら、彼女自身もまた、母親を死よりも生きてゆるすことを選んでいく過程が描かれている。内容はすごく、重い。できれば、考えずに通り過ぎたい問題だけれど、女の子を持っている親は、知識として知っておいたほうがいい内容だ。特に韓国は、性犯罪であふれている。知られているのは氷山の一角だ。くねくねと迷路のような路地の多い道でひそかに連れられて昼でも朝でも関係なく被害者が多いのを日本人の韓国に住んでいるお母さんはどれだけ知っているだろうか。わずか12歳で被害にあった女の子は、それがどんな行為なのかも知らなかった。学校に行く朝の通学路で引っ張り込まれた。脅されて、いうままになるしかないその心に恐怖しかなかった。 母親は思った。どうして大声をあげなかったの。どうしていわれるまま従ったの。 情けない。自分の娘に思えない。恥ずかしい。こんなはずじゃなかった。被害者であるはずなのに、攻められしかられ、はずかしめられてしまいやすいのです。そして犯人は、捕まえられ、処罰を受けなければ、被害者はいつまでもそれを胸に怒りを抱えるしかないのです。それがいつ爆発するのか誰もわからないのです。この女の子の犯人は、実はこのトンレに8人の小、中 学生の被害者がいた。警察が、この手の事件は、誰も届けを出さなくて困る。犯人をもっとはっきりと、処罰するために、あの病院,この病院探しながら、口コミで被害者を探し当てるしかないことをいう。親も、日本ほど警察を信じていない。この手の犯罪は犯罪でもないのだ。運が悪かったとあきらめるしかないのがこの国のやり方だ。自分の子は自分で守るしかないので、送り迎えも親がする。誰も頼ってはいけない。厳しいところだ。自分の住んでいるところは、大丈夫だといえないのです。子供が性暴力に巻き込まれたら、どうしたらいいのか、親としてどういう態度をとりどう対処するのか、考えておいたほうがいい世の中です。
June 8, 2007
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私たちの幸せな時間 2時間ほど見た。オッ重い。日本ではこれから公開されるようだ。死刑囚にとって死とは。許しとは。以前あるプラグで、アメリカで万物復帰の最中に殺された人の弟さんが統一教会の問題と殺人を犯した人は死をもって償えるのか。という問題を扱っていたので興味深く、読んだことがあります。その内容とオーバーラッブしておもしろかった。韓国からきた映画だと避けないで一度見てほしい映画でした。映画の見方はいろいろあるけど、私の見方をすこし表現してみようと思う。死刑囚が人間らしい感情をとりもどしていく中で、楽しそうに雪と戯れる場面が出てくる。無邪気に笑いながら、楽しむ姿は誰だって1度はした事のある遊びだしいたずらだ。幼いころ無条件に楽しい経験、目を見つめて笑いあう、共感しあう世界が人間の成長にとってどれだけ大切なことかと思った。そんな当たり前の経験、<当たり前というのは同じ限られた環境が同じであればこそ当たり前といえるのだが>ができないほど 貧しかったり、すさんだ幼児体験しかない人もいるのだ。 雪を見てうれしいと思えるのも雪を見て仕事が増えてたいへんだなあ。っておもうのも雪を見て何も感じないのも。実は幼児体験によるものだったりするのが多いんだなと思った。開かれた心がなければ、美しい風景も、美しい心も何も見えてこないし感動しないんだと思った。そしてそうしようと努力もしないしわからないから、そこに意味をおかないのだとわかった。国際結婚の難しさは、愛だけでは超えることが出来ないのです心を共有出来る部分が少ないので、言葉以上の言葉、認識の一致から始めないとますます、遠くなるのです。食べるものがなくて,木の皮をはいでしのいでいた生活をしていた韓国人と、ケーキやアイスクリームを食べカラーテレビを楽しんできた日本人の意識の違いを埋めるために徹底的に自己否定を強要するのが原理です。こんな生活を韓国にさせたのは、日本だと、蕩減復帰を利用して我慢と服従を要求するのが原理だったときずいた時には、もう元には戻れないのが韓国にいる日本人の現住所でしょうか。
June 7, 2007
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