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「分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい、と田辺さんはいつも考えていた。息子や娘とも、もちろん妻ともそんなふうにつながっていられれば、どんなに健全か。単純な構造こそ、修理を確実に、言葉を確実にしてくれるのだ」(堀江敏幸『雪沼とその周辺』) 以前「地図にない場所」というエントリを書いたとき、地図にない場所=どこにもない場所=ユートピアだなあと思いつつ、そのことについては書きませんでした。けれども、ファンタジー作品に限らず、多くの小説作品は、ユートピア小説と銘打っていなくともユートピア的な要素を持っているとは思います。例えば北村薫、加納朋子、坂木司等の書くソフトミステリは、作者及びその作品の愛読者たちにとって、「こうであってほしい人間関係」や「こうあってほしい場の雰囲気」のようなものを書いていると思うのです。ライトノベルであれ何であれ、戦闘/戦争ものが好まれるのは、話が作りやすいということもあるでしょうが、そこに必然的に伴う規律のある秩序だった人間関係の場に対する憧れという要素もある筈。そういえば藤本和子さんも、リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』をユートピア小説と書いていたような。 冒頭に掲げた言葉が示しているように、堀江敏幸の『雪沼とその周辺』もまた、おそらくは、そうしたユートピア的な願望を内に秘めています。「雪沼」がおそらくは架空の、「どこにもない場所」であるというだけではありません。その題名通り、雪沼の周辺に住む人々をめぐる7つの連作短編からなるこの小説が全体として描き出すのは、ゆるやかで押しつけがましくはなく、けれどもどこかに確かなものを持っている人間関係なのです。1つ1つの短編がそういう話なのですが、また短編同士が、かすかな、気をつけなければ見落としてしまいそうなほどの、うっすらとした関係でつながっているという構成も、またそうした人と人との関係のあり方のアナロジーであるようにも思えてきます。つまりは、「単純だが融通のきく構造」を持った小説。描かれる1つ1つの人間関係は、決して矛盾や葛藤を排したものではなく、むしろ無骨でごつごつしたようなものですが、少なくともそこには、そうしたものをそうしたものとして引き受けつつ、同時に「言葉を確実にしてくれる」ものを持とうとする意志が見えるのです。 こんなことを考えながら『雪沼とその周辺』を読んでいる最中に、ふと思い出したのはムーミン谷のことでした。僕はムーミン谷のシリーズもまた優れたユートピア小説だと思っているのですが、そこでいう「ユートピア」とは、やはり矛盾や葛藤のない世界ではありません。しかし、雪沼と同様、ムーミン谷にも、「単純だが融通のきく構造」が確かにある。この連想はおそらく決して突飛なものではないと思います。実際、『おぱらばん』に収められた「のぼりとのスナフキン」で、堀江さんはムーミン谷の住人についてこんなことを書いているのです。「スナフキンが独立不覊の存在であることは疑うべくもないけれど、旅をつづけて少し顎のあがりかけた彼にもっとも適した濃度の酸素を吹き込んでやる仲間たちの振る舞いの方にこそ、じつはムーミン谷の秘密が隠されているのだ。感情のじかの接触におぼれず、それをゆっくり育てたり修復したりする時間の使い方に、あの連中はいかにも長けている」 この文章を見つけて、ああ、きっと「雪沼」というのは、堀江さんにとってのムーミン谷なんだな、と僕は一人で得心していたのでした。
2008年03月28日
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色々と文句をつけつつ、日本のミステリは依然として折に触れて読んでいます。いきなり新しいものから読むのは何だか抵抗があるのでどうしても少し古いものになってしまうのですが、最近読んだものとしては真保裕一『ホワイトアウト』と高村薫『照柿』があります。 かたやミステリというよりは冒険小説、かたや地味な警察小説と、全く似ていない2作ですが、無理を覚悟で言うと、どちらもそれなりに「場所」にこだわった作品という共通項がないでもありません。そしてそう考えると、日本のミステリには場所性が希薄であると以前書いた手前、それぞれのミステリの内容はともかく、その点については何か書いておかなくてはと思ったのでした。 まず『ホワイトアウト』からいきますと、多くの人がご存知の通り、冬山でのダムをめぐるテロリストと職員の攻防戦というお話で映画化もされました(当時その映画の評価をめぐって『キネマ旬報』で立川志らくと高島某との間で論争が繰り広げられていて、ひどく面白かったのですが、それはともかく)。とにかく雪やら氷やらの描写が凄まじく、それが冒険小説を構成する重要な要素となっています。つまり、少なくとも物語が展開する「場」の存在感は少しも希薄ではない。ただ問題は、その雪やら氷やらのいわゆる「自然」が、その「土地」から完全に切り離されてしまっていることです。外界から完全に遮断されたダムが舞台という設定なので、仕方のないところもあるのですが、甲信越のどこかにあるらしいそのダムは、正直言って、雪さえ降っていればどこにあってもいいダム。登場人物にしても、テロリストとダム職員と警官以外には、人質になったダム職員の家族がお情け程度に登場するだけで、例えば麓の住民など影も形も見えない。 真保裕一は現代日本を舞台にした本格的冒険小説が書きたかったそうで、その試みは実のところテロリスト像にあまりにリアリティがないという点で相当つまづいているのですが(日本の左翼の過激派にこんな優秀な人たちは多分いません)、もう1つの問題としては、極端な話、これが日本を舞台にする必要すら殆ど感じられないということもあります。少なくとも、日本でなければ成立しなかった冒険小説とは言い難く、そしてその理由の一部は、周りから切り離されてしまったが故に、その舞台が「場所性」というか「風土性」を失ってしまったことにあるのではないかと思うのです。 一方『照柿』はどうかといいますと、話は主に青梅線沿線で進み、時折大阪の西成が顔を出します。どちらもそれなりに丁寧な描かれており、主要登場人物の一人が働く工場の描写があるのもなかなか悪くない。ただそこに住んでいる、ないしは働いている人たちの具体的な様子が見えてこないという点は、これまで僕が読んできた日本のミステリと基本的には大差ありません。描写が丁寧と書きましたが、実のところ描写の殆どは、2人の主要登場人物が、周りの風景やら人やらに投影する一方的な自己意識についてなのです。そこに住んでいる人の気配、ざわめきのようなものは殆どない。何というか、外側から見ている人の視線なのですね。それが悪いとは言いませんが、それだとその場所に棲息している、ないしは育まれた色々なものは決して見えてこないのです。 それからこれはどちらの作品にも共通することなのですが、とにかく作者が色々とよく調べていることは間違いないと思います。ダムの内部についての説明も、工場の労働過程の説明も、実に詳しい。ただそうしたものを詳しく書いたからといって、その場の雰囲気が立ち上がってくるかというと、そう言う訳ではないと思うのですね。むしろそれは外側からの視線を強化してしまうような気がしてなりません。それからこれは小説であれ何であれ言えることですが、調べたことをもっと物語の中に上手に織り込んで欲しいなあと思います。読んでいる方が、それと知らぬ間に、その場所やその職場の空気に触れることができるような。もちろんきちんとした取材もしていないような作品に比べれば遥かにましなのですが。 こうして文句ばかり書いているのも何なので最後に1つ。上述したようなことも含め、高村薫の描写はとにかく、ありとあらゆる意味で執拗なのですが、その執拗さは、簡単に片付けるわけにはいかないような「何か」を持っているような気もしています。彼女の描写は明らかに過剰ですが、その過剰さは、おそらく彼女がミステリの枠に収まりきらない「何か」を書こうとしているからではないかと、『マークスの山』と『照柿』と二冊しか高村作品を読んでいないにもかかわらず、そんなことも思うのです(実際、『照柿』は殆どミステリとは言い難いですし)。そしてだからこそ彼女は『晴子情歌』『新リア王』などを書いたのではないかとも。その「何か」は少なくとも『マークスの山』や『照柿』では実現していないようですが、それが実現したとき、彼女がどんな「風景」や「場所」を立ち上がらせてくれるのか、それはそれでちょっと楽しみだったりもするのでした。
2008年03月23日
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「読書法は各人においてめいめい性格的なものである。それ故に各人にとって自分に適した読書法を発明することが最も大切である。読書の技術においてひとはめいめい発明的でなければならぬ」 (三木清『読書と人生』新潮文庫) 高校生から大学生にかけての頃、僕の一番好きな作家は高橋源一郎でした。『さようなら、ギャングたち』とか『虹の彼方に』とか、作品が含意しているものなどは殆どわからないままに、ただただ文章の静けさと独特のリリカルな雰囲気が心地よくてたまらず、何度も読み返した記憶があります。確か当時は『ゴーストバスターズ』が発表される前の長い長い空白期間だったので、とにかく高橋源一郎名義のものは、競馬関連以外は全て読みました。もちろん『文学がこんなにわかっていいかしら』に代表される書評・文学論集も。 そもそも僕が最初に読んだ高橋源一郎の著書は新潮文庫版の『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』で、その本は当時の僕にとって本とマンガへの道標のようなものだった気がします。ピンチョン、バース、バーセルミなど、そこで紹介されているポストモダン作家たちの作品は今に至るまで一冊も読んでいませんが、現代文学の世界ではそういうことが起きているんだなあと、ぼんやりとイメージすることができたし、ガルシア=マルケスやブローティガンの名前もこの本で最初に知ったのではなかったかと思います。清原なつの、吉野朔実、松苗あけみ、岩館真理子などが書いた素晴らしい少女マンガに出会うことができたのも、やっぱりその本のおかげ。 自分の読書量に比べて本に関する知識だけが肥大化するという弊害はあったものの、その後も高橋源一郎の書評集は僕にとって読書の道標というか、「ナビゲーター」であり続けました。実際には彼の勧めている本の十分の一も読んでいないとは思うのですが、それでも、少なくとも自分の頭の中の「読みたい本リスト」は、高橋源一郎の書くものを参考にしながら作っていたのは確かです(ついでに、高橋源一郎が書評を書くときの文体にも随分影響されたなあ)。 それが変ったのはいつだったか。まず待ちに待った『ゴーストバスターズ』を発売後すぐさま読んで、ああ僕はもう高橋源一郎の小説は読まないだろうなあと思ったことがまずあって、その後も週刊朝日の書評欄の立ち読みと、小説以外の単行本の購入は続けていたものの、『もっとも危険な読書』を最後にそれも止めてしまいました。その後は、高橋源一郎に代わる「ナビゲーター」を捜さなくてはと、色々読んでみましたが、坪内祐三にせよ、堀江敏幸にせよ、池澤夏樹にせよ、それぞれ決して悪くはないし、自分の読書計画の参考にもさせてもらったのですが、それまでの高橋源一郎ほどに入れ込める「ナビゲーター」とはなりませんでした。 で、たまたま去年『ニッポンの小説 百年の孤独』を読んで、数年間ぶりに高橋源一郎と「再会」し、つい先日も『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』をふと買ってしまい、現在読み途中なのですが、ひどく懐かしさを感じつつ、自分にとってやっぱり高橋源一郎はもう「ナビゲーター」とは成り得ないのだなあと再確認しているところです。そこで紹介されている本で、「あ、読んでみたい」と思う本が無い訳ではない。だから読書案内としては十分な筈なのですが、でも何かが違うのです。ではその「何か」とは何なのか。そんなことを考えている最中に、ちょうど必要があって徐京植の『子どもの涙』を読み返すことになり、それを読んでいたら、ふと答えが見つかったような気がしました。 徐京植の本は、前にも少しだけ触れたことがありますが、少年時代から大学時代までの彼の読書遍歴を振り返った本で、言わば本を通じた自己の形成史のようなものです。従って、彼のその時々の生活の風景と密接に関連した形で本が紹介される。そもそも彼が他に書いている美術関係の本にしても、徐京植は、やり過ぎではないかと思われるくらいに自分の経験に作品を引きつけるのですが、殆ど自伝のような『子どもの涙』の場合、その傾向はますます強まります(ただ、この本については、どんなに引きつけてもやり過ぎと思えることは無いですが)。その結果どうなるかというと、徐京植がそれぞれの本にどんな印象を持とうとも、読者である自分が持つであろうそれとは決定的に違うのだろうなあと思ってしまうのです。 通常、というか多くの書評は、取り上げられる本を、著者と読者がある程度まで同じような受け止め方をするであろうということを前提としていると言ってよいでしょう。少なくとも、対象となる本から誰でも読みとれるであろう要素を紹介することが多い。けれども徐京植の場合、自身の生の固有な文脈に徹底的に引きつけて本を読むために、彼が読みとるものはどこまで行っても彼だけのものであって、他の誰一人として、同じ本から彼と同じものを受け取ることは無い筈なのです。 そもそも、どんなに「一般性」を目指した書評であっても、どこかにその著者の固有性というものは見え隠れしているわけであって、おそらく無意識にであれ、それによって読者はその書評が信頼できるかどうかを判断している。そしてつまるところ僕が書評に求めていたのは単なる本の紹介ではなくて、その著者が本を読む姿勢、ないしは技術のようなものだったのだなあと考え、高橋源一郎のその姿勢ないし態度に共感できなくなったからこそ、高橋源一郎の書評本を読むのを止めたのだと思い当たったのでした。そういえば、僕が現在最も好きな書評家は詩人の荒川洋治なのですが、彼の本を読むのは、そこに紹介してある作品を読んでみたいとからではなく(もちろんそれもありますが)、彼の本に向かう態度を知りたいからなのだと、これを書いていて気付きました。 もちろん荒川洋治の態度にしても、それが自分の態度と必ずしも一致するわけではない。最終的に本に向かう態度、そして本を捜す姿勢というのは、自分自身で作り出すもので、それは徐京植がそうであるように、他の誰とも似ていないもの態度であるべきなのかもしれません。ちょっとカッコつけたことを書いてしまうと、その態度ができあがるまでは、「ナビゲーター」は必要なのかもしれませんが、いつか自分自身が自分の「ナビゲーター」になる時がくる、ということです。僕の場合は高橋源一郎を読まなくなったときがきっとそうだったのでしょう。とても余談になりますが、ブルーハーツの歌で「ナビゲーター」という名曲があって、その中に「ナビゲーターは魂だ」という歌詞があるのですが、それは要するにそういうことなのだと、これを書いていて気付いた次第です。なんか魂とかいうと、ちょっと自己啓発っぽい方面に流れてしまいそうで危険ですが、でもやっぱりそういうことですよね。このブログにしても、「オススメです」とか書きながら、本の紹介ブログとしては相当不十分だと思うのですが、きっとそれはそれで良いのだと、自分を正当化してみたりもしているのでした。
2008年03月17日
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日本の小説について常々抱いている不満の1つとして、人が「働く」という経験、及びその場所が十分に描かれていない、ということがあります。アルバイトも含め、大多数の人々は何らかの仕事をして、それでお金を貰って生きている筈なのですが、その人々の人生の大部分を占めている「仕事」ないしは「労働」というものが、日本の小説では不均等に少ない場所しか与えられていない、と。 もちろん「サラリーマン」が主人公の小説なんかは沢山あります(咄嗟に思いついた例で言うと黒井千次の『群棲』とか、古井由吉の『櫛の火』とか)。でもそこですら、仕事の場面、職場の場面は殆ど描かれずに、話の中心になるのは仕事外の人間関係なのです。最近手にとった柴崎友香の『フルタイムライフ』にしても、仕事の場面については大変おざなりで、作者が書きたいのはどうも個人的な人間関係であるような気がしてしまい、途中で読むのを止めてしまいました(まあ、小説としても余り面白そうではなかったし)。 むしろこの点で言うと、マンガの方がまだマシかもしれず、現在ひどく評判のいい安野モヨコの『働きマン』や、『働きマン』の元ネタではないかと勘ぐってしまうほど良く似ている逢坂みえ子の『ベル・エポック』などは、恋愛の問題を扱いながらも、仕事の過程を相当丁寧に書いていたりもします(そもそも逢坂みえこは、『9時から5時半まで』にせよ『火消し屋小町』にせよ、仕事をよく書きます)。『おたんこナース』と『Heaven? 』の佐々木倫子に至っては恋愛のことすら書かず、ひたすら仕事の話ばかり。 ただ『働きマン』や『ベル・エポック』は編集者、『火消し屋小町』は消防士、『おたんこナース』は看護師、そして挙げるまでもない医者、料理人、スポーツ選手を主人公にした数々のマンガ・・・と、マンガで対象となる職業は華やかなイメージがあるものや、一般に良く知られている専門職がどうしても多い。それはきっとポジティブな意味づけがしやすいからでしょう。けれどもそれは無数にある仕事の中のほんの一部にすぎず、世の中には、あまり人の目にも触れず、やりがいはあっても決して華やかではない仕事に携わっている数多くの「名もない」人々がいるわけです。そして以前取り上げた『リチャード・ブローティガン』を書いた藤本さんの文章を借りれば「物語を書くことの目的の一つは、『名もない』と一括される人びとの名を固有名詞にして呼びもどし、かれらの声を回復することにある」筈なのです。桐野夏生の『OUT』が、お弁当を作る工場のパートの女性たちを主人公にしたというのは、確かに驚くべきことでした。個人的に『OUT』には不満が多々ありますが、少なくともそうした「名もない」人々の仕事の場を書くことで、小説世界は実際に豊かで広がりのあるものになりました。それはもちろんミステリに限った話ではなく、前回取り上げた堀江敏幸の『いつか王子駅で』にしても、それが素晴らしい理由の1つは、例えば町工場の職人に目をむけ、その世界を立ち上がらせているような、そうした視線の広さにあるだろうと思うのです。それはまさに「他者」と出会うための回路としての小説、ということにもつながる事。 そういうわけで、一時期そういった小説・マンガを意識的に探していた時期もあります(念のために言っておくと、これはプロレタリア小説云々とは、ひとまず関係ないです。というか、僕は恥ずかしながらブロレタリア小説なるものを一冊も読んだことがないのでよくわからんのです)。有名なところからいくと、例えば宮崎誉子の小説。独特の文体で「フリーター」の仕事について書く彼女の小説は、多くの人が知っているつもりで実は殆ど何も知らない世界を、その世界を描くのに必要な言葉で描くということを見事に成し遂げた作品と言ってよいでしょう。数ある中でも『日々の泡』は特にオススメ。女性のフリーターを扱ったものとしては、さとうさくら『スイッチ』なんてのもありました。もっと男臭い世界を描いたものとしては、秋山鉄『ボルトブルース』という自動車工場のライン労働を扱った小説があります。話がほぼ職場での出来事に終始し、恋愛の話もほぼゼロに近いのに、小説としてきちんとして成り立っていて、しかも読後感もとても良い。同じような読後感を持った小説としては、映画化もされたらしい辻内智貴『青空のルーレット』というのがあって、これは窓拭き労働を扱ったもの。ちなみに窓拭き労働を扱ったものとしては、清田聡『染盛はまだか』というマンガもあったりします。これもなかなか。それからちょっと毛色の違うものとして、夏石鈴子『いらっしゃいませ』は大企業の受付嬢が主人公。目の付けどころも素晴らしいし、一人の女性の仕事・生活に対する期待と不安を実に丁寧に書いてあって、僕は『働きマン』なんかよりずっとこの作品の方が好きです。 こうして探してみると意外とあるものなんだなあ、と思いもしましたが、それでもやっぱり量としては全然不十分。それに、上に挙げたような作品群は、今度は仕事のことばかりを描いていて、それ以外の経験、ないしはその仕事の外側にある世界とのつながりが見えにくいという難点も抱えています。贅沢な要求かもしれませんが読者は贅沢で良いのです。きっと僕は、働くこと、生活することの細々としたことの描写から、ある特定の地域、ないしは共同体の全体が浮かび上がり、しかもその地域・共同体をすら越えるようなテーマを扱おうとするような小説に出会えることを夢見ているのでしょう。そう、ちょうど中上健次の一連の小説のような。
2008年03月11日
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もう去年のことになってしまいましたが、このブログで堀江敏幸『おぱらばん』を取り上げたことがあります。その後堀江敏幸にすっかり参ってしまった僕は、この間、『いつか王子駅で』と『熊の敷石』を読む一方、読みかけのままになっていた『郊外へ』も無事読了しました。ちょっとした堀江敏幸ブームです。 で、そのときのブログにも少し書いたことですが、『おぱらばん』を読んだときの印象は、それまで僕が堀江敏幸の作品から得ていた、「上手いけれど、どこか硬い」というのとは随分違ったものでした。『おぱらばん』を読んでいたときは、きっと自分が変ったのだろうと思い、ブログにもそう書き、もっと早くこの魅力的な作家を読んでおけばよかったと嘆息していたものです。ところが、よくよく調べてみたら、どうも変ったのは僕だけではないようなのでした。 出版されたばかりの『子午線を求めて』や『本の音』を買ったとき、僕はそれが最新の文章集だと思っていたのですが、実のところ『子午線を求めて』は大半が1996年以前に書かれたもので、『本の音』も幾つか古いものが混じっている。そして『郊外へ』は1994年から1995年に書かれたものです。それに対して『おぱらばん』は1996年以降に書かれたものが中心で、さらに『いつか王子駅で』や『熊の敷石』は1999年から2001年にかけてのものばかり(「堀江敏幸教授のレミントン・ポータブル」というサイトも参照させてもらいました)。つまり僕は今まで比較的早い時期に書かれたものばかりを読んでいて、今頃になってようやく、「その後」の堀江敏幸に出会ったというわけです。 そして今になって『郊外へ』などをきちんと読んでみると、やっぱり間違いなく文章が硬い。「町を包み込んでいる空気、若者たちの表情、建物の外観には、おのずと滲みでてくる現在と過去があって、これはどうにも隠しようがない。歴史の爪あとを処理できずに、今日にいたるまで過去と媒介なしに結ばれている土地も少なくないのだ」「私は不覚にも、一瞬のあいだ視界が曇るほどの感動に襲われてしまった。著名な写真家が作品にとどめているとの説明書きや碑文があるわけでもないこんな家が、よくも生き延びられたものだという感慨にふけったのではない。ひとが家を建て、そこに住み、食事をし、眠る、この単純な反復のただならなさを、かいま見たように思ったからだ」 どちらも『郊外へ』からの引用です。ここに書いているスタンスというか、町や家に向ける視線自体は、まさに堀江敏幸ならではのもので、それ自体は『いつか王子駅に』『熊の敷石』などにも引き継がれてはいます。けれども、そうした作品では、「おのずと滲みでてくる現在と過去」とか「反復のただならなさ」とかいった硬い言葉を直接に使うことなく、そうした事象が描かれているように思うのです。その結果、フィクション性が増しているとか、舞台が日本のこともあるとか、そういう変化以上に、明らかに文章がまるく柔らかになっている。そう、つまるところ、1990年代後半のどこかで、堀江敏幸の文章はその質をはっきりと変化させていたのでした。 その変化は一体何なのだろうと考えました。単に文章が上手くなっただけ、というのもあるでしょう。でも僕は、この変化の最大の理由は、おそらく堀江敏幸が他人の経験というものを取り込むようになったからではないかと思うのです。実際『郊外へ』で主に語られるのは「わたし」個人の想念ばかりで、その想念に引っかかったかぎりで他人が出て来るだけで、しかも想念の中心を占めるのは作家や写真家ばかり。それに対して、『おぱらばん』以降の堀江作品では、他人の経験の占める範囲が圧倒的に増えているような気がします。もっと言えば、他人の経験を自分の想念の中に引きずり込むのではなく、自分の想念を一旦棚あげにして、他人の経験に寄り添ってみる、いやもしかすると他人の経験に振り回されてみる。そういう類いの柔らかさが伺える。そして「場所」に対する堀江敏幸のまなざしも、その「場所」が自分だけではなく他人にも経験されているものとして捉えることで、さらに奥行きと広がりを増すのです。その結果、「おのずと滲みでてくる現在と過去」とか「反復のただならなさ」が、他人の経験や言動を通じて具体的に、はっきりとした内実を伴って、しかし「私」の想念に回収しきれない形で浮かび上がってくるのではないかと。 『おぱらばん』には既にそうした要素が幾つも伺えますが、おそらくその最たるものは『いつか王子駅で』でしょう。主人公が生きる場所に暮らす多くの人々の生活が重なりあっているというだけではなく、例えば下手すると印鑑職人の「正吉さん」よりも印象に残ってしまう中学生の「咲ちゃん」との融通無碍な交流は、まさに振り回されているという名にふさわしい。だって中学生の女の子相手に、抽象的な思考を繰り広げたところで、仕方ないですから。実際、短距離走者である「咲ちゃん」はしばしば、「私」の想念を軽やかに「抜き去って」いってくれるのです。その爽快さ、心地よさ。もちろん、そうした軽やかさではなく、自分の経験と他人の経験のズレを執拗に見つめ、その果てしもなさに驚きつづける『熊の敷石』も、『いつか王子駅で』とスタイルは異なるものの、やはり他人の経験に出来る限り想像力を向け、そこで戸惑うことを形にしていると言ってよいでしょう。 そして実のところ、こうしたことを堀江敏幸自身も意識していたのではないかと思います。上述したようなことを考えながら『郊外へ』を読み、いよいよ終わりにさしかかろうとしたところでこんな文章に出会いました。「異国の郊外で私がどれだけ幸福な散策を繰り返したにせよ、畢竟それは、他者の視線をたくみに回避しつつ、こちらの視線だけを地名や書物にぶつけて、その『言表』のクッションボールを架空の物語に仕立てあげていたにすぎないのではないだろうか」 そう、そして回避していた「他者の視線」を、おそらくは意識的に取り込むことで、彼の「架空の物語」はもっと豊かなものとなったのでした。もちろん堀江敏幸がこの文章を書いてからもう10年以上が経過し、『いつか王子駅で』や『熊の敷石』からも6~7年がたっています。きっと「その後」の堀江敏幸はまた変わっていくのでしょう。僕の目の前には、つい最近某新古書店にて100円で手にいれた単行本版の『雪沼とその周辺』が積んであります。2008年の堀江敏幸までまだまだ先は長い。楽しみです。 ←もしよろしければclickを!
2008年03月05日
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「文学は、ぼくたちがよく知っている世界とは異なった風景を見せてくれる。だが、同時にあまりに異なった風景を人は本能的におそれる」(高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』) Amazonのレビューや、ブログのレビューなどを読んでいて、最近気になるのが、「主人公に共感できない」という評、ないしは感想を、しばしば否定的な評価の理由として見かけることです。主人公(もしくは登場人物の誰か)に感情移入して読むというのは、確かに1つの小説の読み方だし、それを要求している小説もあるでしょう。でも、何も世の中そういう小説だけではないだろうと思うし、そういう小説に「共感できない」と言うのは、少し的外れではないかと。 かつて高橋源一郎が、小説を読むというのは、「別の人生」を生き直すことだと、どこかで書いていました。主人公が自分が思いもよらないような思考を展開したり、自分にはとても縁のないような経験をするのを読んで、それを読者自身が「生きてみる」こと。「共感」とか「感情移入」が、主人公を自分に引き付けることだとすれば、別の人を「生きる」というのは、むしろ自分を主人公に引きつけてみることではないかと思います。それは言い換えれば、自分以外の「他者」に出会うことと言ってもよいかもしれません。少なくともそういう小説の読み方というのもある筈。 ただ一方で、全く馴染みのないもの、全く理解できないもので埋めつくされた小説というのは果して可能なのだろうかとも考えます。以前『ネシャン・サーガ』について触れたとき、その世界が読者にひどく馴染みのあるものから出来ていると書きましたが、最初から最後まで本当に全く想像もつかないようなものしか出てこない小説というのは、おそらく存在しているのでしょうが、読むのも書くのもひどく困難なものになるような気がしてなりません。 その後、『ラナーク:四巻からなる伝記』を読んでいるときに1つ気がついたことがありました(ちなみにラナークは読みかけのまま中断しています)。『ラナーク』の第一部は、私たちが馴染んでいる世界とは相当かけ離れた、加えて通常のファンタジーやSFでも余り出てこないような、とても異質な世界が描かれます。つまり、ファンタジーとしての「純度」が高い世界。そこの世界に住んでいる人々の行動も、今ひとつ理解不能です。ただそれでも、主人公の行動だけは、共感できるかどうかはともかく理解はできるようになっています。主人公はその異質な世界に馴染んでいないという設定のために、その世界を「おかしな」世界と感じることができ、読者もまた主人公を通じて、その世界が「おかしい」ことを再確認できるのです。おそらくそうすることで、読者は異質な世界と関係を持つことができるのでしょう。 ファンタジーやSFに限らず、例えば外国を描いた日本の小説が、しばしば主人公を日本人に設定するのも同じ理由なのだと思います。須賀敦子、堀江敏幸、堀田善衛等、自分の海外での経験を基にして、エッセイともフィクションともつかないものを書く人たちはもちろんですが、完全なフィクションでもそういうものがしばしば見受けられます。思いつくままに挙げれば、加賀乙彦の『フランドルの夜』もそうだし、辻邦夫の『夏の砦』もそうだし、今たまたま読んでいる、多和田葉子の「ペルソナ」(『犬婿入り』所収)もそうです。小説ではないですけど、浦沢直樹の『MONSTER』もそうですね。あれなんか、どうして主人公が日本人でなければならないのかさっぱりわからないのですが、多分そうしないと、読者が物語に付き合ってくれないということなのか。 そこまで考えて思い出したのが、カフカの『城』。あれは、小説の舞台となる町と城が、何かある論理に従って機能しているようなのに、その論理が判らず、従って町や城に住む人々の行動も理解できないというだけではありませんでした。主人公たる測量技師Kは、読者と同様、一応その町の仕組みや人々の行動が「理解できない」ことを表明してくれるのですが、そもそもそのKの行動自体も、行き当たりばったりで何がしたいのだか、読者には(少なくとも僕には)さっぱり「理解できない」のです。『審判』とか『変身』は、もう少し主人公の行動や感情が理解できた気がするのですが、ともかく『城』は、そこに出てくる登場人物の誰一人として理解も共感も出来ないという恐ろしい小説なのでありました。いやあ、読みにくかったわけです。一応最後まで読みましたけどね。 それでもまだ『城』に出てくるのは人間であって、理解はできないにせよ、一応人間らしい行動はしてくれる。これが人間以外の生物だったらどうなるんでしょう。人間とは全く違う論理で動き、全く違う事を考え(そもそも考えるのか?)、全く違うことを行う生き物しか出てこない小説って可能なんでしょうか。『ウォーターシップダウンのうさぎたち』とか『冒険者たち』とか、基本的に動物しか出てこない名作もありますが(どちらも大好きです)、そこでは動物を擬人化して描いているわけで、何もうさぎ的思考、ねずみ的思考を追求しているわけではない。せいぜい私たちが普段馴染んでいるものについて違った視点を提供してくれるくらいです(それはもちろん夏目漱石の『我が輩は猫である』、及びそれへのオマージュである井上ひさし『ドン松五郎の生活』も同様)。そうではなくて、全く異質な思考を人間の言葉に翻訳したような・・・。そんなことを夢想していたら、昨日ブックオフでたまたまベルナール・ウエルベル『蟻』という小説を発見してしまいました。何でも「主人公はアリ」とのことですが、まあ、パラパラ見た限りでは、人間も出て来るようだし、多分そんなにラジカルな小説ではなかろうと思いつつ、つい購入(上下で200円だったし)。いや、もしかすると、出来ればそんなにラジカルな小説でない方がありがたいのかも・・・。
2008年03月02日
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