歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年09月15日
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易行道の出来た意義

そもそも、易行道は、世間の要望として出てきたものであると考える。
お釈迦様は、何をいいたかったというと、やはり中道、縁起であり、人はもちつもたれつで生きているということである。

Q.易行道でなんやと思う?
まず原点、お釈迦様が禅定にはいられたのは、人間の苦の脱却が目的であった。
その過程でお釈迦様は苦行をなされた。そして、さとりを得られた。正覚を得た。
それを後にお釈迦様が初転法輪として将来の弟子たちに語られた。
弟子は、お釈迦様の行ったことを実践して、実践をお釈迦様は要求した。
それが、戒であり、律であった。それを実行するということは、難行である。

仏教が広く一般の人に受け入れられるには、仏教がいわんとしている「中道」「縁起」の思想である。
それをさとらしめるのに、まず自己の存在を突き詰めて考えると。
人間存在の真実を考えるというのが根本にあると。
そういう思想の元に釈迦の教えを展開していくと、結局他力思想、本願思想へと帰結してくる。

Q.中道とは?
中道思想とは、一言で言うと偏らない考え方をさす。

Q.縁起とは?
因縁生起と言って、物事が成立するには、原因があって結果があるわけだが、結果は様々な条件によって異なってくる。このことを因縁生起という。

Q.何故に他力?
仏教の根本的思想を知らしめるためにこのような自利利他思想が生まれてきた。
自己存在を追及していくと、生かされているという自覚に至らざるを得ないからである。


他力という考えと、他力を支えている本願思想を信じるということによって、易行道へと導かれた。

Q.本願とは?
本願とは阿弥陀仏の存在を補強するものだと思う。何故なら、全ての迷える人々を救うという阿弥陀仏がいるという話ならば、阿弥陀仏が阿弥陀仏にどのようになったのかという疑問がわいてくる。
それを補強するのが本願思想である。

Q.それが48願でしょ?


Q.達成しているんやろ?
そうでなければ、存在していないことになってしまう。

Q.我々は48願がかない、救われていることを実感しないがそこはどうなの?
幸せすぎるから。

Q.幸せやない人もおるし、みんな救われていることを実感していないのでは?
救われていないという人は、逆に救われた状態がどんな状態かを把握できるのか?今、救われていないという状態を不幸とかいう基準は何かというのが問題になる。
我々は今の状態こそがもう救われていることに気づかなければならない。
だからこれを自覚というのだ。
つまり、自己が目覚めていないのだ。
もうとっくに全ての人は救われているのに。つまり、目覚めていないから安心がないのだ。

Q.他力と他人任せの違いは?
ぜんぜん違う。本来、他人任せというのは、自分がしなければならないことを他人にしてもらうことを他人任せであり、仏教で言う他力は私たちを生まれさせ、生かせ、この世をこの世たらしめている働きを他力という。

Q.現代社会と信心についてはどう思う?
現代社会は、経済社会である。経済社会ということは、金儲け社会である。金を消費し、資源を消費する世界である。そういう価値観が蔓延した社会を現代社会という。
その中で、浄土真宗という本願他力思想は、どのように受け止められるか。それを考えた場合、南無阿弥陀仏を唱えて、金が儲かるかという話になる。
それは違うだろうと。
本願他力の世界と、経済社会というのは別世界である。それに対して、人間の心の世界は昔も今も変わっていない。
いくらお金がたくさんあっても真に心の安心、安定、そういうものは得られない。そのとき、本願他力の思想が受け入れられる余地は十分あるだろう。

Q.信心の獲得の仕方は?
自己を深く見つめていくと、底知れぬ不安がある。その不安を解消してくれるのは、信心しかない。

Q.でも信じられないよ
それは深く自己を見つめていないからである。
深く見つめていれば、心のよりどころが必要となり、それは物ではない。だから信仰なのだ。
心の問題は、心で解決しなければならないからだ。

Q.誰がたてたという話はどのように考えるか。
常にはたらきかけがあって、48願をたてたことになるわけで、法蔵菩薩がたてたことになるが、仏の力によってたてたという他力が考えられる。
どちらが前で後かというのは問題ではない。
つまり、理屈でどうこうという話ではない。

Q.誰が易行道を始めたの?
七高僧の流れは、易行道への流れである。そのことで広く、一般に仏教が広まることができたし、受け入れられることとなった。

Q.難行と苦行の違いは?
同じというより、苦行は難行である。滝行などがあたるがそれをすることが難行であり、なくなったわけではないし、その中でさとりをひらこうとする行為である。

Q.易行と難行の違い

お釈迦様が言った戒と律を実行することが難行にあたり、後に仏の姿を観想するということが目的となっていくのだが、そのために結局長く座禅をくんだり、山中を長く歩いたり、そして、断食をしたり、何万回も念仏を唱えたりするようになった。
そういうことは、一般的の人には出来ないことであり、一定の条件を満たした人でないと出来ないことである。
だけど、一般の人は同じ人間である以上、同じ苦しみを持っている。
それを救う、救済するという思想として、易行道が生まれてきた。
それは、結果として、信仰、信じるということを柱とする考え方で、必ずしも行動を伴わない。
要するに、修行を必要としない。
極論すればよ。

だけど、人間は、自己に問えばわかるが、100%物事を信じる、この場合は、思想を信じるということは難しい。
だから人間はまた行を必要としている。

結局易行道に入っても、身口意で実践していく。
そういうふうになってくると、易行道といっても、ただ念仏していればいいと言っても、それだけではないものになってゆく。
だから、簡単には易行道とは言えなくなってくると思う。

広く大衆に広まり、仏教が信仰されていることからも、裾野が広まったことからも易行道の広まった意味は十分にあった。
何より仏のさとりを得たいと思う人は多くいたと思う。
それは仏様があーしろ、こうしろと言わなくても、見ていれば分かったことであり、お釈迦様が生きている間守っていた戒や律あってこそであり、僧伽に入るのに守らなければならないものであった。
だから、お釈迦が難行であった。





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最終更新日  2006年09月15日 13時05分41秒


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