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「ワイマール文化」と称されるものがあります。簡単に言えば、1919年から1933年にかけてのドイツのワイマール憲法時代に形づくられた文学・芸術・演劇・音楽等々の総称ということになるでしょうか。代表的な人物・運動としては、ブレヒト、トーマス・マン(とハインリヒ・マン)、クルト・ヴェイル、マックス・ヴェーバー、バウハウス、表現主義、ワールブルグ研究所等々。いや、僕自身、せいぜい脇圭平の『知識人と政治』を読んだくらいで、ピーター・ゲイの『ワイマール文化』や海野弘『1920年代の画家たち』は読みかけでほっぽりだしたままという状態なので、ワイマール文化について何かきちんとしたことを言えるわけではないのです。 ただ、昨晩、クラウス・コルドンの『ベルリン1919』を読み終えてふと思ったのは、ワイマール文化のスタート地点について、ワイマール文化そのもの以上に何も知らなかったのだなということでした。London Review of Booksというイギリスの書評紙の最新号に載った、歴史家ホブズボームのエッセイの中の表現を使えば、その「残虐な生誕期 murderous birth-period」について、です。もっとも自分の勉強不足を棚にあげるわけではないですが、ワイマール文化のその「生誕期」については、一般にあまり言及されていないようです。『ベルリン1919』という小説は、まさにその時期を扱ったものなのですが、原題は『赤い水兵あるいは忘れられた冬』。訳者の酒寄さんが書いているように、ドイツ人にとってすら1919年は「忘れられた」時期なのです。確かに、僕が読んだ数少ないワイマール文化についての文章も、第一次世界大戦との関わりについては多少言及があったような気がしますが、戦後、というか戦争が終る前後のドイツ国内の状況については、殆ど書いていなかったような気がします。そして上述のホブズボームによれば、ワイマール時代に対する歴史研究者の注目は、それがヒトラーの政権奪取といかなる関係にあったのか、ワイマールはヒトラーを防ぎえたのか、ということに集中しているらしい。つまり、もっぱらワイマール時代の始まりではなく終わりへの関心。 そういうことを考えただけでも、1919年という時代を、それもあのスパルタクス団を中心にして描こうという『ベルリン1919』が、並々ならぬ意図を持っていることはわかります。その意図を僕がどこまで汲み上げることができたかは心もとない限りですが、少なくともベルリンという町の持つ歴史的奥行きだけは感じとることができたのではないかと思います。『ベルリン1919』は題名通り、ベルリンが舞台で、ウンター・デン・リンデンやら、ブランデンブルグ門やら、ティアガルテンやら、観光客にも馴染みの名前が次々に出てきて、ありがたいことに地図までついてます。僕もその辺りを少なくとも一回は通過している筈なのですが、当時は東西に引き裂かれたベルリン時代に思いを馳せはしたにせよ、よもや1919年のことなどは一切考えませんでした。ただ、その時代が忘れさられ、当時の具体的な痕跡が一切無くなっていたとしても、『ベルリン1919』に描かれているような痛ましい記憶の数々は、傷跡のようにして残っているのではないかと思うのです。もしくはその傷跡をそこに投影することはできるだろうと。それは多分、現在のベルリンの地図に過去のベルリンの地図を重ねてみることと言ってよいかもしれません。そしてそれは、物語を未来に向けて開かれたものにしようとしているクラウス・コルドンの意図とも、それほどかけ離れていないのではないかなとも思うのでした。もちろんそれはベルリンを観たり歩いたりする側の問題であって、次にいつベルリンに行くともしれない僕も、もう少し立体的なベルリンの地図を作っておかなくてはいけません。当時の写真が豊富に載っている『ベルリン・嵐の日々 1914~1918』なんかも役に立ちそう(『ベルリン1919』に引きずられるようにして、とりあえず図書館から借りてきたのですが、これは買わないとなあ)。それからもしその時がくれば、ベルリンのどこかにある筈のローザ・ルクセンブルクのお墓にも立ち寄ってみようかなと思います。なお、この『ベルリン1919』は『ベルリン1933』『ベルリン1945』と続く歴史大河小説です。一応児童文学というのが驚くような分厚い内容(確かに噛んで含めるような文章は児童文学っぽいですが)。作者の政治的・社会的なスタンスが非常に明確なので、それに合わない人はもしかすると読むのがしんどいかもしれませんが、でもこの重厚で貴重でそしてわかりやすい歴史小説を読まないのは勿体ないですよー。シリーズ全体についても、また機会があったら何か書きたいと思います。追記:ついでにオススメのCDを。上述のクルト・ヴァイルがブレヒトの芝居のために作った音楽を、イタリア人のおじいさん2人(クラリネット奏者とアコーディオン奏者)が演奏しているものです。タイトルはRound About Weill。まるで薄暗いベルリンのキャバレーの夜の深く深くに潜り込んでしまったような音楽。素晴らしいの一言です。ついでにライナーノートを書いているのはウンベルト・エーコ!!(トップの画像はそのジャケットです。ジャケットもカッコいいです)。
2008年01月26日
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2年程前に、英文学者の冨山太佳夫さんが『笑う大英帝国』という本を出しました。これは、イギリス人がいかに冗談が好きかというのを、だいたい18世紀くらいまで遡って跡づけたものです。冨山さんの文章自体は「笑う」とまではいかなかったものの、そこで紹介されている幾つかの「ネタ」は確かに相当おかしい。 イギリス人(厳密にはイングランド人ですが)が独特のユーモア感覚を持っているというのは、現代でももちろんそのままです。いや、どの国にもどの地域にもどの集団にも独自のユーモア感覚というのはあるのですが、イギリス人の場合、何と言うか「笑い」に対する物凄いオブセッションすら感じてしまうのですね。冗談を言わない奴は馬鹿だ、とでも言わんばかりの。『前代未聞のイングランド』という、邦題にはあまりセンスが感じられませんが、中身は確かに面白い本の中で、著者のジェレミー・パクスマンは「ユーモアのセンスをもっていることを、これほど高く評価する国がほかにあるだろか?」と書いています。 例えばこのブログでも何度かとり上げているイギリスのミステリも、ちょっとした「笑い」は満載です。ラヴゼイのダイヤモンド警部シリーズも、会話でかなり笑いを取っているし、ウィングフィールドのフロスト警部シリーズに至っては、「ちょっとした」なんてものではなく、僕が今まで読んだ中で多分一番「笑えた」本ではないかと思うくらい。別にミステリに限らずとも、デイヴィッド・ロッジのような、かなり洒落たユーモア小説を書く人もいます(それから僕は読んだことが無いのですが、冨山さんの紹介を読む限り、スパイク・ミリガンという作家のおかしさは相当です)し、ロッジともおそらく知り合いの文芸評論家テリー・イーグルトンの真面目な研究書も、とにかく冗談で一杯です。そもそも、ジェーン・オースティンとかディケンズとか、日本では「文豪」とされているような人たちの小説だって、冗談ばっかなのです。時代が離れているということ、それから翻訳の問題で、どうしても「笑える」とまではなかなかいかないのですが、例えば中野康司さんの訳するオースティンは相当「笑え」ます(ちなみに同じく中野康司さんの訳している『大学のドンたち』『手のひらの肖像画』もとてもおかしい。彼の翻訳書を読んでいると「笑い」を翻訳できるって凄いことだとつくづく思います)。映画にしても、会話は相当練ってあります(話自体が単純なので見くびられがちな『ブラス!』なんかも、会話は相当笑えますよ)。さらにさらに一昨年のニュースになりますが、イギリスの高等法院で行われた『ダヴィンチ・コード』の盗作疑惑を巡る裁判の判決文の中に、暗号を忍ばせたなんてこともありました。何もそこまで・・・と思いますが、イギリス人はそのくらいしないとむしろ落ち着かないのです、きっと。 さて、イギリス人の好むユーモアというのは、多分大雑把に分けると2種類あって、1つはモンティ・パイソンのような、とにかくベタでスラップスティックな笑い。もう1つは、かなりひねった、しばしば自虐的で陰鬱とも言えるような冗談。先のパクスマンによれば「昔からよく言われるとおり、『イングランド人はもともと陰気に生まれついているから、景気づけにスコッチをダブルで飲む』ので、自分の国が不幸な宿命を背負っていると思うと、かえって安らぎを覚えるのだ」とのこと。イギリスは雨ばかり降っているという定番ジョークはその中に入るでしょう。そしてどちらにも共通しているのは、とにかく真面目くさった顔で下らないことを言うということでしょうか。冗談を言われた方も、それとわかっても笑わない。やはり無表情に気の利いた答えを返さなくてはいけません。モンティ・パイソンも、役者たちがニコリともしないのが、またおかしさをかもし出しているような気がします。BBCがエイプリル・フールに「嘘のニュース」を流すというのは有名ですが、それもまたおそろしく馬鹿げたことを皆で真面目な顔でやっているという・・・・歴史的な名作として語り継がれている「スパゲッティの収穫」なんか本当に傑作です(「スイスのとある村では、今年もスパゲッティが豊作で・・・」というナレーションが流れる中、木から何十本もぶらさがったスパゲッティを、女性たちが収穫し、乾燥させている映像が流れる。文末の画像はその一部) で、そんな伝統の中に、かの有名なジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男―犬は勘定に入れません』があります。これは、上述したような2種類のユーモアをどちらも上手く取り入れた佳作で、丸谷才一の翻訳もとても良く、多少古めかしい感はあるものの、今でも結構「笑える」小説です。アメリカのSF作家コニー・ウィリスが、この本を下敷きにして『犬は勘定に入れません』という、素敵なタイムトラベル物(そんなに「笑え」ませんが)を書いたのもご存知の通り。きっと今でもファンが多いんだろうなあと思っていたら、実はピーター・ラヴゼイもこの本を下敷きにしたミステリを書いていることを発見しました(ただし原書が出たのは1976年ですが)↓ この本が、もうそれこそ爆笑につぐ爆笑、であれば話にうまくオチが着いたのですが、残念ながらミステリとしてもユーモア小説としても中途半端な感じ。クスリとさせられるようなところはあるのですが、ダイヤモンド警部のような辛辣さもあまり見られず残念でした。ただ元祖の『ボートの三人男』にしても、ウィリスやラヴゼイのものにしても、とにかくのーんびりしていて気持ちのいい本であることは間違いないので、良かったら三冊まとめて読んでみて下さい。追記:さて、イギリスのユーモア小説といえば、それこそP・G・ウッドハウスを挙げるべきなのですが、実はまだ一冊も読んでいません。それなのにイギリス人のユーモアについて語ってしまうとはお恥ずかしい限り。様々な紹介から想像する限り、ジーヴス執事というのは、それこそ表情一つ変えずに陰気で辛辣な冗談を言う人の典型のようなのですが・・・・。はい、なるべく早く読みます。(リンク先を訂正しました。すみません、ブログの操作に慣れていないもので・・・)
2008年01月22日
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僕は日本のミステリを普段殆ど読まないのですが、『このミステリがすごい!』なんかを読んでいると、やっぱり日本のミステリも読んでみようかなあという気になってくるし、そもそも明らかにイギリスに偏り過ぎな自分のミステリ趣味をもう少しバランスを取ってみようかしらんとも思います。そんなわけで、今年に入ってからひとまず芦辺拓の『時の密室』と逢阪剛の『百舌の叫ぶ夜』の2冊を読んでみました。結果としては、芦辺拓にはがっかり、逢坂剛はまあまあ、だったのですが、それはさておいて。 2冊を読んでいて、今回とても感じたのは、地方性というか、場所性というか、物語が進行している「場」の把握がとても弱いということでした。そして、それは思い返してみると、これまで読んできた日本のミステリに大体当てはまるんじゃないかなあと。例えば芦辺拓の『時の迷宮』なんかは「大阪」という土地を前面に押し出したミステリであるにも関わらず、それがどこまでいっても道具立てに過ぎず、行ってみれば書き割りの背景のようなのです。大阪に関する蘊蓄はさんざん披露されるものの、そもそも主人公が大阪という固有の街を歩いているという感覚が非常に乏しい(同じ芦辺拓の『時の誘拐』はもう少しましだったような気がするんだけどなあ)。それは逢阪剛の『百舌の叫ぶ夜』にも言えます。舞台が現代の東京なんだから場所性が希薄なのも当たり前という意見もあるかもしれませんが、それが短絡的なのは、例えば堀江敏幸の『いつか王子駅』にでも読めばすぐにわかることです。そういえば、僕は内田康夫を読んだことがないのですが、ミステリに詳しい知人が、内田康夫に出て来る「場所」は観光客の「場所」でしかないと書いていたことも思い出します。 堀江さんについてはまた書くとして、要するにこの日本のミステリの「場」の希薄さは、過剰なまでのプロット・トリック重視の結果なのだと思います。つまりは、プロットやトリックが、それが起る場所から切り離されて突出し、その結果として、人が生活を営む場所としての感覚が限りなく後退してしまっていると。日本のミステリにおいて、主要登場人物以外がおざなりな描写しかされないのも、そのことのあらわれの1つだと言えるのではないでしょうか(ついでにアメリカのミステリもしばしばそういう傾向のものが見受けられるのですが)。ミステリだから仕方がないという訳ではない筈です。イギリスのミステリ(ウィングフィールドのフロスト警部シリーズでも、イアン・ランキンのリーバス警部シリーズでも、ピーター・ロビンスンのアラン・バンクス警部シリーズでも何でもいいです)なんかを読んでいると、その「場」の感覚はびっくりする程ですし、魅力的な周辺的人物もごまんと出てきくるのですから(特にフロスト警部シリーズは一つのコミュニティ全体を描いているといっても言い過ぎではないと思います)。プロットと「場」はきちんと書けばきちんと結びつくのです。そしてそれは日本のミステリ作家の多くが勘違いしているように、風景描写を徒に積み重ねればいいというものではないのです(日本のミステリを読まない理由の1つとして、この過剰で無意味な描写の連続が苦痛で仕方ないというのがあります。始めて小説を書く高校生じゃないんだからさ)。そうそう、また「場」を作者の思い入れだけでプロットとはあまり結びつかない形で過剰に押し出すと、今度は坂木司みたいに、何だか嘘くさいというか、鬱陶しくなるんじゃないかなあ。 そこまで考えて、ふと思ったのが桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』や『少女には向かない職業』が持っている濃密な「場」の感覚についてでした(実のところ一年程前に始めて彼女の作品を読み、未だに『私の男』はおろか、『赤朽葉~』も『少女七籠~』も読んでいないものとしては、桜庭一樹について云々するのは憚られるのですが、まあ直木賞受賞のご祝儀ということで)。『砂糖菓子~』の舞台は、冒頭に触れられているように、桜庭一樹の出身地である米子市のすぐお隣の鳥取県境港市。『少女には~』は下関(らしい)。どちらも街の様子についてそれほど書き込まれている訳ではありません。『砂糖菓子』などは、舞台がどこであろうと関係ないのではないかというくらいの構成になっています。けれども、そこに描かれている、主人公の少女たちが感じているヒリヒリするような生(ないしは死や暴力)の感覚、息苦しさというのは、確実に特定の「場」と結びついたものであり、その点において「場」は単なる書き割りや風景ではなく、人によって経験され生活される「場」となっているのです。 ミステリではありませんが、そういえば依然読んだ吉川トリコの『「処女同盟」第三号』にも同じような感想を持ちました。桜庭も吉川も、どちらも広い意味での(つまり「大衆小説」と呼ばれるものを含めた)「文壇」の外部から出て来た人達で、しかしその人達の方が、既成の枠組みで物を書いている人達よりもずっと「場」やその「経験」について鋭敏な感覚を持っているというのは、面白いというか、意味深長だなあと思ってしまいます。実際、ラノベ出身者の作品の中には、橋本紡の『ひかりをすくう』みたいに、桜庭とは違う意味で、やはり「場」に敏感な人達がいますね。彼ら・彼女たちにしても、その場が主人公たち以外の人間によって経験されるという感覚は未だ薄いのですが、それでも何か期待できるとすれば、この人達じゃないのかなあ、と日本ミステリをろくに読んでいないと宣言している僕は図々しくも思うのでした(もちろん引き続き日本ミステリをきちんと読んでから判断し直そうとは思っております)。 追記:なお、「場」に対する感覚が弱いというのは、日本ミステリに限らず、1980年代以降の現代日本文学の主要な特徴の一つだと思っていて、上述の「期待できる」というのは、そこまで含めてなのですが、それについてはまたいつか。
2008年01月19日
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ここ数年のアメリカについて考える際の自分なりのキーワードと言えば、さしあたり狭い意味での「暴力」で、それはクックの一連の小説や、一昨年大評判になった『あなたに不利な証拠として』(これが何であんなに大評判になったのかは結局わからなかった。悪い小説ではないんだけど)、昨日読み終わったばかりのグレッグ・ルッカ『わが手に雨を』などを読みながらいつも思い浮かべていたことでした。もちろん犯罪小説が暴力と結びつくのは当然なのですが、何というか上述したような小説は、話の中心にある犯罪のみならず、話の隅々にまで暴力が浸透していて、登場人物の多くがその遍在する暴力に蝕まれているようなのです。そして『フリーキー・グリーンアイ』のような全く毛色の違う児童文学などにも、その暴力の気配は常に漂っている。 だから「暴力」をキーワードとすること自体は決して間違っているとは思っていません。ただ、現在のアメリカが全体として抱えている矛盾をつかまえるための言葉として、もしかすると「暴力」というのは少し表面的なのかもしれないと、『ニッケル・アンド・ダイムド』によって日本でも有名になったバーバラ・エーレンライクの新作、『捨てられるホワイトカラー』を読みながら考えていました。 「暴力」というつかまえかたが表面的だというのは、そこで終ってしまうと、「暴力」を生みだすものが何であるのかという視点がさしあたり必要無くなってしまうからです。言い方を返れば、暴力というのはもっと大きな矛盾の1つの現われに過ぎないのではないかと。そういえばマイケル・ムーアは『ボウリング・フォー・コロンバイン』で銃社会の原因を「恐怖」に求めていましたし、去年やはりそこそこ話題になったジョック・ヤングの『排除型社会』(イギリス人の書いたものですが、アメリカの例が非常に多く出てくる)では、犯罪の原因を「剥奪感」に求めていました。 エーレンライクの本について少し書いておくと、一応『ニッケル・アンド・ダイムド』のホワイトカラー版ということになってしまうのでしょうが、そのまんまの期待で読むと肩すかしを食わされることになります。『ニッケル・アンド・ダイムド』はまさに労働現場そのものについての本でしたが、『捨てられる~』は労働現場というよりは、アメリカの労働文化、ないしは企業文化についての本であり、さらに言えば、そうした文化を生みだしているアメリカのメンタリティーについての本なのです。だから見るべきは、本の中に出て来る数々の失業者・求職者たちが抱える「恐怖」と「剥奪感」でしょう。それは、マイケル・ムーアが指摘したようなメディアによって煽られる「恐怖」よりももっと広く、もっと人の内側にまで染み込んでくるような「恐怖」であり、ジョック・ヤングが説明するよりも、もっと切実で具体的な「剥奪感」です。 そうした「恐怖」や「剥奪感」などをまとめる言葉として、もし「不安」という大雑把な言葉をあえて使うのであれば、その「不安」が銃社会を生みだし、増加する犯罪を生みだすとも言えるでしょう。銃規制への反論として言われる「家族を守る権利」とやらも、その「不安」に対するマッチョな応答と言えなくもありません。ジョック・ヤングの議論はその「不安」が犯罪や暴力に結びつくメカニズムを説明したものとして読むこともできます。ただ、エーレンライクの本に出てくる「不安」に満ち満ちた失業者たちは、別に積極的な銃の推進派でもなければ、犯罪予備軍でもありません。むしろその「不安」は外に出ることなく、彼らの内側に溜まり、そして内側から彼らを蝕んで行く。そしてエーレンライクはそれがどこから来るものなのかを、はっきりとではありませんが、決して企業文化に収斂させることなく描き出しているように思うのです。 正直に言うと、アメリカのミステリを殆ど読んでいない僕は、これからもアメリカの犯罪小説を読み続け、そこに暴力の気配を感じ取り続けるでしょう。もちろん犯罪小説に限る必要もないし、『性と暴力のアメリカ』なんて本も読みたい本のランキング上位に位置しています。でも、上述したようなことを考え、そして「不安」という言葉で大雑把に捉えたものを、もっと構造的に、そして歴史的に捉えた上で、犯罪や暴力を見て行かないと、単純化になってしまうだろうなあとも思うのです。犯罪や暴力が「不安」の象徴の1つであることは確かですが、「不安」を犯罪や暴力に還元してはいけない。 アメリカでは大統領選挙の予備選挙が始まりましたが、あの国をあげてのお祭り騒ぎも、「不安」と向き合うというよりは、「不安」から目をそらすための大イベントのように思えてなりません。そしてさらに言えば、例えばアメリカのショー文化なども・・・いや、あまり言い過ぎるとまた別の単純化になってしまいそうなので、ひとまずここら辺にしておきます。
2008年01月15日
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「フォルマリストは、プーシュキンとその世代の功利的・社会的伝統を単に攻撃するだけで、彼らの作品については、特権的対象としてみずから文学的分析や再評価を彼ら独自の方法で行なった。このようにして、フォルマリストはロシア文学におけるこの偉大な形成期を、否認するというよりはむしろ、自分たちの目的のために再利用する傾向がある。この時期というのは、文学的激動期であっただけではなく、政治的にも変動期であって、大作家たちの多くは失敗に終った十二月革命、『ペテルスブルグ元老院前の広場におけるロシア史のかの有名な休止』に共感を寄せていた」[フレドリック・ジェイムソン『言語という牢獄』46頁]。 別にこの程度のことでジェイムソンなんてものものしいものを引用する必要もないのですが、たまたま読んでいる最中に眼にとまってしまいました。以前に感想を書いた『真説ラスプーチン』を読んで以来、20世紀初頭のロシアという場所が何とも気になって仕方がなくなっています。思えば、19世紀ロシア文学の豊かな遺産を受け継いだり、変形させたり、ぶっ壊したりするロシア・アヴァンギャルドやロシア・フォルマリストがうごめき、エイゼンシュテインとスタニスラフスキーが活躍する時代というのは確かに魅力的に決まっていて、そこにロシア革命という無茶苦茶なエネルギーが加わればもう言うことなしなのです。 昨年出版された佐藤亜紀の『ミノタウロス』を読んでみようと思ったのも、実のところ、それが20世紀初頭のロシアを舞台にしていると知ったからでした。時代はおそらく1900年から1920年くらい(小説中には正確な年号は一切出てきません)。舞台は、小説の時代ではロシア帝国とソヴィエト連邦に属する現在のウクライナ。都市の描写は殆どなく、出て来るのは農村ばかりで、アヴァンギャルドともフォルマリストともさしあたりは無縁な土地。政治的な動きは、もちろん農村とは密接な関係を持っているわけですが、『ミノタウロス』はそれとも慎重な距離を取ります。描かれるのは「壮大なる歴史とは断固として無関係」と言い切る一人の若い悪党の、諦念と粗暴さと愚かしさと知性がごちゃ混ぜになった短い一生。 もちろん「断固として無関係」というのは主人公の主観であって、物語後半からはロシア革命後の内戦に思いっきり巻き込まれるのですから、「歴史」とは無関係ではないのですが、赤軍にも白軍にもつかずに、ただただ乱暴狼藉と殺戮を繰り返す主人公たちは、少なくとも英雄的な「壮大なる歴史」とは無関係なのでしょう。実際、『ミノタウロス』を何よりも魅力的なものにしているのは、ひたすらに反英雄的な無意味さです。成り上がり地主のお坊ちゃんとして生まれた主人公は、物語が進めば進むほど、「どこで誰が死んでも誰も知らないし気にもしないのらくろの国」で、どんどんどんどん、匿名の存在になっていきます(実際、主人公が名前で呼ばれることは、小説中1回しかない筈です)。「たぶんもう、誰が誰であるのかなどどうでもいいことなのだろう。ほんの暫くは残っていた記憶も、感情も、すぐに消え去ってしまうだろう」というのは小説の終わり近くでの主人公の独白。 ただし、『ミノタウロス』が魅力的であると同時に小説として優れているのは、そうした無意味さで世界を塗りつぶしてしまわないことです。上に政治と慎重に距離を取ると書きました。それは作者の姿勢でもあり主人公の姿勢でもあるのですが、何かと距離を取るというのは、その何かの存在を認めて、その存在と自分との関係を自覚するということです。だから主人公は、例えば自分が行き交うに農民たちが、一見無意味と見える生活を頑なに守る確かな存在であることを認め、それとの比較で、自分たちの徹底的な無意味さを自覚するのです。上にロシアのエネルギーと書きましたが、実のところそのエネルギーというのは、様々な場所の様々な集団がそれぞれに持っているエネルギーの重ね合わせの筈。そして『ミノタウロス』は、場所はそれほど動かずとも、その中の複数のエネルギーを描くことで、重層的なものになり、そのおかげで(少なくとも僕の中では)『真説ラスプーチン』ともつながることになったのでした。 加えて、暴力に満ち満ちたこの小説が露悪的になっていないのも、おそらくこの「距離」に対する自覚のためでしょう。無意味な暴力への没頭を描けばそれだけで「何か」を書いたと勘違いする小説家は多いですが、『ミノタウロス』では、主人公も作者も、中心的な暴力を常に他との「距離」において相対化するために、そうした悪趣味さを免れています。ついでに、文章のスピード感と描写の簡潔さも、この小説が悪趣味な暴力への開き直りに陥るのを救っているような気がします。佐藤亜紀の小説はデビュー作の『バルタザールの遍歴』しか読んだことはなく、『バルタザール』については、その仰々しい文体と物語の空疎さ(もちろん意図的なものなのですが)をどうしても楽しめず、ファンタジー大賞受賞時の審査員のコメントにも全くうなずけなかったのですが、少なくとも『ミノタウロス』はそうはなっていない。仰々しさというか、想像力を過剰なまでにふくらませるような比喩は残っていますが、あくまで警句のような短い文章をリズム感よくつなぎ合わせることに徹することで、しつこさが一切無くなっています。暴力に淫することもない。『バルタザール』と『ミノタウロス』の間の小説も読んでみなくてはいけませんね。 20世紀初頭ロシアについては、岩波現代文庫のサヴィンコフなぞも現在パラパラ読んでいるところなのですが、そうなると、彼がロープシンという筆名で書いた『蒼ざめた馬』も読みたくなってきます。依然古本屋で買って読まないうちに人に貸して返ってこないまま(そしておそらく二度と戻ってこない)だなあ。エレンブルグの『わが回想』やパステルナークの『ドクトル・ジバコ』も読み返したい。うーん、ロシア熱はまだまだ続きそうです。そうそう、『ミノタウロス』を読んでいる最中に、ふと思いついて、リチャード・ブローティガンが大好きだったという、バーベリの『騎兵隊』(これは長田弘さんが『20世紀書店』で勧めていたのを見て以前買っておいた)を読み始めてみたのですが、案の定雰囲気がとてもよく似てる。これについてはまた回を改めて何か書いてみたいと思います。 追記:ちなみに『このミステリがすごい!』の2007年度版では、何度かこの『ミノタウロス』がとり上げられているのですが、これをミステリと呼ぶのはどうかなあ。何と言うか、ミステリ評論家たちのコンプレックスに基づく自意識過剰だと思うのですが、それは言い過ぎかしらん。 ミノタウロス
2008年01月08日
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「フランスを旅行される人は、本当にどこへ行ってもという言い方が通るほどに、Saint Martin 聖マルタンの名を冠した教会にぶつかる筈である。そうして言うまでもなく、その他数百にものぼる筈の聖人、聖女の名における教会があり、それらのうちの少しは格式が高いとされるものには、必ずや何かの遺品、遺骸がある。 それらは四世紀、五世紀頃から始まっていたもので、たとえばこの巡礼の通る道筋の一つであるスペイン北部の大都市の一つオビエドには、次のようなものがある、あるいは、あることになっている。 キリストの首を包んだ手ぬぐい(聖骸布)、イバラの冠の八つの部分、最後の晩餐のパン切れ、聖処女の乳汁、髪の毛、ユダがキリストを売ったときの30デニエの古銭の一部、キリストの足を拭いたマリア・マグダレナの髪、モーゼが紅海の水を分けたときの棒の木切れ、聖ペテロのわらじの片っぽ、等々。…… たいへんなコレクションである。 異教徒としての私は要するにそういうがらくたの詰まった宝物室なるものを見せられ、茫然として、人間の為す、あるいは仕出かす業の振幅、あるいは芸の細かさに感服をしているだけなのである。しかも誰もそれを笑いとばすわけには行かないであろう。そこに籠められている執念の深さを思えば」 堀田善衛『スペイン断章』(集英社文庫版)の下巻の(ないしは岩波新書の『情熱の行方』の)最初の方に書かれた文章です。僕が以前、「うさんくさいもの」について書いたことは、多分、ここに引用したことに集約されてしまっているでしょう。殆ど滑稽なまでに見えてしまう闇雲な情熱。12月から1月にかけて、ジェームズ・ロリンズ『マギの聖骨』とフリア・ナバロ『聖骸布血盟』という、まさに「聖遺骸」を扱ったキリスト教歴史ミステリを読んでいたのですが、当初期待していたのは、まさに、こうした歴史に裏づけられたヨーロッパの途方もない情熱の姿を垣間見ることでした。 けれども残念ながら大きく大きく期待はずれ。『マギの聖骨』はしょっぱなから、アメリカ特殊部隊の戦闘シーンから始まってぎょっとしたのですが、その後もひたすら派手なアクションシーンが続きます。以前、高橋源一郎がマイケル・クライトンの小説を評して「映画化を前提とした小説」と書いていましたが、まさにそんな感じ。ああ、きっとこんなシーンになるんだろうなあ、と映像が浮ぶような文章です。映画化はまだ決まっていないようですが、竹書房がこの小説のために作ったサイトは殆ど映画のサイトのよう。何だか何だか。正直言って、そこでかなり萎えそうになりつつ我慢して読み進むのですが、正統ローマン・カソリックの権威を疑う姿勢は露ほどもなく、出て来る登場人物は超人めいた人ばかり。つまるところ権威づくしで、少しも「うさんくさく」ないのです。何と言うか、本来「うさんくさい」筈のものに、色々な要素をくっつけて箔をつけているというか。 上巻まで読み終えた後、下巻が回ってこないため(図書館から借りてました)、それまでの間の埋め草に、買い置いていた『聖骸布血盟』をスタート。スペイン人作家の書いたものなら、派手好きなアメリカ人とはひと味違うものを書いてくれるのではないかと思ったのですが、これまた話にならないお粗末さ。文章はスカスカ。歴史記述と現代の冒険の記述が並行して進んで行くというスタイルもひどく単調でご都合主義的。そして次から次へと出て来る「セレブ」な人たちにも鼻白んでしまう。ここでも「うさんくささ」は影も形もない。というかひどく世俗的な権威で飾り立てられている。カバーに書いてある「衝撃の結末」というのも、どこを捜しても見つからず。何というか、もさーっとした小説でした。何でも映画化が予定されているそうですが、どうなんでしょうねえ。 『聖骸布血盟』が読み終わった頃に、ようやく下巻がやってきた『マギの聖骨』は、殆ど義務で再会。最初の方は、まだ物語が動いて行くので何とか読めたのですが、話が進めば進むほど人物描写がどんどん薄くなっていって、展開も単調になってくる。アクションシーンが上手いのはまあ分かりますが、それ以外の謎の部分は重さが全然無い。うーん、この人アクションシーン以外の語彙が極端に貧弱なのですね。そしてクライマックスはもう目を覆いたくなる程の安っぽさ。作者は獣医ということなのですが、文系の物事の探究の仕方というものが果してわかっているんだろうか。というか、歴史とか哲学とかに対する物凄いコンプレックスを感じてしまい、それが安っぽい記述につながっていると思えて仕方ないのですが、それはうがちすぎかなあ。でもそう考えると、次から次へと繰り出される科学的な知識の数々も、やっぱり権威付けにしか見えず。そうした知識が全て「事実に基づいている」のが自慢らしいですが、正直言って、事実に基づいていようといまいと、面白ければ何でもいいんですけどね・・・。どちらも、こういう類いの小説が殆ど全てそうであるように、イタリアを中心にしてヨーロッパをあちこち移動します。ついでに『マギの聖骨』の原題はMap of Bones。実際に地図が謎解きに大きな役割を果たします。でもその移動というか地図的想像力は少しも魅力的ではないのです。簡単にあちこち飛び回っちゃうからか、それとも行く所がみな観光名所ばかりだからなのか。読み終えた後はつくづく疲弊しました。いや、読むのが悪いのは分かっています。なので、これが終ったら読もうと思っていた、リチャード・ベン・サピア『キリストの遺骸』は自粛して、大人しく堀江敏幸でも読んでいようと思うのでした。次回は悪口じゃない書評を書きたいものです。追記:なお冒頭に引用した堀田善衛は、「あの」カタリ派を扱った小説を書いています。これはとてもとてもオススメ。 追追記(1月8日):その後、ジェフリー・ディーヴァーの『コフィン・ダンサー』を読んだのですが、このリンカーン・ライムのシリーズも、超人的にプロフェッショナルな人がざくざく出て来て、知ってても知らなくても人生には大した違いがないような「科学的」トリビアが満載という点では、『マギの聖骨』と一緒ですね(もちろんディーヴァーは『マギの聖骨』と違って少なくとも楽しめますが)。アメリカでベストセラーになる小説って、そういうもんなのかなあ、と思ってみたり。
2008年01月03日
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