
写真は演繹すべき物ではない。写真は過去の一点で立ち止まっている。写真は未来を志向しないし過去を振り返らない。写真は写されたものの存在証明であり、存在の現れの記録である。同時に写真は表現を志向することによって芸術へと向かう。しかしそこにおいても芸術となるのはそこに写されたものであって「写真」そのものが芸術として現れることはない。写真はメディアではないし存在を入れる(あるいは保存する)容器ではない。
そんなことを思った。
ロラン・バルトの「明るい部屋/写真についての覚え書き」を読了した。
感想としてはいささか肩すかしだったというのが本音。
写真を撮ることを個人的に日々を生きた証としている自分にとってはバルトの論考に消化不良を感じざるを得ない。
サルトルやジル・ドゥルーズならもう少し異なったインスピレーションを与えてくれたかも知れない。
「ストゥディウム」、「プンクトゥム」という用語はなかなか刺激的であるが、分類としては優れている一方で演繹は困難である。
写真(そのもの)は思考対象としてはきわめて困難な存在である。
「写真を読む」ことあるいは分析することは極めて困難をともなうし、いわんや「積分」したり演繹することはおそらく不可能なのだ。
写真は「微分的映像」であり映画は「写真の積分的映像」であるという考え方は正しくはないのではないか。
動画機能を備えたカメラが一般的となったいま改めてそんなことを感じる。
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初詣/諏訪大社上社本宮
170105-DSC_1769-2d
NIKON D610, 35mm of AF-S NIKKOR 28-300mm f-3.5-5.6G ED VR
from 蓼科高原ペンション・サンセット
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岡田@隊長さん