歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年06月09日
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存知せざるなり
「念仏は、もことに浄土にうまるるたねにやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」

ここで言い切っています。念仏は、本当に浄土に生まれるためのたねでありましょうか。また、地獄へ堕ちる原因となる業なのでありましょうか。「総じて」というのは全然という意味です。全然知らない、とこういいきっています。知らんというのです。
こういう言葉があるというのは歎異抄の非常に重要なところであり、親鸞の語りかたの大事な特徴です。歎異抄の第九章にも出てきますが、こんな場面があります。
「念仏しても喜びの心がおきないんです。これはどういうわけでしょうか」と弟子が聞きます。親鸞はまずどういったかと言うと、「そうか、私も一緒や」とまずこう答えています。こういう辺りが本当に自分は凡夫なんだと、一段として偉いところにいて、何だおまえまだそんなことでごちゃごちゃしてるのかと、そういう高みに立って言うことはしない。一緒だと、私も一緒だ、と言うのです。こういう言葉があるのは非常に大事だと思います。そういう気持ちを持っている人は本当に安心してこれを読めます。念仏したけど本当に楽しい気持ちになれないと、みな思っているはずなんです。親鸞は、それが凡夫なんdなといっているんですから。そうでなきゃ、これは善人なのであって、それは救われないんだというのが親鸞の気持ちですから、私も一緒だと言っているのです。
ですからここでも、念仏は本当に浄土に生まれるのか、また地獄に堕ちるのだろうかと。今は地獄に堕ちるとまで思ってる人はいあにでしょうが、当時そういう論があったらしく、同時代に日蓮という人がいて、念仏をすれば地獄に堕ちるということを説いて回ったそうです。この人は別の宗教を確立したのですが、その前にすでに念仏がかなり普及してましたので、日蓮としてはそれと闘わないといけない状況があって、念仏をすれば地獄に堕ちるとそういうことをさかんにいいました。
その影響かどうか知りませんが、ともかく念仏をして本当に浄土へ生まれるのか、ひょっとしたら地獄に堕ちるんと違うか、と。そんなことは知らんと、はっきり親鸞は言い切っています。
じゃあ、なぜ私は念仏をするのかということを次に言っています。
これは法然がそう言ったからだと。自分の先生である法然が、念仏して阿弥陀仏に助けられ申し上げよ、とこう法然が教えてくれた。法然先生が教えてくれた、だから信ずるだけだ、とこう言っているわけです。それ以外は知らないと。だから、本当に浄土に生まれるのか、地獄に堕ちるのか知らんと、こういっています。





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最終更新日  2006年06月09日 10時03分16秒


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