歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年09月14日
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*注意:下記の感想文は私個人の感想文なので浄土真宗教団とは関係ありません。



私は春に歎異抄の第二章の意訳などを課題としてこのサイトで掲載したこともあり、新たに今回この感想の際に読んだ『歎異抄講和』著:寺田正勝 を元に改めてこの第二章を考えるきっかけとなった。

感想を書く際に私が一番考えたことは、歎異抄は一生掛けて読んでいく書物であり、1回~数回読んだからと言って全てが分かる、深い意味を読み出すことは出来ないと言われている。
だからこそ、多くの書物を読んだ上で自分なりの意見を述べることに意味があると思う。
8月の初旬に行われた修練の中でも何回もいわれたことだが、『聞思』の大切さ、これが重要だと改めて思う。
歎異抄の文面的意味以上に、歴史的、当時の時代背景、人間関係などを踏まえ読み解いていくことが重要であり、それを考慮すると私が第二章での親鸞の行為は「厳しい姿勢と信の強さを表す」と過去に書いたことは正解であり、間違いでもあると考える。

実際、寺田氏のこの著書の内容で納得する部分もあればそうでないところもある。きっとどちらが正しいのではないのだろうと思っている。

こういうとらえ方があるとして読んでいくことが重要なのだと感じる。


それは、現代社会の我々にも同様なことが言えるが、現実世界を生きつつ信をいかに持つかこれは大きな課題である。信仰だけで生活が成り立たないことは現代社会のでは当然なのかもしれないが、このギャップのある中で改めて信仰を考え直すきっかけを与えてくれた著書であった。

さて、最後に第二章の核心とも言える「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」について考えると、寺田氏が書かれているように、聖人の生の宗教体験が、事実のままに、表明されているという表現は共感するものがある。一番重要に感じるのは、上記でも記載したように「信」であり、我々現代人は何処までこの親鸞の言葉を理解するだけでなく実行に近づけていくかも課題なのではないかと考える。
信あってこその言葉であり、重みがかなりある行為なだけに言葉では表現しきれない思いがここにあると感じる。
だからこそ、実体験を元に発せられた言葉として受け止めている。





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最終更新日  2006年09月14日 22時06分39秒
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