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今回は写真の話です。数日前まで鳥取にしばらくの間滞在していたのですが、その間に、去年その存在を知って以降ずっと行きたかった植田正治写真美術館をようやく訪れることができました。美術館そのものについてはHPを見てもらうとして、写真を見て考えたことなどを少し書くことにします。 池澤夏樹の『海図と羅針盤』の表紙に植田正治の写真が使われていることは、以前このブログでも触れましたが、それ以上に有名かつ印象に残るのは、やはり鷲田清一と植田正治のコラボレーションでしょう。かくいう僕も、鷲田清一の名著『「聴く」ことの力』に添えられた写真で初めて植田正治という写真家を知り、その後植田正治の写真に鷲田清一の文章を添えた『まなざしの記憶』を見つけてそれをうっとりと読んでいたりもしたのでした。 ただ当然ですが、そうした本に収められているよりもサイズの大きな写真そのものを、それも何の添え物も無しで見ると、印象はやはり違ってきます。まずもって、気になる写真が全く違ってきました。鷲田清一の本を読んで印象に残っているのは、砂丘に立つ人物の写真など、植田正治の中でも比較的スタイリッシュな写真なのですが、美術館で目を惹かれたのは、もっと風景写真に近いものでした 桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』の舞台である境港に生まれた植田正治は、鳥取砂丘以外にも、島根・鳥取の風景を撮った写真を沢山撮っているのですが(ちょうど「山陰抒情」という企画展を開催中でそういう写真が数多く展示されていました)、その多くは、写真の上半分は空、そして下半分は駅や工場や畑といった構図のものです。その中に人もポツンと写ってはいるのですが、空や風景に比して大変に小さい。しかしそれでもなお、惹きつけられるのは、風景や構図の美しさではなく(それも勿論ありますが)、そのポツンと心細く立っている小さな小さな人に対してなのです。 風景の一部と化した人間ではなく、あくまでその全存在の重みをかけているかのようにそこに存在している人間。風景のなかにポツンと写っているというよりは、むしろ全身でその広い広い空を含めた風景全てを背負っているような人間。そういう風に見えるというのは、やはり構図の妙であるとか、色々技術的な理由もあるのだろうとは思いますが、さしあたり僕にわかるのは、そこに写っている人にも風景にも、土地の匂い、生活の匂いがしっかりと染み付いていること、だからこそ人が「モノ」となっておらず、同時に風景ともしっかりと関係を持っているということだけです。それでも、ああ、植田正治というのはこういう写真を撮る人なのだと、しみじみ腑に落ちたのでした。 そして同時に、鷲田清一が植田正治の写真を使った理由も、よりはっきり判るような気がしました。なぜって、鷲田誠一の哲学とは、人を「モノ」として扱うことを徹底的に拒否し、人がただそこに存在しているだけで持っている重みを何よりも大事に考え、それを思考の軸に据えようとすることなのですから。きっと植田正治の写真は、鷲田清一の哲学の実践であり、もっと言えば彼の哲学を触発するものなのでしょう。つまるところ、鷲田清一の本を読んで写真のスタイリッシュさばかりに目を撮られていた僕は、そもそも写真をきちんと見ていなかったということになります。コラボレーションということの意味も全然理解せずに、文章の添え物としてしか写真を見ていなかったということです。僕は多分、『「聴く」ことの力』をもう2回は読んでいる筈なのですが、どうも、もう一度読み返さなくてはいけなくなりそうです。深い自戒を込めて。追記:恥ずかしながら、この文章を書いた後で、一昨年に鷲田清一『「待つ」ということ』という本が出ていて、その表紙も植田正治の写真であることを知りました。うわあ、これも読まなくてはいけません・・・・。 ←もしよろしければclickを!
2008年04月03日
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